「大坂侍」「泥棒名人」「けろりの道頓」 司馬遼太郎 著

 「司馬遼太郎全集13 俄 浪華遊侠伝」に所載の3つの短編である。「大坂侍」は大坂人の気質をうまく書いていると言うか、少し極端に描いていると言うべきか、興味深いものである。
 主人公は幕末の大坂の川同心で十石三人扶持である鳥居又七である。同心は一代限りの雇いだが、子を推薦することで代々と家を繋いできている。鳥居の家は長篠合戦で勇名を馳せた鳥居強右衛門の末と称して、他の大坂侍とは違うという誇りを父は持っている。父は病身であるが、鳥羽伏見の戦いで慶喜将軍が大坂から江戸に逃げ帰ったが、幕府の彰義隊が江戸で戦うとの情報を聞いて、息子の又七に参加するように勧める。主人公の又七は大坂侍にしては珍しく剣術はできるが、この時はそこまで幕府に義理立てするのはと一笑に付す。
又七は材木屋大和屋源右衛門の娘のお勢が黒門組の連中にからまれていたのを助けたことにより、お勢に惚れられて材木屋の婿にと迫られている。もちろん大和屋も乗り気であり、
又七の極楽政なる極道の友や、又七の剣の師匠の渡辺玄軒にも縁談がまとまれば50両という金をもらう約束だから、この縁談に熱心である。縁談を斡旋するものも金で動くわけだ
お勢を助けた時に痛めつけた黒門組の連中から又七は狙われる。その用心棒に天野玄蕃という剣術道場主が傭われている。
また又七の妹の衣絵は、従兄弟の具足方同心の田中数馬の許嫁である。

又七は黒門組に襲われる。そこに彼等の頭領の黒門久兵衛が止めに入る。それは玄軒が10両を渡したからである。喧嘩も金でやりとりされるのに又七もあきれる。

大坂城は新政府に明け渡されることになる。黒門組の用心棒の天野は勤皇に取り入る。
又七の父が逝去する。手文庫の中に10両あり、これが江戸行きの費用と父の遺言であるが、又七は妹の結婚資金として手渡す。
その妹の許婚の田中数馬が新政府の天野に幕府の間諜の容疑で捕まる。要は保釈の金目当てである。
又七は天野玄蕃を斬り、玄蕃が持っていた金の内、百両を奪い、船で江戸に向かって、父の遺言のように上野の彰義隊に入ることにして大坂を出奔する。
しかし、彰義隊では仲間も一人もおらず、また大坂の者というと勘定方に廻されそうになり、怒り、大坂侍の悲哀を感じる。
彰義隊の上野の戦いでは、目に見えないところからの弾丸が中心であり、又七は幻滅する。そして大坂の回船問屋の江戸店に逃げ込む。この回船問屋は又七に阿呆なことはやめとけと言っていた。官軍に金を貸しているし、彰義隊を討った大砲の弾はここが運んだものと言う。又七は大坂から出てきて、大坂の商人にやられたようにものと気が付く。
そこにお勢が心配して来ている。孫悟空がお釈迦様の手の中で暴れていたと同様に、大坂の商人の手の中で暴れていたと気が付く。
何事も金の世界という大坂における侍の位置づけを司馬遼太郎は語っている。

「泥棒名人」

五畿内随一の名人といわれた泥棒の江戸屋音次郎(元は江戸でならした泥棒)と、行者玄達と呼ばれて大坂の泥棒名人の物語である。あまり面白くなく、結局は行者玄達に泥棒で負けて女房も盗まれるという話である。

「けろりの道頓」

大坂の安井村の大地主の「けろりの道頓」は頭が大きくて立派な顔をしており、市内を循環していた秀吉の目に止まる。その時に連れていた道頓の愛妾の一人を秀吉の側室にと望まれ、提供する。
道頓は秀吉にあったことに感激しているようであり、また愛妾の一人を秀吉に差し出したことでがっかりしているようだが、表情にはあまり出ないでけろりとしている。御礼に秀吉から錦鯉が来ると、その為に大きな池を掘る。
あるとき奉行から、大坂城下に大きな堀を掘削することを頼まれる。これだけの工事を請け負えるのが道頓しかいないとのことだ。ただ関ヶ原の戦いなどで話は立ち消えになるが道頓が自分で作ると言い出し、自費で工事をはじめる。
大坂の陣で、工事中止を要請され、あっさりと途中で工事をやめる。そして道頓は敗色濃厚の大坂城に入り、死ぬ。
道頓の死後、徳川の大坂城代が、工事を行い、道頓堀と名付ける。
大坂人の一つとして紹介された面白い短編である。

「司馬遼太郎全集13 俄 浪華遊侠伝」 司馬遼太郎 著

 幕末~明治にかけて大坂で活躍した明石屋万吉の物語である。面白い小説である。明石屋万吉の父は幕府隠密の明井采女である。十一代将軍家斉の内命を受けて、大坂の高級幕吏の身辺を探っていたが、家斉が死去した為に復命の機会を失って浪人したという設定である。北野村の百姓の娘を妻として、明石屋儀左衛門の養子となり、名も九兵衛と改める。万吉はその長男である。そのうち、父親は養家を追い出され、一家は乞食同然の身となり、万吉は商家に奉公に出される。そこに父親が逐電したとの連絡が入り、母を食べさせる為に何も考えずに商家を出る。
 仕事も、食べるあても無い中で、違法な賭場を開いているところに飛び込んで、そこにある金を取ることを思いつく。当然に殴られ、半殺しにあうが、それを覚悟で実行する。殴られても一切抵抗せずに、金を奪う。その内、違法な賭場を開いている人間は万吉が来ると嫌になり、「もう来るな」で銭を渡して済ますようになる。万吉は、そこで得た金を母の家に投げ込む。母は当初は誰が金を投げ込むかもわからず、その内、万吉だとわかると泥棒をした金と思い、使わずに保管しておく。
この後、万吉は孝行の鏡としてお上から表彰されるようなこともある。

こんな命を粗末にする稼業をしている中で、存在感を増していく。頼まれたら、仕事の内容を聞かずに受けるか、受けないかを決め、受けると決めたら命を捨てるつもりで取り組むのが男稼業である。
色々な頼まれ仕事の記述が面白い。大坂の米問屋に頼まれて、江戸からの買いで高騰続ける米相場を潰すような乱闘も行う。役人は江戸の業者とグルであり、出頭した万吉は牢内で物凄い拷問を受ける。石抱きや海老攻めなど普通の人では耐えられない責め苦を受ける。それでも依頼主の大坂の米問屋の名前を出さず、役人も感心し、依頼の米問屋から毎年の礼米を受ける。
またある時は、大坂に赴任した幕府の高級役人から、身分の高い幕府の隠密が行方不明になり、恐らく探っていた奉行所与力などに謀られて牢内にいるのではないかとの推測の上、万吉が牢に入ることで助けることを頼まれて首尾良く救い出す。後にこの時の隠密が大坂町奉行に赴任して粛清を行う。

このようにして得た礼(米や金銭)も私腹を肥やすことなく、頼られる人間にばらまき、益々人望を高めていく。幕末の大坂も治安が悪くなり、一柳家一万石という小大名が大坂の川の警備を頼まれ、それを万吉を上士(足軽頭で十人扶持)に取り立てて警備してもらうことになる。この為の費用も万吉持ちであり、番所を賭場にして費用を稼ぐ。武士だから姓名を名乗る必要があり、本姓の明井ではなく、小林佐兵衛と名乗る。
禁門の変後に負けた長州人の取締が厳しくなるが、万吉は川の番所で長州侍を助ける。勤皇も佐幕も無く、大坂の町を守る(往来安全)というスタンスである。桂小五郎も見逃したことにしている。この時、助けた長州人が明治になって、万吉の力になってくれる。万吉の力になると言っても、明治の新政府も万吉の動員力や人望、資金力を頼りにするわけである。

 長州人を助けていることを幕府の役人は知り、万吉を亡き者にしようと画策し、一柳藩の大坂留守居役と謀って新撰組に万吉を斬らすようなことを実施する。この気の弱い大坂留守居役が万吉に藩に代わっての警備を依頼した人物である。武士の情けなさも司馬遼太郎は書いていく。
 鳥羽伏見の戦いでは一柳藩が幕府方につくとのことで、万吉こと小林佐兵衛も戦いに参加し、部下を失う。万吉は後悔すると同時に、この過程で幕府の侍のどうしようもなさを知る。
 万吉は身分性社会の中での幕府、侍の腐敗を知る。同時に万吉が牢に入って助けたような隠密のような侍もいることを万吉は感銘する。

 維新後、処刑されかかるが、万吉が助けた長州侍に刑場で出会い助かる。万吉は賭場の運営から手を引き、困窮するが、昔、助けた者が米相場に導き、万吉は巨利を得る。堺で土佐藩士がフランス軍人を殺し、土佐藩士が切腹する堺事件のことも詳しい。ここでも頼まれ仕事をする。
 禁門の変の時に幕府によって殺された長州藩士66名の霊を商売にしていた人物は、長州系の新政府要人の要請にも商売利用を止めなかったが、万吉が役人に頼まれ、別途、祀ることになる。こんな費用も万吉持ちである。また、新政府の役人によって北区の消防頭にさせられ、また旧幕府時代の「お救い所」を新政府が引き継ぎ、万吉が北区に授産場を建て、家財を使うようなハメになる。品川弥二郎から国会議員の選挙における政敵つぶし頼まれたりする。それが男稼業の明石屋万吉である。

 長寿で亡くなるが、自分の一生は俄(にわか)を演じていたようなものとの万吉の述懐がタイトルになっている。小説だから虚実取り混ぜてあり、どこまで本当かはわからないが関東の博徒とは違う、上方の博徒を描き、司馬遼太郎の傑作の一つである。

「北斎漫畫」永田生慈 監修・解説

葛飾北斎の「北斎漫画」の初編から十五編までを一冊にまとめ、解説を加えた分厚い本(959頁)である。金工村上如竹の馬の姿態が、ここに描かれているかと思い、全ページを概観した。
解説によると、早くから西洋の人に高い評価を受けていたのが、富嶽三十六景ではなく、この北斎漫画だったと言うことだ。
いずれも巧みなデッサンであり、動植物図譜であり、挿絵であり、風景のスケッチであるが、私は人物の動きのある様々な姿態を写し取った絵に感心する。初編、二編、三編によく観られる。四編には鳥の様々な飛翔の姿が素晴らしい。五編は物語の挿絵が多い。六編は武士が弓を引いたり、馬を乗りこなしたり、槍や棒を使っている図など武闘編である。七編は風景画、八編は様々であるが、人物の姿態や顔の様々が面白い。九編は物語絵が多い感じ、十編は市井の曲芸師や物売りに幽霊などである。十二編には精巧な絵や卑猥な絵もある。十三編から十五編は以上の色々なジャンルが交じっている。十四、十五編は北斎没後の編集の可能性もある。全編を通すと、彫りの出来にムラがあり、また計画的でもないと指摘されている。

