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zoom RSS 「江戸っ子の意地」 安藤優一郎 著

<<   作成日時 : 2017/08/12 13:13   >>

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この本は、江戸城開城時の江戸町奉行所の様子からはじめ、明治になってからの奉行所役人も含めた幕臣の生き様を紹介している。著者の「幕臣たちの明治維新」(http://mirakudokuraku.at.webry.info/201702/article_3.html)と重なるところもある。

今のJR有楽町駅の前(数寄屋橋)に南町奉行所があり、JR東京駅近く(呉服橋)に北町奉行所があった。最後の南町奉行は佐久間信義、北町奉行は石川利政である。江戸城の無血開城を受けて、奉行所も清掃され、整理整頓して引き渡された。ただし、現存する幕末当時の奉行所史料は少なく、国事犯(明治になってからは逆の立場になる)の資料は破棄された可能性も高いと著者は推測する。

慶喜が慶応4年の正月に江戸に逃げ帰った。多くの幕臣は不満だが、慶喜に抵抗をやめよと指示され、一部は彰義隊などに参加する。彰義隊討伐後に幕府の静岡70万石への減封が決まり、幕臣は@新政府に出仕、A暇願いで商人、農民になる、B無禄覚悟で静岡移住の選択となる。旗本6000人、御家人26000人が70万石では5000人がやっと。でも大半はBの道を選ぶ。

江戸時代の町奉行は10時頃に奉行所から登城、2時頃に退出して奉行所で執務。1ヶ月交代だが、非番の時も月番時に受理した訴訟を処理していた。現在の知事と、警視総監、消防総監、東京地裁長官に国務大臣を兼ねていたような役割で激務であった。
享保4年に町奉行所が取り扱った訴訟の数は47731件。内の約70%は金銭を巡る訴訟である。訴訟件数が多いから、勤務のポイントは難しい案件を能力のある与力にまかすという見極めだった。

町人は、居住形態で、家持、家主、地借、店借に分けられ、寛政3年で江戸で地主は18876人、家主は16727人、残りの40数万人が地借と店借だった。
町の名主が約250〜260名、名主一人当たり平均7〜8町、2000人以上の町民を支配している感じである。名主の上に樽(樽屋)、(奈良屋)、喜多村の3家が町年寄として任命されていた。

これに対して、与力、同心はあわせて300人ほど。同心の下の岡引き(目明かし)、その子分の下引きは幕末の頃に1500〜1600人ほど。

明治政府は江戸鎮台府を設置。町奉行は市政の南北の裁判所となる。5月23日に引き渡しされる。与力、同心にはこれまでの給料で維新政府に仕えるように通達がでる。そしてしばらくは職にとどまる。7月に東京となり、東京府がおかれる。

維新後に市中取締隊が組織され、薩摩藩など12藩が担当。それを府兵と改称し、41藩2500人であった。福澤諭吉がポリス制度を紹介。そしてポリス(邏卒)が徴募され、3000人の内、2000人が鹿児島県人となった。
西南の役の時に西郷に従ってやめた為に、大久保利通が内務省の管轄にして東京警視庁が発足。

奉行所以外の幕臣のその後だが、旧幕府=静岡藩には人材が豊富で、政府に引っ張られた人物に西周、渋沢栄一、津田真道などがいる。
言論界への進出も多かった。福地源一郎、柳川春三、成島柳北、栗本鋤雲などがいる。また議員としては島田三郎、田口卯吉がいる。
三井の大番頭の益田孝も幕臣の系譜である。

維新後に、東京の武家屋敷で茶・桑の栽培を奨励したり、牛、うさぎの飼育なども行われたが、いずれも失敗。


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