「石油に頼らない 森から始める日本再生」養老孟司+日本に健全な森をつくり直す委員会

 この本は、民主党政権になった時に森林行政についての政策を、標記の委員会として提言したものをベースに、その委員か関係者が、主張、意見を個別に書いている本ではないかと想像する。
 森を通しての環境問題と、日本の林業再生の2つの視点が含まれている。後者の視点は、ある程度、林業を知らないとわからない内容であり、私には読み難い。

 各章は「林業が、新政権のテーマになるまで」(天野礼子)、「石油がなくなるまでにやるべきこと」(養老孟司)、「森-日本の文化を支えるこころの器として」(立松和平)、「僕が日本からもらったもの、日本で僕ができること」(C.W.ニコル)、「現場から見た山の現状と再生への道筋」(湯浅勲)、「ヨーロッパ林業に学ぶ「林業国家」への基盤づくり」(梶山恵司)、「全国の林業事業体を歩いてー持続可能な社会の構築に向けての提案」(藤森隆郎)、「日本に健全な森をつくり直す委員会提言」(藤森隆郎、竹内典之)、「森林・林業基本法を一からつくり直すために理解すべきこと」(川村誠)、「立松さんが言い遺したこと」(天野礼子)となっている。

 「林業が、新政権のテーマになるまで」(天野礼子)では、川を再生するためには森の再生が必要と考えてきた著者が森の再生に取り組んでいる人と出会い、取材する中で「日本に健全な森をつくり直す委員会」を結成し、提案書を作りはじめる。そこに民主党政権ができて、政権の政策に取り上げるられるに至った経緯を書いている。

 「石油がなくなるまでにやるべきこと」(養老孟司)は、石油が20世紀の歴史を左右してきたことを歴史から説明する。この通りである。地球温暖化キャンペーンは石油を使うなと言うが、石油の生産を減らせとは言っていない。だからまやかしと養老先生らしく述べる。石油がピークアウトしたら木に頼らざるをえない。そこで森が大事になるという論である。

 「森-日本の文化を支えるこころの器として」(立松和平)は、全国の霊峰を登る中で各地の森に出会う。天然林だけでなく人工林でも、木曽の檜、伊勢の神宮宮域林の例を述べ、木が日本文化を支えてきたことを書く。法隆寺で使われている木は芯去り材(しんさりざい)で歪みや皹が出ないようにしている。こういう材が取れる巨木が無くなりつつあり、「古事の森」として林野庁の国有林ではじめている。また足尾の山の再生にも取り組んでいる。今、日本はどこでも同じ文化になり、木材も安くする為に外材を使う。そうすると林業に携わる人が減り、森が荒れるという循環になっていると述べる。

 「僕が日本からもらったもの、日本で僕ができること」(C.W.ニコル)は南ウェールズの出身で先祖はブナ林をつくたという著者が、日本に来た目的は空手だったのだが、その仲間と山に登った時にブナの原生林に出会って美しいと感じる。長野住んで猟をした時に多くの獲物がいる自然に驚く。しかし、その後、開発で森が伐られ、すると水害も起きることを経験する。ウエールズに帰った時に、緑が蘇っていた。そこで自分も好きな日本で森を再生しようとした。松木さんというパートナーと「アファンの森財団」を作り、森の再生に取り組んでいる。

 「現場から見た山の現状と再生への道筋」(湯浅勲)は日吉町森林組合で活躍している著者が、林業再生という視点で書いている。専門的な内容である。現状として日本の森林は2512万ヘクタールで国土の67%を占め、その内、人工林は41%である。その樹齢構成で見ると、最も多い41~45年生林の20分の一が1~5年生林と少ない。大きい木を育てる為には21~25年生から60年生までは間伐が大事。そうでないと森は荒れる。しかし間伐は30万㌶ほどしかなされていない。少なくとも100万㌶が必要。今は荒れて竹が増えている。
 木材価格は国際標準価格に下がる。人件費は上がるから林業は成り立たない。ヨーロッパは林業用機械が進化している。日本は作業道もうまく出来ていない。また不在村者が山林を所有していて、しかも小規模。そこで日吉町森林組合では管理されていない森を専門家が見て、現場にあった林のありかたと、将来のプランを所有者に提案する提案型集約化施業を提案している。やってはいけないのは①50年過ぎたからと言って皆伐をすること、②むやみな林道や作業道開設、③事業計画なしの人員採用である。またやるべきことは森林の区分ごとの境界を明確にすること、山のことがわかる人材の育成である。

 「ヨーロッパ林業に学ぶ「林業国家」への基盤づくり」(梶山恵司)では、日本の林業が衰退したのは外材が輸入されたのではなく、当時1億㎥の木材需要があり、それを埋める為の外材輸入だった。外材が入ってこなければ日本の森は大変なことになっていた。材価は下がったのではなく、当時の異常な価格が是正されただけ。こういうことを踏まえて歴史のあるヨーロッパの林業に学んでいこうとして、各種提言を書いている。内容的には前述した湯浅氏の提言と同様である。

 「全国の林業事業体を歩いてー持続可能な社会の構築に向けての提案」(藤森隆郎)では、健全な森林生態系を維持することは、生物多様性の維持、水源涵養、気象緩和につながると述べる。生産林(人工林)と環境林(天然林中心で天然生林…人為の攪乱で天然更新し、遷移の途上にある林、天然林…人手が入らず、台風などの自然攪乱で天然更新して極相に至る森)に区別して、それらの適切な配置が大事。立地条件で人工林に向かないところが天然林にすることも林野行政で大事と述べ、林業組合にも問題提起をしている。

 「日本に健全な森をつくり直す委員会提言」(藤森隆郎、竹内典之)では①石油に頼らず木を使う国に、②日本の石油使用を50年にわたり1%ずつ減らす。③現行の森林率を維持しようとの提言である。

 「森林・林業基本法を一からつくり直すために理解すべきこと」(川村誠)では、国産材供給の拡大を掲げて、林業基本法が制定してからの経緯を説明する。それによって、天然林から人工林への転換が公的資金も投入されて進められる。拡大したが、国産材の増産は果たされず、逆に生産の縮小に向かって輸入材が拡大。
 次いで森林・林業基本法ができ、森林の多面的機能(環境)の発揮が掲げられる。放置されている人工林の活用が大事。山村の過疎対策も必要と論じている。

「「マツ」の話 -防災からみた一つの日本史-」(池谷浩著)

 著者は建設省で砂防に携わってきた専門家である。「なるほど」と思える話もあり、興味深かった。
 章立ては「1.日本のマツ」「2.土砂災害とマツ」「3.天井川とマツ」「4.土砂災害対策のはじまり」「5.21世紀の防災を考える」「6.マツはどこから来てどこへいくのか」である。
 まず序章として、日本の森林率(国土面積に対する森林面積)は約67%。先進7カ国では日本が第1位。カナダも49.5%、イギリスは10.2%である。世界ではカメルーンが75.7%、フィンランド68.6%などと高く、ブラジルは57.3%だそうだ。
 ただし人口1人当たりの森林面積で見ると、日本は低く、0.2㌶であり、カナダ16.9㌶、フィンランド4.55㌶などに及ばない。

 我が国では縄文時代から多くの木が活用されており、各用途ごとに適材適所の木の活用がされていた。室町時代から江戸中期頃までの約250年間に耕地面積は94.6万町歩から297万町歩と3倍になり、人口も江戸中期には3000万人と3倍になっている。 このような発展は森林、特に里山をいじめることになる。しかし日本はモンスーン地帯で自然復元が容易ではあった。

 それでも明治のはじめには六甲山は禿げ山になっていた。大坂築城以来、伐採が進み、地域の人口増加による伐採で、住吉川は降雨のたびに氾濫した。
 このように瀬戸内海周辺や淀川、庄内川、木曽川流域が荒廃していた。この地に比較して東北、関東、日本海沿岸、九州の荒廃は少なかった。

 流出土砂対策は江戸時代から行われており、その植樹に用いられたのがマツである。

 「1.日本のマツ」では1900年頃には禿げ山は東海、近畿、中・四国の瀬戸内海沿岸地方に多かった。開発が進み、人口が多かった地域である。
 また花崗岩が風化した真砂土が中・四国に多いが、ここはアカマツが多い。
 近畿は昔から人が多かった。また多くの寺社や城が造られた(焼けて再建も多い)。西日本の山は標高が低く、人手が入りやすい。里山からの伐採が頻繁だったのである。
 植林は、商品価値の高い木のヒノキ、スギなどが中心である。地形的には「スギは谷、中はヒノキで尾根にマツ」と言われている。マツは乾燥に強く、他の樹種が入り込まないところでも生育が可能。地形条件がいいところはスギやヒノキの経済木を植えたということである。

 一般的には「裸地→コケ・地衣類→草原(一年草、多年草)→陽性低木林→陽性高木林→陰性高木林」と遷移し、最終的な植物のグループを極相という。
 真砂土以外の火山噴出物が堆積した地(東日本が多い)は、すべてが裸地にはならない。
 
 近江の田上(たなかみ)山は往古はスギやヒノキの美林があった。藤原京の造営以来の伐採で江戸時代は禿げ山。花崗岩質であり何度やってもうまく植林できない。斜面の下部や谷筋は土砂が堆積しやすく有利だが尾根は植林が難しい。アカマツよりもクロマツの方が乾燥に弱い。
クロマツの分布は海岸沿いがほとんどである。

「2.土砂災害とマツ」では山地の樹林を伐らないことが大事なのは言うまでもなく、流出土砂量は木を植えると減る。1666年に幕府は諸国山川掟の令を出すが、効果は少ない。結局、各地方の藩主にまかせる。しかし住民は薪の為に無断採取することも多かった。
 痩せ地、砂地、乾燥地に成長して、根が十分に四方に伸びて、表土を結着固定させ、枝葉が繁茂して表土への雨滴を防ぎ、成長が迅速な木が防災の為に有用だが、この条件を備えるのはヒメヤシャブン、ヤシャブン、ヤマハンノキ、ニセアカシア、アカマツ、クロマツである。ヒメヤシャブンはハンノキ属で、根に根瘤を生じて、空気中の窒素を固定するから肥料木として砂防植栽に使われる。松若返りの木ともいわれている。
 マツの種は発芽力が強い。アカマツは直根性で苗床では不自然になる。クロマツは主根が赤松より太い。アカマツよりクロマツの方が水分要求度は高い。

 「3.天井川とマツ」の章では土砂が堆積して天井川(堤防内に多量の土砂が堆積し、付近の平野面よりも高くなった川)の事例を考察する。①上流が荒廃、②下流で川幅が固定、③土砂掘削工事が行われ、その土砂を周囲の堤防に積み上げることで生じる。
 畿内や西日本に多い。都の造営や人の営みが多い地域で、滋賀県の瀬田川、草津川は典型的である。天井川の堤防にマツを植えたのである。
 マツは燃料にも利用されるし、その根は燈火用の燃料(琵琶湖畔ではいぐさから畳表やゴザ。この仕事は夜)にも利用された。

「4.土砂災害対策のはじまり」として、古くは806年の山城国葛野郡大井山の禁伐、飛鳥川も洪水の川。福山藩の砂防工事などの例を紹介する。なお「砂防」という言葉は明治4年から使われる。

