「放水路落日-長谷川利行晩年-」矢野文夫 著

画家:長谷川利行の晩年を小説仕立てで書いた小説である。二科会で樗牛賞を受けて天才画家と言われたが、二科会の中でも長谷川を支持する人は少なく、絵も売れずに困窮する。もっとも絵が売れないのは、当時でも、また現在でも多くの絵描きに当てはまることだが、実家からの援助も無く、加えて少し金ができると呑んでしまったり、周りの人も一緒に飲み食いをしてしまう生活態度である。晩年は金が無く、服装は汚く、金を得る為に絵を押し売りのようにして売っていた画家の姿が描かれている。

この小説では長谷川利行は本名で登場する。主人公は図案デザイナーの五味昌助。実在する人かはわからないが、著者の矢野文夫(長谷川と親交があった)の体験を五味に仮託して小説仕立てにしているような気もする。
五味も無頼で、酒が好きで飲んだくれて女と同棲するような男だが、長谷川の才能は買っている。お互いに金が出来ては、その日の内に呑んでしまうような生活をしている。

なお、著者の矢野文夫は詩人で絵も書き、新聞記者にもなり、晩年は美術雑誌の編集も手がけている。小説の中の長谷川の人となりは、飲んだくれの中に純なところがあるように書いている。時に長谷川の実績を知っている医者などが登場し、絵を買うが、一度、買って貰うと押し売りのように出向いて、絵を買ってくれるまで黙って座っているような生活をする。

晩年は本人は胃潰瘍と思っていたようだが、胃ガンで衰弱して三河島の救世軍宿泊所から養育院の病院で亡くなる。この時に五味が見舞いに行った時の描写も長谷川の無念さが伝わってくる凄まじいものである。なお、病院の規則で身よりのない病人が亡くなると、所持品も燃やされることになっていて、長谷川が大事にしていた作品やスケッチブックがはいった行李も燃やされてしまう。

晩年には高崎という男が画商天城として登場する。長谷川の才能は買っているのだが、軟禁状態で絵を画かせて、展覧会をして儲けるような人物である。長谷川の絵の価格を上げるという情熱も持っており、本当の悪人ではないように描写されている。

この小説の中の長谷川利行の人物像が、小説とは言え、事実であると認識されて、美術の評伝などに引用されているようだ。

なお表題の「放水路落日」の意味は読了してもわからない。本文の中に放水路が出ていたのかもしれないが、まったく印象に残っていない。

「怪しい戦国史」本郷和人 著

歴史学者にしてやや軽い文章を書き、TVにも出演している本郷氏の著作である。産経新聞に連載中の「本郷和人の日本史ナナメ読み」から加筆、修正したものである。だから読みやすいが、一話ごとにテーマが異なる。新聞連載とのことで文字数が限られているから、中には連続して二話にわたるものもある。
それら小話を大きく7つの章に分けているが、章と中味の関連が薄いものもあるが、なかなかに興味深い逸話も紹介されている。

これは本郷氏の独創ではないが、戦国当時の領地石高から、戦国武将の動員力を推計し、それから古くから伝わる物語の中の兵力を検証している。百石について3人~5人の兵役義務が通常だったようだ。だから1万石なら300~500人の動員兵力が妥当となる。これから川中島に動員された兵力などが検証できる。

また当時は大名に属する家臣が一家として自分の郎党を連れて戦いに出向く。すなわち自分は馬に乗っての騎乗の武士、郎党には鉄砲、槍などを持たせての参戦。だから、それを鉄砲部隊、槍部隊という兵種別の編成に引き離されるのは難しかったことになる。戦国大名自身が旗本として、それら要員を抱えれば兵種別部隊は可能となる。

秀吉は軍の行軍速度で山崎・天王山の戦い、賤ヶ岳の戦いで勝ってきたが、小牧長久手の戦いでは失敗した。
福島正則は暴れ者というだけのイメージは違うのではと提起している。秀吉も武辺一辺倒では評価しない武将である。親戚ということもあるが、それなりに能力が高かったのではないかと推測している。

最近、歴史学で言われはじめていることに対しても著者なりにコメントしている。関ヶ原後も大坂の陣までは、公儀は家康と秀頼の2つという説はとらない。また織田信長は普通の戦国大名の一人という最近の風潮も違うと述べている。

家康が信康の遺児の家(2児の内、姉は登久姫は小笠原秀政に、妹の熊姫は本多忠政に嫁がせる)を大事にした例から、信康を信長の命で殺したことに悲しみを感じていたと述べている。また自分の娘の婚家を大事にした事例(奥平家、池田家)などを紹介している。

徳川家康は文化面で各地から古書を集めたりして貢献している。著者が専門にした「吾妻鏡」も後北条家→黒田家→徳川家と考えられてきたが、家康が全国から集めたことがわかってきている。

藤堂高虎は家康に信頼された武将だが、その信頼度がわかるものとして上野東照宮にある三所大権現の絵に家康、天海、藤堂高虎が描かれているとのこと。

花押は実名の代わりに用いたもので、実名+花押というものはない。

長谷川利行の画集3点

御縁があって長谷川利行のデッサンを入手した。所蔵していた絵画4点を下取りに出す。強く清らかな少年像だが、「東京の落書き 1930’s 長谷川利行と小熊秀雄の時代」展の画集に所載で、そこでは「少女」とされている。妻とも話すが、少女と見えなくもない。そういうことがあり、改めて長谷川利行の画集を3冊紐解く。

長谷川利行の作品には具体的な人物(例えば岸田国士、前田夕暮、矢野文夫、寺田政明、靉光など)を描いた絵もあり、それらは魅力的だが、無名の少年や少女を描いた絵も多くある。私に御縁のあった絵もその中の一枚だが、私が好きな一枚で、凛としたところ、清らかなところ、純なところなどを感じる。

昭和51年2月に日本橋三越で開催された「長谷川利行展」の出品シールも添付されている。この展覧会の副題に「長谷川利行 河野コレクション」とある。河野コレクションとは河野保雄氏のコレクションのことだと思う。氏は福島市の実業家で、音楽評論家でもあり、日本を代表する洋画コレクターの一人とのことだ。いち早く青木繁、岸田劉生、関根正二、長谷川利行などの画家を評価したようだ。ちなみに私はこれら作家は好きであり、関根正二の「三星」の絵(国立近代美術館蔵)は大好きな1枚である。ともかく河野保雄氏が所有されていたものだろうか。

また羽黒洞の木村東介氏の鑑定シールも添付してある。木村東介も独特の画商である。肉筆浮世絵の扱いでも名高い。

長谷川利行の絵は、人物画以外には、当時の東京のモダンな建造物を描いたものや、それら建造物の内部を描いたものなどもある。関東大震災後の復興に心が惹かれたのかもしれない。彼は詩人、歌人であり、関東大震災を歌った歌誌「火岸」も出している。

「生誕100年記念 長谷川利行展 図録」、「長谷川利行画集」が今回観た画集だが、後者の立派な本では長谷川利行を高く評価する画家、画商などが座談会で語り合っている。長谷川は「日本のゴッホ」と言われているが、ゴッホよりいいと述べている人もいる。ファンだから、このような言い方になるのだろう。

これら画集の解説の中で、長谷川利行は西洋画で言えばフォービズム(野獣派)だが、表現主義的な画家でもあるとして、日本の文人画の系列なのではあるまいかと述べている一節があり、この評が私の気持ちにも合致する。蕪村、浦上玉堂、鉄斎などの系列なのだろうか。蕪村の京都の夜の雪景色を描いた絵など大好きだが、これら画家の作品は、このように私の感性に合うものと、あまりピンとこないものがある。長谷川利行の作品も、この作品のように自分の感情が揺さぶられるものもある反面、あまり感動しないものもある。こういうのが文人画の特色なのであろうか。

長谷川は金が無い生活をし、絵を買ってくれと押しつけるようなところもあり、そういう状況だから風体も汚く、敬遠する人も多かったようだ。また絵もキチンとしたデッサン力の裏付けのあるものではないが、心打つものがある画家である。

「長谷川利行画集」に掲載の絵では、利行の色が美しい画家と感じる。「生誕100年記念 長谷川利行展 図録」に掲載の絵をみると、色は濁った暗い感じのものが目に付く。早描きの作家なのだが、さらに省筆した絵も掲載されている。「東京の落書き 1930’s 長谷川利行と小熊秀雄の時代」展の画集では、人物画の良いものが収められている。

