「逃げる公家、媚びる公家」渡邊大門 著

戦国時代の公家の実態を、具体的に何人かを抽出して記している。各地の公家の所領が武士に奪われ、きちんとした年貢が入らなくなり、公家の生活は窮乏していくことが背景にある。
そういう状況下に、自分の所領に自ら出向いて管理する公家、歌や学問の知識を武家に教授することでお礼を得ようとして地方有力者の元に下向する公家などの姿である。

一条兼良は古典の注釈や和歌、仏教の分野でも大学者であった。応仁・文明の乱に際して、当初は奈良に下向し、その後、美濃の斎藤妙椿を頼り、また朝倉氏を頼って越前に出向いている。
三条西実隆も同様な学者であるが、細川京兆家の家人で丹波に基盤をもっていた上原賢家へ和歌を指導したり、若狭武田氏の重臣の粟屋親栄に源氏物語を講義したり、播磨の赤松氏の被官芦田氏とも同様な交流をしている。
冷泉為広は和歌の宗匠として能登、播磨に下向している。
清原宣賢も越前一条谷に出向いている。朝倉氏はなかなか学問も大事にし、それが朝倉家の有名な家訓につながっている。
橋本公夏も播磨の家領に下っている。冷泉為純は播磨で別所と織田の戦いに巻き込まれている。

今川家は義元の母の寿桂尼が公家の中御門家の出で、義元を擁立するときや、義元が戦死した後には氏真を補佐したりしている。今川仮名目録の制定にかかわったのではないかと推察される。
武田信玄の妻の三条の方(三条公頼の娘。長女は細川晴元、三女は本願寺顕如)は公家の出である。子は武田の家督を継がず、諏訪家の側室に生まれた勝頼が跡を継いでいる。

豊臣秀次は秀吉に殺されるが、その一ノ台として菊亭晴季の娘もいる。菊亭晴季はそのとばっちりを受けて左遷されるが、後に晴季は金澤文庫の書物を家康に献上して復権している。

織田信長と朝廷の関係について記している内容は興味深い。信長は全国平定に「天下のため」という大義名分が必要であり、その意味で天皇の尊重をしていた。自身の官職は関心がなく、また部下の任官も天下平定に関係ないから拘らなかった。天皇が望んだ譲位も資金の点でできなかったのを信長が資金を用意するとのことで天皇は喜ぶが、当時は信長は足利義昭対策などで忙しく、その内本能寺の変に遭遇した。
暦も宣命暦から三島暦への採用を信長が要望したが、それは宣命暦が日食、月食が予測できないから変更を提案したに過ぎない。

豊臣秀吉は成り上がりで朝廷の権威を多く使う。姓は源平藤橘のように朝廷から与えられたもので、氏は本姓の一族から分かれた家の名で、本拠地などからとるが、秀吉は豊臣の姓を賜り、羽柴の名字を名乗る。

江戸時代の公家を取り締まる法として、禁中並公家諸法度(17条からなり、天皇は学問、和歌、衣服規定、官位規定など)が制定される。

その後明治の華族制度(公家は137家が任じられる)、そこでの公家の生き様(公家としての生活苦)として女優になった久我美子、入江たか子のこと、スキャンダルにまみれた柳原白蓮(炭坑王と再婚するが、作歌をし、宮崎龍介と不倫)と柳原義光(白蓮の為に貴族院議員をやめ、その後、本人の男色などをおこす)のことや、政治家になった西園寺公望(元老として重きをなす)、近衛文麿(共産革命を恐れる。戦犯になり収監される前に自殺)のことを書いている。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック