「勝海舟と幕末外交」 上垣外憲一著

この本は、万延2年=文久元年にロシア船のポサドニック号が対馬の浅茅湾(あそうわん)を占拠した事件を中心に書いているが、幕末日本を廻る欧米列強の外交史であり、なかなかに興味深い。

結果的にはイギリスの圧力で、ロシアは対馬の占拠を解いて、対馬がロシア領(あるいは租借地)になるのが防がれたわけであるが、この解決に至る過程での勝海舟の尽力を推測している。勝海舟は氷川清話の中で自慢話、ホラ話的なことを書いており、この事件についても、自分がイギリスとロシアのバランス・オブ・パワーを利用して武力を用いることなくロシアを追い払ったと書いているが、著者はある程度、本当のことではないかと検証しながら書いている。

権謀渦巻く外交史が書かれており、ここで、この本の内容をまとめるのは難しいが、読んでみて、この著者の推論が正しいと思うようになる。紙一重で植民地化が免れていたのが本当だろう。

まず、幕府は江戸湾に侵入して力の外交を行うアメリカは好まず、ロシアの方が好ましい(ロシア側の交渉にはシーボルトの助言があり、日本側の事情(礼節)を斟酌した)との意見が多く、阿部正弘はロシアを利用してアメリカの要求を断ろうとも考えた。ただ徳川斉昭はロシアにも不信(度々北辺を侵略)を持っていた。斉昭は当座はアメリカの軍事力が強く、勝てないから仕方無い。そしてロシアは国を接していて領土的野心があるから危ないという立場であった。

イギリスはアヘン戦争、インドのセポイの乱、アロー戦争と清と戦争しており、幕府にとっては恐怖の国だった。

クリミヤ戦争(1853~56)でロシアとイギリス・フランスが戦う。これに絡んで極東でもロシアとイギリスが争う。日本はこれに対しては中立の立場を堅持。
この時、安政大地震でロシア船が大破し、日本は戸田で代わりの船を建造。(イギリスには知られないようにする)

老中阿部正弘が大久保一翁を通して勝海舟を抜擢。ロシアのプチャーチンとの交渉は岩瀬忠震と川路聖謨が担当。小田又蔵(元信濃岩村田藩士)も実務を担う。
1858年にロシアのアスコルド号の修理も勝海舟が尽力して実施する。この時にプチャーチンの副官のポシェートと付き合いがあった可能性がある。(戊辰戦争の時に、ロシアが幕府に金を出すという裏約束があって、勝は西郷と談判に臨めたと言う説もある)

アメリカのハリス領事は英仏が日本に本格的に来れば、自分の交渉より悪い条件での条約になると幕府を説得。井伊直弼はアメリカを利用してイギリスを抑えようと条約締結を急ぐ(急がないと京都までイギリスが攻めるという噂を恐れた)。

アロー戦争のあとに、ロシアは戦争をしていないのに、清から北緯43度以北はロシア領とする条約を結ぶ。清は、ロシアは英仏のように軍隊を使わない国だから味方になってくれると思ったからロシアに甘かった。
北緯43度での清とロシアの条約締結は日本の樺太領有問題にも影響を与える。43度だと札幌くらいの緯度であり、樺太はロシア領になる。

イギリスはオールコックを日本に派遣。ロシアは東シベリア総督ムラヴィヨフが大艦隊で江戸湾に来航。彼は樺太全島を幕府に要求。ロシア水兵殺傷事件が起き、江戸砲撃も考えるがイギリスのオールコックが江戸におり、断念する。
1859年にイギリスは中国天津の局地戦で清に負ける。イギリスはアクティオン号で対馬を測量していた。そこでロシアは幕府に肩代わりして対馬に砲台を築こうとの提案もする。

ロシア水兵殺害事件の真犯人はわからないのだが、水戸藩関係者らしいとわかる。そこで井伊はロシアからの圧迫もあり、水戸藩関係者を弾圧する。安政の大獄だ。

西洋の国は、このような犯罪者の取締も含めて、その地をしっかり統治していないと自分達が植民地として統治する方が望ましいという感覚で侵略してくる。

1862年にはイギリス人が薩摩藩に殺められる生麦事件が起きる。

イギリスはロシアが樺太全部を要求しているようだが、それを認めればイギリスは対馬を占拠すると幕府を脅す。アメリカもロシアの樺太進出を抑えたかった。それはアラスカでもロシア問題を抱えていたからである。

日本はアメリカに頼っていたから通商条約批准書交換に、遣米使節団を出す。他の国とも条約を結ぶが、このような使節団はだしていない。ただアメリカは南北戦争(1861~65)に入り、日本に関与できなくなる。

フランスは朝鮮がフランス人宣教師を弾圧して殺害したことで、朝鮮への攻撃を考えていて対馬の租借を幕府に願う。

幕府における親ロシア派は堀利煕(後に安藤信正に詰問されて自刃)と小栗忠順、柴田剛中、永持享次郞である。小栗は英国を嫌い、後にフランスとの同盟をはかる。一方、親英派は安藤信正に水野忠徳である。

アメリカの通訳ヒュースケンが暗殺される。英仏を浪人が襲うという噂があり、アメリカは関係が無いとしてヒュースケンは出かけて暗殺されたのである。この時、アメリカ領事のハリスが穏健にことをおさめる。ただロシアはこれも英仏が対馬を取る理由になると恐れる。

1861年にロシアのリハチョフからの命令を受けたビリリヨフ艦長に指揮されたポサドニック号が対馬の占領をはじめる。

この時、イギリスのオールコックは香港にいた。長崎でこの情報を知り、江戸に向かう(勝が長崎でオールコックに伝えた可能性もある)。江戸ではオールコックは宿舎東禅寺で浪士に襲われる。これで幕府はイギリスに借りができる。襲ったのは対馬藩とも噂させた。そして英国は対馬へ英艦2隻の派遣を幕府に認めさす。

長州藩は対馬を通して密貿易を朝鮮と行っていたから神経質。長州藩と対馬藩は親戚でもあった。村田蔵六を通してシーボルトからロシア・幕府の情報を入手していた。小栗忠順は、対馬を一度幕府領として上知(あげち)してからロシアに貸すという案を持っていた。もちろん長州藩にとっては困る話である。

対馬島民がゲリラ戦を戦うという情報を伝えた。このような情報もロシアに伝えたのが水野忠徳の指示を受けた勝海舟ではなかったか。この時には、これまでは中国にかかりきりで軍事上で非力だったイギリスもホープの東洋艦隊が日本に来ていた。ロシア領事のゴシケーヴィッチと交渉。(アメリカは南北戦争で力になれなかった)

勝海舟も一橋派であり、井伊から嫌われていた。勝の恩師の軍艦奉行永井尚志は罷免される。勝は戸田で壊れたロシア船から外され、ロシアから譲られた大砲を静岡から江戸へ運ぶことで復権する。

水野と勝は、対馬からロシアを追い出しても、イギリスに占拠されても困るから、道義の正論(英露が他人の国の領土を争って世界を戦争に巻き込んでいいのか。クリミア戦争の再来になるぞ)と説得する。そしてイギリスの日本沿岸での測量を認めることで、対馬租借を断念さす。この時に、伊能地図の素晴らしさを認識させて、欧米に日本の実力も示す。

要は帝国主義時代の欧米列強は、隙があればアジア人から領土を取ろうというスタンスに終始していたわけだ。これに対して、当時の幕府閣僚は、列強を互いに牽制させるという薄氷の政策で国の運営をしていたわけだ。

後の日英同盟と日露戦争などは、この延長である。





この記事へのコメント

まあちゃん
2017年01月02日 18:44
いつも読書の凝縮をわかりやすくしていただき感謝。
自分では読まないのに、今回も、幕末の日本が、諸外
国といかに付き合って苦しかったか、納得しました。
それで今の日本がある、と思いました。
あと100年経った時、このような物が読めるなら、
勝海舟も本望でしょう。

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