「空海の風景-司馬遼太郎全集39」 司馬遼太郎 著

高野山に出向いたから、昔読んだ司馬遼太郎の「空海の風景」を再読した。当時は毎月購入していた司馬遼太郎全集に採録されているから読んだわけで、自分から興味を持って読んだのではなかった。その時の読後感は、司馬遼太郎の時代小説らしくないもので、歯切れも悪く、全体に印象に残らないという印象で、何となく空海のしたたかさを感じたものだ。

今回、再読しても、空海に対する親近感、共感と言ったものは起こらない。空海は真言宗の開祖、そして、ともに登場する最澄は比叡山の天台宗の開祖であり、司馬遼太郎は、それぞれの宗教関係者からの反発に配慮して、このような空海、最澄の描き方をしたのではないかとも感じている。

空海は、あの世界帝国:唐の都の長安で、詩文の才を謳われ、書の方も、その見事さに唐の諸氏が感服するという人物と伝承されている。そして宗教の方でも、当時の密教の第一人者の恵果から、金剛頂経系の密教と大日経系の密教をともに伝授する。恵果の門人千人の中の第一位として、本当の跡継ぎになったと伝わる。だけど、この凄さが小説では今一つ感じられない。このような第一人者になる為の努力、苦闘も描かれていない。天才だからなのかもしれないが、空海の描き方に親近感が持てない一因である。

余談になるが、先年、中国の西安に出向いた時に、空海が恵果に学んだ青竜寺が復元(日本の真言宗関係者が音頭をとって復元)されていたが、ここは四国八十八箇所のゼロ番札所などと称していた観光の寺で、桐の花だけが綺麗だった。

当時の唐の長安の都は世界の都である。そこで、これだけの才能を閃かしたにしては、司馬遼太郎の筆は地味である。しかとした史料が無いためであろうか。

そして、最澄は桓武天皇に好かれたエリート僧として、唐に渡っても生真面目に、天台宗を学ぶ。そして密教の一部も持ち帰る。帰国後は奈良仏教を圧倒する新仏教の旗頭的存在として遇される。
桓武天皇は奈良から京都に都を移した天皇だ。奈良の旧勢力に対峙する人物として最澄はうってつけだったわけだ。

最澄も密教の一部を持ち帰ったが、空海が本当に密教を持ち帰った為に、空海から教えを乞う態度で接する。ある面、謙虚なのだが、密教を修行するというより、密教の教典を勉強するような態度であり、だんだん空海の方が嫌になり、交流は拒絶される。宗教家としての最澄(実践し、救う宗教者ではなく、学として学ぶ宗教者)の限界と同時に、空海の意地の悪さ的なところが書かれている。どちらの宗教家を崇拝する人にとっても、あまり良い感じはしないであろう。

空海は、何となく、時流・政治情勢の見極めが上手いような感じで司馬遼太郎は書いている。私が初読の時に感じた”したたかな空海”である。
唐に渡るまでは、一介の私的な僧だが、帰国後は、時の嵯峨天皇の信頼が厚くなり、それこそ天皇が空海に師事するように接する。書の三筆は空海、嵯峨天皇、橘逸勢である。

この橘逸勢も空海と一緒に唐に渡る。空海の才能に驚きながら、自身は儒学生として世渡りがそれほどうまくなく、不平を持っているように描いている。もっと小説らしく、橘逸勢を生き生きと書いたらどうかとも思う。

「あとがき」に、この小説は事実を丹念に追った「坂の上の雲」の下調べ中に、このような漠とした中の空海ーだから「空海の風景」-を書いたと記している。読む人に空海のはっきりしたイメージを与えるという狙いは、そもそも無かったのだろう。

肯定的に評すれば、司馬遼太郎が新しい感覚の小説を生みだそうとした作品と言える。

日本の宗教家は「中国から宗教体系を輸入した人(奈良仏教、最澄、空海、栄西)」、「民衆に簡単な救いの方法を教えた人(法然、親鸞、一遍)」、「鎮護国家の祈願僧(奈良の僧)」、「自分一人での悟りを追究した人(禅宗の僧)」、「宗教を踏み台にして権力を指向した人(道鏡、蓮如など)」などだ。
それに「宗教を書物で学んだ秀才で、民衆救済、鎮護国家などの使命は義務的に感じている者(各宗派の道統を継いだ者)」だ。もちろん「宗教を生活の為に行い、そこで宗教家らしい倫理観を義務的に行っている者」が大半だが、それはそれで人間だ。

その中で、空海と日蓮は本人が奇跡を起こした伝説を持ち、宗祖そのものが崇拝の対象になるような宗教家と感じるが、深く分析したわけではない。


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