「歴史の余白」浅見雅男 著

副題に「日本近現代こぼれ話」とあるが、明治から昭和にかけての様々な分野の有名人に関するこぼれ話を幅広く集めた本である。
著者は、戦前の要職にあった人物の日記のことについても詳しく、そのような日記資料から得た話も多い。また日記に関して、公開された時の意図、校訂ミスのことなどの指摘も興味深い。

皇族の話も多く、例えば明治天皇には5人の皇子と10人の皇女がいた。昭憲皇太后は子を産めない体質で、皇子女は全て宮中に仕えていた公家華族の娘たちとのこと。ただ8人は成人に達しない内に亡くなる。
こういうことを知ると、側室が認められていない社会で、皇統を守ることの難しさを改めて思う。
なお伊藤博文の愛妾のことや、田中角栄の愛人で金庫番のことも書いている。昔はこの問題には大らかだったのだ。

有栖川熾仁親王、東久邇宮稔彦親王の日記のことや、美智子妃殿下が明治に民間から生まれた五日市憲法草案のことを評価されたことなども紹介されている。

東久邇宮稔彦は戦後、戦犯に指定されることを恐れ、自ら皇籍離脱などの動きをした。昭和天皇にも退位を勧めたようだが、昭和天皇は「秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若い。こういうことを東久邇宮は考えて欲しい」と苦言を呈したようだ。

公家、明治期の華族の話も多い。徳川家達が長く貴族院議長を勤めたことや、勲章等を拒否した原敬の逸話、徳富蘇峰が文化勲章を辞退した話もあれば、大平正芳の読書量の多さに触れている箇所もある。
大倉財閥を興した大倉喜八郎の閨閥作りや、その子の大倉喜七郎のことなども紹介されている。のちに大倉山ジャンプ競技場を作ったり、ホテルオークラを作った人物である。

森鴎外と井伏鱒二の話も面白い。森鴎外が「伊沢蘭軒」を書いた時、井伏は中学生だが、郷里の福山藩に伝わる話として、蘭軒が井伊直弼にそそのかされて阿部正弘を毒殺したとの言い伝えがあり、それを井伏鱒二が変名を使って森鴎外に手紙を書いて知らせる。鴎外から返事が来て、また彼の書いたものが小説の中で紹介される。事実は阿部正弘の亡くなる前に蘭軒も逝去していることで、この話は事実でないことを鴎外が記す。これを受けて、井伏は鴎外に返事を出すが、この時に変名の人物は死去したと、偽りを書く。すると今度は鴎外から架空の変名の人物への弔文が来て、井伏は反省したという逸話である。

2.26事件で殺された渡辺錠太郎のことと、当時、渡辺邸の近所にいた有馬頼寧の日記などに触れる。そして渡辺の寝室にいて、渡辺がかばって助かった娘が修道女として多くの書を出した渡辺和子であることを紹介する。

西田幾多郎の莫大な印税収入や吉野作造の経歴を収入面から記述する。吉野は生活が厳しい時は後藤新平の援助を受け、吉野はこの恩に対して、後藤の命日に墓前に出向いていたそうだ。

陸軍大将で後に戦犯となった今村均が戦時中、内村鑑三全集を読みたいと、部下に頼む。部下は野村胡堂の元にあることを知って、譲ってもらう。しかしこの全集は部下とともに撃墜されて今村に届かなかった。戦後、今村が御礼に野村の元を訪れたそうだ。

平沼亮三という人物のことも知る。彼は横浜の大地主で慶応に進み、各種スポーツを嗜む。自分の邸宅をスポーツ施設にし、そこでの食事メニューの一つがカツカレー(当時はスポーツライス)だった。アマチュアスポーツ界の貢献者として文化勲章を授与される。

スポーツの分野では、王貞治が国籍の件で国体に出られなかったことや、相撲界では玉の海が自身の八百長を反省し、大鵬の八百長を指摘していたことなどが書かれている。

「あなたに逢いたい」展  於佐野市立吉澤記念美術館

昨日、太田に出向く用事があり、その帰りに葛生に出向き、標記の展覧を観てきた。
収蔵品を元に、肖像画を中心に展示がされており、その為に肖像=あなたに逢いたいというテーマにしたのだろう。
入口に足尾鉱毒事件に抗議を続けた郷土の偉人「谷中村の田中正造」(塚原哲夫)が展示されていた。不屈の人柄を想像できるような作品で力強い。
ホアキン・トレンツ・リャドという画家の、オールドマスター的作風(暗い暗褐色の背景に光を浴びた肖像が浮かび上がるような絵)で、まさに油彩で描いた肖像画という女性像の作品2点である。凛とした女性で何か物憂げな表情である。いずれも襟元を少し崩したような姿で、何か意味があるのかと考えてしまう。
高山辰雄の「小鳥」は小鳥を手に乗せた女性を描いているが、女性の輪郭はオレンジというか緋色の衣装と背景が混在して明確でない絵だが、その分、しばらく観ていたくなるような大作であった。
藤井勉の「季節の中で」は女性の横顔を描いているが、平面的に見える。
伊東深水の「紅がく」は紺色の浴衣姿で黒髪豊富の、いかにも昭和前期の女性像である。
中山忠彦の「エマイユの耳飾り」「挿花」の2点が出品されていた。リトグラフの作品も1点展示されている。中山忠彦の作品らしく、いつもの婦人モデルがきらびやかな衣装を着て、宝飾品を身に付けている。このような作品一本槍の作家である。それだけ人気のある絵柄なのだろう。
森本草介の「初秋」「婦人素描」と2点掲示されている。繊細な優しい感じのする巧みな写実画である。素描の方が線の繊細さがよくわかる。

日本画のコーナーにある寺崎広業の「大宮人」は宮廷の男性貴族の表情が何とも言えずに味がある。この人物は何を考えているのだろう。
川合玉堂の「孟母断機」は孟子とその母との逸話を描いたものだが、いつもの玉堂の風景画とは違って意欲的な作品で、迫ってくる力強さがある。
小林古径の「神崎の窟」も大作で意欲作で、隅々にまで気を配って仕上げた立派な作品である。
狩野探幽の「十牛図」は、様々な牛の姿態を描いて、探幽らしくはない力強いところもあり、さすがである。同じ牛だが、姿態だけが違う絵になっている。

この美術館の目玉の板谷波山の陶磁器も5点飾られていた。この人の作品には気品を感じる。

「正社員が没落する」堤未果、湯浅誠 著

昔、読んだ本だが、調べ物があり、再読する。湯浅氏は「年越し派遣村」の村長をつとめた人物で、堤氏はアメリカの実情を『ルポ 貧困大国アメリカ』に著したジャーナリストである。
この2人で、日本でも格差社会が拡大している実情を述べ、対談している本である。2009年の出版であるが、現在の方がオリンピック需要もあり、景気も好転しているが、状況は大差ないのだろうか。

堤氏はアメリカでは、医師も転落する実態を示している。医療過誤保険の保険料が18万ドルと高騰し、それを年収20万ドルの医師の給料で支払い続けることが困難になり、医師を辞めて、底辺に転落する事例紹介である。そして米国では医療の現場に保険会社が入ってきて、治療の内容・時間まで実質指示するようになっている現状を述べる。なお医療を受ける個人が負担する保険料は年間1.5万ドルくらいとのことだ。そして一度、病気すると保険料は上がる。また医療費も高額で、歯の治療費も詰め物だけで1500ドルもするそうだ。
米国の医療保険制度を知らないから、ピンと来ないところもある。

医師だけでなく、教師、公務員、製造業の中間クラスも、政府が急激に進めた社会保障費削減政策や民営化による競争原理導入で落ちこぼれていくと書く。「落ちこぼれゼロ法」で教育現場に競争が導入される。全国一斉学力テストが義務づけられ、その成績が教師の査定に結びつく。だから教師の中には平均点を下げる生徒がテストを受験しないように試験当日に休ませたり、事前にテスト問題を教えるようなことを行う。
そして、そのような落ちこぼれ学生を軍に志願させるように仕向けられたりするという。
また若い世代は学費の高騰と学資ローンで厳しくなる。

アメリカは社会保障の薄い部分をNPOと教会が支える。慈善精神によって教会主体でスープキッチンと呼ばれる無料給食所がある。税制と文化によって金持ちがチャリティで寄進する風土も存在する。

