「黒田官兵衛 作られた軍師像」 渡邊大門 著

著者は歴史学者であり、できるだけ一次資料に準拠して黒田官兵衛の実像を明らかにしようとした著作である。その分、小説的な面白さはない。なお、一次資料に準拠していると言うと、史実に即していると思う人が大半だが、自分で歴史に関する本を書くと、一次資料とは、書いた人にとって、あるいはその史料を遺した人にとって、都合の良い史料であり、本当に正しいかは別だと感じる。まったくねつ造したものよりもましではあるが。歴史は一筋縄ではいかない。

黒田氏は近江源氏の出身とされているが、一次史料(同時代に作成された古文書、古記録など)には出てこない。また備前・福岡にも居住していたというのも証拠はない。だから後年に、故郷を偲んで博多のとなりに「福岡」(備前福岡)の名を付けたというのも検証できないということだ。

有名な『黒田家譜』は福岡藩の儒者貝原益軒の手によるもので寛文11年から編纂を開始したもので、必ずしも信頼できる史料ではない。
黒田家の家臣団(有名な黒田二十四騎)の出身地もほとんど播磨である。近江も備前もいない。

父の職隆は小寺家の経済官僚的な側面があったことが裏付けられる。黒田官兵衛の名は当初は祐隆である。「よしたか」と読むことは可能である。孝隆は起請文にある。「隆」の字は父が職隆、祖父が重隆であるから黒田家の通り字である。それが、いつからか孝高となる。

播磨は赤松氏が守護だったが、衰退し、三木城主の別所氏、龍野城主の赤松氏の一族、そして御着城主の小寺氏が割拠していた。隣の備前では浦上氏や宇喜多氏が台頭してきた。その浦上氏と毛利氏が手を結ぶ。そこに織田信長である。

黒田官兵衛は小寺家にあって信長につくことを進言した。そして秀吉と深い親交を持つ。秀吉は自分が身分が低い出だから、親交を持つと官兵衛に迷惑がかかるというようなことも注意している。
荒木村重が信長に謀反をおこした時に、説得に出かけた官兵衛は1年ほど幽閉され、織田軍(秀吉も含めて)に不信をもたれるが、黒田家は一致して官兵衛を信じて、織田軍の為に働く。なお、この時の幽閉生活については、この本には詳しくない。

その後、秀吉は三木城で兵糧攻めをして、城兵を大量虐殺(これが最近の研究成果)する。秀吉は鳥取城でも兵糧攻めをする。この時は人肉を喰うような事態になったようだ。

備中高松城の攻略では調略などを官兵衛が担当。水攻めは蜂須賀正勝と官兵衛が差配したと考えられる。

本能寺の変が起こった時に、毛利側とはひとまず停戦ということで領地交渉はなかった。それから大坂城の普請にも官兵衛は携わる。

官兵衛は九州の戦いや小田原攻めでも調略戦を担当している。ここに彼の能力がある。また天下人秀吉と各大名との取次的な役割も大きかった。

関ヶ原の時は、息子の長政が吉川広家を調略したり、武闘派の武将をまとめるなどの大きな貢献をする。官兵衛も九州で加藤清正とともに東軍の為に戦う。切り取り次第の内諾を家康からもらっていたようだ。

長政の死去の際に、長政は家老に遺書を書き、そこに自分たち親子の家康への貢献を書き記した。先々の子孫のことを心配して、家老たちに遺したという位置づけの遺書と考えられる。(この後、黒田騒動も生じる)
この中で、いかに官兵衛、長政が家康の天下取りに貢献したかを書いて、徳川家による取りつぶしを防ぐような内容である。その中の逸話が漏れて、さらに大きく膨らますことで、黒田官兵衛の軍師的な役割が後に喧伝されるようになる。

官兵衛は質素・倹約を旨とし、領民・家臣を大事にしていたことは間違いがない。



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