北斎55歳時の文化11年(1814)に初編が上梓されている。北斎のデビューはこの25年前の安永8年(1779)に勝川春章としてだ。役者絵を中心に幅広い題材を絵として黄表紙や洒落本などの挿絵の分野でも活躍した。そして北斎は寛政6年(1794)に宗理と画名を変える。上方から伝えられた琳派の様式になり、俵屋という画派の頭領となる。流行した狂歌の狂歌摺物に作品が多く、叙情的な雰囲気を持つ。美人画の評価も高い。寛政10年(1798)に北斎になるが文化年代から勇壮な武人など漢画的になる。これは当時流行していた長編小説の読本挿絵として発展する。
この時代に数は少ないが美人画や東海道、あるいは洋画表現を用いた名所絵などもある。
50歳以降、作品は少なくなる。あの富嶽三十六景を上梓したのは天保2年(1831)からだ。
文化7年に絵手本の初作を出す。絵手本は中国からの画譜に影響されたと思われるが、京都では西川祐信、江戸では鍬形薫斎(北尾政美)に多い。
北斎は文化9年に大坂、大和吉野、紀州、伊勢に旅し、名古屋で滞在。この時に北斎漫画の初編の下絵が制作される。この年に江戸に戻るが、文化11年に名古屋の永楽屋から上梓される。二編から十編までは江戸の角丸屋から出版される。後に永楽屋が版本を買い取る。
角丸屋は北斎に読本挿絵を依頼していた版元である。5年で十編まで完結し、角丸屋は版木を文政五年頃までに永楽屋に売却する。
十一編から十五編だが、永楽屋が中心に角丸屋も入れて9の版元の名がある。すべての刊年は不明であるが文政六年から天保四年頃と想定される。

「司馬遼太郎全集11 国盗り物語(後編)」 司馬遼太郎 著

 後編は織田信長の物語となっているが、明智光秀のウェイトも高く、2人の物語である。それは斎藤道三の衣鉢を継ぐのが娘婿の信長と道三の妻の縁戚の光秀という位置づけで、光秀は道三に可愛がられ薫陶を受けていたという設定だからである。
 昔、読んだ時は織田信長中心の物語だったという印象が強かったが、今回、再読すると明智光秀のウェイトがかなり高い。また昔は面白い小説で司馬遼太郎の傑作の一つだと感激したが、今回は前編も含めてあまり感激はしなかった。
 ここで展開されている信長と光秀の葛藤=光秀が謀反を起こす理由は、信長の近代性(中世の伝統を無視して合理的に思考・行動する)と、光秀の古典的教養(古くからの伝統も大事にする)から来るとして、物語をその方向にもっていっている。ある意味で陳腐な説である。

 はじめに信長の少年期のうつけ者と言われた時代を描き、濃姫との結婚、信秀の葬儀の時の態度、斎藤道三との対面が書かれる。古くから知られた話である。
 信長と美濃の間でお勝という娘が元で緊張する場面が描かれる。お勝の言いかわした者が信長の近習に討たれる。信長はその近習を美濃に追放する(実質は道三に頼んで匿ってもらう)が、お勝が美濃に行き、道三の跡を継いだ義竜に訴え、それが美濃と尾張の緊張につながる場面である。その後、道三と義竜は争い、道三が討たれる。
 明智光秀は伯父が道三方につき、美濃から追われる。京都の朽木谷で、都を追われていた足利義輝に仕えていた細川幽斎と出会い、親交を結ぶ。

 信長は桶狭間で今川を破る。光秀は越前に出向き、朝倉を頼るが越前は老大国になっていて光秀が活躍できる余地はない。
 信長は堺と京を見学して視野を広める。その後、信長は美濃攻略を試みるが義竜相手でうまくいかないが義竜は35歳で逝去する。
 光秀は細川幽斎らと足利家の勢威恢復を試みるが思うようにいかず、足利義輝は三好、松永に殺される。そこで奈良で僧侶になっていた足利義昭を引っ張りだし、甲賀の和田家に匿う。その後、越前金ケ﨑城に朝倉家が足利義昭に住居を提供する。
 信長は稲葉山城を攻略すべく、美濃国内に調略の手を伸ばす。木下藤吉郎が活躍する。光秀の足利家再興の悲願は、朝倉家ではらちが明かずに織田家に頼ることにし、光秀は織田家にも仕える。ここから信長の家臣としての明智光秀の活躍が始まる。
 信長は上洛し、将軍の館を京に作るが、光秀は信長に足利家再興などの気持ちが無いことがわかってくる。光秀は煩悶するが、足利義昭の性格・器量を知ると、信長が覇権を握るのが仕方無いと思い、忠勤に励む。
 足利義昭は反信長連合に暗躍する。越前攻め、その最中の浅井の離反での殿軍として木下藤吉郎と徳川家康と協力して窮地を脱する。浅井との姉川の戦い、比叡山の焼き討ちなど光秀も参加した戦いの話が続く。
この間、比叡山の焼き討ちや、浅井長政などの髑髏の杯などで光秀は心の中で信長への反発を強めていく。
 信長は古くからの家臣を追放していく。いつか自分もと光秀は考える。また荒木村重が叛旗を翻した後の荒木一族へのむごい仕打ちに心を痛める。
 謀反前後の光秀の行動や、そこにおける心の動きなどは、司馬遼太郎の小説らしく巧みである。

「渡来人とは何者だったか」武光誠 著

古代史では渡来人という言葉が出てくる。これは歴史学の用語で「飛鳥時代以前に、朝鮮半島から日本へ移住してきた人々」のことである。だから鑑真のように奈良時代に唐から来た人には使わない。

渡来人で有力だったのが、飛鳥地方南部を本拠とした東漢(やまとのあや)氏で、蘇我氏の全盛時代に軍事面で助けて活躍する。
もう一つの集団は京都の太秦を本拠とした秦(はた)氏である。それぞれ始祖は漢の劉邦、秦の始皇帝としているが、嘘である。始祖がいい加減なのは日本の豪族でも同様である。
東漢氏は兵力と技術力で蘇我氏に重用される。仏教興隆策の担い手であった。蘇我入鹿が暗殺され東漢氏は政権から遠ざけられるが、壬申の乱の時に大海人皇子側について戦い、復権する。文氏、民氏、坂上氏などが中央で活躍するが、地方にも出向き、武士になった家も出たと考えられる。

秦氏は蘇我氏の元で大蔵の管理などに携わる。機織りの技術をもっていた。そして山城、近江に勢力を広げる。農地開発でも力を発揮し、秦河勝は聖徳太子の参謀にもなる。山背大兄皇子に近づき、中大兄皇子に接近する。壬申の乱後に中央政界から離れ、桓武天皇の長岡京建設時に協力する。

その他は船氏、西文氏、鞍作氏などが渡来系氏族であった。朝廷の実務を担当する下級役人の地位を世襲していた。明治期に西洋諸知識が必要になった時代と同様である。船氏は高句麗からの国書を読んだことで知られている。津氏、白猪氏も蘇我氏の元での実務官僚。鞍作氏は鞍作りの技術を持ち、仏像も造る。

3世紀の邪馬台国の時代は往来はわずかだが、大和朝廷が北九州を支配下に組み込んだ4、5世紀は朝鮮半島南端の加邪(かや)とは比較的自由に行き来ができ、言葉も共通していた。
6世紀に新羅と百済が国を意識する。600年に新羅が加邪(8国)を併合。678年に新羅が朝鮮半島を統一。

7世紀末に百済が亡び、この時に数千人ほどが日本に移住。百済の官位で上から2番目の「達卒(だちそつ)」の者も約70人ほどいた。兵法、医術、儒学、陰陽五行に詳しい者や漢詩などに堪能な者は知識人として優遇される。秦氏の影響が強い近江国神前郡に400人、蒲生郡に700人ばかりが移住。また東国にも2000余人が移住。
高句麗が668年に滅ぶが、その時に2000人ほどが移住し、常陸や東国(武蔵の高麗郡が中心)に移住する。

大化の改新(645)の後に、唐の制度にならって近代化したが、この頃、漢字も日本古来の豪族も学び、渡来人優位は崩れてくる。その例として、大宝律令制定(701)の編集人19人の内、純粋な渡来系出身者は6人だけ(広く考えると8人)となる。

「名画の読み方」木村泰司 著

この本は西洋美術を理解する上で大事なことが書いてあるが、一通りの西洋絵画の基礎知識が無いと理解するのは難しい本だ。同時に当時の西洋絵画がキリスト教の宗教画がメインであることから、キリスト教の知識(画題の理解)が無いと読みにくい。さらに言うと宗教画のもう一つのギリシャ神話の知識が必要だ。

19世紀までは、絵画は見るものではなく読むものだったと言う。確かに宗教画は、文字の読めない民衆をキリスト教に誘うものであり、絵本のような絵で理解してもらうことが大事だったと思う。
絵画のジャンルを歴史画(聖書などを題材とした宗教画や、神話のストーリーを画いた神話画、抽象的概念を絵で表した寓意画)、肖像画(神が創りたまえた人間を描く)、風俗画(日常生活を描く)、風景画、静物画に分けている。そして、この順が絵画の価値(ヒエラルキー)を物語っていた。だからそれらを画く画家も、この順で社会的地位が高かった。

当時の発注主は高位聖職者や王侯貴族であり、歴史画と肖像画が主になる。歴史画の付属として風景や静物であり、これが生まれたのは17世紀以降となる。17世紀以降に新興市民階級が勃興してきて絵画に対するニーズ、嗜好が変化してきたわけである。
19世紀の民主化と社会の多様化によって絵画のヒエラルキーも曖昧となり、崩れていくわけである。そこから印象派などが生まれるわけで、それ以降の絵画鑑賞と、それ以前は別のものと著者は書く。

宗教画は目で見る聖書。ユダヤ教は偶像崇拝を禁じているが、キリスト教は2次元の偶像崇拝は容認されていた。画く題材は旧約聖書、新約聖書の大事な物語となる。例えば旧約聖書のストーリーでは「天地創造(神が7日をかけて大地や生物を創り、最後に人類を創る)」、「アダムとエヴァの楽園追放(神の命に背き、蛇の誘惑で知恵の木の実を食べ、楽園追放)」などである。

新約聖書では「受胎告知」、「東方三博士の礼拝」、「最後の晩餐」などである。

そして描かれる人物(聖人、神話の主人公)は、それぞれ象徴する持ち物を持って描かれる。それをアトリビュートと言う。日本でも「竹があるから虎だろう」「牡丹があるから猫だろう」となる。

例えばヨハネは鷲、ペトロは鍵、逆十字架、ヒエロニムスはライオン、骸骨などだ。

神話画ではギリシャ神話が元である。ヌードを描く時は神話画が口実になったわけだ。16世紀のローマやヴェネチアは人口に対して娼婦の占める割合が高く、宮廷人を意味するコルティジャーナと呼ばれた高級娼婦が、江戸の花魁のような存在になる。音楽や文学などの諸芸に秀でて賞賛され、女神のモデルになる。
オリンポスの12神もそれぞれにアトリビュートを持つ。ユピテルは鷲や雷電、牡牛や白鳥、黄金の雨などである。

