観楽読楽−観て楽しみ、読んで楽しむー

アクセスカウンタ

zoom RSS 「細川忠利」 稲葉継陽 著

<<   作成日時 : 2019/05/01 08:16   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

細川忠利とは細川忠興(三斎)の跡を継いだ大名である。この本で認識を新たにしたところがあり、興味深い本であった。副題に「ポスト戦国時代の国づくり」とあるが、戦国期の細川忠興(三斎)の時代から、天下泰平の時代=徳川幕府に気を遣う時代に、どのように国づくりを行い、対処していたのかを明らかにしている。今は永青文庫に伝わる細川家の膨大な文書をもとに展開している。

忠利は三男である。長男忠隆(休無)は、家康暗殺計画が前田利長、浅野長政、土方勝久、大野治長らによって企てられたとされた時に、正室が前田利長の妹であることで嫌疑をかけられる。
この時、忠利は前田家の生母まつと同様に人質として江戸に送られる。徳川秀忠のもとで暮らしたことで、結果として信頼を得る。秀忠と同様に高麗八条流馬術の奥義を受ける。なお藤原惺窩からも儒学を学ぶ。

一方、長男忠隆は関ヶ原後に廃嫡される。慶長9年に忠興が国元で体調を崩し、この時に忠利が家督を継ぐように幕府から指示される。忠興は奇跡的に回復し、江戸から見舞いに駆けつけた忠利に代わり、次男の興秋が江戸に人質として送られるが、次男興秋は途中で出奔してしまい、興秋の関係者が誅伐される。よくある大名家の御家騒動の芽が摘まれたわけである。

忠利は側近家臣団を作っていく。その藩士からの起請文をいくつか引用している。後にも記すが起請文の内容が興味深い。藩士から藩主忠利に一方通行的に忠誠を誓ったものでなく、藩主からも藩士への約束をするような双務的な信頼関係のあるものであり、なるほどと思う。

大坂の役の時も忠興が軍を率い、忠利には家督を譲らなかったが、元和6年に忠興が江戸で重い病気にかかり、家督を譲る。忠利36歳の時である。ただし忠興はまたも回復して三斎と名乗る。

その後20年小倉藩主として、藩領の政治を行う。実務能力のある家臣の中から惣奉行3名を選任して藩を運営していく体制で組織的になる。
惣奉行が判断できないものは家老衆に相談することになっていた。(実際には上級武士層の問題が家老衆に相談されている)
惣奉行の下に郡奉行12名を置き、地域ごとの責任者とする。村には村役人=庄屋衆がいる。この間に手永(てなが)があり、その管理責任者が惣庄屋。手永の不正な者を罰して、公正な政治を行うことを心がける。すなわち次のようなルートである。村→手永(惣庄屋)→郡(郡奉行)→藩庁奉行所(惣奉行)→家老衆(家老合議制)→当主

郡奉行は百姓の申し出を取り上げて、その是非を判断している。検地の不正も糾弾して悪徳な惣庄屋を罰している。また藩士の百姓に対する実力行使を厳禁したり、目安箱を設置している。(目安箱は戦国期の北条氏や今川氏にもあるようで徳川吉宗が最初では無かったのだ)

すなわち、百姓は領主と一定の条件合意のもとで支配関係を結び、訴訟と逃散の権利を保持する自立性を有していたわけだ。

細川家の家老は細川家が室町幕府に出仕していた頃からの同輩が大半。寛永7年時点では忠興4男細川立孝3万石、6男細川興孝2.5万石、長岡式部(松井興長)2.5万石、有吉頼母1.5万石、長岡監物(米田是季)0.65万石、長岡勘解由(沼田延元)、志水伯耆、小笠原備前0.5万石であった。

これら家老とも血判起請文をかわしており、主君の御意に背くものとは親類・縁者でも通じない、幕府の法度をうけた細川家の法度も順守。藩主が徳川に反するようなことがあれば御意見(諫言)をし、それでもご同意いただけないなら、自分は一味しないという内容であり、藩主の行動も家の存続があってのことという意識が出ている。その家老衆も自分の家中から同様な起請文を受けているわけだ。

問題となったのは隠居の細川三斎の中津隠居領である。3万7千石があり、大名領は石高に応じて公儀負担があるが、ここには無役として負担が無かった。また中津衆とよばれる武士が133名いて、その知行高合計は4万2千石余であった。三斎は自分の領の統括者として中津奉行を設け、忠利の統治権が及ばなかった。裁判権も同様で、後に肥後に移封された時も熊本と八代間の対立として受け継がれる。

寛永の大旱魃が生じる。細川忠利は百姓救済に動く。茶道具を売却している。

寛永9年に加藤忠広が改易となって、細川家が肥後に移封される。忠広嫡子光広の幕府転覆の陰謀の嫌疑とされるが、加藤家は藩内の統治ができておらず破綻状況になっていて、熊本城の毀損も修理できていない状況であった。
細川忠利は移封後に小倉藩時代と同様な改革を行う。

藤原惺窩門人の浅野内匠頭長直(長矩の祖父)が若かったので大名としてのあり方を指導していた。家光にも参勤交代の大勢の行列や公儀普請の件など「下々は草臥れている」と苦言を呈す。また九州大名の指南役として薩摩藩にも助言していた。

寛永14年に島原の一揆。武家諸法度の加勢禁止で初期対応が遅れた。

肥後では三斎隠居家は3.7万石、三斎附き家臣の4.7万石、それに家老の長岡河内守分の1万石で計9.4万石が別家中のようになる。家中対立もあり、三斎の子立允(立孝)に隠居領を譲り分藩する動きを見せる。

細川忠利は寛永18年に56歳で逝去。光尚が後継になる。その時の家臣から光尚への起請文は「三斎様とは過去にも通じていないし、今後も一切通じない」ということが明記されている。

正保2年に八代の立允(立孝)が逝去、そして三斎も死去した。三斎の遺言があったが幕府と調整して立允の子の行孝に3万石を相続させて、八代から宇土へ移封させることが承認される。
八代に城代として家老の松井興長を入れる。この時に、三斎側近28人はお暇を願いでる。戦国時代の主従はこのように人(主君)に付いていた。これが忠利や光尚への起請文との違いである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「細川忠利」 稲葉継陽 著 観楽読楽−観て楽しみ、読んで楽しむー/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる