「司馬遼太郎全集3 竜馬がゆく 1」司馬遼太郎 著

 大作の「竜馬がゆく」である。全集本で3冊に別れているから、1冊ずつ感想を記していく。再読すると、さずがによくできた小説だと感心する。
 冒頭は龍馬が江戸へ剣術修行に行くところから始まる。ここで竜馬を取り巻く乙女姉さんをはじめとする家族や富裕な家が紹介される。富裕な家と言っても郷士であり、土佐藩の上士と郷士の身分意識は繰り返し述べられる。また幼少期の性格や、学問には不向きで、剣だけは日根野道場で一頭地を抜いてくることなどが記される。江戸で剣術修業すれば、土佐で町道場主として食えるのが、江戸に行く理由である。

 司馬遼太郎は小説に魅力的な女性を次々と登場させて読者を飽きささないが、ここでも、主筋の福岡家の娘お田鶴さま、公家侍の娘だが親が討たれ女郎屋に売られた冴、千葉道場の娘で剣術も行うさな子、土佐で評判の娘お徳、讃岐の居酒屋の亭主お初、竜馬の親戚の娘美以などである。皆、竜馬に惚れている。
 色恋沙汰にはならないが、姉の乙女、出戻ってきた姉のお栄、妹の春猪、それに寺田屋のお登勢などの女性も物語に色を添える。
 また道中で、竜馬に家来にしてくれと頼む薬屋、実は盗賊の寝待ちの藤兵衛や、船頭の七蔵、それに千葉道場の若先生の千葉重太郎の脇役も出てくる。
 それから、維新で活躍する桂小五郎、土佐藩の維新で名が出る武市半平太、岡田以蔵、岩崎弥太郎、那須信吾なども出てくる。

 道中での竜馬の主筋の福岡家の娘、お田鶴さまとの出会いを絡める。お田鶴さまは京の三条家に手伝いに出向く道中である。あとの話になるが、安政の大獄で追われている公家侍を助けて道中を同行するが、一時の油断に公家侍は捕らえられる。その時に密書を預かり、それを三条家に届け、お田鶴さまに再会する。またこの軟弱な公家侍が国事に奔走する態度に打たれ、政治に目が覚める。

 竜馬の将来(海援隊)を暗示させるように船頭と懇意になるところも入れる。大坂では金に困った岡田以蔵に狙われる。逆に竜馬が金を与え、竜馬に心酔させる。道中、薬屋に化けた盗賊の寝待ちの藤兵衛がどういうわけか、竜馬の家来にしてくれとくる。伏見では寺田屋のお登勢と知り合う。

 江戸ではその寝待ちの藤兵衛が、公家侍の娘冴の仇討ちを手伝ってくれとのことで、その仇の侍と戦う。冴は仇を討つべく、弟と旅にでるが、弟は死ぬ、冴は女郎屋に売られているという設定である。冴は竜馬に男女の道を教えようとするが、後に冴はコレラで死ぬことになる。

 千葉周作の弟の定吉の桶町千葉道場で剣術修行をする。ここで千葉重太郎と妹のさな子が登場する。さな子は自身も剣術をし、竜馬に惚れるが、竜馬はその気がないまま1巻では終わる。
 また江戸の土佐藩邸で武市半平太と知り合う。武市半平太は土佐一藩を勤皇にする画策をする。竜馬は土佐だ、長州だという藩も取り払わなければという考えを潜在的に持っていて、一緒には行動しないが、肝胆相照らす仲となる。

 時代は黒船の登場となり、竜馬も見に行き、軍艦に憧れを懐く。そこで長州藩の陣立てを探るように命せられ、歩きまわるが、桂小五郎と出会う設定である。また黒船に乗り込もうとした吉田松陰のことなども知る。

 土佐で大地震があり、一時帰る。ここでお田鶴さまに再会する。夜這いに行く時に若侍が別の評判の美人のお徳という娘のところに出向かせるようにして、お田鶴さまのところには出向けないで終わる。土佐では岩崎弥太郎も登場する。

 江戸に戻り、剣術修行の甲斐があって、竜馬の剣は上達して、各種試合で剣名は高くなる。土佐藩邸では中岡慎太郎などを知る。
 竜馬の江戸遊学の期限が来て、土佐に帰ることになる。安政の大獄がはじまる。この道中の公家侍と同行し、護衛することになった顛末は前に記したが、預かった密書を三条家に届けることで、お田鶴さまに出会う。

 土佐には武市も帰っており、色々と時世を談ずる。絵師の河田小竜から世界情勢を聞く。その間、土佐郷士と上士の間の刃傷沙汰もおきる。
 そして桜田門外の変を聞く。また水戸藩から遊説に来ている人物の話も聞くが、竜馬はピントこない。

 武市が音頭をとった土佐勤王党に加わる。その土佐勤王党のことを岩崎弥太郎が探っていた。弥太郎は土佐の執政吉田東洋の知己を得て、下横目という卑職についていた。
 実家の才谷家の商家の方に美以という美人の娘がいて、竜馬の妹の春猪が合わす。
 また那須信吾という郷士も知る。この男は後に武市にそそのかされて吉田東洋を暗殺して脱藩する。

 竜馬は藩へ剣術詮議の為の旅行願いを出し、長州にも出かける。道中の讃岐の居酒屋でならず者と喧嘩するが、この亭主のお初という女性と懇ろになる。
 また丸亀藩の剣術使いとも懇意となる。

 長州で久坂玄瑞に出会う。この男の熱気にも竜馬は同調できないが、時世を知る。
 この後に土佐に戻った竜馬は脱藩を企てる。その時にいい刀を家から持ち出そうとするが、かなわない。その時、出戻りで来ていた竜馬の姉お栄が嫁いだ先でもらった刀、陸奥守吉行を竜馬に渡す。この為に、お栄は後に自殺することになる。
 それから吉田東洋暗殺事件のことが記される。このように大きな事件ごとに、その詳細を書き、絵空ごとの多い時代小説を史実に即した歴史小説に持って行くのも司馬遼太郎の腕である。

 脱藩は沢村惣之丞と一緒で、先に脱藩している吉村寅太郎を頼るが、なかなか会えない。ここで薩摩藩の内輪もめの寺田屋事件が起き、その詳細が記される。
 京に潜んでいる時に清河八郎(北辰一刀流)と出会う。そして江戸まで旅をする。清河の考え方も策士過ぎて、竜馬は気に入らないが。司馬遼太郎はここで清河に、自分は藩の後ろ盾が無いから、このように策を考えると言わしめていてなるほどと思う。
千葉道場に戻る。さな子は恋い焦がれるが進展しない。
次ぎに生麦事件が起こり、この詳細が記される。

 そして鳥取藩に仕官した千葉重太郎も攘夷思想に染まり、勝海舟を斬ると言う。一緒に勝つの造った軍艦操練所などを見ている内に、船好きの竜馬の血が騒ぐ。面談して斬りに行こうとして勝の家に出向くが、竜馬は勝の弟子入りを志願する。

宗吾霊堂

 ここは、江戸時代の義民佐倉惣五郎を祭った御堂である。真言宗の寺院で東勝寺と言う。知られていないが、あの有名な成田山新勝寺は、東勝寺に対して新しいから新勝寺と名付けられているのである。

 京成線の宗吾参道駅から、坂道をだらだらと登って、歩いて15分程度である。広大な寺域で、仁王門、鐘楼、本堂、奥の院、薬師堂、大本坊(宿坊)などいくつもの建物があるが、それぞれ、そんなに古いものは無いようである。奥の方には成田市の戦没者慰霊塔が建立されている。
 仁王門には、金色の二王像が鎮座されていた。梵鐘や、この二王像は彫金家の香取秀真、香取正彦の作のようだ。

 奥の方には各種のアジサイが植えられていて、季節になるとさぞや見事なことと思われる。寺の御堂や、惣五郎の資料館等はコロナウィルス騒動の影響で、閉館中であった。

 義民佐倉惣五郎とは、江戸時代の前期の4代家綱将軍の時に、当時の飢饉と佐倉藩堀田家の苛斂誅求の年貢取り立て等の悪政に対して、木内惣五郎を代表にして6人の名主が藩に訴え、それでも改善されなかったので惣五郎が幕府に直訴した事件である。
 これが認められるが、惣五郎と子ども達は直訴の責任を取って1653年に殺される。もちろん、農民はこの義挙に感謝する。

 堀田家初代正盛は家光逝去時に殉死し、この時は2代正信であった。この正信は自分の藩がこのような悪政を布いていたが、変わった男で「幕府の失政により、人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上する」と唱える。狂人扱いとなり、改易される。
 18世紀半ばに堀田家は佐倉に戻るが、佐倉の住民が惣五郎の祟りで堀田家は改易されたという悪評を気にして、ここに御堂を建てたということである。