肖像画のはじまりは早く、古代ギリシャからあるが、4世紀にキリスト教が普及すると個人の肖像文化は廃れる。14世紀に復活し、決まりごとは四分の三正面像。全身像は王侯貴族向け、上層市民階級は半身像、職業を表す道具と共に画かれる。16世紀に神話が王侯貴族の間に浸透すると、扮装肖像画もしくは寓意的肖像画が生まれる。アルチンボルドのルドルフ2世がそうである。
17世紀のオランダでは集団肖像画が生まれる。これは記念写真だ。

風俗画は16世紀からフランドル地方で発展し、17世紀のオランダで黄金時代。オランダでは戒めの絵画がはやる。庶民の風俗=悪徳を反面教師としてとらえた。

18世紀のフランスでは雅宴画という風俗画がロココ時代とともに生まれる。上層市民階級向けである。中堅市民階級向けの絵画も出る。バルビゾン派などがそれである。

風景画は、背景としての風景から独立していく。理想的な古典文学のイメージを画いた理想的風景画がはじめである。
17世紀後半からイギリスの貴族がグランドツアーという修学旅行をヨーロッパ大陸に出かける。そのツアーの記念、思い出の絵はがき的なヴェネチアの風景画などが好まれる。

静物画も17世紀に市民階級が勃興したオランダから生まれ、日常生活にあふれるもののシンボリズムで、神秘主義の台頭もある。

国立西洋美術館に行くと、常設展は時代別に展観されている。印象派の部屋までは大半が宗教画、神話画であまり面白くない。印象派の部屋に来ると、一挙に明るくなる。そして20世紀の部屋は抽象画が多くなり、わけがわからなくなる。
私は、別に絵が何を意味しているかなどはわからなくても、自分の心に響くかどうかであるから、この本のような知識を必要としないが、基本知識だと思う。

「司馬遼太郎全集10 国盗り物語(前編)」 司馬遼太郎 著

美濃の斎藤道三の物語である。後編がその娘婿の織田信長の話となる。さて斎藤道三は近年の研究によって、斎藤道三一代で美濃の国主になったのではなく、古文書「六角承禎条書写」によって、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父2代にわたるものではないかという説が有力となっている。

司馬遼太郎がこの小説を書いたのは昭和38年~41年は、この史料が出るちょっと前であり、従来からの通説を使って、道三一代での国盗りとしている。常識では考え難い国盗りだが、小説では女性の力を上手く使うように設定して、説得力のあるストーリーとしている。女性との絡みは司馬遼太郎の読者サービスであり、司馬の他小説でも使う小者(今回は忍者ではないが同様の能力を持つ)の赤兵衛、耳次、杉丸などをうまく登場させて場面を運ぶ。

当初は日蓮宗妙覚寺で法蓮房と名乗り、智恵第一と言われた者だったとの設定からはじまる。寺を出て還俗し、松波庄九郎(北面の武士松波家の一族というのも系図に書いてもらったようにしている)となり、寺からついてきた赤兵衛を家来にして乞食のような暮らしをしている時に盗賊を退治することから小説ははじまる。
その盗賊は京の大きな油問屋奈良屋の隊商護衛隊長を殺していた。それで奈良屋につながりをつけて、奈良屋の若後家お万阿と知り合い、昵懇となる。油問屋を大きくしていくが、商売をやり過ぎて他の油商を敵に回す。当時は油は大山﨑八幡宮が全国の油商に商売許可を出す元締めで油座を形成していた。結局、奈良屋を潰して、新たに山﨑屋となり、山﨑屋庄九郎となる。奈良屋を結局は乗っ取った形になる。ただお万阿は生涯大事にしていた。

商売の間、諸国の事情を探り、美濃に目をつけて、美濃に乗り込む。美濃の日蓮宗常在寺の日護上人は守護代長井利隆の実弟であり、法蓮房時代の弟弟子である。日護上人が兄の長井利隆に推薦し、利隆に信頼され、利隆が仕えている土岐頼芸(現守護の弟)に近づく。
美濃の名族西村家を継いで西村勘九郎となる。この間、山﨑屋の財力を賄賂に活用していく。

頼芸との座興の中で槍の芸(庄九郎は槍の達人)を見せ、頼芸の愛妾深芳野を拝領する。この時、深芳野の腹には頼芸の子が宿っていた。
それから美濃の府城であった川手城を奪い、守護の土岐頼政頼を越前に追い、長井利隆の推薦で、長井新九郎利政になる。
その後、長井家の宗家の長井藤左衛門を討つ。美濃の地侍が立ち、窮地に陥ると元の坊主になると言って道三となる。日護上人がなんとか収めてくれる。

尾張の織田信秀がたびたび美濃に侵入し、これを破ることで美濃の地侍の信頼を得ていく。明智の娘小見の方を、後に正室にするとの約束で養育し、正室にした後に、娘(濃姫)が生まれ、これが織田信長の室となる。明智光秀とも縁ができるという想定である。

土岐頼芸の命で美濃の名族:斎藤氏を継いで斎藤左近大夫秀竜となる。そして自分の城として稲葉山城を設計し、城下町を形成する。当時は武士は常には領地で生活していたが、それを城下町に集め、軍事機動力を高めることを考える。(後に信長が実施)

土岐頼芸の子の小次郎頼秀も反乱するが、これを追い、斎藤山城守利政と改名する。そして頼芸を美濃から追う算段をはじめ、追放する。
尾張から濃姫をもらいたいとの使いがくる。庄九郎も老いを覚えてくる。ここで前編は終わる。

「司馬遼太郎全集9 功名が辻」 司馬遼太郎 著

山内一豊の妻千代と、山内一豊の物語である。織田信長の家臣で50石という小禄で「ぼろぼろ伊右衛門」と異名を持っていた山内一豊が、美濃で評判の美人という千代を嫁にもらって、千代の内助の功もあって土佐24万石の一国一城の主となった経緯を小説にしている。

冒頭は結婚式の当日からはじまる。千代の父は浅井家家来の若宮喜助で、千代が4歳の時に戦死し、母・法秀尼の親戚の不破家で育つという設定である。不破家が母を通して金十枚を鏡箱におさめさせ、これは夫の一大事の時に使うようにと持たす。これが今に伝わる一豊の妻の逸話(名馬を購入)につながる。

伊右衛門こと一豊は、織田家の一つ岩倉織田家の家老の家だったが、信長が岩倉織田家を滅ぼした為に没落していたとの設定である。だから何となく気品のあるような描写をしている。真面目で実直という性格設定だ。

千代は夫を立てながら、するどい観察眼で、夫が良い方向に行動するように助けるという典型的な賢夫人として描かれている。
二人の間には娘が一人しか生まれなかったが、結婚当初に一豊が千代に誓ったことを守って側室も置かなかったという設定だが女忍者との出会いを書く。また一度だけ、千代が側室を進めた顛末も記されている。
なお千代との間の一人娘は長浜城主時代の天正大地震で圧死している。そして捨て子を拾い、養育し、この人物が湘南和尚になり、山﨑闇斎の師となったようだ。

甲賀忍者を登場させて都合良く小説の筋を整えていくのは司馬遼太郎の小説手法だが、ここでも望月六平太を登場させて、この絡みで前述した女忍者との関係が生まれる。

成り上がり者と蔑まれていた秀吉の与力になったのが一豊の幸運の第一歩である。郎党の五藤吉兵衛と祖父江新右衛門と一緒に戦っていく。金ケ崎の殿戦の時に顔に矢が刺さる大けがをするが武功を立てて200石となる。
姉川の戦いでも武功を立てて400石となる。千代の進言で石高以上の家来を傭う。
浅井攻めの横山城の陣でも手柄を立てて1000石となる。長篠合戦にも参加、石山合戦にも参加して2000石となる。この時代の戦闘ぶりは生き生きと書かれている。

この後に10両の名馬を千代のへそくりで購入する有名な物語が入り、一豊の名(評判)が知られる。

そして中国攻めに参加して、ここでも手柄を立てて、敵から名鑓を分捕る。本能寺の変があり、その弔い合戦では功名がなかったが、3000石となり、長浜城番を任じられるが、柴田勝家との戦いの前に、播州に移される。この時、千代の助言で京都に屋敷(実質は諸将の人質)を希望する。千代が政治力を教えるような形である。
柴田方についた瀧川方の伊勢亀山城を攻撃する。一番乗りを果たすが家来の五藤吉兵衛を失う。賤ヶ岳の戦いでも武功を挙げるが3500石になっただけで秀吉子飼いの清正、正則に比較して不満を持つ。

小牧長久手の戦い後に、秀吉の天下が固まった段階で長浜2万石になる。
この頃、京都で千代は唐織の端切れで、色の配合が面白い小袖を作って評判となる。これを無償で気に入った女性に与えてしまう態度であった。日本の服飾デザイナーの嚆矢である。

小田原攻めに秀次傘下の大名として参陣し、山中城攻めでも功を立てる。この後、掛川6万石になる。徳川家康への備えとして秀次傘下の大名が東海道筋に配置されたが、その一人である。

この頃、千代は徳川家康に関心を持ち、次の天下はこちらと思う。一豊は主筋の秀次の元に伺候するのが嫌になる。秀吉に世継ぎが生まれた後に、秀次は乱行に走り、秀吉に誅される。秀次妻女などの虐殺を聞いて、秀吉も耄碌してきたと千代は思う。

千代は、関ヶ原の前に石田方からの勧誘の手紙を封を切らずに小山の一豊の元に届ける。近江生まれの者を使いに出したので関所が通れる。これをそのまま家康に渡すようにと助言してあり、家康は感激する。
そして小山会議の席上、隣りの大名のアイデアを借りて、自分の掛川の城を提供すると申し出て、会議の空気を作る。これを家康は功として土佐24万石にする。関ヶ原の戦いでは南宮山の下に配され、大した働きがないまま終わる。

土佐では一領具足の反乱に悩まされ、相撲の興行にこと寄せて殺害するという汚点を残す。千代はこれには反対で、長宗我部の遺臣を家臣に加えるように進言するが、聞く耳をもたない。これが一豊の器量なのだと千代は思う。
高知城の建設は難工事だが、完成し、千代は一豊が逝去後は京都で暮らす。

千代の賢妻ぶりを強調して書いてあるが、千代の上司の気持ちを見抜くような気配りは面白い。

「幕末・維新~並列100年~ 日本史&世界史年表」山本博文監修

調べ物をするために紐解いた本であるが、参考になる面白い本である。「1.列強の接近」「2.幕末の動乱と国際情勢」「3.明治の日本に迫るロシア帝国」の3章に分けられている。年表だから、1800年のはじめから1900年までの約100年間を、見開きページで20年から5年程度ごとに日本史と世界史の年表を掲示し、そこに関係する事件や事件の背景などを記したコラムを配している。また時々の事件を読み解く鍵となる人間関係が記されたり、その時代のトピック的なことがらを整理したものもつけている。

1800年のはじめはナポレオンがヨーロッパを席巻した時期である。すなわち、これ以降、ヨーロッパにも国民国家の意識が出てくる。1821年ギリシャ独立運動、1831年にイタリアの統一運動が起こる。1839年にオランダがベルギーの独立を認める。ドイツも1862年にビスマルクがプロイセンの首相に就任して国がまとまってくる。
日本の明治維新なども世界史的流れとも思う。

