「大御所 徳川家康」三鬼清一郎 著

タイトルから大御所時代の徳川家康のことを書いているのかと思ったが、内容は徳川幕藩体制が構築されていった経緯を書いている本である。副題も「幕藩体制はいかに確立したか」であり、むしろこちらを表題にした方が良い本である。

10章に分かれていて「1.大御所政治の前提」「2.大御所政治の幕開け」「3.御三家の成立」「4.水戸藩の立場」「5.国際環境とキリシタン」「6.外交関係の再構築」「7.大坂城包囲網の形成」「8.豊臣家滅亡への道」「9.神に祀られた家康」「10.大御所政治の遺産」である。
各章の終わりにコラムとして、その章に関係する小説を挙げているのは新書として、読みやすさを意識したのであろうか。
各章の内容を断片的に紹介すると以下の通りである。これを読んでいただいても、本のタイトルにピンとこないことが理解できよう(もちろん読者である私の理解不足もあると思うが)。

「1.大御所政治の前提」では大御所の定義を行い、慶長8年に内大臣から右大臣に昇進して源氏の長者となり淳和院と奨学院の別当(理事長)となって征夷大将軍になる。慶長10年に征夷大将軍の職を辞し、秀忠が跡を継ぐ。ただし源氏長者と奨学院別当は辞していない。

「2.大御所政治の幕開け」では、自分の居城の駿府城や江戸城や、大坂包囲網の各地の城を天下普請で構築していることを書く。この過程で畿内・近国の国奉行制を成立させて、各地の天下普請への動員をかけやすくしていることを書く。また徳川初期の権力構造の不安定さを記す。すなわち秀忠の弟の松平忠輝は元和2年に伊勢に配流。秀忠の甥の結城秀康の子の松平忠直は元和9年に豊後に配流。慶安4年には由井正雪の乱。

「3.御三家の成立」は実質的には家康の死後に成立だが、御三家のことを書く。尾張の方が若干、紀伊より石高は上。水戸家は一格下で、江戸常府。尾張家には成瀬家と竹腰家、紀伊家には安藤家と水野家、水戸家には中山家の付け家老。付け家老は家康存命の時は家康の意向を受けて存在感があったが、死後は各藩から邪魔者扱いとなり、それぞれ独立の大名を指向した。

「4.水戸藩の立場」は、水戸藩2代の光圀は、長男(のちに讃岐高松藩祖)をさしおいて就任したから、長男の子を養子としたこと。明君だが5代将軍綱吉と対立したこと。大日本史を編纂し、その水戸学が幕末に影響を及ぼし、また幕末に内部が混乱した水戸藩のことまで記している。このあたりが、本のタイトルにそぐわないところである。

「5.国際環境とキリシタン」では朝鮮、明や琉球、台湾、東南アジア諸国との関係を立て直そうとしたこと。三浦按針、ヤン・ヨーステンを顧問にして世界の情勢を知っていたこと。当初はキリスト教禁教でもなかったが慶長17年の岡本大八事件(本多正純の与力の岡本大八と有馬晴信が死罪)を契機に翌年から弾圧・禁教となったことを記している。

「6.外交関係の再構築」は、朝鮮との修好を対馬の宗氏、家老の柳川氏が国書を偽造して成り立たせる。これが露見するが、宗氏は罰しなかった。琉球は島津氏が侵攻する。この2国は通信の国。オランダと中国は通商の国、他にアイヌ民俗と松前氏を通しての交易があった。ポルトガルとの交易はマカオを中心として行ったが、実質は中国産の生糸を積んで、日本の銀を得るという日明貿易の代替であった。寛永12年に島原の乱が発生する。

「7.大坂城包囲網の形成」では官位の叙任権は朝廷にあったが、武家の官位は幕府の推挙を条件にした。慶長16年に後水尾天皇の即位式に秀頼を上洛させる。近畿以西の大名22氏に3ケ条の誓詞を求む。翌年には東北諸大名から誓詞をとる。

「8.豊臣家滅亡への道」は方広寺の大仏の鐘銘事件がきっかけだが、片桐且元の動きに注目している。慶長20年に武家諸法度、次いで禁中ならびに公家諸法度を発布して統制を強める。公家は筆頭の近衛家でも2800石ほどだが、芸ごとの謝礼などで生計をたてる。また寺には諸宗本山本寺諸法度を制定。

「9.神に祀られた家康」では元和2年に死期を感じ、太政大臣を望む。信長は死後に、秀吉も太政大臣になっている。神号を天海が提唱する山王一実神道で東照大権現とした。正保2年に東照社から東照宮となる。一方、豊国社は破却され、豊国大明神の神体は方広寺大仏殿の境内に移す。

「10.大御所政治の遺産」では、章のタイトルとは無関係な隠居になって三島の泉頭を適地としたが、後に磐田の中泉を考えたことや、藤木氏の惣無事令の研究を批判した内容を含めている。

