「松方コレクション展」於国立西洋美術館

西洋美術館の基礎になった作品群である松方コレクションの展覧会を妻と観に行く。
西洋美術館所蔵の作品も当然に展覧されているが、散逸していたものも展示されている。所蔵品のモネの「睡蓮」は、モネの一連の睡蓮作品の中でも白眉と思う。
今回は保存の途中で上半分が欠損してしまった「睡蓮、柳の反映」の復元画像が入口に写されていた。また欠損した現物と、復元作業の様子がわかる展示も最期のコーナーに展示されていた。目玉作品である。

松方幸次郎は川崎造船所の社長で、第一次世界大戦の船舶好況で財を成して、ロンドンやパリで美術品を買い集める。日本の若者に本物を見せる為で、美術館建設計画まで持っていた。
しかし昭和金融恐慌で事業は破綻して、日本に来ていたコレクションは売り立てられ、ロンドンの倉庫に保管していたものは倉庫の火災に遭ってしまう。パリのコレクションはナチスの手から逃れたが、戦後、フランス政府に敵国資産として没収されて1959年に美術館建設を前提に返却(この時にフランスが重要作品としたものは返却されない)されるという経緯となる。

ロンドン時代のコレクションはイギリスの当時の人気画家ブラングインのものが中心である。現代では重要とされない作家のものが多く、私には馴染みの無い画家の作品が多い。また古い時代の絵画も多いから、この時は西洋美術史を体系的に集めたのかもしれない。この中ではミレイの「あひるの子」は画題が可愛い女の子で愛おしいものだ。

当時の世相(第一次世界大戦)を描いた戦争画も多い。また造船業を営んでいたから海と船に関する作品群もある。この前、Bunkamuraで「印象派への旅 海運王の夢」展でラスゴーで海運業で財をなしたウィリアム・バレルのコレクションを見たばかりであるが、船関連は戦争があると儲かる業種である。

彫刻もロダンの作品が多く展示されていた。ロダンは人体の動きを色々と作品に残していることがわかる。身体の躍動感が凄い。青銅なのだが、黒光りしており、どのような色上げをしているのだろうか。

パリ時代に集めたものが圧巻である。多くのモネの作品がある。モネから直接購入したようだ。「舟遊び」もいい絵と感じる。ハンセンという人のコレクションをまとめて購入したこともあるようだ。こうしていい物が集まったのだ。
今回、ゴーガンの良さをはじめて理解した。「扇のある静物」は何とも言えない色遣いで魅力的である。これはフランスが接収したままオルセー美術館にある。

妻とルノアールの作品「帽子の女」の輝く白に驚く。妻は照明を工夫したのではと言うが、そうとも思えるように光彩を放っていた。また「アルジェリア風のパリの女たち」も魅力的な絵である。これらは以前にも拝見していたが。
なおルノアールは、彼に師事した梅原龍三郎が西洋美術館に寄贈した2点が平常展にも展示されていた。
ゴッホの「アルルの寝室」は何とも言えない色遣いで、目を惹く。色と言えばマティスの「長椅子に座る女」も魅力的である。

松方は北欧にも旅をしてムンクの「雪の中の労働者たち」を購入している。また油彩ではなく版画なのか「吸血鬼」「女」などはムンクらしく気持ち悪くて魅力的である。現代人の感性に響く。海軍の頼まれてスパイ行為をして、機密文書を絵画と同梱して日本に送ったのではとも解説にあった。

スーティンの「ページボーイ」(これもフランス政府が接収)も力のある独特な絵である。なお平常展にもスーティンの同じような作品が展示されていた。面白い作家であり、認識を新たにした。

平常展は印象派以降を中心に拝観し、それとは別に「モダン・ウーマン」という特集展示も観た。フィンランドとの外交関係樹立100周年記念ということで、北欧の女性画家の作品である。
シャルフベックは簡素な線、色での作品で心に響くところがある。

「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」中野等 著

何で秀吉が朝鮮出兵をしたのかは、この本を読んでもよくわからなかった。誇大妄想の果てなのだろうか。
また講和交渉は朝鮮ではなく、明が前面に出ているが、これは今の米軍と中国軍と同様な朝鮮半島の宿命であることが理解できた。明は朝鮮のことなど本当には思っておらず、自国第一なのだ。
また講和交渉ではトップ(秀吉、明の皇帝)の考えとは別に交渉担当者(小西行長、宗義智、明の将軍)が互いにそれぞれの面子が立つ落としどころを探っての交渉であることもわかる。
日本軍の損害も大きいが、朝鮮の被害はそれ以上であり、今の韓国の日本観に影響するのは無理もないと感じる。