「5.21世紀の防災を考える」はでは、植生遷移の実例として桜島の例を取り上げる。溶岩だらけから、地衣・コケ類が20年、草本類が50年、低木材期が100年、それから黒松林期、そしてアラカシ林期150~200年、タブ、アラカシのタブ林期が500~700年と示す。

 滋賀県の姉川支流大冨川は黒松、オオバヤシャブシ、ヒメヤシャブシを植えたが、施行後30年たつと樹勢が衰え、山桜、アズキナシ、コマユミなどが低木林をつくる。
マツのような荒れ地でも育成可能な種により、土砂の固定をして緑を復元。水分や養分のある土地をつくっていく。

「6.マツはどこから来てどこへいくのか」では、都道府県の木を調べると、一番多いのはマツ科で9道県、次ぎがスギで6府県、以下、クスノキ4府県、カエデ4県となっている。

 古代にはマツが無く、登呂遺跡ではスギ。シラカシ、イヌガヤ、ナツグミなどである。8世紀になるとマツが出てくる。万葉集ではハギが141首、119首の梅。マツが75首。
 マツ出現の理由は、5~7世紀に須恵器が焼かれる。これは朝鮮系の焼き物で、この為には高温が必要となる。これにアカマツが燃料として使われる。現在も朝鮮半島にはマツが多い。焼物もマツも朝鮮から来たのではないか。
 また鉄製産にも薪にマツ、クリ、マキがいい。

 広隆寺の仏像はクスノキが大半だが1体だけアカマツがある。

「有職の文様」池修著

調べ物をしている過程で、この本を見つけ、読んだ。
有職(ゆうそく)と宮中や公家の官職や儀式、装束や調度を指す。そして、これらの装束や調度には特有の文様が使用される。公家などは、このような古くからの決まり事で権威を保ってきたことが理解できる。

これらの文様は大陸からのものもあるし、平安時代以降に和風化して伝えられたものもある。
古代は「冠位十二階」から身分を色で表す。10世紀はじめに色だけでなく文様でも身分を表すようになる。
まず、公家社会の装束の種類の説明がある。絵での解説だが、言葉も特殊でわかりにくい。束帯(そくたい)、衣冠(いかん)、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)、布衣(ほい)等の説明である。どの国の服飾史でもそうだが、基本的には簡略化の方向である。現代でも背広文化はカジュアルに取って替わられそうである。

次ぎに織り方による生地の分類として、綾(あや)、浮織(うきおり)、羽二重(はぶたえ)、緞子(どんす)などの説明である。文章だけの説明では理解できないし、理解しようとも思わない。

そして有職の文様を図柄別に分けて解説していく。動物文、丸文、菱文、襷文(たすきもん)、立湧文(たてわくもん)、唐草文、小葵文、繋文、蜀江文、その他に分けて、さらにその中を説明している。

最後に、公家の家格(摂関家、精華家、大臣家、名家、半家)が説明され、次ぎに近衛、九條などの門流(近衛など5つに分かれ、それに属さない非門流もわずかにある)の解説、そして陰陽五行とか色と装束での官位との関係の説明にはいる。

江戸時代には高位の武家は、公家の装束に準じたものを正式の場では着用することになる。

複雑な世界であるが、このような「しきたり」が存在していたことを知る。

「天正伊賀の乱」和田裕弘著

この本は、織田軍によって殲滅されたという天正伊賀の乱を、上質な史料が少ない中で、公家など周辺の者の日記などから説き明かそうとしている。
 構成は、「序章 伊賀国の特殊性」「1.乱勃発前夜」「2.織田信長と伊賀衆の関係」「3.北畠信雄の独断と挫折」-第一次天正伊賀の乱「4.織田軍の大侵攻-第二次天正伊賀の乱」「5.伊賀衆残党の蜂起-第三次天正伊賀の乱」「終章 近世の幕開き」となっている。

「序章 伊賀国の特殊性」では、伊賀の特徴として①全体の石高が10万石程度の小国であり、戦乱が少なく、それは戦国大名が生まれなかったことでみわかる。②名目上の守護は仁木(にっき)氏だが、特に権威・権力は持っていなかったこと、③近江の甲賀、伊勢、大和、山城に近接していて、交流はあった。④主立った国衆による惣国一揆があったことを説明している。惣国一揆とは字義としては国全体が団結して事に当たることだが、伊賀には掟書(控え・写し文書)がある。研究途上だが永禄3年と推定され、内容は他国が攻めてきたら一致団結して戦うこと、侵入をいち早く知らせ、また侵入させないようにすること、数え17歳から50歳までの男子は出陣。長期戦は交代制にする。家臣は国衆に忠誠を誓うこと、功績があれば報償する、裏切りものは許さない、陣取りした場所では狼藉をはたらかない、それに、三好、大和への敵対などを記している。

「1.乱勃発前夜」では他国のように守護代が力をつけて戦国大名化することもなく、国衆のどんぐりの背比べだったこと、史料によって違うが有力者が10数人とか、12人とか66人という史料がある。国衆乱立だから関所がやたらに多かった。
南近江の守護六角氏や南伊勢の守護北畠氏、大和の国衆との関係に触れる。そして忍者は諜報戦を担ったり、城に忍び入り放火したり、夜戦を得意としたりで、伊賀に限らずに全国にいたと書く。東北の津軽氏、岩城氏、関東の結城氏、北条氏、甲斐の武田氏、信濃の真田氏、三河の徳川氏、尾張の織田氏、九州の有馬氏、龍造寺氏などにも同類の者がいたとの記述がある。伊賀の木猿は高名であった。鷹匠が忍びを兼ねることもあったようだ。

「2.織田信長と伊賀衆の関係」は織田信長が上洛していく過程、足利義昭が還俗して信長を頼る過程での関与を書いていく。

「3.北畠信雄の独断と挫折-第一次天正伊賀の乱」では織田信長が永禄10年頃から北伊勢に侵攻し、三男の信孝は神戸氏、実弟の信包は長野氏へ養子として送り、乗っ取りをはじめる。伊勢の守護家の北畠氏が南伊勢に力を持っていたが、当主北畠具教の実弟の木造具政の内応を機会にして攻めて、次男の信雄を養子に入れる。天正3年に信雄が家督を継ぐ。そして北畠一族を粛清していく。木造具政の弟で興福寺東門院にあった具親が還俗して北畠を再興しようとし、伊勢で蜂起する。しかし敗れ、本能寺変後に再蜂起する。
 第一次の天正伊賀の乱は、天正7年に信雄が伊賀に侵攻する。家中では伊賀侵攻に反対論もあったが、主戦論に押されて侵攻するが、柘植保重が討ち取られるなど大敗する。伊賀の下山甲斐守が侵攻の手引きをしたとか、逆に謀略で滝川雄利を討とうとしたとか史料は相反する。信長はこれに激怒して信雄に譴責状を書く。

「4.織田軍の大侵攻-第二次天正伊賀の乱」は天正9年9月に信長が各入り口から軍勢を差し向け、討伐する。信雄が総大将で甲賀口。ここに滝川一益や蒲生氏郷などが出向く。信楽口は掘秀政を大将に近江衆。加太口は滝川雄利が伊勢衆を率いる。大和口は筒井順慶や大和衆。伊賀の国侍は最初は抵抗したが、数で圧倒される。10月には信長が視察。焦土戦の記述もあるが、早々に降伏したとの記述もある。

「5.伊賀衆残党の蜂起-第三次天正伊賀の乱」は本能寺の変後に、信雄勢力が引き上げた隙に乗じて蜂起。しかし、時代の趨勢は豊臣秀吉の天下統一であり、伊賀は脇坂安治が収める。敵対勢力は少なかったが、城郭の破却は進みが遅かった。その後は筒井定次が入る。この人物は世評が香しくない大名である。
ここで徳川家康の神君伊賀越えのことが書かれている。ある程度の人数であり、それほどの危険は無かったのではないかと記している。一緒に供をした武将はこのことに触れていないから大したことはなかったのではないか。途上で世話をしたという人が手柄話的に拡大していったのでは。

「終章 近世の幕開き」では徳川時代は藤堂高虎が収め、伊賀者を無足人(郷士)として採用。また各藩で伊賀者は忍者、諜報活動者として採用されたことを記す。いずれも微禄での抱えである。

「森林異変」田中淳夫 著

 この本は森という植物・環境の視点ではなく、産業としての林業という視点で書かれた本である。著者は林業という産業に、かなり詳しい人で、森林ジャーナリストとして幾つかの本を上梓している。だから私のような門外漢には内容が難しい。
 21世紀になると、国産材の需要が高まる。現場に大型の機械が入って大規模な伐採も行われている。しかし造林がなされず、荒地となった林地も少なくない。さらに林業従事者の減少と高齢化に歯止めがかからず、これで最後の伐採も多い。こういう問題意識を背景にまとめられている。

 「序章 日本の森は、どこへ行くのか」では日本の現状の林業を紹介する。約100㌶に及ぶ伐採跡=山肌が無残に切り裂かれているところもある。日本の国土は有史以来最大の森林面積を誇る。それは戦後の経済復興期に木材需要が増え、価格も上昇。それで森林が増える。しかし、外材解禁で需要不足が解消されて、関心が薄れる。
 人工林だけでなく里山の雑木林も薪、木炭、肥料用に伐採されていたのが、これらの需要減で管理が放棄される。市民の間で間伐の重要性は認識され、また21世紀になると国産材は人気となる。2000年には18.2%まで下がった木材自給率は2009年には27.8%まで戻る。合板業界が国産材を使いはじめたからである。

 「1.かくして国産材は消えた」では林業不振の理由とされる「安い外材に押されて」は嘘と書く。ベイツガ丸太は24000円に対してスギ丸太は11600円である。山元では安いが、エンドユーザーの元では外材よりも高くなる。木材は加工時の歩留まりとか不合理な慣習があった。大量に買うと、集めるコストがかかるとして高くなることもあった。外材にはこのようなことはなかった。
 外材によって一般材(並材)は売れなくなるが、国産材の市場を奪ったというよりは、外材は、高度成長期にふくれあがる需要にこたえたのである。
 この時、国産材は「銘木」(役物)に活路を見いだす。吉野杉、北山杉、木曽檜などだ。住宅では床柱に使われる。この時に産地偽装が行われる。他産地の杉を吉野杉などにしてしまうのだ。
 銘木以外は、伐採・搬出・製材加工の合理化努力は払われず、山元価格の引き下げになる。山主は木材業者に囲い込まれてしまい、価格低下を我慢した。機械化が進み、人手は減少し、これらの労働力は街に出て、林業に関心が薄れる。国、自治体の補助金制度と公共事業で古い体質は温存されたままとなった。
 住宅メーカーは大工などの職人不足で、プレカット工法を取る。この場合は大量の木材を同じ品質でそろえることが必要になる。乾燥も必要である。これに外材が適合した。
 その内、和室の人気は更に低下した。

