「アウトローと呼ばれた画家 評伝 長谷川利行」吉田和正 著

長谷川利行の評伝である。伝記的な部分や、長谷川の奇行のことなどは、これまで読んだ本や画集の解説記事などと同様だが、長谷川の謎の青年時代(京都時代)のことをよく調べている。またこの時に熱中していたのが歌であり、その歌の整理などはうまく書けている。
本は次のような章立てになっている。「1.空白と謎にみちた少・青年時代」「2.生きることは絵を描くことに値するか」「3.無頼と奇行」「4.天城画廊と長谷川利行」「5.行路病者・長谷川利行・胃癌」「6.利行の死と作品の急騰」である。

「1.空白と謎にみちた少・青年時代」では、父方の祖父軍二は58の歳に淀藩に6石5斗2人扶持で召し抱えられる。この石高では軽輩の下士である。俳句を嗜む風雅な人で和歌山に縁があったようだ。父は利其で伏見警察署に勤務しており、利行を偏愛したようである。
なお長谷川家の長男利一は数学、スポーツが得意で、利行の前に和歌山の耐久中学に入り、人目をひく男だったが、早くに亡くなる。もう一人の男子も夭折する。母は淀藩の御殿医の血をひいていた。
利行は、早くから書物に親しみ、父から可愛がられる。淀下津町の高等小学校を出て明治40年に兄の通っていた和歌山県湯浅町の耐久中学に入学。
当時、利行は水彩画を習っていた。師は当時の水彩画界では高名な大下藤次郎である。また文学や詩に親しんでおり、中学時代に同人誌を発行している。しかし理由は不明だが中退する。失恋したからとも噂される。
それから29歳で上京するまでが謎である。水彩画を習って、どこかの学校に通う。大下藤次郎が急逝後に水彩画を離れる。なお当時の長谷川には妻子があったとも言われている。幾人かの証言と、長谷川の短歌からも妻子の存在が窺われる。
大正8年に雑誌に短歌を投稿して所載される。特選の常連となる。京都市内を次から次へと転居。歌人の生田蝶介が選者であった。当時の短歌は、繊細で澄んだ心の動きを抒情的に調べ高く歌いあげたものである。そして大正8年に『木葦集』という私家版の歌集をだす。
大正9年に生田蝶介を頼り上京。小説も書くが評判を得られなかった。後に生田氏と訣別する。
大正12年に関東大震災に遭遇する。この時の短歌がある。
絵は新光洋画第1回展に「田端変電所」が入選。時に32歳であった。

以降から第2章以下になるが、昭和2年の第14回二科展で樗牛賞を受賞する。この時に強く推奨したのは正宗得三郎や有島生馬などである。なお当時の画壇の中では里見勝蔵や熊谷守一は利行の才能を認めるが、梅原龍三郎、安田靫彦などの多くの画家は嫌っていた。
ここから、貧困と無頼に流れ、酒乱と奇行の13年の画家人生が始まる。1930年協会奨励賞を受賞する。
一方で絵の押し売りをしているなどの評判も立つ。この頃に矢野文夫と親交を持つ。矢野と中学同級の熊谷登久平(画家、後に断交)とも知り合う。矢野とは深い付き合いになるが、後に矢野の背広を無断で質に入れてしまい、一時期疎遠となる。しばらく後に手塚一夫とも一時期同居するが愛想をつかされる。長谷川の才能を認めても、生活態度などから付き合っておられないのだと思う。
また靉光などと知り合う。画家仲間(大野五郎、寺田政明、井上長三郎)との交流もある。

高崎正男こと天城俊彦は作家志望の男だが、売れず、壮絶な人生を送っていた。ただ高崎は長谷川の絵を認め、長谷川の絵を売ることに努める。後には長谷川を監禁するように絵を画かしたと悪評も立つが、長谷川の才能を認めた男である。

利行のパトロンには医者が多かったと書いてある。父が逝去後、長谷川も胃癌が悪化して路上で行き倒れる。そして昭和15年に東京市養育院に収容され、逝去する。
最期まで大事にした行李も処分され、遺骨は高崎正男が引き取るが、東京の空襲時に飛散する。しかし後に高崎の夫人がその一部(空襲後に高崎が拾い集めたもの)を保管していたことがわかり、菩提寺に埋葬。

「利休のかたち」展 於松屋銀座店

副題に「継承されるデザインと心」「松屋創業150周年記念」とある。千利休が使用したと伝承がある茶道具を展示して、その利休型とでも言うべき道具類を伝統を守りながら今に伝えている道具職人(千家十職と称されているが、この展示では茶碗の楽家、釜の大西家、漆芸の中村家)の道具類を展観している。

千利休の好みは”冷凍寂枯”とも称されているが、地味で優しい感じのものが多い。織部好みの”破調の美”、小堀遠州の”自然な雅”とは違う。なるほどと思ったのは千家再興を許された三代少安の子宗旦の道具も展示されていて、それは更に”寂枯”を追求しているように感じたことである。千家再興という意識が強かったのであろう。ただし宗旦の時代は、織部、遠州に続いて「姫宗和」と言われる金森宗和の時代に移っており、流行遅れになっていったのだと思う。楽茶碗の方は長次郎の作風から、少し華やかなものに変化している。

国宝の茶室待庵の映像や簡単な材料で復元したものが展示されていた。この復元はチーピーなものであり、展覧会のぶち壊しであり、無い方がよい。

赤楽茶碗の「白鷺」や黒楽茶碗の「万代屋黒」などの初代長次郎の作品は小ぶりで感じの良いものだ。
棗も優しい形の漆黒なものは、どこにでもあるようなものだが、何か惹きつけられるところがある。

創業150周年記念というほどには力が入っていない展覧会である。茶道具の展覧会は先年国立博物館でも開催されており、そういうのを観ているだけに内容の薄いものと感じた。美術と言うより茶道関係者に観てもらいたいという展覧会なのだろう。入口で和菓子付きの抹茶サービス(1000円)の受付をしていた。見ると会議室のような机を囲み、そこに客が10人以上座って茶が運ばれるのを待っていた。茶道の雰囲気もまったく感じられないもので、馬鹿にしている。デパートの外国人客の取り込み策であろうか。

「天下統一とシルバーラッシュ」本多博之 著

信長、秀吉、家康という中央政権が出来たことによる経済面への影響をまとめた本である。経済を動かす血液が貨幣であり、当時は銀が東アジア市場では統一貨幣だったわけである。

銀算出の中心が石見銀山であり、本格的な産出がはじまったのは大永7年からである。博多商人の神屋寿禎が関与する。精練技術の灰吹法は明から朝鮮をへて日本に伝わる。。石見銀山は16世紀半ばから17世紀前半が最盛期であり、ここでの産出・精練技術が日本各地に伝わる。

この銀が東アジアの貿易構造を変える。それまでのヨーロッパ人の交易は胡椒とキリスト教布教が中心であった。天文8年の大内氏遣明船が銀の使用のはじめで、同じ頃に朝鮮に銀を持ち込み、綿布を持ちかえる。博多商人が関与。中国商人やポルトガル商人の日本来航を促し、後期倭寇の活動が活発になる。西国大名は独自に貿易する。

折しも鉄砲が普及する。この為の火薬原料(硝石、硫黄)は輸入品であり、これを輸入する為に銀が重要となる。他に生糸、綿なども銀で輸入された。

京都に於ける金銀の流通は永禄の終わりから元亀年間を転換点として天正年間の前半に一挙に拡大。金を装飾に使ったり、唐物の蒐集に使う

織田政権は法定枡(京の十合枡)を天正2~3年頃に登場させる。米穀量に基づく石高が、種類によって価値が異なる銭額に基づく貫高よりも、知行宛行や軍役賦課の権力編成の価値尺度に有効と考える。(福建地方からの中国渡来銭の供給途絶もあるか。)

信長は金と銀の通貨としての使用を、銭との換算基準を示して公認。秀吉は重量と品位を政権として保証する法貨を天正15年から鋳造・発行。
文禄年間に米との相場が立つ。朝鮮出兵で米が必要になり、全国の流通網もできてくる。

そして秀吉は長崎を直轄領とし、海賊停止令を出す。
中央政権がない時は、大名・国人、商人は個々に主体的に経済活動。領国を越える船舶の安全保障に海賊がいた。見返りに通行料を払う。大名は国人に一定量の運上を収めることで鉱山経営の権利を保証される。戦国末期から織田政権下に金銀の国内流通は急速に活発。金を含め、貿易品も国内に流入。日本経済は東南アジア経済と連動する。

秀吉の統一政権は外交権の再統一をし、天正16年に海賊停止令を出す。天正15年に長崎を直轄にして輸入品の先買権を行使。日本人の海外渡航は禁止しない。朝鮮出兵は物流の一元化が進むきっかけとなる。

豊臣政権は国内の金銀鉱山の開発を積極的に進め、諸大名の鉱山領有を認めつつ、生産物の一部を上納させる。文禄・慶長年間に金銀の社会浸透が進む。大都市では年貢米が売却されて金銀に換金される貢租換金市場となる。各大名は鉱山があれば収奪を強化、無い場合は九州大名などは海外、フィリピン貿易でまかなう。政権は朱印状で制限し、ルソン壺の独占購入などの貿易政策をすすめる。5大老の体制下では徳川家康が外交権を掌握していく。
関ヶ原後に徳川による国内主要金銀鉱山の接収。家康は慶長6年に慶長金銀を鋳造。金貨は武田の甲州金の四進法(両、分、朱)を採用。甲州出身の大久保長安の影響か。

慶長14年に平戸にオランダ商館。銀が輸出され、主にアジアの生糸などが輸入。寛永12~18年には銀が大量に輸出され、幕府は銀輸出を抑え、銅や小判の輸出を認める。応益には灰吹銀(高品位)ではなく丁銀(品位80%)の使用を命じる。キリスト教の禁令強化の中、通商は縮小、朱印船貿易は減少。寛永12年に日本人と渡航と帰国が禁止。寛文8年幕府は銀の輸出を禁じる。寛文11年には中国舟には丁銀の輸出を認める。寛永通宝が広まり、近世三貨制度が成立。

「佐藤優子 ソプラノリサイタル」於紀尾井ホール

昨夜、妻と標記のリサイタルに出向く。地元の隠れた文化人である知人の推奨である。
第1部は佐藤氏がロッシーニ、ベッリー二、ドニゼッティ、ヴェルディの作曲した歌曲を2曲ずつ歌う。歌曲の歌詞は翻訳されて舞台両脇のスクリーンに表示されるが、愛をテーマに恋しい思いを歌ったり、揺れ動く自分の心境を歌い上げるような歌だったと記憶している。同じような調子の歌が多いと感じるが、歌声は声量もあり、高音部とはこちらの耳が震えるような感じがし、自宅でCDで聞くのとは大違いである。ベッリーニの「私の偶像よ」という曲が短いが曲調が違い印象に残っている。印象に残ると言っても音楽に疎い私には音の印象は再現できず、どんな曲かは説明はできない。

第2部はオペラ『ランメルモールのルチア』(ドニゼッティ作曲)から、テノール古橋郷平、バリトン上江隼人の両氏に賛助出演していただき、歌劇仕立てである。
これが良かった。主人公ルチアの感情も歌声に乗せているのか、心に響く。耳に響くだけでなく、心も響くのだ。
長時間、主人公の感情が伴う動作を行いながらの歌唱であり、また座ったり、寝たりしながらの発声などは技術的にも体力的に大変なのだと思う。アンコールの拍手は鳴り止まないが、私も拍手はしても、他の会場の演奏時とは違って「お疲れさま、もう歌わなくてもいいから、本当に良かったよ」との気持ちである。
そういう歌唱の技術だけでなく、気持ちを乗せての歌唱であり、見事だと感心した。以前に妻とオペラのDVDを家で10作品以上観たが、全然印象が違い、帰りに「今度、生のオペラを高い金を出して観に行くか」と語り合う。
今回のオペラは場面の一部分だけを抜き出したものだが、全体のストーリーは「ロメオとジュリエット」のように、対立する家の姫と王子が恋に落ち、悲劇に繋がるという物語である。家でオペラの作品群を観た時もテーマは「愛、恋」ばっかりだと思ったことを思い出す。日本の歌舞伎では、愛、道ならぬ恋もあるが、主君への忠義、関係先との義理立て、親子の情、金銭のしがらみなどが入り込む。もっともオペラにも、このようなものがあり、当方が知らないだけなのであろうか。

テノール古橋郷平、バリトン上江隼人の両氏が掛け合うように歌うところも良かった。またピアノは今回のリサイタル全てを服部容子氏が演奏されたが第2部のオペラの場面ではオーケストラ並みに、その情景にあった音楽を、なめらかに、かつ強弱の付け方も歌を損なわないようにしながらも自信に満ちて弾かれており見事であり、妻が「このピアノの方も凄いわね」と言ったが同感である。

なお佐藤優子氏は平成27年度に五島記念文化賞の新人賞を受賞し、平成29年度新進芸術家海外研修制度研修員としてイタリアで勉強・修業している。このコンサートも五島記念財団(現在は東急財団)が後援している。また過去の五島記念文化賞の受賞者には知られている人としてテノールの錦織健氏、ソプラノの森麻季氏がいる。今回出場の上江隼人氏も受賞者である。佐藤優子氏の今後の大成を期待したい。

「戦争の日本史14一向一揆と石山合戦」神田千里著

この本は私には読み難い専門書で、以下の認識は正しくないことも十分に考えられるから、あくまでも参考程度に読んで欲しい。
一向一揆は一向宗(浄土真宗)を信じる者が権力者に立ち向かった一揆と認識していたが、それほど単純なものではないことが理解できた。一向宗に限らず、民衆は生き延びるために、宗教の持つ病気治療面、寺内特権(諸公事免除、治外法権)などで宗教に頼り、宗教施設のもとに集まる。一方、宗教、宗教施設は集まった民衆を守る為に、また自分の寺社の勢力が拡大するように、その地の権力者とは争わず、その特権を認めてもらうように近づくと言うことである。

宗教は民衆側にあるという側面がある反面、権力者側にすり寄る面がある。それは比叡山延暦寺でも、法華宗でもキリスト教でも同じである。だから従来の親しかった権力者が、新たな権力者と戦う事態になった時に、従来の権力者側に立って戦ったというわけである。
また宗教は昔から寺社内の治外法権的な特権を与えられており、それを守るため、また権力者側からすれば、不都合になった治外法権を制限する為に寺社を攻撃するわけである。

一向宗は加賀を実質支配したり、信長との石山本願寺との争いで有名になっている。
加賀の一向一揆は文明6年(1474…守護富樫幸千代を追放)と長享2年(1488…守護富樫政親を滅ぼし約百年間自治が行われる)にあるが、いずれも時の守護富樫家の内紛において、片方に味方した結果である。守護家の内紛とは応仁の乱の東軍、西軍の影響である。加賀の守護家は力が強くなく、幕府と在地を結ぶ役割を本願寺教団が担うことで守護の肩代わり的な位置を占めるに至ったようだ。

石山合戦は、そもそも本願寺は足利幕府(義昭)と三好三人衆(三好政康、三好長逸、石成友通)との縁が深く、彼等が反信長となったので、本願寺も反信長になったわけである。

なお親鸞の教えを受け継ぐ浄土真宗には本願寺派以外に真宗高田派(下野国高田専修寺)、仏光寺派(京都)、三門徒派(越前)がある。文明6年の加賀では高田派(富樫幸千代方)と本願寺派(富樫政親方)が抗争している。信長の越前一向一揆の掃討には高田派と三門派は信長と一緒に戦っている。
だから親鸞の教え=浄土真宗の宗教の教義には反権力というようなものは無い。ちなみに本願寺派は石山合戦後に蓮如と子の教如が対立し、江戸時代には東西の本願寺に分裂している。

また信長が比叡山を焼き討ちしたり、伊勢長島で一向宗徒を撫で切りにしたことで、信長の反宗教的行動がクローズアップされるが、信長は、比叡山の僧侶や長島の僧侶が堕落し、比叡山では敵の浅井・朝倉に味方し、伊勢長島では信長の敵斎藤龍興も逃げ込んだ時に助けるなど守護不入の治外法権を悪用する佞人凶徒で本願寺門徒の名に値しないと批判して、それを討伐の理由に挙げており、反宗教という言葉でまとめるのは正しくないと書く。

宗教の反権力的役割、民衆の力をことさら一向一揆に求めるのは違うということである。宗教は権力者にすり寄り、庇護を求めるのである。もちろん戦いが始まれば、仏敵とか「進者往生極楽 退者無間地獄」などの宗教的なスローガンで民衆を鼓舞するわけだが。


「ランカイ屋東介の眼」木村東介著

美術商羽黒洞の店主であった木村東介が、生前に展覧会のカタログや雑誌に寄稿した文章を集めたものである。
ランカイ屋とは展覧会屋という意味で、木村が惚れ込んだ画家の展覧会を多く企画していることから称されたようだ。昔の美術商は何人かの金持ちコレクターを客に持つと成り立つという時代に生きており、その当時に値札を付けた展覧会での販売を行ったわけであり、革新的であった。その会場となる当時のデパートの美術部との関係がわかるような記述もある。

このような行動の背景に、美術は一部の権力者、金持ちだけのものではないという木村東介の信念があった。だから当時の画商が、有望な若手画家に、このような客層が好む絵を画かせるようなことにも反対していた。
このような木村東介が惚れ込んだ画家とは、長谷川利行、木村荘八、中村正義、斎藤真一、大島哲以に書道家の宮島詠士である。他にジャンルとして肉筆浮世絵、開国美術なども取り上げている。また岸田劉生、横山大観については思い出を記している。

上記の信念から、開業当初は柳宗悦の民芸に属するものを集めて売ることからはじめる。”奥州げてもの”と称していたようだ。この時代のエピソードとして、古いものを買うと近在に触れたら、古色を落として持参してきてがっかりしたような話を記している。

岸田劉生の項では、東介の郷里米沢出身の画家7人が七渉会を作っており、その世話役が東介で、劉生などが顧問だった関係で面識が出来たことを記している。当時は岸田が率いる草土社の展覧会などは美術界から無視されていたようで、それに反発する劉生の挨拶文を紹介している。今では日本最高の洋画画家だが。
横山大観は上野池の端に住居し、東介は湯島と近所。ある時売った大観の絵を、大観自身がへそを曲げて自分の絵ではないとして箱書きをしない事態になり、東介の知人で大観とも親しい大塚巧芸社社主の大塚稔の仲介で面会して、書いてもらったとの縁などが書かれている。

長谷川利行の絵を扱いはじめたのは東介自身が彼の絵に感動したことはもちろんだが、居合わせた式場隆三郎にも強く勧められたことが記されている。式場隆三郎は山下清を発掘した人物でもある。そして買い集め、昭和18年に日本橋髙島屋で展覧会。売れたのはたった2点。その後戦争が激しくなり、郷里の山形に絵を疎開させていた。幼児のような純粋無垢な絵として評価している。

木村荘八は江戸っ子らしい気風と絵で、庶民の声が聞こえるという。中村正義は日展に自作が師の中村岳稜から出展を止められると、日展を脱退し、不羈奔放な形と色の作品を発表した画家である。斎藤真一は瞽女を描いたシリーズで今では有名だが、当初は画題に瞽女は画商から厭がられた。大島哲以も既存の展覧会では賞をもらえていなかったが、素晴らしく、山本丘人も高く評価していた。ただ画題は売れるような綺麗なものではなく、縁起の悪いタイトルのものばかりだった。
要はこのような画家を主に取り扱った反骨の画商だったのだ。立派なものである。

