「司馬遼太郎全集20 加茂の水」司馬遼太郎著

 この物語の主人公は玉松操。岩倉具視の活動を文書起草で助けた人物である。鳥羽伏見の戦いの途中で登場した錦旗の考案者でもある。
 下級公家の山本家(家禄150石)に生まれ、醍醐寺に入れられ、一山きっての学僧になったが、狷介な性格で堕落した僧を棒で打つなどして寺を出て、還俗した。50過ぎてのことである。
 もちろん妻帯はせず、儒者のような服=乞食のような格好で、当初は近江坂本に流遇し、のちに坂本の北の方の真野の里に流れ住んだ。坂本時代も気に入らぬと棒で叩くような人物であった。村の子供達に読み書きを教えて食べるものを得ていた。
 岩倉具視が洛北に隠棲していた時に、岩倉が自分には文章の素養が無いとして、人物を探している時に、三上兵部(義胤)と出会う。
 三上は江州の人物であり、玉松操を思い出す。そして岩倉の元に来て貰うように頼まれるが、玉松の人柄を知っているだけに、招請に応じるとは思えなかったが、玉松に会って説得する。
 当初は岩倉を奸物と思い、断っていたが、会ってから判断するということになり、岩倉村に出向く。岩倉は役者だから、玉松に嫌われないように接遇し、話の中で意気投合する。
 それ以降、岩倉の陰謀を文(手紙)にして活動する。思想的には徹底的な攘夷主義者である。岩倉はこの頃は薩摩の大久保利通との関係で本心は倒幕開国主義になっていた。
 陰謀の一つが錦旗の作成である。玉松が古書から想像してデザインし、帯地を買って長州で縫製したものである。これが鳥羽伏見の戦いの途中で登場したことで、戦局は薩長方に大きく傾く。

 維新後は政府が開国主義になり、岩倉の元を放れて、明治5年に病没した。加茂川のほとりで誰にも看取られずに亡くなったわけだ。岩倉が死ぬ前に、肥後の井上毅に、自分が死ねば玉松のことなど歴史から消えるだろうと涙を浮かべて話をしたことで史料が残り、司馬遼太郎の小説になったと言うわけである。
 激動の時代に生まれた不思議な人物の一人である。

「司馬遼太郎全集20 鬼謀の人」司馬遼太郎著

 大村益次郎(村田蔵六)の話である。長州の鋳銭村(すせんじ:今の山口市)の村医の出で、緒方洪庵の塾に学ぶ。そこで塾長までになったが27歳時に祖父の言いつけで村に戻り医者となる。塾の頃から医学だけでなく西洋の軍学の書を読んでいた。
 蔵六は合理的な発想に終始したから愛想も言えず、医者としては流行らなかった。この性癖は生涯続き、反感も持たれる。また当時の長州藩は当然に蔵六の存在を無視していた。

 宇和島藩が密かに匿っていた髙野長英の後継者として緒方洪庵の推薦で村田蔵六を傭う。洋書の翻訳を頼み、上士格で百石で召し抱える。その後、幕府の蕃書調所の教授方手伝い、また加賀藩からもお手当を得ていた。また幕府の講武所の砲術部門の教授も兼ねる。
 物語では、桂小五郎が有備館御用掛を命じられた時に軍制を洋式化するために、蘭語を読める人物を探していた時に蔵六の名前を聞いたことにしている。そして桂が吉田松陰の回向で寺に来た時に、僧から近くの寺で女囚の解剖があり、その解剖をするのが蘭医の村田蔵六と知る。後に桂は松蔭が引き合わせてくれたと述べる。

 桂も医師の出身であり、見学に行く。解剖後に蔵六に挨拶をし、後日に伺う段取りをつける。事前に伊藤俊輔に調べさせると、実は以前に、竹島を早く長州が押さえることが国際法上で大切と桂の元を上申してきたことがあったことを知る。
 藩内では急な登用は難しいから、桂は軍書の翻訳の依頼という形にして雇い入れる。曲折の後に先手組の上士として藩校で兵学、海軍術、砲術の教授とした。大村は原典ではなく、自分の翻訳書で教える速成法とした。

その後、長州は4カ国艦隊の砲撃を受ける。この時は何の関与もしていない。40歳の時である。
 幕府の第2次長州征伐時に、潜伏先から戻った桂が村田蔵六を用いることを進言する。幕府の扶持をもらっていたから名を大村益次郎に変える。そして石州口の参謀として実戦に出向く。そこで逸話を残しながら勝利に導く。益次郎は戦闘の前日には石盤を抱えて自分で偵察に行く。そして明日の作戦を予想し、指示するスタイルだった。

