「勝矢コレクション刀装具受贈記念 決定版 刀装具鑑賞入門」 大阪歴史博物館

大阪歴史博物館が、刀装具のコレクターであり、研究家であった勝矢俊一氏のコレクション900点の寄贈を受けたことで、展覧会を開催し、その目録も兼ねて、刀装具鑑賞に資する本にもなるカタログを製作された。
なお今回勝矢氏の御親族から寄贈を受けたのは勝矢氏が蒐集したものの約半数とのことだ。勝矢氏は信家鐔の研究において、その図柄においてキリスト教関係のものがあることに着目されて製作時代等を明確にされた業績も輝いている。だから信家鐔もコレクションには多くあったと思われるが、今回のカタログには掲載されていない。なお寄贈品リストには信家も金家の在銘品もあるが、それらは銘が悪いのだろうか、あるいはこのカタログ製作の意図にそぐわないから除外したのであろうか。ともかく触れられてはいない。

はじめに勝矢俊一氏のコレクター、研究家としての人生を紹介する。次ぎに漫画を使った刀装具が刀の外装にどのように使われているかを説明する。昨今の刀剣女子を意識している。
その後に「1.鐔-鉄を愛で、意匠を解き、地域を知る」で、コレクションの中の鐔の何枚かを紹介して、大小鐔、透鐔、鉄の鍛え肌や鐔の下地を説明する。次ぎに鐔のデザインで良く表れるものを紹介し、今度は図柄の持つ意味(そこで留守模様なども紹介)をいくつか解き明かす。そして同じ図柄で作者が違うものを比較しての考察や、透かしの陽の透かしと陰の透かしのことや、古作の写し物、それから古来から言われている伝統的な分類のいくつかを説明する。銅の地金の鐔や、尾張透かしと京透かしの図柄の特色、鏡師、刀匠、甲冑師という本職以外の人が造ったとされている鐔を説明し、江戸時代に日本の各地で造られた鐔を紹介していく。こういう中で鐔の技法や形状などもコラム的に解説している。備後の其阿弥のデザイン力、長州鐔の水墨風(雪舟以来の伝統)の紹介などは特記される。

「2.揃金具-意匠の統一性を楽しむ」では室町時代の作品、後藤家(京後藤家も含めて)、町彫り諸工の作品などを紹介する。

「3.小柄-名品で学ぶ金工の諸流派」では後藤家の極め銘と自身銘のこと、後藤分家と後藤家に学んだ金工(戸張、野村)、桃山時代の金工、加賀象嵌、浜野一門、奈良派、柳川一門、大森一門、石黒一門、村上如竹、京都の金工と分け、最期に木製小柄という珍しいものを掲載している。有名金工のものが登場してくる。

「4.笄、目貫」は少ないが、章を立てて紹介している。
「5.縁頭-視点を絞る」では小柄は各流派を網羅的に蒐集されているのに対して、縁頭では村上如竹一門が多く、蒐集されているので「視点を絞る」という副題になっている。如竹一門以外では近江と美濃の縁頭を紹介して、共通する特色としての図柄の濃密さを指摘している。

そのほか後藤七郎右衛門家(一乗の実家)の伝来ではないかと推測している「ヤニ型(刀装具の完成品に松脂と墨などを混ぜたものを押し当てて型取りしたもの)」のコレクションを紹介している。黒いもので写真ではどんな作品かはわからないが、それに「徳乗作 光覧極」などの説明が添付してあり、詳しく研究すると面白いものだろう。ちなみにこのようなヤニ型は大阪城天守閣に末永雅雄氏のコレクションがあり、京都国立博物館にもあるようだ。

さらに併設展示をしている根付作品ーこれらは根付の研究で名高い渡邊正憲氏から寄贈を受けた-も所載されている。
また大阪で活躍された現代の装剣金工阪井俊政氏の作品も10点ほど紹介している。阪井氏は勝矢氏に教えを受けた時期もあるようだ。

最期に勝矢コレクション総覧として、白黒の小さい写真だが、全作品が掲載され、それぞれの作品概要が名称、銘、法量だけだが掲載されている。

以上に概説したカタログの構成からもわかるように、従来の刀装具の書にない新味な工夫をしており、意欲的である。900点を超える寄贈品から、このようなカタログにまとめ上げるのは大変な苦労だったと思う。

従来の透かし鐔の分類名称である尾張、京などを使っている箇所もあるが、それら流派の特徴を説明するような箇所は一つもない。これらの分類は根拠がないから、あえて避けたのではと思う。
各金工個々の説明も詳しくない。これも伝承の話が多く、また今回の解説方法の中では不要と考えてのことであろう。
図柄の説明の箇所に、はじめて知ることもあり、なるほどと思う。葡萄に栗鼠の図の説明に私などは「武道に立す」と習っていたが「武道に律す」とあった。また片輪車の説明に、木製の車輪にひび割れが起きないように水に浸けるなどの説明を読んで勉強になった。
金工の彫技に関しても、浜野一派の特色として「肉取りの技術とリアルな人物表現を流派の特徴」と的確な評をしている。長州鐔の図柄における雪舟一派の影響という指摘もなるほどと思う。

写真は必要最低限は映っているが、被写体=作品に対する愛情が足りない感じである。これだけの数を記録撮影するのが第一であったわけであり、やむを得ないだろう。刀装具の魅力がわかる拡大写真も無い。

掲載された刀装具には私の好みのものが少ないが、戸張富久の再評価には賛成である。

執筆の中心は内藤直子氏だと思うが、今後も従来の刀装具研究とは別の視点ー例えば日本美術全体の幅広い視点-からの手垢にまみれた評ではない言葉での評、史料が無い中だができるだけ根拠のある資料に基づく論に期待したい。根拠となる資料も無いのに京金工、京金具師との極めなどを払拭して欲しい。

なお、巻末に協力者として私の名前が挙げられているが、勝矢氏の論文の検索をしただけである。

迎賓館赤坂離宮

昨日、妻とはじめて出向く。明日からは即位の礼での賓客来訪に備えて休館とのことだ。入場料が1500円(和風別館は別料金で予約制で今回は参観せず)と国の施設なのに高い。妻は至る所に警備・案内の職員が配置されているから、その人件費ではないかと云うが、来館者一人一人に35頁のカラーの立派な冊子が渡されるから、その料金も込みなのだと思う。手荷物検査もある。内部は写真撮影が禁止だから、冊子のカラー写真で代用ということなのかもしれない。
それによると、紀州徳川家中屋敷跡に明治42年(1909)に大正天皇のお住まいとして、建築家・片山東熊の指揮下で造られる。その後、昭和49年に建築家・村野藤吾が賓客接待用の迎賓館として改修している。

全体の印象は先年訪問したベルサイユ宮殿と同様な建物の外装・内装で庭園の造り方も左右対称で中央に噴水というスタイルである。建築資材の大理石が眼に付くが、大理石は種々の模様があり、産地が違うことは歴然だが、それがどこのものというのは冊子に詳しい。日本だと床柱や天井板の木材の種類に凝るが、西洋は大理石なのだろうか。

入ると、まず玄関ホール・中央階段を見る。来客は正門から入り、長いアプローチを車で来て、正面玄関に付ける。そこでホストが迎え、一緒に室内に入り、赤い絨毯の上を階段で2階の大ホールに続く。来賓も高齢化して階段を上がれなくなったら難しいななどと思う。
大ホールから朝日の間に行く両脇に小磯良平の「絵画」と「音楽」の絵がそれぞれ掛けられている。

朝日の間は表敬訪問や首脳会談が行われる最も格式の高い部屋であり、今年の4月に改修工事が終わったばかりで、カーテン、シャンデリア、調度品(桜をちりばめた段通、濃緑のビロードのカーテン、椅子等)は美しい。天井には朝日の元で4頭立ての馬車に乗った女神が描かれている。改修工事の様子なども映像で紹介されている。また段通やカーテンは古いものか余材なのかはわからないが、手で触れるような展示もある。

彩鸞の間は本来は来客が最初に通される控えの間だが、首脳会談や条約調印にも使われている。柱に金色のレリーフで鸞(らん)という鳥や、兜や剣(サーベルと日本刀)などもある。ベルサイユ的であるが、違うのは王様などの肖像が無いことだ。

花鳥の間は、食事をするところにも使われ、壁に渡辺省亭の下絵を濤川惣助が七宝焼で製作した花鳥図が30枚飾られている。頭上の花鳥はフランス人画家の油彩である。

羽衣の間はオーケストラボックスがある。大きなガラス窓に立派なシャンデリアが3基ある広い部屋である。当初は舞踏会が行われるホールとして造られており、1枚仕立ての天井画が描かれている。

ところどころに「お手をふれないでください」のカードが置いてある。案内の人に「来賓が来られた時には、こんな札は置いていないでしょう?」と聞いたら苦笑して「ええ、取り除いています」とのこと。
「ここで泊まれる来賓もいるのですか?」と聞くと「泊まれるのですが、最近の賓客はホテルで泊まられるのがほとんどです」とのことだ。