「2.森が変わる、林業が変わる」では最近は世界でも環境意識が高まる。また木材需要も増える。資源ナショナリズムで外材も伐採に制限がかかり、原木輸出が難しくなる。そこで国産材に目が向き、合板業界が間伐材を使うようになる。合板に技術革新が生まれた。 林野庁も「新流通・加工システム」でB材の使用を拡大させ、合板製造を大規模におこなわせようとの施策である。補助金を受け取るために、森林組合や協同組合を結成する。しかし経営がうまく行かなかったので、民間事業単独でも利用できるようにした。
 巨大な製材工場の事例(協和木材)の紹介がある。製材工場が大きくなると材料の原木の集荷が大変になって倒産することもあるそうだ。
 トーセングループは拠点を集中させずに分散型の製材を行い、乾燥施設は集中している。
 京都の南丹市の日吉町森林組合は林道、作業道の密度を高く、間伐を大々的に実施。山主に森林プランを作成する。これは森林整備を請け負うための企画書であり見積書を作成・提示して、これで理解を得て、森林の集約化を進めている。
 兵庫県宍粟市には高生産性を誇る木材搬出業者の八木木材がある。従業員の給与もずば抜けて高い。重機を入れるのだが、この為には林道と作業道の整備が欠かせない。

 「3.混迷する森の現場・街の現場」は林業は活性化されても、山村地域は経済的に好転していない。機械を効率的に使う為には小規模林地の集約化が必要。大規模化すると地場の中小の業者を圧迫。木材価格は下がる。将来的にも林業をという気にならないとダメで、再造林を放棄してしまう。林業を打ち止めにするための伐採になっている。
 国有林は国の主導で、並材でもヘリコプターで出すような採算度外視をしている。この官製伐採が価格を下げている面もある。
 林業従事者も長続きしない。現場の人が日給月給制だと給料があがらない。

 最近、よく外資が森林を買うとかの話がある。これは嘘だ。山に木があっても搬出するのにコストがかかる。水資源確保の為も嘘。本当に地下水を汲み上げるのなら、数百坪程度でOK。
 森林の境界線と所有者名義問題は大きい。わからなくなっているのが大半。地籍図の林野の進捗率は42%程度。

 割り箸は間伐材の処分として有効だった。それが環境破壊の象徴と取り上げられ、林業を圧迫。2005年は259.5億膳が2010年には180億膳程度に落ち込む。丸太を加工して角材や板にすると歩留まりは良くて6割から7割。この過程で出た端材を利用して割り箸にしている。しかも実は割り箸の単位容量当たりの価格は高く、高付加価値商品。樹脂箸の方が安いが洗浄に手間。しかし割り箸批判で外食業は樹脂箸を使いやすくなる。他に鉄道の枕木、電信柱、建築足場、オフィス家具、樽や桶、まな板。これらは林業にとって大事なものだったが、木は別の素材に置き換えられて木材需要は減少している。
 バイオマスエネルギーが一時脚光を浴びるが、バイオマス資源を集めるのが大変で輸入することも行っている。搬出に手間がかかる上に安いから林業にプラスにならない。

 「4.森が街に向かう道」では各地の参考となる林業の事例を紹介している。「ひむか維新の会」は皆伐で山肌が荒れるから、伐採搬出のガイドラインを作り、森林収穫プラン、事前チェックシート、事後チェックシートなどを作る。
 鹿児島大学では高隈演習林で森林業の実務から理論を演習で教える。

 再造林がおろそかになっているのは、赤字になるからである。後継者の心配もある。鹿の獣害も多い。また慢性的な人手不足である。この為に長期伐採権制度がとりいれられつつある。佐賀県神崎市の佐藤木材の取り組みを紹介する。
 木材を住宅に使う長所は人の官能に働きかける点である。調湿性に優れ、熱拡散率が小さい。衝撃を和らげる。そして、視覚に美しい。、街も美しくなる。佐賀県のNPO法人「森林をつくろう」の活動、((株)西栗倉・森の学校、NPO法人サウンドウッズなどの事例だ。

「いちからわかる円山応挙」岡田秀之 著

 円山応挙は写生で一世を風靡したことは知られている。それまでの狩野派などの絵は型があり、画家はその型を摸写するのが修業であり、世の人も型を評価して楽しんだ。
 応挙も狩野派の画家に入門する。その後、円満院門跡の祐常門主に出会い、描く対象をそのまま描く写生になるとある。門跡の没後は、三井家などの支援者を得て人気は高まる。

 著者は、応挙はほんもの以上にほんものらしく描くと評しているが、私は質感の表現が優れていると感じる。ふわふわ感とか、雪の雪らしい感じ、虎や犬の毛皮感、雲の浮いていて、実態のない感じ、人間の皮膚らしい感じ、着物は木綿、絹などの生地らしい感じ、柔らかさを表現したところに真骨頂があると思う。

 また山などは狩野派的=深山幽谷や、いかにも山らしい山ではなく、日本の実際の里山のような表現もある。

本の著者は、応挙の画業を評して、「まじめにきっちり描く」「元ネタよりうまく描く」「見えないものを見えるように描く」「ほんもの以上にほんものらしく描く」「こわく描く」「かわいく描く」などと評して、該当する絵を掲げて解説している。

 また応挙の経歴や、弟子のことや、画像を紹介している。応挙は、在世中から人気が出たように、パトロンに好かれる要素があった人だと思う。また弟子の育成も上手だった人だったのだろう。

「花粉症は環境問題である」奥野修司著

 この本は花粉症患者でもある著者が、その元兇は、スギの過大な植林にあると結論づけた経緯を書いている。
 まず「1.ぼくの花粉症戦争」で、著者が花粉症対策として、様々なことを試みた経緯が記されている。印象的なのは沖縄に出向くと、花粉症がまったく出なくなるという経験談である。まず「減感作療法」というアレルゲンエキスを注射する方法を試み、民間療法の「馬油」を鼻に塗るとか「トマト」を食べる、「柿葉茶」や「シソジュース」、「ショウガ」も試し、大量に花粉を吸ったら免疫になるかもしれないという「ショック療法」も行い、「漢方」も試みる。眼鏡、マスクの装具での対策も何種類で試み、空気清浄機も購入する。

 「2.花粉症にはなぜ俗説が多いのか」という章では、花粉症の原因として、肥満細胞が原因との説、動物性タンパクの摂取が多いのは問題、そしてディーゼル排気犯人説、大気汚染説を紹介。これは交通量が多い地区の住人に花粉症が多いということから生まれたが、後に、道路に散った花粉が自動車の通行で再度、撒き散らからせることと判明する。また寄生虫減少説も出たが反証されている。また世界では中国のヨモギ、アカシア、アメリカのブタクサ、イギリスのカモガヤ、モスクワのトーポリ(泥柳)と、多い植物の花粉症があると紹介する。

 「3.花粉症は国家の犯罪」では、日本の国土が見渡すばかりスギ林になったのは戦後。2007年に関東に台風が来て、大量の流木が東京湾に流れたが、それらはほとんどスギやヒノキ。斜面が崩壊するのはこれらの針葉樹。2004年の全国植樹祭では両陛下はイチガシ、タブノキ、クヌギという広葉樹を植えられた。戦後はスギやカラマツが意図的に植林された。高度成長で、これら木材の需要が高まり、価格も高騰。役立たない広葉樹は伐採されて成長が早いスギが植えられる。国は「拡大造林」や「国営造林」構想を打ち出す。このシンボルが植樹祭。(この時も国は儲かるから植林とは言わず、荒れた国土を緑でつつめ」とかのスローガン)
 京大の四手井綱英教授は『日本の森林』で広葉樹林を切ることは異常事態と警鐘を鳴らされる。
 スギの1立米当たりの立木価格は、1955年4478円、1960年には7148円、1980年には22707円と高騰する。スギを植えたら儲かるという時代であった。そして本来植えてはいけない斜面にまで植えた。
 1964年に木材の完全自由化が行われ、儲からなくなり、スギの人工林は荒廃していく。
 この後、著者はスギの造林面積の推移や花粉の量の推計データを紹介する。不備なデータが多いようだが、スギ造林面積は1970年以降急増している。気候要素もあり、正確ではないが、スギ1本から1~3㎏の花粉がつくられ、スギ林の面積から推計すると毎年540万トンの花粉が空を飛ぶと概算している。
 花粉だけでなく、森の保水力も広葉樹の方が優れているとの研究データもある。土壌の栄養成分も広葉樹の方が多様で豊かで、海(魚類)にも好影響である。
 このような論拠で、花粉症は国家の犯罪としている。林野庁は花粉の少ないスギの開発などに力を入れている。

 「4.花粉症は公害だ」では、国は大気汚染を、二酸化硫黄、一酸化炭素、浮遊粒子状物質、一酸化窒素、光化学オキシダントやベンゼン等やダイオキシン類を上げている。花粉は浮遊粒子状物質の一つだが、粒径で該当しない。でも被害の多さ、この為に支払っている医療費の額を考えれば公害ではなかろうかと問題提起をしている。
 明治期に日本を訪れた外国人は、日本を世界にまれなる美しい国土と褒めている。その為にも広葉樹をと訴えている。宮崎県綾町の事例を紹介している。1966年に村長となった郷田実氏が住民を説得し、林野庁に直訴して伐採を免れたそうだ。そして2005年に「太古の森を復元しよう」と官民一体の「綾の照葉樹林プロジェクト」が発足。

 一方で喫緊のスギ花粉症対策としては、手入れをする為の間伐、間伐材を活用する方法の研究などで荒廃した人工林をなくす。この時に広葉樹も植えて複層林にしていく。世界でも低開発国も成長が進むと木材需要が増える。こうして輸入木材の価格も上がる。こうなれば日本の森林資源もより活用できるのではと結んでいる。

「森の力」(宮脇昭著)

 高名な植物生態学者であり、「森づくり」そのものを実践している宮脇昭氏の著作である。次のような章立てになっている。「プロローグ 30年後の「ふるさとの森」に入ってみよう」「1.原点の森」「2.始まりは雑草から」「3.日本の森の真実」「4.木を植える」「5.”宮脇方式”」「6.「天敵」と呼ばれた男」「7.いのちと森」「8.自然の掟」「エピローグ タブノキから眺める人間社会」である。

 「プロローグ 30年後の「ふるさとの森」に入ってみよう」では、緑豊かだが災害の多い日本のあるべき森の姿を簡単に紹介している。それはタブノキが高木となって太陽の光を吸収し、森の中は薄暗い。その中で陰樹と呼ばれるモチノキ、ヤブツバキ、シロダモなどの亜高木が育つ。ヒサカキ、マサキ、アオキ、ヤツデなどの低木も育つ。足下にはヤブコウジ、テイカズラ、ベニシダなの草本植物が確認できるという森である。
競い合い、共生し、自然淘汰に直面しながら高木、亜高木、低木と垂直的に棲み分けながら多層群落の森を形成する森である。そして枯れた木は養分となる。これは日本の鎮守の森と言われるものと同様である。
 ドイツには「森の下にはもう一つの森がある」という諺があるが、多層群落の森は芝生のように一種類の植物を植えた単層群落に比べ、緑の表面積が30倍もあるため、防音、防塵、水質浄化、大気浄化、水源涵養、炭素吸収固定などの環境保全機能に加え、防風、防潮、斜面保全などの多様な災害防止機能を併せ持つ。
当然、各種昆虫、は虫類、鳥、ほ乳類なども顔を出すいのちの森となる。森は「いのち」を守る循環システムの母体となる。