日本ではリストラ、非正規雇用で貧困になる。このような人々は企業福祉から脱落し、貯蓄、家族等の人間関係などの溜めが無くなると一挙に貧困になる。
これまでの年功型賃金は働いている一人の賃金ではなく、家族全体を支える賃金だったわけであるが、それが崩壊している。一方で社会保険料は上がり続ける。
社会保険料が上がると、企業はその負担を厭がり、社員を独立させて、一人親方的な経営者にして、仕事を外注。もちろん仕事がある時だけだが。一人親方は自分で国民年金や国民健康保険に加入し、自分が経営者だから残業時間規制も無しに働くということだ。病気になって働けなくなれば、一挙に貧困層になる。マスコミの現場も一人親方が多くなり、非正規雇用ばかりになっていると言う。

日本はアメリカの年次改革要望書に即して、法令などが整備されていく。こうしてアメリカ並みになるが、アメリカと違って社会にチャリティの思想がないと説く。

現在は企業の内部留保は史上最大の額に膨れあがっていると言う。これが社員の給料を、以上のようなことで抑えてきた結果ならば、問題はあると感じる。
なお、アメリカは国民を消費者、ヨーロッパは市民と見ていると記す。市民は人権などの守られるべき権利があるが、消費者は商品を買ってくれるという視点だけだとも問題提起をしている。



上野東照宮

これまで上野東照宮付属のボタン苑には季節に出向いたことがあったが、上野東照宮は拝観したことがなかった。何年か前には修復工事が行われていたようだ。
大きな鳥居の脇の上野精養軒の方にお化け灯籠と呼ばれる巨大な石灯籠がある。佐久間勝之が寛永8年に寄進したもので巨大である。
参道には全国の大名から寄進された石灯籠(パンフレットには約200基)が並ぶ。その先に唐門があって本殿と続く。唐門の前には徳川御三家が寄進の銅の大きな灯籠が6つ並んでいる。その周りにも各大名からの寄進の銅灯籠が全部で48基あるとのことだ。日光東照宮と同じようだ。

樹齢600年の楠があり、立派な木である。唐門から本殿を囲む塀があり、それは透塀と呼ばれ、塀の屋根の下の壁は、上下に華やかに彩色された木の彫刻が彫られている。下部の彫刻は水の中にいる魚類や、水辺の鳥などの彫刻である。上部には野山の動物や鳥類の彫刻である。これらの動植物の名が手前の手すりに記されている。上下の彫刻の間は菱格子で透けて見える。だから透塀なのだろう。この透塀が本殿を囲っている。
唐門の左右には左甚五郎作という昇り龍、下り龍の立派な木彫がある。これも日光東照宮と同様だ。

その派手な塀囲いの中に、金箔がまぶしい拝殿と後ろに本殿がある。日光東照宮と同時期の建築であり、華やかな彫刻が飾っている。これらの建物の中には入れない。
修復して間もない為か、金箔の金ピカが華やかなである。

安土桃山時代~江戸時代の前期には、この建物もそうだが、日光東照宮など日本人の趣味に合わないような彩色、ゴテゴテのが残っている。明暦の大火前の江戸における大名屋敷の門も、このようなものだったと読んだことがある。この時代には一方で桂離宮である。面白い時代だと思う。

朝倉彫塑館

本日は朝倉彫塑館に妻と出向く。日暮里駅近くの山手線内側の台地になっている方にある。帰りは、そこから谷中墓地に沿って南に歩き、途中に江戸期の浮世絵三美人の一人笠森おせんのいた稲荷を通り、上野公園に出る。

彫刻家朝倉文夫の邸宅を、このような記念館にして保存している。昭和10年に完成した家だそうだが、コンクリートの家と木造の家が不思議に一体となったような建物で、魅力的である。コンクリートの家はアトリエとして彫刻作品の大きなものを製作するために、電動昇降台を設置する為にコンクリート造りとしたようだ。
このアトリエ部分は2階まで吹き抜けにしていて、天井からの光も採り入れるように設計されている。次ぎの部屋は2階までの壁一面を書架にした書斎である。これら蔵書の中には朝倉の知人の芸大教授(西洋美術史)の蔵書を引き取ったものもある。
次の間が応接室である。そこから和風木造の家の方に庭を見ながら渡り廊下でつながっている。そして木造家屋側の玄関もあり、木造の和室(居間、寝室など)が列なり、池のある中庭を囲んで、またコンクリートの家に接続している。

コンクリート造りの方の3階部分に大きな客間があり、また朝倉の趣味であった東洋蘭の温室も兼ねた部屋がある。加えて屋上には屋上庭園まで設置されていてオリーブが大きく育っており、一部が家庭菜園にもなっていた。そして自作の彫刻作品が屋上に設置されている。昭和10年にこのような発想があったことに驚く。

ちなみに、この地区は戦火に遭わずに昔の建物が残ったわけだ。各部屋はコンクリートの方も木造の方も、壁材から天井材、床柱や障子の桟なども面白い木を用いたりして飽きない。よくこんな木を見つけて、ここに利用しているなと感心する。コンクリート造りの玄関の土間には栗の木の年輪を見せて、それをコンクリートに他の石と一緒に埋め込んだ三和土(たたき)もあり、また壁土に瑪瑙や貝を埋め込んでいるなど、相当にお金をかけた家である。当時から作品が海外にも売れて、大金持ちだったようだ。

庭園も面積は小さいながら巨石を配置して、池を造り、その水が流れるようにしていて、作者の意図が隅々まで通った良い庭である。井戸の水を利用しているようだ。これだけの巨石を使った庭は、そうはないと感じる。
紅葉、サルスベリの木なども植わっている。

朝倉文夫の彫刻作品は、コンクリ-ト造りのアトリエに「松井須磨子像」「井上勝像」「小村寿太郎像」、そして名作の「墓守」などがある。
ちなみに早稲田の大隈重信像も朝倉の作品であることを知る。
また猫が好きで、その猫の様々な姿態の彫刻も多く作っており、コンクリート造りの昔の東洋蘭の栽培室に、現在は猫の作品が陳列されている。

彫刻作品は写実的で、本当にアカデミズムという感じで立派である。こういう作品が基礎にあって日本の彫刻界が存在するのだという感じである。また、このような写実の作品があってこその抽象作品だとの思いも懐く。

趣味の東洋蘭では栽培方法の本も書いていたようだ。またアジアの銅器を集めたようで、コレクションの一環が、立派な陳列棚で飾られていた。

「高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの」 於国立近代美術館

日本のアニメーションで大きな地歩を築いた高畑勲を近代美術館が取り上げた。どういう展示になるのかと興味を持って観に行く。今回は妻と娘と赤ちゃんも一緒であり、妻と娘は落ち着いて観ていられなかったと思う。
高畑勲はアニメ=漫画的な軽い感じの物語にせずに、それぞれの物語に主題や訴えたいところ、またアニメの技法的に工夫するところを考え、その実現を試みている。テーマは人道的なものから社会性を持つ問題意識まであったことが理解できる。

高畑が書いたコンテやシナリオ、その前のメモなど、専門的にはどのように表現するのかわからないが、そのような資料も展示されていた。ドラえもんのアニメ化の企画書を書いたのが高畑勲と言うことも知る。

高畑勲は自分は絵を描かない監督であり、絵は宮崎駿や小田部羊一、男鹿和雄、山本二三らが手がけている。それぞれに素晴らしい。

「アルプスの少女ハイジ」が小田部羊一と記憶しているが、それまでのアニメと違って実景に近く先駆的である。男鹿和雄は「平成狸合戦ぽんぽこ」だが、宮崎監督の「となりのトトロ」も担当していることを知る。山本二三の「火垂るの墓」などにおける火事や炭の熾きたところや水などの微妙な揺らぎを描いた絵には感心した。

はじめは「太陽の王子 ホルスの大冒険」、次ぎに「アルプスの少女ハイジ」、「赤毛のアン」などのヨーロッパの物語を手がけ、それから日本を舞台にした「じゃりン子チエ」、宮沢賢治童話の「セロ弾きのゴーシュ」、そして野坂昭如の「火垂るの墓」で戦争の悲劇を取り上げ、次ぎに開発優先の日本社会に警告を発する「平成狸合戦ぽんぽこ」を製作する。
「かぐや姫の物語」(2013年)では手描きの線を活かした水彩画風のアニメを完成させている。

今回は孫もいたから、近代美術館の平常展は出向かなかった。

「バテレンの世紀」 渡辺京二 著

この本は、日本と西洋がはじめて出会った戦国時代後期から、キリシタン禁教令でオランダ以外との交流が絶えるまでの間の壮大な交流物語を書いている。倭寇や、日本の朱印船のことや、東南アジア各地にできた日本人町のことなどの記述は少ない。ポルトガル、オランダなどの西洋との交流が中心である。

ポルトガルが国王権力を社会各層の力も得て確立し、15世紀初頭に対岸アフリカのモロッコの要衝セウタを攻略する。そして金を求めてアフリカ西岸に進出する。またキリスト教国プレスター・ジョンを発見し、イスラム世界の背後を衝くという動機もあった。結局、奴隷狩りをするようになる。

その後、喜望峰をまわりインド洋に出て、ムスリム商人などが活躍していたインド洋貿易圏と接する。そしてゴヤを拠点として確保する。ポルトガル人が香料諸島のことを知ったのはマラッカ占領の後である。モルッカの香料はジャワ島北岸の商人たちによってマラッカへもたらされていた。
ただ同然の価格で集荷した丁字は、マラッカでは原価の10倍、ヨーロッパでは360倍で売れた。ポルトガルの香料、ことに胡椒貿易の支配はホルムズからレヴァント、アデンからエジプトにいたる従来のイスラム商業のルートに深刻な打撃をあたえる。

次ぎは中国だが、胡椒を中国の生糸、絹織物と交易する。当時の明は広州を南方諸国の入貢地にしていたが、ポルトガルは正式な貿易は出来なかった。明の水軍は火船の使用に長じていたのでインドのようなことは出来なかった。ポルトガル人は中国貿易の利を諦めきれずに北上して福建方面で密貿易に携わり、1540年舟山群島の一角に定着する。この倭寇から日本を知る。

イエズス会の創立からの経緯を書き、ザビエルの事績となる。ザビエルはインドに幻滅して、そこで出会ったアンジロウの聡明さから日本に期待するようになり、1549年に鹿児島に着く。平戸、山口、京都に出向いたが、滞日は2年3ヶ月で布教はほとんど成果が上がらなかった。
次ぎがトルレスだが、大友宗麟の庇護を受けて活動する。アルメイダが病院をつくることで布教は少し進む。
以降、次々と宣教師が派遣される。1563年に将軍奉公衆の結城山城守忠正、明経家の清原枝賢が入信。有力武士が入ると布教は進む。それから高山右近の父の飛騨守図書(友照)も洗礼。

そしてヴァリニャーノは少年使節団を結成してローマに派遣する。宣教師としての実績をアピールし、また日本人に西洋の素晴らしさを見せることで布教にはずみをつけようとした。当時のローマ教皇も私生児を設け、自分の甥と称していたように乱れていた。日本の少年使節は行儀良く、動作上品にして恭謙と称賛される。

曲直瀬道三も切支丹になるが、宣教師が日本の神々を悪魔と呼ぶのをやめるように忠告したが、コエリュ、オルガンティーノも改めなかった。

1586年にフロイスが朝鮮を攻めるのであれば、下(九州)をほぼ指揮下においているから協力できるというようなことを言う。この言葉に秀吉は危機感を持つ。
1587年にバテレン追放令。(一般人が信仰するのは構わない。一定の所領を給された給人は秀吉の許可)
ヴァリニャーノは少年使節団を連れて入京。1590の12月。秀吉は伊東マンショを気に入る。ロドリゲス・ツズは日本語が達者で秀吉からも信頼される。ヴァリニャーノ一行の入京でポルトガル風ファッションでロザリオ、十字架を首に吊すのが流行。京都で模造品が作られる
天草学林で印刷所が開設。

切支丹大名には次のとおりである。
織田秀信、牧村政治、蒲生氏郷、筒井定次、木下勝俊、織田有楽斎、高山右近、一条兼定、大友義鎮、毛利高政、黒田孝高、小西行長、大村純忠、有馬晴信、宗義智

トルデシーリャス条約で日本はポルトガル支配圏だが、スペイン系のフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ修道会なども進出し、イエズス会と対立する。

1596年にマニラからメキシコに行くスペイン船サン・フェリーペ号が土佐の浦戸に漂着。増田長盛が派遣され、積荷を没収。事情聴取でスペインは宣教師を先兵にして侵略の足がかりとすることがわかり、秀吉は改め江バテレン追放令。

1599年の秀吉の死後に家康は伊勢に潜伏していたフランシスコ会の宣教師ヘスースを伏見城に呼び、スペイン船の浦賀寄港、スペインの鉱山技師、パイロット招請の件でフィリピン総督に斡旋の労を依頼する。1599年江戸でヘスースの教会建設を許す。

関ヶ原後にロドリゲスは家康に面会、都と大坂、長崎の3箇所にイエズス会の会宅を於くことを認める。貿易を推進したい一心。
ウィリアムアダムスはオランダのリーフデ号できて家康に謁見。オランダとスペインの戦争などの情報をもたらす。アダムスは2隻の西洋式帆船を作る。2席目の120トンは太平洋を横断。

オランダ、イギリスが登場。朱印船貿易で日本人の海外進出がはじまる。南洋に日本人町。

1602年に家康は貿易はOKだが、キリスト教の伝導は禁止とする。
家康は1599年から1607年にフィリピン、安南、カンボジア、パタニ(マレー半島タイ南部)、シャムなどの国王に24通の書簡。朱印状を持った船だけを通商相手として信認をもとめる。海上ではオランダ、イギリスも尊重。当時、朱印状に類する海上通行証はインド洋でポルトガルが発行したカルタス、明の文引などがあった。

オランダは1603年にマレー半島のパタニに商館を持つ。オランダ船は操船、火力においてスペイン、ポルトガルの船に優越した。
英国は1613年に日本市場に参入。日本に合わない貿易品が多く、商売はうまくいかなかった。

最盛期の朱印船はミスツィス造りの船で、ポルトガル語のメスティーナ(ポルトガルとインディオの混血児)のことである。中国のジャンクとポルトガルのガレオン船の折衷様式。

禁教令でキリスト信者が殉教。この時、聖遺物を信者が争って求めた。このようなことを邪教と家康は考えた。信者数は37万人に達しており、キリスト教は強烈な侵略性(武力的侵略でなく文化的侵略)を持つと認識する。

禁教令のはじめの頃は棄教を進めても、取締側の役人の中には無理には殺さなかった。

禁教令下、つかのまの活況は東北地域。フランシスコ会のソテロが伊達政宗に招かれる。1800の信者。仙台領見分の領主後藤寿庵。大坂冬の陣後にイエズス会宣教師のアンジェリス伴う。大坂方の信者は北に逃げる。

オランダは台湾に生糸貿易の拠点を持つ。台湾占領の話が出たが、幕府は一貫して消極的だった。タイオワン事件が起こって、オランダとの間もおかしくなる。

日本人の外国船投資の形態は2つあり、一つは「委託貿易」で銀を預かり、マカオで生糸など指定の品を購入。幕府の高官も実施。
もうひとつは「レスポンデンシア」という高利の金銭貸借。マカオに帰るポルトガル商人に貸与して、再来航時に元利を償還させる。船が遭難するリスクがあるので、金利は25~40%になる。

幕閣は何度禁教令を出しても宣教師を連れてくるポルトガルを憎む。迫害が激しいほど日本に来て、この宣教師のために住民がいらざる血を流すとの思いを持つ。そこでマカオ、マニラの占拠をオランダに促したりする。

島原の乱が勃発するが、宗教戦争か農民反乱かに解釈の違いがある。松倉藩の暴政。飢饉はあったが、天草四郎という天使の出現は、西洋の千年王国運動(信者共同体的、現世的、忽然とあらわれる、超自然的奇跡)などで少年が群衆を動かした事例と似ている。
オランダは天草で砲撃に加わり、キリスト教徒に砲撃しているのはまずいから、百姓一揆と伝える。

1635年に日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁じ。
1636年に日葡混血児を国外追放。出島に隔離。
1638年に島原の乱が終息。
1639年にポルトガル人の追放。この前提にオランダがポルトガルのかわりに生糸、絹織物を調達できるかとオランダ商館長カロンに何度も確認。

ファーストコンタクトの時は両者は文明的に対等であり、キリスト教問題だけが相容れなかったわけだ。曲直瀬道三のアドバイスのように、他宗に寛容ならば広く広まった可能性はあるのだろう。