なお肉筆浮世絵は浮世絵が版画で数多く出回るのに対して、肉筆浮世絵は少なく価値があがるはずだということ。開国美術とは江戸時代後期の西洋画の影響を受けた画家の作品である。川原慶賀、西川如見、司馬江漢などである。宮島詠士とは米沢に生まれ、勝海舟に学び、中国に渡り、書家の張廉卿に学び、帰国後に東京帝国大学文学部講師や自宅でも教え、人類平等の理念を持っていた。この書に惚れ込んでいる。

「放水路落日-長谷川利行晩年-」矢野文夫 著

画家:長谷川利行の晩年を小説仕立てで書いた小説である。二科会で樗牛賞を受けて天才画家と言われたが、二科会の中でも長谷川を支持する人は少なく、絵も売れずに困窮する。もっとも絵が売れないのは、当時でも、また現在でも多くの絵描きに当てはまることだが、実家からの援助も無く、加えて少し金ができると呑んでしまったり、周りの人も一緒に飲み食いをしてしまう生活態度である。晩年は金が無く、服装は汚く、金を得る為に絵を押し売りのようにして売っていた画家の姿が描かれている。

この小説では長谷川利行は本名で登場する。主人公は図案デザイナーの五味昌助。実在する人かはわからないが、著者の矢野文夫(長谷川と親交があった)の体験を五味に仮託して小説仕立てにしているような気もする。
五味も無頼で、酒が好きで飲んだくれて女と同棲するような男だが、長谷川の才能は買っている。お互いに金が出来ては、その日の内に呑んでしまうような生活をしている。

なお、著者の矢野文夫は詩人で絵も書き、新聞記者にもなり、晩年は美術雑誌の編集も手がけている。小説の中の長谷川の人となりは、飲んだくれの中に純なところがあるように書いている。時に長谷川の実績を知っている医者などが登場し、絵を買うが、一度、買って貰うと押し売りのように出向いて、絵を買ってくれるまで黙って座っているような生活をする。

晩年は本人は胃潰瘍と思っていたようだが、胃ガンで衰弱して三河島の救世軍宿泊所から養育院の病院で亡くなる。この時に五味が見舞いに行った時の描写も長谷川の無念さが伝わってくる凄まじいものである。なお、病院の規則で身よりのない病人が亡くなると、所持品も燃やされることになっていて、長谷川が大事にしていた作品やスケッチブックがはいった行李も燃やされてしまう。

晩年には高崎という男が画商天城として登場する。長谷川の才能は買っているのだが、軟禁状態で絵を画かせて、展覧会をして儲けるような人物である。長谷川の絵の価格を上げるという情熱も持っており、本当の悪人ではないように描写されている。

この小説の中の長谷川利行の人物像が、小説とは言え、事実であると認識されて、美術の評伝などに引用されているようだ。

なお表題の「放水路落日」の意味は読了してもわからない。本文の中に放水路が出ていたのかもしれないが、まったく印象に残っていない。

「怪しい戦国史」本郷和人 著

歴史学者にしてやや軽い文章を書き、TVにも出演している本郷氏の著作である。産経新聞に連載中の「本郷和人の日本史ナナメ読み」から加筆、修正したものである。だから読みやすいが、一話ごとにテーマが異なる。新聞連載とのことで文字数が限られているから、中には連続して二話にわたるものもある。
それら小話を大きく7つの章に分けているが、章と中味の関連が薄いものもあるが、なかなかに興味深い逸話も紹介されている。

これは本郷氏の独創ではないが、戦国当時の領地石高から、戦国武将の動員力を推計し、それから古くから伝わる物語の中の兵力を検証している。百石について3人~5人の兵役義務が通常だったようだ。だから1万石なら300~500人の動員兵力が妥当となる。これから川中島に動員された兵力などが検証できる。

また当時は大名に属する家臣が一家として自分の郎党を連れて戦いに出向く。すなわち自分は馬に乗っての騎乗の武士、郎党には鉄砲、槍などを持たせての参戦。だから、それを鉄砲部隊、槍部隊という兵種別の編成に引き離されるのは難しかったことになる。戦国大名自身が旗本として、それら要員を抱えれば兵種別部隊は可能となる。

秀吉は軍の行軍速度で山崎・天王山の戦い、賤ヶ岳の戦いで勝ってきたが、小牧長久手の戦いでは失敗した。
福島正則は暴れ者というだけのイメージは違うのではと提起している。秀吉も武辺一辺倒では評価しない武将である。親戚ということもあるが、それなりに能力が高かったのではないかと推測している。

最近、歴史学で言われはじめていることに対しても著者なりにコメントしている。関ヶ原後も大坂の陣までは、公儀は家康と秀頼の2つという説はとらない。また織田信長は普通の戦国大名の一人という最近の風潮も違うと述べている。

家康が信康の遺児の家(2児の内、姉は登久姫は小笠原秀政に、妹の熊姫は本多忠政に嫁がせる)を大事にした例から、信康を信長の命で殺したことに悲しみを感じていたと述べている。また自分の娘の婚家を大事にした事例(奥平家、池田家)などを紹介している。

徳川家康は文化面で各地から古書を集めたりして貢献している。著者が専門にした「吾妻鏡」も後北条家→黒田家→徳川家と考えられてきたが、家康が全国から集めたことがわかってきている。

藤堂高虎は家康に信頼された武将だが、その信頼度がわかるものとして上野東照宮にある三所大権現の絵に家康、天海、藤堂高虎が描かれているとのこと。

花押は実名の代わりに用いたもので、実名+花押というものはない。

長谷川利行の画集3点

御縁があって長谷川利行のデッサンを入手した。所蔵していた絵画4点を下取りに出す。強く清らかな少年像だが、「東京の落書き 1930’s 長谷川利行と小熊秀雄の時代」展の画集に所載で、そこでは「少女」とされている。妻とも話すが、少女と見えなくもない。そういうことがあり、改めて長谷川利行の画集を3冊紐解く。

長谷川利行の作品には具体的な人物(例えば岸田国士、前田夕暮、矢野文夫、寺田政明、靉光など)を描いた絵もあり、それらは魅力的だが、無名の少年や少女を描いた絵も多くある。私に御縁のあった絵もその中の一枚だが、私が好きな一枚で、凛としたところ、清らかなところ、純なところなどを感じる。