 彰義隊討伐の時、江戸の官軍は兵力が少ないこと、江戸を焼いて反感を買うのではと懸念して攻撃しない。益次郎が京都から出向き、攻撃の手はずを整え、上野の山だけの戦闘範囲で一日で終わらす。この時、薩摩軍を最前線に配置したり、ぶっきらぼうな物の言い方で薩摩の海江田武次などの反感を買う。海江田は後に大村暗殺の黒幕と言われる。
 東北戦線からの援軍要請の大半も大村が握りつぶし、ここでも反感を買う。大村益次郎は維新後の敵は薩摩になるだろうとして備えをしていた。
 明治2年9月に京の旅館で12人の国粋攘夷主義者に襲われ、その時の傷が元で11月に死去。
 彗星のように必要な時に現れて、仕事をして、去って行った生涯である。読んでいても不思議な感じがする一生である。後に長編小説「花神」が大村益次郎を主人公とする。


「司馬遼太郎全集20 王城の護衛者」司馬遼太郎著

 会津藩の松平容保の物語である。はじめに会津松平家の歴史を語る。秀忠は妻を恐れたが、一度だけ侍女に手を付け、子が生まれる。信州高遠の保科家に預けられ成人する。秀忠には18歳時に目通りし、その死後、会津23万石を拝領する。家光の弟だが、家光をたて、実直に仕えて信頼される。家光の死に際して「宗家を頼む」と言われ、それを元に家訓を定める。その八世に子が無く、美濃高須の松平家から養子として入る。高須松平家は次男が尾張徳川家を継ぎ、3男は石見浜田の松平家を継ぎ、5男は一橋家を、6男が容保、7男は伊勢桑名の松平家を継ぐという幕末の大事な家となる。
 容保は身体は弱かったが頭脳、志操は優れていた。保科正之の遺訓を大事にした。19歳時にペリー来航、26歳時に桜田門外の変。この事件以降に京を中心に天誅事件が頻発する。これに対処する為に京都守護職に任命される。容保をはじめ会津藩は厭がっていたが、受けさせられる。文久2年12月に会津藩兵が京都に入る。当初は厳格な取締りをしなかったが、足利将軍木像梟首事件後に新撰組を使って厳しく取り締まる。これが会津藩への恨みとなり、戊辰戦争の悲劇につながる。
 会津藩は公家に働きかけての政治的な動きをしなかったので、京都政界では長州藩、それから薩摩藩に翻弄されていく。そして何よりも徳川慶喜の変幻極まりない政治姿勢に振り回される。
 孝明天皇は攘夷だが佐幕で、会津藩と容保を非常に信頼して、異例のことに直接宸翰を賜る。これには容保も感激して、その書翰を晩年まで竹筒に入れて肌身放たず身に付けていた。まさに勤皇だが、時世の流れで最期は朝敵として討伐を受ける。無念な一生であった。
 なお司馬遼太郎は孝明天皇の死去の原因は天然痘として、暗殺説を否定している。
 鳥羽伏見の戦い後に、大坂城から慶喜にだまされるように江戸に退去し、江戸においても慶喜から会津への退去を求められる。
 晩年はほとんど人と付き合わない生活を送り、一度、怨念に充ちた漢詩をつくる。死後、竹筒の御宸翰の話が長州の山県が知るところとなり、高額での買い取りの依頼があったが、応ぜず、今でも会津松平家に蔵されているとのことだ。

「司馬遼太郎全集20 最期の将軍」司馬遼太郎著

 徳川慶喜の話である。慶喜は水戸の徳川斉昭と、正室の有栖川宮家の登美宮吉子との間で3男として生まれる。ちなみに徳川斉昭は藩政改革で業績を上げたが、優れているだけに独断的で、女色に卑しく、この面でも大奥から嫌われた。
 慶喜は少年時代は七郎麿と呼ばれ、武芸に熱心だったが読書はきらいであり、斉昭から座敷牢に入れられたこともある。少年時代から軽躁で遊びに狡猾さがあり可愛気がなかったようだ。これは後の慶喜の生涯にも共通する。11歳の時に一橋家から養子を望まれた。老中阿部正弘が慶喜を将軍にしたがっているとの腹を読んでの持ちかけたもので、斉昭は承諾する。

 優秀で弁も立ち、相手のほとんどが言い負かされる。何でも自分でやって、できてしまうような才人である。斉昭の血を引いて、女好きであり、京都時代は新門辰五郎の娘を愛妾にした。その縁で辰五郎の配下が家来になる。また一橋家は御三卿の家柄であり、生粋の家来がいない。渋沢栄一などを後に家来とする。

 思想としての水戸学の尊皇があり、朝敵になることを恐れる。これが行動の根本にある。そして「貴人に情無し」の言葉があるが、周りは自分に奉仕する者という意識で、家来への情は欠落している。大坂城から脱出する時に「自分には策がある」とか言って側近をだましたりしても平気である。少年時代からの軽躁で、遊びに狡猾さがあり、可愛気がないという性格が続いている。