以下にリンクした画集は私が読んだ画集とは違うが何種類も出されており、その一つとして掲載しておく。


『シリーズ藩物語 福井藩』舟澤茂樹 著

これは「シリーズ藩物語」として、刊行されているものの一冊で、越前福井藩の話である。
藩祖の事績や、代々の藩主のこと、その時々で藩に生じた出来事や、藩の特産品などが書かれていて興味深い。
朝倉氏時代のことは触れられておらず、柴田勝家からのことで、結城秀康以降の江戸時代の話が中心である。幕末の松平春嶽と次ぎの代まで記載されている。

江戸時代は加賀藩への抑えの役割、家格的には秀忠の兄の家ということで68万石の大藩となるが、秀康の子忠直の時に「越前騒動」(久世騒動)という重臣間の御家騒動がある。秀康は武功の士を求め、それらを高禄で召し抱える。その結果55万5千石を家中の給地で12万5千石が秀康の蔵入地という構成になった。万石以上の家来が7家もあるという状況である。こういうことが御家騒動の遠因の一つである。

また忠直が大坂の陣の恩賞の不満などから生活が乱れ、豊後に配流になる。そして50万石になり、徳川綱吉政権時代に藩主の問題から「貞享の半知」と言われる事態(25万石)になる。
「貞享の半知」は藩全体の知行削減だが、寛文時代から藩財政が逼迫して、藩士の知行が実質的に削られていく状況も記されている。
そして、福井藩は将軍家から養子をもらうことで、藩財政を持参金で補填するようになる。幕末の松平春嶽も、田安邸で徳川斉匡の8男と生まれ、11歳で越前家を継ぐ。春嶽は中根雪江(側用人)、浅井政昭(側向頭取)という藩主に直言して諌止するような家臣を登用している。医術も盛んであり、藩として種痘をやったことも知る。

国立近代美術館 通常展

昨日、妻と出向く。先週まで鏑木清方の「幻の《築地明石町》特別公開」で非常な混雑だったようだ。この日は「MOMATガイドスタッフ」によるギャラリー解説に参加する。この解説は、スタッフからの一方的な説明ではなく、そこに参加した人からも意見を聴取するようなもので、こういうのも面白いと感じる。
ただ、私もそうだが、美術に詳しい人から、そうでない人まで参加した人が勝手な意見を言うわけだから、意義を感じない人もいるかもしれない。
そういう形式だから、一つ一つの作品に時間がかかる。今回は菱田春草の作品で明治天皇が愛されたという「雀に烏」の屏風と、写真家の奈良原一高の「無国籍地から」の一連の写真作品と、菱田春草の「蟻」(正確な題かは自信が無い)の掛け軸の3点の作品だ。
「蟻」の作品を紹介する前に、参加者一人一人に蟻の絵を画いてもらう趣向である。私も画いたが、正確には画けない。菱田春草がある人から絵を頼まれたのになかなか画かない。そこで注文主はせめて蟻の一匹でも画いてくださいと言ったら、春草は本当に蟻を小さく一匹画いたという逸話のある掛け軸である。一流画家が常日頃からデッサンを行っていることを、我々素人に画かせることで教えてくれたようだ。

奈良原の作品は廃墟の中で、三角形、四角形、円形などの幾何的な模様が出たところを写真に撮り、そういうことで、どこの国の写真かなどをわからなくしているから「無国籍地から」という表題にしているのであろうか。参加者各人が、作品群の中から自分の好きな1枚を選び、それを選定した理由を述べるというスタイルであった。

「雀に烏」は烏と雀に柳を描いたものである。烏が一羽、中段のやや下部の柳の枝に止まり、寂しげな絵である。明治天皇はこの孤独に共感を感じたのであろうか。柳は老木で、よく見ると細かく色を塗り分けて巧みである。柳の枝は冬の為か葉も無いが、新芽は画かれている。そこに雀がたくさん止まっている。飛んでる鳥はいなかったと思う。