 ここにある惣五郎の記念館等にもコロナウィルス騒動で入れなかったから、私が記した内容に違うところも懸念されるが、大筋は間違っていないはずだ。

 このような事件は佐倉藩堀田家に限らず、江戸時代には多かったようだが、ほとんどは施政者側が闇から闇に葬り去り、世に知られていないと、何かの本で読んだ記憶がある。
 たまたま佐倉藩はこの事件後に改易となり、また同じ旧領に舞い戻ってきたことから、領民慰撫の為に惣五郎を祭るようになり、現在に伝わっているわけである。

 下総台地は佐倉の城下もそうだし、成田山もそうだが、意外と地形の起伏が多いところだ。

「兜率天の巡礼」司馬遼太郎著

 全集2所載の不思議な短編である。終戦後に洛西嵯峨野の上品蓮台院に訪れ、その壁画(何度も修復されているものだが)を失火で焼失せしめた大学教授の話である。もちろん小説だから事実がどれだけ含まれているのはわからない。
 この教授はポツダム政令で大学を追われたことになっている。教授はここに描かれている天女に執心していた。
 その経緯として、43歳で死んだ妻のことが記されていく。この妻の家の財力で大学教授の地位を得たのが教授である。ここに大学教授の地位が学問ではなく閨閥で得られているという司馬遼太郎の皮肉を感じる。
 それはさておき、妻は控えめな女性であり、教授が書斎に籠もっている時は隣りの部屋で一人で寝るような生活で2人に子は無かった。死因は糖尿病が悪化し、心臓麻痺を起こしたものである。しかし死の10日前から狂気を発したようになる。目がらんと光り、教授に敵意をむき出すようになる。
 医師に診せても異常はないと言うが、終戦の日に亡くなる。

 ポツダム政令で大学を追放されていたので、妻の狂気が遺伝から来ているのではないかと妻の実家の関係先を聞いてまわる。その関連で兵庫赤穂郡比奈の大避神社の宮司の話を聴く。ここで太古の秦氏の事績を聞かされる。その中で秦氏はユダヤ人の子孫のような伝説も聞かされる。関連して、景教=ネストリウス派キリスト教の話が司馬遼太郎の学識を物語るように続く。長安で唐の武宗のもとに嫁ぐ景教徒の女性の話も出てくる。

 日本に景教が伝来してから、この大避神社に至るまでの物語が続く。そこで秦川勝という秦氏の長者が山城に勢力を張り、聖徳太子の関係の話に展開していき、大酒神社、太秦の広隆寺と廻り、上品蓮台院に行き着く。ここには秦一族の誰かが絵師に描かせた古い壁画があり、その中に妻の顔もあるかもしれないと宮司は話す。

 上品蓮台院に出向いた教授は闇の中で壁画をロウソクの火を照らして、確かに妻に似た天女の顔を発見する。そしてローソクの火は壁画と教授を包む。

 当時、京都で新聞記者として宗教関係を担当していた司馬遼太郎の学識が、小説家の才能と一体となって生まれたような小説である。良い小説とは思わないが、何か記憶に残る小説である。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」図録 

 新型コロナの関係で美術展が軒並み中止になり、伊藤も寂しいだろうとのことで、ご近所の絵画好きな方が持参してくれた図録である。
 この展覧会は1999年に東京都美術館で開催されたようで、この図録にはワシントン・ナショナル・ギャラリーが生まれた歴史と、印象派を中心として前後の時代に描かれた絵画(当時の展覧会出品作)に関する解説が図版とともに記されている。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーが誕生したのは、アメリカの大富豪のアンドリュー・メロンの寄贈と資金援助から生まれ、その後も息子のポール・メロンやクレス家、ワイドナー家や、ローゼンヴァルト、デールなどの援助で、今のような規模になったと書く。ここで面白いのはヨーロッパが王侯貴族が美術品収集の担い手だったのに対して、アメリカはビジネスで成功した大富豪が担い手だったということである。

 冒頭に島田紀夫(実践女子大教授)が「集中と拡散、そして/あるいは、近接と疎遠」と題して19世紀のフランス絵画を概括している。
 19世紀半ばまではフランスでは、絵画のジャンルは神話画(ギリシャ・ローマ神話に由来)、宗教画(キリスト教)等を含む歴史画(物語画)が最上位で、次ぎに人間を描いた肖像画、そして動物画と続き、日常生活に取材する風俗画や、身の回りにある事物を描く風景画や静物画は低い位置だった。
 フランス革命から庶民が登場する歴史になり、歴史画も広がる。それから風景画が増える。これは社会の上部構造の変化による。
 モネやピサロの風景画の前に、今は無名の風景画軍団とも言える画家がいた。コローは初期の写実的な風景画から、詩的な情緒に富む風景画になる。通俗画的な風景画も生まれる。画面に人物が描かれていないが、人間の存在がある風景画をクールベやブーダンが描く。戸外での写生もはじまり、モネなどの印象派の登場となる。海辺の光景を描いたブーダンの位置づけも詳しく書かれている。
 また当時の風俗の裏側として、洗濯女や踊り子が性の対象になっていたことなどを解説している。
 その後、印象を永続させるべく、セザンヌは画面構成に意を用い、造形的な探求を続ける。ゴッホは表現主義、ゴーガンは象徴主義の祖となる。印象派の色調分割の手法を科学的に追求がスーラの点描法である。
 次ぎにピカソとブラックはセザンヌの造形的探求からキュビズムに行く。
 空間的近接と心理的な疎遠という感情を共有するのが都市生活者で、それをモネは描くということが、この評論のテーマなのかもしれないが、難解である。

 次ぎに、この展覧会に出品されたフェルメールの「手紙を書く少女」について太田治子(作家)は記述している。モデルの少女はあどけない顔だからフェルメールの娘ではないかと推論する。この絵に対して、フェルメール「手紙を読む女」の女は風俗画の女性の顔で作り物的と論ずる。当時のオランダでは急速に通信網が発達して手紙は市民の間で流行となったことに触れる。作家らしい想像力を働かせて、この絵に思いを馳せている。

 以下、「印象派以前」「印象派」「後期印象派と新印象派」「オールド・マスターズという章立てで、出品作を解説している。
当時の社会の風潮も記されていて、西洋美術史の教科書として参考になる。

「伊賀の四鬼」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の忍者物の短編である。戦国の頃に名を知られた四人の伊賀者がいたと伝わる。音羽の城戸、柘植の四貫目、湯船の耳無、岩尾の愛染明王である。
 音羽の城戸は信長が伊賀平定した時に、信長を狙撃して、跡に来夏参上と書いて去る。その来夏に本能寺の変がおこり信長は殺される。もちろん明智の仕業だが、そこに音羽の城戸がいた可能性もあるのではと書く。
 柘植の四貫目は武田信玄に傭われた忍者知道軒のことで、信玄がある城を攻略しようとした時に、事前に忍び入り、20日間絶食して潜み、攻撃とともに城に放火して落城させると伝わる。

 この小説は、湯船の耳無と岩尾の愛染明王の話である。湯船の耳無は秀吉に傭われている。賤ヶ岳の戦いの前に、戦場の地形を探りに出した伊賀者が帰ってこないから、その様子を確認してくると同時に、戦場の地形把握を命じられる。
 一方、岩尾の愛染明王は柴田勝家に傭われていた。湯船の耳無が探っていくと、秀吉配下の伊賀忍者が消えたのは岩尾の愛染明王の仕業だったことがわかる。湯船の耳無が賤ヶ岳で探索しながら、その一味を斃し、岩尾の愛染明王が潜むところを突き止める。一方、 岩尾の愛染明王も耳無が来ていることを知る。最期の2人の戦いは、突き止めた場所が火が燃え盛る中、愛染明王の姿が浮き出るような幻影に耐えて、耳無が耐えながら、仕留める物語になる。こうして愛染明王を斃すが、耳無も火傷が酷く、事後に命を絶つという話である。

「果心居士の幻術」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の忍者物の短編である。物語は大和の当麻村の田植え時に、その田植え歌を楽しんでいた領主の弟たちが8人が、周りの人が気が付かない内に殺されることからはじまる。
 この土地の領主は筒井順慶の与力であり、これを聞いた順慶は何かを感づき、織田信長に松永弾正が謀反と伝える。信長が何故、そのように判断するのかを問うと、あのような殺人は松永弾正の元にいる果心居士の仕業と思うと述べる。

 ここで果心居士の経歴が披露される。昔、インド人の僧が興福寺に来て修業するが、女犯をおかしたことを今際の際に話す。その子が果心居士であり、長ずるに及び幻術を使うようになる。ある時、果心居士は松永弾正に出会い、その顔に浮かぶ凶相を見て、自分は悪人が好きでと申して出入りするようになる。こういう男であり、松永弾正も歓迎していたわけではないが、弾正の影となって活躍し、周りからは恐れられる。

