「戦国京都の大路小路」 河内将芳 著

戦国時代の京都は上京と下京の2つに分かれていたとの話は知っていたが、この本は具体的に地図に落とし込んでおり、よく理解できた。
また洛中洛外図などの絵を駆使して、それら市街地を廻らせていた土塀や堀の様子もよくわかる。堀を掘った土で、土塀を作り、要所に門があるが、その門のいくつかには櫓がある。土塀で囲まれた全体が惣構となる。
堀の中には、幅約6.5㍍、深さ約2㍍の跡も発掘されている。
中世ヨーロッパや中国の都市と同様である。もちろんヨーロッパは石造りという違いがある。

町の中にも、120㍍程度ごとに木戸門(釘貫)を造っており、夜になると閉められてた。門には潜戸はつけられていた。

上京と下京の町の間や、土塀から外れた地域は麦畑などが広がっていて、連歌師宗長は『宗長手記』の中で大永6年(1526)の項に「内裏は五月の麦のなか、あさましとも申すにもあまりあるべし」と記している。

下京は、南北街路は東から東洞院、烏丸、室町、町、西洞院、油小路の範囲である。堀川通りに堀川が流れていて、ここが西側の境界となっていた。
東西街路は北から押小路、三条坊門、姉小路、三条、六角、四条坊門、錦小路、四条、綾小路、五条坊門、高辻が惣構の中にある。
鴨川の橋は四条通りと五条通りにあるだけで三条通りにはなかった。四条通りが大事な通りであった。

上京は、下京より少し西に広がり、南北街路は東から東洞院、烏丸、室町、町、西洞院、油小路、堀川、猪熊、大宮である。東西街路は北から上立売(西大路)、北小路、武者小路、一条、正親町が惣構のなかにある。
上京では堀川の西側も惣構に取り込まれていて、川ヨリ西組という町であった。堀川の東寄りに小川も流れていて、応仁の乱では川より西が西軍となっていた。
上京では上立売(西大路)が大事な横の通りである。

下京と上京をつなぐ南北街路は室町通りとなる。この通りに面して足利義昭の屋敷があり、妙覚寺もあった。

町は道路をはさんだ両側の約60軒ほどが向い合って共同体を形成していた。

道路は日に2度清掃して水を撒く。道路の地面は中央が高く左右が傾斜しており、すぐに乾くとフロイスは記している。(ヨーロッパは反対に中央に溝)

公衆便所が家の前の道路にあって、すべての人に開放されていた。烏丸通りにあるのが絵に残されている。臭気にヨーロッパ人は辟易したが、人糞は肥料として売られていた。

そういう戦国時代の京都を秀吉が改造した。まず聚楽第を東西は上京の外、すなわち大宮通りの外側で上屋町通りまで、南北は一条通から出水通までの規模で造られる。

そして三条橋を架橋する。この橋から小田原北条攻めに出陣するデモンストレーションが行われる。

それから京都全体を囲む御土居の建設がはじまる。御土居の門は10カ所だけ。町々の木戸門(釘貫)は撤去される。

そして縦の道として「つきぬけ」を増設する。平安時代から続いた碁盤の目の真ん中を突き抜けるような道である。

こうして、当初は8千から1万の人口が戸数3万を越えるように発展した。



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