通常展であるから、何度も拝見している絵が多い。だけど名品であり、良い美術館だと思う。中村彝の「エロシェンコ像」、岸田劉生の「自画像」、松本竣介の「Y市の橋」など良い絵である。日本人の作品だけでなく、マティス、セザンヌ、ブラックなどの名品も展示されている。
フジタの戦争画も展示されている。自分の技倆を誇っているような絵である。
今回の展示では、工芸品も展示してあるのが変わったところである。近くの工芸館が金沢に移転する為であろうか。

「レンズが撮らえたオックスフォード大学所蔵幕末明治の日本」フィリップ・グローヴァー著 三井圭司編

オックスフォード大学付属図書館に所蔵されているピット・リヴァースのコレクションから幕末期の日本の写真を紹介した本である。
日本人の肖像写真、日本の風俗、日本の景色などの写真である。横浜で観光客用に売られていた写真もある。当時は白黒写真であるが、それに手彩色しているものもある。
肖像写真には第一回遣欧使節団や第二回遣欧使節団のメンバーで名前が判明している人物もある。有名人では福澤諭吉がいる。着物の正装姿で大小を差している写真である。大小を見ると、大と小をまったく同じ刀装にしている人より、違う人の方が多い。柄糸は白黒写真だから判然としないが、大が白、小が黒の柄糸もある。ワイシャツ、蝶ネクタイの上に着物を着ている写真もある。
他に有名人の写真として徳川慶喜のがある。
女性の写真もある。パリ世界万博の日本茶室で働いていた女性とのことだ。琴を弾いたり、人力車に乗ったりの女性もいるし、今でも美人と思える若い女性の写真もある。
また日本の風俗として、鎧を着たり、火消し装束の武士もいる。切腹を申し渡された時の様子を演技しているものもある。
町人も雑技団のメンバーが写真に写っている。見事な刺青を着色した人物もいる。
風景は富士山、銀閣寺、金閣寺、鎌倉の大仏、伊香保温泉、亀戸天神、堀切菖蒲園、清水寺、四条大橋、石山寺、祇園、奈良明日香の遺跡などや考古の出土品のもある。またアイヌ人を撮ったものもある。写真を撮った人の関心が趣くままである。

「国宝ロストワールド」岡塚章子、金子隆一、説田晃大 著

この書は、明治の写真の黎明期に、日本の仏像、建築物などを被写体として写真家の作品を紹介している。こういう写真が残っていたおかげで、沖縄の首里城や法隆寺金堂壁画の再建もできたわけである。

当初は記録的なもの、日本の観光みやげの写真だが、芸術的な写真も登場するようになり、その経緯も面白い。

全部で33の写真である。写真家としては横山松三郎(日光や法隆寺夢殿、東大寺大仏、名古屋城天守閣など)、フェリーチェ・ベアト(長谷の大仏)、日下部金兵衛(東大寺大仏殿)、アドルフォ・ファリサーリ(知恩院三門)、小川一眞(法隆寺の釈迦三尊像、興福寺無著菩薩立像など)、光村利藻(彦根城天守閣)、工藤利三郎(興福寺阿修羅像など)、鎌倉芳太郎(首里城正殿)、小川晴暘(中宮寺菩薩半跏思惟像、新薬師寺跋折羅大将像など)佐藤浜次郎(法隆寺金堂壁画)、佐藤辰三(観心寺如意輪観音菩薩像)、辻本米三郎(神護寺薬師如来立像)、大八木威男(高松塚壁画)、坂本万七(法隆寺五重塔北面侍者像)、土門拳(神護寺薬師如来立像、平等院鳳凰堂夕焼けなど)、入江泰吉(東大寺戒壇堂広目天像、秋深き法起寺など)、藤本四八(薬師寺薬師如来坐像の足裏)、渡辺義雄(唐招提寺講堂内部の天井)である。

私はアドルフォ・ファリサーリの知恩院、小川一眞の無著菩薩立像、小川晴暘の中宮寺菩薩半跏思惟像、新薬師寺跋折羅大将像、辻本米三郎の神護寺薬師如来立像、坂本万七の法隆寺五重塔北面侍者像、土門拳の神護寺薬師如来立像、入江泰吉の東大寺戒壇堂広目天像の写真が好きだ。
被写体の素晴らしさ、その素晴らしい魅力を引き出した写真家の目、技術に感服する。