昭和51年2月に日本橋三越で開催された「長谷川利行展」の出品シールも添付されている。この展覧会の副題に「長谷川利行 河野コレクション」とある。河野コレクションとは河野保雄氏のコレクションのことだと思う。氏は福島市の実業家で、音楽評論家でもあり、日本を代表する洋画コレクターの一人とのことだ。いち早く青木繁、岸田劉生、関根正二、長谷川利行などの画家を評価したようだ。ちなみに私はこれら作家は好きであり、関根正二の「三星」の絵(国立近代美術館蔵)は大好きな1枚である。ともかく河野保雄氏が所有されていたものだろうか。

また羽黒洞の木村東介氏の鑑定シールも添付してある。木村東介も独特の画商である。肉筆浮世絵の扱いでも名高い。

長谷川利行の絵は、人物画以外には、当時の東京のモダンな建造物を描いたものや、それら建造物の内部を描いたものなどもある。関東大震災後の復興に心が惹かれたのかもしれない。彼は詩人、歌人であり、関東大震災を歌った歌誌「火岸」も出している。

「生誕100年記念 長谷川利行展 図録」、「長谷川利行画集」が今回観た画集だが、後者の立派な本では長谷川利行を高く評価する画家、画商などが座談会で語り合っている。長谷川は「日本のゴッホ」と言われているが、ゴッホよりいいと述べている人もいる。ファンだから、このような言い方になるのだろう。

これら画集の解説の中で、長谷川利行は西洋画で言えばフォービズム(野獣派)だが、表現主義的な画家でもあるとして、日本の文人画の系列なのではあるまいかと述べている一節があり、この評が私の気持ちにも合致する。蕪村、浦上玉堂、鉄斎などの系列なのだろうか。蕪村の京都の夜の雪景色を描いた絵など大好きだが、これら画家の作品は、このように私の感性に合うものと、あまりピンとこないものがある。長谷川利行の作品も、この作品のように自分の感情が揺さぶられるものもある反面、あまり感動しないものもある。こういうのが文人画の特色なのであろうか。

長谷川は金が無い生活をし、絵を買ってくれと押しつけるようなところもあり、そういう状況だから風体も汚く、敬遠する人も多かったようだ。また絵もキチンとしたデッサン力の裏付けのあるものではないが、心打つものがある画家である。

「長谷川利行画集」に掲載の絵では、利行の色が美しい画家と感じる。「生誕100年記念 長谷川利行展 図録」に掲載の絵をみると、色は濁った暗い感じのものが目に付く。早描きの作家なのだが、さらに省筆した絵も掲載されている。「東京の落書き 1930’s 長谷川利行と小熊秀雄の時代」展の画集では、人物画の良いものが収められている。

以下にリンクした画集は私が読んだ画集とは違うが何種類も出されており、その一つとして掲載しておく。


『シリーズ藩物語 福井藩』舟澤茂樹 著

これは「シリーズ藩物語」として、刊行されているものの一冊で、越前福井藩の話である。
藩祖の事績や、代々の藩主のこと、その時々で藩に生じた出来事や、藩の特産品などが書かれていて興味深い。
朝倉氏時代のことは触れられておらず、柴田勝家からのことで、結城秀康以降の江戸時代の話が中心である。幕末の松平春嶽と次ぎの代まで記載されている。

江戸時代は加賀藩への抑えの役割、家格的には秀忠の兄の家ということで68万石の大藩となるが、秀康の子忠直の時に「越前騒動」(久世騒動)という重臣間の御家騒動がある。秀康は武功の士を求め、それらを高禄で召し抱える。その結果55万5千石を家中の給地で12万5千石が秀康の蔵入地という構成になった。万石以上の家来が7家もあるという状況である。こういうことが御家騒動の遠因の一つである。

また忠直が大坂の陣の恩賞の不満などから生活が乱れ、豊後に配流になる。そして50万石になり、徳川綱吉政権時代に藩主の問題から「貞享の半知」と言われる事態(25万石)になる。
「貞享の半知」は藩全体の知行削減だが、寛文時代から藩財政が逼迫して、藩士の知行が実質的に削られていく状況も記されている。
そして、福井藩は将軍家から養子をもらうことで、藩財政を持参金で補填するようになる。幕末の松平春嶽も、田安邸で徳川斉匡の8男と生まれ、11歳で越前家を継ぐ。春嶽は中根雪江(側用人)、浅井政昭(側向頭取)という藩主に直言して諌止するような家臣を登用している。医術も盛んであり、藩として種痘をやったことも知る。

国立近代美術館 通常展

昨日、妻と出向く。先週まで鏑木清方の「幻の《築地明石町》特別公開」で非常な混雑だったようだ。この日は「MOMATガイドスタッフ」によるギャラリー解説に参加する。この解説は、スタッフからの一方的な説明ではなく、そこに参加した人からも意見を聴取するようなもので、こういうのも面白いと感じる。
ただ、私もそうだが、美術に詳しい人から、そうでない人まで参加した人が勝手な意見を言うわけだから、意義を感じない人もいるかもしれない。
そういう形式だから、一つ一つの作品に時間がかかる。今回は菱田春草の作品で明治天皇が愛されたという「雀に烏」の屏風と、写真家の奈良原一高の「無国籍地から」の一連の写真作品と、菱田春草の「蟻」(正確な題かは自信が無い)の掛け軸の3点の作品だ。
「蟻」の作品を紹介する前に、参加者一人一人に蟻の絵を画いてもらう趣向である。私も画いたが、正確には画けない。菱田春草がある人から絵を頼まれたのになかなか画かない。そこで注文主はせめて蟻の一匹でも画いてくださいと言ったら、春草は本当に蟻を小さく一匹画いたという逸話のある掛け軸である。一流画家が常日頃からデッサンを行っていることを、我々素人に画かせることで教えてくれたようだ。

奈良原の作品は廃墟の中で、三角形、四角形、円形などの幾何的な模様が出たところを写真に撮り、そういうことで、どこの国の写真かなどをわからなくしているから「無国籍地から」という表題にしているのであろうか。参加者各人が、作品群の中から自分の好きな1枚を選び、それを選定した理由を述べるというスタイルであった。

「雀に烏」は烏と雀に柳を描いたものである。烏が一羽、中段のやや下部の柳の枝に止まり、寂しげな絵である。明治天皇はこの孤独に共感を感じたのであろうか。柳は老木で、よく見ると細かく色を塗り分けて巧みである。柳の枝は冬の為か葉も無いが、新芽は画かれている。そこに雀がたくさん止まっている。飛んでる鳥はいなかったと思う。

