「イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応」 米倉誠一郎 著

これはおもしろい本だった。日本近代史を、革新を導いてきた偉人(組織的対応をした企業も含めて)に焦点をあて、シュムペーターの「創造的対応」の言葉を使って説き明かしていく。
章は「1.近代の覚醒と髙島秋帆」「2.維新官僚の創造的対応」「3.明治政府の創造的対応」「4.士族たちの創造的対応」「5.創造的対応としての財閥」「6.科学者たちの創造的対応」に終章からなる。

「1.近代の覚醒と髙島秋帆」では中国のアヘン戦争をまず紹介する。当時の清朝のトップは緩和派と厳禁派に分かれ、厳禁派が8名、緩和派が20名という状況であった。緩和派は賄賂ももらって腐敗していたわけだ。
どうにもならなくなり林則徐をアヘン撲滅の欽差大臣に任命して1839年から取り締まる。1200トンを焼却。イギリス本国でも麻薬の戦争に反対論もあったが、271票対262票で、清への派兵が決まる。清は負けるが林則徐の持久戦に持ち込む策を採らずに林を解任するが、後任も負け続けて南京条約を締結。

林則徐の友人の魏源が「海国図志」を書き、この書が日本に伝わり、各藩若者の危機意識を高める。幕府もオランダ、中国からアヘン戦争に関する詳報を得ていた。

髙島秋帆は長崎町年寄の家に生まれる。フェートン号事件の余波で、父が砲台受け持ちとして荻野流砲術の習得を拝命。髙島秋帆もこれを学ぶが、ものたりずに西洋流砲術も学ぶ。実際に西洋の砲を輸入して分解模造もする。1835年に高島流砲術を完成させる。歩兵銃は135丁も輸入していたが、これは長崎町年寄の特権の「脇荷貿易」で得たもので、模造したものを各藩に乞われて売却もしていた。

1840年に長崎会所頭取になっており、1842年のアヘン戦争を分析して、洋砲採用の建議を長崎奉行に提出。それが老中水野忠邦にまわされ、徳丸が原(後に高島平)で砲術の実演。そして、江川太郎左衛門に伝授することを命じられる。しかし鳥居耀蔵によって罪を着せられ、10年間幽閉された。

その後、幽閉が解かれる。その当時は夷狄撃つべしの世論が多い中で、秋帆は外国交易の建議書(開国して国を富ませてから戦う)を書く。弟子の江川は心配して、釈放されたばかりで、これを上申するのは危険と諫めたが秋帆は構わずに、この内容で建議をしたように、見識のある立派な人物だった。

「2.維新官僚の創造的対応」の章では大隈重信のことである。佐賀藩の上士の生まれで、藩校弘道館の秀才だが、藩校の教えに飽き足らずに17歳の時に追放され、蘭学寮に再入学。そこでも蘭学より英学がこれからは大事と建議する。英学校「致遠館」を長崎で建てることになり、商人にも資金援助を求める。大政奉還の時勢の中で脱藩するが捕まり、謹慎の身となる。

時代の変化で大隈は謹慎と解かれて長崎に出向く。その時に鳥羽伏見で負けた一橋慶喜が大阪から脱出で、長崎奉行たちは職場放棄。そこで大隈が外交を折衝する。諸外国との交渉の修羅場の中で志士から官僚に脱皮できた(成長した)。

隠れキリシタンが出た時の対応で国というものに自覚して外交を学び、次ぎに横浜で偽造通貨、銀貨の流出への対応をまかされ、財務も学ぶ。
もうして維新の志士が一国を代表する官僚として成長した。

「3.明治政府の創造的対応」では、封建制度下で不労所得を得ていた士族の身分を金禄公債で買い入れ、その公債を産業資本に転換した士族授産事業を起こすが、大半の事業は失敗する。

しかし、「4.士族たちの創造的対応」に紹介されているように、長州藩の笠井順八はセメント事業を起こして成功する。この後、様々な苦労があるが、小野田セメントの創業である。

「5.創造的対応としての財閥」では三井も三菱も、政府と癒着して官業の払い下げだけで利益を得たのではなく、三井は三野村利左衛門、益田孝、中上川彦次郎、団琢磨などの人材を登用し、かれらが創造的対応をしたから大きくなったことを記述している。

三菱も岩崎弥太郎が土佐藩の吉田東洋、後藤象二郎の関係で、土佐藩の土佐開成館主任に抜擢されて長崎で貿易、海運事業にかかわることが出発であるが、以降、海運関係で事業を伸ばす。その過程で岩崎弥之助、荘田平五郎などが活躍していく。

「6.科学者たちの創造的対応」も変わった視点で面白い。高峰譲吉は発明、発見を事業に結びつけた偉人である。越中高岡の町医者の息子。父は名医で加賀藩御抱えにまでなって、火術方科学教授になる。譲吉は明倫堂に入り、頭角をあらわし、長崎に留学。その後大阪の適塾にも学び、大阪医学校に入学する。工部省工学寮の一期生になってイギリスに留学する。そして、日本固有の技術を科学することを選ぶ。日本酒の防腐装置を考えるが、ニューオリンズの博覧会へ派遣されて、リンの人造肥料を学ぶ。これが東京人造肥料という会社になる。また特許制度を学ぶ。
そしてキャロライン・ヒッチと結婚し、次の渡米でジアスターゼを作る。澱粉の消化を助ける薬としてヒット。上中啓三を助士にしてアドレナリンを結晶分離に成功させる。
帰国して理科学研究所の設立を説く。

理科学研究所の三代目の所長の大河内正敏は子爵で貴族院議員、東大教授で42歳。上総大多喜藩主の長男だが三河吉田の大河内本家の養子となる。趣味人(釣り、狩猟、庭づくり、陶磁器、グルメ)で愛国者、180センチの長身。工学への物理学の導入も業績。

大河内は主任研究員の研究室を独立させ、研究課題や予算、人事の一切を主任研究員にまかせる(同じ時期にGMが分権組織)。大河内は朝に各部屋をまわって「どうですか」と聞く。研究テーマは自由、物理、化学の枠はない。応用はそのうちに生まれるとの考え方。そこでビタミンAの起業につながる。その結果、理科学研究所は多くの人材を輩出した。

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