なお本文の中で、著者が主な写真家の技術的系譜や技法などを記して、日本写真史になっている。

「考古学が解き明かす古代史」古庄浩明 著

考古学者が書いた日本の古代史(弥生時代~壬申の乱)である。水田遺跡としては佐賀・菜畑遺跡で山ノ寺式土器と一緒に発見されたのが古い。紀元前300年頃か。稲は中国の長江の中・下流域が起源で、朝鮮半島経由か、あるいは海を越えて直接来たかである。青森県砂沢遺跡から水田跡が発見されるなどの結果、稲作は急激に広まったと考えられる。

日本では銅と鉄が同時期に伝わり、青銅器は主に祭りに使われる。島根県出雲市斐川町神庭西谷の荒神谷遺跡で中細形銅剣が358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見。近くの加茂岩倉遺跡でも銅鐸39個が発掘。出雲勢力はその後青銅器の祭祀を放棄して、方形の墳丘の四隅を突き出させる四隅突出型墳丘墓を造る。次の段階で近畿では古墳文化が起こる。近畿の古墳には吉備地方の特殊器台や九州の鏡を埋納する儀礼も取り込んでいるから、近畿と各地方のつながりが想起される。

金印については真偽論争がある。邪馬台国論争で近畿説では卑弥呼の墓を箸墓古墳とし、纏向遺跡を邪馬台国とするのが一般的だが、著者は中山大塚古墳が一番上の河岸段丘にあり、特殊器台が出土しているし、近くの黒塚古墳(天理市にあり、33面の三角縁神獣鏡が出土し、盗掘穴から三世紀代の庄内式土器が出土)が卑弥呼を補佐した男弟の墓と考え、次のトヨが箸墓古墳の主ではなかろうかと推測している。

古墳時代とは3世紀中頃から7世紀末頃までである。各首長は身分秩序に応じた古墳を造る。前方後円墳で古いのは箸墓古墳。

鉄製品は朝鮮の弁辰(加邪)から鉄鋌(てつてい)というインゴットで輸入していた。
東日本には濃尾平野を中心に狗奴国があった。

3世紀後半から中国は混乱。これに乗じて高句麗が勢力を伸ばす。朝鮮では346年に百済が小国連合の馬韓を、356年には新羅が小国連合の辰韓を統一する。南下する高句麗に対抗。ヤマトは南部の弁韓(任那)に進出。高句麗に圧迫された百済は倭と同盟。396年に任那を支配。高句麗で倭と戦ったのが好太王である。

高句麗と戦うことで倭も馬を重視し、都を河内に移す。仁徳天皇などである。4世紀後半は朝鮮半島諸国は中国に朝貢する。倭も中国南朝に朝貢する。413年~502年に倭の五王が計13回朝貢する。
軍事のウェイトが高くなり、各地の古墳からワカタケル大王(雄略天皇)との関係を示す鉄剣が発見される。

朝鮮半島では475年に高句麗が百済を攻め、任那では倭の支配力が後退して、512年に任那を百済に譲渡。新羅も浸食。

倭では王族同士の骨肉の争い。大王に権力が集中し、それを支える大伴、物部などの豪族の力が強くなり、支配層の身分制度が確立する。地方では反発も生まれ、吉備氏が反乱する。武蔵でも争いがある。

越前から継体天皇が入り507年に即位する。527年には筑紫磐井の乱が起きる。
百済から仏教が531年に伝わる。562年、新羅は任那を完全に制圧。百済などからの渡来人が文化をもたらす。

571年の欽明天皇の見瀬丸山古墳が最期の前方後円墳で以降は円墳や方墳。7世紀には八角形墳が大王の墓に生まれる。

589年に中国で隋が統一する。日本は4回の遣隋使。天皇中心の中央集権国家が生まれる。疫病の流行に伴い、崇仏と廃仏の争いが生まれる。
以降は聖徳太子の時代から、645年の大化の改新に到る。663年に白村江の戦いで負け、百済は名実とも滅亡し、新羅が朝鮮を統一する。
672年の壬申の乱と移っていく。