「長崎を識らずして江戸を語るなかれ」松尾龍之介著

面白い視点の本である。江戸時代の長崎で活躍した人物を紹介している本で、大きく次のように5章に分かれている。「1.文化の中心は長崎だった」「2.江戸と京都を長崎がつなぐ」「3.長崎が生んだ三巨星」「4.外国船入港事件簿」「5.全国から集まった遊学者たち」。
「1.文化の中心は長崎だった」では、長崎は「鎖国の窓」とされているが、実は「幕府の表玄関」と評した方がいいと述べる。”鎖国”はオランダ通詞の志筑忠雄がケンペルの『日本誌』を訳する中で創出した言葉である。ケンペルは「日本のような島国で自給自足している国ならば、必ずしも交易は必要ない」とあるのに志筑が共鳴したわけである。一種の攘夷論でもあり、幕末の志士に影響を与えた。ちなみに志筑は、造語の天才で、真空、楕円、重力、加速、弾力、求心力、遠心力、地動説、天動説、衛星の物理用語や、頭痛、熱、風邪、卒倒、心痛、赤痢、麻疹などの医学用語、文法用語の直説法、不定法、副詞、主格などを生み出している。明治になって、これらの言葉が生まれたと思っていたが、江戸時代からだったのである。

 長崎は1571年にポルトガル船の入港ではじまる。1580年に大村純忠がイエズス会に寄進する。1587年に豊臣秀吉が取り上げ、直轄地とし、バテレン追放令がだされる。徳川幕府になり、家康も貿易は認める。イエズス会は慎重に布教活動をするが、後から来たスペイン系の宣教師(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチヌス会)が積極的な布教活動をする。駿府にも広まり、家康側近の岡本大八事件が発覚して、家康は禁教令をだす。オランダ、イギリスの反スペイン、反ポルトガルの宣伝活動も大きい。1637年の島原の乱でポルトガルとの交流に終止符がうたれる。
 長崎の南蛮文化や、養老院・孤児院・病院を兼ねたミゼリコルジアの活動は評価された。教育事業も行われた。印刷も行われる。
 中国が明から清に代わる時代で、明の海外出港禁止の令が解かれて、多くの中国船が来たので唐人屋敷が1687年につくられる。中国の混乱で日本に逃れた人もいる。長崎の祭に中国色が強い。黄檗の僧も来る。書の達人であり、画も黄檗の僧の写生ではなく実在に迫る自由闊達な画風は文人画に受け継がれる。沈南ビン(1731)は北宗画の系統。2年いただけだが、神代(くましろ)彦之進に華麗で緻密な写生画を伝える。彦之進は熊斐(ゆうひ))と号して、宋紫石(楠本雪渓)に伝える。

 8代吉宗は馬が好きで、オランダ人に洋馬の輸入を命じる。
 オランダ通詞の家として本木、志筑、西、吉雄、今村、楢林、加福、堀、中山、名村などの家があり、吉雄幸左衛門耕牛は25歳で大通詞に昇進。医学も学ぶ。吉雄は江戸にオランダ人と同行した時に平賀源内、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周などに刺激を与えた。

 1790年にオランダ通詞誤訳事件が起こる。吉雄幸左衛門は罪を得る。
 その後は、志筑忠雄、馬場佐十郎(36歳で逝去もゴローニンからロシア語も学び、種痘法を紹介)が活躍するが、シーボルト事件でオランダ通詞は壊滅。1849年に牛痘液ではなくかさぶたのまま輸入する方法を楢林宗建が提案し、日本初の種痘に成功する。

 オランダ使節は江戸で屈辱的な謁見を終え、京都で羽目を外し、大坂で銅座を見学、シーボルトは大阪で「妹背山婦女庭訓」を見て、それをもとに「盲目の皇帝」という戯曲の下書きを書いた。下関では町年寄の伊藤家と左甲家が交代でオランダ宿。

 ロシア艦隊が大阪湾に入った。これで孝明天皇は怯え、攘夷を決意される。

 出島の3学者は、ケンペル(『日本誌』)、チュンベリー(梅毒のスウィーテン水を吉雄にわたし、長崎でサルトリイバラ…高価な漢方薬)を見るける。シーボルトである。

 「2.江戸と京都を長崎がつなぐ」では長崎からの見世物も江戸で人気を博したことなどが紹介される。

 ポルトガルはインドのゴアを1510年、1512年にマレー半島のマラッカ、香料諸島に到達。30年後に種子島。南シナ海を北上、中国大陸南岸に反って北上、台湾海峡を過ぎると鹿児島。イエズス会は日本をカミ(京都) 府内(大分)、シモ(九州)に分けて布教。
 トルデリシャス条約(1494)によって大西洋上に境界線をひき、東側をポルトガル、西側をスペイン領とした。
 スペインは、領土としたメキシコからフィリピンには、往路はアカプルコから南下し、赤道の北を流れる海流と貿易風で2、3ヶ月後にフィリピンに到達したが、帰りのルートはみつからなかった。1565年に進路を北東にとり、岩手県あたりまでいき、そこから北西の偏西風に乗ればメキシコに帰れることを発見。だからスペイン船は日本の東海岸に来て、江戸にもくる。当初、家康が浦賀を貿易港としたことがある。スペイン船が房総沖で難破・座礁したり、仙台の伊達政宗の野望も、このスペインのメキシコルート発見の結果である。

「3.長崎が生んだ三巨星」では、その一人、西川如見が『増補華夷通称考』(1708年)で世界地図を示す。マテオリッチの地図を参考にしている。西川如見は吉宗が改暦の必要性を感じていて、諮問を受ける。吉宗がキリスト教以外の輸入を認めるきっかけとなる。

吉雄幸左衛門耕牛は、医学で貢献。江戸に13回も来ていて江戸蘭学の祖である。チュンベリーの水銀水(塩化第二水銀)を用いた梅毒の薬を学んだ杉田玄白は1802年に年収で514両と莫大な冨を得る。(滝沢馬琴が40両程度)

高島秋帆は砲術のソフトウェアも教える。弾道計算。志筑忠雄が47歳で亡くなるが、末次忠助、池部啓太がそれを学ぶ。佐賀藩も学び、高い砲弾の的中率を見せて、川路聖謨、筒井政憲らのプチャーチン応接係を驚嘆せしめた。

 「4.外国船入港事件簿」として、1640年に74人のポルトガル船が入港したが、幕府は61人を斬首して、他は送り返す。1647年に最後の南蛮船サン・ジョアン号が来港。幕府は48、000人で取り囲む。
 オランダとイギリスは香料諸島をめぐり、アンボイナ虐殺事件がおこり、イギリスは平戸の商館を閉じる。1673年にリターン号を長崎に。オランダは幕府に言って邪魔をする。イギリスはオランダ人は踏絵という屈辱的なことをして貿易していると批判。それがガリバー旅行記に反映されている。

 オランダはナポレオンに併合される。東インド会社は窮地に陥り、米船エリザ・オブ・ニューヨーク号の船長スチュアートなどを使って貿易を試みる。スチュアートは、色々な方法で何度も日本に来ていた人物である。

 フェートン号(イギリス)事件は、1808年にオランダ国旗で入港。確認に行ったオランダ人が人質になる。水と食糧を求めてきたわけだが、時の長崎奉行松平康英は焼き払おうとしたが、オランダ商館長は人質のことで思いとどまらせる。解放と同時に、イギリス船は出航してしまう。奉行は切腹し、佐賀藩は長崎派遣の番頭2名が切腹、藩主斉直は譴責を受け蟄居となる。佐賀藩はこれで生まれ変わる。

 ペリーが来日後に、オランダは日本の為に、開国をすすめる親書を届ける。オランダ蒸気船スンビン号が来る。艦長はファビウスで商館長はクルチウスだった。ファビウスの意見書で、日本側は蒸気船を学びにきて、福岡藩主も来る。細川侯や奉行の水野忠徳も来て、提案通りに長崎海軍伝習所ができる。

「5.全国から集まった遊学者たち」として、『長崎遊学者事典』(平松勘治著)を原典として、江戸時代のはじめから、長崎遊学に来た人物を列挙している。前期(元禄年間まで)の遊学者は44名で、林羅山や向井元升、嵐山甫安など。
中期(18世紀)は118名。三浦梅庵、平賀源内、島津重豪などである。
後期は686名で長州藩が佐賀藩(70名)や福岡藩(68名)よりも長州藩(82名)と多い。

「加賀繁盛記」山本博文著

 山本博文氏の著作は実に読みやすい。学識が豊かで、頭が整理されていた証左だが、残念なことに近年逝去された。
 この本は、加賀前田家の藩主の事績を史料に基づいて記されている。前田利家の息子の利長、その弟の次ぎの利常、その子の光高、次の綱紀という4代である。