「博物館でアジアの旅 LOVEアジア」、「VR刀剣」於東京国立博物館東洋館

国立博物館に出向いた時に、時々東洋館に出向くが、本館や平成館で観たあとに出向くので疲れてしまい、熱心には観ない。これは私だけでないようで観客は少ない。今回も東京都美術館でコートールド美術館展を観たあとに出向く。
東洋館にはアジア各国の美術品、出土品が展観されており、地下にはミュージアムシアターという上映施設があって別料金で美術品を詳しく映像で紹介している。今回は「VR刀剣」として現在本館の方で展示中の三日月宗近と岡田切吉房を紹介している。妻に観てもらうのにはいいかと考えて入るが、妻は東京都美術館、東洋館と歩き回った末であり、寝てしまいあまり観ていない。岡田切の華やかな刃文はよくわかる。また映りの状況もよくわかるが、地鉄までは無理である。三日月は号の由来となった「打ちのけ」はわかるが、それだけである。刃文、地鉄はわからない。もっとも姿はわかるが、この二振だけで姿の違いを述べても、初心者にはわからないだろう。

東洋館では、今回はアジア各国の美術品において男女の愛を画題に取り上げたものに焦点をあてて展観している。
地下1階にはインドネシアのもので、影絵人形などである。パンフレットには影絵人形の上演がある日が紹介されていたが、本来の劇で見る方が面白いだろう。
またインドの細密画があるが、中にはエロチックなものもある。日本の浮世絵における一分野と同じだと感じた。
この階にはカンボジアのクメールの彫刻も陳列されている。
1階は中国の大きな仏像などである。北魏などの石窟寺院にあったようなものである。
2階のインド・ガンダーラ地方やアフガニスタンなどの仏像は美男であり、やはり日本、中国のとは違う仏様である。イランの銀細工や陶磁器もあった。シルクロードを戦前に出向いた大谷探検隊の軌跡や持ちかえった品が展示されていたが、偉い使命感である。
3階は中国の古代の出土品(殷の銅器)や中国の唐三彩の枕などがある。殷の銅器は凄いものだと思う。根津美術館のコレクションに改めて思いがいく。
4階は中国の絵画や書である。書には新しい時代のものも並べられていた。絵画は今回は宋の山水画などは目に付かずに、風俗画で、扇面に描かれたものが多く陳列されていた。テーマが愛だから、そのような画になるのだろう。
5階は中国や朝鮮の陶磁器や玉を彫り込んだものなどである。中国や朝鮮の美術品では青磁などの陶磁器がやはり素晴らしい。

コートールド美術館展 於東京都美術館

コートールド美術館とはイギリスのロンドンにあり、レーヨン製造で富を築いたサミュエル・コートールドが蒐集した美術品を基本財産としている。
印象派とポスト・印象派の作品がメインのようで、今回の展示ではマネ、セザンヌ、ゴッホ、ルノアール、モネ、ピサロ、シスレー、スーラ、モディリアニ、ロートレック、ドガ、ゴーガン、ボナール、ロダンなどである。
この美術館は、美術史や保存修復に定評のあるコートールド美術研究所の展示施設という位置づけであり、絵画の技法、背景、画家の意図なども調べており、本展覧会でも、そのような視点で、展示作品を「1.画家の言葉から読み解く」「2.時代背景から読み解く」「3.素材・技法から読み解く」に分けて見所を解説するような展示をしている。

セザンヌでは「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」など風景画は5点の展示だが、”様々な緑の使い方が美しい”と思う。そしてその中に茶、オレンジ系で木々を入れたりしており、これは緑の補色関係にあって、お互いの色を引き立てていると気が付く。
セザンヌは他にも重要な作品が4点、展示されており、その中の「カード遊びをする人々」は同じような構図の作品が他にもあるが、解説にトランプ遊びをしている2人の座高が異常に高いとあったが、改めて見ると「成る程」と思う。
「パイプをくわえた男」も印象的である。「キューピッドの石膏像のある静物」はキュビズムに前駆する作品で興味深い。またセザンヌの手紙も展示してあった。

マネも重要な作品も含めて3点の展示がある。「フォリー・ベルジェールのバー」は鏡の前のバーカウンターに女性のウェイターが立ち、後ろの鏡に店内の様子などが画かれている。その鏡への映り方が不自然なのだが、X線か赤外線は忘れたが、それで分析して当初の絵、絵の位置と塗り直した後の関係などを分析している。当時のパリの風俗=やや退廃的な雰囲気を感じる。またマネという画家は人物を配する構図に新基軸を出した画家なのかなとも感じた。
「草上の昼食」はオルセー美術館所蔵品が有名だが、それと同じ構図の作品だ。森にピクニックという当時の風俗に、男女3人の内、女性が全裸という一種の退廃を感じる。オルセーの作品より小さいサイズで、筆が堅いような感じである。

ルノワールも彫刻も含めて6点ほどあり、中には風景画もあり珍しい。「桟敷席」はオペラの桟敷席の風景を、見上げる構図ではなく、逆に少し上から観るような構図で、着飾った女性と、オペラグラスで他の桟敷席を見る男性が描かれている。この女性がどのような人かわからないが娼婦のような感じもする。
「靴紐を結ぶ女」はいかにもルノアールらしい肌にやわらかい赤味を帯びた少女である。

ゴッホの「花咲く桃の木々」は日本の浮世絵風景画のように、遠景に富士山のような山、前面には桜を思わせる桃の花が咲き誇る果樹園を描いている。

ドガの「舞台上の二人の踊り子」における踊り子は、躍動感がある。画面の下部に何もない舞台を広く取っている構図が新鮮である。なおルノアールと同様にドガは彫刻も作っているが完成したのは少ないとある。オルセー美術館で踊り子の彫刻にバレエの衣装を着せているのがあったが、ルノアールにも彫刻があるように、この時代は画家と彫刻家の垣根も低かったのだろうか。

ロートレックの「ジャヌ・アヴリル、ムーラン・ルージュの入口」はモデルの女性は当時のパリで有名な女性だったようだが、悪意を持って描いたようで、えらく歳をとっているような女性になり、顔も美しくない。縦に筆を使った跡が目立つ。

モディリアニの「裸婦」は、平面的な筆致で縦長のキャンパスに描かれたデフォルメされた裸体なのだが、顔と身体が違った筆致で面白い。

スーティンの「白いブラウスを着た若い女」はスーティンらしい女性の表情で、「また、この顔か」と思うのだが、私は好きだ。

ゴーガンも4点出品されていて、フランス時代の風景画からタヒチを描いた「ネヴァーモア」(寝そべる裸婦の眼が気になる)と「テ・レリオア」(床に座り込む人物2人の姿態が印象的)も展示されており、見応えがある。以前はゴーガンには関心が無かったが、最近は何か気になる画家である。

ルソーの小品「税関」は、ルソーの前職の職場を描いたただ1点の作品とのこと。

絵に付けられている額が、所蔵者コートールドの好みなのだろうが、私はあまり好きではない。
<コートールド美術館展の案内ページ>
https://courtauld.jp/contents.html

「美の猟犬 安宅コレクション余聞」伊藤郁太郎 著

この本は安宅産業で、安宅英一氏に仕え、安宅氏が美術品を蒐集する時に補佐していた著者が、安宅氏の思い出、人柄、蒐集態度、蒐集の裏話などを書いた本である。実際の安宅氏のコレクションである中国陶磁、朝鮮陶磁の名品の写真と解説もあり、そこは美しく楽しい。

「美の猟犬」とは安宅英一氏のことかと思い、違和感を感じていたが、著者の伊藤氏のことなのだろう。安宅英一氏という主人に忠実に仕え、主人が獲ろうとしている獲物(美術品)確保の手伝いをする。もちろん、優秀な猟犬である。

安宅英一氏は安宅産業の創業者安宅弥吉氏の長男で、後に社長にはならずに会長等を歴任した。
自身もピアノを学び、英国に派遣されていた時にも学んでいる。後には若手音楽家を支援し、東京芸大には安宅賞奨学資金を寄贈している。

武智鉄二と親交があり、武智が蒐集していた速水御舟の作品を一括購入する時に、会社の資金を会社で出すことを決めて、以降、安宅コレクションは充実していく。(だから安宅産業が倒産した時に、会長の美術品道楽に一因と批判される。しかし私は思う。現在、安宅の名前が尊敬の念を籠めて語られるのは、世界に冠たる安宅コレクションがあるからだ)