通常展であるから、何度も拝見している絵が多い。だけど名品であり、良い美術館だと思う。中村彝の「エロシェンコ像」、岸田劉生の「自画像」、松本竣介の「Y市の橋」など良い絵である。日本人の作品だけでなく、マティス、セザンヌ、ブラックなどの名品も展示されている。
フジタの戦争画も展示されている。自分の技倆を誇っているような絵である。
今回の展示では、工芸品も展示してあるのが変わったところである。近くの工芸館が金沢に移転する為であろうか。

「レンズが撮らえたオックスフォード大学所蔵幕末明治の日本」フィリップ・グローヴァー著 三井圭司編

オックスフォード大学付属図書館に所蔵されているピット・リヴァースのコレクションから幕末期の日本の写真を紹介した本である。
日本人の肖像写真、日本の風俗、日本の景色などの写真である。横浜で観光客用に売られていた写真もある。当時は白黒写真であるが、それに手彩色しているものもある。
肖像写真には第一回遣欧使節団や第二回遣欧使節団のメンバーで名前が判明している人物もある。有名人では福澤諭吉がいる。着物の正装姿で大小を差している写真である。大小を見ると、大と小をまったく同じ刀装にしている人より、違う人の方が多い。柄糸は白黒写真だから判然としないが、大が白、小が黒の柄糸もある。ワイシャツ、蝶ネクタイの上に着物を着ている写真もある。
他に有名人の写真として徳川慶喜のがある。
女性の写真もある。パリ世界万博の日本茶室で働いていた女性とのことだ。琴を弾いたり、人力車に乗ったりの女性もいるし、今でも美人と思える若い女性の写真もある。
また日本の風俗として、鎧を着たり、火消し装束の武士もいる。切腹を申し渡された時の様子を演技しているものもある。
町人も雑技団のメンバーが写真に写っている。見事な刺青を着色した人物もいる。
風景は富士山、銀閣寺、金閣寺、鎌倉の大仏、伊香保温泉、亀戸天神、堀切菖蒲園、清水寺、四条大橋、石山寺、祇園、奈良明日香の遺跡などや考古の出土品のもある。またアイヌ人を撮ったものもある。写真を撮った人の関心が趣くままである。

「国宝ロストワールド」岡塚章子、金子隆一、説田晃大 著

この書は、明治の写真の黎明期に、日本の仏像、建築物などを被写体として写真家の作品を紹介している。こういう写真が残っていたおかげで、沖縄の首里城や法隆寺金堂壁画の再建もできたわけである。

当初は記録的なもの、日本の観光みやげの写真だが、芸術的な写真も登場するようになり、その経緯も面白い。

全部で33の写真である。写真家としては横山松三郎(日光や法隆寺夢殿、東大寺大仏、名古屋城天守閣など)、フェリーチェ・ベアト(長谷の大仏)、日下部金兵衛(東大寺大仏殿)、アドルフォ・ファリサーリ(知恩院三門)、小川一眞(法隆寺の釈迦三尊像、興福寺無著菩薩立像など)、光村利藻(彦根城天守閣)、工藤利三郎(興福寺阿修羅像など)、鎌倉芳太郎(首里城正殿)、小川晴暘(中宮寺菩薩半跏思惟像、新薬師寺跋折羅大将像など)佐藤浜次郎(法隆寺金堂壁画)、佐藤辰三(観心寺如意輪観音菩薩像)、辻本米三郎(神護寺薬師如来立像)、大八木威男(高松塚壁画)、坂本万七(法隆寺五重塔北面侍者像)、土門拳(神護寺薬師如来立像、平等院鳳凰堂夕焼けなど)、入江泰吉(東大寺戒壇堂広目天像、秋深き法起寺など)、藤本四八(薬師寺薬師如来坐像の足裏)、渡辺義雄(唐招提寺講堂内部の天井)である。

私はアドルフォ・ファリサーリの知恩院、小川一眞の無著菩薩立像、小川晴暘の中宮寺菩薩半跏思惟像、新薬師寺跋折羅大将像、辻本米三郎の神護寺薬師如来立像、坂本万七の法隆寺五重塔北面侍者像、土門拳の神護寺薬師如来立像、入江泰吉の東大寺戒壇堂広目天像の写真が好きだ。
被写体の素晴らしさ、その素晴らしい魅力を引き出した写真家の目、技術に感服する。

なお本文の中で、著者が主な写真家の技術的系譜や技法などを記して、日本写真史になっている。

「考古学が解き明かす古代史」古庄浩明 著

考古学者が書いた日本の古代史(弥生時代~壬申の乱)である。水田遺跡としては佐賀・菜畑遺跡で山ノ寺式土器と一緒に発見されたのが古い。紀元前300年頃か。稲は中国の長江の中・下流域が起源で、朝鮮半島経由か、あるいは海を越えて直接来たかである。青森県砂沢遺跡から水田跡が発見されるなどの結果、稲作は急激に広まったと考えられる。

日本では銅と鉄が同時期に伝わり、青銅器は主に祭りに使われる。島根県出雲市斐川町神庭西谷の荒神谷遺跡で中細形銅剣が358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見。近くの加茂岩倉遺跡でも銅鐸39個が発掘。出雲勢力はその後青銅器の祭祀を放棄して、方形の墳丘の四隅を突き出させる四隅突出型墳丘墓を造る。次の段階で近畿では古墳文化が起こる。近畿の古墳には吉備地方の特殊器台や九州の鏡を埋納する儀礼も取り込んでいるから、近畿と各地方のつながりが想起される。

金印については真偽論争がある。邪馬台国論争で近畿説では卑弥呼の墓を箸墓古墳とし、纏向遺跡を邪馬台国とするのが一般的だが、著者は中山大塚古墳が一番上の河岸段丘にあり、特殊器台が出土しているし、近くの黒塚古墳(天理市にあり、33面の三角縁神獣鏡が出土し、盗掘穴から三世紀代の庄内式土器が出土)が卑弥呼を補佐した男弟の墓と考え、次のトヨが箸墓古墳の主ではなかろうかと推測している。

古墳時代とは3世紀中頃から7世紀末頃までである。各首長は身分秩序に応じた古墳を造る。前方後円墳で古いのは箸墓古墳。

鉄製品は朝鮮の弁辰(加邪)から鉄鋌(てつてい)というインゴットで輸入していた。
東日本には濃尾平野を中心に狗奴国があった。

3世紀後半から中国は混乱。これに乗じて高句麗が勢力を伸ばす。朝鮮では346年に百済が小国連合の馬韓を、356年には新羅が小国連合の辰韓を統一する。南下する高句麗に対抗。ヤマトは南部の弁韓(任那)に進出。高句麗に圧迫された百済は倭と同盟。396年に任那を支配。高句麗で倭と戦ったのが好太王である。