 慶長3(1598)年豊臣秀吉が没する。翌年に徳川家康とともに豊臣家の柱石と目された前田利家が逝去する。結果として、利長は大坂城で秀頼の後見人となるが、慶長4年に利長は金沢に帰国する。ここで利長謀反の噂が流れる。家康はこの噂を好機として、北陸出兵を口にする。この時、利家の妻(利長の母)と利長の妻が伏見にいて、家康方の人質になる。利長は家臣横山長知を使者に立てて弁明させる。家康は、弁明を受け入れるが利長の母の江戸行きをもちかけ、秀忠の娘を利常に嫁がせることを決める。

 関ヶ原時に当然に西軍からの誘いはあるが、利長は大谷吉継、増田長盛に不信感(母の人質の件を相談した時、江戸下向に賛成)を持っており、東軍として加賀小松の丹羽長重、大聖寺の山口宗長を攻める。丹羽勢と浅井畷で戦い負け、包囲中に能登の弟前田利政が利長に従わずに止まったために、利長の兵はとどまることになる。

 戦後、利常と秀忠娘の婚儀が慶長6年に行われ、翌年、利長は江戸参府、慶長10年に44歳で隠居し、利常(13歳)に家督を譲る。
 慶長16年に本多政重(直江兼続養子、本多正信次男、兄は本多正純)を藤堂高虎の斡旋で家老に迎える。当初、利常は煙たがっていたが、後に感謝する。本多政重も古参の家老連に気を遣って仕える。母の芳春院が帰国し、慶長19年に利長は逝去。

 利常の屋敷に元和3年、秀忠が御成(諸大名家の一番手)。元和6年、金沢城で火災。利常は妻(珠姫…秀忠娘)と仲が良かった。8人の子を産む。姫のために金沢城下に芸能の興業も盛んになる。元和7年には伊勢踊りが流行する。
 寛永8年に16年前の大坂の陣の戦功の見直しとして加増などをした。これに幕府は疑心を抱く。外様大名が些細な理由で改易される時代である。そこで利常と嫡子光高(17歳)は慌てて江戸に参勤する。当初、幕閣は冷たく応接するが、利常は江戸中の植木を購入して道普請をする。土井利勝は横山康玄を登城させて事情を聞く。そして疑念と解く。この時、秀忠の病状が悪化していた。

 光高は生まれながらの藩主として、わがままだが、聡明で武将らしい勇気もある。家光の養女で水戸徳川頼房の息女と婚儀。17歳と7歳である。寛永16年に利常は隠居する。 光高と家光との関係はよく、家光は前田家の児小姓の踊りを好む。芝増上寺近辺の火災時には前田家は消火を手助けする。利常は消火の手助けなどをせず、増上寺が焼けたら、前田家で再建するのが大名の奉公と述べる。
 寛永20年に大姫が男子(綱紀)を出産。正保2年、光高は頓死する。この頃の大名家には、まま、このような毒殺、家臣による暗殺などの疑いがある死がある。利常は大いに嘆く。利常は3歳の綱紀の後見として藩政をみる。
 そして改作法という年貢徴収方法の改革を行う。藩士の知行地支配を制限し藩が農民から登用した十村を活用して、農民の疲弊を防ぎ、藩士の収入を保証する制度である。

 承応3年、綱紀は12歳になり、江戸城で元服式。万治元年に保科正之の娘と婚儀。前田家は江戸城の天守の石垣工事を担当。利常は小松に帰城して死去。享年66歳。殉死者が6人でる。この5年後の寛文3年に家綱が殉死禁止令を出す。
 藩主が幼いから、幕府は加賀藩に国目付を派遣。国政は従来通りを基本とし、万事は家老たちが相談し、家老が決し難いことは岳父の保科正之の指図を受けることにする。
 寛文元年に綱紀(19歳)が初入国し、藩主らしい仕事をはじめていく。

「江戸の災害史」倉地勝直著

 この本は、江戸時代に生じた災害(地震、津波、噴火、大火、疫病流行、飢饉、水害)を取り上げ、それによって生じた現象や意識変化、対策(伊勢踊りの流行、仁政への意識、怪異現象、流言、救恤、諸国高役金、御手伝普請、拝借金、国役普請、消防制度、打ち壊し、農書、治水、名代官、藩政改革、勧農富民、献金侍、ええじゃない、世直り)などを論じていく。

 江戸時代を、慶長の初めから明暦の大火まで、綱吉治世の元禄関東大地震から享保時代まで、宝暦期から天明の飢饉まで、そして寛政の改革から安政江戸地震、安政コレラ騒動までの4期に分けて述べていく。

 この本で知ったことを列挙していく。
●江戸時代は今の常識では短命であり、還暦を祝うことは希で「四二歳賀」の祝いが主だった。
●津波という言葉は伊達政宗が使ったことが初見
●島原の乱後に領主として撫民政策が意識され、天草に派遣された代官鈴木重成が領民から慕われ、鈴木神社が祀られる。
●三大飢饉とは別の寛永大飢饉は西日本で牛疫、旱魃、大雨・洪水と続いて大変だったことが記されている。この時も仁政が意識される。
●都市が大きくなるに連れて都市災害と言える大火が明暦から起こる。流言が生じ、記録文学『むさしあぶみ』ができる。
●元禄関東大地震では地域ごとに供養費=教訓碑が登場する。
●宝永大地震と冨士山の宝永大噴火で、小田原藩は大変な被害を蒙り、領地の半分程度を上知(幕府に返上)して幕府による復興を求めている(小田原藩は別の知で知行をもらう)。
●冨士山の宝永大噴火の時、幕府は諸国から特別税ともいえる「諸国高役金」を課している。48万両以上集まるが、復興には16万両で、残りは幕府の赤字補填に使われたとも言われる。
●河川の復興を大名に手伝わせる御手伝普請も行われるようになる。(この時代までのお手伝いは、城や寺社、御所の普請などが対象)
●享保時代は都市火災対策で町火消などの制度を作る。疫病の流行も多かったので吉宗は薬の栽培などに眼を向けた。
●享保の飢饉は大雨、旱魃があり、虫害も広がる。九州・西国の被害が大きい。
●宝暦頃は民間も飢饉に備える制度(囲籾、義倉など)が生まれる。農業書も多く生まれる。
●美濃三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水では薩摩藩が担当し、多額の資金、犠牲者を出した。
●天明の浅間山大噴火、この影響で冷害が生じて天明の飢饉となる。東日本がひどかった。村人の打ち壊しも起き、江戸でも天明7年に打ち壊しが起きる。

●寛政の改革では人足寄場などの対策ができる。この時は幕府に早川正紀などの名代官が生まれる。
●島原大変肥後迷惑と言われる雲仙普賢岳の噴火もある。肥後藩の藩政改革が行われる。他の藩でも藩政改革が行われる。
●天保の飢饉は特に東北地方が酷く、大坂で大塩平八郎の乱という幕府の施政者側の者が反乱を起こす。
●幕末には安政東海・南海地震が発生し、安政江戸地震となる。外国との門戸を開いたのでコレラも流行する。「ええじゃないか」の騒動も起こり、幕末動乱、明治維新となる。

また、この本では元禄文化と化政文化にはさまれた18世紀後半の宝暦・天明期の文化として昨今言われるようになった「宝天文化」を詳しく論じており、参考になった。

この本では、各災害の被害の状況や、国役負担額、お手伝い普請額と対象工事などの定量的な表が挿入されていて、研究する人には良いと思う。

「ピュリツァー賞受賞写真全記録 第2版」ハリ・ビュエル編著

ピュリツァー賞とは命名された人物(アメリカの新聞王)の遺言で、ジャーナリストの質の向上を目的として1917年に設立された。報道写真部門は1942年に設けられたものである。
 その第1回の受賞作品から2015年のものまでが網羅されている。写真と、それを撮ったカメラマンの物語(事件の背景、カメラマンが現場に出向いた経緯、掲載されてからの賞賛・批判、その後のカメラマンの人生など)も簡単に記されていて、これも興味深い。
 
 賞を受けた写真であるから、ある事件における決定的瞬間を捉えた衝撃的な作品が多く、ある意味で残酷な画像である。もちろん新聞社も、掲載するに当たって配慮していると思うが、論議を巻き起こした写真も多い。

 我々の記憶に残る有名な写真もある。例えば硫黄島に星条旗が立つところの写真、浅沼稲次郎刺殺事件、ベトナム戦争の時に川を泳いで逃げる母と子らの写真、ナパーム弾から裸で逃げてくる女の子の写真などである。
 この本で始めて知った写真もある。天安門事件時に中国当局によって殺された学生をかかえて逃げる学生達、スーダンで撮られた小さな女の子がうずくまる横にハゲワシがいる写真、エリツィン大統領が選挙戦の最中にステージで若者と踊る写真(「踊るロシアの熊」とタイトルがついている)も印象的である。

 対象の写真はアメリカが中心であるから、馴染みの無い事件の写真もある。
 本の間(写真機の変遷の過程)で、その時代のカメラの発展の歴史も記されていて興味深い。当社は大版カメラの時代、朝鮮戦争の時代から少し小さいローライフレックスなどの2眼カメラ、そして35ミリカメラ、モータードライブの登場で連写が可能、フィルムカメラの感度の向上、そしてカラー写真、デジタル化、そして女性報道写真家の登場と変化する。そして今は素人がスマホで撮って、ネットにアップということも存在する。加えて写真の改変が実に簡単にできるという脅威も加わる。また素人が撮って、そのままアップとなると、これまで新聞社の中で、掲載すべきか否かを厳しく審査していた部門などが無いことになり、倫理観にも懸念が生じるという危機を迎えている。

 現代の世界史を学ぶ資料にもなっている。

「地形から読み解く日本の歴史」(別冊宝島2159号)

 雑誌の一種であり、その為にビジュアルを使っての解説が豊富である。ただし、その分、うさんくささも感じてしまい、どこまで正確かはわからない。
 駿府、江戸、安土、大坂、奈良、鎌倉などの土地と、合戦があった福岡、伊勢長島
謙信の妻女山、長篠、関ヶ原などの地形をもとに考察している本であり、面白い箇所もある。

 駿府は今川時代は京都に似せて街づくりをしたと説明し、鎌倉よりも広いが、地形は似ていて防御にも強い。そこに冨士山もあり、家康は駿府城と冨士山が並んで見えるように道路を造ったのではと推測している。

 江戸城は半蔵門から甲州街道が正面だったのではないかと地形から述べている。
 頼朝が鎌倉に拠点を置いた理由として、当時の京都は相次ぐ戦乱で荒れ果てていたからではないかと書いているが、なるほどと思う。
 時代は違うが、家康が関東に転封されたが、当時は西の方は山の木も伐られてしまい、荒れ果てていたから、家康は森林資源確保という面で良かったのではないかと書いてある。確かに木材産地の木曽は尾張徳川家、熊野などの紀州の木材産地は紀州徳川家と、天領として筑後川、天竜川、雄物川などの上流(木材産地)など大事なところを徳川家で押さえている。

 安土を囲む琵琶湖水上ネットワークに信長は目を付けたのではないか。長浜、大溝、坂本と安土は菱形の水上ネットワークを形成できる。

 大坂城のある上町台地は、大坂の湿地帯の中の高台であり、元は信長軍をさんざんに手こずらせた石山本願寺があり、周りは湿地で守りやすかった。南側だけが上町台地の続きで城の弱点だったが、大坂の陣では、そこに真田丸を築いた。

 秀吉が実質的に今のような京都に造り替えた。周囲に御土居、中に城の聚楽第である。

 伏見は水上交通の拠点で、京、大坂にもつながる。江戸期の三十石船は旅客専用で、伏見・大坂間で一日二便運航され、所要時間は上りは1日、下りは半日であった。広島城は瀬戸内海の拠点として、黒田如水が縄張りをした。

 奈良には古代に瀬戸内海から大和川を遡上して渡来人が入って来たのではなかろうか。シルクロードの終点である。それ以降、奈良が今まで古都として守られたのは、奈良派袋小路になって、大坂、京都、近江のルートが日本史の表舞台となり、取り残された土地だからである。今もホテルが少ない。

 大津に天智天皇が都を移したのは白村江の敗戦があったためで、逃れてきた渡来人も、この地を好んだのではないか。古代にも敦賀から琵琶湖を通って帰化人が来ていた。

 モンゴルは草原や平坦なところでは軍事的優位に立てるが、ベトナムでも水上(川)で負けている。

 横浜は水に苦労した土地である。当初は川崎村から二ヶ領用水を分けてもらっており、明治20年に横浜水道が相模川支流の道志川から野毛山まで引かれてから発展するようになる。

伊勢長島の輪中は、一つ一つが堤で囲まれた独立した城のようなもの、外は川が堀になる。
信長も兵糧攻めしか出来なかった。

 上杉謙信が川中島で陣を敷いたのは妻女山とされているが、そこは武田軍の中であり、ありえない。善光寺側に浅川西条という場所があり、そこに岩槻山城が西条城ではないかと三池純正氏が発表し、この方が妥当である。
山ではないか。
 長篠の戦いは、織田・徳川の別働隊が山中を迂回して長篠城を包囲している武田軍を攻め、一部の部隊が敗走した為、武田本体は背後からも挟み撃ちにされるのを恐れ、前の織田・徳川の野戦陣地に突撃して負けた。

 上田城は、それほど堅固でもなく、元は上杉方に対抗する為の城であり、そちら側は堅固だが、徳川方が攻めてきた方は容易なルートなのだが。
 荒木村重の信長への叛旗は、当時の情勢を考えれば無謀ではない。村重が毛利方になれば姫路の秀吉を囲むことができる。家来の高山右近、中川清秀が織田方になったので戦略にほころびが生まれた。村重は尼崎城に一人で脱出したことを避難されているが、これは尼崎城が海岸沿いにあり、毛利軍との連携がしやすかったためで合理的な行動である。

 高松城の水攻めは、それほど大規模でもなく、ポイントになるところに堤を築けば可能。それに対して忍城の水攻めは大規模に構築する必要があり、三成は反対したが、現地を知らない秀吉の命令であり、実施して失敗。

 徳川秀忠が中山道を通ったのは、当時の東海道に比較して大軍として通行しやすかったことや、当時は長野県内の大名もどちらに転ぶかわからないような状況だったので大軍で進軍した。一方、東海道の大名は山内氏など、徳川軍についてくれた。

 関ヶ原の時の長宗我部軍は、前の吉川家、毛利家に対して抜け駆けするわけにいかなかった。朝鮮で吉川広家が武将の抜け駆けを訴えたことがあった。また道以外のところはぬかるんで動けなかった。
 薩英戦争は薩摩が勝った。だから日本の植民地化をあきらめた。

「キース・ヴァン・ドンゲン展」於パナソニック汐留美術館

 ドンゲンはオランダ人だがパリに出て、そこで活躍した画家である。フジタと同時代にパリで活躍し、エコール・ド・パリ(パリで活躍した外国人画家)と総称される画家の一人である。(気が付いたのだが、この展覧会ではエコール・ド・パリという言葉は一切出てこない。だから同時代のフジタのことなども触れていない。今の美術界では、そのようになっているのだろうか)
 第一次世界大戦が終了(1918)し、ニューヨークの証券市場の大暴落(1929)までの「狂騒の20年代」(これはアメリカ市場の言葉だが、パリも浮かれており「レザネフォル」と称する)の画家である。

 ドンゲンはマティスのように色遣いが美しい画家である。その色も鮮やかな色ではなく、濃い色が私には印象に残る。緑は暗緑色から黄緑色まで彩度と色合いの違う色を駆使しているが、濃い緑が特色と感じる。緑の補色とも言えるオレンジ色の周辺の多様な色も使っている。そして青も濃い重たい青(藍)から鮮やかな青、そして水色とも違う灰色と青が混じったような色まで使って、印象的である。

 画題は女性が多い。また風景画もあり、本の挿絵用に描かれたデッサンも展示されていた。
 人気作家になった時は、パリの社交界の淑女から注文が非常に多かったようだ。確かに、当時の貴婦人が描いて欲しいと思うような肖像画を遺している。
 女性の絵は目を濃い緑色で隈取り、アイシャドー的に目の周りを埋めて、周囲の頬に橙色系を差すようなのが印象に残っている。当時から、このようなアイシャドーがあったのかもしれないが、ドンゲンの工夫だろうか。

 また女性はホッソリした身体が多い(具体的なモデルがいる肖像画はそうでもないが)。当時の女性はこのような身体に憧れたのであろう。
 今回の展示における女性を描いた画は、「女曲馬師」(緑の衣装を着て、丈の短い衣装を着て横座りしている女性)、「ターバンの女」(西洋の女性なのだが、白髪を束ねたように見える白いターバンを頭に巻き、目が大きく印象的な女性だ。松方コレクションの1枚)、「フォンテーヌ夫人」(縦2㍍ほどの大作)、「婦人の肖像」(胸を大きく開けた服を着て首飾りをつけた端正に写実的に描いた婦人像)、「ドゥルイイー指揮官夫人の肖像」(縦2㍍以上の大作で、黄色の衣服を着てスラッとした夫人像で気品もある)、「緑のスカーフ」(深緑のスカーフが大きく開けた襟元にある女性像)などが印象に残る。

 女性像にはヌードもある。ヌードだから衣装の色は無いが、肌に電球の光を当てて描くのを好んだと解説にあったが、肌の白さが際立つと言う慣用句があるが、”白さ”と言うほど白くはないのだが、女性の肌が目立つ絵である。

 風景画もいい。私は「乗馬(アカシアの道)」という作品が気に入った。ポーラ美術館の所蔵品とある。左右は様々な緑の森、真ん中の白っぽい道は遠近感を持って奥に行くに従って狭くなる。その道の真ん中を2頭立ての馬車、御者がいて紳士が乗る、左に男女それぞれの2頭の乗馬姿、馬は脚が上がり軽快な姿態だ。右に自転車に乗った人物が奥に向かって走る、さらに右の歩道に散歩する人々。当時の交通手段を全部取り入れたような作品だ。「コンコルド広場」(キチンと建物を描いて、空の雲が印象的な作品だ)、ヴェネチアの「サンタ・マリア・デッラ・サルーテ」(これもしっかりしたデッサンで建物を描き、空、月も印象的、運河の水の色などが何とも言えない)などが記憶に残っている。

 この美術館はルオーの作品コレクションが多いとのことで、ルオー作品を並べた小部屋があった。最近、購入したルオー作品が飾られていて、その作品に関するルオーの子孫の方の思い出話を元に、その絵を科学的に分析して、今の絵の下に同一人物の肖像画があることを発見した経緯が映像とともに説明されていた。モデルを元にした肖像画を、ルオーが晩年に自分の思い出の肖像画にしたというわけである。
 ルオーのコレクションは出光美術館にもあったと思うが、日本人は好きなのであろうか。

 この美術館ははじめての訪問のせいか、入口がわかりにくい美術館だった。歳でカンも悪くなっているのだろう。地下通路が共通に他のビルと繋がっており、建物自体も同じようで迷ってしまった。中に入ってからも狭い通路の横にあり、荷物ロッカーの先が美術館入口かと思ってしまった。
 パナソニックの美術館だが、受付、監視員、警備員等の人員の配置は、あまり合理的ではないと感じた。

「行徳物語」 宮崎長蔵・綿貫喜郎著

 市川市の行徳地区の歴史を書いた本である。共著の為かもしれないが、冒頭部分は歴史書と言うよりは地区の伝承を集めたような内容である。具体的には宮本武蔵が行徳にいたとの伝承(徳願寺には武蔵の遺物もあるので事実もかもしれないが、吉川英治の小説の紹介もある)や里見八犬伝の内容にも触れている。読み物としては面白いが、史書として使用するのはどうかなと感じてしまう。
また共著の為か、全体の構成に重複しているところなどもみられる。

 今は埋もれてしまっている行徳三十三カ所巡りの寺院なども発掘して、紹介しているから、行徳地区の観光案内的な本にもなっている。
ちなみにこのような札所には日蓮宗の寺院はないとあり、なるほどと思う。

 行徳は、江戸川(往古は太日川)の河口に位置し、川の土砂が堆積した自然堤防上に集落ができた町である。昔は、東京の下町地区や、市川市の総武線から南側は遠浅の海であり、それが干上がってできた土地である。
 中世には香取神宮の関所があったように香取神宮とのつながりがあった。伊勢神宮にも葛西御厨という荘園が今の江戸川区、葛飾区、足立区と墨田区の一部にあり、行徳にも伊勢神宮関係の神明宮がある。

 行徳は江戸時代は塩の生産地として幕府が大事にして天領としていた地である。その塩の運搬の為に水運が発達し、行徳→(新川)→(小名木川)→日本橋小網町の水運は江戸初期から活用された。もちろん江戸川を遡り、関宿から利根川に入って銚子に至る水運ルートもあり、ここの塩が野田の醤油の材料にもなったと言う。

 行徳→小網町の行徳船は元は塩の運搬船であったが、房総に出向くのに便利な為に旅客も運ぶようになり、江戸後期には成田参詣や鹿島・香取・息栖の三社巡りの旅客に利用される。当初16艘の行徳船が寛文11年に53艘、嘉永年間には1日に62艘も運航されたいう。3里8丁(12.9㎞)を渡し船のように毎日きまって往復したので長渡船とも言う。
 ふつう24人乗りで船頭ひとりが漕ぎ手。旅客と魚貝や野菜。そのほかの日用品。荷物の場合は専門の別船があり、これは小田原河岸に着く。
 船賃は寛政5年行徳から小網町まで貸し切り1隻が250文。乗り合いはひとり50文。魚や荷物は小田原河岸まで一隻350文。幕末になると乗り合いがひとり64文となる。

 江戸川柳に「猫実と早稲田は馬鹿で金をため」があり、その意味は、浦安はバカ貝、早稲田はミョウガで金儲けをしたことによる。

 江戸後期には江戸の文人との交流も、この地の裕福な商人との間では繁くなり、この地の文人が『葛飾記』(青山某著)、『葛飾誌略』(馬光著→俳人)『勝鹿図志手繰舟』(鈴木金堤著)を著している。他にも江戸で知られた文人を輩出している。

 行徳の地名は『葛飾記』には本行徳金剛院の開山行人より起こるとある。徳の高い修験者の名前から取ったとの言い伝えであるが、はっきりしないようである。
 初期には吉田佐太郎という人物がこの地に陣屋を持って、尽力したそうだが、この人物もいつの時代の人かについては諸説があるようだ。江戸幕府の行徳領の初代の代官ではないかとも推察している。了善寺を建立した人物である。

 農業の方は、江戸時代初期に、この地にいた狩野浄天(後北条氏の家臣で、ここに土着)、田中内匠(同じく後北条氏の家臣と伝わる)が鎌ケ谷の方から市川市を通って、この地に至る用水路を開削して発展する。内匠掘(浄天掘)と言われている。

 行徳は水辺であり鳥も多く、新浜御猟場もある。昭和42年に行徳鳥獣保護区が設けられた。

 大正8年度の人口と戸数は、浦安9857人1787戸、行徳7385人1365戸、南行徳4018人659戸、市川6497人1357戸、八幡2888人485戸、国分3175人、515戸、大柏3126人445戸、中山3091人475戸であり、市川市の中心である八幡、市川よりも多かったわけである。

 江戸時代に栄えた行徳だが、明治、大正と水運が衰え、それに代わる鉄道の時代になると、総武線の行徳通過を当時の有力者が反対した為に、総武線は市川・本八幡・中山を通るようになり、行徳は陸の孤島として寂れる。
 また大正6年の台風による大津波で、行徳の塩田は壊滅的被害を受ける。死者121名である。関東大震災では、それほどの被害は無く、女子1人の死者である。家屋の全壊3、南行徳で全壊2、半壊7である。
 さらに水害対策で、江戸川放水路が着工され、行徳の町を分断してしまう。
 その行徳が脚光を浴びるのは、地下鉄東西線が昭和44年に開通してからである。

 なお行徳から、幕末~明治にかけて横綱:境川浪右衛門が出る。慶応2年十両筆頭時に姫路藩の抱えとなり増位山大四郎と改名。明治元年11月に小結、翌2年3月に関脇、3年3月に大関。ここで境川に改名。尾張藩に抱えられる。

私の趣味(刀装具収集)の方に関係するのだが、行徳領の元禄以降の代々の代官の氏名が東葛飾郡誌にあり、それが列挙されているが、文化2年から文化3年に中村八太夫がいる。

「司馬遼太郎全集45、46 項羽と劉邦」司馬遼太郎著

 漢楚軍談として知られる漢建国時の英雄の物語である。秦の始皇帝が春秋戦国時代と呼ばれる群雄割拠の時代を武力で平定して中国を実質的に統一したのが紀元前221年である。始皇帝は自分を民衆の前にさらす(巡幸)ことで偉大さをみせつける。今も兵馬俑が残るが、各種土木事業を盛んにし、その為に民衆の反感を買う。その巡幸の途中で始皇帝が死ぬ。死に立ち会ったのは宦官の趙高だけであり、彼が当時の宰相の李斯も丸め込み、跡継ぎとされていた始皇帝の長男の扶蘇を死に至らしめ、人望のある蒙恬将軍なども捕らえ、始皇帝の末子の胡亥を2世皇帝にして権力を振るう。

 秦の土木作業に駆り出されていた陳勝と呉広は、担当する作業地に行くのが遅れそうになり、遅れれば殺されることから、反乱を起こす。民衆も秦の土木工事動員に反感を持っており、他地域でも乱が起こる。各地に盗人、ごろつき的な親分が生まれる。配下を食べさせることが第一であり、力のある者に集約されてくる。

 漢の劉邦もその一人であり、司馬遼太郎は劉邦の性格・態度を、自分自身は才能は無いが人の意見を聞く度量があり、何となく人が集まる人物のように描く。一方、楚の項羽は、はじめは伯父の元の武将の一人だったが、人並み以上の勇気の持ち主で、頼ってきた人間には優しいが、敵対すると生き埋めで殺すような慈悲の無い武将として描く。
 項羽は戦えば勝つ将軍だが、劉邦は、自身も臆病で戦いには弱い武将として描く。その劉邦、項羽の元に集まった武将や幕僚を司馬遼太郎の解釈で描いていく。あまりにも古代の話で、史料があるわけではないので、これまでの物語(史記や漢楚軍談)から司馬遼太郎は作り上げていく。
 秦にも章邯将軍のように武略に優れ、人望のある将軍がいて、反乱軍は苦戦するが、項羽によって敗れる。章邯将軍など秦の有力な武将は項羽によって取り込まれ、人望を無くしていく。