庭は建物の後ろに主庭が広がる。大きな噴水があり、そこに青銅製のシャチ、亀、グリフォン(鷲の上半身、下半身がライオン)が据えられている。松だが地上部からすぐに枝が分かれる赤松(タギョウショウ:多行松)が植わっている。庭には砂利を全面に敷き詰めており、清掃も行き届いている。

裏の主庭から前庭(正門側)に回って帰ることになるのだが、前庭は芝生に松が散在する庭である。散在する松も左右対称に植えられている。

「江戸時代の「格付け」がわかる本」 大石学 著

江戸時代は身分がやかましい世界であった。この本は、大名、武家、農民、町人などの身分格付けや、食べ物などの番付などを紹介して興味深い。新書であり、読みやすく、簡潔にまとめている。
官位は古代の律令制が基本だが、時代が下がると、当初の令になかった官職(これを令外官と呼ぶ)が増え、征夷大将軍もそうである。正一位、従一位に太政官の太政大臣、二位に左大臣、右大臣、三位に大納言などど定まっており、武家の官位は幕府が管理し、朝廷は認証するだけである。職人などの官位は門跡寺院などの権限で発行される。この時の御礼が大事な収入になるわけである。

大名の官位だが、大名家の家格ごとに初官(はじめに任官される位)と極官(家格の最高位)が定められている。○○守などの受領名は自由だが、幕府お膝元の武蔵守は原則は不可、また三河守は津山松平家、陸奥守は仙台伊達家、薩摩守は島津家に限定されていた。
親藩は御三家、御三卿、御家門などに分かれており、また大名も国持大名(ほぼ一国を治める)、国持格大名(宗、伊豫宇和島伊達、立花など)、城持大名(石高で10万石以上)、城持大名格大名、陣屋大名などと分かれていた。
譜代、外様の区分はよく知られているが、この本ではじめて知ったのは関ヶ原以降に臣従した相馬、脇坂、水口加藤、秋田、戸沢、丸岡有馬などの大名は願譜代として譜代大名と同じ待遇を受けたということである。

このような大名の格の違いなどから、江戸城での部屋の違いなどや、屋敷の門構えのありかたや、衣服が違っている。屋敷は武士で御家人クラスは、まとまって組屋敷に住み、門は両開きの冠木門で300坪程度の敷地。200石取りの旗本だと片番所付きの長屋門で600坪の屋敷となる。

女性は名前で身分の違いがわかるそうで、「子」が付くのは宮廷の女性や将軍の正室である。
また町人や百姓の中での身分格差や、僧侶や絵師の身分格差など幅広く取り上げている。
町人も江戸など三都で違いがあり、江戸は町年寄(三人)、町名主(城下町の建設時期で草創名主、古町名主、平名主など)、町代、その下に家持(家主)となっている。落語に出てくる町人はこの下の店子である。

商人は、普通は丁稚→手代→番頭となり、勤務評定で昇進は決まる。
豪商は初期は朱印船貿易を行う特権商人、門閥商人。次ぎが材木商などの公共事業の投機方型豪商と、最初は一業種で成功し、後に複数の商売を行った近世本町人のタイプ。これら商人の中には後に両替商になり、そのいくつかが明治以降に財閥となる。三都以外の地方にも豪商は生まれる。

農民は村方三役とされる百姓代、組頭、庄屋(名主)がおり、その下に本百姓、そしてその下に水呑百姓などの隷属農民という格差である。なお農民は公式文書には名字を使えないが名字は持てた。そして名字は武士が許したが、金で許可することも多い。もっとも金さえ出せば江戸時代後期は武士の身分も買えた。

医師は典薬頭、奥医師、番医師、寄合医師、小普請医師が武家待遇で、他は町医者に分かれ、部門として本道(内科)、外医(外科)、口中医(歯科)、眼医、小児医、鍼医の種類があった。
僧侶は宗派によって階級や名称が違う。僧位には法印、法眼などの位がある。
絵師は狩野家が御用絵師となり、それは奥絵師(四家)、表絵師(十二家)の身分格差がある。

盲人の仲間組織は当道座で、その最高位が検校、次いで別当、乞頭、座頭となる。検校は法印になり、社会的地位は高い。それで座頭金という高利貸を行って蓄財に励む。その.返済が滞れば多くの盲人が玄関に押し寄せるということで、取り立ても厳しく、財をなす。勝海舟の先祖もその一人で、武士の身分を買ったわけである。
料理屋、菓子屋にもミシュランガイドのような格付けはあった。

「気象で見直す日本史の合戦」松嶋憲昭 著

日本史の出来事を当日の天気と照らし、考察するという本であるが、読み難くいと感じるのは天候のこと以外のことに触れているからであろうか。
取り上げた事件は桶狭間の戦い、本能寺の変、備中高松城の水攻め、中国大返し、関ヶ原の戦い、文永・弘安の役、稲村ヶ﨑の伝説である。
天候のことがわかる資料は少なく、また不完全なものが多い。一方で著者は天気に関しては多くの人が同時に体験しているから創作が難しいから、軍記物や物語でも史実を伝えているのではとも書いている。ただ、この本では司馬遼太郎の小説や問題のある武功夜話などを引用しており、鼻白むところがある。
参考になったのは、同時代の公家の日記(言経卿日記…京都)僧侶の日記(多聞院日記…奈良)や家忠日記(三河中心)などの天候の記事から、天気の記述を抜き出し、天気は西から変化していくという自然の摂理を織り込んで、事件当時のその場所の天候を推測している点である。
事件当日の天候と似ている現代の天候を探し出しての考察も行っている。
蒙古襲来の神風についてだが、昔からの説ではなく、昭和18年の頃から神風が強調されるようになってきたことを、教科書の記述内容の変化から明らかにしている。太平洋戦争で敗色濃厚になってきた時期であり、神風期待があったのであろうか。ただ文部省主導ではなく、当時の歴史学者主導の説だったとしている。
文永の役は旧暦の10月20日が現在の11月26日にあたるから、昭和33年に気象学者の荒川秀俊は神風=台風ではないと唱えている。筆者は元が日本から引き揚げる時に壱岐に停泊中に、その季節特有の暴風雨に遭遇したのではと推論している。

弘安の役では、風向きの記述から、台風が九州東岸(宮崎、大分)を通り、それに伴う風で元軍の船が損壊したと考えている。そこに元軍側の気象知識の不足(日本と中国は違う)から操船を誤った可能性を指摘している。

「軍事の日本史」 本郷和人 著

歴史学は軍事のことをまともに研究してこなかったと本郷氏は述べる。そして日本人が好きな軍事は「鵯越の逆落とし」や「桶狭間の奇襲」などだとして、小人数で大軍を破るような話が取り上げられるおかしさを説く。
そして戦いは①戦術、②戦略、③兵站の3つが鍵。そして戦いに勝つ為には、④兵力、⑤装備、⑥大義名分が大事になると真っ当な議論をしていくのだが、大上段にふりかぶった割に、今一つ、実証的ではない感じである。それだけ史料が少ないのだろう。
また本郷氏は歴史を易しく、興味深く書く学者であるが、その分、論理構成などが思い付き的な感じもする。

毛利家文書などをみると、首一つとるのも大変であり、それが本当の戦いではないかと述べる。そういう戦において、死んでも仕方が無いとして、死ぬ気で戦うのは家の繁栄を望むためである。そして実際の戦いでは、追撃戦が最大の快楽になる。怖くなくなるし、相手を殺すことが容易になる。武将もこのことを知っていて「追い首」(追撃戦での首獲り)は手柄にならなかった。

そのような人一人を殺すことが大変である戦いの次元が変化したのは鉄砲の登場である。鉄砲は人を殺す罪悪感を無くすと書く。

兵站の話だが、戦国時代は一人一日3合の米が必要であり、1万人の兵だと1日で3万合=30石となる。それは4500㎏の米となる。1㎏500円だと、4500㎏だと225万円。戦が1ヶ月かかると兵糧代に6750万円となる。それに武器、馬(馬は飼料代)の代金が必要となる。こういうお金をかけての戦いであり、それなりの覚悟が無いとできない。また鎧兜は高価なものだった。

なお、兵の動員力は百石あたり2.5人程度である。1万石なら250人程度の軍隊である。

中世は一騎打ちの時代であり、騎馬による弓での戦いが中心。この時に郎党が助けるのはありとされていた。しかし源義経が壇ノ浦の戦いで採用した船の水主梶取(かこかんどり)を弓で狙う作戦は卑怯とされていた。武士特有の倫理観がある。

戦いは兵力=動員力の勝負である。戦いに確実に勝つのは相手の兵力の3倍を、戦闘局面に集中することである。

鎌倉時代の有力な家は300人くらいの兵隊を動員する。それが室町時代になると、2000とか3000人の兵力が、守護大名が自分の才覚で国の武士を動員できる規模となる。
それが信長の時代になると、もう一桁上がる。西洋ではナポレオンが国民皆兵で集めた。これだけの動員となると、プロでない兵士を動かす武器の工夫(長鑓で上から叩く、鉄砲など)が必要となり、また戦いにおける大義名分も大事となる。信長は大義名分を大事にする。

川中島の戦いは、戦いの後に川中島地域を支配したのが武田家だから信玄の勝ちである。武田の有力武将が戦死しても、戦争目的を成し遂げた方が勝ちである。
信長が越前攻めの最中に、浅井が反乱すると逃げたのは挟み撃ちの恐怖であり、兵糧が途絶えるのを恐れたためではないか。

本郷氏が唱える軍事に対して、小さな戦いのことも筆が走っていて、池田屋事件では天然理心流に刀を短く使う方法があり、室内で闘えたとか、軍上手な武将は立花宗茂であって、彼は家来に慕われていたとかの逸話も交じる。

日本では武が常に文を圧倒した。関ヶ原の戦いで家康が圧倒したから、ここからは実質的に家康が第一人者で、ここが江戸時代の起点と考える。

秀吉の戦いは革新的であって、兵站を重視していて、例えば敵の食料を買い漁ることをやる。また戦争を土木工事に置き換えて水攻めなどを行う。また「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いでの大垣からの反転攻勢などの運動を軍事に入れている。

軍事に直接関係無いので、どういう脈絡でこの話が書かれていたのかは忘れたが、明治政府は才能を重視した政権で、広く人材登用を行い、当初は世襲をしない政権であった(のちに華族制度)と書く。




家康は江戸に厭離穢土をかけた

「歴史の余白」浅見雅男 著

副題に「日本近現代こぼれ話」とあるが、明治から昭和にかけての様々な分野の有名人に関するこぼれ話を幅広く集めた本である。
著者は、戦前の要職にあった人物の日記のことについても詳しく、そのような日記資料から得た話も多い。また日記に関して、公開された時の意図、校訂ミスのことなどの指摘も興味深い。

皇族の話も多く、例えば明治天皇には5人の皇子と10人の皇女がいた。昭憲皇太后は子を産めない体質で、皇子女は全て宮中に仕えていた公家華族の娘たちとのこと。ただ8人は成人に達しない内に亡くなる。
こういうことを知ると、側室が認められていない社会で、皇統を守ることの難しさを改めて思う。
なお伊藤博文の愛妾のことや、田中角栄の愛人で金庫番のことも書いている。昔はこの問題には大らかだったのだ。

有栖川熾仁親王、東久邇宮稔彦親王の日記のことや、美智子妃殿下が明治に民間から生まれた五日市憲法草案のことを評価されたことなども紹介されている。

東久邇宮稔彦は戦後、戦犯に指定されることを恐れ、自ら皇籍離脱などの動きをした。昭和天皇にも退位を勧めたようだが、昭和天皇は「秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若い。こういうことを東久邇宮は考えて欲しい」と苦言を呈したようだ。

公家、明治期の華族の話も多い。徳川家達が長く貴族院議長を勤めたことや、勲章等を拒否した原敬の逸話、徳富蘇峰が文化勲章を辞退した話もあれば、大平正芳の読書量の多さに触れている箇所もある。
大倉財閥を興した大倉喜八郎の閨閥作りや、その子の大倉喜七郎のことなども紹介されている。のちに大倉山ジャンプ競技場を作ったり、ホテルオークラを作った人物である。

森鴎外と井伏鱒二の話も面白い。森鴎外が「伊沢蘭軒」を書いた時、井伏は中学生だが、郷里の福山藩に伝わる話として、蘭軒が井伊直弼にそそのかされて阿部正弘を毒殺したとの言い伝えがあり、それを井伏鱒二が変名を使って森鴎外に手紙を書いて知らせる。鴎外から返事が来て、また彼の書いたものが小説の中で紹介される。事実は阿部正弘の亡くなる前に蘭軒も逝去していることで、この話は事実でないことを鴎外が記す。これを受けて、井伏は鴎外に返事を出すが、この時に変名の人物は死去したと、偽りを書く。すると今度は鴎外から架空の変名の人物への弔文が来て、井伏は反省したという逸話である。

2.26事件で殺された渡辺錠太郎のことと、当時、渡辺邸の近所にいた有馬頼寧の日記などに触れる。そして渡辺の寝室にいて、渡辺がかばって助かった娘が修道女として多くの書を出した渡辺和子であることを紹介する。

西田幾多郎の莫大な印税収入や吉野作造の経歴を収入面から記述する。吉野は生活が厳しい時は後藤新平の援助を受け、吉野はこの恩に対して、後藤の命日に墓前に出向いていたそうだ。

陸軍大将で後に戦犯となった今村均が戦時中、内村鑑三全集を読みたいと、部下に頼む。部下は野村胡堂の元にあることを知って、譲ってもらう。しかしこの全集は部下とともに撃墜されて今村に届かなかった。戦後、今村が御礼に野村の元を訪れたそうだ。

平沼亮三という人物のことも知る。彼は横浜の大地主で慶応に進み、各種スポーツを嗜む。自分の邸宅をスポーツ施設にし、そこでの食事メニューの一つがカツカレー(当時はスポーツライス)だった。アマチュアスポーツ界の貢献者として文化勲章を授与される。

スポーツの分野では、王貞治が国籍の件で国体に出られなかったことや、相撲界では玉の海が自身の八百長を反省し、大鵬の八百長を指摘していたことなどが書かれている。

「あなたに逢いたい」展  於佐野市立吉澤記念美術館

昨日、太田に出向く用事があり、その帰りに葛生に出向き、標記の展覧を観てきた。
収蔵品を元に、肖像画を中心に展示がされており、その為に肖像=あなたに逢いたいというテーマにしたのだろう。
入口に足尾鉱毒事件に抗議を続けた郷土の偉人「谷中村の田中正造」(塚原哲夫)が展示されていた。不屈の人柄を想像できるような作品で力強い。
ホアキン・トレンツ・リャドという画家の、オールドマスター的作風(暗い暗褐色の背景に光を浴びた肖像が浮かび上がるような絵)で、まさに油彩で描いた肖像画という女性像の作品2点である。凛とした女性で何か物憂げな表情である。いずれも襟元を少し崩したような姿で、何か意味があるのかと考えてしまう。
高山辰雄の「小鳥」は小鳥を手に乗せた女性を描いているが、女性の輪郭はオレンジというか緋色の衣装と背景が混在して明確でない絵だが、その分、しばらく観ていたくなるような大作であった。
藤井勉の「季節の中で」は女性の横顔を描いているが、平面的に見える。
伊東深水の「紅がく」は紺色の浴衣姿で黒髪豊富の、いかにも昭和前期の女性像である。
中山忠彦の「エマイユの耳飾り」「挿花」の2点が出品されていた。リトグラフの作品も1点展示されている。中山忠彦の作品らしく、いつもの婦人モデルがきらびやかな衣装を着て、宝飾品を身に付けている。このような作品一本槍の作家である。それだけ人気のある絵柄なのだろう。
森本草介の「初秋」「婦人素描」と2点掲示されている。繊細な優しい感じのする巧みな写実画である。素描の方が線の繊細さがよくわかる。

日本画のコーナーにある寺崎広業の「大宮人」は宮廷の男性貴族の表情が何とも言えずに味がある。この人物は何を考えているのだろう。
川合玉堂の「孟母断機」は孟子とその母との逸話を描いたものだが、いつもの玉堂の風景画とは違って意欲的な作品で、迫ってくる力強さがある。
小林古径の「神崎の窟」も大作で意欲作で、隅々にまで気を配って仕上げた立派な作品である。
狩野探幽の「十牛図」は、様々な牛の姿態を描いて、探幽らしくはない力強いところもあり、さすがである。同じ牛だが、姿態だけが違う絵になっている。

この美術館の目玉の板谷波山の陶磁器も5点飾られていた。この人の作品には気品を感じる。

「正社員が没落する」堤未果、湯浅誠 著

昔、読んだ本だが、調べ物があり、再読する。湯浅氏は「年越し派遣村」の村長をつとめた人物で、堤氏はアメリカの実情を『ルポ 貧困大国アメリカ』に著したジャーナリストである。
この2人で、日本でも格差社会が拡大している実情を述べ、対談している本である。2009年の出版であるが、現在の方がオリンピック需要もあり、景気も好転しているが、状況は大差ないのだろうか。

堤氏はアメリカでは、医師も転落する実態を示している。医療過誤保険の保険料が18万ドルと高騰し、それを年収20万ドルの医師の給料で支払い続けることが困難になり、医師を辞めて、底辺に転落する事例紹介である。そして米国では医療の現場に保険会社が入ってきて、治療の内容・時間まで実質指示するようになっている現状を述べる。なお医療を受ける個人が負担する保険料は年間1.5万ドルくらいとのことだ。そして一度、病気すると保険料は上がる。また医療費も高額で、歯の治療費も詰め物だけで1500ドルもするそうだ。
米国の医療保険制度を知らないから、ピンと来ないところもある。