 「1.原点の森」「2.始まりは雑草から」は、宮脇教授の経歴に簡単に触れる。雑草の研究を志し、それをドイツのチュクセン教授に見いだされて、留学する。チュクセン教授からは、その恩師のヨセフ・ブラウン-ブランケ博士が確立した植物社会学も学ぶ。
 チュクセン教授からは見えないものを見る。その為には現場・現場・現場で目で見、匂いを嗅ぎ、舐めて、触って、調べることが大事と教わり、生涯、これを実践してきた。
 日本に帰国しても、日本の潜在自然植生を明らかにするという研究は誰からも相手にされない。しかし、日本でも現場、現場で徹底的に調査を続ける。

 「3.日本の森の真実」では、どのような種がその場所に多いかという優占種より「どのような種がその場所に生育しているか否か」という潜在自然植生に注目した。この頃に文部省からも注目されて予算が付くことになり、『日本植生誌』全10巻を刊行する。この過程での調査方法も記されているが、大変な現地作業である。
 その結果、関東以西の海岸から海抜800㍍付近までは、シイ、タブ、カシ類の照葉樹林が潜在自然植生、海抜800㍍から1600㍍までは落葉広葉樹林(ブナ、ミズナラ)、海抜1600㍍から2600㍍の本州中部山岳および北海道の約400㍍以上は亜高山性の針葉樹林で、本州ではシラビソ、トウヒ、コメツガなどが主木。北海道ではエゾマツ、トドマツ、アカエゾマツが主木ことを明らかにする

 しかし、現実の日本の現存植生は人間活動によって変えられた代償植生であり、置き換え群落であることがわかる。木材需要が急増したのでスギ、ヒノキ、カラマツなどの針葉樹林に代わっている。単植の人工林などの代償植生で、土地本来の森は0.06%程度とある。 結局、日本はマツ、スギ、ヒノキの木材生産工場になっていたと、来日したチュクセン教授も指摘する。中国地方5県ではマツ林が本来の自生林域の250倍以上に増えていた。

 このような森は、外材が入ってきた為に「伐れば赤字、出せば赤字」となり、下草刈り、枝打ち、間伐などの人間の管理ができなくなる。その途端にネサザ、ススキ、ツル植物のクズ、ヤマブドウなどの林縁植物が繁殖する。自然災害や山火事、マツクイムシなどの病虫害を受けやすくなる。そして、生物は弱ると子孫を増やそうと生殖活動が盛んとなり、花粉を飛ばす。花粉症の一因ではないか。


 「4.木を植える」では、宮脇教授が「鎮守の森」の考え方を打ち出した経緯を記して、「5.”宮脇方式”」では潜在自然植生に早く進めるために、宮脇方式(マウンドを造り、そこにポット苗を群植。3年程度の管理(除草)後は管理不要)の説明がある。
 「鎮守の森」復活構想は、当初は誰にも相手にされなかったが、1967(昭和42)年に公害対策基本法ができる。経済界でも関心を持ち、経団連などのトップに講演すると、面白い部課長にもと講演を頼まれる。そして新日本製鉄から、大分製鉄所で本格的に森づくりをやって欲しいとなる。近くの宇佐神宮と柞原八幡宮からシイ、カシ類の実を拾い、ポット苗で植える宮脇式が生まれる。次いでトヨタ、横浜ゴムなどで実践。ピラミッド型、タマゴ型のマウンドを造り、そこに植えていく方式だ。根に酸素が必要であり、マウンドにはガレキのようなものを入れても空気の入りが良くなり、効果的。ドイツも戦争のガレキをこのようにして活用していた。横浜山下公園は関東大震災のガレキを利用している。
 この間、造園業者の抵抗にあう。業者はこのような苗木の供給と、つっかえ棒を造っての年間管理料で食べている。新日鉄だけでなく多くの企業と森づくりをし、イオングループは各店舗の敷地に「イオン ふるさとの森づくり」をしている。また横浜市、佐世保市、各務原市、東海市、行田市、沼津市、掛川市、霧島市、東京都豊島区などの地方公共団体や国土交通省などと森づくりを行ってきた。一方で本当の鎮守の森はどんどん減っている。神奈川県内には2846の鎮守の森や社寺林があったのに、1970年代末には40程度になっていた。
 そして「鎮守の森」という言葉から軍国主義を連想して朝日新聞などは当初、毛嫌いしていた。戦後、宗教の自由といわれるが、実態は宗教の無視である。1997(平成7)年にハーバード大学で「神道とエコロジー」という国際シンポジウムで、「鎮守の森こそが21世紀の世界を救う足がかりになる」と訴え、国際的に共感を得る。

「6.「天敵」と呼ばれた男」の章では、造園業者は貧弱な苗を植え、つっかえ棒で支えたところに多額の管理料を取っていたが、業者の反発もあった。中国では、万里の長城の植樹した時に北京市市長から「日本人の自己満足な植樹ツアーは困る」と言われる。3年経つとつっかえ棒と看板しか残らない。そこで宮脇氏は現地の潜在自然植生を調べ、モウコナラを中心植樹することを提案する。ドングリを広い、1998(平成10)年に植樹祭を行うことができた。
 林業家は金になるスギ、ヒノキ、マツとは違う常緑広葉樹などはと嫌われる。林業振興の役所からも天敵と見なされていた。そして2009(平成21)年に天敵の林野庁から訪問を受け、スギを植え過ぎていたとの反省を聞く。(マツ、スギ、ヒノキが全て悪いとは言っていないが、一度伐採したら、また植えなくてはならない)
それから、官邸、林野庁のトップも理解されるようになる。

 「7.いのちと森」では、戦争中の宮脇氏自身の想い出や、関東大震災時の旧岩崎別邸と被服廠跡地の比較で、常緑広葉樹に囲まれていた岩崎別邸は被害が無かったこと、阪神淡路大震災時での常緑広葉樹の延焼防止効果。東日本大震災での常緑広葉樹の津波被害軽減効果を紹介する。
 そして東日本大震災で、「(公)鎮守の森のプロジェクト」の母体となる活動に取り組むことを決意し、細川元首相や経済界も参加しての活動となる。その活動状況を紹介する。

 「8.自然の掟」では明治神宮の話が興味深い。本多静六博士が明治神宮造営局参与として参加。当時、すでに煙都(公害)としての未来を危惧されており、スギ、ヒノキ、マツなどの針葉樹は永遠安全に維持するのは困難とし、シイ、カシ、クスなどの常緑広葉樹を主木とすることを定める。そして常磐の森を志向する。しかし時の総理大臣大隈重信は「伊勢神宮や日光の杉並木のような雄大で荘厳な景観が望ましい。藪のようなのは神社らしくない。清正井の近くにはスギの大木があるではないか」と本多静六博士の構想に反対した。本多博士は、清正井の近くは清水が湧くなど条件がいいからスギが生育したと説明した。しかし、全国から寄進された木には針葉樹も多く、それを排除することなく植えられた。しかし今は針葉樹が少なくなっている。これが自然の掟である。
クスノキには子分となる木がない。西南日本の照葉樹林域の潜在自然植生が許容する範囲ではあるものの外来種である。

 「エピローグ タブノキから眺める人間社会」は宮脇氏の思い入れのあるタブノキから今の人間社会を見るとして、現代社会を批判的に論評している。(注)タブノキは日本の潜在自然植生の主木であり、昭和51年の酒田大火では本間家のタブノキ2本が屋敷への延焼を防ぎ、山形では「タブノキ1本、消防車1台」と植えられる)
 常緑広葉樹の根は深根性・直根性のため、しっかりと土壌をつかみ、台風や地震、津波にも倒れない。根である足下がしっかりしていないといけない。それから多様性(まじぇる、まじぇるが大事)が大事である。
 人が森をつくり、森が人をつくる。森をつくることは自分の未来の道をつくることと結んでいる。


「水俣の海辺に「いのちの森」を」(宮脇昭、石牟礼道子著)

 植物生態学者で、災害に備えて「鎮守の森」を全国に作ろうと運動されている宮脇昭氏と、水俣病の惨状を書いた作家の石牟礼道子氏の対談である。
 水俣に、「大廻りの塘(うまわりのとも)」と言われている場所(広い、土手に囲まれた地帯でヤブツバキやアコウなどが生えていた)や、その周辺を「いのちの森」として復活させようとする石牟礼氏の要請に応えて、宮脇氏が現地を視察し、その森づくりに力を貸すというストーリーの中で生まれた対談を収録した本である。

 この中で宮脇氏が学問をはじめた頃の苦労話が掲載されているが、雑草の研究という脚光を浴びることのない分野で研究を始め、ドイツのチュクセン教授に認められ、招聘されて、教授が唱えた潜在自然植生を学ぶ為にドイツに留学される。留学と言っても、3年間、ともかく現場に出て、自分のからだ、目で見て、耳で聴き、手で触れて、なめて、さわって修得するように言われる。
 日本に帰国しても、脚光を浴びることの無い学問分野で、師の教えを守り、研究を続け、国際的に認められるようになる。世界が認めれば、日本も認めるというのは、どの分野でもあることである。勲二等瑞宝章を受勲され、天皇にもご進講されるが、生涯、現場で森づくりに励んだ人である。

 石牟礼氏は、『苦海浄土』を書かれたわけだが、水俣は彼女の故郷であり、そこでの公害の実態を明らかにされた。若い時は学校の教師もされており、その時の教師仲間の醜さ(有力者の子どもを贔屓したり、竹槍訓練に血道を上げている教師)を語る。もちろん良い教師の姿を述べておられる。

 宮脇氏は、潜在自然植生(本来、その土地に適応し、育つ植物群)に合致して、高木層、亜高木層、低木層、草本層からなる多層群落の森が災害に強く、古来から日本人が自然に大切にしてきた鎮守の森だとして、その復活を試みておられる。
 東日本大震災で、災害に弱いマツの単植林は津波でほとんどが流されたが、鎮守の森はしっかりと残っている。土地本来の樹種であるタブノキ、アカガシ、ウラジロガシ、シラカシ、シロダモ、ヤブツバキ、マサキなどは太い直根で深く根付いていて倒れていない。そこに低木のアオキ、ヤツデ、ヒサカキなどできるだけ多くの樹種を植えるのが良いと述べられる。
 本来、海岸沿い、河川沿いは生態学的に最も豊かで住みやすい場所である。高台移転などよりも、このような鎮守の森の力で生きることが大切。大震災のガレキも木質のガレキが多く、こういうのは埋め込んで、その上にマウンド(丘)を作り、そこに土地本来の樹種の幼苗を植えれば20年で立派な森になると述べられて、活動されている。

 当初は、ジャーナリズムも企業でも先生の考え方はまったく理解されなかったが、だんだんと理解者が増え、新日鐵大分製鉄所を皮切りに、今では三菱商事、ホンダ、イオンなども実行している。

 鎮守の森というと、国家神道の匂いがするようで左翼の新聞(朝日)、人間から毛嫌いされてきたこと書く。

 お二人の対談では森だけでなく、農作物の話にも及び、昔の下肥には、科学肥料にはない栄養素も含まれていること。ドイツでは虫食いだらけのリンゴを子どもたちが食べ、「虫も食べるから安全ではないの」と虫を吐き出していた逸話を紹介される。

「日本史小百科 宿場」児玉幸多編

 江戸時代の宿場のことを色々と調べている。他に『日本の道路がわかる事典』(浅井建爾著)、『道と路がわかる事典』(浅井建爾著)、『地図と写真から見える日本の街道 歴史を巡る』(街道めぐりの会編集)、『近世の東海道』(本多隆成著)、『道が語る日本古代史』(近江俊秀著)、『ものと人間の文化史 道Ⅱ』(武部健一著)、『宿場と街道-五街道入門-』(児玉幸多著)などに当たったが、これは必要な箇所のつまみ読みである。

 この本は、 「1.古代・中世の交通と宿駅」「2.近世宿場町の発展」「3.宿場の構造」「4.宿場の施設と暮らし」「5.さまざまな宿場町」に付録の構成である。
 古代・中世の交通と宿駅では律令制度が確立した中での交通は、公的使節の外に税負担の為の脚夫や、衛士(えじ)、防人という防衛任務につく為の強制的なもの。脚夫は自弁であり、帰りには餓死する者もいた。この内、行商人などや富商なども出る。河川交通もそれなりに発達。    畿内五カ国と中央から諸国に通じる七つの幹線道路を五畿七道という。七道の中でも大路は山陽道、中路が東海道と東山道。道路は直線で、側溝間の距離が約12㍍で道幅約9㍍。公的な輸送は駅馬(えきば)と伝馬(てんま)の制があり、駅鈴、伝符という利用資格をもって利用する。駅と駅の距離が約30里(約16㎞)。関所も伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)の関が有名。通行する際には過所(かしょ)が必要。河川の渡しの整備も僧侶の社会事業で実施。この頃から江口、神崎には遊女がいて有名。瀬戸内海航路も発達。
鎌倉期になると、駅馬制から早馬制になる。古代の駅家制が崩壊した後に、人馬によって物資を宿から次ぎの宿へ継送するのを宿継が生まれ、鎌倉幕府が早馬制として制度化。
宿駅の管理運営を取り仕切った宿役人の責任者が問屋(といや)である。室町後期になると私関が多く作られたが、戦国大名は公関にしていく。織豊政権が全国交通策を取る。

 近世宿場町の章では江戸幕府の伝馬制度は国家公用が最優先。各宿では朱印状の文面に記載の人足、馬を無条件で提供。ただ宿場に馬が余っていれば駄賃を支払えば誰でも利用可。宿場の伝馬衆は当初は農業の片手間だったが、交通労働者として専業化。宿場町の出入り口に枡型や用水路がある。規模は千差万別。平均は東海道で18町前後、人口は東海道で4000人平均。
 参勤交代が始まると、宿場町は負担が大きいから、周辺の村々を助郷として人足や馬を提供を求める制度をつくる。
これに付随して本陣・脇本陣や旅籠屋などの宿泊施設が設けられる。公用荷物の搬送のために問屋場。本陣、脇本陣以外の宿泊施設として旅籠屋。茶屋は旅行者に昼食や茶・菓子などを提供する休憩所。旅籠屋は。公用以外の武士や一般旅行者が多く利用。宿泊に食事付き。木賃宿(薪代)の安いものとは違う。旅籠屋は2階建て。飯盛り女がつきもの。
 元禄時代に第一次の東海道旅行ブームがきて、19世紀に圧倒的な東海道ブーム 十返舎一九の東海道中膝栗毛、文政13年に全国でおかげ参りなど庶民の旅行が盛んになる。
 安心して泊まれる宿が組織化されるような浪花講などが組織される。ここで紹介された宿は「浪花講定宿」の看板を掲げる。三都講、東講なども生まれる。

 各街道別にそこに存在する各宿場町の実態を記述している。そして巻末に古代からの道路関係の年表、「道中独案内図」、それに五街道の宿駅一覧として家数、人口、旅籠屋、本陣などの天保14年のデータがある。また弘化2年に伊勢に旅行した人物の「伊勢道道中駄賃日記帳」から、各宿駅ごとに、何を買うのにいくら使ったかの小遣い帳が掲載されていて興味深い。

「空也上人と六波羅蜜寺」展 於東京国立博物館

標記展覧会に出向く。本館の階段下の狭いスペースでのこぢんまりした展覧会である。
口から仏様が6体、出ている空也上人の像は有名である。また拝見して、改めて魅力のある御像だと思った。運慶の四男の康勝の作である。
今の基準では小柄な老僧が、少し前屈みになって、少し顔を上に挙げて南無阿弥陀仏の6字を意味する仏様を口から出している。実際に、このような御姿だったのだと感じる。
写実の名作だし、信仰の対象としての有り難みを感じさせる像である。写実でありながら、口から出る言葉「南無阿弥陀仏」という目に見えないものを、どのように表現しようかと悩んだに違いない。その結果がこれであり、快哉を叫びたい。空也上人の音の調子まで表現できているように感じる。見事である。

伝運慶坐像も素晴らしい。意思の力が強く、精神的にも肉体的にも逞しい表情である。仏師:慶派の棟梁としての迫力も感じる。作者は判明していないようだが、慶派仏師の力強い写実表現の像である。好きな像である。

伝平清盛坐像も、有名な像である。ほどけた巻物を手にした表情はリアルで、巻物を読みながら、その内容に対して「こんなものかな」と思っているように見える。巻物の内容、御利益を信じていないような感じである。あるいは諦観なのであろうか。拝見して、思いを馳せることができる像である。

平安時代(増長天だけは鎌倉時代)の四天王立像では、増長天の持つ刀(剣)の鐔が木瓜形なのだ。安土桃山時代の鐔工信家が木瓜形を得意としたが、平安・鎌倉からの伝統なのだ。持国天の刀(剣)の鐔は、かすかに二つ木瓜形(埋忠派などにある)に見え、より桃山的であった。

信家と言えば、常設展の刀剣コーナーに信家の重要文化財の三巴透かし鐔が出品されていて群を抜いている。
刀剣のコーナーに切刃貞宗が展示してあるのだが、飾り方が悪く、刃紋など全然見えない。国立博らしくない展示である。
展示の刀剣の選択も、何か変である。時代順でもなく、流派をまとめての展示でもなく、どうなっているのかと案じられる。

刀剣女子らしい見学者はいなかった。

本館は1階だけを拝見しただけである。特別室の漆器の工芸品は、日本人としての誇りである。

「司馬遼太郎全集44 菜の花の沖3」司馬遼太郎著

 全集の「菜の花の沖」も、この巻で最後であり。この巻は冒頭に「ロシア事情」が2章にわたって記されている。これまでの各巻のブログは次の通りである。
司馬遼太郎全集42 https://mirakudokuraku.at.webry.info/202201/article_4.html
司馬遼太郎全集43 https://mirakudokuraku.at.webry.info/202203/article_1.html

 現在、ロシアによるウクライナ侵攻があり、興味深いものがある。
 ロシアは様々な遊牧民が通り過ぎていった場所で、ノルマン人が来てウクライナでキエフ国家(9~12世紀)を造るがモンゴル軍のキプチャク汗国に支配される。17世紀にピョートル大帝で飛躍する。彼は技術屋で西洋に自ら学び、部下にも学びにいかせた。地主貴族が農奴を所有する社会で、逃亡した農奴がコサックとなり、遊牧民的な生活を送る。彼らがシベリアを拓く。
 原住民を殺すようなことはしないで、原住民から黒貂の毛皮を巻き上げた。彼の在世中にカムチャッカ半島まで達する。デンマーク出身のベーリングがアラスカを探検し、ベーリング海峡という名が残る。ちなみにアラスカはクリミア戦争後にアメリカに売却される。日本との関係は、江戸中期以降に漂流者が多くなり、大坂の伝兵衛がカムチャッカに漂着してピョートル大帝に会う。言葉が通じず当初は日本人とは思われなかったが、後に日本語学校を開く。
 ピョートル大帝の死後は6人の皇帝が在位する。ドイツから嫁してきたエカテリーナ2世が18世紀半ばに即位して基礎ができる。ここでロシアは西方に向かい、バルト海、黒海に制海権を打ち立てる。この治世に大黒屋光太夫が漂着する。光太夫はイルクーツクでキリル・ラクスマン教授に非常に世話になる。光太夫は女帝に謁見し、女帝から帰国の許可を得る。

 日本を意識したのはイルクーツクを本拠とする毛皮業者のシェリコフだった。毛皮獲得の為に千島に来ていた。光太夫と一緒に日本に出向く皇帝の使者にはアダム・ラクスマン(キリルの次男)だったが、シェリコフとの間にトラブルも生まれる。ラクスマンは光太夫を日本に戻し、松平定信から信牌をもらい、長崎に来るようにと言われ、帰国する。
 シェリコフの娘婿のレザノフは毛皮業者となるが、官僚として皇帝の覚えもめでたかった。司馬遼太郎はレザノフを悪く書いているが、彼は日本にはロシア北方経営の為に、食料などを供給してほしいと思っていた。そしてウルップ島に植民団を送りこむために、クルーゼンシュテルンを雇う。彼はドイツ系で人格・識見にすぐれた航海の天才と書いている。彼はバルト海から世界を一周して日本に行くことにする。
 日本の漂流民を乗せて向かう。レザノフも乗船するが、仲は悪い。ともかくカムチャッカ半島に着く。ここからレザノフはクルーゼンシュテルンのナジェータ号で日本に向かう。日本側の応対は非常に悪かった。ラクスマンが日本から受け取った信牌も持参したが、半年も長崎で待ち、レザノフは日本で非道な扱いを受けたと感じ、カラフトを占領する目的で探検する。帰国したレザノフは日本に復讐することを考える。フヴォストフ大尉とダヴィドフ少尉を雇う。彼等はレザノフの指示で日本の沿岸を荒らす。

ここでゴローニンが登場する。ディアナ号館長として、千島列島を測量中であった彼は、謀られて日本側に捕まる。日本がフヴォストフ大尉の仕業に怒っていた為である。ゴローニンは日本側から尋問を受け、フヴォストフ大尉事件とは無関係であることは理解されるが幽閉は高田屋嘉兵衛との交換のような形で釈放されるまで2年3ヶ月続き。ゴローニンは『日本幽囚記』を書くが、司馬遼太郎は評価している。

 ディアナ号副艦長だったリコルドが艦長に昇格して、ゴローニンの消息を探る中で、嘉兵衛の船と遭遇して、嘉兵衛と、他の水夫5人を捕虜とする。

 嘉兵衛はこれも天命だと割り切り、こうなったらロシアとの友好に少しでも資するように考える。リコルドも嘉兵衛の態度から、嘉兵衛を身分の高い者として遇するようになる。ここから捕虜となった嘉兵衛の辛苦と、リコルドとの友情が育まれていく様子を書いていく。嘉兵衛は一人で捕虜になろうとしたが、慕う水夫が志願する。海の男同士の理解や、嘉兵衛、リコルドの人間性のしからしめるところである友情の物語は感動的である。司馬遼太郎はリコルドにも好意的である。

