佐渡旅行②「金の価値」

佐渡金山では宗太夫坑を見学する。佐渡金山は慶長6年(1601)に開山された。その前から佐渡の西三川で砂金が取れており、上杉家はそれを軍資金の一部としていたそうだ。砂金とは山金が入った岩石が川に流れ、非常に長い年月で金だけが残ったものであり、上流には金山があることが多い。相川の金山は、西三川とは場所が違うが、地質的には同じなのであろう。

バスの車中から、山が山頂から割れている「道遊の割戸」という露天掘りの跡が見えた。ここの山肌が光っていたから金鉱脈がわかったという伝説があるようだが、遠くから光るはずはない。当然に木々が生い茂っているし、金鉱石を観たが、石英岩の中に黒い脈があり、その中にわずかに金粒が見えるものであり、遠くにまで光るものではないだろう。ただ、伝説は伝説としてロマンがある方がいい。

大人が立ってすれ違いができるほどの坑道がメインで、脇に細い坑道や、底の方に繋がる坑道や、逆に上方に行く坑道など、色々あり、それら坑道に精巧な人形が配置されていて、掘削作業や水汲み作業、祈願の様子、役人の検分状況などの場面を再現している。

佐渡金山は当初はまれに見るほどの高含有の金鉱石が取れたそうだ。一説に、1トンの岩石あたり100グラムの金がとれたそうだ。(現代では1トン当たり3グラムでもギリギリ採算は取れるという、鹿児島の菱刈鉱山も優良な金山であり、1トンあたり40グラムという)

現代なら、機械で掘れるが、当時は手掘り(岩石だから鏨を当てて、金鎚で打ち砕く)だから大変な作業であった。鏨は2日ほどで使い物にならなくなり、再生する必要があったようだ。

深く掘ると、海水の喫水線まで掘ってしまい、そうすると地下水が大量に出る。この水を外にくみ出す作業も必要となる。また中は暗いから火を灯す必要があり、その為には油を坑道奥深くまで供給する必要がある。もちろん酸素が必要だから、その為の穴も掘る必要がある。

太い竹筒に螺旋をつけて、それを回して水を揚げる道具なども展示されていた。アルキメデスの原理云々という説明があった。

掘り出しても、今度はそれを砕き、当時は比重選鉱で金を取っていく。この作業も大変である。最後は江戸へ搬送しなくてはいけない。ここは佐渡なのだ。

江戸の無宿人も送り込まれたとされるが、江戸後期には無宿人の送り込みもあったが、実際はそんなに多くはなかったようだ。

私の趣味の刀装具に金無垢の目貫があるが、その重量を片側だけで8グラム、表裏で16グラムとすると、1000㎏で100グラムの高品位の鉱石で160㎏ほどの鉱石が必要だったわけだ。これは鉱石採取だけの話だ。

なお、佐渡金山は明治になってからも掘られたが、388年間で金78トン、銀2330トンを産出したという。年平均では201㎏である。1日平均で550グラムである。これは金山関係の全鉱山従業者が働いた結果である。先ほどの金無垢目貫16グラムは1日平均の金算出量の約3%ほどになる。

なお、宗太夫坑のほかに、道遊坑という明治期の坑道も見学できる。こちらは坑道内にトロッコも走っている跡があると言う。

併設の資料館に佐渡金山の坑道の全貌や付帯施設の模型が丁寧に造られて、説明してある。観ても、読んでも凄いなという感想は持つが、全貌を把握できるような想像力は働かない。

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