「信長革命」 藤田達生 著

興味深い本である。藤田氏の説は他の本でも読んだことがあるが、歯切れ良くまとめられている。信長は尾張統一から美濃制覇までは他の戦国大名とかわらない行動・思考である。管領家、守護家の斯波氏を利用して尾張を統一する。三好などは室町将軍に代わろうとしなかったが、信長は天正三年に右近衛大将に任官していからは事実上の将軍として振る舞うようになって変化する。この背景に鉄砲という軍事革命で相手を殲滅することができるようになった為ではなかろうか。

天正元年に足利義昭を織田信長が追放したことで室町幕府が崩壊したのではなく、しばらくは信長は義昭の子の義尋を推戴する姿勢を示す。足利義昭は毛利を頼り、鞆に移り「鞆幕府」を継続。これに対して織田信長は安土で「安土幕府」を開いたとする。安土幕府は天正三年に姿を見せ始め、天正八年に鞆幕府を凌駕すると説く。
確かに足利幕府でも、将軍が京都から逃れるも、幕府機能は継続していたことがある。応仁の乱の時は東と西に分かれ、堺幕府に足利義維と朽木幕府の足利義晴と分かれていた。

天正十年の本能寺の変後に、羽柴秀吉の支持で織田信雄が安土幕府を継承する。しかし天正十二年の小牧・長久手の戦いから織田信雄が秀吉に臣従して織田時代は終わる。

信長は各地域で親子何代に渡り地域社会に貢献してきた領主から不動産を取り上げ、新たに建設した地方中核都市への移住を求めたもの。その移住先も自分のものというより官舎のようなもの。すなわち農村社会の大地主兼リーダーを、中央の命令でどこにでも行かざるを得なくなる官僚にしたものである。大改革である。

信長の思想はヨーロッパの思想というよりは朱子学に淵源を持つ預治思想にもとづくものだ。戦国の日本は大名領国制は分権的であるが、相変わらず天皇、将軍の権威が維持されていた。

信長の構想は、近畿に近いところは信長の息子や、近習を抜擢して領地とする。そして重臣は各地方の最前線へという動きがあった。明智光秀がこれを察知したのも間違いがない。そして、もっとも遠方が織田に服属した大名という構図で、これは秀吉、家康にも受け継がれる。

足利義昭は朝廷では太政大臣近衛前久と従兄弟で義兄弟。近衛の猶子に本願寺の教如、家令に吉田兼見、勘修寺晴豊がいる。そして副将軍が毛利輝元、それに同盟の長宗我部元親、雑賀衆の土橋重治(この下に根来衆、高野衆)、これに光秀と、その与力大名の細川藤孝、筒井順慶が加わるという構図での謀反である。
光秀の謀反は、鞆幕府の為でもある。

四国に対する信長の政策変更も謀反の大きな一因である。明智光秀の妹が斎藤利賢に嫁ぎ、その子が明智の重臣斎藤利三である。もう一人の子が石谷家に養子に入り、その石谷家が長宗我部元親、信親父子に嫁がせている。このような強い縁戚関係が明智と長宗我部にある。
対長宗我部外交は以上の縁から当初は明智光秀が担当。

長宗我部に圧迫されている阿波の三好氏は、三好康長が羽柴秀吉に接近し、秀吉の甥の秀次を天正七年に岩倉三好家の養子にする。三好の巻き返しにあって長宗我部元親は毛利の方と同盟していく。

源氏長者が将軍というのは徳川史観で、平家幕府もありだった。ただ平家になると平清盛の福原、織田信長の安土と遷都がともなうのが面白い。安土城は中国思想を取り入れた金閣寺のような建物だったと推測している。ここに天皇を迎える準備もできていた。



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