安宅コレクションの内、速水御舟の作品群は山種美術館に有償譲渡されて、山種美術館の目玉として保管・展示している。大元のコレクターが武智鉄二だったことは、この本で知った。
東洋陶磁の方は、住友銀行主導の住友グループ21社が大阪市に基金を寄付して、それで安宅コレクションを買い取り、また大阪市立東洋陶磁美術館を建設して保管・展示をしている。著者の伊藤氏は館長に就任している。住友銀行も評判の悪い面もあるが、このように立派なことをしている。

安宅氏の人柄で印象的なのは寡黙、おじぎが非常に丁寧で美しい、欲しい美術品を蒐集する為の熱意・執念である。また有力骨董店に自ら出向いて何気なく情報収集する態度である。愛好家に蒐集した品物を見せる時は、その展示の順序等まで気を配っていることである。また展覧会での展示の時は、見せる面等にも神経を使ったことが記されている。
ともかく、良い骨董商が付いて、欲しいものには金に糸目をつけずにという態度でないと名品は集まらない。

「図版・解説」にコレクションの名品がカラー写真とともに掲示されているが、写真だけ観ても素晴らしいものである。この30頁だけで楽しい。

猟犬こと伊藤氏の就職した時の様子、折に触れて安宅英一氏に試されるような様子が記されているが、私なら、とうてい勤まらない役割である。
日経新聞社長の圓城寺次郎氏のこと、それぞれの名品の蒐集エピソードなども興味深い。

「武士道 侍社会の文化と倫理」笠谷和比古 著

興味深く、読みやすく、内容が豊富な本である。武士道に関する本としては、新渡戸稲造の名著「Bushido」が有名だが、学会からは「武士道は明治になってから作られた造語である」とか、津田左右吉のように武士道賛美論に反対する意味も含めて、武士道とは裏切りと下克上の暴力的行動だと述べる向きもあった。
この本で著者は「武士道」という言葉が出ている江戸時代の書物から、武士道がどのように説かれていたのかを明らかにしている。
中世社会では「弓矢取る身の習い」「弓矢の道」と言われていた。「武士道」という言葉の初期の例として、加藤清正の『清正記』とか『武功雑記』に伊達政宗の言葉が紹介されている。そして『甲陽軍鑑』(小幡勘兵衛景憲が集大成)には武士道が頻出している。高坂昌信が述べたとされる言葉などにである。
また往時のキリスト教宣教師が編んだ『日葡辞書』には「武士道」は無いが「武道」の見出しはあり、そこに”武士の道”とある。なお「弓馬」の見出し語にも同じ意味がつけられている。

以下、近世前期(17世紀)の書物として『甲陽軍鑑』、『諸家評定』、『可笑記』、『武士道用鑑抄』、『七種宝納記』を取り上げ、内容を紹介している。
勇猛果敢に前線に出て敵と戦う振る舞いを勧め、未練を取るな、先祖からの家名を断絶するな、親兄弟の仇討ちをしろ、主君の御用に立つことだけでなく、次のような徳目も強調している。
悪質な嘘をつくな。「武士に二言はない」(正直)、自慢するな、暴慢の態度を取るな(謙虚)、武道具を愛好しないで不要な金銭を費やすな(節制)、おべっかを使うななどが尊重されている。それから証拠に基づいて述べることも強調している。
また少しは漢籍、芸事も学べと述べる本もある。

近世中期(18世紀)になると『葉隠』、『武道初心集』、『武学啓蒙』など、武士道をより体系的に論じた本がでる。
『葉隠』(山本常朝)で「死ぬことと見つけたり」は、そのような心構えを持つことで武道に自由を得て、落ち度無く家職を全うできると説く。死狂いの行為で、そこに分別など生じてくれば、主君に対する忠義も親に対する孝行もできないと言う。

また著者は、武士道の慣行としての「武家屋敷駆込慣行」を取り上げている。幕府、諸藩も禁じているのだが、武士道には存在し、18世紀中頃の『古老茶話』(柏崎永以)で「徳川家中は人を斬りたる駆込者があったり、かくまってくれとの駆け込み者があっても武士道をもってかくまうことのないのが大法で、一般の武家屋敷とは違う」と書いている。
『明良洪範』(真田増誉)にも徳川頼宣が当家は御三家だからとして、上記同様のことを述べている。
時の刑法である『公事方御定書』に頼まれて隠した者は追放とある。しかし徳川吉宗は武士が盗人を隠すのと違う事情のある場合は急度(きっと)叱申すの軽い刑にすべきと加筆している。徳川宗家も「武家屋敷駆込慣行」をある程度容認していたのだ。
その背景として、武士道には忠、義、勇の他に頼もしき意地も大事で、「頼む」と言われ、「頼まれたぞ」と応諾したら、守るべきということがあると書く。

それから「敵持ちたる者は随分討たれぬようにするが誉れなり、いか様の事なしても逃げるがよし(中略)随分逃げて返り討ちにするのはなお大手柄」とある。
武士道は仇討ちを奨励するが、それから逃れ、返り討ちにするような武士も認めている。すなわち徹底的なサバイバルの思想で、死ぬことだけを勧める思想ではないと説く。

近世後期(19世紀)では『尚武論』では中国の儒教の孝行よりも、主君への忠義が大事。真田家の当主が親とは別に徳川方についたりしても非難されないのはその為と儒学を批判している。
これは、忠の見返りに知行・俸禄をもらう。それが武士の家。忠を通せば家が持続できる。それが孝となる。儒教を中心とする中央集権国家が孝を第一にするのと違うとする。
その忠に関して「主君押込」があった。すなわち主君が悪いと、家臣が諫言し、それでも直らないと家臣団が主君押し込めるということである。

切腹とは自らの責任の重さを自覚し、その責任を回避することなく自ら敢然と引き受ける態度の表明。

礼儀は名誉の観念と不可分。無礼が名誉の毀損になり紛議につながるから礼儀が大切。

武士は事実尊重。証拠主義。空疎な観念論的議論を嫌う。事実を重視し、事実認定の根拠となる証拠を重んじる。イコール嘘を嫌う。儒教と大きく違う。
戦場は動くから、現実に即して対処が必要ということである。
ヨーロッパの騎士道は女性は常に保護の対象。日本は女性にも開かれていた。

そして、著者は武士道における信義・信用重視は一般庶民にも広がり、これが近世の発展に道をつけ、また幕末当時に、日本が植民地にならないのは①強い危機感を持って国防の必要性を早くから説く。オランダから世界情勢を仕入れていた。②欧米強勢の元は巨艦と大砲と現実を正しく認識し、それを学習しようとし、ペキサンス砲(ナポレオン戦争で開発。射程1500㍍におよぶ炸裂弾丸を放つ)の重要性を、幕府は江川英龍、諸藩では薩摩藩、佐賀藩、長州藩が認識・製造していた。そして薩摩は砲でイギリス軍鑑を撃退している。

相手の強さを証拠で確認し、負けじ魂を発揮して独立の気概で、良いものは良いと学習する態度が武士にはあった。
儒教的論理は大義名分論で、自国は中華で文明の中心、外国は夷狄で野蛮。だから中華が夷狄を教化して文明世界に広める。夷狄からは学ばないという国とは違っていた。

「みんなのミュシャ」展 於Bunkamuraザ・ミュージアム

ミュシャは以前に国立新美術館で開催された「ミュシャ展」を観ており、その時はアールヌーボーの旗手というミュシャのイメージを覆す「スラブ叙事詩」に驚いたことを思い出す。50歳時に故郷のチェコに戻り画いたという
(その時のブログ) https://mirakudokuraku.at.webry.info/201703/article_15.html

今回の展示は、ミュシャの描いた作品が時代を超えて、60~70年代のアメリカ若者文化や、現代の日本の漫画・ゲームに影響を与えていることを示す狙いもあるようだ。
もちろん、これらに影響を与えたのは重たい「スラブ叙事詩」のミュシャではなく、アールヌーボーの華やかで優雅な女性像のミュシャである。

これらのミュシャの作品は”Qの字の構図”になっていると解説されていたが、確かにQ字形の枠・背景に黄道12宮を描いたり、花を描いて装飾し、そのQの中に女優サラ・ベルナールのような華麗な女性像を描き、Qの下部に足の部分をを形造るように描いてQの字を完成させるという構図である。

装飾に使って描いた花などは日本や東洋の花模様の影響を受けていることを示す展示物もあった。

今回、鉛筆、木炭のデッサンが展示されていたが、強い線、優しい線、優雅な線、厳しい線、太い線、かすかな線と使い分けていて見事なデッサン力である。この展示の中で欲しいものは、これらのデッサンである。

