「真田丸の謎」千田嘉博 著

この本は大河ドラマ「真田丸」開始の2ヶ月前に出版されており、便乗本の一つである。
従来、真田丸は大坂城の外側に張り出していたと考えられていたが、広島浅野家の文書に「摂津 真田丸」というものがあり、それは大坂城とは離れた場所にあって、当時の地形を生かした出城であったことが判明した。
このことも、NHKの番組でも取り上げており、それを本にしたものである。「1.真田信繁と大坂の陣」「2.真田丸の謎に迫る」「3.真田氏の城づくり」「4.戦国の城から天下人の城へ」「終章.真田丸を歩く」に分かれているが、本のタイトルに関係するのが、1章、2章と終章であり、分量が不足するから著者の城郭に関する知見を半分の分量ほど挿入してある。もっともこの部分(4章)は中世の城郭を理解する上で参考になった。

さて真田丸は、現在の明星学園を中心とした場所にあり、北側に小曲輪があった。三光神社の区域とは低地を挟んでいた。真田丸と大坂城との間には約200㍍にも及ぶ谷(清水谷)がある。だから大坂城からの援軍も期待できない背水の陣を敷いたことになる。豊臣側が新参の真田信繁に真田丸構築を許したのも、ここなら真田が裏切っても大きな影響はないと判断したからではないかと著者は考える。前面に徳川軍が来るわけであり、危険な部署であることは間違いがない。
なお三光神社境内などにある真田の抜け穴とよばれるものは、徳川方の塹壕ではないかと述べており、なるほどと思う。

戦国時代の城について、当時の社会の成り立ちの変化から説明しているのがなるほどと思う。この時代、武士だけでなく、有力な寺社も、自治的な都市も村も、城を構えて、生命と財産を自力で守っていたわけだ。
戦国後期は戦国大名が山城(200㍍くらいの高さ)と、平地に館城を構え、平時は館城で政務をとり、戦時に山城(200㍍くらい)で戦う。
武田信玄は本拠は館城だが、領地の「境目の城」は戦争用に馬出しなども構築して作る。この伝統を真田氏も受け継ぐ。北条氏も支城のネットワークを作り、堀には障子堀という堀の中に凹凸を障子のような畝を作って渡り難い工夫をする。横矢(横から攻撃)ができるような建物の配置も考えている。上杉氏も畝状空堀群をつくる。

「境目の城」は軍事用で中央からの司令官が住むが、平時は家臣団(国衆)は本拠のまわりに集まっているだけ。大名と家臣の力が拮抗した連合勢力で、まだ中央集権ではなかった。だから負けると、国衆の裏切りも起こりやすい。

織田信長は重臣に信頼されなかったから、自力で親衛隊を作る。そして中央集権で重臣を従える形で城下町に集め、住まわせるようになる。そこから城の天主が立派になり、城下町となる。信長の城は小牧山城でつくられはじめ、本丸を特別な空間とした。岐阜城はさらにそれが進む。安土城は天主と自分を神のようにした。家臣は山麓から身分に応じて序列化された屋敷を与えられる。
秀吉は大坂城という私の城とは別に聚楽第(実質は城)という公の城を作る。秀次事件後に聚楽第は壊され、公の城は伏見城になる。その城に秀吉の死後、家康が入り、天下人の一歩とする。
二条城は関ヶ原後に家康が京都に作った公の城。そこに秀頼を呼びつけたことも大事なセレモニー。

一国一城令、元和偃武は、江戸時代において、各藩で大名が偉く、以下君臣関係の序列が必要になったということを反映して、信長、秀吉が作った城をマネして、階層的に本丸、二の丸、三の丸ができる。。

惣構とは、中に城だけでなく保護すべき民衆も取り込んだ塀(土塀)、堀で囲まれた一郭。
有岡城が萌芽で、城下町を持っていた。総構は身分を区分する役割があると同時に、軍事の役割があり、惣構の一角が破られると城側が降参することが多い。
惣構が広くなると自分だけでは守れない。友軍が来る場合に敷地が必要という面もある。惣構の住民は城と一緒に戦うが、負けるとなるとさっさと出て行ってしまう。民衆はしたたかである。
寺社も願寺や清水寺、東寺など惣構を持っており、寺内町と呼ばれていた。京都でも秀吉は聚楽第を中心に御土居を築くが惣構である。

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