医師だけでなく、教師、公務員、製造業の中間クラスも、政府が急激に進めた社会保障費削減政策や民営化による競争原理導入で落ちこぼれていくと書く。「落ちこぼれゼロ法」で教育現場に競争が導入される。全国一斉学力テストが義務づけられ、その成績が教師の査定に結びつく。だから教師の中には平均点を下げる生徒がテストを受験しないように試験当日に休ませたり、事前にテスト問題を教えるようなことを行う。
そして、そのような落ちこぼれ学生を軍に志願させるように仕向けられたりするという。
また若い世代は学費の高騰と学資ローンで厳しくなる。

アメリカは社会保障の薄い部分をNPOと教会が支える。慈善精神によって教会主体でスープキッチンと呼ばれる無料給食所がある。税制と文化によって金持ちがチャリティで寄進する風土も存在する。

日本ではリストラ、非正規雇用で貧困になる。このような人々は企業福祉から脱落し、貯蓄、家族等の人間関係などの溜めが無くなると一挙に貧困になる。
これまでの年功型賃金は働いている一人の賃金ではなく、家族全体を支える賃金だったわけであるが、それが崩壊している。一方で社会保険料は上がり続ける。
社会保険料が上がると、企業はその負担を厭がり、社員を独立させて、一人親方的な経営者にして、仕事を外注。もちろん仕事がある時だけだが。一人親方は自分で国民年金や国民健康保険に加入し、自分が経営者だから残業時間規制も無しに働くということだ。病気になって働けなくなれば、一挙に貧困層になる。マスコミの現場も一人親方が多くなり、非正規雇用ばかりになっていると言う。

日本はアメリカの年次改革要望書に即して、法令などが整備されていく。こうしてアメリカ並みになるが、アメリカと違って社会にチャリティの思想がないと説く。

現在は企業の内部留保は史上最大の額に膨れあがっていると言う。これが社員の給料を、以上のようなことで抑えてきた結果ならば、問題はあると感じる。
なお、アメリカは国民を消費者、ヨーロッパは市民と見ていると記す。市民は人権などの守られるべき権利があるが、消費者は商品を買ってくれるという視点だけだとも問題提起をしている。



上野東照宮

これまで上野東照宮付属のボタン苑には季節に出向いたことがあったが、上野東照宮は拝観したことがなかった。何年か前には修復工事が行われていたようだ。
大きな鳥居の脇の上野精養軒の方にお化け灯籠と呼ばれる巨大な石灯籠がある。佐久間勝之が寛永8年に寄進したもので巨大である。
参道には全国の大名から寄進された石灯籠(パンフレットには約200基)が並ぶ。その先に唐門があって本殿と続く。唐門の前には徳川御三家が寄進の銅の大きな灯籠が6つ並んでいる。その周りにも各大名からの寄進の銅灯籠が全部で48基あるとのことだ。日光東照宮と同じようだ。

樹齢600年の楠があり、立派な木である。唐門から本殿を囲む塀があり、それは透塀と呼ばれ、塀の屋根の下の壁は、上下に華やかに彩色された木の彫刻が彫られている。下部の彫刻は水の中にいる魚類や、水辺の鳥などの彫刻である。上部には野山の動物や鳥類の彫刻である。これらの動植物の名が手前の手すりに記されている。上下の彫刻の間は菱格子で透けて見える。だから透塀なのだろう。この透塀が本殿を囲っている。
唐門の左右には左甚五郎作という昇り龍、下り龍の立派な木彫がある。これも日光東照宮と同様だ。

その派手な塀囲いの中に、金箔がまぶしい拝殿と後ろに本殿がある。日光東照宮と同時期の建築であり、華やかな彫刻が飾っている。これらの建物の中には入れない。
修復して間もない為か、金箔の金ピカが華やかなである。

安土桃山時代~江戸時代の前期には、この建物もそうだが、日光東照宮など日本人の趣味に合わないような彩色、ゴテゴテのが残っている。明暦の大火前の江戸における大名屋敷の門も、このようなものだったと読んだことがある。この時代には一方で桂離宮である。面白い時代だと思う。

朝倉彫塑館

本日は朝倉彫塑館に妻と出向く。日暮里駅近くの山手線内側の台地になっている方にある。帰りは、そこから谷中墓地に沿って南に歩き、途中に江戸期の浮世絵三美人の一人笠森おせんのいた稲荷を通り、上野公園に出る。

彫刻家朝倉文夫の邸宅を、このような記念館にして保存している。昭和10年に完成した家だそうだが、コンクリートの家と木造の家が不思議に一体となったような建物で、魅力的である。コンクリートの家はアトリエとして彫刻作品の大きなものを製作するために、電動昇降台を設置する為にコンクリート造りとしたようだ。
このアトリエ部分は2階まで吹き抜けにしていて、天井からの光も採り入れるように設計されている。次ぎの部屋は2階までの壁一面を書架にした書斎である。これら蔵書の中には朝倉の知人の芸大教授(西洋美術史)の蔵書を引き取ったものもある。
次の間が応接室である。そこから和風木造の家の方に庭を見ながら渡り廊下でつながっている。そして木造家屋側の玄関もあり、木造の和室(居間、寝室など)が列なり、池のある中庭を囲んで、またコンクリートの家に接続している。

コンクリート造りの方の3階部分に大きな客間があり、また朝倉の趣味であった東洋蘭の温室も兼ねた部屋がある。加えて屋上には屋上庭園まで設置されていてオリーブが大きく育っており、一部が家庭菜園にもなっていた。そして自作の彫刻作品が屋上に設置されている。昭和10年にこのような発想があったことに驚く。

ちなみに、この地区は戦火に遭わずに昔の建物が残ったわけだ。各部屋はコンクリートの方も木造の方も、壁材から天井材、床柱や障子の桟なども面白い木を用いたりして飽きない。よくこんな木を見つけて、ここに利用しているなと感心する。コンクリート造りの玄関の土間には栗の木の年輪を見せて、それをコンクリートに他の石と一緒に埋め込んだ三和土(たたき)もあり、また壁土に瑪瑙や貝を埋め込んでいるなど、相当にお金をかけた家である。当時から作品が海外にも売れて、大金持ちだったようだ。

庭園も面積は小さいながら巨石を配置して、池を造り、その水が流れるようにしていて、作者の意図が隅々まで通った良い庭である。井戸の水を利用しているようだ。これだけの巨石を使った庭は、そうはないと感じる。
紅葉、サルスベリの木なども植わっている。

朝倉文夫の彫刻作品は、コンクリ-ト造りのアトリエに「松井須磨子像」「井上勝像」「小村寿太郎像」、そして名作の「墓守」などがある。
ちなみに早稲田の大隈重信像も朝倉の作品であることを知る。
また猫が好きで、その猫の様々な姿態の彫刻も多く作っており、コンクリート造りの昔の東洋蘭の栽培室に、現在は猫の作品が陳列されている。

彫刻作品は写実的で、本当にアカデミズムという感じで立派である。こういう作品が基礎にあって日本の彫刻界が存在するのだという感じである。また、このような写実の作品があってこその抽象作品だとの思いも懐く。

趣味の東洋蘭では栽培方法の本も書いていたようだ。またアジアの銅器を集めたようで、コレクションの一環が、立派な陳列棚で飾られていた。

「高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの」 於国立近代美術館

日本のアニメーションで大きな地歩を築いた高畑勲を近代美術館が取り上げた。どういう展示になるのかと興味を持って観に行く。今回は妻と娘と赤ちゃんも一緒であり、妻と娘は落ち着いて観ていられなかったと思う。
高畑勲はアニメ=漫画的な軽い感じの物語にせずに、それぞれの物語に主題や訴えたいところ、またアニメの技法的に工夫するところを考え、その実現を試みている。テーマは人道的なものから社会性を持つ問題意識まであったことが理解できる。

高畑が書いたコンテやシナリオ、その前のメモなど、専門的にはどのように表現するのかわからないが、そのような資料も展示されていた。ドラえもんのアニメ化の企画書を書いたのが高畑勲と言うことも知る。

高畑勲は自分は絵を描かない監督であり、絵は宮崎駿や小田部羊一、男鹿和雄、山本二三らが手がけている。それぞれに素晴らしい。

「アルプスの少女ハイジ」が小田部羊一と記憶しているが、それまでのアニメと違って実景に近く先駆的である。男鹿和雄は「平成狸合戦ぽんぽこ」だが、宮崎監督の「となりのトトロ」も担当していることを知る。山本二三の「火垂るの墓」などにおける火事や炭の熾きたところや水などの微妙な揺らぎを描いた絵には感心した。

