「戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆」 鈴木眞哉 著

紀州の雑賀衆(”さいか”と濁らないのが正しい)のことを調べ、とりまとめた本である。司馬遼太郎の「尻啖え孫市」は面白い小説だが、あれはあくまで小説である。
雑賀衆とは紀ノ川下流域にあった雑賀荘、十ケ郷(じつか)、宮郷、中郷(なかつ)、南郷の土豪の共同体である。家(名字)は60家を越えるが、当時からの家かは不明とのことだ。鉄の団結を誇ったわけでもなく、農民達の共和国というようなものでもなかった。お互いの家が婚姻関係で結ばれていたが、血縁、地縁はどこの地域でもあることである。

根来衆とも近い関係にある家もあったわけである。農耕だけでなく、水運、交易あるいは製塩にも携わっていた。一向宗の門徒と言われるが、土橋氏は浄土宗の信者であった。また根来寺(新義真言宗)とも関係があった。ただ雑賀に一向宗の門徒組織もあった。当時の紀州守護の畠山氏の為に戦闘したことが多い。

雑賀衆という言葉が史料ではじめて登場するのは天文4年で、石山本願寺に300人ばかりが来援とある。反信長で近隣諸国(阿波の三好氏、毛利家、本願寺)と同盟も結んでいる。

鉄砲で有名だが、鉄砲は根来衆の方が早いようだ。佐武伊賀守は天文18年(1549)の12歳から学ぶと覚書にあるようだ。織田信長は天文18年の16歳だから、信長より早い段階から学んだわけだ。グループで一人が撃ち手、残りは弾込めにまわり、数挺の鉄砲を間断なく使用することもあったようだ。鉄砲は攻撃よりも防御に有効で雑賀衆は「鉄砲構え」として柵を結んで畳を立てかけるようなことも工夫したようだ。鉄砲隊という団体を組織的に動かす方法も習熟していた。

傭兵として戦ったとされるが、誰でも恩賞目当てで戦うわけである。鉄砲という専門集団だから、より傭兵的な見方をされるのであろう。またそれほど地縁の無い石山本願寺での戦いが傭兵説を強くしているのだろう。傭兵は頼りにならないという俗説(特にマキャベリの説や三河譜代を強調した大久保彦左衛門の説)に対して、著者は事例をあげて反論しているが、この通りであろう。

信長は宗教ではなく、宗派のあり方に対して攻撃した。領地を持ち、財力を蓄え、武力を擁していたことを問題視したとあるが、この通りであろう。

鈴木孫一は鈴木孫一重秀が正しい名乗りである。雑賀孫市を名乗ったかは不明。十ケ郷の孫一で永禄五年(1562)の史料に出てくる。年紀は明確ではないが1557、1558の荘園間の争いに参加していることも知られている。1570に三好方に参戦していた孫一は信長が三好を攻撃した為に石山での合戦に参加。天正2年(1574)に足利義昭の復権に協力の文書があり、天正4年からの石山籠城に参加。この時に名の知られた戦いをし、当時の公家の日記にも、孫一が戦死とかの話が記されている。天正5年に信長が雑賀に攻め込んできた時にも戦い、講和する。天正7年には荒木村重側で戦っている。天正9年になると同じ雑賀の土橋若太夫との対立が顕在化する。土橋家の内部対立の一方に加担したようだ。信長の内意を得て戦ったとある。本能寺の変のあと、孫一は雑賀から逃れる。天正12年に秀吉の鉄砲頭の一人として200人の隊長となることが史料にある。これは家康との小牧の戦いの時であり、他の多くの紀州、根来勢は家康に味方している。以降の鈴木孫一の記録は確かなものが無いようである。

もう一人佐武伊賀守の覚書「佐武伊賀働書」というものがあるそうで、彼はまず地元の争いで初陣を果たし、根来寺の行人になって修業し、その中で根来寺内の戦いに参加。23歳の時に土佐の争いに本山側に付いて参加。その後は三好党に加わる。天正4年には三好方(安宅氏)として大海砦の守将として本願寺側について信長と戦う。この後、紀州の新宮の堀内氏の元で戦う。秀吉の雑賀攻めに対抗して戦い、その後は羽柴秀長に組み込まれての戦いになるようだ。後に紀州の浅野家に仕え、広島にも移住したようだ。

著者は雑賀衆に対して、独立自尊の生き方をしていたことを評価している。






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