 項羽の元にも軍師として范増という人物がおり、劉邦の元には張良、武の面では韓信(劉邦に自分の方が武将として優れている、だがそれら武将を束ねることは劉邦の才と述べたと伝わる)、兵站の面で優れた仕事をした蕭何などの人物の姿を、当時の任侠気質、初期の儒学思想、権謀術策の縦横家の思想などを紹介しながら描いていく。
 昔から伝わる物語における各人の人物像を司馬遼太郎は覆しているわけではない。史料が無いわけだから、新説を出せるわけではない。

 結局、項羽が自分一人の才能、勇武を頼り過ぎたこと、頼ってくる人間には優しいが、そうでない人間には冷淡で、生き埋めにするなどして征服した地の人心を得られなかったこと、兵站を軽視したこと、前線で勇敢に戦う人間には厚く報いるが、兵站部分を担当する人間には冷たいことなどで劉邦に敗れる。最後に虞美人を愛し、愛馬のスイを愛し、「力、山を抜き…虞や虞や汝をいかんせん」と詠ずる詩は心を打つ。

 漢帝国が出来てからのことは記していないが、劉邦の部下などの事績を書く中で、それぞれの、その後の運命を暗示するようなことは織りこんでいる。
 功臣は察して身を引かないと、結局は粛清されるのである。

 権力を巡る人間模様は、同様なことが、日本や他の国でも繰り広げられる。そういう意味での教科書になるような物語である。

 司馬遼太郎は、この時代の中国は進取の気性に富んだ時代としてとらえているようだ。
 

「使ってみたい 武士の日本語」野火迅 著

武家の言葉を学問的に記した本かと思って、読んだが、時代小説・歴史小説の表現の中から武士言葉らしい表現を取り上げ、その意味・背景等を解説した本である。
 私の知らない言葉・表現も結構あり、それなりに得るところはあった。
 章は大きく9章に分かれており、「武士の決まり文句」「春夏秋冬が薫る言葉」「武家社会の言葉(1))」、「武家社会の言葉(2)」「剣術の醍醐味を伝える言葉」「行動・しぐさを表す言葉」「人物を評する言葉」「酒と色を語る言葉」「傑作古典から掘り出す、文化遺産的な武士語」である。

「武士の決まり文句」では”大義である(ご苦労さん)”、”やくたいもない(役にも立たない)”、”これはしたり(これは驚いた)”などが解説されている。
「春夏秋冬が薫る言葉」では”薄紅(ヤマザクラ)”、”松風が蕭々と鳴る(もの寂しく松に吹き付ける風の音)”などである。
「武家社会の言葉(1))」では”家中(自分が属する藩)”、”出府(江戸へ行くこと、ちなみに京都へは上洛と使い分ける)”、”上意討ち(主君からの命令による殺人)”、”勘気をこうむる(貴人のとがめを受ける)”などである。
「武家社会の言葉(2)」では”部屋住み(家督を継げないで暮らす人)”、”武士の一分(武士としての誇り)”などである。

「剣術の醍醐味を伝える言葉」では”鯉口を切る(刀の鐔を親指で押して抜ける準備をする)”、”無腰(刀を所持していない、剣豪の極み)”、”鞘走る(意図しないで剣が抜ける様子)”
「行動・しぐさを表す言葉」では”伝法な口調(べらんめえ口調)”、”恬として恥じない(平然として恥じる素振りすら見せない)”、”武張る(愚直な勇ましさ)”
「人物を評する言葉」では”出来物(立派な人物)”、”増上慢(慢心している、自信過剰)”、”圭角が多い(言うこと為すことにカドが立つ)”

「酒と色を語る言葉」では”不調法(たしなみがない)”、”岡場所(安い遊び場)”、”渋皮が剥ける(垢抜けして世慣れる”、
「傑作古典から掘り出す、文化遺産的な武士語」では”利道の一念(仇討ちへの一途な思い)”、”念者(愛してやまない兄貴分)”、”了見ならぬ(かんべんできない)”などである。

「永倉新八恋慕剣」日暮高則著

  知人が書いた2冊目の時代小説である。一作目「板谷峠の死闘」(https://mirakudokuraku.at.webry.info/202202/article_6.html)は忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入り)を題材にしたもので、ハイライトとなるべき死闘のシーンなどは面白くないのだが、ストーリーの作り方に”なるほど”と思わせるものがあり、次作以降に期待したのだが、この作品のストーリーの展開は無理があり、面白くない。
 荒唐無稽ならば、それはそれで面白いのだが、この小説は無理筋である。具体的にどういう点がと言うことを書いてしまうと、これから読む人の興を削ぐことになると思うから書かない。その分、わかりにくい書評になっていると思うが、ご容赦いただきたい。

 永倉新八とは新撰組の二番隊長で、剣の腕は沖田総司に勝るとの評もある人物である。明治維新後まで生き残った数少ない隊士である。
 彼が新撰組時代に京都で芸妓と馴染みとなって、子をなす。維新後に、その子の消息を尋ねる物語を骨子にして、物語を構成している。

 時代小説には不可欠な剣による戦いの描写の迫力の無さや、登場人物として出てくる女性に魅力が無いこと、濡れ場もときめかないなど、時代小説家としての課題も、相変わらず目に付く。

 ただ文庫で355ページの分量を一気に読ませる筆力は大したものであり、指摘した欠点を克服した次の作品に期待したい。欠点克服よりも筆者の長所(ストーリーテラーとしての才能)を活かした作品を期待したい。

「日本の方言」佐藤亮一 著

方言と簡単に言うが、なかなかに奥が深い。方言とは、この本では「その地域に生まれて育った人が、同じ地域の親しい人と話すときの言葉」としている。日本は方言が多い国とあるが、これは江戸時代の幕藩体制が地方分権で、庶民は伊勢参りなどの信仰の旅を除いて移動が制限されていた為と考えられる。

 一方、共通語は地域を越えて広く使われる言語のことである。現代の日本では東京方言が共通語になっている。もっとも同じ東京でも昔は山の手と下町ではかなりの違いがあった。だから首都圏方言が共通語なのかもしれない。

 標準語とは人々が規範として正しいと認識している言葉で書き言葉的要素が強い。
しょっぱい、こわい、行っちゃったは共通語で、塩辛い、おそろしい、行ってしまったが標準語とある。なかなか我々ごときには標準語と共通語の区別もつきにくいが、書き言葉=標準語とするとわかりやすい。

 地域によっての表現の違いが大きい日本語だが、空、雨、竹、机、先生、学校、テレビ、ラジオなどは、音声やアクセントの細かい違いはあっても、全国で同じ言葉が使われている。これらは基礎語彙と呼ばれ、日常生活で多用される言葉が多い。

 同じ対象を述べるのに、方言の数の多さは方言量と言われるようだ。方言量の多い言葉はバカ、間抜けなどのようにマイナスイメージの語や親族名などに多いとある。また子どもの遊びに関する言葉にも方言量が多いとある。

 同じ地域でも、高年層と若年層の使う言葉には大きな違いがある。
 また昔は職業や社会階層による言語差も大きかった。このようなものは社会方言と呼ばれる。これに対して地域差に着目した言語は地域方言と呼ばれる。方言は地域のアイデンティティでもある。

 方言は政治・文化の中心地から、水の波紋のように周辺に広がっていく。だから奈良・京都で生まれ、地方で独自の変化をとげたものが多い。

 この本は「自然」、「食物・料理・味」、「人間・生活」、「動植物」、「遊戯」、「文法的特徴」に分けて各地の方言を調べている。一例をあげると、「かみなり」は語源は”神鳴り”だが、中国・四国・九州の一部や能登半島、下北半島では「なるかみ(さま)」である。これは”神鳴り”よりも古い言葉で、日本列島の両端に分布している。高知は「おなり」、福井西部から京都北部は「はたがみ」、長野北部や秋田・山形の一部では「かんだち(さま)」、長野南部・岐阜周辺・愛知・兵庫では「ゆーだち(さま)」、岩手・宮城・福島・茨城・栃木では「らい(さま)である。広島・香川・愛媛東部では「どんどろ(さま)」というようだ。
 こんな調子で、説明が続く。

 文法的特徴としては接続助詞の「から」を「はんで」「はんて」が津軽地方、「さかい」が京都、近畿南部では「よって」「よってに」、新潟では「すけ」中部地方では「で」が使われる。「雨がふってるから」「雨ぁ降ってらはんで」「雨がふってるさかい」「雨がふってるすけ」「雨がふっとるで」となる。

