「検証 長篠合戦」 平山優 著

長篠合戦について近年では①織田・徳川の鉄炮3000挺は事実か、②3段打ちは本当か、③武田の騎馬隊の実態は、④なぜ武田軍は無謀な突撃を繰り返したか、⑤勝頼は諫める家臣を振り切って決戦を決断したのは事実か、⑥信長方の鉄炮はどうして集めたか、⑦武田は鉄炮に消極的か、⑧長篠古戦場に簡単な城があったのか、⑨馬防柵は信長が準備した工夫かなどに異説が出ている。

それに対する著者の研究成果を述べている。はじめに、異説の根拠となった史料を再度検証し直している。すべては信じられないが、まったく却下すべきでないと例証している。

鉄炮の装備について、武田も重視していたが、弾薬(鉛)は織田軍にはとうてい及ばなかったことを、具体的に書いている。織田・徳川方は海(堺)からの貿易で豊富に鉛を調達でき、武田軍の想像以上に長篠合戦では鉄炮が打ち続けられた。
また火薬の材料の塩硝も、堺などからの輸入に有利な織田方に分があるが、馬小屋の土などからも取れるから武田軍も不自由しなかった可能性もある。
勝頼が戦後に家臣各自300発分の弾丸装備を求めたのは弾丸不足を痛感したからではないか。

信長は本願寺との戦いで鉄炮の威力、戦術に熟知していた。鉄炮衆は旗本として持つだけでなく、各大名からの鉄炮隊の拠出も求め、それを戦場で編制していた。ただ、これは武田軍も同様。なお鉄炮は当時、猟師も使っていた。

騎馬について日本馬は体高が低い、蹄鉄がない、去勢していないから気性が荒く集団での運用は難しいとの批判に対して、甲斐は当時の馬産地、そして東国は昔から騎兵になれていたことを記している。
馬丁のほかに沓持ちがいて蹄鉄代わりに馬のわらじの履き替えに留意していた。
騎馬は将校クラスだけでなかったとも書いている。また騎馬から下馬して戦うというのは西国の戦いで、東国ではそのようなことはなかったとしている。

日本の馬も貧弱ではなく、武者を乗せて戦うことはできたが、常日頃の訓練が大切だった。弓や鎧なども含め60~100㎏程度載せて走る。近世になると去勢の代わりに前脚の筋と後ろ脚の筋を切る「筋骨切り」を行うことがあったが戦国時代は訓練で乗りこなした。戦場以外では前脚に仮袴と呼ばれる網をはかせて、暴れるのを防ぐ。

騎馬衆は、戦いの後半で、隊列を乱した敵を後続の味方が捕捉、殲滅しやすくする為に、乗り入れる。

馬防柵の尺木を美濃から運んだということはないだろうと述べる。馬防柵があっても、それは戦場では珍しいことではなく、武田軍も破れると思ったから攻めたはずである。しかし弾薬が豊富で沈黙しない鉄炮によって肉薄できなかった。

そして、後ろに織田・徳川の別働隊が回ったために、前への突撃をやむをないものにした。武田軍にあった名誉意識で逃げずに損害を大きくしたという面もある。

また、信長だけが先進的に兵農分離をしたわけではなく、武田軍もそれなりにやっていた。



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