「江戸三〇〇藩物語藩史 中国・四国編」 山本博文 監修

このシリーズを読んでいるが、知らなかったことが書かれていて面白いシリーズである。こんどは中国・四国である。鳥取藩は池田家だが、宮部継潤の跡を継いだのは池田輝政の弟の長吉。池田輝政の系統は姫路を領しており、その系統で当主が幼かったりすると、姫路は山陽道の要衝だから、鳥取池田家と交代することもあった。池田光仲の時代に重臣の荒尾成利(米子に配される)と反目したこともあったようだ。享保二年、元文四年の大一揆がある。天明期に家老の乾長孝が蝋を専売にし、藩校尚徳館を創設。天保の大飢饉の時は、鳥取でも大変で天保8年は「申年がしん」と称され、死者が2万人も出た。

松江藩は堀尾家、次いで京極家、それから結城秀康の三男が入部。農政に明るい岸崎時照を起用した。寛文頃から財政難。貞享期に藩士の家禄を半分にしたりする。7代治郷(不昧)の時に家老の朝日郷保を中心とする「御立派」に改革をゆだね、少し好転する。
一揆も多い藩で、享保の大飢饉の時に城下で強訴がある。天明3年の一揆は参加者1万人。

長州藩は大坂の陣の時に、重臣の内藤元盛に密命を与えて大坂方に参戦。名を佐野道可として、ばくちを打つ。五代吉元は享保3年に藩校明倫館をつくる。7代重就が宝暦の改革。ただ農民には厳しく一揆がおこる。13代敬親は村田清風を抜擢して改革する。これは中途半端だが、次代の周布などが改革していく。

広島藩は福島正則が立藩し、浅野家が入る。海運業と流通統制で他国の米を買って高値で大坂で売るなどして、利益を出していた。元禄頃から厳しくなる。幕末は辻将曹を中心に文久の改革。いち早く勤王になったが、軍装が旧式で時代に乗れなかった。

岡山藩は池田光政が名君で熊沢蕃山を重用し、花畠教場と閑谷学校を設ける。質素倹約と学の充実の「備前風」という藩風を作るが、以降は崩れていく。他藩よりは財政が楽。

高松藩は生駒氏だったが、外戚の藤堂氏から派遣された重臣との間がうまくいかず、それを当主が調整できずに改易。水戸藩の分家の松平氏が治める。元禄8年に藩士の俸禄を削る。産業の開発も行う。一時好転するが、享保10年には藩士120人をリストラする。宝暦から改革がうまくいくが、幕末は豊かになる。

徳島藩は蜂須賀家が土豪対策で苦労する。家老の稲田家(淡路島洲本)との間でもめ、維新時には洲本藩と名乗り、朝廷方に参戦。明治後に淡路島は兵庫県に属すようになる。ここも財政難で領民から搾り取り、その結果一揆がおきるということを経験している。「煙草騒動」「上郡一揆」などが勃発する。

土佐藩も土豪の一領具足で苦労する。2代の時に野中兼山を登用して改革。9代豊雍が名君。天保の時には馬淵嘉平などの新進気鋭の人材で改革。おこぜ組として門閥から反発が出て、失敗。幕末には吉田東洋を山内容堂が登用して、新おこぜ組として改革。郷士層は勤王となる。

伊予松山藩は加藤嘉明、次いで蒲生忠知、その後久松松平氏。寛文頃から財政難。高内又七が改革。享保の大飢饉で藩士の禄を削減。寛保元年に久万山一揆(農民3千人が大洲藩領に逃げる)がおこる。9代定国(田安家からの養子)が少し立て直す。


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