 また「方言の現在」として、方言衰退の現状や新方言、教育における方言、災害における方言などにコメントしている。

江戸川区郷土資料室

 昨日も暑い日であったが、調べもので、標記施設に出向く。同じ建物で、江戸川区のコロナウィルスの予防接種が行われており、間違えられた。

 防災の特別展示があり、昭和期の刺し子の防火装束などが陳列してある。
 またこの地も、江東区と同様に水害で何度もひどい目にあっており、水害関係の歴史資料の展示もある。
 今の荒川(ちょっと前までは荒川放水路と呼ぶ)や中川は、明治以降に開削された川で、それまでは旧中川として残っている中川が流れていた。
 あとは江戸川区の産業(レンコン栽培など)の様子とかの展示があったが、記憶していない。
 江戸期におけるこの地区の交通路(元佐倉道や四股で行徳道と交差)や水運が盛んであり、行徳との水運のことや、近代の橋の状況などが資料として展示してあった。縄文遺跡もあったようで、その出土物なども展示してあった。
 この地区というか、中世の東国は史料が少なく、よくわからないのだが、下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍があり、そこで甲和里(今の小岩)、嶋俣里(柴又)、仲村里の地名がある。下(南)の方は海である。
 中世の史料として、この辺りには板碑(いたび)がいくつか残っているようで、その展示もある。関東では10万基、都内では4万基の板碑が確認されているようである。13世紀前半から17世紀初頭にかけて建立される。区内最古のものは文永10(1273)年のものである。板碑とは中世の信仰の一種で、石に彫った碑であって、人物の供養の為などで設置される。梵字や簡単な仏を彫り、供養者(建立者)名、建立年月などを彫ったものである。題目を彫った日蓮宗のものもある。石材は緑色片岩であり、これは秩父地方で産出されたものである。荒川、入間川、旧利根川経由の水運で、この地に運ばれたようだ。

 江東区の中川番所資料館と同じく、昭和30年代前半の日本の庶民の暮らしぶりがモデルルーム的にしつらえてあった。蚊帳がつってあるのも同じだ。懐かしさを感じるのか、あるいは小学生などの見学に意味があるのだろうか。

 展示の中には、目指す資料が無かったので、学芸員の方に尋ねて、関連する資料を購入して帰る。

 この近くには水辺に沿った公園もできており、また新小岩駅から途中まではアーケードが設けられていて、日差しを防ぐことができて助かった。
 周囲をもっと散策したかったが、暑くてあきらめた。

江東区中川船番所資料館

 昨日も暑い日であったが、標記の場所に出向く。江戸期の水上交通のことを調べる一環である。
 中川船番所とは、江戸の下町を東西に直線的に横切る運河・小名木川と、旧中川が交わり、この後、旧中川を超えて、新川(舟堀川)を通って行徳に向かうところに存在した番所である。

 通る船は、この番所の前で改めを受けるわけである。船中に乗船している乗客は笠を取り、顔を役人にさらさないといけない。また役人からの質問に答えなければならない。また荷物であれば、その荷と、その荷の通行許可証を見せる必要もあった。

 もっとも江戸後期には多くの船が行き交い、検査も形骸化していった。

 この資料館の場所は、元々の場所ではないが、元の場所のすぐ近くにあり、小名木川、中川の景色も見渡せる場所である。
 建物の中に番所の一部が再現されている。
 責任者は高禄の旗本が任命されたが、彼らの部下が実質の責任者として業務に当たる。もちろん、ここを幕府の高官、大名が通過する時は旗本が現地に出向いたわけである。

 またここを行き交う船の現物大の模型も置かれている。もちろん船にはいくつかの種類があり、それらのミニチュア模型も置かれている。

 小名木川は江戸時代の初期に行徳の塩を運ぶ為に、開削されたものである。その後、本所・深川の下町の埋め立てが進み、様々な物資の運搬や、盛んになった成田詣の旅客などを運ぶようになる。

 展示してある資料に参考になるものがあったが、資料として出版されてはおらず、あるのは江東区の観光案内的なものであった。

 なお、資料館の一角に、昭和20~30年代の庶民の居間が再現されている。また江戸の釣り竿や針などの道具の展示もあった。こういうのも趣味の人にとっては楽しいものであろう。

 こんな地味が資料館であり、夏の暑い中であり、観客は私以外に3人だけであった。
 帰りは暑い中、小名木川沿いや、中川沿いを歩いたが、釣りをしている人を何人かみる。中川をもう少し遡って逆井の渡しまで行こうとしたが、暑くて、ズボンにも汗が付く状況であり、途中からあきらめた。

「江戸東京を支えた舟運の路 内川廻しの記憶を探る」難波匡甫 著

 「内川廻し」とは、、江戸小網町から東に向かって小名木川を通り、中川を横切り、さらに東に向かって新川(舟掘川)を通り、江戸川を横切り行徳、あるいは行徳にも寄らず、江戸川を北に遡り、関宿に至り、関宿から東に利根川を下り、銚子に至る舟の道である。もちろん、逆のルートで、東北の物産が江戸に運ばれたこともある。

 昔は那珂湊から川と陸路で霞ヶ浦、北浦、そこから舟で佐原などのルートである。江戸時代初期に河村瑞賢が開発した東廻り航路は、那珂湊から外房の港に寄ってから、一度伊豆に行って、そこで風待ちをして江戸湾に入る。これを東廻り航路の大廻しと言うが、危険も多かった。

 小名木川→新川(舟掘川)という江戸の下町を真横に横切る川は行徳川とも称されていた。元は行徳の塩を運ぶ為に作られた運河である。もちろん物資の輸送だけでなく、江戸時代後期には成田詣の参拝客も多く利用したルートである。

 船番所は、当初は大川(隅田川)と小名木川の交わる所に設けられたが、寛文元年には小名木川と中川(旧中川)の交わるところに設けられ中川番所となる。現在、江東区中川番所資料館というのがある。

 この本は、現代において、実際に内川廻しのルートを船で辿ろうとして、その現代の旅の様子も書いている。それが為に、学術的な本というより、ガイドブック的になっている。
だから、現代の様子を書きながら、昔のその土地にまつわる話や史跡などを紹介している。もちろん、現代であり、全てを船で廻ることはできず、途中で船から下りて車で移動している。

 古代の東京の下町の様子も記されている。古代は東京の下町は浅草が陸地だが、他は全て遠浅の海、中世になると亀戸が少し高台で陸となる。亀の甲羅はこんもりと高いことで、この名前が付いたともいわれている。亀戸3丁目に香取神社、亀戸天神社、天祖神社という大きな鎮守社が集中。水害に対してより安全な地に集中したと考えられる。

 東京の下町の本所・深川は、明暦の大火後に開発が進む。

 当時の川船の種類の説明もある。大きなものは真岡木綿を用いた帆船の高瀬船。長さ約15.6㍍、幅3㍍で積載量は米1200俵であった。
船が大量に運べるだけに、料金は安いわけである。

 銚子からは鮮魚や醤油、利根川下流の野尻や高田からは干鰯、紋粕、魚油、、佐原や小見川からは酒、木下からは米、材木、薪、野田からは醤油、流山からはみりん、行徳からは塩を運ぶ。
 江戸からは時代や場所で異なるが、綿、木綿などの衣料品、塩。乾物、干し魚などの食料品、荒物、小間物などの日用雑貨品などが運ばれる。

 野田に日本有数の醤油メーカーが育ったのは、行徳の塩、筑波山麓からの大豆、館林、藤岡、古河などから小麦、燃料は下総台地、水は江戸川とわき水。それで野田の醤油産業が生まれた。
 朝、野田河岸から積み出せば、夕方には江戸の河岸につく。

「市川市のクロマツに残る戦争末期の松脂採取痕」調査報告書(市川緑の市民フォーラム)

 市川市は所々に背の高い松の木が残り、市民も愛着を持ち、市の木にもクロマツが選定されている。市街化の進展で背の高い松の木は、ご多分に漏れず、伐採されて少なくなっている。
 それらの大きい松の木の幹には、戦時中に松脂を採取した跡が残っているものが多い。松脂からテレピン油を取り出し、戦闘機の燃料にするという趣旨で、国民が動員されて採取した跡である。
 すなわち、これらの傷がある松の木は「戦争遺産」の一つであるとして、その保存をはかり、当時の無謀な戦争への反省材料の一つとして、伝えていこうとの趣旨で、調査が行われ、まとめられた報告書である。
 『市川市史・民俗編』の執筆者の一人の米屋陽一氏が呼びかけ、市民活動グループが調査したものである。

 松からは樹皮を剥いでの「松脂」の他に、松の根から「松根油」も採れ、松脂は蒸留してテレピン油と固形成分のロジンに分離でき、テレピン油は各種溶剤や塗料の原料になり、ロジンは塗料、接着剤、紙類の表面加工、電子回路基盤用の樹脂に使われるとある。これを昭和19年から航空燃料にしようとして、国は市町村に採取を指示したわけである。
 当時の国に指示内容、新聞記事、この為のポスターなども所載されている。

