「鳥羽伏見の戦い」 野口武彦 著

鳥羽伏見の戦い(慶応四年の1月の4日間の戦い)は、関ヶ原に匹敵する政権交代の戦いだった。それにしては各書に取り上げられている機会は少ない。両軍合わせて約2万人が戦うが、死者は新政府軍で約100人、旧幕府軍から約290人である。

慶応三年十月に徳川慶喜は大政奉還を打ち出す。十二月に小御所会議で慶喜が将軍を罷免される。だが維新政府は予算も組めずに慶喜復権の動きが山内容堂、松平春嶽からでる。
薩摩は西郷が江戸の薩摩藩邸に天璋院様御警固の名目で浪士を集め、江戸で御用金強盗などを働き治安を乱して、幕府を徴発する。野州出流山や甲府襲撃(八王子で鎮圧)、相模荻野山中藩の陣屋襲撃もする。庄内藩の警備屯所に銃弾を撃ち込み、これで庄内藩は江戸薩摩屋敷を攻撃する。
この徴発に乗って、在坂の幕府軍も薩摩撃つべしとなる。「討薩の表」を作り、朝廷に提出することに決めて、鳥羽街道と伏見街道を幕府軍は進発する。

伏見についた旧幕府軍は伏見を警備していた薩摩と接触。薩摩はここを通すには京都の許可がいると言って、時間を稼ぐ。その間に陣を整備する。幕府軍は朝廷側は大軍を畏れて、道を空けるだろうと思っているから、最新の歩兵隊の銃には弾が籠められていなかったという。
なお野口氏はこの時、幕府軍は最新式の元込銃(シャスポー銃)を装備していたと書く。

薩摩の引き延ばしに業を煮やした幕府軍は2列縦隊で押し通ろうと進軍。交渉手切れで薩摩の銃器が火を噴く。不意を突かれた幕府軍は惨敗する。その中では桑名藩の砲兵隊や会津藩が奮戦する。
砲撃で火事になり、幕府軍は火で浮かび上がって見えてしまい不利だった。大砲の砲撃も有効だった。
薩摩側は幕府の指揮官を狙撃するような兵も持っていた。
幕府工兵隊は俵や伏見の酒樽を利用して陣地をつくる。戦闘のあった時は北風が強く、これが新政府軍に利した。
三日めには千両松の堤で激戦がある。ここに錦旗が到着する。双方の士気に影響した。この午後に淀藩は裏切る。
4日目は山崎、石清水八幡宮の近くの橋本で激戦。ここで山崎台場に陣を敷いていた藤堂藩が裏切る。それぞれの裏切りの背景も書いている。
この後、幕府軍は大坂城に引き上げる。ここで慶喜が大坂城から秘密裏に脱出するという信じられない事態がおこり、幕府軍の多くは和歌山経由で逃れることになる。
大坂城は、新政府軍に明け渡しの交渉をしている中、全焼する。この理由は諸説があるが、明確ではない。

敗因は次のように総括されている。
①将帥の無能(慶喜も含めて)、命令もマチマチ。
②無能の一つだが、一条の道に大軍を進めたという戦略上の失敗。大混雑になり、大軍の利が発揮できない。
③大軍だから戦わずに京に入れるという油断(銃砲の弾を装填していない)。
④激しい北風という気候で、幕府軍には向かい風。

このように、つまらない戦いだから、取り上げられることは少ないのか。


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