高句麗と戦うことで倭も馬を重視し、都を河内に移す。仁徳天皇などである。4世紀後半は朝鮮半島諸国は中国に朝貢する。倭も中国南朝に朝貢する。413年~502年に倭の五王が計13回朝貢する。
軍事のウェイトが高くなり、各地の古墳からワカタケル大王(雄略天皇)との関係を示す鉄剣が発見される。

朝鮮半島では475年に高句麗が百済を攻め、任那では倭の支配力が後退して、512年に任那を百済に譲渡。新羅も浸食。

倭では王族同士の骨肉の争い。大王に権力が集中し、それを支える大伴、物部などの豪族の力が強くなり、支配層の身分制度が確立する。地方では反発も生まれ、吉備氏が反乱する。武蔵でも争いがある。

越前から継体天皇が入り507年に即位する。527年には筑紫磐井の乱が起きる。
百済から仏教が531年に伝わる。562年、新羅は任那を完全に制圧。百済などからの渡来人が文化をもたらす。

571年の欽明天皇の見瀬丸山古墳が最期の前方後円墳で以降は円墳や方墳。7世紀には八角形墳が大王の墓に生まれる。

589年に中国で隋が統一する。日本は4回の遣隋使。天皇中心の中央集権国家が生まれる。疫病の流行に伴い、崇仏と廃仏の争いが生まれる。
以降は聖徳太子の時代から、645年の大化の改新に到る。663年に白村江の戦いで負け、百済は名実とも滅亡し、新羅が朝鮮を統一する。
672年の壬申の乱と移っていく。

「特別展 人・神・自然 …ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界」於東京国立博物館

先日、「正倉院展」を拝観し、その時に東洋館で開催されている標記の展覧会を観たのだが、この時は予約したレストランからの連絡で観覧を中断した。面白い展示であり、昨日、この展覧会のみ再訪した。これは世間に騒がれていないが実に面白い展覧会である。

エジプト、メソポタミア、ナイジェリア、中央アジア、西アジア、ギリシャ、ローマ、東地中海、中国、メキシコ、グァテマラ、ペルー、南アラビアなど各地の古代に創られた美術工芸品の展示である。出品目録は全部で117点とある。

前2050年頃のメソポタミアの「男性像頭像」は写実的で端正な顔の像で美しい。他に前2000~前1800年頃の「男性像頭部」も展示されていたが、人間らしい自然な造形であった。「容器」として宝石を散りばめた銀細工も凄いものだった。

ナイジェリアのノク文化という前5世紀~後5世紀の「男性像頭部」はアフリカ系の顔立ちの像で目鼻が独特、頭部の頭髪の編み方も印象的であった。当展覧会で一番印象に残ったものである。
エジプト新王国時代のアマルナ文化の「女性像頭部」はエジプトらしく後頭部が長い像だが威厳もある。「化粧用匙」は女性が飛び込みをしているようなスラッとしたものだ。

「バクトリアの王女」は前2300~前1800年頃に中央アジアで製作された小さい全身像だが、衣服の模様が網目のようで手が混んでいる。材質は金と銀だろうか。
古代ローマ(161~175年頃)の「女性像頭部」はまさにローマの彫刻で、顔立ちなどは現代人と同様に写実している美人である。

西アジアの「容器」、「皿」は狩りをしている様子を写した金属器だが、この地域の嗜好なのだろう。西アジアでは前アケメネス朝ペルシャ(前7~前6世紀)の「水差し」は豪華な金属工芸である。

メキシコ・オルメカ文化の「ペンダント」は面白い。また南アメリカではペルーのモチェ文化(2~3世紀)の「ペンダント」は猿のような模様で印象に残る。グァテマラ・マヤ文明の「仮面」は人顔を四角くしており特徴的である。ただ中南米はインカのもののような感じで既視感はある。

アラビア半島南部古代南アラビア文化(100年頃)の「浮彫」は大きな大理石に彫られたデフォルメされた女性半身像のレリーフだが、強い印象を残す。「墓碑」は同様だがより抽象化されているが、その分、面白い。今のイエメンだが凄いものだ。

図録が価値があると思ったが、家に展覧会図録が多くあり、処分を考えている最中であり、断念した。
知る人は知るで、意外と多くの人が観覧に来ていた。

「蘇我氏の古代史」 武光誠 著

藤ノ木古墳を見学し、その埋葬者説の一つに、ほぼ同時期に蘇我馬子に殺害された穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟)と、その従兄弟の宅部皇子(宣化天皇の子)という説があることを知ったので、この本を読む。

この本は蘇我氏の本流の稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代の事績を中心に記述している。古墳時代など古い時代のことは勉強していないから、理解しにくい点もある。加えて馴染みの無い古代の人名(天皇になると名が変わる)や、血族結婚が多い為の関係性の把握にも骨が折れる。

蘇我氏は豪族連合政権時代の大和朝廷の末期(6~7世紀)に栄える。
稲目の頃は大供金村と物部麁鹿火(あらかい)が大連で稲目が大臣だった。蘇我氏は葛城氏に連なる豪族であった。朝廷の財政を預かる役割だった。
仏教が伝来した時に蘇我稲目が家を寺(桜井寺)で仏を祭る。飛鳥の西に欽明天皇の見瀬円山古墳、東に蘇我馬子の石舞台古墳を築く。馬子は積極的に仏教を保護した。

敏達天皇が亡くなり、炊屋姫は子の竹田皇子を王にしたいが幼いので、姫と馬子が中継ぎとして豊日皇子(用明天皇:敏達天皇の異母弟で炊屋姫の同母兄)を大王にする。この時、穴穂部皇子は自分が大王になりたく、物部守屋と近づく。
用明天皇は病気になる。この頃、物部と蘇我が対立する。ここに彦人大兄皇子という第三勢力が大王になることを望む。しかし馬子側の圧倒的兵力を見て動きを止める。
物部側の穴穂部皇子と宅部皇子を討てとの炊屋姫の命令を受けて、馬子が殺す。翌日に宅部皇子を殺す。馬子は穴穂部皇子の弟の泊瀨部皇子に、竹田皇子が成長するまでの大王にすると約束して味方に付ける。
この後、物部守屋を討伐する。そして泊瀨部皇子が崇峻天皇になる。そして新羅遠征計画が立案される。崇峻天皇が蘇我馬子を討とうとしたので、逆に崇峻天皇を暗殺する。
炊屋姫が推古天皇となる。推古天皇は補佐役として聖徳太子(用明天皇の子で厩戸皇子)を起用する。
飛鳥文明がはじまる。古墳の時代から氏寺という大寺院の時代である。607年に遣隋使を派遣する。
その頃、朝鮮半島の高麗、新羅、百済の争いが激しくなり、三国は競って日本に友好を求める。