「1.征明を期して」では、秀吉は国内の戦国大名と同じ原理で列島外の外国の王にも日本朝廷への出仕を求めた。自分が日光・日精に感じて母親が懐妊したという奇瑞を語る国書であり、朝鮮には対馬の宗氏を通して交渉している。
天正18年11月に朝鮮使節が来日して謁見。朝鮮使節は秀吉の国内統一を賀しただけだが、秀吉は朝鮮が服属したと認識して明を攻める時の先導を求める。天正19年9月に対馬の宗氏は朝鮮に渡って朝鮮出兵の警告をしたが、朝鮮は脅しに過ぎないと認識した。そして朝鮮は明に報告しなかった。明は琉球から情報を得ており、明は朝鮮に不信感を持つ。

「2.唐入り」では、天正20年4月に小西軍がまず渡海。当時の朝鮮は明に倣った科挙制度で官吏が登用され、両斑(東斑=文臣、西斑=武臣)が支配階級で、なおかつ崇文軽武の風潮だった。両斑、中人、常民、賤民の4つの身分階層があった。
両斑は東人派が南人派、北人派に分かれ、西人派と三つの派閥抗争をしていた。
日本軍は4月12日に釜山に上陸し、5月2日には漢城に至る快進撃で国王は漢城から脱出する。鉄砲の力である。また朝鮮民衆の国に対する反乱も起こる。
国王が率先して逃げる文化は大陸的であり、日本人には違和感を持つ。

6月15日には平壌に入城する。このあたりから朝鮮人民の抵抗が激しくなり、日本軍が平壌に迫る中、明が救援を決定する。明の本国自身が危ないと判断した為である。
明は朝鮮を助けるものの、本質は朝鮮よりも明が大事というスタンスで日本軍と対峙していく。

朝鮮水軍の李舜臣が南方海域で活躍し、藤堂高虎、亀井、来島軍を破る。これで秀吉の渡海が延期になる。
7月15日には秀吉は明への侵攻よりも、朝鮮半島内の支配優先の指示を出す。

明軍が増強されて、その中にいかがわしい将軍沈惟敬なども来る。小西と和平会談をして、50日間の休戦協定が結ばれる。朝鮮側は和平に反対であるが、明は無視する。
12月に明の大軍李如松が43000の兵で平壌を囲む。朝鮮軍8000、義兵2000も参戦する。和平は明の時間稼ぎの策謀であった。日本軍は15000程度であり、苦戦して1600の戦死者を出して、南方に逃走。ただし明軍にも多大な損害があり、追撃は免れる。
漢城に日本の各軍が終結して戦うが食料不足となる。

文禄2年3月になると、秀吉も漢城からの撤退もやむを得ないと考え、晋州城の攻略を命じ、東国の兵の渡海も行われる。
この頃には厭戦気分が朝鮮だけでなく、日本国内でも広がる。朝鮮半島でも厭戦の明軍が日本側と講和。朝鮮の意向は無視される。明の使節が日本に派遣されると秀吉の面子も立つとなるが、使節と称しても皇帝の使節ではない人物を派遣する。

「3.講和交渉とその破綻」では、征明の構想は消して、朝鮮内の領土(南部沿岸部)の確保と、明の皇女を天皇の后妃にする、貿易を復活させるなどの条件を提示して使節に持ち帰らすが、当然のように交渉は破綻する。
この間、日本軍は晋州城を攻略する。

「4.慶長の再派兵」では講和交渉の破綻を受けて、文禄5年(慶長元年)に再度出兵となる。日本軍は増強される明の大軍、食料の不足、降倭(朝鮮軍に寝返った日本人で、鉄砲の技術も伝える)、朝鮮の義兵などで苦戦する。
慶長3年に秀吉が死去。この死を隠して和議を交渉する。この間、各地の局地戦では日本軍は苦戦しながらも明軍を破っていることが和議交渉に力になる。小西行長、加藤清正が、それぞれ明軍と交渉する。朝鮮側は和議には反対していたが、日本軍、明軍がお互いの面子を立てながら休戦して撤退する。

「5.復交」では、国土が疲弊した朝鮮にとって明の駐留軍は必要だが、その滞在費負担もある。明は中国への侵攻を朝鮮で食い止めたいとの思惑があるが、滞在長期化の厭戦気分、明国内で兵乱もある。日本は対馬の宗氏、柳川氏が朝鮮と国交を回復したいとの思惑もある。徳川の天下になり、貿易も重視する中での国交の修復が図られる(宗氏の国書改竄事件もあったが)。

フロイスは日本軍15万人が渡海して、約5万人が戦死、病死、飢え死したと書いている。朝鮮側の被害も甚大である。朝鮮軍に逃げて降倭と言われた日本人も生まれ、一方、日本軍が捕虜として連行した朝鮮人も多い。