 今回の8人の殺害も、筒井順慶の推察通り、松永弾正が信長に叛旗を翻したことから起きる。弾正は信長と戦うが、当てにしていた援軍が集まらずに窮地に陥る。
 こんな中、果心居士から松永弾正に会いたいと城の中で言づてされる。弾正が出向くと、果心居士は別れに来たという。「どこへ行く」と聞くと、「行くのはお主だ」と弾正に告げる。弾正が落城で死んだのは翌日である。
 弾正の信貴山城が落城したのは、人を信じない弾正が、実は筒井方の間者だった部下に石山本願寺への救援を依頼し、その者が筒井方に連絡し、筒井順慶が本願寺からの援兵と偽って派遣した部隊を城の中に入れた為である。

 この後、信長が伊賀を掃討した時、順慶も参戦し、その時、伊賀の砦にいた果心居士を逃がす。その御礼として砦の絵図をくれる。それで順慶は手柄をたてる。

 信長が本能寺に倒れた時、順慶は明智方に味方しようとする。この時、順慶の重臣に乗り移った果心居士が現れ、光秀は死ぬと告げる。順慶は果心居士の言う通りにはせずに、しかし光秀にも加担せずに洞ヶ峠で日和見をする。

 秀吉の天下になったある日、秀吉から順慶の元にいる果心居士の幻術を見たいと所望される。順慶は自分のところにいるとは気が付かなかったが、探すと出てくる。秀吉の眼前で術を見せようとするが、その中に果心居士にとって気に掛かる山伏のような人物が一人いた。秀吉に頼んで、この者を御前から下げて貰おうとするが、許しが出ない。それでやむを得ずに術をかけるが、この一人が醒めていて、この男に別の場所で術をかけていたところを殺される。

 これも「飛び加藤」と同様に、集団催眠術的な術であり、読んでいてもピンとこない話だが、有名な順慶の「洞ヶ峠」の逸話が思わぬ形で紹介される。

「放浪の天才画家 長谷川利行展」図録

 このカタログは地元の絵好きな知人からお借りしたものだ。私が去年の暮れに長谷川利行の作品に御縁があったことを話していたからである。
 頁を括っていくと、なんと私が購入したデッサンが所載されているではないか。購入した時、板橋区立美術館で開催時のカタログに所載されていることは承知していたが、驚いた。
 考えてみれば、この絵の額裏には、昭和51年2月に日本橋三越で開催された「長谷川利行展」(主催毎日新聞社、後援文化庁・東京都教育委員会)の出品シールが貼付されているのだ。出品されて、カタログに収録されているのは当然なのだ。

 この展覧会図録には、熊谷守一、中曽根康弘、東山魁夷、中村歌右衛門、山岡荘八、木村武雄(政治家で木村東介の弟)、東郷青児、小幡欣治、森光子、渥美清、緒形拳、矢野文夫、木村東介(羽黒洞)、小倉忠夫(美術評論家)が推薦者になり、それぞれ一文を寄せている。これら人々の評は面白く、以下に簡単に紹介する。

小倉忠夫(美術評論家)は、長谷川の作品を詩精神と感性がさまざまなモチーフを機縁として、色彩とフォルムの交響のうちに流露した感が濃いもので、広義の表現主義とする。そしてヨーロッパのフォーヴィズム(さらにユトリロのような独自の詩的な生活感情、ないし抒情もある)、東洋の文人画(歌人で歌集も出し、祖父、父も俳人)、ナイーヴな児童画の要素が相互に通底しあって、利行の自由にして奔放かつ純な魂において、ひとつに融和統合されると書く。

 熊谷守一は当時から長谷川の理解者であり、利行の思い出を書き、あれで結構名誉も金も欲しがっていたと書く。そして安井曾太郎に嫌われていたことを記し、あの時代が生んだ特異な才能と評価する。

 中曽根康弘は、今の金持ちに迎合する幇間的な画家ではなく庶民大衆に根ざしているとして事務所と応接間に飾って、心の糧にしていると書いており、見直した。

 東山魁夷は昭和23年に出向いた展覧会で利行の裸婦の小品と赤い家の作品2点を買ったことを記す。孤独感と寂寥感をたてた中に素純なものが光ると書いている。

 中村歌右衛門は今は所有してないが、一時は持っており、緑の線の中の水泳ぎ少女の絵などはどうしてあんなに瑞々しい感覚が絵の中にいつまでも残っているのか不思議で、彼の絵のように芸術は時代の先に行くべきで、自分も意識していると書く。

 山岡荘八は雑誌編集長時代に知人の画家に挿絵を頼みにいく。そこで長谷川に会い、彼の絵を褒めたら、その場でくれたとの思い出を書く。その内天城俊彦が埋もれた天才画家を発見したと来る。利行の歌も卓抜していたと記す。

 木村武雄(政治家で木村東介の弟)は戦時下、兄が利行の絵を疎開させていたのを覚えていた。中曽根に展覧会に誘われた時に、そこに兄が疎開させていた絵があり、懐かしさを覚えると同時に、貴人富豪に縁のない絵を大切にした利行のように政治に向かいたいと記す。

 東郷青児は、はじめて利行を認めた正宗得三郎先生の思い出を記す。また長谷川の破天荒な私生活には悩まされた思い出。たとえば玄関で絵を買わないと帰らず、また後にあの絵を手直ししたいと持ち出し、どこかに転売する。不潔で行儀が悪いが、目は澄んでいた。警察に無銭飲食のもらい下げにいったこともあるそうだ。

 森光子はマチスのように色鮮やかで、ユトリロのように寂しい。それで厳然と日本人の世界がある。人物が静物のようで、それに深い世界がある。荒涼と寂しく、しかも強烈な意志があると評する。

 渥美清は仕事がなく鬱々してしていた時に観た利行の田端機関庫の絵がいつまでも忘れられないと記す。

 矢野文夫は利行の青春を探り、書いている。和歌山湯浅の耐久中学の同窓生を探し、利行が紅顔可憐で眉目が美しいとの思い出を引き出している。恋人がいたと推測している。それを裏付ける歌がある。妻と子もいたことを歌から推測している。

 木村東介(羽黒洞)は利行の放浪生活を記し、自身も羅漢尊者のように荘厳な人物像を描いて、民族の中に不滅の芸術を残したと高く評価する。

「飛び加藤」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の忍者物の短編である。「飛び加藤」と称せられる忍者だから、木の枝から枝へと飛び移るのが得意な忍者だと思って読みはじめたが、そうではなく、集団催眠術をかけるのが得意な忍者である。

京の街中で、小男だが釣り上がった目が異常に光りを帯びた武士風体の者が、さまざまな口上を述べて、真言を唱え、これから、この大きな牛を呑み込むとか言って、周りの群衆にそう思わせるような術をかける。この時は松の上から見ていた男が「牛の背中に乗っているだけだ」と見破る。今度は種から夕顔の花を咲かせる術をかける。牛の催眠術を見破った男は松の木の上で殺される。
この術を上杉家の家臣2人も見ており、謙信への仕官を勧め、上杉家へ連れてくる。道中、気にいった女を術で攫うようなこともする。女に対する趣味は悪い。

 謙信は10日の間、自身の忍者を使って飛び加藤の身辺を探らせるが、謙信の忍者も根を上げる。謙信に目通りさせた時に、謙信がこの薙刀を家臣の家に預けておくが、それを取り出せるかと試す。飛び加藤のその後の様子を書いていく。そして当日はその屋敷に忍び込み童女を連れてくる。「刀はどうした。盗めなかったな。」と謙信が言うと「それは偽物」と言う。謙信が改めさすと、その通り偽物であり、本物は納戸にあった。

 10日間、御伽衆として話を聞いたりしていたが、だんだんと気味が悪くなり、殺そうとするが、そこでも衆人を驚かすような術で逃れる。

 余談として、その後、武田信玄の元に行くが、信玄は用が無いと言って、数挺の鉄砲で殺したとの伝承などを紹介して物語は終わる。

 幻術と言うか、集団催眠術のようなものだから派手な立ち回りもなく、読んでいる立場では馬鹿馬鹿しさが出る。小説には難しいと思う話を書いた点に司馬遼太郎のうまさがあると言える。

「戈壁の匈奴」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の短編である。戈壁はゴビと読む。このような難しい言葉が沢山出てきて、司馬遼太郎の学識が窺える。

 物語は1920年にイギリスの退役大尉が口径1㍍、高さは人の身丈も超えるような玻璃の壺を発見したことから始まる。半月後に、以前にこのあたりを調査したスタイン探検隊の長に問い合わせると、彼から、これは西夏の遺物ではあるまいか。空想で言えば西夏滅亡時の主権者の李睍公主のものではないかとの返書が届く。

 そこから、昔の西夏の物語に飛ぶ。その話とはジンギスカンが若い時から西夏の侵略を試みる。それは隊商の者から、西夏に暮らす女性は肌が白く、鼻梁が高くて美しいと聞いたことによる。中東からインド・ヨーロッパ語族に属するのだろうが、そのような女に憧れ、その女を獲得する為に遠征すると言うことになっている。モンゴル人は女を略奪する為に戦争をしているような小説仕立てであり、モンゴルの人が読むと驚くだろう。

 ジンギスカンは西夏に対して4度の戦いを挑むことになる。それぞれの戦いの様子を記していくが、2度はモンゴル軍の敗退の話である。3度目の遠征で、西夏の女性を獲て引き揚げるが、帰路の途中でその女性は死ぬ。
 晩年になってやっと願いを叶えて李睍公主を獲るが、それからまもなくジンギスカンは息を引き取ると言う物語である。

 馬鹿馬鹿しい小説であるが、その中で触れられている中央アジアの歴史に対する造詣の深さはさすがと思わせるものがある。

「最期の伊賀者」 司馬遼太郎 著

 全集2に所載の短編である。江戸幕府が成立し、伊賀忍者も服部半蔵以下、200人が御家人として幕府に傭われる。
その棟梁の服部半蔵正成が逝去し、跡を継いだのが半蔵正就である。正就は忍者というより大身の旗本で五千石の身分に安住し、妻も松平定勝の娘という身分になる。

 正就の屋敷に奇異なことが次々に起きる。これらに関して、正就は配下の伊賀者の嫌がらせだと感づく。特にヒダリと異称を持つ野島平内の仕業と推測している。

 確かにヒダリが忍術の技を使って悪戯をしていた。ヒダリは仲間の和田伝蔵の家を訪ねる。伝蔵は妻帯して子どもがいる。一方、ヒダリこと平内は独身である。妻帯した仲間が大半になり、その者どもは昔の伊賀者の生活から、幕府御家人の生活になじみつつあった。平内は昔ながらの伊賀者気質だった。そしてヒダリは今の服部半蔵正就が伊賀者の統領にはふさわしくないと思っている。

 仲間の喰代ノ杣次(野島道秀)を誘い、変装して2人で半蔵正就が辻斬りをしているなどの流言飛語をまき散らす。

 一度、ヒダリは正就の屋敷に呼び出され、詰問され、成敗されそうになるが、忍術で逃れる。

 ある時、伊賀組同心の生活が苦しい中に、半蔵正就は再度の普請を命じてきた。これには伊賀組一同も耐えきれず、目付に半蔵正就の非違を訴えることになる。半蔵正成の菩提寺の西念寺に一堂が立て籠もり、一揆の名目人はヒダリこと野島平内となる。

 慌てた幕閣は半蔵正就を呼び出すが、登城しない。一方、一揆衆には態勢を解けと命じ、一揆衆は従がったので、幕閣は半蔵正就が松平定勝の娘婿だが、一揆衆の方に同情的になり、結局、普請の儀は取りやめとなる。名目人のヒダリは死罪となるが、忍術を使って逐電する。

 半蔵正就はヒダリを憎み、有るとき、ヒダリと思い、通りがかりの武士を殺すが人違いとわかる。辻斬りの噂もあり、服部家は改易となる。

 その後、妻の縁で、大坂の陣の時は松平定勝の陣を借りて出陣するが、天王寺口の合戦で行方不明となる。死体も無く、結局は臆しての逃亡となり、服部家は潰される。
 ヒダリの仲間だった和田伝蔵は、これはヒダリの仕業だと推測する。

 ヒダリが2代目の服部半蔵正就を憎むに至った経緯が、短編だから十分に説明されないが、面白い小説である。


「風神の門」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集2の「風神の門」である。司馬遼太郎が初期に書いていた忍者ものの時代小説である。
 主人公は伊賀者の霧隠才蔵で、舞台は関ヶ原の戦いが終わり、これから徳川方と大坂方の争いが想定される時期の京都から始まる。
 才蔵は堺の商人の為に情報を取ったりする仕事についており、八瀬の里にある茶屋に郎党と一緒に湯を浴びにいくところから始まる。そこで徳川方の刺客に襲われる。
 八瀬の里で顔がわからないが良い香りのする女性に会い、再見したいと思う。下忍を使って調べると、公家の菊亭大納言の姫とわかり、その屋敷に忍び込む。そこで姫に会うが、八瀬の里の女性とは違うことに気付く。八瀬の女は公家の娘の名を騙っていたわけである。
 その者は淀殿の侍女で、後にこの侍女が大坂方の諜報活動の中心人物として京都にいる牢人などに大坂方に参陣するように働きかけていたことがわかる。
 そして才蔵を襲った刺客らは徳川方の諜報機関に属する武士とわかる。
 こんな形で、大坂方、徳川方双方の暗躍に才蔵は巻き込まれ、それぞれから自陣営への参加を求められる。

 才蔵の生き方は、どちらの組織にも属さず、己の忍びの技術で生き抜くというものだが、一時は徳川方になって活躍し、次ぎには豊臣方となって活動していく。実際には、登場する魅力的な女性の為に、活動するようなはめになる。司馬遼太郎小説にまま見られるパターンである。

 霧隠才蔵はスーパーマン的な忍者である。前述した豊臣方の女棟梁は隠岐殿とよばれ、淀殿の侍女で大野治長の妹である。公家の菊亭大納言の姫は、菊亭大納言が豊臣方に近かった公家であり、豊臣方、徳川方のそれぞれに利用されて翻弄されていく。
 そこに、隠岐殿の腹違いの妹が登場する。当初は当然に豊臣方だが、実は徳川方の女間者だとわかる者も彩りを添える。

 また忍者間の闘争の中で、大坂方に属している猿飛佐助と出会う。猿飛は甲賀忍者で、甲賀忍者は伊賀忍者と違って、組織に属すとして、大坂方の、特に真田幸村に心酔していた。結局、猿飛佐助と協力して幸村の命で徳川家康の命を狙うことになる。

 この道中で、才蔵を助ける甲賀忍者の女が登場する。
 出てくる女性は皆、それなりに魅力的で才蔵は惹かれ、女性も才蔵を恋い慕う。
 家康暗殺では風魔忍者の強敵も現れる。そして最期は大坂で真田幸村の為に戦い、落城時には淀殿の侍女の隠岐殿を助けて落ち延びる。
 荒唐無稽な物語であり、このような小説だけなら、司馬遼太郎は大衆時代小説作家で終わったと思う。
 大坂方の武将としては真田幸村と後藤又兵衛が好きなようだ。
(本は文庫本を紹介する)

「上総の剣客」「奇妙な剣客」 司馬遼太郎著

 全集12所載の短編である。幕末に江戸麻布永坂に「おだやかさま」と称される剣術道場主がいた。上総飯野二万石の保科家の剣術指南役で、北辰一刀流の千葉道場では海保帆平らと「千葉道場の四天王」とよばれていた森要蔵である。

 近所の人から「おだやかさま」の仇名をつけられるほどに、物腰が柔らかく、本当に強いのかと近所の町人が噂をするほどだった。
 有るとき、近くの石屋が鑿で石を割る仕事を観ていて、石屋とどちらが早く割るかを競うことになる。石屋の方が早く割る。

 この夜、要蔵は人が変わったように考え込み、妻を離別して旅に出ると言う。森要蔵は剣で迷いが生じた時にこれまでも時々、このような奇行をしてきたと書いている。妻はこの奇癖にいつもとまどっていた。要蔵には子がいたが、長男はこのような父の態度に反発して剣の道を継がず、次男が天稟の冴えを見せる。

 留守中の道場を時々見るように頼まれた海保帆平は、この話を聞き、自分も石屋の仕事を見てから、石割に挑む。すると四半刻で割り、驚いた石屋に自分は「森の弟子だ」と伝える。

 1年ほどして要蔵はいつものように何事もなかったように家に戻る。石屋で海保帆平と同様に石を早く割るようになっていた。

 世は幕末動乱。江戸詰めの武士も上総に引き揚げることになり、森家も引き揚げる。
 上総で藩論は紛糾するが、藩主は少数で抜けだし、勤皇になり、藩を朝廷に返納する。その結果、藩士は三々五々に行き先を決めるが、要蔵は会津に行くと決め、次男を連れて行くとした。妻は内心は反対するが、仕方が無い。

 会津での森父子の戦いぶりは生き残りの会津藩の山川健次郎がくりかえし語るほど見事なものであった。官軍の板垣も見事な戦いぶりに銃撃するのも止めて見入るが、その後の銃撃で2人は戦死する。
 なお、飯野藩には講談社の創立者の野間青治の先祖もおり、要蔵の義理の孫で、戦死した次男と同姓同名の森寅雄の話も追記してある。

「奇妙な剣客」

 これも全集12の中の短編である。毛色の変わった小説で、安土桃山時代にバスク人の剣客が、日本行きのポルトガル船に乗って、日本に来て、平戸と日本側の武士に殺される顛末を物語りにしたものである。

 バスク人は不思議な民族でアッチラの子孫だとかの伝承があり、日本人に親近感を持っていたという想定である。

 この剣客は航海中に海賊との戦いに貢献していた。平戸に着いた時に、船の乗務員と町の人がトラブルになる。平戸の武士(この人物の生活ぶりも書いているが、特段の話でもない)と戦い殺される。おもしろい小説ではない。

「理心流異聞」司馬遼太郎 著

 これも全集12所載の短編である。天然理心流の道場にいた北辰一刀流の沖田総司の逸話である。
 三多摩地区で、近藤の代稽古に出向いた途中、3人連れの武芸者に出会う。相手は名乗らないが、沖田の名を知っており、試合を申し込まれる。他流試合は禁止だからと言ってその場を去り、近藤、土方にこのことを伝える。
 沖田から、これら連中は脛(すね)当ての道具を持っていたと聞いた近藤は、彼等は松月派柳剛流の者であると推測する。この流派は上段から脛を狙う特異な剣法であった。そして、最近は三多摩の天然理心流の地盤を荒らしていた。

 当時、天然理心流には江戸に道場もあったが悪性の麻疹がはやり、道場は寂れていた。

 ここで柳剛流に関する逸話が挿入されている。江戸の道場を軒並み負かしたことがあるようで、北辰一刀流の千葉栄次郎も負けたが、次ぎに試合をした桃井春蔵は勝ち、これを観て研究していた千葉栄次郎が再度立ち会って勝利したという話である。

 その後、この3人組に同門の井上源三郎がやられる。近藤は沖田が北辰一刀流を学んでいたから、柳剛流を破ったことがある北辰一刀流の知り合いのところで対策を聞けと暗に伝え、沖田は伝手を頼って教えを受けようとするが断られる。

 そして沖田は柳剛流の本拠の蕨に出向き、試合を申し込む。寺の裏の松林を月夜の晩に指定される。相手は7人で待ち伏せをし、沖田は這々の体で戻る。
その後、沖田は一時期、行方がわからなくなる

 沖田が戻ってきた頃に、京都で浪士徴募の動きがあり、近藤らは参加する。江戸の道場が寂れてきたことも背景にある。これが後の新撰組である。

 京都で浪士取締で戦う中で、長州藩に与力していた松月派柳剛流の者と出会い、沖田は激闘の末、討ち果たして、長年の怨みを解消した。
 あまり面白くない小説である。

「大夫殿坂」 司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集12所載の短編である。この作品は、作州津山藩の大坂屋敷勤めの武士が死去し、その跡目を剣も使える弟が継ぐことからはじままる。
 兄の跡目を継いで大坂に来て見ると、藩邸のものも、何となく兄の死の真相を隠しているように感じる。そこで真相を探るべく、動きだすのだが、藩邸の者はこぞって詮索はやめるように言い、女遊びに誘う。そこで大坂藩邸の腐敗を知り、義憤にかられ、また兄も女遊びを盛んにしていたことを知る。

そして兄と親しかった遊郭の女から、兄の死の真相を探ろうとする。兄は駕籠に乗って帰る時に刺客にあったことを知る。刺客の正体を藩邸の者も何となく知っているような雰囲気で、奉行所の与力も真相を知っているが、言わない。

 当時は幕末動乱の時代で、大坂では新撰組が金集めなどに跳梁していた。その新撰組隊士と、遊郭の女をめぐってトラブルになって殺されたことがやっとわかる。
 大坂の奉行所も与力内山が新撰組に殺されたりして、関わりたくなかったわけである。弟は脱藩して、兄を殺した新撰組隊士を狙う。そして往時、福島左衛門大夫正則の屋敷があったことから名付けられた大夫坂で戦い、相打ちで果てる。

 各藩の大坂蔵屋敷の腐敗(商人と癒着しやすい構造になっていた)、新撰組が治外法権的な組織になっていったことなどが書かれている。広義の司馬遼太郎の新撰組関連作品である。

「越後の刀」司馬遼太郎 著

 竹俣兼光を司馬遼太郎が物語にした小説で、全集12所載である。
 主人公を栃尾源左衛門(元上杉家の藩士で牢人している)として、京都の借家で「おもよ」という妻と暮らす。生活は「おもよ」が面倒をみていて源左衛門は働かない、京の町を歩き回っているだけの男なので「おもよ」の金も無くなりつつあった。

 時代は大坂の陣の後に設定している。ある時、源左衛門が長い菰包みを抱えて帰宅する。それは刀であり、その刀を源左衛門が観ているときに「おもよ」は何人かの人影の幻影を見る。彼の着物には血が付いているが、刀を持ちかえったいきさつは何もしゃべらない。

 「おもよ」は源左衛門のことを知ろうとして地蔵院の義了に調べてもらうことにする。義了は所司代に出向いて、上杉家の家臣2人に源左衛門のことを聞く手立てを得る。確かに源左衛門は昔、上杉家にいたことを老年の武士から聞くが、その場で、義了がその男が刀を探しているようだと言うと、もう一人の竹俣甚十郎が関心を示す。

 義了は相国寺の雲水に豊臣家に仕えていた男がいて、その男から源左衛門は大坂城で秀頼の近臣で落城の時に殉死したとの話も聞く。その雲水を連れてきて、面通しをすると、確かに大坂城にいた源左衛門だった。

 所司代は大坂牢人を探索し、動向を把握していた。そこで大坂牢人の一人の魚津鹿之進が鳥辺山で墓守のようなことをしていたが、最近は見かけないと言う情報を得る。義了が調べると、鹿之進は秀吉の阿弥陀ケ峰の廟に通っていたことがわかり、妙齢の女性が近くにいたことも判明する。
 なお鹿之進は現在はいなくなっているが、その住居の後は涼やかに立ち退いたようなあとで、突如立ち去ったような状況ではないとのことであった。

 源左衛門は持ちかえった刀を自分の差料にして佩刀していた。そこで義了は研師、鞘師にあたる。ここで、その刀は無銘だが備前長船兼光であることがわかる。上杉家の若い武家も調査にきたという。竹俣甚十郎であった。

 義了は所司代の与力から、上杉家の刀に関する情報を聞くと、上杉家の兼光を京の研ぎ師に出した時に別の刀に取り替えられたことがあり、その時は石田三成に頼み、悪人を捕まえる。その後、この太刀は太閤からねだられ、献上したことがわかる。
 所司代は、その刀を上杉の竹俣家の者が探している情報も義了に寄こす。

 なお大坂落城時に、兼光で秀頼を介錯した毛利勝永を介錯したのが栃尾源左衛門であった。この刀は近習魚津鹿之進が持ち出し、秀頼の後生を祈っていた。栃尾源左衛門は魚津を探しており、やっと見つけて魚津を殺し、魚津の住まいで、女(淀殿付きの女中)を脅かし、刀を奪ったというわけだ。女は世を儚んで家を片付け、出て行ったから、跡がきれいだったというわけである。

 義了がここまで調べて「おもよ」の家に行くと、源左衛門はいない。そこで義了は「おもよ」に、今頃は竹俣一行に栃尾源左衛門は殺されているだろうと推測していることを話す。

 所司代としては元和牢人が2人片付いたわけである。

もちろん司馬遼太郎が創作した話である。

「岩見重太郎の系図」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集12に所載の短編である。面白い小説で傑作だと思う。薄田大蔵という人物が主人公である。大坂で梶派一刀流の道場主として世を送っている。
 あるとき、大坂から奈良に出向く用があり、そこで2人の武士が戦っているのに遭遇する。大蔵は剣術道場の主であり、仲裁に入ろうとした。しかし双方から黙殺され、戦いが続き、一人が死に、もう一人の若者は重傷だが、場を立ち去る。
 そこに紫の袱紗の包みが落ちており、開けると古びた巻物だった。自分の姓の薄田の文字が読めたので懐に入れ、近くの人を喚んで顛末を話す。自分が殺めたものでないことを証明する為に佩刀を渡して奉行所に届けるように言って去る。

 大坂の道場に戻り、一人で袱紗を開けて、中をみると薄田家の系図であった。薄田隼人正兼相で終わっていた。翌日、原持明軒という経師を訪ねる。この人物は諸家の系図作りも手がけていた。大蔵は自分の家の蔵から出たと嘘をつくが、持明軒は「お宅に蔵があったかな?」と眉唾な話だと察するが、系図作りは彼の商売である。彼から薄田隼人正は大坂の陣で後藤又兵衛らと一緒に活躍した武将であることを知る。

 大蔵は大坂に住んでいながら薄田隼人正のことは何も知らないから、戦いの地に出向いて歩き回ったりする。

 持明軒から、薄田隼人正は天橋立の仇討ちで有名になった岩見重太郎のことだとも聞く。

 持明軒は偽の系図作りの専門家だから、嘘と承知で、本物らしく大蔵のところまでの系図を作ることとして20両請求する。これでしかるべき大名家に仕官できるかもしれないと匂わす。

 出来上がった系図では、薄田隼人正が婢女(はしため)の梅に生ませたのが大蔵の父となっており、後日の証拠にこの系図と正宗の短刀を渡すとある。本物になりきるには天下の名刀正宗を探さないといけないが、大坂では鍛冶の井上真改が所持していると持明軒は情報をくれる。

 ある夜、あの時の若者ともう一人に襲われる。若者は薄田源次郎と名乗る。大蔵が二人を斬って、辻斬りとして届け出る。辻斬りを斬ったのが薄田隼人正の子孫で剣客だとして、薄田大蔵は脚光を浴びる。

 この男の薄田源次郎は江州余呉生まれの無宿とわかる。余呉に出向いて身元を確認すると由緒など無いことが確認される。大蔵は一安心する。

 経師の持明軒が井上真改の屋敷に連れて行ってくれる。そしたら辻斬りを退治したことで有名であり、真改が正宗を貸してくれると言う。

 大坂の陣で、薄田隼人正を討った河村新八は水野勝成の軍に属しており、その後裔の備後福山藩主水野勝慶が薄田隼人正の子孫を探していることがわかる。福山藩の用人が大蔵に元にくる。大蔵は返事を待ってもらう。

 町奉行所から連絡があり、奈良で殺された男は播州書写山の寺侍崩れで、名は岩見新之助とわかる。そこで大蔵は播州岩見郷に出向く。古老に聞くと、ここは岩見重太郎の出身地ではないと言う。ただし岩見新之助のことは知っており、彼は書写山の寺で什器、宝物を管理していたが、それらを盗んで密売していたことがわかり、放逐された人間であると判明する。寺の宝物の中に薄田家の系図があり、それを盗んだのだと推察される。この人物も本当の薄田隼人正に関係が無いことがわかり、大蔵は安堵する。

 大蔵はここまで調べてから、水野家に出向き、馬廻役200石で取り立てられる。首尾良く偽の子孫になりおおせたのだが、大蔵の心は晴れずに、静かな余生を送ったという。

 余談として井上真改から借りた正宗を経師と一緒に返却に出向くと、真改はあれは自分の作品と明かした。なにもかも偽物の出来事であった。

 後に水野家は嗣子がなく除封され、家臣は散って、薄田家は大坂で大名貸しの商人になった。

 偽者になりすますことへの薄田大蔵の不安な心理がうまく書かれている。また大蔵の妻は金持ちの家の出で、当初は大蔵を軽く見ていたが、その態度が変化していく様子なども面白い。

「宮本武蔵」 司馬遼太郎著

 冒頭は「街道をゆく」みたいな調子で、武蔵の故郷、作州讃甘郷(さなも)郷宮本村を訪れ、そこで武蔵と同姓の新免さんに出会ったりする。
 播州との境で、母は播州人という想定である。本来は平田が姓で、平田無二斎の子として生まれる。ここ一帯の領主は新免伊賀守という。無二斎は地下牢人だったが、若い時は将軍義昭の御前試合で十手術で吉岡憲法から3本のうち2本をとっている経歴を持つ。
 父も武芸者で当初は父から学ぶというのは千葉周作と同じである。また武蔵の体格が大きかったことも千葉周作と同じである。
 この父から武芸を学ぶが、父とはうまくいかなかったという伝承を書いていく。

 13歳の時に有馬喜兵衛という兵法者を打ち殺す。五輪書には16歳で但馬で兵法者に勝つと記されている。
 17歳で関ヶ原の戦いに宇喜多家で参陣するが、新免家の者と一緒に大坂に逃げ、九州の黒田官兵衛を頼る。あっさりと書いている。

 21歳で都に出る。ここで室町幕府兵法所の吉岡憲法一門と戦う。吉岡清十郎、弟の伝七郎と倒し、一乗寺の下り松で戦う。観てきたように戦いの様子を記述する。
 奈良で宝蔵院流の槍と戦い、ここで二刀流のヒントを得る(父の十手術の影響もある)。敗者の宝蔵院は武蔵に怨みを持たず、奈良で滞在。奈良、京都での見学で武蔵の芸術的センスは磨かれたと書く。

 次ぎに伊賀で鎖鎌の宍戸梅軒と試合をして斃す。試合ごとに武蔵が編み出した剣術の形(ここでは三心刀)を説明していく。

 江戸に出向き、ここで知名の人と交際したり、武器を作ったりもする。そこに夢想権之助の杖術と試合をする。武蔵はこの人にも恨まれずに後に九州で交誼を続けた。
 槍、鎖鎌、杖という異種の武器との戦いや、父の十手術などが、二刀流の元になっていると読者に示していく。

 新免家の者は関ヶ原の敗戦で九州に逃れ、黒田官兵衛に頼るが、全員が仕官できず、後に小倉を領した細川家に仕えていた者が多い。細川藩には兵法指南佐々木小次郎がおり、傲慢な性格で嫌われており、新免家ゆかりの家中の者は小次郎との試合を望む。すぐには武蔵は試合をせずに京で禅に関心を寄せる。また小次郎の情報を集める。
 新免衆は家老・長岡佐渡に仕えており、巌流島での決闘に進んでいく。小次郎と戦う前に小次郎の姿を見るような場面も入れている。

 この後、姫路城下で三宅軍兵衛という兵法者と戦う。三宅は後に武蔵に傾倒する。
 また大坂の陣に豊臣方で参戦したとの伝承もあるが詳細はわからない。この小説でももちろん書いていない。

 江戸で軍学者として名高い北条安房守の知遇を得る。このように武蔵の世渡りが上手というと語弊があるが、兵法者でありながら人に嫌われない性格を示している。
 将軍家に3千石で仕官という望みを持つが叶えられない。当時の兵法者は200石から600石程度である。将として戦をしてみたいと思ったのかもしれない。
 次ぎに尾張徳川家での仕官も望むが、ここには柳生兵庫助がいて路上で武蔵とすれ違い互いを知るような書き方である。そして藩主に武蔵の剣は教える剣ではないと進言する。

 晩年の57歳時に肥後細川家が客分として17人扶持300石で迎え入れる。そして62歳で逝去。

 吉川英治はお通という女性を登場させるが、司馬遼太郎としては珍しく女性が出て来ない小説に仕立てている。吉川英治のお通さんのイメージにかなわないと思ったのかもしれない。
 武蔵の芸術面に触れたのは斬新だと思う。ただし、その才能が開花した由縁は説明できていないが。

「北斗の人」司馬遼太郎 著

 『司馬遼太郎全集12 北斗の人 宮本武蔵』に所載である。北辰一刀流を立てた江戸時代後期の千葉周作のことを伝記的に書いた小説である。
 周作は陸奥の国に生まれる。百姓身分で父は馬医であったが、千葉家の祖父が北辰夢想流という剣術を編み出したとある。父もまた百姓ながら剣術を嗜み北辰夢想流を継いでいた。
 父はそれなりの山っ気がある人物として描かれている。馬医として世を送り、その次男が後の千葉周作である。大男であったようだ。小さい時から蜂を退治するなどの逸話も紹介している。蜂の巣から出る蜂を一匹ずつ棒で殺したようなことを書いているが、眉鐔の伝承であろう。また、父は村で盗賊を捕らえたことがあり、それなりに地域では大事にされていたようである。そのような縁から周作は村の名主を烏帽子親として元服する。司馬遼太郎らしく、ここで村の娘雪江を登場させる。

 父は息子の為に江戸に行くことにする。そして松戸で道場を開いていた初代浅利又四郎の元で千葉周作をあずけることに成功する。たまたま浅利は後継者を探しており、千葉周作が眼鏡にかなう。そこで養女と婚姻して浅利周作となる。この養女との絡みも書いて読者を飽きさせない。

 浅利又四郎の道場では周作が一番強いから、周作は浅利の宗家である中西派一刀流の中西忠兵衛の元に入門したく、婚家を出る。千葉家の遠縁であるという植木屋に居候し、修業する。その過程で自分なりの剣技を高めていく。ここの娘との話が後半を彩る女性で、この娘と結婚するという。

 従来の剣術の伝統芸能的なものや、宗教にも結びついて神秘性を高めた剣術理論を周作は排して、理論的かつ体系的な習得方法を考える。これが後に「技の千葉」と喧伝された元になるのである。
 
 そして剣術修業に出て、地方の道場破りをしていく。ハイライトが上州の馬庭念流との対決である。念流の門人と試合をしながら、周作のファンというか門下にしていく。その延長に、馬庭宗家と一触即発の危機を迎える。

 その後、東海道でも地方の道場を訪れ試合をして剣名を高めていく。
 そして江戸の品川で道場を開く。教え方が斬新であり、人気が出て、すぐに手狭になり神田お玉が池で道場をつくる。その横には儒学の東条一堂がいて、これもなかなかの人気学者であり、周作と意気投合する。そして学問は東条一堂 剣は玄武館として繁栄していく。千葉周作は62歳まで生き、水戸藩に抱えられ栄達するが、息子達は剣の才能はあったものの短命であった。

 当時の江戸の剣術道場は今の東京の大学のようなもので、そこでの同門のネットワークが後の尊皇攘夷倒幕に生きてくる。学生運動がおこったようなものである。また千葉周作は水戸藩に抱えられ、水戸学を学ぶ者(尊皇攘夷)に親しみやすかった面もあるのだろう。