 2020年10月から、市内各地で松の傷跡の調査が行われ、総計1783本の松の木が調査され、その内、明らかに松脂採取の傷と考えられる矢羽根状痕を持つものが26本、傷跡はあるが明確ではないものが残る松が630本であった。
 その傷跡が残る松の写真もいくつか掲載されている。

 そして、当時、この作業に従事した市民の声を『市川の伝承民話 第5集』(市教育委員会)から抜き出している。こんなので戦闘機の燃料というのでは戦争も負けだと思った人の話もある。古老に改めての聞き取り調査も実施している。

 松脂採取は全国でも行われたわけであり、千葉県下(千葉市、四街道市、成田市、野田市、佐倉市、いすみ市など)や他県(秋田県由利本荘市、秋田市、長野県上田市、東京都日野市、武蔵野市、山梨県北杜市、石川県小松市、加賀市、金沢市、島根県出雲市、福岡県福岡市、佐賀県唐津市など)の調査結果(追加調査をした結果も含めて)を所載している。これらの市の中には戦争遺産として、当該松に説明板を設けているところもある。

市川市民の声には、松脂採取に限らず、松に対する愛着が顕れている。

そして市川市としても、戦争遺産として、これらの松の松脂採取痕を残すことを提案している。
最後に戦争中の松脂採取に関する各種資料、新聞記事をまとめている。労作である。

また別の小冊子「クロマツが伝えてくれる-戦争と市川」(市川緑の市民フォーラム)がある。
これは、上記の調査報告書を、小中学生向けに編集し直した冊子である。内容は上記の本と同様であるが、マンガも入れてわかりやすく説明している。

「室町砂場」と「斎藤コーヒー内神田店」

 神田界隈に懐かしさを覚える友人に誘われて、昼に蕎麦の老舗の「室町砂場」に出向く。
私の事務所から歩ける距離だが、ここははじめてである。もっとも友人が言うには、昔、おまえと来たことがあるとのことであり、彼の記憶の方が正しいのだろう。
 この近辺は蕎麦の名店が多く、「やぶそば」「神田まつや」があり、少し足を伸ばせば神保町に「松翁」がある。私は「松翁」が好みである。

 2人で、それぞれに「天もり」「天ざる」の大盛りを頼む。「もり」と「ざる」の違いは海苔がかかっているか否かではなく、「ざる」は蕎麦の芯だけを挽いた更科系の白さ、「もり」は蕎麦全体を挽いたものである。
 大盛りとは、それぞれに「もり」と「ざる」の蒸籠が1枚ずつ付くものだ。それはいいのだが、「天ざる」の価格+「ざる」の価格になり、2400円近くになり、高いと感じる。
 雰囲気は昔の蕎麦屋らしく、それなりである。つけ汁の中に天ぷらがはじめから入っている。暖かいつゆだが、友人に言わせるとつめたいつゆに天ぷらというのも頼めるようだ。甘めのつけだれである。
 不味くは無いが、価格の高さに驚いたというのが本音である。蕎麦の香りということでは、栃木県葛生の山奥の出流山というところで食べた新蕎麦の味が忘れられない。

 その後、友人は、やはり昔の思い出の喫茶店として、斎藤コーヒー店に出向く。普通のホットコーヒーを頼んだのだが、非常に美味しかった。テイクアウトも行っており、近在のサラリーマンやOLの来店もひっきりなしであった。味も良く、こくもあり、好きな味である。地元にも美味しいコーヒーを飲ませる喫茶店はあるが、価格は500円を超える。それに対して、ここは価格もリーズナブルで300円程度だったと思う。周囲の人で混雑しているのも理解できる。

 彼の若かりし頃のセンチメンタルジャーニーへのつきあいで、楽しかった。

DIC川村美術館「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」展

 DIC川村美術館は良い美術館と聞いていたが、はじめての入館である。佐倉市の郊外にあり、広大な敷地で、その中も自然の植生も残しながら、大きな池を中心に遊歩道や、芝生の広場などが整備されている。ただし、今回は庭園はほとんど観ていない。

 今の企画展は「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」である。カラーフィールドとは、1950年代後半から1960年代にかけてアメリカを中心にした抽象絵画とのことである。大きなカンバス一面に様々な色彩を用いて、場(フィールド)を創出したと解説にある。

 このような絵画を収集しているカナダにあるマーヴィッシュ・コレクションから9名の作家の作品40点ほどと、川村美術館の館蔵品10点ほどで、総計50点ほどの展示である。
 私が名前を聞いたことのある作家はフランク・ステラだけで、他は始めて聞く名前の作家である。
 色がきれいだとか、色の組み合わせが素敵だとかの感想は持たなかった。ただ芸術家は表現として、色々なことを試行をしているものだと思う。キャンバスの形から変化させている作家、色を塗り重ねずに、並べている作家、一色だけの作家、筆の跡を見せながら色を塗っている作家、同系統の色の微妙な違いを出している作家など様々である。いずれも大きなキャンパスである。

 いい絵を観た時に感じる「驚き」も感じなかったから、私の感性には合わなかったのだと思う。絵ばかりでなく、アンソニー・カロという彫刻作家の作品もあった。シンプルな抽象彫刻である。

 その中で、惹かれた作家は、塗りたくった太い筆の跡をカンバスに残しているオリツキーという作家だ。面白いと感じた。

 常設展示では、レンブラントの「広いつばのある帽子をかぶった人の肖像画」が目玉作品のようで、この1点だけが飾られた部屋が存在した。ルーブル美術館のモナリザの部屋と同じ展示スタイルである。光の濃淡(明暗)がくっきりした、いかにもレンブラントらしい絵である。

 印象に残ったのはルネ・マグリットの作品である。2点出ていたが、心にひっかかるものを残す作家である。「冒険の衣服」という絵では、変な亀のようなものが空を飛び、それをバスタブに入っている女性が下から触っているようなわけのわからん画題だが、色もなんとも言えずに静かで心地よく、不思議な感情を沸き立たせてくれる絵だ。

 マルクシャガールのいつも観る作風の少女趣味的な画題の絵が2点あった。少女趣味的と書いたが、この2点は力があり、色も濃くて観る人に迫ってくるような絵で、力強さを感じて、さすがだなと感じる。

 ピカソの「肘掛け椅子に座る女」はグレー調の色彩の中で、椅子に変な物体がいて、ハッとする絵だ。
 マティスもよく見るような作風だが、この人の色彩センスが素晴らしいと思う。

 美術館の外部の鬱蒼とした木々の森がウインドウ超しに、作品のように見える場所もあった。この風景こそ、カラーフィールドだと感じた。
 駆け足的な観覧であり、改めて再訪したい美術館である。

リストランテ カステッロ

千葉県佐倉市にあるイタリアンのレストランである。テレビのアドマチック天国とやらで紹介されて、美味しいとの評判とのことで、男、それも年寄りばかりの4人で出向く。

 平日の木曜日の昼、しかも非常に暑い日であったが、駐車場は一杯であった。ランチの3850円のコースであったが、評判に違わず、実に美味しかった。
 前菜は「シェフ特製の12種の前菜盛り合わせ」とのことで、四角く四隅を軽く絞ったような大きな白いお皿に、チーズが2種類、小魚の唐揚げ、生ハム、エビ、マグロなど12種類を色合いも考えて一つずつ置かれていた。何の魚かを聞いたが忘れたか、小魚な唐揚げ風な前菜が印象に残っている。まず目の前に提供されると、食材の種々の色の美しさと12種類のバラエティあふれる素材でワォーとさせられる。
ちなみに、ここは食器の色、模様なども美しい。

 次ぎに「夏野菜のガスパッチョ」として冷製のスープである。真っ白な丸い大きな受け皿に、真っ白な丸いスープ皿に、恐らくトマトも含まれているのだろう、そういう色合いのスープである。次に控えるメインに向けての食欲をそそる味である。

パンはピザ生地の柔らかいもので包まれ、中に空洞ができているもので、名前は失念したが、ロゼッタと呼ばれているものかもしれないが、暖かい内に食べると柔らかくおいしい。もちろん時間をおいても、それなりにおいしいパンであった。

 そしてパスタ料理で、これは4種類からの選択で、私は「緑野菜のヴェルデソース スパゲッティーニ」を選んだ。きれいな緑色のスパゲッティである。丸い大きな皿にスパゲッティを入れる深みがある白い皿である。