「日本史の内幕」磯田道史 著

この本は、わかりやすい文章、わかりやすい語り口で人気の歴史学者磯田道史氏が、雑誌や新聞などに投稿した歴史小話(こういう表現でいいのかは疑問であるが)を一冊の本にまとめたものである。
だから全部で64ほどの話が収められており、「1.古文書発掘・遺跡も発掘」、「2.家康の出世街道」、「3.戦国女性の素顔」、「4.この国を支える文化の話」、「5.幕末維新の裏側」、「6.ルーツをたどる」、「7.災害から立ち上がる日本人」に分類して収録している。
一話は短いから読みやすい。だからと言って内容が軽いものではなく、大半の話には史料に裏打ちされているので興味深い。

以下、断片的に気になった話をメモしておく。
沼津の高尾山古墳は卑弥呼時代の巨大古墳。秀吉は薩摩攻めで本願寺の協力を得、そのため島津は後に本願寺を弾圧した。城の便所は武者が旗指物を背負ったままでも入りやすいように天井を高くしていた。映画「殿、利息でござる」にもなった話の仙台藩の穀田屋十三郎などの民を救う姿勢は感動であり、こういう話を発掘されたのも偉いと思う。昭和天皇の教育システムを作った桑野鋭の話もはじめて知る。

家康の負け戦で名高い三方原の戦いも、織田の援軍を加味すれば、それほど無謀な戦いではなかったことを実証している。だから信玄も追撃できなかったわけである。
水戸藩には雑賀の孫市こと鈴木重朝の子孫など、敗者復活組が仕官している。

細川藩の毒味役は、調理をしたものなどに毒味をすることを命じ、監視した役として実在した。江戸期の生け花には花を長持ちさせる工夫なども含まれていた。日本では寺子屋で庶民まで知識レベルが高かったことが植民地を免れた大きな理由。そして日本は本の国であり、その文化が亡びつつあることを嘆いている。松蔭は野山獄中も含め3年ほどに500冊の本を読破している。

山田方谷の素晴らしさ。江戸の元禄頃の日本人は世界で6億人、日本で3000万人と世界の5%を占め、世界有数の国だった。日本の軍事のピークは日露~満州事変、経済のピークは1970~2000年頃。それ以降は質で勝負していかないとと書いている。

栃木県佐野市にいた中根東里という学者は知られていないが凄い人物と紹介している。1611年に慶長三陸地震があり、8年後の1619年に熊本八代地震、1625年に肥後熊本地震であり、今回の東日本大震災と熊本地震のパターンと同じ。だから歴史は大切。

特別展「三国志」 於国立博物館

刀剣の畏友H氏のお誘いで表記展覧会に出向く。副題に「日中文化交流協定締結40周年記念」とある。今は博物館・美術館も人集めが大事なようで、この展覧会においても漫画の三国志の原画やNHKの人形劇で使った人形などが陳列してある。そして新たに発見された曹操の墓の内部をハリボテ(もちろん材料はわからない)のようなもので復元しており、また赤壁の戦いで飛び交った多くの矢を天井に釣り下げるような演出をしている。加えて三国志の武将に扮することができるような写真撮影コーナーまで設けてある。その為か、観客は多い。

魏の曹操の墓は、近年(2009年)に河南省安陽市で発見された。曹操自身の方針で墓は薄葬にということで質素であり、金ぴかの目を驚かすようなものは出土していないようだ。他に漢の時代末期や三国志時代のそれぞれの国の豪族の墓からの出土品が陳列されている。
H氏は中国陶器にもご趣味があるが、「こんな形で中国では今でもどんどん発掘されているのでしょうね」と話をする。

文物は「プロローグ 伝説の中の三国志」「1.曹操・劉備・孫権ー英雄たちのルーツ」「2.漢王朝の光と影」「3.魏・蜀・呉ー三国の鼎立」「4.三国歴訪」「5.曹操高陵と三国大墓」「エピローグ 三国の終焉ー天下は誰の手に」と分けられて展観されている。

「プロローグ 伝説の中の三国志」では、三国志の物語の世界を示し、明の時代に造られた青銅の大きな関羽像が目を惹く。リアルで緻密で大きくて驚く。

「1.曹操・劉備・孫権ー英雄たちのルーツ」では、詳しくは把握していないのだが、各英傑もそれぞれも地方の名家の出身であることがわかった。日本でもそうだが、ある程度の家の基盤が無いと一代だけでの栄達・繁栄は難しい。豊臣秀吉は希有な例である。

「2.漢王朝の光と影」では、この時代は地球寒冷化の時代で食料確保が厳しくなり、農村から黄巾とか五斗米道などの宗教結社(今の道教のルーツ)が出て、反乱を起こして漢王朝が衰退していくことを示している。埴輪のように墓に埋められていた文物でも穀倉を伴った家、屋敷の模型のようなものが出ている。今のサイロの原型のようなものであり、食料確保の大切さを物語っているのだろうか。