はじめは「太陽の王子 ホルスの大冒険」、次ぎに「アルプスの少女ハイジ」、「赤毛のアン」などのヨーロッパの物語を手がけ、それから日本を舞台にした「じゃりン子チエ」、宮沢賢治童話の「セロ弾きのゴーシュ」、そして野坂昭如の「火垂るの墓」で戦争の悲劇を取り上げ、次ぎに開発優先の日本社会に警告を発する「平成狸合戦ぽんぽこ」を製作する。
「かぐや姫の物語」(2013年)では手描きの線を活かした水彩画風のアニメを完成させている。

今回は孫もいたから、近代美術館の平常展は出向かなかった。

「バテレンの世紀」 渡辺京二 著

この本は、日本と西洋がはじめて出会った戦国時代後期から、キリシタン禁教令でオランダ以外との交流が絶えるまでの間の壮大な交流物語を書いている。倭寇や、日本の朱印船のことや、東南アジア各地にできた日本人町のことなどの記述は少ない。ポルトガル、オランダなどの西洋との交流が中心である。

ポルトガルが国王権力を社会各層の力も得て確立し、15世紀初頭に対岸アフリカのモロッコの要衝セウタを攻略する。そして金を求めてアフリカ西岸に進出する。またキリスト教国プレスター・ジョンを発見し、イスラム世界の背後を衝くという動機もあった。結局、奴隷狩りをするようになる。

その後、喜望峰をまわりインド洋に出て、ムスリム商人などが活躍していたインド洋貿易圏と接する。そしてゴヤを拠点として確保する。ポルトガル人が香料諸島のことを知ったのはマラッカ占領の後である。モルッカの香料はジャワ島北岸の商人たちによってマラッカへもたらされていた。
ただ同然の価格で集荷した丁字は、マラッカでは原価の10倍、ヨーロッパでは360倍で売れた。ポルトガルの香料、ことに胡椒貿易の支配はホルムズからレヴァント、アデンからエジプトにいたる従来のイスラム商業のルートに深刻な打撃をあたえる。

次ぎは中国だが、胡椒を中国の生糸、絹織物と交易する。当時の明は広州を南方諸国の入貢地にしていたが、ポルトガルは正式な貿易は出来なかった。明の水軍は火船の使用に長じていたのでインドのようなことは出来なかった。ポルトガル人は中国貿易の利を諦めきれずに北上して福建方面で密貿易に携わり、1540年舟山群島の一角に定着する。この倭寇から日本を知る。

イエズス会の創立からの経緯を書き、ザビエルの事績となる。ザビエルはインドに幻滅して、そこで出会ったアンジロウの聡明さから日本に期待するようになり、1549年に鹿児島に着く。平戸、山口、京都に出向いたが、滞日は2年3ヶ月で布教はほとんど成果が上がらなかった。
次ぎがトルレスだが、大友宗麟の庇護を受けて活動する。アルメイダが病院をつくることで布教は少し進む。
以降、次々と宣教師が派遣される。1563年に将軍奉公衆の結城山城守忠正、明経家の清原枝賢が入信。有力武士が入ると布教は進む。それから高山右近の父の飛騨守図書(友照)も洗礼。

そしてヴァリニャーノは少年使節団を結成してローマに派遣する。宣教師としての実績をアピールし、また日本人に西洋の素晴らしさを見せることで布教にはずみをつけようとした。当時のローマ教皇も私生児を設け、自分の甥と称していたように乱れていた。日本の少年使節は行儀良く、動作上品にして恭謙と称賛される。

曲直瀬道三も切支丹になるが、宣教師が日本の神々を悪魔と呼ぶのをやめるように忠告したが、コエリュ、オルガンティーノも改めなかった。

1586年にフロイスが朝鮮を攻めるのであれば、下(九州)をほぼ指揮下においているから協力できるというようなことを言う。この言葉に秀吉は危機感を持つ。
1587年にバテレン追放令。(一般人が信仰するのは構わない。一定の所領を給された給人は秀吉の許可)
ヴァリニャーノは少年使節団を連れて入京。1590の12月。秀吉は伊東マンショを気に入る。ロドリゲス・ツズは日本語が達者で秀吉からも信頼される。ヴァリニャーノ一行の入京でポルトガル風ファッションでロザリオ、十字架を首に吊すのが流行。京都で模造品が作られる
天草学林で印刷所が開設。

切支丹大名には次のとおりである。
織田秀信、牧村政治、蒲生氏郷、筒井定次、木下勝俊、織田有楽斎、高山右近、一条兼定、大友義鎮、毛利高政、黒田孝高、小西行長、大村純忠、有馬晴信、宗義智

トルデシーリャス条約で日本はポルトガル支配圏だが、スペイン系のフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ修道会なども進出し、イエズス会と対立する。

1596年にマニラからメキシコに行くスペイン船サン・フェリーペ号が土佐の浦戸に漂着。増田長盛が派遣され、積荷を没収。事情聴取でスペインは宣教師を先兵にして侵略の足がかりとすることがわかり、秀吉は改め江バテレン追放令。

1599年の秀吉の死後に家康は伊勢に潜伏していたフランシスコ会の宣教師ヘスースを伏見城に呼び、スペイン船の浦賀寄港、スペインの鉱山技師、パイロット招請の件でフィリピン総督に斡旋の労を依頼する。1599年江戸でヘスースの教会建設を許す。

関ヶ原後にロドリゲスは家康に面会、都と大坂、長崎の3箇所にイエズス会の会宅を於くことを認める。貿易を推進したい一心。
ウィリアムアダムスはオランダのリーフデ号できて家康に謁見。オランダとスペインの戦争などの情報をもたらす。アダムスは2隻の西洋式帆船を作る。2席目の120トンは太平洋を横断。

オランダ、イギリスが登場。朱印船貿易で日本人の海外進出がはじまる。南洋に日本人町。

1602年に家康は貿易はOKだが、キリスト教の伝導は禁止とする。
家康は1599年から1607年にフィリピン、安南、カンボジア、パタニ(マレー半島タイ南部)、シャムなどの国王に24通の書簡。朱印状を持った船だけを通商相手として信認をもとめる。海上ではオランダ、イギリスも尊重。当時、朱印状に類する海上通行証はインド洋でポルトガルが発行したカルタス、明の文引などがあった。

オランダは1603年にマレー半島のパタニに商館を持つ。オランダ船は操船、火力においてスペイン、ポルトガルの船に優越した。
英国は1613年に日本市場に参入。日本に合わない貿易品が多く、商売はうまくいかなかった。

最盛期の朱印船はミスツィス造りの船で、ポルトガル語のメスティーナ(ポルトガルとインディオの混血児)のことである。中国のジャンクとポルトガルのガレオン船の折衷様式。

禁教令でキリスト信者が殉教。この時、聖遺物を信者が争って求めた。このようなことを邪教と家康は考えた。信者数は37万人に達しており、キリスト教は強烈な侵略性(武力的侵略でなく文化的侵略)を持つと認識する。

禁教令のはじめの頃は棄教を進めても、取締側の役人の中には無理には殺さなかった。

禁教令下、つかのまの活況は東北地域。フランシスコ会のソテロが伊達政宗に招かれる。1800の信者。仙台領見分の領主後藤寿庵。大坂冬の陣後にイエズス会宣教師のアンジェリス伴う。大坂方の信者は北に逃げる。

オランダは台湾に生糸貿易の拠点を持つ。台湾占領の話が出たが、幕府は一貫して消極的だった。タイオワン事件が起こって、オランダとの間もおかしくなる。

日本人の外国船投資の形態は2つあり、一つは「委託貿易」で銀を預かり、マカオで生糸など指定の品を購入。幕府の高官も実施。
もうひとつは「レスポンデンシア」という高利の金銭貸借。マカオに帰るポルトガル商人に貸与して、再来航時に元利を償還させる。船が遭難するリスクがあるので、金利は25~40%になる。

幕閣は何度禁教令を出しても宣教師を連れてくるポルトガルを憎む。迫害が激しいほど日本に来て、この宣教師のために住民がいらざる血を流すとの思いを持つ。そこでマカオ、マニラの占拠をオランダに促したりする。

島原の乱が勃発するが、宗教戦争か農民反乱かに解釈の違いがある。松倉藩の暴政。飢饉はあったが、天草四郎という天使の出現は、西洋の千年王国運動(信者共同体的、現世的、忽然とあらわれる、超自然的奇跡)などで少年が群衆を動かした事例と似ている。
オランダは天草で砲撃に加わり、キリスト教徒に砲撃しているのはまずいから、百姓一揆と伝える。

1635年に日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁じ。
1636年に日葡混血児を国外追放。出島に隔離。
1638年に島原の乱が終息。
1639年にポルトガル人の追放。この前提にオランダがポルトガルのかわりに生糸、絹織物を調達できるかとオランダ商館長カロンに何度も確認。

ファーストコンタクトの時は両者は文明的に対等であり、キリスト教問題だけが相容れなかったわけだ。曲直瀬道三のアドバイスのように、他宗に寛容ならば広く広まった可能性はあるのだろう。