 カムチャッカで幽閉されるが、リコルドとは同室であり、互いの感情の行き違いがあるが、厚い友情を育んでいく。12歳のオリーカ少年も嘉兵衛を慕い、日本語を学んでいく。この少年がリコルドの元にきたロシア側の情報を嘉兵衛に伝える。ロシア政府はフヴォストフの行動を認めていないことがわかり、嘉兵衛は交渉に期待を持つ。しかし、この間、嘉兵衛やリコルドはゴローニンが日本で殺されているかを案じる。

 そして、リコルドが嘉兵衛を伴い、日本に行くことになる。嘉兵衛はリコルドに日本の代表のように日本側の事情を伝える。フヴォストフ大尉の日本沿海部の劫掠事件があったので日本はゴローニンをとらえたこと、そして今でも日本はロシアに対して非常に緊張していること、そして日本の鎖国制度のことも話す。お互いにタイショウと呼び合うようになる。

 すんなり帰国できたわけではなく、いくつもの物語がある。この間、嘉兵衛とともに拉致された水夫の3人が死に、嘉兵衛は自分を責める。帰国の過程で行き違いがあった時はロシアと戦い、腹を切ることまでの覚悟をする。
 日本に着いても、日本の役所での対応においては嘉兵衛は町人であり、漂流民であり、苦労するが、懇意の幕臣高橋三平などの尽力で、ゴローニンの釈放にこぎ着ける。

 幕府は、フヴォストフ大尉の日本沿海部の劫掠事件を公式に謝罪すればゴローニンは釈放するということだった。日本側はロシアの官印のある文書を求めたのでディアナ号はそれを取りに一度オホーツクに戻るなどを経る。
 
嘉兵衛はリコルドと分かれる時に、ディアナ号から嘉兵衛に向かって「ウラァー 大将」と3度叫ばれたことで、嘉兵衛は思わず涙する。

 その後、嘉兵衛はおとがめなしだったが、幕府が蝦夷地に興味を失い、松前藩に戻される。56歳から嘉兵衛は故郷の都志本村で過ごし、そこで自分の生涯はこの地の菜の花のようだったと回顧する。淡路で採れて、兵庫で油を絞られ、諸国に運ばれて灯りとなり、網のつくろい作業に役立ち、その網で採った魚が肥料として、淡路に戻るというような意味である。
嘉兵衛の死後だが、松前藩は高田屋を目の敵にして、高田屋は密貿易をしている(無実と後にわかるが)ととがめられて潰される。

「第2回クオーレ・ド・オペラ ガラコンサート」於 銀座ヤマハホール

「クオーレ・ド・オペラ」とは「オペラの神髄」という意味のようで、この音楽会の趣旨は、オペラに必要な大がかりな衣装、舞台装置、演奏団などを無くして、オペラの音楽の価値を追求して、日本に広くオペラを普及し、次代の音楽家を育成することと記されている。
地元に、この趣旨に賛同して支援されている方がいて、この方のご案内で出向く。この方は茶道もなさっており、また絵の話もでき、地元の文化人である。

前夜は、どういうわけかよく眠れず、演奏会中、眠ってしまい、周りに迷惑をかけるかと心配したが、1曲づつを各歌手が歌う形式であり、また歌手の熱演で眠ることはなかった。

銀座ヤマハホールははじめてである。エレベーターで上がった後に、2階最前列の席だからと階段で上がったら、普通のビルの階段で4階分ほどあり、皆がエレベーターに向かう理由が理解できた。

私にとっては、ピアノの音と歌い手の声が調和しないように聞こえた。言い換えるとピアノの音が大きすぎる感じであった。

歌い手さんの中では、バリトンの大沼徹氏とテノールの工藤和真氏の歌に特に感心をした。他に嘉目真木子氏、鳥海仁子氏、新海康仁氏、江頭隼氏、河野大樹氏、下牧寛典氏が披露された。
なお達者なピアノは石野真穂氏である。

昨日だけのことなのか、年齢の為で。これからこのようになるのかはわからないが、ソプラノやテノールの高音域になると耳に違和感を感じるようなことがあった。

以前に妻とオペラを観に行こうかと、図書館でオペラのDVDを10本以上、観たことがある。この時に、オペラは結局、男と女の物語ばかりであり、日本の歌舞伎のように、忠と孝の狭間、義理と人情の間の葛藤、親子の情愛などが無いと興味を失ったことがある。
その後、何度か、このような演奏会で歌を聴くだけになっている。中には、オペラの歌の意味を横の字幕で流す演奏会もあったが、外国語ということも、課題なのかもしれない。

帰りは雨に降られ、地下に入るまでに濡れてしまった。春雨と言うのには激しい雨だった。

「オランダ商館長が見た江戸の災害」フレデリック・クレインス著

江戸時代に長崎に来たオランダ商館長は、業務の為に日記を書いていた。商館長は赴任すると一度は江戸に参府して将軍に挨拶をする。だからその道中のことや、江戸でのことなども記録として残っている。その日記から、江戸時代の災害のことが書かれている部分を訳して、紹介した本である。磯田道史氏が適宜注釈的文章を挿入している。

 この本は「1.明暦の大火を生き抜いた商館長ワーヘナール」「2.商館長ブヘリヨンがもたらした消火ポンプ」「3.商館長タントが見た元禄地震」「4.商館長ハルトヒと肥前長崎地震」「5.商館長ファン・レーデが記した京都天明の大火」「6.島原大変肥後迷惑-商館長シャセーの記録」の6つの章にまとめている。

 オランダ東インド会社の船が最初に日本に渡航したのは1609年。当初は平戸に商館を開いたが、1641年に長崎の出島に移る。日本で得た金銀銅を輸入し、生糸や織物、砂糖などを輸出した。日本の金銀銅を用いてアジアにおける仲介貿易で利益を出していた。
幕府は徐々に貿易量を制限し、17世紀には年に5~10隻が来航していたのが、1790年から毎年1隻に定められる。夏に到着して3ヶ月の貿易期間を終えて10月終わり頃にバタフィア(インドネシア)に戻るのが、オランダ船の来航である。

 「1.明暦の大火を生き抜いた商館長ワーヘナール」の章では、ワーヘナールは1657年2月16日に江戸に着く。日本橋石町(現日本橋室町4丁目)の長崎屋(オランダ商館員の定宿)に入る。結構、面会に訪れる人が多い。献上品を整理し、大目付・井上政重の屋敷に届け、3月2日(和暦では明暦3年1月18日)に井上邸に出向く。風が強い日だったそうだ。屋敷で半鐘を聞くが、当初井上は気が付かなかったようだ。また井上は老齢で眼が悪くなっていた。井上に家来から連絡が入り、彼は中座し、オランダ人は宿に戻ることになる。途中、火災の煙を見ながら戻る。大事なものを長崎屋の土蔵に預けるかで迷っている内に、長崎屋の前には避難民が溢れてきた。土蔵を閉じ、隙間に粘土も塗り込めて、退散する。4時頃戻り、4時半頃には出た。車長持で避難する人が多く、道は渋滞。町々にある木戸で足止めされながら長崎奉行黒川与兵衛の屋敷(今の岩本町3丁目)を目指す。途中でそこは危ないとの情報が入り、平戸藩邸に出向く。当初は入れてくれたが、藩主松浦鎮信は後で幕府からとがめられないかと気にして、追い返される。結果として平戸藩邸も燃える。下層民と一緒に浅草寺の北側にたどり着き、粗末な小屋で一夜を過ごす。翌日に別の2箇所からも火が出る。従者の内3人が行方不明になる。自分の眼で被害状況を確認し、また江戸城の被災の状況などの報告を受け、衝撃を受ける。浅草門の跡も通り、その惨状も知る。大火の後に様々な噂話が出回ったことも記している。災害に遭った当事者の記録である。
 その後、焼失した長崎屋の再建の為に寄付したこと、幕府の粥施行などの様子も記されている。

「2.商館長ブヘリヨンがもたらした消火ポンプ」の章は、1655年に商館長となったブヘリヨンのことで、彼は17世紀にオランダで改良された消火ポンプを献上している。またダチョウを献上して、将軍家綱は喜んだようだ。この時にも火事に見舞われている。なお消火ポンプが利用されたのは8代将軍吉宗の時である。この間、オランダでは消火ホースが発明されていたが、これは日本には伝わらなかった。

「3.商館長タントが見た元禄地震害」は1703年にタントが商館長に就任。長崎で大火に出会う。江戸参府の準備をしている中で1704年1月2日(和暦で元禄16年11月25日)に揺れを感じる。和暦11月22日に江戸は元禄地震に見舞われていた。伝聞として、新任の長崎奉行の石尾氏信が江戸を出立して宿場に泊まっていた時に大地震があり、宿が火事になり、石尾の荷物が総て焼け、家臣も2人死に、槍印が焼失したので江戸に戻ったという情報が届く。2月29日に江戸へ旅立つが、この道中も復興の途上で、箱根以東の各地の惨状を記録している。箱根の道や小田原城は壊滅状況であった。江戸城も壊れていた。また天罰説とかもあり、これは綱吉の元禄改鋳への不満が大きかったようだ。4月の江戸ではまだ余震が続いていた。日本人は災害に慣れていて、それほど悲しんではいないことも書いている。
 宝永元年の能代地震のことも記録されている。タントの次の商館長メンシングは宝永地震の被災状況(大坂の家屋倒壊、津波の被害)を記録している。

「4.商館長ハルトヒと肥前長崎地震」は1725年に商館長に就任したハルトヒの日記であり、宝永地震後に長崎でも余震が頻発したことが記されている。そして商館の庭でテントを張ってくらしていたことが記されている。五島列島に大きな被害をもたらした地震もおきたことが記されている。この一連の群発地震(80回以上が肥前長崎地震である。この地震の記録は日本の史料にはほとんど残っていない)である。なお江戸参府では吉宗の希望で西洋の馬が献上され、馬術師ケイゼルが妙技を見せて、吉宗が大いに喜んだようだ。

「5.商館長ファン・レーデが記した京都天明の大火」はオランダ貴族の一族で1785年に商館長になったファン・レーデの日記からである。江戸に頻繁に火事があること記されていて、江戸に向かう途中に兵庫に着いた時に京都で1788年3月6日に京都天明の大火を知る。五条の鴨川の東側の団栗辻子で発生し、西方向(京都市街地)に燃え広がり、次いで風が南東に変わり、二条城や京都所司代を焼き、京都御所まで焼いた大火である。光格天皇ははじめ下鴨、上賀茂神社に避難したが、その後聖護院に避難した。なお京都町人の復興力に感嘆している。光格天皇からオランダの金言をオランダ語で書いて欲しいと頼まれたりしている。