「3.魏・蜀・呉ー三国の鼎立」では当時の戦いに焦点を当てて、当時の武器(復元もあり)も展示されていた。石球(飛礫として使う)、クロスボーである弩や、張飛の絵にあるような矛もある。ここに多くの矢を吊して赤壁の戦いを模してある。墓に埋葬されていた青銅製の当時の軍隊の騎馬兵、戦車のようなものもあったが、秦の始皇帝陵で凄いのを見ているから驚かない。作の甘い小さなものである。騎馬に鐙が無いことに気が付く。

「4.三国歴訪」で金印が展示されているが、日本の志賀島の金印と同様であり、なるほどと思う。当時の生活用品の出土品もあり、興味深いものだった。一尺の定規があり、今の24㎝ほどである。また鏡の下から出てきた紙もあり、よく遺っていたものだ。
三国の違いも記していたが、よく覚えていない。ただ呉は海洋に面しており、船での交易も盛んだったようだ。

「5.曹操高陵と三国大墓」に墓室のセットがあるわけだ。ただ展示の遺物は少ない。石碑の一部や日常用品、服飾品のバックルなどの残りやすい小物の展示である。呉の墓から出た棺桶を置くための虎形棺座や青銅の銭が花のようになっている揺銭樹などが目立つ。

「エピローグ 三国の終焉ー天下は誰の手に」では魏の臣下であった司馬氏が呉も滅ぼして三国を統一したが、それがわかる「晋平呉天下太平」と刻まれた石碑のようなものが目玉の展示であった。

平常展も拝見する。刀のコーナーでは相変わらず刀剣女子が多いのか、三日月宗近は開館時には3人の男の職員が整理にあたっていた。展示品では岡田切吉房が見事な丁字刃、立派な体配の太刀で傑出している。新藤五国光の締まった直刃で銘が見事な短刀がある。帽子の返りが長く、H氏に「鑑定会で「良くできていても帽子の返りが長いところが末関です」とか言っているのではないですかと?」と向けると苦笑して「地鉄が違う」とおっしゃっていた。近年新たに岡山藤四郎とされた吉光は茎の長さが長い。H氏によるとこういうのもあるとのこと。青江次直の逆丁字乱れの短刀も、堀川国広の刀も典型的なものだ。
鐔では正阿弥政徳の剣酢漿草紋を透かし、そこに素銅を埋め込んだものが迫力があって面白い。『鐔』で小笠原先生が最後のカラー頁で掲載されているものだ。

2階の武士の装いコーナーでは透漆塗打刀 (重要文化財 太刀 銘 定(以下切)の拵)という実に感じの良い桃山拵で、素銅の色金鐔が附けられていた。兵庫の射楯兵主神社にあり、姫路藩の家老が奉納したと記憶している。

また1階では「奈良大和四寺のみほとけ」の特別展示があり、室生寺、長谷寺、岡寺、安倍文殊院から仏様がお見えになっている。岡寺の「義淵僧正坐像」はリアル以上に真に迫ってくる像で一見の価値がある。

「現代語訳 家忠日記」中川三平編

徳川家康の家臣松平家忠(後に伏見城で鳥居元忠とともに戦死)の日記の現代語訳である。一次史料としてよく使われるものであり、興味を持っていたが、現代語訳ということで紐解いた。
我々の日常がどうと言うことのない日々が続くように、この日記も大半はどうと言うことのない日常が簡単に記述されている日記である。現存するのは天正五年十月十六日から文禄三年九月の18年分に、飛び飛びの分である。
松平家忠は天正三年に父と長篠の戦いに参加し、父は戦死している。以降、家康の戦いに動員され、天正十八年に家康が関東に封じられた時に武蔵忍城一万石の封地を得る。その後に下総小見川に転封される。

大部な日記であるが、精読ではないが一通り目を通す。

現代語訳であるが、「家康」と敬称もつけずに日記に書いていることに驚く。途中から「家康様」も出てくるから、当初の記述における呼び捨ては事実なのであろう。本家・主筋の関係と言えども、石高の大きさの違いで仲間・同輩のようなものだからだろうか。

重大事件の時の実際の現場の動きがわかるところも興味深い。本能寺の変は天正十年六月二日早朝だが、家忠は三日午後六時頃に情報が伝わっていることを記している。この時は明智光秀と織田信澄の謀反と伝わる。四日に明智光秀の謀反とわかり、家康は伊賀から伊勢に出て大浜に上陸したことがわかり、お迎えに行っている。

天正十二年に小牧・長久手の戦いと講和があり、十二月二十五日に越中の佐々成政が浜松に来たことも記されている。有名な佐々成政の「厳冬の立山越え」のことである。

天正十三年十一月十三日に石川数正が上方(豊臣方)に出奔するが、その前に十月十五日に家忠など家臣団に人質を出すような触れがあり、家忠も二十八日に人質として娘を出していることがわかる。石川数正が出奔する前から家臣の間で不穏な情勢があったのあろうか。