そのナポレオン戦争時に、支配下に入ったオランダ船をイギリスが拿捕する事件が1808年のフェートン号事件である。この事件後も1824年にイギリス船が薩摩の宝島に上陸したりで1825年に異国船打ち払い令を出す。
しかし1842年アヘン戦争で大国の清が負けて南京条約が締結される。幕府は慌てて同年に薪水給与令を出す。水野忠邦の天保の改革の頃である。
中国では清の弱体化に伴い太平天国の乱が起こり、それは1864年まで続く。

アメリカはイギリスからの独立戦争が1814年。1846年に米墨戦争で、アメリカはカリフォルニアを獲得(太平洋岸に出る)。
1861年アメリカの南部州が南部連合。南北戦争。終結が1865年であり、両軍あわせて62万人の死者。終結後の武器が戊辰戦争時の日本に来たわけだ。その後、1869年に大陸横断鉄道。1897年にハワイ併合、1898年に米西戦争でスペインを破りフィリピンを領有と太平洋にどんどん勢力を伸ばしてくる。

1866年に薩長同盟が出来た時に、プロシャ・オーストリア戦争がはじまる。プロイセンの元込め銃による匍匐しての射撃が、オーストリアの先込め銃の立射を破る。そしてフランスも元込め式の銃を採用。第二次長州征伐で大村益次郎が、元込め式銃の散開戦術で幕府軍を破る。

ロシアは世界中で南下政策。1800年頃に日本に交易を求めに来ていた。1853年にはオスマン帝国とクリミヤ戦争(英仏も参戦)して1856年に集結する。この中古武器も流れるか。1858年に清とロシアは愛琿条約。クリミヤ戦争で地中海経由の南下が妨げられ、アジアに来る。1860年ウラジオストック建設。


日本の領土のことも参考になる。
小笠原諸島は米英の漂流民がいたが、咸臨丸で小笠原諸島の測量航海を行い、実測図をつくり文久2年(1862)に日本領と認めさせる。

沖縄に関しては、明治4年(1871)に台湾の琉球漁民殺害事件に抗議し、明治7年(1874)に台湾出兵。その後、イギリスの仲介により、清と互換条款を結び、賠償金を得る。琉球藩は清国との関係継続の嘆願を出していたが、明治政府は拒否して1879年に沖縄県を設置。明治12年(1879)にアメリカのグラント前大統領は日清修好条規の調停案で沖縄を二分した案を日本政府に提案。一方、清国は沖縄を三分して先島諸島を清、奄美諸島を日本領として、沖縄本島を独立させる案を提示。日本はグラント案(沖縄二分案)を了承するが、清が拒否する。そして日清戦争後の下関条約(1895)で日本の沖縄領有が確定する。
昔の沖縄の人は、中国にも属したいと思っていたのだ。貿易上の利であり、今の中国に属したいと思う人はいないだろうが、こういう歴史を忘れてはいけない。またアメリカは太平洋岸に出てから、ハワイ、フィリピンと来ており、終戦後は沖縄を占拠し、今も大きな基地を設けている。これもアメリカのムーブメントなのだ。

「兼好法師」小川剛生 著

吉田兼好の伝記を、信じられる史料を元にまとめている。新書と言えども専門的な本であり、基礎知識が無い私には難しい本であった。先年に「方丈記」を再読したが、「徒然草」の内容は忘れている。
兼好は通説では吉田神社の神職である卜部家に生まれ、朝廷で六位蔵人などに任じられた後に出家して徒然草を書くというものだが、これは吉田神道の吉田兼俱(室町期の文明・長享頃に活躍)が文書を捏造した結果である。兼俱は藤原定家も当時の吉田神道の弟子で歌道の奥義を得たとか、日蓮も吉田神道から仏の三十番神のことなどを学んだとかの文書を捏造した。卜部氏では平野流が嫡流であったので、吉田流の家格を高める為に捏造したようである。

実際の卜部兼好は、蒙古襲来の弘安の役後に誕生し、10歳くらいで一家は鎌倉に下向して、金沢流の北条氏に仕える。金沢は鎌倉の外港六浦の近くで重要な地である。元服して四郎太郎と名乗る。金沢貞顕が京都の六波羅探題に任じられ、その関係で鎌倉と京都の行き来もある。金沢文庫には古文書が保管されていて、仏典などを写経した裏に当時の手紙があり、その中に兼好の母のものと思われる手紙が見つかる。鎌倉幕府では京都との文書のやりとりなどで、卜部家のような京都の実務的な知識人も必要だったのであろう。

兼好は京都にいる時に蔵人所に属して、滝口あるいは雑色・所衆として内裏に仕えた可能性もあるようだ。東山六波羅近辺に住む。山科に田畑を購入したという史料もある。その後、堀川家に遁世者として出入りし、和歌の分野で名を挙げる。遁世者は身分差をクリアすることができる。かたわら徒然草を執筆。鎌倉幕府が滅んだ時点で50歳前後である。歌人として暮らし、尊氏執事の高師直との関係も生まれる。70歳代後半に逝去する。
鎌倉幕府の六波羅探題には京都の公家衆や宗教関係者も多く出入りし、これが兼好の人間関係を広げる。

兼好は和歌の世界では二条流の四天王の一人として評価されていた。この本では関係して、和歌の世界のことにも触れられていて興味深い。二条流は昔(新古今和歌集など)の歌を本歌取りして作るのが主で、こうすることが当時の共通言語(共通の感情を伝えられる)のような感じであった。他に冷泉流、京極流というのが生まれる。いずれも藤原俊成→定家→為家に連なる家である。京極家の歌は自由な発想や古歌にとらわれない表現があり、現代ではこちらの方が評価が高い。

「司馬遼太郎全集7 幕末」 司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集7に収録のもう一編である「幕末」である。幕末に生じた暗殺事件を12取り上げている。当初は「幕末暗殺史」というタイトルで発表されたようだ。司馬遼太郎はこれらの物語を書く中で、運良く維新後まで生き延びた人物にシニカルな目を向けている。三流が生き延びて、栄爵を受けたという感じである。

冒頭は「桜田門外の変」である。水戸藩以外から参加した薩摩藩士有村治左衛門兼清が主人公である。薩摩藩と水戸藩のつながりとして、日下部伊三次の遺族が登場する。日下部は元薩摩藩士で、事故で脱藩し、水戸領高萩で私塾を開いていた。水戸の烈公に知られて、水戸藩士になる。日下部は水戸と薩摩の接着剤の役目をつとめる。日下部は安政の大獄で捕まり牢内で衰弱死する。長男も牢死し、未亡人と娘が残されていたという設定で、その娘と有村との恋愛が描かれる。本懐を遂げて有村は死に、後に娘は有村の兄の俊斎と結婚する。日下部家の原姓の海江田を名乗り、維新後海江田武次として子爵になる。
司馬遼太郎は暗殺は嫌いだが、桜田門外の変は時代を変えた暗殺事件と評している。生き残って栄爵を受けた海江田武次への皮肉も感じられる。

「奇妙なり八郎」は新撰組の母体となる浪士団を結成して京都に出向き、奇妙な動きをした清河八郎が見廻り組の佐々木に暗殺された事件である。清河八郎(庄内の豪農出身)の所持する無銘の兼光は剣相術でいうところの七星剣で、持ち主は王者になるという卦があり、それに影響されたように清河は行動して、斃されるという物語にしている。

「花屋町の襲撃」は坂本竜馬を暗殺された海援隊が陸奥宗光をもとに仇討ちをする物語である。十津川郷士の中井庄五郎(居合の達人)に参加を求め、はじめは新撰組原田左之助を狙い、その内、船舶の衝突事故で竜馬に苦汁を吞まされた紀州藩の三浦休太郎が黒幕と思い込み、襲撃する。三浦は新撰組に守られていて、襲撃は失敗する。

「猿ヶ辻の血闘」は会津藩から密偵の役割をもらった藩士大庭恭平は、薩摩の人斬り田中新兵衛と知り合う。新兵衛は深酒をしていた時に姉小路公知の用心棒の吉村右京と私闘があり、苦汁をなめていた。姉小路少将は勝海舟に出会い、過激な攘夷論から脱却しつつあった。それを過激派浪士は許せないとなり、御所の猿ヶ辻で襲撃し、そこに田中新兵衛の刀の鞘を置き忘れたように工作して、新兵衛は取調中に自害する。薩摩藩離間工作である。

「冷泉斬り」とは絵師の冷泉を過激派浪士が襲う事件である。絵師の妻が美貌であり、暗殺者たちとそれを護衛する側の者が、冷泉の妻との絡む中で、物語を進めていく。

「祇園囃子」は十津川郷士の浦啓輔が主人公で、彼は郷里を出奔する前に、師の娘とできてしまう。京で土佐藩士山本旗郎と知り合い国事に奔走する。長州藩の意を受けて山本は、水戸藩の勤皇の論客住谷寅之介を斬るように浦に持ちかける。暗殺後に、浦は後味の悪さと、京都に自分を追いかけてきた師の娘(懐妊した)が嫌で京都から出る。山本は京にいたために殺害犯と知れる。明治になり、住谷の息子2人が山本旗郎を仇討ちで斃す。浦は早くに京都を離れた為に、下手人とは思われずに維新後は横浜の貿易商の手代となる。

「土佐の夜雨」は吉田東洋暗殺事件である。暗殺者の一人那須信吾と吉田東洋との出会いから、東洋に下横目として使われていた岩崎弥太郎を登場させて、物語に膨らみをもたせて記述している。

「逃げの小五郎」は但馬出石に潜伏した桂小五郎の潜伏生活ぶりを出石藩堀田半左衛門と出会いから書きはじめ、京都の池田屋事件、蛤御門の変の時の桂の逃走ぶりを芸者幾松(後の木戸孝允夫人)も登場させて描写していく。維新後は桂(木戸)は光彩が無いと司馬は皮肉的に書く。

「死んでも死なぬ」は英国公使館焼き討ち事件を起こした伊藤俊輔と井上聞多のことを描き、特に女好きで、どこでも糞をするような聞多の生命力の強さを描いている。聞多は明治期に大汚職事件を起こし、テロリストの伊藤博文は初代内閣総理大臣である。

「彰義隊胸算用」は彰義隊に参加した寺沢新太郎を主人公にして、天野八郎、渋沢成一郎をそれぞれ首領に仰ぐ派との彰義隊内の対立と、彰義隊と言っても江戸のゴロツキの集まりのような実状を描く。寺沢は天野派である。彰義隊の首領もそれぞれが百姓上がりであり、幕末の旗本・御家人は黒門口で戦死した大久保老人以外は腰抜けが大半だったことも書いている。

「浪華城焼打」は大坂城の焼打ちを企てた土佐脱藩浪士の物語である。もちろん事が途中で露見するのだが、主人公の大利鼎吉よりも脇役の田中顕助(維新後伯爵)が印象に残る。