各作品に女性の優雅で魅力的なポーズをとらせているが、それは当時生まれた写真で被写体の連続的な動きを撮り、それら写真の被写体における体の動きを描いていることがわかる展観であった。このようにして身体をくねらせた優美な女性像が生まれたのだ。

ミュシャは、本の挿絵画家として認められていき、当時の有名女優のサラ・ベルナールの舞台広告ポスターで脚光を浴びる。ある面で、売れる絵=人気が出るような絵を画いていたわけだ。だから晩年に「スラブ叙事詩」のような自分の心が画きたいような絵を画くようになったのだろうか。

ミュシャの影響は日本では与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙絵(藤島武二)などが嚆矢で、現代の漫画家、ゲーム作者に伝わっている。
欧米では60年代のレコードのジャケット絵に見られるとして、これらの作品が展示されていた。若い人にはこのような展示がいいのだろう。

京の食(いづ源、グランドビュー:ウェスティン都ホテル京都)

土曜日、石清水八幡宮から京阪電車で四条河原町に出て、四条通り界隈を歩く。外国人が多く、東京の銀座通りよりも多く感じる。歩道が狭い分だけ、そう感じるのだろうか(親戚から、これでも以前よりは少なくなったと聞く)。中には浴衣を着ているカップル、グループもいるが、女は女郎みたいに着崩れ、男はチンチクリンの丈の着物で、貸衣装屋さんももう少し指導をしたらどうだろうか。着物の良さ、美しさを損なっている。

四条の「ぎぼし」でお昆布を買い、そこの店主に鱧(はも)寿司が食べたいから、どこか美味しいところを紹介して欲しいと頼むと、近くならば「いづ源」が良いと紹介してくれて、電話をかけてもらう。
鱧の季節も終わりに近く、一本しかないが、これから調理すると30分以上かかると言われる。では鯖寿司にしようかと思い、出向く。
鯖寿司と穴子、鯛の3種の寿司を食べたが、昆布、鰹の出汁で炊いた酢飯を使っているとのことで、醤油無しでいただく。全体に甘めであり、後口に残る。
穴子は柔らかく、甘いが、しつこい甘さではなく美味しい。鯖は適度に脂がのり、歯ごたえのある肉厚で、上に昆布があるとは気が付かない。
鯛は実に柔らかく感じて驚く。蒸してあるのか、包丁を細かく入れている為なのかはわからない。
寿司、一つ一つの大きさが大きく、一口に食べるには大きく、箸で割るには中途半端である。
おかみさんから、昨今の京都の観光事情や、仏光寺さんの状況を教えていただく。

法事は蹴上の仏光寺本廟で執り行われた。仲の良かった従姉妹の一周忌だ。親戚で集まるのがこのような席ばかりになるのは寂しい。

法事後に、隣りのウェスティン都ホテル京都内のフランス料理の「グランドビュー」で精進上げとなる。
料理ではジャガイモの冷たいスープも美味しく、次の鯛のグリエという鯛の白身に焦げ目をつけたものが絶品であった。牛フィレのステーキに野菜をミルフィーユのように仕立てた付け合わせなど、野菜をうまく使っていると感じる。

ここは京都の街並みが一望でき、それで店名が「グランドビュー」なのであろう。お客さんからも聞かれるからだろうが、テーブル上にここからの眺望をパノラマ写真に撮り、場所の説明をつけた栞が置いてあった。

今回の京都では、食事は鯛の旨さを再認識させらたこと。もう一つは石清水八幡宮展望台からの京都遠望、ウェスティン都ホテル(東山)からの眺望と、京都を上から見る機会に恵まれたことである。
この席で従姉妹のご主人から、京都には知恩院の裏から東山将軍塚に登るルートや、清水寺の奥にある登山道などがいくつかあり、そこに登るハイキングも楽しいという話を聞く。

石清水八幡宮

土曜日は石清水八幡宮に出向く。行きはケーブルカーを使用したが、帰りは参道を歩いて降りる。下りだが、かなりきつい歩行であった。往事はこの参道がメインであり、参道沿いに坊の跡がいくつか残っていた。松花堂昭乗が住した跡もある。

展望台が素晴らしい。ここ男山は京都の南の入口に当たる場所に位置し、向かい側の山が天王山である。そして眼下に木津川、宇治川、桂川の3本の川が流れ、これら3本の川が淀川として合流して大阪湾に流れ込むわけだ。木津川は伊勢の鈴鹿山脈から、宇治川は上流が瀬田川で琵琶湖からと、京都の北の山が流れ出た水も鴨川となって宇治川に流れ込んでいる。そして桂川は保津川、大堰川として丹波亀岡の方の水を運んでいる。

往古は河川水運が大事な流通経路であり、この地の水運がいかに恵まれていたのかが理解できる。だからそこに淀城が建ち、伏見桃山城が立地していたのである。
もっとも3川が集まる場所であり、往古は巨椋池という巨大な池というか湖が存在していた。

陸路も大坂方面からは天王山と男山に挟まれたこの場所を通るしかなく、言い換えれば都の防御の要であり、豊臣秀吉と明智光秀の天王山の戦い、幕末には鳥羽伏見の戦いの地である。鳥羽伏見の戦いで、伏見やこの地は火災に巻き込まれる。

展望台からは、遠くに京都タワーが見えるが、それが京都市内である。そして北東の方角に2こぶの比叡山がある。すなわち都の鬼門を守った延暦寺があり、その対角線の裏鬼門に男山の石清水八幡宮があるということになる。

山頂に御社殿があり、全体が国宝である。徳川家光の修復である。日光東照宮の欄間彫刻と似ている。三ノ鳥居の近くに一ツ石というお百度参りの起点になる自然石が埋められている。そこから南総門に到る。門内が狭義の境内である。取り巻く築地塀は信長塀と言われ、織田信長の寄進で、塀に瓦が埋め込まれている。本殿の後ろには若宮社、貴船社、住吉社なども祭られている社殿がある。本殿は南総門からの参道とちょっと外した向きに建てられているのが面白い。

この本殿の回廊に架けられている灯籠が、加納夏雄の名作の小柄のモチーフである。
大樹も多く、境内の中にはカヤの大木があり、回廊の西側の外には楠木正成の楠という大樹があり、立派である。

麓には頓宮殿があり、隣りに高良神社がある。山を登るのが大変な人は、ここで参拝したのであろう。その横に巨大は石の五輪塔がある。鎌倉時代建立とされるが詳細はわからないようだ。また頓宮を抜けて一ノ鳥居の横に放生池があり、蓮が咲いていた。

清水寺 成就院 CONTACTつなぐ・むすぶ・世界のアート

昨日、法事で京都に出向いていたが、朝にホテルのTVで、標記の催し物が9/1~8までの間に清水寺で開催されているというニュースが流れた。京都で開催されている芸術に関する国際会議に連動した催事のようだ。
そこで展示されている芸術はともかくとして、普段は非公開の成就院が公開されていると聞いて、急遽、タクシーで出向く。
当日券は1800円で、成就院と経堂で催事は開催されている。また西門には門に提灯がぶら下がっているように加藤泉の作品が掲げられている。
初日のせいなのか、はじめての開催のせいなのかはわからないが、多くのアルバイトのスタッフがいたが、手際が悪く、腹が立つ。チケットの販売所、成就院のそれぞれで長蛇の列で、成就院の中での茶室の入室は8人までだからとして、成就院に入ってから40分後の整理券を渡される。この茶室では森村泰昌のゴッホの映画が上映され、宮沢賢治の「雨にも負けず」の手帖が展観されているとのことだが、法事の予定があり、キャンセルした。
経堂も、そこで40人程度が入室しての音楽ライブに映像というものがあるとのことだが、出向かなかった。目的は成就院の庭である。

成就院の庭は池に石を多く配置し、松や紅葉などの多くの木々を植えている庭園だが、山の斜面を利用して、加えて各植木(密集した枝葉を持つ)の上面をカットするような植栽技術で7~8段くらいの段差を演出していて面白い。遠景には建物は見えずに、高い樹木がそびえる空である。深山幽谷を意識したのかもしれない。月見に良さそうな庭である。
成就院の縁先から眺めるのに丁度良いような広さである。多くの木々の緑の色彩の階調が美しい。池の周り、池の中の石も様々に変化があり、コンパクトで整理・計算された良い庭である。自然を人工的に加工した、あるいは庭師の作意を自然も利用して表現したような庭である。