「博物館でアジアの旅 LOVEアジア」、「VR刀剣」於東京国立博物館東洋館

国立博物館に出向いた時に、時々東洋館に出向くが、本館や平成館で観たあとに出向くので疲れてしまい、熱心には観ない。これは私だけでないようで観客は少ない。今回も東京都美術館でコートールド美術館展を観たあとに出向く。
東洋館にはアジア各国の美術品、出土品が展観されており、地下にはミュージアムシアターという上映施設があって別料金で美術品を詳しく映像で紹介している。今回は「VR刀剣」として現在本館の方で展示中の三日月宗近と岡田切吉房を紹介している。妻に観てもらうのにはいいかと考えて入るが、妻は東京都美術館、東洋館と歩き回った末であり、寝てしまいあまり観ていない。岡田切の華やかな刃文はよくわかる。また映りの状況もよくわかるが、地鉄までは無理である。三日月は号の由来となった「打ちのけ」はわかるが、それだけである。刃文、地鉄はわからない。もっとも姿はわかるが、この二振だけで姿の違いを述べても、初心者にはわからないだろう。

東洋館では、今回はアジア各国の美術品において男女の愛を画題に取り上げたものに焦点をあてて展観している。
地下1階にはインドネシアのもので、影絵人形などである。パンフレットには影絵人形の上演がある日が紹介されていたが、本来の劇で見る方が面白いだろう。
またインドの細密画があるが、中にはエロチックなものもある。日本の浮世絵における一分野と同じだと感じた。
この階にはカンボジアのクメールの彫刻も陳列されている。
1階は中国の大きな仏像などである。北魏などの石窟寺院にあったようなものである。
2階のインド・ガンダーラ地方やアフガニスタンなどの仏像は美男であり、やはり日本、中国のとは違う仏様である。イランの銀細工や陶磁器もあった。シルクロードを戦前に出向いた大谷探検隊の軌跡や持ちかえった品が展示されていたが、偉い使命感である。
3階は中国の古代の出土品(殷の銅器)や中国の唐三彩の枕などがある。殷の銅器は凄いものだと思う。根津美術館のコレクションに改めて思いがいく。
4階は中国の絵画や書である。書には新しい時代のものも並べられていた。絵画は今回は宋の山水画などは目に付かずに、風俗画で、扇面に描かれたものが多く陳列されていた。テーマが愛だから、そのような画になるのだろう。
5階は中国や朝鮮の陶磁器や玉を彫り込んだものなどである。中国や朝鮮の美術品では青磁などの陶磁器がやはり素晴らしい。

コートールド美術館展 於東京都美術館

コートールド美術館とはイギリスのロンドンにあり、レーヨン製造で富を築いたサミュエル・コートールドが蒐集した美術品を基本財産としている。
印象派とポスト・印象派の作品がメインのようで、今回の展示ではマネ、セザンヌ、ゴッホ、ルノアール、モネ、ピサロ、シスレー、スーラ、モディリアニ、ロートレック、ドガ、ゴーガン、ボナール、ロダンなどである。
この美術館は、美術史や保存修復に定評のあるコートールド美術研究所の展示施設という位置づけであり、絵画の技法、背景、画家の意図なども調べており、本展覧会でも、そのような視点で、展示作品を「1.画家の言葉から読み解く」「2.時代背景から読み解く」「3.素材・技法から読み解く」に分けて見所を解説するような展示をしている。

セザンヌでは「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」など風景画は5点の展示だが、”様々な緑の使い方が美しい”と思う。そしてその中に茶、オレンジ系で木々を入れたりしており、これは緑の補色関係にあって、お互いの色を引き立てていると気が付く。
セザンヌは他にも重要な作品が4点、展示されており、その中の「カード遊びをする人々」は同じような構図の作品が他にもあるが、解説にトランプ遊びをしている2人の座高が異常に高いとあったが、改めて見ると「成る程」と思う。
「パイプをくわえた男」も印象的である。「キューピッドの石膏像のある静物」はキュビズムに前駆する作品で興味深い。またセザンヌの手紙も展示してあった。

マネも重要な作品も含めて3点の展示がある。「フォリー・ベルジェールのバー」は鏡の前のバーカウンターに女性のウェイターが立ち、後ろの鏡に店内の様子などが画かれている。その鏡への映り方が不自然なのだが、X線か赤外線は忘れたが、それで分析して当初の絵、絵の位置と塗り直した後の関係などを分析している。当時のパリの風俗=やや退廃的な雰囲気を感じる。またマネという画家は人物を配する構図に新基軸を出した画家なのかなとも感じた。
「草上の昼食」はオルセー美術館所蔵品が有名だが、それと同じ構図の作品だ。森にピクニックという当時の風俗に、男女3人の内、女性が全裸という一種の退廃を感じる。オルセーの作品より小さいサイズで、筆が堅いような感じである。

ルノワールも彫刻も含めて6点ほどあり、中には風景画もあり珍しい。「桟敷席」はオペラの桟敷席の風景を、見上げる構図ではなく、逆に少し上から観るような構図で、着飾った女性と、オペラグラスで他の桟敷席を見る男性が描かれている。この女性がどのような人かわからないが娼婦のような感じもする。
「靴紐を結ぶ女」はいかにもルノアールらしい肌にやわらかい赤味を帯びた少女である。

ゴッホの「花咲く桃の木々」は日本の浮世絵風景画のように、遠景に富士山のような山、前面には桜を思わせる桃の花が咲き誇る果樹園を描いている。

ドガの「舞台上の二人の踊り子」における踊り子は、躍動感がある。画面の下部に何もない舞台を広く取っている構図が新鮮である。なおルノアールと同様にドガは彫刻も作っているが完成したのは少ないとある。オルセー美術館で踊り子の彫刻にバレエの衣装を着せているのがあったが、ルノアールにも彫刻があるように、この時代は画家と彫刻家の垣根も低かったのだろうか。

ロートレックの「ジャヌ・アヴリル、ムーラン・ルージュの入口」はモデルの女性は当時のパリで有名な女性だったようだが、悪意を持って描いたようで、えらく歳をとっているような女性になり、顔も美しくない。縦に筆を使った跡が目立つ。

モディリアニの「裸婦」は、平面的な筆致で縦長のキャンパスに描かれたデフォルメされた裸体なのだが、顔と身体が違った筆致で面白い。

スーティンの「白いブラウスを着た若い女」はスーティンらしい女性の表情で、「また、この顔か」と思うのだが、私は好きだ。

ゴーガンも4点出品されていて、フランス時代の風景画からタヒチを描いた「ネヴァーモア」(寝そべる裸婦の眼が気になる)と「テ・レリオア」(床に座り込む人物2人の姿態が印象的)も展示されており、見応えがある。以前はゴーガンには関心が無かったが、最近は何か気になる画家である。

ルソーの小品「税関」は、ルソーの前職の職場を描いたただ1点の作品とのこと。

絵に付けられている額が、所蔵者コートールドの好みなのだろうが、私はあまり好きではない。
<コートールド美術館展の案内ページ>
https://courtauld.jp/contents.html

「美の猟犬 安宅コレクション余聞」伊藤郁太郎 著

この本は安宅産業で、安宅英一氏に仕え、安宅氏が美術品を蒐集する時に補佐していた著者が、安宅氏の思い出、人柄、蒐集態度、蒐集の裏話などを書いた本である。実際の安宅氏のコレクションである中国陶磁、朝鮮陶磁の名品の写真と解説もあり、そこは美しく楽しい。

「美の猟犬」とは安宅英一氏のことかと思い、違和感を感じていたが、著者の伊藤氏のことなのだろう。安宅英一氏という主人に忠実に仕え、主人が獲ろうとしている獲物(美術品)確保の手伝いをする。もちろん、優秀な猟犬である。

安宅英一氏は安宅産業の創業者安宅弥吉氏の長男で、後に社長にはならずに会長等を歴任した。
自身もピアノを学び、英国に派遣されていた時にも学んでいる。後には若手音楽家を支援し、東京芸大には安宅賞奨学資金を寄贈している。

武智鉄二と親交があり、武智が蒐集していた速水御舟の作品を一括購入する時に、会社の資金を会社で出すことを決めて、以降、安宅コレクションは充実していく。(だから安宅産業が倒産した時に、会長の美術品道楽に一因と批判される。しかし私は思う。現在、安宅の名前が尊敬の念を籠めて語られるのは、世界に冠たる安宅コレクションがあるからだ)

安宅コレクションの内、速水御舟の作品群は山種美術館に有償譲渡されて、山種美術館の目玉として保管・展示している。大元のコレクターが武智鉄二だったことは、この本で知った。
東洋陶磁の方は、住友銀行主導の住友グループ21社が大阪市に基金を寄付して、それで安宅コレクションを買い取り、また大阪市立東洋陶磁美術館を建設して保管・展示をしている。著者の伊藤氏は館長に就任している。住友銀行も評判の悪い面もあるが、このように立派なことをしている。

安宅氏の人柄で印象的なのは寡黙、おじぎが非常に丁寧で美しい、欲しい美術品を蒐集する為の熱意・執念である。また有力骨董店に自ら出向いて何気なく情報収集する態度である。愛好家に蒐集した品物を見せる時は、その展示の順序等まで気を配っていることである。また展覧会での展示の時は、見せる面等にも神経を使ったことが記されている。
ともかく、良い骨董商が付いて、欲しいものには金に糸目をつけずにという態度でないと名品は集まらない。

「図版・解説」にコレクションの名品がカラー写真とともに掲示されているが、写真だけ観ても素晴らしいものである。この30頁だけで楽しい。

猟犬こと伊藤氏の就職した時の様子、折に触れて安宅英一氏に試されるような様子が記されているが、私なら、とうてい勤まらない役割である。
日経新聞社長の圓城寺次郎氏のこと、それぞれの名品の蒐集エピソードなども興味深い。

「武士道 侍社会の文化と倫理」笠谷和比古 著

興味深く、読みやすく、内容が豊富な本である。武士道に関する本としては、新渡戸稲造の名著「Bushido」が有名だが、学会からは「武士道は明治になってから作られた造語である」とか、津田左右吉のように武士道賛美論に反対する意味も含めて、武士道とは裏切りと下克上の暴力的行動だと述べる向きもあった。
この本で著者は「武士道」という言葉が出ている江戸時代の書物から、武士道がどのように説かれていたのかを明らかにしている。
中世社会では「弓矢取る身の習い」「弓矢の道」と言われていた。「武士道」という言葉の初期の例として、加藤清正の『清正記』とか『武功雑記』に伊達政宗の言葉が紹介されている。そして『甲陽軍鑑』(小幡勘兵衛景憲が集大成)には武士道が頻出している。高坂昌信が述べたとされる言葉などにである。
また往時のキリスト教宣教師が編んだ『日葡辞書』には「武士道」は無いが「武道」の見出しはあり、そこに”武士の道”とある。なお「弓馬」の見出し語にも同じ意味がつけられている。

以下、近世前期(17世紀)の書物として『甲陽軍鑑』、『諸家評定』、『可笑記』、『武士道用鑑抄』、『七種宝納記』を取り上げ、内容を紹介している。
勇猛果敢に前線に出て敵と戦う振る舞いを勧め、未練を取るな、先祖からの家名を断絶するな、親兄弟の仇討ちをしろ、主君の御用に立つことだけでなく、次のような徳目も強調している。
悪質な嘘をつくな。「武士に二言はない」(正直)、自慢するな、暴慢の態度を取るな(謙虚)、武道具を愛好しないで不要な金銭を費やすな(節制)、おべっかを使うななどが尊重されている。それから証拠に基づいて述べることも強調している。
また少しは漢籍、芸事も学べと述べる本もある。

近世中期(18世紀)になると『葉隠』、『武道初心集』、『武学啓蒙』など、武士道をより体系的に論じた本がでる。
『葉隠』(山本常朝)で「死ぬことと見つけたり」は、そのような心構えを持つことで武道に自由を得て、落ち度無く家職を全うできると説く。死狂いの行為で、そこに分別など生じてくれば、主君に対する忠義も親に対する孝行もできないと言う。

また著者は、武士道の慣行としての「武家屋敷駆込慣行」を取り上げている。幕府、諸藩も禁じているのだが、武士道には存在し、18世紀中頃の『古老茶話』(柏崎永以)で「徳川家中は人を斬りたる駆込者があったり、かくまってくれとの駆け込み者があっても武士道をもってかくまうことのないのが大法で、一般の武家屋敷とは違う」と書いている。
『明良洪範』(真田増誉)にも徳川頼宣が当家は御三家だからとして、上記同様のことを述べている。
時の刑法である『公事方御定書』に頼まれて隠した者は追放とある。しかし徳川吉宗は武士が盗人を隠すのと違う事情のある場合は急度(きっと)叱申すの軽い刑にすべきと加筆している。徳川宗家も「武家屋敷駆込慣行」をある程度容認していたのだ。
その背景として、武士道には忠、義、勇の他に頼もしき意地も大事で、「頼む」と言われ、「頼まれたぞ」と応諾したら、守るべきということがあると書く。

それから「敵持ちたる者は随分討たれぬようにするが誉れなり、いか様の事なしても逃げるがよし(中略)随分逃げて返り討ちにするのはなお大手柄」とある。
武士道は仇討ちを奨励するが、それから逃れ、返り討ちにするような武士も認めている。すなわち徹底的なサバイバルの思想で、死ぬことだけを勧める思想ではないと説く。

近世後期(19世紀)では『尚武論』では中国の儒教の孝行よりも、主君への忠義が大事。真田家の当主が親とは別に徳川方についたりしても非難されないのはその為と儒学を批判している。
これは、忠の見返りに知行・俸禄をもらう。それが武士の家。忠を通せば家が持続できる。それが孝となる。儒教を中心とする中央集権国家が孝を第一にするのと違うとする。
その忠に関して「主君押込」があった。すなわち主君が悪いと、家臣が諫言し、それでも直らないと家臣団が主君押し込めるということである。

切腹とは自らの責任の重さを自覚し、その責任を回避することなく自ら敢然と引き受ける態度の表明。

礼儀は名誉の観念と不可分。無礼が名誉の毀損になり紛議につながるから礼儀が大切。

武士は事実尊重。証拠主義。空疎な観念論的議論を嫌う。事実を重視し、事実認定の根拠となる証拠を重んじる。イコール嘘を嫌う。儒教と大きく違う。
戦場は動くから、現実に即して対処が必要ということである。
ヨーロッパの騎士道は女性は常に保護の対象。日本は女性にも開かれていた。

そして、著者は武士道における信義・信用重視は一般庶民にも広がり、これが近世の発展に道をつけ、また幕末当時に、日本が植民地にならないのは①強い危機感を持って国防の必要性を早くから説く。オランダから世界情勢を仕入れていた。②欧米強勢の元は巨艦と大砲と現実を正しく認識し、それを学習しようとし、ペキサンス砲(ナポレオン戦争で開発。射程1500㍍におよぶ炸裂弾丸を放つ)の重要性を、幕府は江川英龍、諸藩では薩摩藩、佐賀藩、長州藩が認識・製造していた。そして薩摩は砲でイギリス軍鑑を撃退している。

相手の強さを証拠で確認し、負けじ魂を発揮して独立の気概で、良いものは良いと学習する態度が武士にはあった。
儒教的論理は大義名分論で、自国は中華で文明の中心、外国は夷狄で野蛮。だから中華が夷狄を教化して文明世界に広める。夷狄からは学ばないという国とは違っていた。

「みんなのミュシャ」展 於Bunkamuraザ・ミュージアム

ミュシャは以前に国立新美術館で開催された「ミュシャ展」を観ており、その時はアールヌーボーの旗手というミュシャのイメージを覆す「スラブ叙事詩」に驚いたことを思い出す。50歳時に故郷のチェコに戻り画いたという
(その時のブログ) https://mirakudokuraku.at.webry.info/201703/article_15.html

今回の展示は、ミュシャの描いた作品が時代を超えて、60~70年代のアメリカ若者文化や、現代の日本の漫画・ゲームに影響を与えていることを示す狙いもあるようだ。
もちろん、これらに影響を与えたのは重たい「スラブ叙事詩」のミュシャではなく、アールヌーボーの華やかで優雅な女性像のミュシャである。

これらのミュシャの作品は”Qの字の構図”になっていると解説されていたが、確かにQ字形の枠・背景に黄道12宮を描いたり、花を描いて装飾し、そのQの中に女優サラ・ベルナールのような華麗な女性像を描き、Qの下部に足の部分をを形造るように描いてQの字を完成させるという構図である。

装飾に使って描いた花などは日本や東洋の花模様の影響を受けていることを示す展示物もあった。

今回、鉛筆、木炭のデッサンが展示されていたが、強い線、優しい線、優雅な線、厳しい線、太い線、かすかな線と使い分けていて見事なデッサン力である。この展示の中で欲しいものは、これらのデッサンである。

各作品に女性の優雅で魅力的なポーズをとらせているが、それは当時生まれた写真で被写体の連続的な動きを撮り、それら写真の被写体における体の動きを描いていることがわかる展観であった。このようにして身体をくねらせた優美な女性像が生まれたのだ。

ミュシャは、本の挿絵画家として認められていき、当時の有名女優のサラ・ベルナールの舞台広告ポスターで脚光を浴びる。ある面で、売れる絵=人気が出るような絵を画いていたわけだ。だから晩年に「スラブ叙事詩」のような自分の心が画きたいような絵を画くようになったのだろうか。

ミュシャの影響は日本では与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙絵(藤島武二)などが嚆矢で、現代の漫画家、ゲーム作者に伝わっている。
欧米では60年代のレコードのジャケット絵に見られるとして、これらの作品が展示されていた。若い人にはこのような展示がいいのだろう。

京の食(いづ源、グランドビュー:ウェスティン都ホテル京都)