「最期の攘夷志士」は、その田中顕助が鳥羽伏見の戦いに先立って、紀州藩への牽制の為に高野山で部隊を展開させる。その隊の参謀格に昔から攘夷の最前線で活躍していた三枝蓼、朱雀操、川上邦之助などがいる。その後、京都に隊は戻る。新政府は攘夷どころか諸外国と結ぶ。これに三枝は憤りを覚える。天皇に謁見する英国公使を三枝らは襲い、失敗して極刑を受ける。攘夷の主義から開国に転じた田中光顕のような者が爵位をもらい、妾を侍らすのが明治政府。

全て小説だから、どこまで真実かはわからないが、維新で生き残って栄爵を受けた志士は三流という司馬遼太郎の史観が出ている。

「神田日勝 大地への筆触」展 於東京ステーションギャラリー

神田日勝の展覧会は一度、観てみたいと思っていた。コロナ騒動も一段落して、入場制限はあるものの東京ステーションギャラリーで開催される。この美術館は私好みの企画が多く、好きな美術館だが、展示スペースが複数階に別れているのが難である。私は一通り観た後に、気になる絵に戻って観るから、階がまたがる場合は不便である。
32歳で夭折する北海道鹿追町の農業をやりながら画業に励んだ画家である。画題は自画像の他に、農耕馬、牛、風景や働く人が多いが、これらは黒褐色から茶褐色のような暗い色合いの絵が多く、重たい。

一方というか、ある時期には鮮やかな色彩を使って空想上のアトリエを描いたものやフォービズムのような鮮やかな原色で抽象化した人体を描いたものなどもあることを知る。色彩鮮やかな絵などは本当に描きたいものだったのだろうか、あるいは自分の殻を破りたいという試行的な作品なのであろうか。私は後者のような感じを懐く。色彩鮮やかな絵の中には彼が持つことが叶わなかったアトリエや、各種食料品などが描かれているから、彼の願望を表現したのかもしれない。

展示されている作品は大作(ベニア板に描く)が多い。これらは展覧会への出品作として描かれたものだと考えられ、確かに力作である。風景画は手頃なサイズのものが多い。こういう絵は地域の人などに購入されたものなのであろう。売り絵と片付けられないような感じのよい風景画もある。北海道の大地である。

ペインティングナイフで、馬の体毛や人物の肌、壁面の石材、木材などを描いていく作品は迫力がある。ペインティングナイフをどのように使用したのか私にはわからないが、馬の剛毛や石材の表面など迫力がある。馬はサラブレッドではなく、ズングリとした農耕馬である。農機具やソリを引く労働に使役されたために腹の一部に毛が擦り切れているところなども描かれている。
死んだ馬を描いた絵には感動した。作者の馬への愛着が感じられる。

最期の馬の描きかけの絵(半身像だけで他はベニア板のまま)や、新聞紙の紙面を細かく描いた壁面を背景に、膝を抱えてうずくまる自画像など代表作とされるものも展示されている。

神田日勝が影響を受けた画家として、兄の神田一明(東京芸術大学に学ぶ)や帯広で活動した寺島春雄や、北朝鮮の帰還事業に参加して消息を絶った曺良奎(チョヤンギュ)、海老原喜之助、海老原暎、北川民次の絵も展示されていた。「なるほど」と思った。
曺良奎(チョヤンギュ)の作品は洲之内徹の本などで知っていたが、現物ははじめてであり、惜しい画家だ。(北朝鮮帰還事業に参加し、現地で消息を絶つ)

「明治の金勘定」山本博文 監修

 私は拙著『江戸の日本刀』で幕末の刀価を現代価格に換算したり、刀の雑誌で「刀剣販売カタログ「日本刀 現存の優品」の分析」として、戦後落ち着いてきてから現代までの刀価格を、インフレも加味して取りまとめてきたが、昔の価格を現代価格に置き換えるのは苦労する。

 明治時代も、初期の文明開化の時代から明治末年では開国や幕藩体制の崩壊によるインフレや、生活習慣の洋風化という劇的変化や、急激に進展する技術進歩があり、難しいだろうと思うが、さすがに山本先生である。わかりやすくまとめられている。

 私も苦労したが、個別の物価で現代と比較すると、その物の当時の人気、稀少度や、その後の生産・製造技術の進歩や、政府の統制などの影響を受けて、マチマチの換算率になる。地価などは交通事情の変化や、人口の増加などで大きな影響を受ける。

 そこで、当時の人の収入ベース(諸品を購入する原資=生活をする元となる)を現代の収入ベースで比較するのが、一番妥当と思う。この本では明治30年代の公務員給料を基本にして現代価格と比較している。この公務員給料は約2万4千倍になっているが、2万倍になったとするのが妥当として換算している。すなわち(1円=2万円、1銭=200円、1厘=20円)である。

 本は「序章.波乱の船出を乗り越えていく明治新政府」「1章.文明開化の新しい味覚」「2章.急激に変化した明治の生活」「3章.収入格差が激しい大変革」「4章.教育に力を注ぐ新政府」「5章.新時代で遊びも多様化」「第6章.金が絡んだ明治の事件」に別れている。

 「序章.波乱の船出を乗り越えていく明治新政府」では、幕末に欧米と日本の金銀の価格差から金が大量に流出したことを受けて、幕府は安政7年に天保小判1枚を三両一分二朱などに置き換えて万延小判を発行して、それを抑える。ただし国内ではこれまで金の4分の1の価値の銀が12分の1になったのでインフレが加速する。大坂で米価は約11倍になり社会不安を加速する。また幕末は各藩が藩札を刷ったり、贋金が生まれたりして混乱したことを記す。
 新政府は明治4年に一両=一ドル=一円にし、純金1.5グラムを一円にする。円の百分の一を「銭」、銭の十分の一を「厘」とした。明治30年に日清戦争で清国から得た賠償金2億3千万両(テール)が入って安定する。

 「1章.文明開化の新しい味覚」では当時の諸品が明治になって日本で登場した経緯を説明して、その当時の価格を記しており、食物の起源としても面白い。「2章.急激に変化した明治の生活」では鉄道、電報、自転車などの江戸時代にはなかったものの価格だ。
 例えば牛肉百グラムの明治26年の価格が3銭6厘(現代価格で約720円)で、幕末から町のごろつきや緒方洪庵の適塾の書生が食べていたが、幕末に来日した外国人は香港やアメリカから輸入し、文久2年に横浜で「伊勢熊」、慶応元年に江戸神田で三河屋が提供。新政府は肉食を奨励し、明治4年には明治天皇が牛肉を食べる。料理屋がスキヤキなど日本人の口に合うように工夫して広まることが記されている。
 郵便制度が始まるが、切手は4匁まで3銭だから、現代価格では600円だ。自転車は現代価格では約400~500万円もしたようだ。

 「3章.収入格差が激しい大変革」では、当時は身分制の名残があり、収入格差は地位によって学歴によって非常に大きかったことを説明している。総理大臣の年俸が約2億4千万円、国会議員が約4000万円、帝大出の高級官吏の初任給月給が約100万円に対し、巡査の初任給は約18万円、二等兵の給与は1.8万円。
「4章.教育に力を注ぐ新政府」は学費、楽器、書籍などを比較している。
「5章.新時代で遊びも多様化」では動物園の入園料、歌舞伎、大相撲、ホテルの料金比較だ。妾の手当などもある。
「第6章.金が絡んだ明治の事件」では井上馨の汚職などだ。

「司馬遼太郎全集7 新撰組血風録」 司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集7には「新撰組血風録」と「幕末」が収録されている。「新撰組血風録」は子母沢寛の「新撰組始末記」を意識したのだろうが、新撰組隊士にまつわるエピソードを書いた短編が15編収められている。
「血風録」とあるが、各編の内容は殺伐としたものだけではない。

刀に関する短編も「虎徹」と「菊一文字」の2編が収められている。前者は近藤勇の愛刀で、池田屋事件で名を馳せた虎徹は実は偽物だが、後に大坂の豪商鴻池家から貰った本物の虎徹を佩用した時より、偽物佩用時の方が運が良く、しかもよく斬れる。近藤は虎徹は斬れる方が本物だと言ったようなことが書いてある。
「菊一文字」は沖田惣司を気に入った刀屋が鎌倉期の名刀:備前国一文字派の則宗を沖田に預ける。沖田はこの気品に圧倒されて、襲われた時に刀を抜く気がしなかったが、この賊が沖田の部下を殺害したことで、則宗で斬るという物語である。
共にあくまで小説である。

「油小路の決闘」では新撰組から後に分離した伊東甲子太郎一派の御陵衛士に参加することになる篠原泰之進を主人公に書いている。伊東のように政治的な動きをしない古武士的な篠原がひょんなことから新撰組の隊規に反することをし、それが心の重荷になって伊東派に入り、伊東が暗殺された油小路でも生き延びて明治まで生きる。

「芹沢鴨の暗殺」は芹沢鴨の性格、態度と、彼を暗殺して主導権を握る近藤らの暗殺事件である。
「長州の間者」は長州藩に父祖が縁ある浪人が竹生島で出会った女の縁から長州藩のスパイとして新撰組に入隊する。新撰組における長州のスパイは、他にもいるようだが、誰かはわからない。池田屋事件の前に露見し、思いも寄らない他のスパイとともに殺される物語である。

「池田屋異聞」は池田屋での探索に任じた監察の山﨑烝が赤穂藩で卑怯者とされた奥野将監の子孫であることをひょんなことから知り、攘夷浪士大高忠兵衛(赤穂浪士大高源吾の子孫)と因縁に絡んだ対決をする物語である。
「鴨川銭取橋」は一時は近藤勇に信頼された武田観柳斎が薩摩藩と通じたことで粛清される話である。
「前髪の惣三郎」は新撰組内の衆道(男色)を巡る争いを書いた物語である。
「胡沙笛を吹く武士」は奥州南部藩出身の隊士鹿内薫のことで、勇敢に戦う男だったが、所帯を持ってから臆病風に吹かれるようになった人情の機微を書く。

「三条磧乱刃」は芸州浪人の国枝大二郎が新撰組に入隊し、そこで新撰組古参の井上源三郎と出会うことで井上の人柄を描写していく。2人はともに剣術は大したことは無く、その稽古を外部からの侵入者に見られ、嘲笑されたことで2人で探索して戦う。
「海仙寺党異聞」とは、新隊士の長坂は会計方に配属されるが、同じ甲州出身者の中倉が隊内にいることを知る。中倉には情婦がいて、その情婦は水戸の赤座という浪士とも密通していた。現場で中倉は赤座に切りつけられ、士道不覚で切腹となる。長坂が介錯を行い、その後、中倉の仇討ちをするはめとなる。水戸藩の京都での宿舎海仙寺にいた赤座や過激派を斬る。水戸藩との後難を恐れた土方は、長坂に金を渡して脱走させる。長坂は長崎で医術をおさめ、明治になって広沢一豊と名を改めて繁昌した。

「沖田総司の恋」は沖田の労咳を治療した医師の娘との恋に落ちた沖田の話である。土方は気が付き、近藤にも伝え、嫁にもらうように近藤は行動する。沖田は自分の病気で長くないことを知っており、土方、近藤のお節介を迷惑に思う。
「槍は宝蔵院流」は槍の師匠として入隊した谷三十郎と、その息子で実は備中松山の板倉家の血筋を引く男にまつわる話である。導入部に隊士斎藤一とのエピソードを入れる。近藤は、この貴種を養子にして近藤周平と名付ける。谷三十郎も近藤の縁戚になったことで威張り、隊士に嫌われる。池田屋事件後に2人は疎まれ、周平は離縁され、谷三十郎は土方の意を受け斎藤一によって粛清される。