家忠は小牧・長久手の戦いや、北条攻め等に参加しているが、戦いのことはあまり出てこない。

天正十三年十一月二十九日に大地震があり、しばらく余震が続く。(これは天正大地震とも称され、日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ大地震)地震学にこの日記が使われているようだ。

父祖からの三河の地から、関東への移封は大変だったと思うが、日記からは大変さなどはわからない。このことに限らず、全体に感情の動きは記されていない日記だが。

家忠は普請をよく手がけているというか、普請に狩り出されていることがわかる。
また個人的には連歌を嗜んでいたことがわかる。
刀では熨斗目の拵をよく作っていることがわかる。派手な性格だったのであろうか。
下総小見川の領地から江戸に出る時は、船橋から船で行っていたことがわかる。
高野聖から織物などを購入しており、高野聖は行商人であることがわかる。

「鉄の文化誌」島立利貞著

世界における製鉄の歴史を中心に、鉄に関わる日本刀や鉄道やエッフェル塔などのことを幅広く書いている。日本刀のことは刀の作り方で、私には既知のことである。製鉄の話はこの本も含めて色々の本を読むが今一つ理解できない。理科系の話になるからか、言葉が専門用語になるためか、私の理解力不足かはわからないが。ただし書中において提示されたデータの中には面白いものがあった。
地球は「鉄の星」として紹介されている。それは大気や地表面には元素として酸素、ケイ素が多いが、地球の芯まで考慮すると鉄が一番多いのではと推論されているからである。
ヒッタイトは鉄器を作ったとされているが、王墓の中の遺品しか鉄製品は残っていないそうだ。
古代の製鉄炉は、小高い土手の上から真下に竪穴を掘り、土手の裾から横穴を掘って風穴とする竪炉である。木炭と鉄鉱石を詰めて火を熾して鉄を作る。
日本では吉備(岡山)が鉄の産地。
中世になるとヨーロッパではレン炉で、そこで作られたルッペを鍛冶屋が鍛錬して鋼鉄をつくる。それから低シャフト炉に移行する。
日本ではタタラ吹き製鉄が主流である。最近のタタラでは一回(一代)に砂鉄10トン、木炭10数トンを用いて、鉧を3トン得ている。このように非常に多くの木炭(木材)を使う。だから中国地方のタタラ業者は広大な山林を所有していた。田部(2.4万町歩)、糸原(3千町歩)、桜井(3.4千町歩)、卜蔵、近藤(5.4千町歩)の5家が大きかった。
15~17世紀に日本刀は大陸に輸出された。100年で22万把。価格は1/10になっている。現存品が残っていないが、多くはシャムに渡ったことがわかっている。
ドイツのハンザ同盟諸都市は鉄鋼を主要商品としていた。1588年にイギリスがスペインを破ったころからハンザ同盟は衰える。大航海時代に乗り遅れた。
近世になると高炉ができる。液化した鉄を取り出すことができて、鉄の鋳造時代を迎える。木炭を多く使うので、森林の供給が追いつかなくなると移転する(1トンの鉄に木炭は1.2~1.5トン。木炭は5マイルまでしか運べない)。森林が荒廃するのは公害であり、製鉄業は15世紀前半にドイツのアイフェル地方。その後ベルギーのリェージャに移り、ここは大砲の産業が興る。さらにイングランドに移る。
18世紀初めに英人アブラハム・ダービー1世が末に木炭の代わりにコークスを使う炉に成功する。18世紀末にヘンリー・コートが反射炉による銑鉄精錬法を発明して急速に鉄鋼生産量が増加する。この副産物に石炭ガスが発生してガス灯が使われる。
ニューコメン、ワットが蒸気機関を発明する。炭坑で使う排水ポンプで利用される。
19世紀に入ると滲炭鋼という堅い鋼材が作られる。大砲に使われるようになり、クルップのような死の商人が生まれる。
反射炉は18世紀後半に生まれる。
日本ではオランダのヒューゲェニンの著作を訳した『鉄熕全書』が嘉永3年(1850)以降に広く出回り、各地で反射炉による大砲鋳造が行われる。
佐賀藩は16回も失敗したが、和銑から作ったが、木炭の為に失敗。筑後の石炭を使って成功する。佐賀藩は小型化したアームストロング砲は製造に成功して彰義隊討伐に使用する。

「戦国武器甲冑事典」中西豪・大山格監修

副題に「戦術、時代背景がよくわかる」とあるが、日本の武器や甲冑などについてカラーでの図解中心にまとめたものである。
大きく武具と甲冑に分け、武具は刀、槍・薙刀、弓、鉄砲、忍具の5章である。甲冑は甲冑の変遷、胴、小具足、着用次第、兜、陣羽織、馬具、合戦武具、武将甲冑、家紋の10章に分かれている。

