「武士の町 大坂」藪田貫 著

私は『江戸の日本刀』を上梓したばかりだが、次は”大坂の日本刀”を書こうとしているのではないが、標記の本を読む。

大坂は”町人の町”、”天下の台所”と呼ばれ、司馬遼太郎も著者の中で大坂の町人は約200人程度で書いている。これに対して、著者は大坂にいた武士を再確認して約8000人はいたとしている。この書に限らず、歴史家は司馬遼太郎の影響力の強さに辟易している。近代史などでは司馬史観なる言葉ができ、小説家の説に反論している。司馬遼太郎も迷惑だと思う。司馬作品で歴史に興味が増すのだからと割り切ることも大事だ。
それはさておき、この本の紹介をする。

武士がいたのは大坂城内(大坂城代、定番、加番、大番頭、目付で3160~3555人)、大坂城周辺(東と西の町奉行、蔵奉行、破損奉行と代官、定番大名付属の与力同心で650人)、安治川と木津川の河口(船奉行、付属の与力同心)、天満(町奉行の与力同心で約3000人)、中之島(西国大名を中心に蔵屋敷を構え、そこで暮らす各藩の武士で900人)と具体的に説明している。

人口データは時期によっても異なるし、推計値だが、江戸は110万人の人口で武士が50万人くらいであり、大坂は約35万人の中で8000人だから、武士が少ないことは間違いがない。

次に大坂でも発行されていた武士の人名録でもある『大坂武鑑』について言及していく。武鑑は人間関係を営む武士にも、また役所にモノを頼む町人にも大事なもので、役職、在任期間、知行高、出自、系図、縁戚、家紋、鑓印などが書かれている。大坂でも途切れることなく改訂発行されていた。
そして、武鑑の中で決定版ともいえるのが『浪華御役録』を詳しく紹介している。

次に新発見の史料の「西町奉行所図」を紹介し、同時に残っている大坂町奉行(江戸時代で述べ45人が就任)の日記として新見正路、久須美祐明、代官の日記として竹垣直道の日記を簡単に紹介している。奉行の市中巡見、公事訴訟件数、初入り(赴任時)の様子など興味深い。

また大坂での大名行列、大坂城の中の様子などがわかる史料も紹介している。

それから与力で有名な大塩平八郎と、その乱を鎮めるのに功があった内山彦次郎(栄達するが後に新撰組と思われる者に暗殺される)のことを書いている。

あとは大坂での武士の暮らしとして、日記から大坂の名所見学、食べ物、祭などの催事のことを紹介している。川で船に乗っての遊覧の良さを書いている。

当時の役得だが、奉行へ年頭や八朔のお祝いに多くの町人が来るが、東町奉行川村修就が初めての大坂入りの時に、その進物の額が1日で101両余(1両40万円で4000万円)になったとされている。その額の大きさに驚く。長崎奉行などはもっと凄かったようだが、このように具体的に知ると驚く。もちろん、これは賄賂ではない。

最後に著者は明治維新になって、大坂はいち早く産業革命を行い、まず楠木正成の顕彰、それから豊臣秀吉が脚光を浴びて、昭和になって徳川の大坂城は忘れさられ、その上に太閤の大坂城を復興し、同時に町人の町大坂が出てくると述べている。



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