「弥兵衛奮迅」は薩摩藩浪人の富山弥兵衛の話である。伊東甲子太郎が富山が私闘して腹を切ろうとしている時に出会い、勧誘する。富山も薩摩藩の新撰組内の密偵的役割を担うことで入隊する。
薩摩言葉しか話せないと思っていた富山がわかりやすい言葉で奥州出身の隊士と話しているのを土方が聴き、監察に探らせて、粛清することになる。粛清に出向いた武士が斬られ、富山弥兵衛は逐電する。その後、伊東は新撰組から御陵衛士として抜け、弥兵衛も参加する。油小路でも戦い、その後の戊辰戦争では薩軍の一人として戦うが北越戦争で奮迅の末に戦死する。
「四斤山砲」は新撰組が会津藩から借用した大砲を出羽浪人大林兵庫(永倉新八と知り合い)と称して入隊した者が助言して射程は伸びる。実は強い薬を入れただけで、砲を痛めるのだが、幹部は知らない。会津藩で砲術を習って、これまで責任者だった隊士阿部十郎は黙っているが、隊士間の中で、大林の評判は悪くなる。その内、大林の経歴詐称がわかる。象牙職人の息子だった。阿部は伊東一派に奔り、伊東が油小路で暗殺されてからは薩摩藩を頼る。鳥羽伏見の戦いで、阿部は薩摩軍の大砲陣地で新型の四斤山砲を担当し、新撰組の大砲陣地の大林の狼狽振りを見ながら、破壊する。

「日本史の謎は地政学で解ける」兵頭二十八 著

 視点に面白いものがあるが、多くの視点を取り上げているので、説明が不十分なところがあり、別の観点から反論することもできるだろう。断片的に日本史上の事象を捉えており、体系的ではない。軍事、防衛に詳しい著者のようで、その観点から日本史を眺められているとも感じる。
 次のような論が述べられており、「なるほど」と思うものもある。

 瀬戸内海を一本の運河とすると、大阪湾に注ぐ淀川の下流はターミナル船付場となる。淀川は流れがゆるやかで、遡れば山﨑、伏見に行ける。伏見には巨椋池があり、そこに京都から鴨川、琵琶湖から宇治川、伊勢の鈴鹿山系から木津川、丹波から大堰川(桂川)が流れ込む。非常に便利なところ。

 大和盆地は周りが山でそこから緩やかな傾斜地になって、農地が得やすい場所であった。ここから東国に行くには鈴鹿関、美濃の方に行くと不破関が要地であった。

 鎌倉は京都だけでなく、東北平泉の藤原氏を見張るのにも良い場所。また守りやすい場所。
 東国出身の足利幕府は、西国の武将と奈良にいる南朝の残党に対処する為に京都に幕府を置く。
 信長の安土は、琵琶湖の海上ネットワークと、後背地の自身の基盤の美濃・尾張(同盟の家康の三河・遠江)を控え、これから討伐に向かう西国を睨んだ場所。
 秀吉の大坂は、南蛮船の貿易を考え、自身の明・朝鮮征伐の拠点。
 家康の江戸は開発余地が大きく、江戸湾によって水運の便も良い。(ただし江戸湾の構造からペリ-の艦隊に入口を抑えられるとパニックになる)
 明治の東京は、対外的に徳川幕府を引き継ぐ政権をアピールする必要があるので、ここに都を遷都した(蝦夷政府を諸外国に認めさせないということ)。(大名屋敷、武家屋敷の空きが多く、新政府設立にも便利だったのでは?)
 明治期の大坂は大村益次郎の助言もあり、西(薩摩、九州)の蜂起に備える軍都となる。

 古代の継体天皇までの間は奈良盆地では朝鮮半島の三韓からの工作員によって結束は乱れていた。

 東国(奥羽)は日本全体の気候変動に影響される地域である。寒冷化が進むと東北は厳しい。逆に温暖化が進むと東北は力を持つ。平安時代のはじめに東国で乱が多かったのは寒冷化してきた為。

 東海道のボトルネックは新居関(浜名湖)と由井海岸、それに箱根峠。

 長州藩は下関の支配が財力の元であった。瀬戸内海を通る船の通行利権が生まれる。
 薩摩藩は沖縄支配の口実による密貿易で富を得た。

 モンゴルの征服は奴隷的な尖兵を先に行かせる方式で、日本攻めには南宋や朝鮮の人民が使われる。
 攻撃する外国軍は補給を考えて、日本の都市にある倉庫の確保を考える。これで太宰府が狙われる。近畿の都市と違って、太宰府は守る側の日本軍が九州の軍だけしか集結・反撃できない。

 帆船は敵の水面に入っても、風が動力だから、すぐに方向転換して敵水面から脱出するのが難儀である。蒸気船は進退がやりやすく、申し合わせて一斉の艦隊行動もできる。

 日本はロシアから北方と朝鮮半島経由の2方面で攻められると防衛しにくい。だから征韓論。

 広島の宇品港は日清、日露戦争の時の大陸出兵の拠点。大洋に面していないので艦砲射撃がされにくい。また鉄道が通っていることが補給の大前提。

 航空機時代は大圏コースでカムチャッカ半島の上はアメリカとの最短コース。ロシアはエトロフ島を日本、アメリカに利用されるのを厭がる。

「戦国時代の流行歌」小野恭靖 著

戦国時代から安土桃山時代にかけて、高三隆達(たかさぶ りゅうたつ)という堺の人物が隆達節という歌を流行らせた。その歌を紹介し、それが後世の俳句や文学などへどのように影響を及ぼしているかを論じている。

隆達節は音曲であるから、本来は節廻しや音程を伴う。それを歌詞だけ紹介しているのであるから、何がいいのかが、よくわからないところもある。隆達は声も良く、歌も上手だったのだろうと想像するしかない。著者は大河ドラマの監修にも携わったことがあるとのことであり、実際の節廻しなどもわかっているのかもしれない。今度、そのようなものを聴きたいものである。

高三(たかさぶ)家は、大陸からの帰化人の劉氏が平安時代に渡来して博多に住す。中国で高三官(こうさんかん)という官を得ていたから高を名乗る。代々三郎兵衛を当主名にしていたので、高三を姓にし、南北朝時代に堺に移住し、漢方薬の薬種商を営む。
隆達は大永7年(1527)に生まれ、慶長16年(1611)に死去。85歳の生涯である。

隆達は堺町人の出だから、当然に堺の有力町衆とも昵懇の関係で、茶道にも嗜みがある。

歌の名手としては、三好長慶(連歌も得意)の配下に松山新介がおり、この者が歌舞音曲に秀でていた。隆達の先駆者である。他にも小笠原監物(隆達と何らかの交流があった武士。尾張国主の松平忠吉の寵臣だが、故あって去り、陸奥の松島に住む。しかし忠吉が死んだ後に殉死)などの関係する人物の逸話が紹介される。

隆達節として多くの歌が紹介されているが、ジャンル別には次の通りで、恋愛の歌が多い。
祝い歌
「君が代は千代に八千代にさざれ石の 巌をなりて苔のむすまで」という古今和歌集の歌)、
四季歌
「花が見たくば吉野へおりやれの 吉野の鼻は今が盛りぢや」
恋歌
「誰が作りし恋の路 いかなる人も踏み迷う」
「寝ても覚めても忘れぬ君を 焦がれ死なむは異なものぢや」
「あたたうき世にあればこそ 人に恨みも 人の恨みも」
無常歌
「うき世は夢よ 消えては要らぬ 解かいなう 解けて解かいの」
「ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ、柳は緑 花は紅」
「世の中は霰よの 笹の葉の上のさらさらさっと降るよの」
「後生を願ひ、うき世も召され、朝顔の花の露より徒な身を」
「会者定離 誰も逃れぬ世の中の 定めないとは なう偽り」
人生観を示す歌
「梅は匂い、花は紅、柳は緑 人は心」
言葉遊び歌
「夏衣 我はひとえに思へども 人の心に裏やあるらん」

後の世に、隆達節の替え歌として、次のような教訓歌も現れる。
隆達節「面白の春雨、花の散らぬほどふし」(風情のある春雨、花が散らぬほどに降ってくれ)
教訓的な替え歌「面白の儒学や、武備の廃らぬほど嗜け」とか「面白の武道や 文事を忘れぬほど好け」

ちなみに織田信長で有名になった「人間五十年……」は幸若舞の「敦盛」の一節で、信長は他に「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ…」がお気に入りで、これは小歌節という音曲である。

阿国歌舞伎にも取り入れられ、江戸時代の本から明治の文豪や昭和の歌人にも引用されているのを紹介している。

「世界史としての日本史」半藤一利、出口治明 著

 日本史の視点に世界史からの考察を入れるとわかりやすくなるというお二人が言わんとするところはよく理解できる。しかし、その例として第二次世界大戦の記述が多くなる。そしてこの大戦については、ヒットラーとスターリンを知ることが大切として、その二人のことがわかる本の紹介として、普通の人は読まないような本を列挙しているのを読むと、この本は何なのかと思う。新書は入門書であろう。

 以下のように面白い話も多い。
●ペリーの黒船来港が捕鯨船の水や燃料補給の為と習うが、アメリカは大英帝国に対抗して中国での権益をとるためには太平洋航路を切り開くことが大切だったとの記述が米の文書にあるとのこと。

●白鳳時代の女帝が多くなったのは、男性皇嗣が幼かったり、病弱だったからと言われているが、中国の鮮卑の女帝や唐の武則天などの東アジアの女帝の流れの一環としてとらえるべきではないか。

●元寇も、モンゴルの軍人の失業対策事業のような感じで諸外国に兵を送っており、本腰を入れていない。

●日本の天皇制が続いたのは天皇に権力が無く、権威だけだったから。それを明治政府が天皇に権力もつけて国を滅ぼすに至る。

●『坂の上の雲』は青年期の日本がロシアの横暴に耐えて耐えて、ついに乾坤一擲の勝負を挑んで勝つというイメージ。この時、ロシアでは革命が始まっていた。日本が革命騒ぎに乗じて満州の権益を得ようとしていたのでは。ただ日露戦争は出口を常に考えていた。

●自尊史観と自虐史観は表裏一体。愛国心が劣等感と結びつくと、攻撃的、排他的になる。劣等感は、日本のここがすばらしいという風潮に振れる。

●第二次大戦での総力戦は永田鉄山は意識したが、他は本当の総力戦がわからなかった。だから生産量が落ちた。一方、ドイツは敗戦時まで生産量は落ちていない。総力戦は軍事だけでなく経済が大事。

●第二次世界大戦のポイントはヒットラーとスターリンの特異な指導者。そして戦争のポイントは圧倒的な力を持つアメリカの参戦。この参戦を引きおこしたのは真珠湾。そして真珠湾攻撃に至る軌跡が日本の敗戦の理由。ノモンハンで陸軍伝統の対露戦戦略が頓挫。