刀のことは当方がわかっていることが大半だが、刀を実際に甲冑に着用する方法などは参考になる。
槍の名称、槍印、石突などははじめて知ることが多く、槍の構え方、戦い方や堀を渡るときに水中に棒として使う方法などが記されている。
弓は射程距離50㍍程度で薄い鎧を打ち抜く威力はあり、鉄砲と違って訓練が必要だが、鉄砲以降も重要な武器だった。
弩(いしゆみ)は中国で城の防御用に発達したが、日本では藤原広嗣の乱でつかわれたという記録はあるが、速射ができないなどの欠点で使われなくなった。

鉄砲では、大筒との違いが参考になる。なお鉄砲は300㍍ほど飛ぶが有効射程距離は100㍍内で、50㍍先の5ミリの合板を打ち抜くほどの威力がある。
大坂夏の陣では伊達軍が馬上筒を使うが、射程距離30㍍ほどとある。
撃ち方も詳しく、伏せだめ放し、諸ひざ折り放し、鐔どめ放し、緒だより立て膝放し、腰だめ放し、諸手放しなどの打ち方が図示してある。
大砲のことも記されている。この書にも関ヶ原の戦いでも石田三成が使用したことが記されている。ただし当時の鍛造技術では運用リスクも大きく、日本の場合は地形・道路の制約があり、攻城戦にはいいが持ち運びが不便で対人も命中率が低いという欠点があった。
大坂の役では稲富流の大鉄炮の口径33ミリ、弾丸重量50匁で1600メートルまで照準射撃ができたそうだ。

甲冑については詳しい。古墳時代から奈良、平安前期、源平期、南北朝期、室町期、戦国時代、江戸時代と分けて説明される。そして平安時代からは足軽など下級武士の胴丸、腹巻などの説明がある。
次ぎに鎧の各部の胴の種類と構造の説明がある。小具足は下着、籠手、脛当、立挙(たてあげ…膝頭を守るもの)、脇曳(わきびき…脇の下の隙間を防御)、袖(そで…肩の保護)、佩楯(はいだて…膝の鎧)、喉輪、面頬(めんぽお…顔の保護)、履物、それに陣笠、結髪、の説明があり、次いで鎧の着用手順の説明になる。
兜は各部の名称、兜の種類、立物(兜につける装飾)の種類。変わり兜と続く。

陣羽織の現存するものを紹介したり、忍術の道具、捕り物道具、農民武器(農具)が説明される。また合戦武具として陣太鼓、、楯の構造、携帯食料、水筒の形や矢を抜くための矢挟という道具、軍扇、軍貝、采配、鞭、軍配、母衣、旗指物の色色、各武将の軍旗などが紹介される。ここで福島正則の山道の旗を知る。
戦国時代の陣形また、有名な武将の甲冑姿も描かれ、間々にあるコラム欄では、名刀のことなど刀に関するエピソードも書かれている。

「北大路魯山人」展 於千葉市美術館 

 知人が行きたいと言うので同行する。副題に「古典復興 現代陶芸をひらく」とある。北大路魯山人の作品だけでなく、魯山人が影響を受けた古陶磁器(中国龍泉窯、景徳鎮の青磁、明赤絵、染付)や朝鮮高麗茶碗、熊川茶碗、志野、瀬戸、織部、楽長次郎、光悦、尾形乾山なども一緒に展示されていた。また魯山人と同時代に古陶磁器の復興をこころみた石黒宗麿、川喜田半泥子、荒川豊蔵、加藤唐九郎、金重陶陽、八木一夫、イサム・ノグチなども展示されていた。

 魯山人の作品の中では大きな作品である「倣古伊賀水指」、「雲錦大鉢」は造形も素晴らしく、彼の実力を再認識した。前者は川喜田半泥子の「伊賀水指 銘慾袋」と並んで展示されていたが共に迫力のあるもので”東の魯山人、西の半泥子”と称されただけのことはある。魯山人の「備前大手桶」は木の桶を陶器で作ったものだが、どのくらいの重量か不明ながら実に魅力的な作品だった。水を入れたら重たいだろうなと思うが、実用的でなくとも素晴らしい作品だ。

 実用に言及したが、魯山人の作品は、小さなものでは、そのデザインの斬新さ、色遣いの上手さにも感心する。料理が盛られたら更に感じがいいだろうなと理解できる造形であり、色合いであり、また薄さであり、好感が持てるものだった。

 研究し、影響を受けた古陶磁は前述したように中国、朝鮮の青磁から始まり、染付、そして日本の桃山期の志野、織部、古瀬戸に信楽、備前に楽、光悦、そして江戸期の仁清、乾山と幅広く、まさに近代陶芸の巨人である。こうした古陶磁器遍歴の中で、日本の桃山期の気分に魯山人の気性が近かったのかとも感じる。

 こういう風に陶磁器の歴史をなぞるような研究と複製に励んだから、現代の陶芸界が活性化したのかなと感じる。今回の展覧会の狙いもここにあるから副題に「古典復興 現代陶芸をひらく」と名付けたのだろう。