この後も、蘇我氏を中心に複雑な政治情勢が記述されていく。簡単に記すと、中国大陸の隋、唐の大帝国の成立。それに伴う朝鮮半島の混乱。それが日本の政治情勢に影響する。
一方で、遣隋使として帰国した者が大陸の中央集権国家の姿を教える。
そして豪族連合政権時代から中央集権国家への移行をはじめたのが645年の大化の改新である。それから672年の壬申の乱まで朝鮮半島情勢も含めた激動の時代に入る。

「戦国 戦の作法」小和田哲男 監修

戦国時代の戦いの流れや陣形、かけ声、様々な武器のことなど、戦いに関することを幅広く記述されている。絵での解説も多く、わかりやすい。
石を手ぬぐいを利用して遠心力を増して投げる方法など、なるほどと思う。この方法だと、遠くには飛ぶが、命中率は低くなるが、遠くの敵の集団に投げ込むのには有効だろう。
馬の鎧も、当然にあったことと思っていたが、この本で具体的に知ることができる。狙う方からすれば標的の大きい馬を攻撃するは優先順位が高い。
具体的に、この本では次の章に分けている。「1.戦いの作法」「2.出陣・進軍の作法」「3.裏工作・戦後の作法」とに大きく分け、「1.戦いの作法」では「流れと戦法」「接近戦の武器」「飛び道具」「防具」「馬」「目印」「ケース別の戦い」(ケースとは野外、海上、城郭)として、それぞれを説明している。
同様に「2.出陣・進軍の作法」では「軍隊の働き」「従軍中の問題」などが記述され、「3.裏工作・戦後の作法」では「情報戦略」「戦後の処理」などに興味深いことが書かれている。
時代小説、歴史小説でも書こうと考えている人には参考になるのではと思う。

「日本史の深層」矢作直樹 著

この本は、こういう見方も一理あると言うことを書いているのだが、歴史の時々において、天皇陛下の考えられていたこと、天皇陛下の行動が多くの局面で正しかったという視点が強く出ている本である。具体的に言及されている天皇陛下は明治、大正、昭和という近代の陛下である。ここまで常に陛下のお考え、行動は正しかったとされると天皇陛下にとっても迷惑ではなかろうか。
人は、考え、行動するに当たり、各人の接する情報によって判断するだろうから、他国の王族クラスの方と接することの多い陛下は、それなりの的確な判断があったことも考えうる。
著者は医学分野において東大教授も勤めたこともあるようだが、このような思想というか考え方を持つ人がいたことに驚く。
即位の礼などでも、多くの人が陛下のお姿を拝する為に集まっている状況を見れば、このような本の愛読者も一定数以上はいると思う。
私も人からは右寄りだと言われるが、この本にはついていけない。

「江戸の家計簿」磯田道史 著

江戸時代の武士、農民、商人や芸人、職人の収入や、食品の物価、料理・嗜好品・雑貨などの価格を現代の価格に換算して示し、その江戸時代の生活実態やリサイクル社会の実情、江戸の出版事情などを記述している。
私も拙著『江戸の日本刀』の「29章 江戸時代の貨幣・収入単位と物価水準、新々刀の価格」で江戸時代の物価を現在価格に換算したが、その時は米の価格などではなく、人件費を比較して1両30万円で換算した。
この本も1両30万円で換算している。江戸時代と現代では嗜好も異なり、製造方法や生産量も大きく違うから、分野によっては1両30万円の換算が合わないこともあるが、それは仕方が無い。
この本は幅広い分野で、江戸時代の物価を網羅していて興味深い。

農民の収支を『江戸物価事典』(小野武雄編著)から示している。耕作面積水田一町歩の農民の例である。米20石、畑作5反でダイコン売上135貫文、麦収穫6石で13両750文(395万円6250円)の収入で、支出は11両で差し引き2両とある。

大工が比較的高収入(年収800万円)であることが記されている。また髪結い職人も月収60万円とのことである。日本橋から吉原までの駕籠料金は500文で現在価格で3万7500円とある。千両役者はほとんどいなかったようだが500両(1億5000万円)程度の年収をとる役者はいたようだ。

また江戸時代は美味として三鳥二魚として、鶴、ヒバリ、鷭、鯛、アンコウがもて囃されたようだ。
雑誌に連載していたものを加筆して出版されたようで、途中、途中に他の人のエッセイが織り込まれている。作家のあさのあつこ氏、シーボルト研究者の宮坂正英氏、発酵学者の小泉武夫氏、歴史学者の北原進氏がそれぞれの分野で記したものである。

帆船日本丸、横浜みなと博物館

自治会の旅行で、標記の施設に出向く。事前に団体予約していたためか、ボランティアのガイドの方がいて、説明していただくが、想像以上に勉強になった。ただし見学時間が十分ではなく、ボランティアの方に説明時間を短くお願いしたために失礼したのではと反省している。

日本丸(これは初代の船で今は2代目が航海練習船として就航)は外から見ると、優美な帆船(重要文化財に指定)であるが、中に入ると鋼鉄製の頑丈な船だ。4本あるマストの傾きを微妙に変えていること、帆船の操舵では大きな舵輪の1回転が1度の進路変更であり、例えば30度と大きく曲がる時は30回も舵輪を廻さなくてはいけないことを知る。

横浜みなと博物館では、横浜という港町が幕末からどのように発展してきたのかがわかり、また横浜港に求められる機能が時代を追って、どのように変化し、それに対応する為に、港の設備・機能をどのように変えてきているかがよくわかった。
ペリーの艦隊の模型もあり、大砲を撃つために、下側の帆は畳んでいること、砲撃の煙でも国の旗が見えるように国旗が大きいなど、なるほどと思う。
港は当初は絹を輸出し、その後、移民を送り出し、関東大震災では横浜が東京以上の被害を受けたこと、そして震災の瓦礫を埋めて山下公園が整地されて作られたこと、そして太平洋戦争で被災など、時代ごとの変遷がよくわかる。
今は豪華客船が着くようになり、コンテナ船はコンテナが18000個も詰めるような大形船が竣工し、その荷下ろしをする為のガントリークレーンの機能がいかに進化して省人数で対応できるようになっているのかがよくわかる。

昼は赤レンガ倉庫内のレストランで食事をして、東京湾横断道の海ホタルに寄って帰宅する。