歴史を学ぶ上や、人生における対処の仕方にも、参考になる話もある。
▼戦前の旧制高校の学生は語学を一生懸命に学び、原文で読んでいた。このような教養が大切。

▼「経線思考」がある。例えば負けそうだったのに勝ったと言うと、勝ったことから次ぎに話に移り、どんどん事実から離れていく。これに日露戦争から太平洋戦争に至るまでに日本は陥った。不正の積み重ねを続ける企業と同じ。

▼ともかくリアリズムが大切。これに徹して世界を見る。こういうところに教養が役に立つ。

▼今はアメリカを通してしか世界を見ないと危険である。アメリカは気の弱いところもあり、独りだと不安になる。イギリスはその意味でアメリカの同盟国である。

「司馬遼太郎全集32 評論随筆集」から「竜馬がゆく」あとがぎ 司馬遼太郎 著

「「竜馬がゆく」あとがき」は、全集では別巻に収められている。刊行した時の単行本の数から、「あとがき」は1から5まである。
「あとがき1」では、薩長連合、大政奉還を独りでやった坂本竜馬を書こうと思っていたことを回想し、竜馬が千葉道場でもらった北辰一刀流の免許皆伝の伝書を高知県庁で見たことを記している。

「あとがき2」は日本史が所有している「青春」の中で、世界のどの民族の前に出しても十分に共感を呼ぶのは坂本竜馬の「青春」だと述べている。明るく、陽気で、人に好かれた竜馬だが、ここで凄みのある竜馬の語録をいくつか紹介している。例えば「義理などは夢にも思うことなかれ、身を縛られるるものなり」「衆人みな善をなさば我一人悪をなせ。天下のことみなしかり」などである。

「あとがき3」では家老福岡家の足軽をつとめた家の子孫が、竜馬に出会ったことがある祖母の話を紹介している。そして竜馬が小さい時は水泳が好きだったことや、18歳の時に念力で神を現出するという者を懲らしめた話や、神戸塾の時に広井磐之助という同郷の若者の仇討ちを助けた話を紹介している。

「あとがき4」では長崎で亀山社中の跡地を見た話と、勝海舟の長崎時代のエピソードを紹介している。勝が長崎に来てた時に懇ろになった小谷野家のおくまとの間で子ができ、梅太郎と名付けられる。おくまは梅太郎を生んだ翌々年に逝去し、梅太郎は15歳の時に勝家に来たが、ほどなく病没したそうだ。

「あとがき5」では竜馬暗殺のことについて詳しく記し、それから小説な中に登場した人物のその後を書いている。
 大正4年になり、渡辺一郎(旧幕時代は渡辺篤、吉太郎)という老人が懺悔をしたいと言う。その内容が竜馬を殺したのは自分であるという。ただし、つじつまの会わないところもあった。
 竜馬暗殺は、当初は新撰組のしわざと考えられた。当時、現場にいち早く駆けつけた谷干城は、伊東甲子太郎が残された鞘は新撰組の原田左之助のものと証言し、中岡も重傷の口で「こなくそ」と下手人が述べたと証言する。これは原田の出身地の伊豫の言葉である。近藤勇に問いただすが、知らないと言う。
 この内、紀州藩の用人三浦休太郎がいろは丸事件を根にもっての犯行ではと疑う。この為、陸奥や十津川郷士の中井庄五郎が斬り込む。
 勝海舟は幕府の目付の榎本対馬守道章(榎本武揚とは無関係)のことを疑っていた。。
 維新後にも調べは続き、大石鍬次郎があれは新撰組ではなく見廻組のしわざで、今井信郎、高橋某のことを近藤が褒めていたと述べる。
 今井信郎の孫の今井幸彦が書いた本によると、取り調べられた今井は自分も下手人の一人と述べる。そして見張りをしただけと述べる。それで軽い刑を受けることになった。今井の話によると刺客は佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎(前述した懺悔の老人)、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎である。
佐々木は組頭として、周到に計画した。暗殺の日の昼過ぎに、桂隼之助に近江屋を訪問させて「坂本先生はご在宅でしょうか」と言う。近江屋は「今は他行中です」と答える。この後、夜9時過ぎに佐々木が「十津川郷士」の名刺を出し、殺害に至る。

 これは「あとがき」には書かれていないが、私の知人の相川司氏は、氏の著作の中で「竜馬は寺田屋で幕吏に短銃を放ち、殺しており、それを治安当局が捕殺しようとしただけ」と書いて、暗殺の背景に関する種々の憶測を否定しており、私もそうだと思っている。

 おりょうのその後も記している。三吉慎蔵の主君の長府候が扶持米をだす。その後、海援隊が高知の坂本家に届ける。乙女と合わずに家を出るとの伝承もあるが、おりょうの回想によると、そのような不仲のことは書かれていない。それから故郷の京都に出る。その後放浪の末に横須賀に住み、人の妾になり、明治39年に66歳で死ぬ。

 乙女は竜馬からの手紙をすべて残していた。明治12年に48歳で死ぬ。
 千葉さな子は維新後華族女学校の世話などをして独身だった。自分は坂本竜馬の許嫁と言ったことがあるそうだ。

 維新後に後藤象次郎は土佐藩の船など11隻を藩の負債と一緒に岩崎弥太郎に渡す。岩崎はこれで三菱商会を創る。

 竜馬のことは忘れ去れていたが、日露戦争の時に昭憲皇后の枕元に立ち、バルチック艦隊に勝つと言った男が話題となり、田中光顕が坂本竜馬と特定する。
 由利公正は五カ条のご誓文を起草する。

「司馬遼太郎全集5 竜馬がゆく 3」司馬遼太郎 著

 全集ではこの巻で「竜馬がゆく」は完結である。どこまで史実かは別として、全体を通して、坂本竜馬の人物像や考え方はよく描かれている。人物像は司馬遼太郎が好むところの権力欲や金銭欲が薄く、自分のやりたい仕事に情熱を注ぎ、女性にもてる男、男も惚れる男である。そして竜馬の考え方は、藩という枠、武士、百姓、町人などの身分制度から離れた日本人を意識し、国家運営の能力のある人を抜擢して、欧米列強に互して繁栄していくということだ。
これを浮きだたせる為に、各藩ごとの立場を背負った維新の英傑が登場し、土佐藩の上士と郷士の抜き差しならぬ関係を詳述していく。商人でもある坂本家の家族も登場して、竜馬の思想・考え方の基礎を知らしめる。傑作である。

 この巻は薩長連合に奔走する竜馬からはじまる。長州方の人物として井上聞多と伊藤俊輔が登場する。2人は海外に渡ったことがある。竜馬と中岡慎太郎は薩摩藩士と偽って、京都、下関、長崎で薩長連合の為に奔走する。薩摩藩では高崎左太郎が京都での応接係であり、竜馬は思想や主義ではなく、実利で薩摩と長州を結び附けようとする。長州の米を薩摩藩に提供して、薩摩藩の名目で武器を輸入しようとする。結局、薩摩藩は長州の好意は受け取るが、米は受け取らず、これが海援隊の支援になる。

 海援隊では饅頭屋の近藤長次郎こと上杉宋次郎が実務的に切り回し、長州藩に感謝される。長次郎の人柄もあり、海援隊の仲間からは浮き上がり、長次郎は隊の仲間には無断で海外渡航を試み、それがバレて切腹することになる。

 長崎での銃砲の買い付けがうまくいき、長州藩は薩摩藩を信じる。長州で竜馬は高杉晋作に会う。長州藩が買った船乙丑丸を海援隊が運用することも決める。長崎丸山の芸者お元と知り合う。お元は月琴が得意で、竜馬に想いを寄せる。

 長州から槍の名人三吉慎造が竜馬と同行して兵庫、京に行き、薩摩藩士と偽って大坂の薩摩藩邸につく。将軍と一緒に来坂している幕臣大久保一翁にあう設定で、ここで薩長連合はまだ幕府に知られていないことを確認する。
 大坂から船で出る時にバレそうになるが、千葉道場同門の新撰組藤堂平助が見逃す。そして寺田屋に到着する。そこから京の薩摩藩邸に行く。そこに滞在している桂に会うが、桂は西郷から薩長連合を切り出さないのでへそを曲げている。竜馬は桂に面子を大事にしている場合かと説き、別の藩邸にいる西郷にも会い、連合の締結を迫り、次の日に盟約がなる。

 寺田屋に戻るが、ここで三吉とともに幕府役人に襲われる。おりょうが裸で竜馬に知らせ、竜馬は短銃(高杉にもらう)を撃って逃れ、薩摩藩邸に収容される。手の親指を負傷する。この場面など生き生きしている。
 ここからおりょうと薩摩に遊びに行くというか、日本はじめての新婚旅行となる。
 薩摩で、長崎から海援隊の所属(薩摩藩が金を出して、海援隊が運用)が来るのを楽しみにしていたが、この船が嵐で沈み、池内蔵太などが死んだことを知る。

 長崎を経由して下関に向かう船に乗る。長崎でおりょうとの家を用意する。下関に向かうが、第二次長州征伐の戦いが行われている。竜馬もこの船で戦う。高杉の活躍の様子が描かれる。大坂城で将軍家茂が死に、勝海舟が復職して、長州の広沢兵助と停戦交渉を行う。

 幕府の小栗上野介がフランスから資金を借りて戦を行い、諸藩も潰して徳川家の力を復活させようとする構想を知る。これを受けて薩長は倒幕を急ぐ。竜馬も、そうなった時に日本がフランスの植民地にされることを危惧する。

 竜馬は下関で肥前大村藩の渡辺昇とあう。千葉道場での同門であり、九州諸侯連盟の話を利の面からする。薩摩の五代才助という経済がわかる人物とも知り合う。下関で諸藩の連中と飲む。中岡慎太郎が来て、長州征伐失敗後の京都の情勢を伝える。また京都で制札を引き抜いて新撰組と戦い、土佐郷士が何人か死んだことを中岡から知る。

 長州から長崎に帰るが、海援隊は窮迫している。そこに土佐藩から来ている溝淵広之丞と出会う。土佐藩も幕府が長州征伐に失敗したのを見て動揺している。ここで溝淵の上司の後藤象二郎と出会う。山内容堂のお気に入りで仕置き家老を務めている。後藤は維新のこの時期だけ活躍した人物である。後藤と会い、海援隊を土佐藩が援助することを決める。

 長崎の有名な女傑のお慶と知り合う。のちに陸奥陽之助が懇ろとなるが海援隊の為に出資してくれて、薩摩藩が保証人となって大極丸を海援隊が購入できる。
 中岡慎太郎は陸援隊を構想する。中岡から孝明天皇の崩御を知る。竜馬と中岡の脱藩が土佐藩で許される。土佐藩と海援隊の間で契約ができ、大極丸の保証人も薩摩藩から土佐藩になる。このとき土佐藩の長崎留守居役に岩崎弥太郎が抜擢されてくる。弥太郎は後藤象二郎の遊興の後始末をしている。
 岩崎弥太郎、後藤象二郎の人物像の描き方もうまいと思う。

