「バテレンの世紀」 渡辺京二 著

この本は、日本と西洋がはじめて出会った戦国時代後期から、キリシタン禁教令でオランダ以外との交流が絶えるまでの間の壮大な交流物語を書いている。倭寇や、日本の朱印船のことや、東南アジア各地にできた日本人町のことなどの記述は少ない。ポルトガル、オランダなどの西洋との交流が中心である。

ポルトガルが国王権力を社会各層の力も得て確立し、15世紀初頭に対岸アフリカのモロッコの要衝セウタを攻略する。そして金を求めてアフリカ西岸に進出する。またキリスト教国プレスター・ジョンを発見し、イスラム世界の背後を衝くという動機もあった。結局、奴隷狩りをするようになる。

その後、喜望峰をまわりインド洋に出て、ムスリム商人などが活躍していたインド洋貿易圏と接する。そしてゴヤを拠点として確保する。ポルトガル人が香料諸島のことを知ったのはマラッカ占領の後である。モルッカの香料はジャワ島北岸の商人たちによってマラッカへもたらされていた。
ただ同然の価格で集荷した丁字は、マラッカでは原価の10倍、ヨーロッパでは360倍で売れた。ポルトガルの香料、ことに胡椒貿易の支配はホルムズからレヴァント、アデンからエジプトにいたる従来のイスラム商業のルートに深刻な打撃をあたえる。

次ぎは中国だが、胡椒を中国の生糸、絹織物と交易する。当時の明は広州を南方諸国の入貢地にしていたが、ポルトガルは正式な貿易は出来なかった。明の水軍は火船の使用に長じていたのでインドのようなことは出来なかった。ポルトガル人は中国貿易の利を諦めきれずに北上して福建方面で密貿易に携わり、1540年舟山群島の一角に定着する。この倭寇から日本を知る。

イエズス会の創立からの経緯を書き、ザビエルの事績となる。ザビエルはインドに幻滅して、そこで出会ったアンジロウの聡明さから日本に期待するようになり、1549年に鹿児島に着く。平戸、山口、京都に出向いたが、滞日は2年3ヶ月で布教はほとんど成果が上がらなかった。
次ぎがトルレスだが、大友宗麟の庇護を受けて活動する。アルメイダが病院をつくることで布教は少し進む。
以降、次々と宣教師が派遣される。1563年に将軍奉公衆の結城山城守忠正、明経家の清原枝賢が入信。有力武士が入ると布教は進む。それから高山右近の父の飛騨守図書(友照)も洗礼。

そしてヴァリニャーノは少年使節団を結成してローマに派遣する。宣教師としての実績をアピールし、また日本人に西洋の素晴らしさを見せることで布教にはずみをつけようとした。当時のローマ教皇も私生児を設け、自分の甥と称していたように乱れていた。日本の少年使節は行儀良く、動作上品にして恭謙と称賛される。

曲直瀬道三も切支丹になるが、宣教師が日本の神々を悪魔と呼ぶのをやめるように忠告したが、コエリュ、オルガンティーノも改めなかった。

1586年にフロイスが朝鮮を攻めるのであれば、下(九州)をほぼ指揮下においているから協力できるというようなことを言う。この言葉に秀吉は危機感を持つ。
1587年にバテレン追放令。(一般人が信仰するのは構わない。一定の所領を給された給人は秀吉の許可)
ヴァリニャーノは少年使節団を連れて入京。1590の12月。秀吉は伊東マンショを気に入る。ロドリゲス・ツズは日本語が達者で秀吉からも信頼される。ヴァリニャーノ一行の入京でポルトガル風ファッションでロザリオ、十字架を首に吊すのが流行。京都で模造品が作られる
天草学林で印刷所が開設。

切支丹大名には次のとおりである。
織田秀信、牧村政治、蒲生氏郷、筒井定次、木下勝俊、織田有楽斎、高山右近、一条兼定、大友義鎮、毛利高政、黒田孝高、小西行長、大村純忠、有馬晴信、宗義智

トルデシーリャス条約で日本はポルトガル支配圏だが、スペイン系のフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ修道会なども進出し、イエズス会と対立する。

1596年にマニラからメキシコに行くスペイン船サン・フェリーペ号が土佐の浦戸に漂着。増田長盛が派遣され、積荷を没収。事情聴取でスペインは宣教師を先兵にして侵略の足がかりとすることがわかり、秀吉は改め江バテレン追放令。

1599年の秀吉の死後に家康は伊勢に潜伏していたフランシスコ会の宣教師ヘスースを伏見城に呼び、スペイン船の浦賀寄港、スペインの鉱山技師、パイロット招請の件でフィリピン総督に斡旋の労を依頼する。1599年江戸でヘスースの教会建設を許す。

関ヶ原後にロドリゲスは家康に面会、都と大坂、長崎の3箇所にイエズス会の会宅を於くことを認める。貿易を推進したい一心。
ウィリアムアダムスはオランダのリーフデ号できて家康に謁見。オランダとスペインの戦争などの情報をもたらす。アダムスは2隻の西洋式帆船を作る。2席目の120トンは太平洋を横断。

オランダ、イギリスが登場。朱印船貿易で日本人の海外進出がはじまる。南洋に日本人町。

1602年に家康は貿易はOKだが、キリスト教の伝導は禁止とする。
家康は1599年から1607年にフィリピン、安南、カンボジア、パタニ(マレー半島タイ南部)、シャムなどの国王に24通の書簡。朱印状を持った船だけを通商相手として信認をもとめる。海上ではオランダ、イギリスも尊重。当時、朱印状に類する海上通行証はインド洋でポルトガルが発行したカルタス、明の文引などがあった。

オランダは1603年にマレー半島のパタニに商館を持つ。オランダ船は操船、火力においてスペイン、ポルトガルの船に優越した。
英国は1613年に日本市場に参入。日本に合わない貿易品が多く、商売はうまくいかなかった。

最盛期の朱印船はミスツィス造りの船で、ポルトガル語のメスティーナ(ポルトガルとインディオの混血児)のことである。中国のジャンクとポルトガルのガレオン船の折衷様式。

禁教令でキリスト信者が殉教。この時、聖遺物を信者が争って求めた。このようなことを邪教と家康は考えた。信者数は37万人に達しており、キリスト教は強烈な侵略性(武力的侵略でなく文化的侵略)を持つと認識する。

禁教令のはじめの頃は棄教を進めても、取締側の役人の中には無理には殺さなかった。

禁教令下、つかのまの活況は東北地域。フランシスコ会のソテロが伊達政宗に招かれる。1800の信者。仙台領見分の領主後藤寿庵。大坂冬の陣後にイエズス会宣教師のアンジェリス伴う。大坂方の信者は北に逃げる。

オランダは台湾に生糸貿易の拠点を持つ。台湾占領の話が出たが、幕府は一貫して消極的だった。タイオワン事件が起こって、オランダとの間もおかしくなる。

日本人の外国船投資の形態は2つあり、一つは「委託貿易」で銀を預かり、マカオで生糸など指定の品を購入。幕府の高官も実施。
もうひとつは「レスポンデンシア」という高利の金銭貸借。マカオに帰るポルトガル商人に貸与して、再来航時に元利を償還させる。船が遭難するリスクがあるので、金利は25~40%になる。

幕閣は何度禁教令を出しても宣教師を連れてくるポルトガルを憎む。迫害が激しいほど日本に来て、この宣教師のために住民がいらざる血を流すとの思いを持つ。そこでマカオ、マニラの占拠をオランダに促したりする。

島原の乱が勃発するが、宗教戦争か農民反乱かに解釈の違いがある。松倉藩の暴政。飢饉はあったが、天草四郎という天使の出現は、西洋の千年王国運動(信者共同体的、現世的、忽然とあらわれる、超自然的奇跡)などで少年が群衆を動かした事例と似ている。
オランダは天草で砲撃に加わり、キリスト教徒に砲撃しているのはまずいから、百姓一揆と伝える。

1635年に日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁じ。
1636年に日葡混血児を国外追放。出島に隔離。
1638年に島原の乱が終息。
1639年にポルトガル人の追放。この前提にオランダがポルトガルのかわりに生糸、絹織物を調達できるかとオランダ商館長カロンに何度も確認。

ファーストコンタクトの時は両者は文明的に対等であり、キリスト教問題だけが相容れなかったわけだ。曲直瀬道三のアドバイスのように、他宗に寛容ならば広く広まった可能性はあるのだろう。

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