「愛染明王」司馬遼太郎 著

これは福島正則の生涯、性格を描いた短編である。その性格を彼の生涯における逸話を繋げながら、粗暴、短気、勇敢、異常に名誉心が強い、酒乱、だけど愛嬌があって部下思い(病的な人情深さ)、可愛げがあるというように描いている。

この性格を裏付けるように、少年の頃の殺人事件を起こしたことから始まる。酒乱で、酔って正体を失い、その時に部下に切腹を命じたことを忘れ、酔いが覚めた後にひどく後悔して泣くなどの話も紹介される。

これは有名な逸話であるが、関ヶ原後に部下を京都に差し向けた時に、部下が徳川家の軍に通行を禁止される。帰った部下が、その場で事を起こすと主家に迷惑がかかると思い、引き返してきました。ただ武士として辱められたので切腹すると述べる。正則は徳川軍の態度に激怒し、「よし切腹しろ。その代わり仇は必ず自分が討つ」と徳川家にその時の責任者の処罰を激しく要求する。徳川家は、その場で阻止した役人を処分すると言うが、正則はそれでおさまらない。あくまでも責任者の奉行・伊奈図書を切腹させろと迫り、家康もやむなく同意する。

このような粗暴、短気な人物だが、加藤清正と違って、自分一人でやるというより、組織を作る才能もあると評価する。

家康に、正則の「三成憎し」の感情をうまく使われて関ヶ原で西軍=豊臣方に先陣となって戦う。大坂の陣では江戸に留められる。広島城の無届け普請で取り潰しになるが、何度も災害による普請の届けを出していたが、徳川幕僚にはぐらかされて、取りつぶしの口実に使われた。

このような福島正則を、憤怒暴悪の表情をもち、しかも内面は愛憐の情をたたえるという愛染明王に例えた物語である。なお、正則が流された配所の信州の荼毘所に一体の愛染明王の石仏があると結んでいる。

司馬遼太郎全集8には、他に「軍師二人」という短編も収められている。これは大坂の陣における後藤又兵衛と真田幸村のことを描いている。後藤又兵衛の方に同情的である。

「おれは権現」司馬遼太郎 著

これも全集8に収められている短編で、福島家の家臣・可児才蔵の物語である。本人は自分自身には山城愛宕の勝軍地蔵(愛宕権現)が乗り移っていると信じていた。そして最期もこの地蔵の縁日である二十四日に死ぬと預言していていた。

福島家の大身となった現在も妻が無く、子もいない。これまでも多くの女性が側女として仕えるが子に恵まれず、このままでは可児家は取り潰されてしまう。ただ才蔵は、このことを気にはしていない。
そこに側室として入ったお茂代が子を産もうと考える。何か可児才蔵には子を作らないことへの秘密があると気づき、それを探ろうとする。すると出来助という人物に義理立てしていることがわかる。思い人か寵童かとも考えるがわからない。

豪傑・可児才蔵の逸話だが、関ヶ原の時、大活躍するが、首を持ってこない。福島正則が聞くと、重いから切り取った首の口に、笹の葉を噛ませておいたと証言する。そこで探すと、その通りに笹の葉を噛ませていた20の兜首があったという。

福島家には竹内久左衛門という古い家来がいて、お茂代は出来助のことを探ろうとするが「知らない」と言う。久左衛門が才蔵にこれまで多くの側室を紹介していてきたが、いずれも石女(うまづめ)の噂がある女性だったことを知る。お茂代も離縁された女であり、そう思われていたふしがあることがわかる。

ある時、才蔵が山城愛宕に詣る時にお茂代は同行を許され、可児家の出身地、美濃可児郷に出向く。そこで若い時の才蔵の話を聞く。それによると、明智家に奉公するが、当時は臆病で念仏を唱えて人の後ろから参戦するような性格だった。牢人になって3年、佐々成政に奉公し、この時、能登末森城の退却戦で首18という活躍をする。さらに20の首をとるという大活躍をしたそうである。

山城愛宕でお茂代は才蔵の口から次のような秘密を聞く。臆病者として牢人中に山伏に出会い、加持祈祷を受け、愛宕権現で勝軍地蔵が体内に入るという経験をする。その祈祷の山伏が出来助であり、才蔵の家来となり、一緒に槍働きもできる人物であることを知る。

それから10年後、皆老いてくる。そのうち竹内久左衛門が出来助とわかってくる。出来助との約束は、禄は半分で、可児家の跡継ぎは出来助の子が継ぐというものであった。ただ出来助の子は病没していた。

お茂代も行で対抗するために、山城愛宕で女行者を呼ぶ。歳老いて才蔵は自分の予言通りに24日に死んだ。
この後、可児家は取り潰されるが、しばらく経って、女行者が懐妊していることがわかり、その時は可児家を再興するかという話になるが、福島家そのものが取り潰される。

不思議な物語だが、面白い短編である。

「花房助兵衛」司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集8に所載の短編で、宇喜多家の家来の花房助兵衛の話である。秀吉にも遠慮しない剛強な侍大将として記述は進む。
小田原の陣の時に、秀吉が滞在しているところに下馬せずに通りかかり、警備のものと揉める。それを見ていたのが出雲の歩き巫女の吉備之助である。この時に花房助兵衛の落とした袋を拾う。中には小壺があり、そこに小さな骨が入っていた。すると吉備之助のお付きの巫女に、若い女の亡霊のようなものが取り憑く。そこでこの小壺を花房助兵衛に届けようとするが、花房の陣は軍律が厳しく入れないので、いずれ渡そうということで旅を続ける。

出雲に戻り、備前の花房のことを聞く。助兵衛は朝鮮に出て、活躍していた。
時はたち、宇喜多家で内紛がある。戸川肥後守、岡豊前守、長船紀伊守の重臣が争う。花房は戸川に与し、秀家の寵臣中村次郎兵衛を撃たんと大坂に出る。その騒ぎを徳川家康が調停する。そして戸川と花房は常州佐竹家預けとなる。この時に、吉備之助は花房に会い、例の袋を渡す。いわれは何もいわない。吉備之助ははじめて花房助兵衛に出会った時と同様に、ときめく。

関ヶ原前の小山会議の時に、東軍諸将は佐竹が腹背をつくかが心配になった時に花房は呼ばれ、動向を聞かれる。彼は佐竹は動かないとの観測を述べる。ただし、そのことを誓詞に書けと家康に言われるが断る。武士が言ったことを更に誓詞とはという気持ちである。このことで大名にはなれずに備中高松で七千石となる。なお大坂の陣には病気を押して輿に乗って参陣という逸話を残す。

戦国、豪傑物語の一つである。小壺の謎は解明されずに、小説としては物足りなさを感じる。どうせ小説なのだから、ここで花房助兵衛の若い時の艶っぽい物語を展開してもと、私は思うのだが。

「覚兵衛物語」司馬遼太郎 著

この短編も、司馬遼太郎全集8に所載で、加藤清正の家来の飯田覚兵衛の物語である。
飯田覚兵衛が老年になって若い女が側室としてあがってくる。覚兵衛が若い時に馴染んだ女性と似ている。そこで覚兵衛が昔語りをする。
覚兵衛は山城の山﨑村で15まで過ごす。百姓の子でサイ八と呼ばれていた。後に同じく加藤家の家老になった森本儀太夫とも幼友達であった。儀太夫は力士といい、2人で暴れていたが8つの時に、この村に尾張中村生まれの夜叉若という子が来る。遊びの中で3人で党を組もうとのことになる。そして、その中で大将を決め、終生大将のもと家来として一緒に過ごそうと約束する。この時、夜叉若が大将になるが、その後、彼は尾張に帰る。

のちに夜叉若は秀吉に仕え、加藤清正となる。彼は百五十石の物頭になった時に力士とサイ八を呼びにくる。サイ八は武士は嫌だが、説得される。
合戦の都度、清正におだてられてここまでくる。覚兵衛は戦上手であった。清正が死ぬ時、2人を呼んで、二代目の息子忠広を頼むと言われ、ここでも侍を止める時を失う。
ところが忠広と合わず、加藤家を辞す。その後、加藤家は取り潰される。

加藤清正の人使いの上手さを書いた面もあるが、これを書くならば、もう少し突っ込んで書いて欲しい。

飯田覚兵衛の人生、加藤清正に操られた人生を「侍が嫌だった」とのトーンで否定的に書くのも、覚兵衛の実績を見れば無理があるように感じる。

平和になった時に、どの大名家でも生じた古老と二代目との確執が真相なのだろうが、そのように読者に思いこませるのにも、材料が不足している。

「雨おんな」司馬遼太郎 著

この短編も、司馬遼太郎全集8に所載である。出雲の歩き巫女の「おなん」という女性が主人公である。関ヶ原合戦の時に、たまたま、この地にお供の者(与阿弥、市)と3人と旅をしていた。
夜、西軍に属した宇喜多家の稲目左馬蔵に最初に犯される。朝方には東軍に属した福島家の尾花京兵衛に犯される。ともに戦の前に女と交じると武運があるという言い伝えをつげる。ともに名を聞き、戦いの後に尋ねてくればと言うようなことを述べて戦いに行く。
関ヶ原合戦の時は遠くで銃声を聞きながら、怯えて過ごす。東軍の勝と知る。