「6.島原大変肥後迷惑-商館長シャセーの記録」では1790年に商館長になったシャセーの日記である。この時に雲仙普賢岳の噴火に出会う。噴火は2月10日から始まり、4月21日に長崎で大きな地震(島原を襲った三月朔地震)がある。島原藩を救うために、肥後藩、薩摩藩が救助の為に小型船を出す。この後しばらく地震が続き、ついに新月の21日(1792年5月21日)に凄まじい鳴動と振動があって前山(眉山)が山体崩壊し、島原へ、次いで肥後および天草へ、そしてまた島原にと3回の津波が襲う。

途中の磯田氏のコメントも参考になる。

「司馬遼太郎全集43 菜の花の沖2」司馬遼太郎著

 高田屋嘉兵衛を主人公にした司馬遼太郎の長編(全集で3巻)の2巻めである。
(1巻めのブログ、https://mirakudokuraku.at.webry.info/202201/article_4.html
いよいよ自分の持船として1500石積みの船:辰悦丸(船具の装備も含めて1400両の費用がかかる)で蝦夷地交易に本格的に乗り出す。ただし、ロシアの南下もあり、蝦夷地開発に目覚めた幕府の依頼を受け、交易とは別の千島航路の開拓、千島の開発事業を頼まれる。

 相変わらず、司馬遼太郎は当時の船乗り技術(航海術)だけでなく、船の構造、各地の産物の流通や封建制度の不合理さ、日本社会独特のいじめの病理などにも触れながら物語を進めていく。今回は蝦夷地が松前藩の収奪の対象(藩士が蝦夷地における収奪する場所を藩から知行として受け取り、そこでの収奪は近江商人(初期の商人は両浜商人と呼ばれ、地場の商人は城下商人と呼ばれる)になっており、それを松前藩は幕府に知られることを恐れていたことを何度も何度も書いている。開明的な嘉兵衛は、折りに触れて松前藩から警戒され、忌避される。なお蝦夷地の3品とされる貿易品は鮭、鰊(にしん)、昆布である。

 当時、ロシアの南下圧力を幕府も認識し、蝦夷地への関与を強めていく過程の物語も織りこんでいく。ロシアの進出状況も書いている。
 ロシアは今、ウクライナに侵攻しているが、「火山島」の章で『赤蝦夷風説考』(工藤平助著)の一節を引用して、「ロシアは未開の地においては原住民の内乱がおこると、兵を出して反乱側を助け、かれらを撫育し、以てロシア領にする」ことが記されていることを紹介している。

 嘉兵衛は蝦夷地では松前藩が重視していた松前港(福山湊)ではなく函館に目をつける。 嘉兵衛は、蝦夷地で、幕府の直轄地にしようとの役目を持つ人物(高橋三平と従僕の五平、工藤平助)と出逢い、彼らの態度から、威張りかえっているだけの従来の武士像を修正していく。このような人物とコンタクトを取ることで松前藩からは益々警戒される。
 結果として幕府が蝦夷地を直轄地にしていく。

 司馬遼太郎の作品は、時代小説から歴史小説の趣を強めていき、瀬戸内海航路の産物などを書いたり、船乗りの苦労、儀式にも筆を飛ばし、嘉兵衛が造った「辰悦丸」の偉容を書くと同時に、外国の船との構造上の違いを書く。
 嘉兵衛が船乗りだったのに商売をはじめ、拡大していくとで、兵庫の北風家との関係が微妙になっていくことを折りに触れて書いている。

 次の船は大坂の伝法(当時の大製造拠点)で造ることに決め、そこの大工にも辰悦丸をみせる。松前の鰊がこれから肥料の主役になることを利助という駆け出しの商人と話す。
 幕府は松前藩から東蝦夷地を借り上げる。嘉兵衛が松前に出向くと、松前でもその噂に怯えていて持参した荷が売れない。そこで函館に行く。ここで松前藩から幕臣と会っていたことで酷い目にあう。最上徳内と出会う。
 幕臣として来ていた高橋三平から上司の三橋藤右衛門に引き合わせられ、共に蝦夷のアツケシに嘉兵衛の船で向かう。荷の中に植物の種があり、松前藩から詰問される。三橋が自分の薬として難を免れる。蝦夷人に会うと同時に松前藩の尊大な手代にも会う。また松前藩の悪政を書く。

 嘉兵衛が兵庫に戻るが、蝦夷人に出会ったことで人か変わったように生き生きとしているように妻の目に映る。恩人のサトニラさん(鳥取藩のお雇い船頭)が伯耆に隠居する。蝦夷地用に少し船を改造し、早い季節に酒田の米を蝦夷地に運ぶ為に辰悦丸で出向く。郷里から船の炊に来た子の目で、その苦労を書く。
 三橋藤右衛門から様似経由でアツケシにいくように頼まれる。様似で最上徳内が道普請を指揮している。蝦夷人の風習を頭髪において月代を剃るか否かなので考察している。ただ徳内は事情のわかない官僚的な新任の松平忠明によって罷免させられる。

 アツケシに行くと、近藤重蔵に呼び出される。功名心の強い人物として描いている。重蔵は千島列島を探検した人物で、彼から択捉島まで行く航路の開拓を頼まれる。国後島までは容易なのだが、嘉兵衛は商売を放れて、この要請を受けてしまう。小さい宜温丸で出向く。同行してくれた瀬戸内海沼島の水夫のことを書く。この択捉島の探検においては全集の付録の月報に地図が所載されていて、それを見ながらの方が理解が進む。
 択捉島までの行く航路を探し、三筋の潮があることを発見して水路を見つける。択捉島の様子も、その開拓の歴史や風土、ロシアの進出状況、アイヌのことなどに筆が飛ぶ。歴史家として歴史小説の色彩を濃くしていく。

 江戸に行くと、蝦夷地での幕府御用を申しつけられる。サトニラさんの鳥取藩御用商人としての面白くない生き様を知っているだけに辞退するが、結局、引き受ける。
 さらに、江戸で松平信濃守忠明に択捉島開拓の方策を尋ねられる。江戸から冬の東廻り航路で蝦夷地に向かう。荒れる海で苦労するが函館に着く。ただし以降は冬の東廻り航路はとらない。
 日本地図の作成の為に蝦夷地に来ていた伊能忠敬のことを書く。幕府御用の為の船は大坂の船大工の尼崎屋吉左衛門のところで造らす。2隻は軍船=関船仕立てで建造する。
 そして出来た幕府の御用船8隻で蝦夷地に向かう。択捉島開拓の為に魚を塩漬けにする塩二千俵、それを詰める樽二千個、魚肥を梱包する為の莚、俵などを積んで向かう。
 択捉まで乗船する勘定奉行石川忠房のことや、嘉兵衛よりちょっと前の大黒屋光太夫のことに触れ、船団の一隻に乗船している間宮林蔵のこと、ロシアでこの地を開拓した商人シェリコフのことを書く。そして嘉兵衛の船団は松平忠明と羽太正養を乗せて、ウルップ島に上陸して「天地長久大日本属島」の標柱を立てたことを書く。
 また著者の私事として、函館のことや、神田のニコライ堂を建てたニコライ神父がゴローニンの『日本幽囚記』を読んで高田屋嘉兵衛のファンになったことや江戸時代の商業的基盤が嘉兵衛のような人物を生んだことや幕府の蝦夷地開拓のことを書いている。

「鎖国の正体」鈴木荘一 著

 明治維新、昭和史に関して、多くの著作を上梓されてきた鈴木氏が安土桃山時代から江戸時代初期までを、「キリスト教の伝来と普及、そして禁教・弾圧の流れ」を書いたものである。その結果としての鎖国に言及されている。

 伝来してきたキリスト教に関して、詳しく、かつわかりやすく、私であれば本のタイトルを「日本にきたキリスト教の正体」の方がふさわしいと思った。
 以前に読んだ渡辺京二の「バテレンの世紀」(https://mirakudokuraku.at.webry.info/201909/article_9.html)に似た印象を持つが、この本は日本史と世界史の融合を意識した内容になっっている。

 第1章は「アルマダ海戦と鎖国ー世界史の中の日本」として、大航海時代におけるスペインとポルトガルの植民地獲得、それと表裏一体のキリスト教布教の歴史を書く。宗教改革を経て、スペイン(旧教、カトリック)とイギリスなどの新教、プロテスタントの国との争いの象徴として、アルマダの海戦の顛末を書き、スペインの無敵艦隊を破ったイギリス軍の中に貨物補給船の船長として三浦按針が参戦していたことを象徴的に書く。

 第2章は「鉄砲伝来とザビエルの来日」として、これらが日本を世界史の中に放り込んだ事件として記述する。鉄砲においては硝石が日本での調達に不自由し、その輸入がどれだけできるかが覇権を争う上で鍵だったことを書く。
 伝来当初、キリスト教は仏教の一宗派と戦国大名によって位置づけられた。特に九州におけるキリスト教と各大名、小豪族との関わりが詳しく記されていて参考になる。大村家の当時の内情からの解説はわかりやすい。これらが後の島原の乱につながる。

 第3章「イエズス会と仏敵・織田信長」では、信長はバテレンの野望を感じつつも、来日している宣教師の人数から恐るるに足らずと認識していた。仏教に関しては、信長自身が死地に陥るほどの苦戦の原因になったり、自分の親族、重臣が一揆で殺されたりして憎しみを強める。それが比叡山の焼き討ちや一向宗の根絶やしとなる。石山本願寺の戦いの帰趨を決める荒木村重の謀反の時は、オルガンティーノが高山右近を信長の味方になるように説得している。
 宣教師ごとの事績も詳しい。ヴァリニャーノと天正遣欧使節の項では、使節の一人千々石ミゲルが海路の中で日本人奴隷がポルトガル人によって酷い目に遭わされていることを記した文章を紹介している。
 鈴木氏は信長は旧教のイエズス会とのタイアップであって、世界史的には中世の政治家と書いている。

 第4章「宣教活動の意図を見抜いた豊臣秀吉」では九州諸侯とキリスト教の関係を解き明かしていく。大友宗麟(カブラルが入信させる)、有馬晴信(ヴァリニャーノを頼む)はキリスト教を優遇して硝石や武器を調達していた。そして秀吉の九州征伐がはじまる。この時、野心家である宣教師コエリョの「日本をキリスト教国として、その日本兵を使って明の征服」という本音を秀吉は聞き出し、キリスト教に警戒感を強める。そして彼らが日本人を奴隷として連れ去ることや、領地を得て、そこで寺社仏閣を破壊していることから、大名のキリスト教入信を禁じるなどのバテレン追放令につながっていく。イエズス会のヴァリニャーノやオルガンティーノは秀吉との融和方針をとったが、スペイン系フランシスコ会は積極的な布教に務めるが、サン・フェリベ事件を機に弾圧されていく。