なお、縁側には三嶋りつ恵の「光の目」というガラスの玉を多く配置している。また床の間にミヒャエル・ボレマンスの墨で軸装された「くちなし(2)」という作品と、ルーシー・リーの「マンガン釉を施した台鉢」があり、横にマティスの「ばら色のドレスを着た婦人」の油彩が懸かっている。この絵は専門家に洗ってもらうと、もっと色彩が鮮明になるのではないか。

また棟方志功の襖絵「群鯉図」が襖のように室と室の間にセットされて展示されていたが、寺に合うような作品ではない。鴨居の上には猪熊弦一郎の「無題」(マティスのようなダンスの絵)が掲げてあった。

このように違和感も感じるように置くのが、演出した原田マハ氏の狙いであり、それは驚きも感じさせていいのだが、昔から美術品を置くべき所(床の間、襖絵、鴨居の上)にあるのはいいのだが、床に置いた机の上に河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、ロダンなどの作品が並べておいてあったり、小津安二郎の絵コンテ、手塚治虫のブッダの原画、川端康成の原稿に東山魁夷が挿絵を入れたものなどが廊下や室に置かれているのは成功とは言えない。照明も悪いし。

清水寺の舞台は改修中であり、それでも、こちらに入る時は別途料金が必要とのことである。京都の親戚も「清水はんは、ようけ取らはります」と言っていた。

昔を思い出して、清水寺から三年坂、八坂の塔、下河原、円山公園、知恩院、青蓮院から、法事のある蹴上の仏光寺まで歩く。

「黒船以降」 山内昌之、中村彰彦 著

副題に「政治家と官僚の条件」とあるように、幕末の各人物の事績・人柄を著者2人の対談で浮かび上がらせている本である。内容豊富な面白い本であった。山内氏はイスラム史など世界史の権威であり、幅広い視点も面白い。中村氏は歴史小説家で幕末の会津のことなどを書いて、幕末の歴史全体に豊富な知識を持つ。

本は「徳川官僚の遺産」「徳川斉昭と水戸学」「薩摩と長州」「一会桑」「ふたたび徳川官僚の遺産」という5章に分かれている。各章で徳川幕府の官僚群の優秀さを指摘している。

各章のタイトルが、その章のメインのテーマだろうが、「徳川官僚の遺産」では小笠原諸島が日本領となった経緯や日本が植民地にならなかった世界史的背景を整理していて興味深い。
小笠原諸島には、ハワイ先住民や白人が住み着いていて、ペリーは貯炭場としようとしていた。イギリスも立ち寄り、基地もあった。イギリスが領有権を主張するも、アメリカは日本と開国交渉中であり、日本領と認めた上で借りればいいと判断。

日本が欧米の植民地にならなかったのは①幕府はアヘン戦争の教訓を学んだこと。②アヘン戦争はイギリス国内でも評判が悪く、イギリスも控える。③幕府も薩長も太平天国での内戦の悲劇を知ったこと。④アメリカは南北戦争が最優先。⑤イギリスとフランスがアヘン戦争からアロー号事件で中国にかかりきりだった。⑥クリミヤ戦争で、英仏両国とロシアは交戦中。

「徳川斉昭と水戸学」の章では、水戸藩が難治の地であったことを語る。光圀は検地で1間6尺3寸を6尺にする。28万石が36万9千石になる。そのため3年続けて飢饉。実質は15万石。観念を優先させる。次の代に石高が35万石と認められるが格式だけ。幕末の実収は約6万石程度。
家臣団も混成で、4割が武田信吉(家康5男)と一緒に来た武田遺臣団、それから佐竹の遺臣、徳川直参、北条家に仕えていた人、土豪などが交じる。
加えて藩主が江戸定府であり、家臣団は江戸と国元の対立しがち。
これで、幕末に壮絶な党派争いで消耗する。復讐劇が終わるのは明治の代。

「薩摩と長州」では、長州は後に瀬戸内海交易で資本を蓄積。塩田開発も行い、20万石以上は塩でまかなえる。八代重就の時に撫育方が設置され、開発方として検地を行い、特別会計にして、米、紙、塩田開発、はぜろうなどの増産を行う。宝暦検地では長州藩は支藩も入れて90万石くらいになる。明確にはわからないが朝鮮などと密貿易をやっていた。
長州はお金があったから京都でも遊ぶ、だから人気があった。会津はもてなかった。

薩摩は藩主も実際に戦うことで外交力を発揮(関ヶ原も)し、造士館で中国通詞を養成して、琉球を通じた貿易、密貿易をしている。砂糖の収入も大きかった。薩摩は飢饉のがなかった国である。武士が多く、独特の二才(にせ)教育。

長州は井上聞多や伊藤俊輔が英国に留学して、攘夷派から開国派に転じ、高杉も上海に渡っている。彦島の租借の話があったとき、条約をするなら英国は長州を一つの国と認めたことになる。今後、英国は日本の300諸侯の国家を相手にするのかと言い出す。

「一会桑」とは一橋、会津、桑名藩のこと。このグループは京都にいて、江戸の幕閣とも対立していた。長州や薩摩の当初のターゲットは会津ではなかったか。それが倒幕になった。
会津藩は秋月悌次郎が薩摩の高崎左太郎とルートがあり文久の政変を主導したが秋月は蝦夷に左遷されて情報ルートが無くなる。
桑名は11万石だが、柏原の飛び地が6万石であり、兵力の影は薄い。ただ立見尚文の軍は強かった。一に桑名、二に佐川…会津の佐川官兵衛、三に衝鋒隊…見回り組と幕臣と称されていた。
会津は京都に残り、長州征伐に参加しなかったから、長州がゲベール銃からミニエー銃になり、後にスナイドル銃、スペンサー銃と改革していく動きに会津は遅れる。
ドイツのスネル兄弟は、故国プロイセンを北方諸藩に見立てて支援。兄は松平容保の軍事顧問のようになり平松武兵衛という名前をもらう。明治維新後に会津藩の遺臣の家族40人をつれてカリフォルニアに移住。ワカマツ・コロニー。しかし失敗して行方不明。
長岡の河井継之助がガットリング砲を購入したのもスネルからである。

「ふたたび徳川官僚の遺産」ではイギリスは自国の名誉革命をイメージ(カトリックを国教としようとしたジェームズ二世を追放し、オランダからオレンジ公ウィリアムを招きいれて、人民の権利の章典を定め、立憲君主制に移行)して薩長を支援し、フランスの公使ロッシュは幕府を援助して、ナポレオン三世の役割を慶喜が果たすことを期待したのか。

榎本武揚はオランダ留学中に赤松則良とともにプロイセン、デンマーク戦争を視察。小さな王国が同じ君主を懐いて連携。だから蝦夷共和国の発想をもったのではないか。維新後に黒田清隆が北海道開拓の長官になるが、榎本を助命して、徳川のテクノクラートを蝦夷に招く。

「語り継ぐこの国のかたち」半藤一利 著

この本は著者が色々な雑誌等で発表したものを取りまとめた本である。表題に含まれる「この国のかたち」とは司馬遼太郎の造語であり、評論である。それを借りて、老齢になった著者の思いを書いたものをまとめている。
著者の言わんとするところは次の通りである。「2度と戦争をするような国になるな」、「政治家は正しく、国の現在及び将来の本当に為になることを実施する信念を持て」、「世の動きに迎合せずに常に正しいことを言う勇気が必要」、「言論の自由が社会を健全にしていく鍵だから大事にしろ」、「本当の知識人とはどのような人物かを小泉信三を例にして説く」、「日本、及び日本人の美点を大事にして後世に伝えていけ」、「歴史を学ぶのは過ちを繰り返さないために大事」ということである。
これらを事例を交えて具体的に説いている。

戦争にからんでは、統帥権の問題、当時の参謀の無責任体質(服部卓四郎、辻政信)などを司馬遼太郎との対話の中などから書いている。

信念を持った政治家として例に上げたのは陸奥宗光のことである。また世に迎合せずに正論を吐き続けた石橋湛山のことを書いている章などが参考になる。
小泉信三のことだが、人に面と向かって言えないことを、言論の自由の美名のもとで書いてはいけないと述べられていたそうだ。