 全展示作品の中では長次郎の黒楽茶碗と赤楽茶碗(銘栗鼠)や伝本阿弥光悦の赤楽茶碗(銘松韻)が好みである。所蔵は石水博物館蔵とある。半泥子の「伊賀水指 銘慾袋」も同館の所蔵であり、一度出向きたいと思う。
 なお石水博物館蔵の母体を創った川喜田半泥子は百五銀行の頭取も務めた実業家だが、ここに展示されている半泥子の他作品である粉引茶碗 銘「たつた川」や井戸茶碗 銘「雨後夕陽」なども魅力的である。

「西洋美術史から日本が見える」木村泰司 著

表題は標記の通りの本だが、内容は西洋美術史を学び、ヨーロッパのエスタブリッシュメントと交友がある著者が、日本の軽薄な欧州模倣文化を批判するといった本である。
著者の日本人風潮批判には共感できるところも多いが、西洋美術史のことなどほとんど出てこない本であり、私にとっては内容が薄い、時間潰しの本だった。

「考える江戸の人々」柴田純 著

江戸時代における大名から庶民(書いたものが残っている庄屋クラスまで)までの生き方、考え方を説き明かした本である。
中世は神仏がこの世界を支配しており、人が英雄的行為をしても、それは人の功績ではなく神仏の加護と認識されていた。蒙古襲来でも神仏に祈るのが基本であった。
応仁の乱以降、社会が混乱。神仏の権威に懐疑心が生まれる。またヨーロッパ人の来航で天竺以外を知り、仏教的世界観が崩壊していく。戦国大名は国冨のために土木工事などの灌漑事業を行い、耕地面積を増やす。太閤検地で下人が小農民になる。すると農具・農法を改良するようになり、その為に知識も学ぶようになる。
こうして、「人を救うのは人」という認識が生まれ、鍋島直茂は嫡子に「仏神に祈るのは人力の及ばないことを祈る」ことと述べる。
各自が生き方を正しくし、向上していくことの大切さを意識するようになる。

大名では井伊直孝(道理、法度重視、人間としての向上)、鍋島直茂、池田光政(治者として百姓重視)のことが記され、学者では藤原惺窩、その弟子の林羅山、紀州藩に仕えた那波活所の思想が簡単に記されている。那波活所は著者が世に紹介した人物で、自ら考え工夫することの大切さを説き、人間の本質を人と人との間やものに共感・共鳴する活動性にあり、その共感能力を高めるために詩文書画といった芸術も大切と強調しているようだ。
それに伊藤仁斎、荻生徂徠。また武士の山本常朝(葉隠)、浅井駒之助(和歌山藩士で藩政を批判して果てる。その子忠八が町奉行や大番頭格になる)や沢辺北溟(宮津藩の藩医の子、藩政にたずさわる)を紹介している。

庄屋の河内屋可正(河内国大ヶ塚村の庄屋筋)が自分を中人として工夫、才覚、思案することの大切さを唱え、西村次郎兵衛(但馬気多郡の大庄屋)は家業の恩、それを守る為の幼年よりの筆算の大切さ、また誠にして堪忍の心得などを説く。

 そして、近江の五個荘町域にあった庶民の塾というか寺子屋の時習斎の入門者史料から、広域から、そして女性も学んでいた実態を明らかにしている。こういうのが近江商人の源流なのだろう。

 読みやすい本ではない。

「楽市楽座はあったのか」長澤伸樹 著

良い本である。著者は楽市楽座に関して現存する全史料に当たり、それが発布された背景や、その後のことまで詳しく分析している。また先行する研究者の論も幅広く紹介している。そして参考文献における参考とした部分までキチンと載せている。
このような本だけに読みやすくはない。またタイトルは売る為だと思うが、センセーショナルな表現となっている。我々の頭にあるような通説としての楽市楽座はなかったと言っているだけである。

楽市楽座と言えば織田信長となるが、著者はこれまでに楽市の文書は14通、楽市楽座が7通、楽座は1通の合計22例が発見されており、現時点の初出史料は天文18年に六角氏が近江・枝村に出したもの、それから永禄9年の今川氏真が駿河の富士大宮で出したものであることを紹介している。この次ぎが織田信長である。
そして徳川家康、佐久間信盛、柴田勝家、北条氏政、羽柴秀吉、池田元助、池田輝政、北条氏直、前田利長、羽柴秀次、北条氏規、北条氏直、京極高次、間宮直元、そして最期が慶長15年に美濃の黒野に加藤貞泰が出したものである。

詳細な分析をしているだけに、簡単に紹介するのは著者に失礼になるが、楽市は時の権力者が戦乱からの復興や前支配者の否定などの独自の判断や価値観で生み出した一時的な特区で、諸税などを免除して居住者を増やした政策である。だから新しい時代へ矛盾無くつながっていく政策ではないし、幅広い地域に広がるものでもないとしている。