 慶喜は自分の考え・行動を状況に応じて変え、他人からはその政治的活動が複雑で理解し難いから、慶喜が変節したのは側近が悪いのだと誤解され、腹心の用人の中根長十郎、平岡円四郎、原市之進が暗殺されている。絶対に主君にしたくない人物である。
 司馬遼太郎はコロコロ変わる慶喜の心情、行動を丹念にたどって歴史小説にしており、慶喜が大政奉還をしたのも必然と思わせるように書いているのはさずがである。ただし、司馬遼太郎自身が好きな人物ではない筆使いである。

 慶喜に対して、同情する点は一橋家という家来もあまりいない家を立脚点にしていたこと、江戸城内の大奥や、幕府閣僚、旗本も、親の水戸の斉昭への反発が根強かったこと、もちろん慶喜の変節極まりない行動、考え方も反発を受けたこと、もちろん京都での薩長主導の政界からの警戒、また当初は味方だった四賢侯にも理解されなくなったこと、そして欧米列強がやってきたという時世という大きな波である。こういう中での立ち居振る舞いであり、活躍にも限界があったことだろう。

「司馬遼太郎全集20 酔って候」司馬遼太郎著

この小説には以下の4つの短編が含まれている。「酔って候」「きつね馬」「伊達の黒船」「肥前の妖怪」である。いずれも幕末に大名ながら活躍した人物を取り上げている。全体のタイトルにしている「酔って候」は土佐の山内容堂、「きつね馬」は薩摩の島津久光、「伊達の黒船」は伊予宇和島の伊達宗城、「肥前の妖怪」は肥前の鍋島閑叟の話である。もっとも「伊達の黒船」は殿様のことより、蒸気船を作れと命じられた非常に器用な提灯の張り替え屋嘉蔵のことを主に書いている。

 「酔って候」の山内豊信容堂は山内家の分家の生まれで、剣は無外流を学び、馬術は源家古流、居合も学び、馬術と居合は練達していた。22歳の時に藩主が34歳で逝去。その実弟が25歳で跡を継ぐが、襲封の御礼に行った時に急死する。公儀の法度では廃絶だが、家老が島津斉彬、伊達宗城、黒田斉溥などを通して老中阿部正弘に工作して15代藩主になる。
 上述したように武芸に堪能で酒も強く、侠客のような気風があり、史籍、漢詩、和歌なども造詣がある。土佐藩特有の上士、下士の身分制度を堅持し、吉田東洋を抜擢する。越前松平春嶽、宇和島の伊達宗城、島津斉彬と「天下の四賢侯」と称せられた。井伊に逆らって一橋慶喜を推したために、隠居せざるを得なくなる。その後の幕末動乱は下士層の脱藩浪士が長州藩と結んで活躍し、容堂は後藤象二郎、乾(板垣)退助の上士を使い、大政奉還や慶喜赦免のことなどを働きかける。

「きつね馬」は島津久光の話である。兄の島津斉彬を尊敬していたので、兄と同様なことをやろうと指向したが、西郷に田舎者と言われたように、人物の位が違っていることを書いている。大久保は久光に取り入り、藩士個人ではなく、藩全体で倒幕に向かうように工作し、成功したわけだ。薩摩藩主を江戸に呼ぼうと幕府が画策し、その実現を阻止するために江戸の上屋敷を大久保などが暗躍して火事を起こす。それでも幕府は木曽川治水の金を免除するかわりに藩邸を造り替え、上京するように仕向ける。この途中で寺田屋事件を起こし、この帰りに生麦事件をおこすわけだ。西郷のことは安禄山として謀反人扱いであった。

「伊達の黒船」は伊予宇和島藩の伊達宗城の話だが、彼も伊達家の親戚の旗本の生まれで養子になる。優れた人物だったようで新しい機械にも関心が高く、藩で蒸気船を作ろうとする。人材を探したら、城下の器用な提灯張り替え職人の嘉蔵を家来が推挙し、その嘉蔵が苦心惨憺して、最期は長崎に行って学び、蒸気機関を作ってしまうまでを描いている。宇和島藩の藩士や、御用商人などは嘉蔵の身分が低いので馬鹿にし、結局は機関の製作を邪魔するている様子を書いている。藩医の村田蔵六(大村益次郎)が作ったと思っていたが、彼は船体を作り、肝腎の蒸気機関は嘉蔵が作ったわけだ。

「肥前の妖怪」は佐賀鍋島藩の鍋島閑叟の話である。鍋島藩は一代おきに明君が出るとのことで子供の頃から期待され、それに見事に応えた実に優秀な藩主であることが記されている。乳母の影響も書いている。藩の金が無い現実を踏まえ、藩も商人のようにと考え、密貿易も行ったようだが、記録は残っていない。その後、西洋との違いは軍事技術の差と気が付き、大砲や銃器を自前で製産するようになる。また一定の学問を修めないと家禄を減じるとの制度をつくり教育に力を注ぐ。藩の頭脳は藩主だけでいいとして藩士の統制を強め、鎖国主義を貫く。幕末の土壇場で薩長につき、薩長土肥となり、近代的軍事力を発揮する。