その後、「おなん」は旅を続ける。岡山は宇喜多家の領地ではなくなっていたが、ここで稲目左馬蔵の消息を訪ねるがわからない。その後、安芸広島に行く。ここで尾花を訪ねる。尾花は思い出し、寝床で関ヶ原の戦話をする。それで福島軍と宇喜多軍と戦ったことを話す。尾花京兵衛に囲われて、屋敷に住み着いて2年になる。元々が旅をする巫女だから、この生活に飽きてくる。

広島城下に乞食のような武者が来て、勝負して負ければ「この首進上」と書いた高札を立てる。

福島正則の耳にも達し、「福島家の名折れだ。誰かと試合をさせろ」と命じるが、家老は尾花を呼んで、彼に足軽をつけて、この男を闇に葬ることを命じる。
京兵衛は暗殺に出向くが、「おなん」も同行することを許される。そしてここでの戦いの過程で、この乞食侍が稲目左馬蔵であることがわかる。戦いの中で稲目は川に流されるが、「おなん」は付き人の与阿弥に命じて、稲目を探させる。与阿弥が川原で稲目をみつけ、宿を世話する。

暗殺に失敗した尾花京兵衛も稲目左馬蔵を探していた。「おなん」はお供の3人で尾花の屋敷を出て、稲目がいる宿に向かう。
すると、尾花も探知して、すでに宿から稲目と尾花は出て、戦おうとしていた。
そこに「おなん」が来て、稲目であることを知り、尾花にいきさつを話す。そして闘う前に稲目が関ヶ原でのことを話す。関ヶ原で稲目は首2つを取って駆け回っていたが、敗軍となり、逃げようとした時に尾花が来て戦う。勝てそうだが、首をとっても誰も恩賞をくれないから尾花に自分が取った首を与える。尾花はそれも自分の手柄として出世をしていたわけである。

尾花は戦場で敵に命を助けられたことを恐れて、稲目を殺そうとするが、尾花は右腕は切られ、稲目はどこかに旅立つ。

ありえない話を巧みに短編時代小説に仕立てていて興味深いが、無理はある。無理筋だけに、何となく終末が見えてしまう。

「侍大将の胸毛」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集8に所載の短編の一つである。この巻の短編は戦国時代の脇役である豪傑を主人公にしたものが続く。これは渡辺勘兵衛のことを書いている。

 関ヶ原後に主君藤堂高虎の命を受けて大葉孫六が、勘兵衛に自家への仕官を勧めに行くところから物語りは始まる。この後、司馬遼太郎は藤堂高虎のことに触れるが、世渡りが上手で戦が下手のような印象を読者に与える。もちろん史実とは違うだろうが、あとで渡辺官兵衛との対立が不可欠になる伏線である。

 渡辺勘兵衛は増田長盛の侍大将として高名な武将であった。当初は中村一氏に属し、小田原攻めの時に主君の山中城一番乗りを助ける。その後、退転して増田長盛に仕えたわけだ。増田家は関ヶ原には参陣しないが、石田方であり、関ヶ原後に増田長盛は高野山に出家遁世。

 居城の郡山城を預かっていた渡辺勘兵衛は、敗戦で城から逃げる者が狼藉を働くのを防ぐ。そして城明け渡しの時に見事な応対を示し、男を上げる。この時、藤堂高虎は城の受取に出向いていた。

 大葉孫六のこの時の勧誘では返事をもらえずに、「いずれまた」となる。
 諸国を遍歴していた勘兵衛が伊豫今治に来て、藤堂家に仕官することになる。この時、大葉孫六は参勤交代の供で江戸に行っていた。留守の間、勘兵衛を世話した大葉孫六の妻が勘兵衛に関心を寄せる。性的関係には至らないが、物語に艶めきを与える。タイトルの「侍大将の胸毛」とは渡辺勘兵衛の胸毛のことだが、この女性との間で生じることからきている。物語の最期に勘兵衛が藤堂家を退転する時に、妻との話は印象的に終わる。

 さて、江戸から帰国した藤堂高虎は官兵衛に対面して、当初は8千石を提示し、断られてから2万石へと上げるが、結局、勘兵衛は藤堂家の戦での駆け引きを任せてもらうことを条件に1万石で仕官する。
 大坂夏の陣に出陣。高虎の命に背いて、当座、緊急の対応が必要な敵を討つ。これに軍令違反と高虎は怒る。藤堂隊は苦戦するが、勘兵衛隊は活躍する。この時の経緯から藤堂家から退転する。

 おもしろい短編小説である。
(全集では無く、文庫を紹介する。この短編集に収録されているとあるが、私は未確認であるので、御自分で確認してほしい)

「売ろう物語」司馬遼太郎 著

 これも司馬遼太郎全集8に所載の短編の一つである。後藤又兵衛と同郷で幼馴染みの同姓同名の商人が主人公であるが、後藤又兵衛のことを書いている。
 黒田家が筑前で大封を得た時に又兵衛は一万六千石になる。商人の又兵衛は、又兵衛に連絡して筑前での商売の伝手を得ようとする。幼い頃は、同姓同名なので頭の形から武将の方は「なまず又兵衛」、商人の方は「柿阿又兵衛」と呼ばれていた。

 又兵衛は如水の薫陶を得るが、如水の跡を継いだ黒田長政とは相性が悪く、黒田家を退転する。隣りの細川家が二万石で召し抱えることになったが、黒田家からの横槍が入り、幕府も調整して、仕官は断念される。今度は福島家が三万石で迎え入れたいとの話があるが、又兵衛は蹴る。
 商人は仕官の際の石高に関して「自分を高く売るだけが商売ではない」と忠告もするが、その後は又兵衛を傭う大名が無くなる。零落した時に、伊豫の加藤家なら二、三千石ならなんとかなると口を利くが、又兵衛は断る。
そして大坂城からの誘いを受けて、大坂城に入る。夏の陣の前に、徳川家からの寝返りをすすめる使者が五十万石と言うのを聞いて満足して討ち死にしたと小説は終わる。

 途中で、黒田長政と後藤又兵衛の関係がまずくなっていく経緯も書いてあり、興味深い。
戦国乱世において男を発揮した英雄の一人だが、そういう男だけに平和の世では生きるのが難しい。また2代目の主君にとっては手に余る家臣となるわけだ。

 後藤又兵衛が自分自身で売り込みをしたわけではなく、商人の又兵衛が端で男の売値について述べているだけである。それにたいして「売ろう物語」のタイトルはふさわしくないのではと思う。また商人の又兵衛のことも、魅力的には描写されておらず、あまり面白くない小説である。

「言い触らし団右衛門」 司馬遼太郎 著

全集8に所載の短編の一つである。大坂の陣で活躍した塙団右衛門(ばん だんえもん)を取り上げている。この人の事績もよくわからないようだが、数少ない良い漢詩が残されているそうだ。戦国乱世にしか生きられない人物で、戦いでは先頭を切って敵陣に突っ込んで槍働きをする人物である。
人柄、風貌などは作者の想像だろうが豪傑らしく描写している。遠州横須賀の生まれで、須田次郎右衛門と名乗り、秀吉傘下の武将加藤嘉明の足軽となる。しかし、すぐに退去して加藤家牢人(この肩書きが欲しかった)として、京都で仕官先を探す。その時、長命寺に盗賊が入った際に、盗賊を退治し、食客となる。ここの僧は観相の名人で、彼から塙団右衛門の名を提案される。

加藤嘉明が大名になった時に再度、傭われる。ただ雑兵扱いであり、大坂の町で売名行為というと悪いことだが、目立つことをしていた。加藤嘉明はこのような団右衛門を嫌っていた。
加藤家の朝鮮出兵時に動員され、その時に大指物を立てる時に団右衛門の怪力が役に立ち、これで名前が売れる。そして350石の物頭になる。関ヶ原の時は自分の鉄砲足軽を置いて、単騎で突っ込んで手柄を上げるが、軍律違反を問われる。これで嫌気がさして、再度、加藤家から離れる。奉公構とされるが、小早川家に仕官する。しかし小早川家が断絶して牢人になる。

ここで口入屋の出戻り娘とねんごろの関係になる。そして大坂の陣である。紀州徳川家からの仕官の口もあったが、大坂城に入る。そして冬の陣における夜戦の大将に任じられて手柄を立てる。この時に、「寄せ手の大将 塙団右衛門」という木札をばらまいて相変わらずの売名行為。

夏の陣では紀州方面の担当になるが、先陣争いをして、単騎突入。ここで大暴れするが、戦死。首実検が雨と腐敗で中止となった時に、ねんごろの関係となっていた出戻り娘が、憑かれたように、「われも一手の大将なり。首実検をしないと祟る」と言って、首実検を行ったという逸話を入れて物語りを閉めている。

面白い小説である。
(文庫本をリンクしておく)