楽座も座組織の解散ではなく、座商人の特権を認めるかわりに義務づけてきた役銭の支払いを免除することで、商人支配の新しい体制ができれば不要となるような政策だった。戦国大名にとっては座からの運上金は大切であった。

すなわち戦後の復興や、新しい城下町・宿場町の振興や軍事の重要拠点に商人を集める為などが政策目的での施策である。

「生誕125年記念 速水御舟」 於山種美術館

本日、刀剣の畏友H氏と標記展覧会に出向く。山種美術館は安宅コレクションの速水御舟作品も購入して、120点もの作品を保管しているという。山種美術館が広尾で新たに開館した時にも「速水御舟-日本画への挑戦-」展が開催され、それも妻と観に行ったことがある。
余談になるが、安宅コレクションは安宅産業の安宅英一氏が主導し、今は大阪市立東洋陶磁美術館に収蔵されている東洋陶磁(住友銀行が寄贈)も素晴らしいものである。美術品道楽で会社を潰したと言われるが、商社よりも蒐集した美術品の方が価値があると私は思う。

速水御舟は洋画の岸田劉生に比肩する日本画の中では最高の画家だと私は思う。以下、今回の展示品で私の記憶に残っている作品に感想を記していきたい。
「桃花」という色紙サイズを軸装にしたものは、桃らしい優しいピンクの花が実に可憐で美しく、そこに新芽の萌葱色がわずかに彩色されていて若々しく、欲しい作品だった。
墨画にわずかに彩色した「比叡山」も地味な絵だけど力があり、印象に残っている。これは写実というよりは比叡山の量感が迫ってくる。
「百舌巣」は百舌鳥の雛が2疋いる巣を描いたものだが、写実が生き生きしている。実際の鳥の巣らしく汚いものを写実的に画き、汚いという感じよりも真実らしい巣、鳥が安らかに生育する場を画いている。
「春昼」は古い民家を写生したものだが、明るい色調で爽やかで暖かい。国立近代美術館に収蔵されている奈良の民家を描いた絵と雰囲気は似ている。

重要文化財の「炎舞」は私がいい絵を前にした時に生ずる胸に水が上がってくるような感じがする凄いものだ。炎の形態は北斎のビッグウェーブに匹敵する。実際の炎の形は、もっと複雑なのかもしれないが、御舟の描く炎は北斎の波と同様に我々のイメージを掘り起こしてくれる。加えて、この炎の色、鮮やかな緋色というか不思議な色である。それが背景の黒というか黒茶色の中から浮かび上がり、凄いものだ。この黒の効果が効いている。そしてそこに非常に写実的で鱗粉までわかるような蛾を配して、舞を舞わせている。不思議な画家だ。

同時期には昆虫を写実的に描いた作品がある。

「朝鮮牛図」も不思議に力のある作品で、印象的である。黄土色の牛、どうということのない牛だが、写実・写生から別の境地にいっている感じである。

大きな屏風の「翠苔緑芝」はアジサイの花が立体的に描かれている。技法について説明が記されていたが、覚えてはいない。御舟は日本画において色々な技法を試している人である。この絵には黒猫がいたり、白兎がいたり、変な構図の絵であり、画家が何を狙いにしたのだろうか。

「夜桜」は桜の枝を夜景の中に画いたものだが、同様に夜の桜の絵が何点かあった。御舟は桜を夜に画きたかったようだ。夜の桜は何か妖艶な感じもする。
「紅梅」と「白梅」の一対の軸装があったが、すっきりと気持ちが爽やかになる良い絵であり、梅の香りも漂う。

もう一つの重要文化財「名樹散椿」。私は椿の愛好家でもあり、京都の地蔵院に出向き、この絵のモデルとなった五色八重散椿を観にいったことがある。実際の五色八重散椿よりも、この絵の方が背景を画いていない分、主役感が凄い。バックの金色の技法について”金箔”と”金泥”と、この絵に使われている”金砂子の撒きつぶし”の違いの解説があったが、艶消しの金の奥深さが理解できた。

ヨーロッパに出向いた時の作品が並ぶ。何より驚いたのは裸婦でデッサンである。素描3として展示されている作品は、この延長にキュビズムがあることを予感させられるものだ。

「鶴」は気品というか気格を感じる作品だ。「春池温」は何と読むのだろうか。絵は池の水面から鯉が頭を出したところに桃の花を配した絵である。水中の鯉、外に出て身体が濡れている鯉などきちんと描き分けていて素晴らしい。水もうるさく無く表現ができている。
「白芙蓉」も素晴らしい。枝葉は墨の濃淡で描き、芙蓉の花に白、花芯に紅色を僅かに配しているが、いい絵である。H氏も感服していた。
「秋茄子」も同様の作品である。