 メイン料理も選択性で6種類あり、内1種類は追加料金が必要な「常陸牛ロースのタリアート」というものであったが、私は「和牛頬肉の赤ワイン煮 マッシュポテト添え」を選んだ。これは実に美味しかった。肉は軟らかく、何の抵抗も無く、繊維に沿って口の中で柔らかくほぐれる感じで、添えてあるマッシュポテトも実に肌理細やかにクリーム状にしてあり、一緒に口の中に入れると幸福感に満たされる。金の縁取りをした白い大きなお皿で出される。お肉の色はビーフシチューの色、ポテトの色も、いつもの色であり、色の見た目は平凡だが、味は非凡、大したものである。

 他の人が頼んだ「金目鯛のカルパッチョ仕立て」を1枚、味見ということでいただいたが、これも美味しかった。夏らしい味と言ってもわからないだろうが、そんな印象を持つ。

 デザートは「小さなデザート5種の盛り合わせ」でアイスやプリン、ショートケーキ、などで、前菜と同様に各種の色が鮮やかで楽しく、満腹感を満足させてくれる。前菜とデザートを対比させている感じだ。

 最後の飲み物として、私はイタリアンの時はエスプレッソだ。満足感と一緒に、一気に飲み干す。
ここだけで満足である。

水(ただの水)だけはあまり美味しくなかった。ミネラルウォーターを別に頼んだ方が良い。

「司馬遼太郎全集53 アメリカ素描」司馬遼太郎著

 先に同全集53巻に収録の「ロシアについて」を読んだが、今度はアメリカである。
 文明と文化を司馬遼太郎は区別していて、日本は中国文明の中の日本文化を育んだとし、アメリカは、まさに文明だけで出来ていて、これからアメリカ文化が育つのではないかという視点で書かれている。こういう予見で、アメリカを観ているから、興味深い面もあれば、偏って、自分の予見に合致するものを観ているのではないかというような気もしてくる。

 司馬遼太郎は文明と文化を次のような視点で区分している。
 ・文明は普遍性・合理性・機能性を持つ。一方、文化は特定の集団にのみ適用する特殊なものという視点でも説明される。
 ・文明は人工的なもので、文化は自然に生まれ育ってきたものとも書いている。
 ・文明は多民族国家に生まれるとも書いている。
 ・カリフォルニアで食べた寿司はうまかったと書き、それは生ものだろうと、旨いものなら食べようという合理精神、これも文明から生まれているのではと書いている。

 アメリカの広さに対する恐れを感じていることや、カリフォルニアの緑はスプリンクラーで維持されていることなども書いている。スプリンクラーは私もロスに行った時に驚いた記憶がある。

 アメリカに行く前にある人(在日韓国人)から「地球上にアメリカという人工的な国がなければ、地球の他の一角に住む我々も息苦しいでしょう」という言葉を聞いたことを紹介する。私自身も、アメリカにそのような印象を持つ。最近は陰りも出てきているが、人類の希望的な国家でもあり、このような明るさを持つ国でもある。

 司馬遼太郎は2度訪問し、西海岸のカリフォルニアは1部に、ニューヨークなどの東海岸は2部にまとめている。
 1部では、この時期は韓国移民が増加していた時期のようで、その印象を書いている。彼らは、これまでの移民(中国、日本、ベトナム)が自国の貧から脱出してアメリカに渡り、低廉に労働力を売って底辺で生きてきたのに対して、韓国移民はチャンスを求めてアメリカに渡ってきたという感じで記している。
 ベトナム難民の移民社会も記しているが、ベトナムは、日本と同様に中国文明の傘の下で文化を育んできたが、自国にある中国文明の残滓を認めたがらないと書いている。こういうのも劣等感の一種であろう。

 もう一方でWASP(白人でアングロサクソンでプロテスタント)というアメリカのエリート層に多いグループにも興味を持って書いている。日本人の学歴志向、大企業志向を、先方の人からの質問で、際立たせるように記したり、昔の排日問題から当時の自動車産業を中心とする対日脅威論や、アメリカ社会の黒人問題なども当然に関心を持って記している。またアメリカには英雄を待望するようなところもあるとか、一種独特の親切心があることも記す。またゲイ問題(当時はLGBTという言葉は無い)にも関心を寄せている。

 2部はアイルランド系移民のことから書く。昔の大工業都市フィラデルフィアの現在の寂れ方を観て、都市でも役に立たなくなったら使い捨てにする精神に驚いている。古いことに変なノスタルジーを持たずに、利益を求めてダイナミックに向かって行く資本の論理に驚いている。これがアメリカだ。

 海、船が司馬遼太郎は好きで関心があるから、日露戦争時にロシアの軍艦をフィラデルフィアで造ったこと、そこに小村寿太郎に縁のある若者が働いていたこと。そして当時は新興国のアメリカも軍艦を造れるほどの技術力を身についていたこと、そして、その技術力も移民の力によることを書いている。

 日露戦争の講和条約の地のポーツマスでは小村寿太郎の偉さに触れている。
 黒人のハーレムの様子、すなわち治安の悪化している都市の暗部、黒人英語のことに触れたと思えば、アメリカの弁護士社会のこと、ウォール街で働く人のこと、ブロードウェイなども書いていく。

 資本の論理、ビジネスの仕組みの成り立ちとして、司馬遼太郎は、スペインの無敵艦隊をイギリスが破った時、イギリス軍の各人が持ち場で職務を果たすような戦いをしたこと、これがビジネスの萌芽になったのではとも書いている。

 女性についての観察では、仕事をしているキャリアウーマンのような女性はハイヒールを履いて街中を歩いていないと観察し、逆に黒人女性の中には着飾ってハイヒールも履いて歩いている人に注目し、前者は主戦場がオフィスの中、後者は外が大事な場所と思っているからではと分析している。そして日本女性もオフィスの中では制服として、目立たないような服装、外で目立つような服を着ていることを書く。


「富士山文化ーその信仰遺跡を歩く」竹谷靱負著

 著者は富士吉田口の御師の家系に生まれた理学博士であるが、富士山文化研究会の会長であり、多くの富士山関係の著作を上梓している。富士塚のことを調べているので読んだ。
 富士山がユネスコ世界文化遺産に登録されたが、構成要素として、山体、四本の登山道、八社の浅間神社、富士五湖、忍野八海、白糸の滝、人穴遺跡、二棟の御師住宅、二箇所の胎内樹型の洞窟などがあるが、文化遺産と言うと他にも幅広いものがあり、各地の富士信仰の証しの富士塚などもそうであると著者は述べる。

 江戸の人にとって富士山は身近なもの。富士山が見えるという富士見坂も多い。絵(浮世絵)にも北斎の富岳三十六景をはじめ、多く描かれている。
 富士塚は、その近隣の人々の富士山信仰(富士講)のよりどころとして、神社内などに造ったものであるが、関東を中心に200基以上あり、市区町村の有形民俗文化財・史跡に指定されているものだけで70ある。「江戸は広くて八百八町、江戸は多くて八百八講、お江戸にゃ旗本八万旗、お江戸にゃ講中八万人」という唄があったそうである。
 黒ボクと言われる富士山の溶岩塊で飾り、ジグザグの登山道を作り、一合目~九合目までの合目石(道標)も付けられる。人穴、浅間神社なども設けている。正月三日に「初富士」として遙拝し、夏には富士山に出かけた代参講員の家宅を守り、その帰着までは毎日灯明を欠かさず、彼らが地元に戻ると、「サカ迎え」といって赤丸提灯を持った町中の人が出迎える。旧暦6月1日の「お山開き」をし、7月21日、22日に「山じまい」にも火祭でにぎわう。
 
 江戸っ子は銭湯にも富士山の絵を描いたとあるが、確かにそうである。

 そして、この本では、今も残る各地の富士塚を案内している。また富士塚を7箇所巡る「七富士巡り」もあった。講紋が違うと、別派だが、互いに協力することもあったというわけである。

 富士山周辺の遙拝所の案内や各地の浅間神社の案内もある。また登拝道はいくつかあり、世界遺産に登録されているものは、大宮・村山口登拝道、吉田口登拝道、須山口登拝道、須走口登拝道である。他にも精進口、船津口、上井出口、明見口などがあった。今は五合目までの道路で車で上がれるので各登拝道の五合目までは廃道になる。

 江戸末期は富士山、高尾山、大山の三山を参拝することも「三山詣」として流行る。

 富士山登拝後の帰路は砂走りとして、厚い火山灰の上を滑るように直走るのが定番だったが、今は危険であり、一部が残っているだけである。

 富士山内のお中道巡り、お鉢巡りのルートについても説明されている。

 また、富士山内の遺跡として洞窟や金明水、銀明水(雪溶け水がでる)や、御師の住宅を紹介している。
 人穴、白糸の滝、お胎内(洞窟)や富士八海についても紹介している。これには外八海と内八海があり、外八海は日本全体の有名な湖沼(琵琶湖、浜名湖など)である。内八海は、富士五湖以外は、明見湖(富士吉田市)、泉瑞(富士吉田市)、四尾連湖(市川三郷町)だった。

 なお、男衆は富士山に登拝(とはい)できたが、女人禁制であった。