司馬遼太郎のことも日本、日本人の美点の章で書いており、彼が晩年に嘆いていたことが記されている。また晩年にノモンハン事件のことを取材していた事実を明らかにして、その執筆を断念した理由なども参考になる。須見新一郎連隊長(小松原道太郎師団長の無謀な命令を拒否したこともある)という見識のある軍人を取材していたが、司馬遼太郎と瀬島龍三がどこかで親しげに対談されている記事を見た須見氏から、あんな人物と付き合っている人との取材は拒否するし、これまでの取材内容も無かったことにしてくれと言われたようだ。

「真田丸の謎」千田嘉博 著

この本は大河ドラマ「真田丸」開始の2ヶ月前に出版されており、便乗本の一つである。
従来、真田丸は大坂城の外側に張り出していたと考えられていたが、広島浅野家の文書に「摂津 真田丸」というものがあり、それは大坂城とは離れた場所にあって、当時の地形を生かした出城であったことが判明した。
このことも、NHKの番組でも取り上げており、それを本にしたものである。「1.真田信繁と大坂の陣」「2.真田丸の謎に迫る」「3.真田氏の城づくり」「4.戦国の城から天下人の城へ」「終章.真田丸を歩く」に分かれているが、本のタイトルに関係するのが、1章、2章と終章であり、分量が不足するから著者の城郭に関する知見を半分の分量ほど挿入してある。もっともこの部分(4章)は中世の城郭を理解する上で参考になった。

さて真田丸は、現在の明星学園を中心とした場所にあり、北側に小曲輪があった。三光神社の区域とは低地を挟んでいた。真田丸と大坂城との間には約200㍍にも及ぶ谷(清水谷)がある。だから大坂城からの援軍も期待できない背水の陣を敷いたことになる。豊臣側が新参の真田信繁に真田丸構築を許したのも、ここなら真田が裏切っても大きな影響はないと判断したからではないかと著者は考える。前面に徳川軍が来るわけであり、危険な部署であることは間違いがない。
なお三光神社境内などにある真田の抜け穴とよばれるものは、徳川方の塹壕ではないかと述べており、なるほどと思う。

戦国時代の城について、当時の社会の成り立ちの変化から説明しているのがなるほどと思う。この時代、武士だけでなく、有力な寺社も、自治的な都市も村も、城を構えて、生命と財産を自力で守っていたわけだ。
戦国後期は戦国大名が山城(200㍍くらいの高さ)と、平地に館城を構え、平時は館城で政務をとり、戦時に山城(200㍍くらい)で戦う。
武田信玄は本拠は館城だが、領地の「境目の城」は戦争用に馬出しなども構築して作る。この伝統を真田氏も受け継ぐ。北条氏も支城のネットワークを作り、堀には障子堀という堀の中に凹凸を障子のような畝を作って渡り難い工夫をする。横矢(横から攻撃)ができるような建物の配置も考えている。上杉氏も畝状空堀群をつくる。

「境目の城」は軍事用で中央からの司令官が住むが、平時は家臣団(国衆)は本拠のまわりに集まっているだけ。大名と家臣の力が拮抗した連合勢力で、まだ中央集権ではなかった。だから負けると、国衆の裏切りも起こりやすい。

織田信長は重臣に信頼されなかったから、自力で親衛隊を作る。そして中央集権で重臣を従える形で城下町に集め、住まわせるようになる。そこから城の天主が立派になり、城下町となる。信長の城は小牧山城でつくられはじめ、本丸を特別な空間とした。岐阜城はさらにそれが進む。安土城は天主と自分を神のようにした。家臣は山麓から身分に応じて序列化された屋敷を与えられる。
秀吉は大坂城という私の城とは別に聚楽第(実質は城)という公の城を作る。秀次事件後に聚楽第は壊され、公の城は伏見城になる。その城に秀吉の死後、家康が入り、天下人の一歩とする。
二条城は関ヶ原後に家康が京都に作った公の城。そこに秀頼を呼びつけたことも大事なセレモニー。

一国一城令、元和偃武は、江戸時代において、各藩で大名が偉く、以下君臣関係の序列が必要になったということを反映して、信長、秀吉が作った城をマネして、階層的に本丸、二の丸、三の丸ができる。。

惣構とは、中に城だけでなく保護すべき民衆も取り込んだ塀(土塀)、堀で囲まれた一郭。
有岡城が萌芽で、城下町を持っていた。総構は身分を区分する役割があると同時に、軍事の役割があり、惣構の一角が破られると城側が降参することが多い。
惣構が広くなると自分だけでは守れない。友軍が来る場合に敷地が必要という面もある。惣構の住民は城と一緒に戦うが、負けるとなるとさっさと出て行ってしまう。民衆はしたたかである。
寺社も願寺や清水寺、東寺など惣構を持っており、寺内町と呼ばれていた。京都でも秀吉は聚楽第を中心に御土居を築くが惣構である。

「戦国軍旗と大坂の陣」小和田哲男監修

先日、所蔵の透かし鐔の文様が、福島正則隊の軍旗である「山道文」ということに気が付いたから、この本を図書館で見つけて読んだ。雑誌の一種であり、特に真田幸村のことを特集している。大河ドラマの人気を当てこんで出版されたものだろう。
軍旗の方は、大坂の陣屏風をもとに、説明しているが、あまり目新しいものはなかった。キリシタン大名の明石全登(てるずみ)の旗が「白地に花クルス二つ」というものでなるほどと思う。また小西行長の軍旗にやはりキリシタン的な「白地に中結び祇園守り」があったことが推定されている。また福島隊とは違う「白地に青の三本山道二つ」の軍旗があったことが記されている。

丸を3つ並べた軍旗も、白い餅を遇したもので、白餅=城持ちにかけて好まれたようだ。宇喜多秀家が「黒地に白餅三つ」、石田三成が「黒地に朱の丸三つ」、大谷吉継の「白地紺の丸三つ」、「紺地白餅三つ」、藤堂高虎の「黒地白餅三つ」「赤地黒餅三つ」「白地朱の丸三つ」「紺地白餅三つ」、長宗我部盛親の「地黄に黒餅三つ」などがある。

読み物では真田家の戦いに特化しており、第一次上田合戦、第二次上田合戦、大坂の陣(冬の陣と夏の陣)のことが詳しいが、特に目新しい感じはしなかった。他は関ヶ原の戦いを書いている。

「興津彌五右衛門の遺書」「阿部一族」「堺事件」 森鴎外 著

森鴎外の時代小説である。「興津彌五右衛門の遺書」は細川三斎の臣で、長崎で安南からの船が輸入した珍しい品を購入するように同僚と派遣された主人公が、一番良い香木を買おうとする。伊達家も、それを狙っていて、値が釣り上がる。同僚はそこまで高い値で買うようなものでなく、一ランク落ちたものでもいいのではと言うが、主人公は主命だからと譲らず、結局、この諍いで同僚を殺し(先に手を出したのは同僚の方)、一番良い香木を入手する。
帰国後、三斎に同僚を殺した顛末を言上して、切腹の許しを乞うが、許されずに、その後も三斎公亡き後も勤めを果たす。そして三斎公の十三回忌に切腹することになり、その経緯を書いた遺書という形式の小説である。

乃木大将が明治天皇に殉じた時に、発表した小説として有名である。乃木大将が若年の折の軍旗紛失の責任を常に思いながら殉死に到るが、それに触発された面も確かにあると感じる。

「阿部一族」は細川忠利に仕えた重臣が、殉死の許しが得ないで、新藩主に仕えていたが、寵臣や大事にしていた鷹や、犬の世話をしていた小者までが殉死する中で、白い目を向けられて、許しのないまま殉死する。その後、阿部家は総石高は変更無いものの、一族に分割され、他の殉死の家族に比べて不遇であった。
藩主の法要の時に嫡子は、そこで髻を切るようなことをして、新藩主の怒りを買う。その後、新藩主からの討っ手が派遣されることになり、一族は討ち死する。その折の親しい燐家とのやりとりなどが小説の綾をなす。
殉死に対する問題的とも考えられる。

これは原本となるような古史料があり、それを脚色したものである。森鴎外なりに、乃木大将の殉死を考えていたことは理解できる。

「堺事件」は維新後に堺の治安維持を任された土佐藩が、不法にやってきたフランス人水兵を殺す。フランス政府が賠償と、処罰を求め、土佐藩は殺したフランス人と同数の警備兵を切腹させることになる。
フランス側からの検視も来るのだが、切腹の凄惨な現場を見て、途中で退席してしまい、執行人数は減じられる。
土佐藩士の気分、意気がよく書けている。

これらの森鴎外の時代小説は、小説というよりは事実(本当の事実かは不明だが)を淡々と書いているような感じである。