 伊豫大洲藩の出資でいろは丸という蒸気船を購入する。これに銃砲などを積んで神戸に向かう途中で、紀州藩の船とぶつかり転覆する。万国公法で竜馬が交渉して、最期は土佐の後藤象二郎が出て勝訴する物語が展開される。竜馬の活躍ぶりが生き生きと描かれる。

 中岡慎太郎は四賢公による列侯会議を唱えて活動していた。アーネスト・サトウの案からヒントを得たものである。また長州で逼塞している三条公の身辺を警戒していた。三条公の意を受けて、京都の岩倉具視との連絡にもあたる。また中岡は土佐の乾退助(板垣退助)とも連絡を密にしていた。

 四賢公会議の段取りで駆け回り、実現に漕ぎ着けるが、容堂は途中で投げ出す癖があり、今度も歯痛の理由で抜ける。

 竜馬は長崎で後藤からの京都の情勢を聴き、大政奉還を思いつく。元は勝海舟の案である。後藤象二郎に伝え、後藤はこの案に夢中になる。そして容堂も賛成する。船中八策と称されている案を考える。

 そして京都に向かい、中岡や薩摩の大久保一蔵に伝える。これを幕府が認めない時は薩長土で倒幕と決める。結局、土佐藩は兵を出さない。
 土佐藩で使っていなかった白川藩邸を陸援隊の拠点にすることを認めてもらう。陸援隊に那須盛馬を呼ぶことにし、那須の武歴が紹介される。
 竜馬は幕府の永井主水正にも大政奉還案を話す。西郷、大久保や岩倉にも会う。また土佐藩の者にも会う。

 ここで長崎で海援隊士がイギリス水兵を斬ったと大騒ぎになっていることを聞く。竜馬は鼻から海援隊によるものではないと信じていたが、幕府や土佐藩は大変な騒ぎだった。
 大坂で松平春嶽に会い、山内容堂に今度の長崎の事件でも万国公法に基づいての処理で行うべきとの手紙を書いてもらう。兵庫から船で渦中の長崎に帰る。幕府役人も長崎に行くがそれより早く行くことにする。
 長崎で事件は海援隊ではないことを確信し、イギリスは土佐に出向くが長崎で交渉とさせる。後藤は外国人との交渉ごとでも堂々と対応する。アーネスト・サトウがイギリス側通訳で登場する。

 海援隊は下手人の情報に千両出すとする。竜馬は宣伝も上手である。交渉が始まり、下手人はわからない中、イギリス側も幕府との交渉は意味ないと思い、審議打ち切りとなる。幕府は形式だけ土佐藩に恐れ入れと言うが竜馬は無視する。藩の長崎留守居役の岩崎弥太郎が恐れ入り、お構いなしとなる。
 長崎から長州に行き、ここでおりょうを三吉に頼み、土佐に向かう。ここでは秘密に上陸し、後に親族に会う。

 それから京都に出向く。後藤が大政奉還の為に奔走している。後藤は土佐藩兵を連れていないで口先だけの大政奉還であり、薩摩は何だと思う。西郷や長州は武装蜂起である。後藤は近藤勇にも大政奉還案を話し、近藤は後藤に傾倒する。

 中岡から岩倉が倒幕の密勅を出すことに画策して、それが出る。同時に慶喜が大政奉還をする。竜馬は大政奉還した慶喜を高く評価する。その後の人事案も考えるが、ここには竜馬は入っていない。竜馬は福井藩で閉門されている三岡八郎(由利公正)の赦免を松平春嶽に頼みに行く。
 その後、京に戻るが、風邪気味で宿舎に寝る。そこに中岡慎太郎が来る。そして刺客も来て竜馬の命を奪う。

「司馬遼太郎全集4 竜馬がゆく 2」司馬遼太郎 著

 この巻からは「坂竜飛騰(ばんりゅうひとう)」と称せられる坂本竜馬が飛躍する時期の物語になる。同時に、幕末の事件が次々に起きてくる。司馬遼太郎はこれら事件について、自分なりの意見も入れて詳述していく。だから司馬遼太郎の時代小説に不可欠な女性の登場が取って付けたようになる。
 そして司馬遼太郎なりの人物評も多いことに再読して気が付いた。好き嫌いも激しく、山内容堂などはボロクソである。この延長に『坂の上の雲』における乃木大将への酷評があるのかと思い至った。

 さてこの巻では、勝海舟のもとで築地の軍艦操練所を拠点として学んでいく竜馬である。竜馬は海舟の引きで幕臣の大久保一翁、永井玄蕃頭などと知り合い、視野を広げていく。そして勝の尽力で、操練所として練習船を持つ夢を実現させる。土佐藩脱藩の罪は海舟が山内容堂に頼んで赦免してもらう。

 こういう中、長州藩、土佐藩の維新の人材が挿話として紹介されていく。長州の周布政之助(重役だが、頭も良く、度胸もあるが、おだてに乗りやすく気が短い)、山内容堂(自分が利巧で英雄と思うが視野が狭い)、来島又兵衛(長州藩の過激派の豪傑)、高杉晋作、山地忠七(土佐藩士、日清戦争の独眼竜将軍)、乾退助(土佐藩士、後の板垣退助)、近藤長次郎(土佐藩、元饅頭屋で、塾での竜馬の片腕)など次々と登場する。司馬遼太郎の歴史夜話的な話である。

 幕府の蒸気船に乗れるようになるから、勝海舟の指示も受けて大坂と江戸を何度も行き来する。以前ならば歩いての道中だが、幕末は次から次へと新しい銃砲が登場する武器革命の時代だが、交通革命も起きていたことが理解できる。

 また勝の紹介で、越前の松平春嶽とも知り合うが、この殿様は坂本竜馬と会い、彼を評価し、越前公からの山内容堂への竜馬赦免要請も出る。

 武市はこの頃は土佐藩で影響力を高め、京都で影の土佐系暗殺団を影で示唆していた。勝海舟が京都に来た時に竜馬は勝を殺さないように武市に言い、岡田以蔵には直接言い含めて、勝の用心棒とする。
 三条家は攘夷公卿として有名だが、そこにいるお田鶴さまも三条家の一員らしく、竜馬に攘夷に起ち上がるように促す。
 お田鶴さまに会う約束の前に火事に出会う。そこで火災の中から人助けをすることで安政の大獄で死んだ楢崎将作の遺児のおりょうを知る。そしておりょうを寺田屋の養女に手配する。

 越前藩の三岡八郎(後の由利公正で五カ条のご誓文の起草者)に神戸の海軍塾の購入代金の交渉にいく。そんな経緯で神戸軍艦操練所ができ、そこに土佐脱藩浪士なども勧誘する。紀州藩の脱藩浪士伊達小次郎こと後の陸奥宗光も入所する。土佐の浪士は後に吉村寅太郎の大和の天誅組の義挙に参加して斃れる者も多い。
 ちなみに土佐郷士は武市半平太の土佐藩自体を勤皇にしようとする武市半平太の土佐勤王党、吉村寅太郎の過激暴発派(天誅組事件)と竜馬の海軍派のように別れていく。ちなみに土佐には天保庄屋同盟と言う組織が天保年間にできて、そこでは庄屋は藩ではなく、天皇から任命された職という一君万民の平等思想が広がっていたそうだ。

 土佐では山内容堂が藩政に戻り、勤皇派を弾圧していく。郷士を捕らえ、拷問し、吉田東洋暗殺の黒幕の武市の罪を暴いていく。武市が国元で投獄され、岡田以蔵の証言で他の武市の暗殺示唆が明らかになって切腹させられる。見事な最期だったようだ。これ以降、土佐郷士の脱藩は増える。

 時代はどんどん動き、長州藩への外国艦隊の砲撃がある。このあたりに竜馬が新撰組に襲われるエピソードを入れる。そしてこの時は藤堂平助が組長で、北辰一刀流の同門で竜馬を見逃すような筋にしている。後に藤堂平助は御陵衛士として新撰組を抜け、殺される。

 江戸の清河八郎の暗殺事件や新撰組の活躍=尊皇攘夷の志士の惨殺が横行する。薩摩の人斬り田中新兵衛の姉小路卿暗殺事件を書く。薩摩と会津が手を結んだ八月一八日のクーデターで長州は追い落とされる。薩摩と長州が犬猿の仲になっていく様子を書く。

 江戸に戻り、千葉道場のさな子とのことが色取りを添える。さな子の方から告白するが、この後、ついの別れになる。
 土佐勤王党弾圧を逃れて、北添佶摩などの土佐脱藩浪士が来るが、彼等を死なさないために蝦夷地開拓に使おうと行かせるが、北添は後に池田屋事件で死ぬ。

勝が長崎に行く時に同行する。長崎が気に入り、熊本で横井小楠に会う。

 高杉晋作の長州、西郷隆盛の薩摩の、それぞれの国元の状況を書く。京都で長州藩は暴発する準備をする。古高俊太郎の家で準備するが、新撰組に感づかれ、池田屋事件となる。

 この後、長州藩による禁門の変が起こる。この時は薩摩がおさえる。

 池田屋事件や禁門の変で、神戸海軍操練所の学生が参加していたことから、勝海舟は失脚して、神戸海軍操練所も閉鎖となる。ここで薩摩を頼ることになる。
 おりょうといい仲になるエピソードが挿入される。また乾退助から三条家のお田鶴さまの消息を聞く。神戸の操練所が閉鎖されて竜馬が去ったあとに、お田鶴さまが男装でここに寄り、またおりょうも来て、2人が会うという設定をつくる。

 勝海舟失脚の後は、薩摩藩が竜馬の後ろ盾になっていくが、西郷隆盛の人となりが語られる。その西郷と深く知り合うようになる。
 そして竜馬の胸に薩摩と長州の同盟のことが思い浮かぶ。西郷の上司の小松帯刀が登場する。貿易会社に出資ということで竜馬は薩摩を誘う。

 薩摩藩邸でやっかいになる。長州藩の内情や薩摩藩の内情が語られる。第一次長州征伐で長州の勤皇派は壊滅して、門閥派の天下になる。この第一次長州征伐を参謀として指揮したのが西郷隆盛。

 土佐藩の脱藩浪士は長州藩に面倒をみてもらっており、また長州に落ち延びた五卿を守っている土佐浪士土方楠左衛門久元などがいる。中岡慎太郎は長州忠勇隊を率いていた。

 幕府は第二次長州征伐をしようとしている。この時、フランスの援助で戦おうと小栗上野介などが画策している情報を得て、これは植民地支配を招きかねない危険なことだと竜馬は西郷に言う。ここで長州との同盟を求める。

 長州では絵堂で上士軍が奇兵隊などに破れ、高杉晋作も出て、クーデターが成功する。
桂小五郎も帰ってくる。
 竜馬は長崎で薩摩藩の出資も得て、亀山社中を造る。

 いよいよ薩長連合の話が具体化していく。まず、中岡慎太郎が薩摩で西郷を説得し、一方、長州で竜馬がまず五卿を説得し、賛成を取り付け、次ぎに長州藩の桂を説得して薩摩藩と会わすことにする。しかし、この時は西郷はすっぽかして京都に行く。桂は怒る。薩長連合は難産である。