「刀装具の起源」 笹野大行著 

知人が古そうな透かし鐔を購入された。その時代に関して知人と語り合っている中で、笹野大行氏のこの本について読んで、勉強をした。ちなみに笹野氏は後に記された『透鐔』の中でも時代設定をしている

まず、平家物語など数冊の古典から、太刀とは別に打刀、腰刀、刀と書かれている部分を抜き出す。そして源平合戦の時に、腰刀、打刀という言葉が現れていることを示す。(もちろん、これらの言葉には短刀も含まれる)

次に、絵巻物の中で、刃を上にして差している絵があるかを探る。伴大納言絵巻や山王霊験記にあることを示される。

それから現存の刀拵として、曽我五郎時到の箱根神社の赤木柄(平安)、毛利家蔵の菊造り(鎌倉)、厳島神社の桐紋造りの腰刀、春日大社の菱作の打刀拵を考察する。

時代が下ると、南北朝時代の大内義弘の最後の様子、足利義満の厳島神社参詣時の伴の武士の装束、細川頼之が建武式目追加で「中間以下輩、金銀梅花皮等腰刀可停止事」と贅沢を禁止した法令、有名な建武元年の二条河原の落書「鉛作りのオホ刀、太刀ヨリオホキニコシラエヘテ 前サガリゾ指ホラス」などをあげる。

現存の鐔としては、「右京太夫」「永享十三年」の真鍮地の鐔(細川右京太夫持之の所持銘か?)、秋山久作旧蔵で「文明二年六月日」「平安城長吉」の応仁鐔よりも稚拙な鐔、「上州白井住」「又八郎雲海」 「入道憲国 文亀二年」の鐔、永正十六年の明珍信家の鐔などを取り上げ、真偽の判断も加えながら考察する。

弁慶所用と伝わる南無阿弥陀仏透鐔、村上義光所用の卒塔婆透かし、義満が播枝八幡宮奉納の南無八幡・摩利支天透鐔と 桐瓢箪透甲冑師鐔、輪宝透かし鐔、松葉山金鐔なども図示されている。

応仁鐔、鎌倉鐔と呼ばれる鐔の一派も検証している。

また先人の研究として、伊勢貞継の『御供古實記』、末永雅雄の法隆寺西円堂の遺品を調べての考察、辻本直男の「打刀考」、服部治一郎の『鐔の文化史』などを紹介している。

こういうことから、打刀用の鐔は平安時代からあるとされ、元寇の戦い後に集団戦となって、多く造られるようになり、南北朝時代は大きなものも造られたとする。
切羽台の形状は、鞘はきわめて薄いが、切羽台(鯉口)は丸いものもあるとして、具体的には比較せずに、櫃孔の形状から時代を次のように推定されている。

大ぶりの鐔にある角形、山形と同類の横幅の狭い半月型・州浜形の櫃孔は、応仁鐔・鎌倉鐔の前の時代。それから応仁、鎌倉鐔みたいな小柄、笄櫃が同形で肩の張った半円形の櫃孔、その後に半円形の小柄櫃、州浜形の笄櫃で、それぞれ幅の広くなったものという時代区分になると推定される。

初期の透かし鐔は、応仁鐔、鎌倉鐔と同じ頃(すなわち小柄、笄櫃が同形で肩の張った半円形の櫃孔)から出現したとされる。具体的には永享から応仁頃だろうとされている。

以上は鐔の比較だが、この後、小柄、笄などの時代別の造り込みの考察なとをして、参考になる。

知人の透かし鐔は、透かし鐔でありながら時代が室町より上がるのではとおっしゃっておられ、研究課題である。



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