 第5章「開国か鎖国か 徳川家康の模索」では第1章で紹介した三浦按針(リーフデ号で漂着したウィリアム・アダムズ)とヤン・ヨーステンを顧問して新教と旧教の違いや世界情勢を学んでいく。当初は全方位貿易を志向する。千葉県沖で漂着したフィリピン総督ドン・ロドリゴは手厚く保護される。彼はキリスト教を広めておけば、今は無理でも徳川家の三代目頃にはスペイン王に臣属するようになるだろうとの野望を持っていた。この難破船救助のお礼に来たビスカイノは傲慢であった。帰国時にやはり難破して伊達政宗使節の支倉常長と一緒にメキシコに帰国する。
 この前にマカオで、有馬晴信の朱印船がポルトガルに襲われ、有馬晴信は長崎で報復する。この時、家康の代官岡本大八が晴信を騙して、多額の金銭を取る。これを仲介したのがイエズス会の宣教師モレホンで、彼の狙いは「今は鍋島藩領の有馬家旧領にドミニコ会が入っているが、有馬家の旧領を取り戻してドミニコ会を追い出す」ことだった。ともに処罰されるが、家康はキリスト教に警戒感を持つ。キリシタン大名の高山右近や内藤如安は国外追放となる。
 なお三浦按針の斡旋でイギリス商館もできた。
 大坂の陣ではキリシタン約1万人が大坂方となって参戦。宣教師も籠城する。

 第6章「徳川秀忠・家光による鎖国の完成」はイギリス商館長のコックスがイギリスもキリスト教だと言って不信感を抱かれる。その後、日本から撤退。スペイン人宣教師が密入国した平山常陳事件がおきる。その結果、オランダとポルトガルが残る。家光は弟忠長を死なしめ、加藤家を改易し、参勤交代制度をつくって盤石とする。
 この間、宣教師は商人に化けて来日していた。そこで朱印船貿易を廃止して奉書船制度として、徐々に鎖国へと統制を強めていく。島原の乱が起こる。キリシタン勢は海外からの援軍を期待していたが、オランダ軍艦から砲撃させる。乱後1年半後にポルトガル船の来航を禁じて鎖国が完成する。

 国内産業が未熟な状態の元では自由貿易でなく保護貿易が有効なのは今でも変わらない。日本も鎖国によって国内産業の育成が計られ、徳川の平和が到来したと結ぶ。

 なお、徳川の平和については、私はこの意見とは異なる考え方も持っているが、ここでは鈴木氏の著作の紹介にとどめたい。

「山本大貴展」 於千葉県立美術館

この展覧会は私の後輩からの紹介で知ったが、NHKの日曜美術館でも取り上げられている。今日、妻と出向く。
 千葉県立美術館は久しぶりだ。昔、浅井忠の展覧会だと思うが、それ以来である。千葉市立美術館が意欲的な企画展示をするのに対して、何となく県庁の天下り役人が上の方にいる昔ながらの美術館のイメージがあった。
 海岸にあって埋立地なのだが、歩道の並木(クスノキ、桜)も立派に育っている。

 精密な写実画で、ホキ美術館にいずれ収蔵されるような絵画と思っていたら、すでに収蔵されていて、ホキ美術館が大雨で被害を受けた時に山本氏の絵画の中にはダメージを受けたものがあったことを知る。

 フェルメールのような絵画における登場人物を現代の人物に置き換えた作品から、写真で望遠レンズを用いて撮影した時にピントがあっていな部分がボケるような効果を狙った作品や、モデルの衣装に凝った中山忠彦のような絵で、全体の色調を暗くしたような絵などがある。この衣装の中には服飾デザイナー河津明美氏が作成したものもある。

 このように現代の他分野の芸術家との交流も積極的に行っており、何か新しいものが生まれる気配を感じる作家だ。
 その一人が造形作家の池内啓人氏とのコラボレーションであり、彼の造った機械的な装具を顔や身体に付けて、未来のロボット的な扮装の女性像でポップカルチャー的な絵を超細密に描いた絵も面白い。モデルも私はよく知らないが秋葉原系の女性のようだ。
 また日本画家の池永氏と現代の女性像を競作?したような作品もある。

 古典的なモチーフの絵でも、背景に古典的な花瓶、ピアノ、机、椅子などを用いたものから、オートバイを配したものまである。

 また牧阿佐美バレエ団に所属しているバレリーナの一瞬の姿勢を描いた絵は美しい。隠された筋肉までも描いている感じである。指先の細かい動き、その動きを支える指の筋肉まで感じられる絵である。

「板谷峠の死闘」日暮高則著

 私の知人が初めて書いた時代小説である。副題に「赤穂浪士異聞」とあるが、大石内蔵助と対比して語られる家老・大野九郎兵衛に、実はこんな隠れた役割・物語があったのだと言うことを書いた小説である。
 ストーリーの詳細は敢えて記さないが、赤穂浪士の物語における悪役大野九郎兵衛のイメージを覆すような著者の筋立てはストーリー・テラーとしての才能を十分に感じさせる作品になっている。
 また読みやすく、文庫本で300ページを越える分量だが、すぐに読める文筆の力量がある。
 ただし、はじめての時代小説ということもあり、せっかく巧みに作られた場面ごとの盛り上がりが今一つである。手に汗握る立ち回りはない。登場人物それぞれの性格や心の動きなどの描写が今一つである。
 時代小説に必要な艶のある場面も簡単に結末に至り、「どうなるだろう」というワクワク感も無く、淡々と書いている。
 司馬遼太郎でも初期作の「上方武士道」や「風神の門」に納められている短編処女作などは、忍者をうまく活用しての奇想天外な物語にしているものが多く、今一つの所もあるから、著者の構築するストーリーへの期待は大きい。

「折口信夫」植村和秀著

 折口信夫の評伝だが、折口の様々な分野における思想・発想・考え方を著者なりに分析した本である。
 折(おり)口(くち)信夫(しのぶ)は民俗学者、国文学者、神道学者であり、釈迢空(しやくちようくう)の名前で歌人である。そして國學院と慶応義塾大学の教授を務めている。このように幅広い学問・文芸分野で業績をあげた巨人である。だから我々のような人間にはわかりにくい。
 この書は副題に「日本の保守主義者」とつけた評伝である。保守主義者という概念も幅広く、これまたわかりにくいが、著者は対語として急進主義をもってきて、急進主義は未来の為に過去を捨てる。これに対して折口の保守主義は未来のために過去を問い、過去にこだわって未来を作る。社会の自由な展開は過去からしか生み出されないと考えると書いている。

 折口は、日本社会の成立を探究し、それによって、何を守るべきか、何を変えるべきかを明らかにしようとした。細かな実証の積み上げではなく、全体をつかんで探究するスタイルだから、堅実な学問からは距離を置かれてしまい、引用されることも少ない。

 折口は大阪で生まれる。医薬を業とする裕福な商家の4男である。姉が入門していた国学者の影響を受ける。そして國學院に進学し、三矢重松に国文学を学ぶ。アララギの編集同人になり、歌人としても万葉集の研究者としても頭角をあらわす。また柳田國男から民俗学に啓発を受ける。40歳前後から各分野で著作を発表する。

 折口は関東大震災時のすさんだ世相、2.26事件などのテロに日本社会の危機、日本社会の未来に深刻な懸念をもっていた。
 国学者としての無力さも反省する。折口の国学は、道徳感覚を人々の心の中に育てるものであった。それを共有することで社会の正義が成り立つとの考え方であった。

 日本社会の底に潜って日本人の信仰を明らかにし、宗教としての神道と手を携えて国民生活を指導することを国学に求め、古代の信仰とは民間に伝わる精神の伝承だと考え、民俗学の研究を行う。日本社会の古代にまでさかのぼる中で、そこに暮らした人々の信仰を考えようとするスタンスである。原始日本への愛である。

 言い換えると、日本社会の底に潜って日本人の信仰を明らかにし、宗教としての神道と手を携えて国民生活を指導することを国学に求め、古代の信仰とは民間に伝わる精神の伝承=文学的創作と考えて、国文学研究、民俗学研究、神道研究をしたわけである。

 文学は昔の人の心の動きの追体験を感じることであり、すさんだ心にうるおいを取り戻す。そして、人心を豊かにして、社会の自由な展開も力強さを増していくと考えており、国学者にも神道家にも文学が不足しているとの思いも抱いていた。

 社会を支える根本は信仰、社会を未来に導くのは文学という考え方である。

 民俗学は現在の信仰やしきたりから昔の姿を復元する方法を持つと考える。根底にはもっと生活力があり、もっと自由であった古代の生活との思いがある。そこで信仰が強く、しきたりが豊富な沖縄の研究をすすめる。

 大東亜戦争中は、「堂々と戦え」という論調であった。硫黄島で養子の藤井春洋は戦死。敗戦後は、当時の軍首脳の言葉の軽さや虚偽に欺かれたとの思いを強く持つ。この背後に信仰の浅さがあるとの思いを抱く。日本の神が西洋の神に敗れたと折口はとらえる。
 根本の信仰が衰弱していて、日本人の道徳感覚が間違ってしまい、社会の秩序と潤いが衰滅した為と認識し、神道の活性化を試みる。他の神道学者からは敬遠されることもある。また民俗学では柳田國男を尊敬し、柳田も折口を認めていたが、違和感も存在した。

 折口はこういう発想に立つ人であるから、情が深くて心が澄んでいて、自らは孤独である。だから人間と人間の寄り添う心を大切にする人であった。
「折口信夫」植村和秀著

「意匠の天才 小村雪岱」原田治、平田雅樹、山下裕二ほか

 画家であり、本の装幀家であり、挿絵画家であり、舞台美術家の小村雪岱を取り上げた本である。
 泉鏡花との縁が深い人である。本の装幀で才能を開花させたのだが、それは泉鏡花の推奨があった。それまで泉鏡花の本の装幀は鏑木清方が行っていた。雪岱という画号も泉鏡花が名付けたとある。妻も泉鏡花の世話で娶るとある。雪岱は鏑木清方も大事にしていた。
 雪岱が女性を描くと、江戸情緒のある春信調の画であり、豊満なところはなく、ボーイッシュな女性である。もっとも妖艶な女性を描いた小説の挿絵もあるが、やはり、生々しい色気は感じない。この本には記載は無いが、私は雪岱の女性像からは、大正ロマンの竹久夢二の画風にも似たところを感じる。
 そして邦枝完二の「おせん」の挿絵も一世を風靡する。
 一時期資生堂でもデザインを担当していたことがあるようだ。舞台美術も手がけ、また映画にも関与したそうだ。
 絵全体は、すっきりと言うか垢抜けた日本風の家屋、街並み、植物を、小粋なデザインにまとめる人である。
 昔の日本家屋、特に町の中の密集した家屋は、同じような屋根、同じようなデザインで並んでいるから、それを描くことだけで、垢抜けた意匠になるのではとも感じる。屋根瓦、障子の桟、唐傘などは、描くだけで何とも美しい線になる。それを大胆な(誇張した)遠近法で描いたり、思いもかけないところから覗くような絵、あるいは俯瞰するような絵を描く。

 線だけの白と黒の画もいいし、色を使っても落ち着いた渋い色で何ともいえない。
 雪岱は、埼玉県川越で生まれ、本名は小村泰助である。父の勤務先の都合で下谷に引っ越し、父が逝去後に日本橋檜物町に住む。少年の頃から絵を画くことを好み、荒木寛畝に習い、東京美術学校日本画科に入学する。そこでは下村観山に学ぶ。後に松岡映丘とのつながりが強くなり、観山よりも映丘の影響が強いと、この本には記載されている。昭和15年に53歳で逝去する。

<該当する本が検索できずに、別の本である>