土曜日、石清水八幡宮から京阪電車で四条河原町に出て、四条通り界隈を歩く。外国人が多く、東京の銀座通りよりも多く感じる。歩道が狭い分だけ、そう感じるのだろうか(親戚から、これでも以前よりは少なくなったと聞く)。中には浴衣を着ているカップル、グループもいるが、女は女郎みたいに着崩れ、男はチンチクリンの丈の着物で、貸衣装屋さんももう少し指導をしたらどうだろうか。着物の良さ、美しさを損なっている。

四条の「ぎぼし」でお昆布を買い、そこの店主に鱧(はも)寿司が食べたいから、どこか美味しいところを紹介して欲しいと頼むと、近くならば「いづ源」が良いと紹介してくれて、電話をかけてもらう。
鱧の季節も終わりに近く、一本しかないが、これから調理すると30分以上かかると言われる。では鯖寿司にしようかと思い、出向く。
鯖寿司と穴子、鯛の3種の寿司を食べたが、昆布、鰹の出汁で炊いた酢飯を使っているとのことで、醤油無しでいただく。全体に甘めであり、後口に残る。
穴子は柔らかく、甘いが、しつこい甘さではなく美味しい。鯖は適度に脂がのり、歯ごたえのある肉厚で、上に昆布があるとは気が付かない。
鯛は実に柔らかく感じて驚く。蒸してあるのか、包丁を細かく入れている為なのかはわからない。
寿司、一つ一つの大きさが大きく、一口に食べるには大きく、箸で割るには中途半端である。
おかみさんから、昨今の京都の観光事情や、仏光寺さんの状況を教えていただく。

法事は蹴上の仏光寺本廟で執り行われた。仲の良かった従姉妹の一周忌だ。親戚で集まるのがこのような席ばかりになるのは寂しい。

法事後に、隣りのウェスティン都ホテル京都内のフランス料理の「グランドビュー」で精進上げとなる。
料理ではジャガイモの冷たいスープも美味しく、次の鯛のグリエという鯛の白身に焦げ目をつけたものが絶品であった。牛フィレのステーキに野菜をミルフィーユのように仕立てた付け合わせなど、野菜をうまく使っていると感じる。

ここは京都の街並みが一望でき、それで店名が「グランドビュー」なのであろう。お客さんからも聞かれるからだろうが、テーブル上にここからの眺望をパノラマ写真に撮り、場所の説明をつけた栞が置いてあった。

今回の京都では、食事は鯛の旨さを再認識させらたこと。もう一つは石清水八幡宮展望台からの京都遠望、ウェスティン都ホテル(東山)からの眺望と、京都を上から見る機会に恵まれたことである。
この席で従姉妹のご主人から、京都には知恩院の裏から東山将軍塚に登るルートや、清水寺の奥にある登山道などがいくつかあり、そこに登るハイキングも楽しいという話を聞く。

石清水八幡宮

土曜日は石清水八幡宮に出向く。行きはケーブルカーを使用したが、帰りは参道を歩いて降りる。下りだが、かなりきつい歩行であった。往事はこの参道がメインであり、参道沿いに坊の跡がいくつか残っていた。松花堂昭乗が住した跡もある。

展望台が素晴らしい。ここ男山は京都の南の入口に当たる場所に位置し、向かい側の山が天王山である。そして眼下に木津川、宇治川、桂川の3本の川が流れ、これら3本の川が淀川として合流して大阪湾に流れ込むわけだ。木津川は伊勢の鈴鹿山脈から、宇治川は上流が瀬田川で琵琶湖からと、京都の北の山が流れ出た水も鴨川となって宇治川に流れ込んでいる。そして桂川は保津川、大堰川として丹波亀岡の方の水を運んでいる。

往古は河川水運が大事な流通経路であり、この地の水運がいかに恵まれていたのかが理解できる。だからそこに淀城が建ち、伏見桃山城が立地していたのである。
もっとも3川が集まる場所であり、往古は巨椋池という巨大な池というか湖が存在していた。

陸路も大坂方面からは天王山と男山に挟まれたこの場所を通るしかなく、言い換えれば都の防御の要であり、豊臣秀吉と明智光秀の天王山の戦い、幕末には鳥羽伏見の戦いの地である。鳥羽伏見の戦いで、伏見やこの地は火災に巻き込まれる。

展望台からは、遠くに京都タワーが見えるが、それが京都市内である。そして北東の方角に2こぶの比叡山がある。すなわち都の鬼門を守った延暦寺があり、その対角線の裏鬼門に男山の石清水八幡宮があるということになる。

山頂に御社殿があり、全体が国宝である。徳川家光の修復である。日光東照宮の欄間彫刻と似ている。三ノ鳥居の近くに一ツ石というお百度参りの起点になる自然石が埋められている。そこから南総門に到る。門内が狭義の境内である。取り巻く築地塀は信長塀と言われ、織田信長の寄進で、塀に瓦が埋め込まれている。本殿の後ろには若宮社、貴船社、住吉社なども祭られている社殿がある。本殿は南総門からの参道とちょっと外した向きに建てられているのが面白い。

この本殿の回廊に架けられている灯籠が、加納夏雄の名作の小柄のモチーフである。
大樹も多く、境内の中にはカヤの大木があり、回廊の西側の外には楠木正成の楠という大樹があり、立派である。

麓には頓宮殿があり、隣りに高良神社がある。山を登るのが大変な人は、ここで参拝したのであろう。その横に巨大は石の五輪塔がある。鎌倉時代建立とされるが詳細はわからないようだ。また頓宮を抜けて一ノ鳥居の横に放生池があり、蓮が咲いていた。

清水寺 成就院 CONTACTつなぐ・むすぶ・世界のアート

昨日、法事で京都に出向いていたが、朝にホテルのTVで、標記の催し物が9/1~8までの間に清水寺で開催されているというニュースが流れた。京都で開催されている芸術に関する国際会議に連動した催事のようだ。
そこで展示されている芸術はともかくとして、普段は非公開の成就院が公開されていると聞いて、急遽、タクシーで出向く。
当日券は1800円で、成就院と経堂で催事は開催されている。また西門には門に提灯がぶら下がっているように加藤泉の作品が掲げられている。
初日のせいなのか、はじめての開催のせいなのかはわからないが、多くのアルバイトのスタッフがいたが、手際が悪く、腹が立つ。チケットの販売所、成就院のそれぞれで長蛇の列で、成就院の中での茶室の入室は8人までだからとして、成就院に入ってから40分後の整理券を渡される。この茶室では森村泰昌のゴッホの映画が上映され、宮沢賢治の「雨にも負けず」の手帖が展観されているとのことだが、法事の予定があり、キャンセルした。
経堂も、そこで40人程度が入室しての音楽ライブに映像というものがあるとのことだが、出向かなかった。目的は成就院の庭である。

成就院の庭は池に石を多く配置し、松や紅葉などの多くの木々を植えている庭園だが、山の斜面を利用して、加えて各植木(密集した枝葉を持つ)の上面をカットするような植栽技術で7~8段くらいの段差を演出していて面白い。遠景には建物は見えずに、高い樹木がそびえる空である。深山幽谷を意識したのかもしれない。月見に良さそうな庭である。
成就院の縁先から眺めるのに丁度良いような広さである。多くの木々の緑の色彩の階調が美しい。池の周り、池の中の石も様々に変化があり、コンパクトで整理・計算された良い庭である。自然を人工的に加工した、あるいは庭師の作意を自然も利用して表現したような庭である。

なお、縁側には三嶋りつ恵の「光の目」というガラスの玉を多く配置している。また床の間にミヒャエル・ボレマンスの墨で軸装された「くちなし(2)」という作品と、ルーシー・リーの「マンガン釉を施した台鉢」があり、横にマティスの「ばら色のドレスを着た婦人」の油彩が懸かっている。この絵は専門家に洗ってもらうと、もっと色彩が鮮明になるのではないか。

また棟方志功の襖絵「群鯉図」が襖のように室と室の間にセットされて展示されていたが、寺に合うような作品ではない。鴨居の上には猪熊弦一郎の「無題」(マティスのようなダンスの絵)が掲げてあった。

このように違和感も感じるように置くのが、演出した原田マハ氏の狙いであり、それは驚きも感じさせていいのだが、昔から美術品を置くべき所(床の間、襖絵、鴨居の上)にあるのはいいのだが、床に置いた机の上に河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、ロダンなどの作品が並べておいてあったり、小津安二郎の絵コンテ、手塚治虫のブッダの原画、川端康成の原稿に東山魁夷が挿絵を入れたものなどが廊下や室に置かれているのは成功とは言えない。照明も悪いし。

清水寺の舞台は改修中であり、それでも、こちらに入る時は別途料金が必要とのことである。京都の親戚も「清水はんは、ようけ取らはります」と言っていた。

昔を思い出して、清水寺から三年坂、八坂の塔、下河原、円山公園、知恩院、青蓮院から、法事のある蹴上の仏光寺まで歩く。