「戦国誕生」 渡邊大門 著

視点は面白い本で、目から鱗である。ただ、読み難い本である。それは室町時代の同族が争う時代を丁寧に書いているからである。細川、斯波、畠山なども、同族だから下の名前まで追っていかないとわからない。そして味方になったり敵になったりだからである。

視点が面白いというのは、室町時代後半に「形式」から「実体」への転換が行われたということだ。「形式」とは、将軍からある人物が守護に任じられる。室町幕府の守護は在京義務があり、任国には守護代がいて統治していたわけだ。当然に任国に実際にいる守護代の方が力を持つようになり、彼らが将軍、守護は「形式」だと認識するようになると、守護の言うことを聞かなくなるわけだ。これが下克上につながる。
このようなことが、天皇、将軍など、あらゆるところで生じたわけだ。そして「実体」が大事とわかることで「実力主義」となっていき、戦国時代に突入するというわけだ。

また「権威」から「権力」への転換もあったという。天皇、将軍から守護も、その存在、命令は「権威」の裏付けがあった。しかし「権威」があっても実力が伴う「権力」がないと、従わせることができなくなった。これも実力主義の流れである。

社会情勢も厳しい時代であった。長禄・寛正年間は飢饉の時代である。長禄三年(1459)には山城・大和が暴風雨に襲われる。このような環境の中で、寛正三年(1462)に寛正の土一揆が勃発する。
この事態に、将軍足利義政には「三魔」と呼ばれる今参局、有馬元家、烏丸資任に政治に口出しをされていた。
ただ足利義政は政治から逃避したのではなく、当初は積極的だったとある。しかし、管領や側近の争いなどからなかなか上手に機能させることができなかった。銀閣寺は逃避の館ではなく義満を見習っての政治をやるために建てたとある。

当時は「形式」は大事であり、応仁の乱の時も、当初は中立の立場の足利義政は途中から東軍の細川勝元を支持する。これに対して弟の足利義視は西軍の山名宗全側につく。当時の後花園上皇と後土御門天皇は室町殿に仮住まいをしており、東軍に院宣を出しやすい。院宣は形式だが、当時はそれなりに大事にされ、この為、西軍は南朝の後裔を新たに天皇にするようなことも画策したという。

このような中で「形式」、「権威」のむなしさが広く認識されてきて「実体」「権力」のもとに、世の中は靡いていく。





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