「濱谷浩写真集 市の音 一九三〇年代・東京」濱谷浩 写真

ある件で、知人からお借りして読んだ本である。濱谷浩は戦前から戦後にかけて活躍した写真家で、日本では民俗学的な視点からの写真で評価が高い。
この本は「市(いち)の音」とあるように、浅草歳の市、世田谷ボロ市、葛飾八幡宮農具市、辻売りと看板の4つの章に分かれていて、1930年代の東京近辺の市の模様を写真に撮ったものである。もちろん白黒写真である。

写真は記録であり、戦前はこんな風だったよなと感ずるもので、あまり心が動かさられるものはない。写真を見て、「やはり着物を着ている人が大半だ」、「藁を編んだようなものは今は使わないが、昔はこういうものが売れたのだ」、「古着も売れたのだ」、「農機具も手作業で使用するものが大半だったのだ」、「生きた鶏もカゴに入れて売っていたのだ」、「リアカーやそれを改造したような車で販売していたのだ」、「天秤棒を肩に担いで売っていたのだ」などと思うばかりである。

こういう写真が「民俗学的には貴重なのだろうか」、「働く庶民の姿として心が動かされる人もいるのだろうか」などとも感じるが、自分として価値を感じる写真はないし、芸術として心が動くような写真もない。

[「本阿弥行状記」(和田宗春 訳註)

 本阿弥光悦が書いたものとして、この原本はこれまでは上巻だけが訳されていた。それは中巻の冒頭に、この中巻は光悦、光甫が書き残した反故の中から取りだしたとあったので訳されてこなかったわけである。訳註の著者は、中巻も下巻も訳してはじめて同書の意義(本阿弥家の家録、家記)があると考え、通しで訳されたと記してある。本文の意味が通りにくい箇所もあるが、これは原文がそうなのであろう。また註も丁寧であるが、ちょっと違うのかなと感じるものもあるが、労作である。

 江戸初期の本阿弥光悦の話から、江戸中期の吉宗時代の話まである。光悦の芸術論でもなく、家業の刀剣鑑定のことが多く記されているものでもない。
 印象に残るのは、本阿弥の女性の偉さを書いていることである。光悦の母の妙秀(光二の妻)は信長にも夫の光二の無罪を訴えたり、人を斬って逃げ込んだ者を匿ったり、子供の良い所を褒めて伸ばしたり、一方で厳しく躾けをし、吝嗇なところは少しもなく、義理堅く、慈悲に富んでいたことなどの逸話を載せている。また宗教心(本阿弥家は日蓮宗の熱心な信者だが、仏教一般を敬う)と道徳心(親に孝行、主君に忠、人に慈悲を持って接しろ、悪いことに手を染めるななど)と勤労精神(骨惜しみせずに働く)を基本の教えとして一族に説いた人物である。
 光悦の姉の妙山は光徳に嫁ぎ、光室を生む。柔和で知恵があって賢い人でさっぱりとした律儀であったと記している。穏やかな人だったようだ。

 この本は子孫に読ませることを意識していたようで、分に応じた生き方を説き、徳川家に忠誠のスタンスだが、時の京都所司代を通じて幕政に提言したことなども書かれている。織田信長、豊臣秀吉のことは批判的である。
 当時の文人(茶人、和歌、連歌、書、陶芸)との交流も書いてある。家業の刀剣鑑定のことはそれほど多くないが、興味深い話もある。光瑳は光悦の実子ではなく、片岡次大夫の曾孫だが、書道の名手。この子が光甫。
 光室は光徳に劣らない刀剣鑑定の名手で徳川秀忠に刀剣鑑定を教授。また情に厚い人物の弟の光益は正直者で織田有楽の弟子で茶道を嗜む。第59段に本阿弥光二は鞘、柄も制作して上手だった。また金具も造ることも記されている。
 具体的な刀工名では一条国廣のことが新刀では興味深い。古刀では名物の刀が時々出てくる。
 また第27段には、丹波、丹後などで山の木を伐り、田畑を作ると、山崩れや水害が起きることまで書いており、当時から、このような知識が広まっていたことが理解できる。
光悦は諂うことが嫌いな人だったとも書いている。光悦が鷹峯に領地(東西200間、南北7町)を貰う経緯が第52段に記されている。
(以下のリンクは別の本である)

「戦国 武士と忍者の戦い図鑑」小和田哲男、山田雄司 監修

 図解の簡単な本である。ただし忍者の話はともかくとして、武士の方ではなるほどと認識した記述もあった。
 戦いにおける動員では、陣鐘を背中に背負った人物と、それを後ろから叩く人物が領内をまわって、合戦の有無を伝えたことや、同様に合戦時には太鼓を背負い(背負い太鼓)、それを後ろから叩き、進退の合図をすること、背負い太鼓の代わりに陣鐘、陣太鼓や陣中太鼓があることを知る。
 合戦前の験担ぎには上帯切り(鎧を脱がないという決死の意思を示す儀式)ということがあることを知る。
 また兵糧袋の形態や打飼袋などの陣中食糧の携帯方法、戦時のトイレの方法などは他の本ではふれられていないことである。
 武器では、大砲の後装式の構造、石礫を投げる時の投弾帯などが具体的にわかる。
 また兜に顔を覆う面具(惣面、半頬)などを付けると、顔がわからず、影武者も現実的にできたことを知る。
 防具に楯があるが、それには掻楯、手楯、竹束あること、そして旗印と馬印(特定の武将の位置を示す)の違い、戦場での敵味方の識別の為の合言葉、袖印(左側の袖)、刀印(刀の端につけた)、笠印などもなるほどである。
 また馬の防具も大変だったことが理解できる。

「一目置かれる知的教養日本美術鑑賞」秋元雄史 著

 軽薄なタイトルは編集部が売る為に付けたのだろうが、ポイントを押さえた日本美術の入門書で良い本である。ただし、校正が十分に出来ていないと感じるところもある。
 まずはじめに西洋美術と比較しての日本美術の特徴をあげている。西洋美術が革命の美術(既存の芸術を壊して新しい芸術価値を生み出す)に対して、日本美術は継承の美術で、伝統が重んじられ、技術や考え方をいかに継承するかが大事となっている。
 そして日本美術は時々に外来文化の影響を受け、進化・発酵・熟成を繰り返していると指摘する。
 また西洋美術はキリスト教の知識が無いとわかりにくいが、日本人が日本美術を理解する背景は基本的歴史知識があるだけに深くなるとも書いている。

 日本美術の特徴として、写実を追わずに、遠近法を多用しないデザイン=平面的で装飾的とし、それは西洋と違って1枚の絵ではなく、日常生活の装飾だからと説く。
 また四季のモチーフを選ぶように自然と近いのが日本美術に対して、西洋美術は宗教画、宗教を含む歴史画、王候の肖像画が格が高く、次いで風俗画、そして自然を描く風景画は格が低いとされてきた。要はカトリックがパトロンだからである。

 次ぎに、日本の歴史に則して、各時代の美術の特徴を大きく概観する。縄文の美が装飾性の原点。飛鳥・白鳳・奈良時代は仏教美術。遣唐使の廃止で和様が生まれ、優雅な王朝文化。鎌倉はリアリズムの仏像や末法思想で来迎図。室町は禅の美術で水墨画、茶の湯、能などが生まれ、破格で雄壮な桃山美術になると南蛮の影響とわびさびの美意識となる。そして、おだやかさと多様な江戸美術になり、そこでは権力者から市民階層も楽しむようになり、最たるものは浮世絵。江戸時代を分けると、江戸前期は狩野派中心と大和絵の伝統の土佐派に、光琳であり、江戸中期は沈南蘋の写実の影響で応挙、若冲が生まれ、江戸後期は文人画、洋風画、浮世絵となり、浮世絵は逆に西洋美術に多大の影響を与える。
明治に廃仏毀釈がおこり、その後フェノロサが日本美術を評価すると西洋美術排斥運動もおきる。

 次章は各時代の代表的作品を例に説明していく。なるほどと思ったことを記していくと次のようになる。
・源氏物語絵巻は個人で楽しんで見るもので、プライベートな視点であり、西洋の宗教画のパブリックな視点ではないとか、かな文字が生まれたように、柔らかな線、調和のとれた優美さが特徴。
・日本の建築は内と外の区別が曖昧であり、こういうことも自然とともにという精神につながる。西洋は壁(城壁)で内と外を分ける。
・鳥獣戯画はユーモラスな白描画で登場人物のキャラクターがわかる。輪廻思想で動物と人間は一体という日本人の感覚が出ている。
・鎌倉新仏教は仏教美術を重視しない点はヨーロッパのプロテスタントと似ている。
・雪舟の天橋立図は瑞々しい墨の濃淡と大胆かつ細やかな筆致、壮大な構図。狩野派が雪舟を神格化したので諸大名がこぞって雪舟の作品を求める。その後継者の狩野派の絵も大名に求められる。
・狩野永徳の唐獅子図屏風は豪華絢爛にして破格。金地に群青や緑青を厚く塗る金碧濃彩画。城郭の部屋を荘厳に演出する、舞台演出装置であり、屏風絵は権力を誇示する道具

美術の流れとして、縄文→永徳→東照宮→明治工芸の装飾的な美と、弥生→桂離宮→利休→柳宗悦の簡素な美としているのもなるほどと思う。


「司馬遼太郎全集22 妖怪」司馬遼太郎著

 時代を応仁の前に設定して、6代将軍足利義教が熊野詣に来た時に、現地の遊び女(元は熊野本宮の巫女らしいと設定)との間に出来たという出生の伝承を持つ源四郎を主人公にして、物語は展開する。
 源四郎は、その出生の秘密から、京に出て将軍家に取り入ろうとする。京に向かう途中で腹大夫という山伏と出会う。山伏は京で印地(やくざ集団)の長にでもなろうと考えており、2人は同行することになる。
 世が乱れ、下克上の風潮も生まれている時代である。足利幕府8代将軍義政が治めている時代なのだが、その政治は名前に「ま」が付き、世間からは「三魔」と称されている側近の有馬持家と烏丸資任と、義政に幼少期から一緒にいて、側室であるお今の3人が影響力を及ぼしていた。
 そしてお今は、義政の妻日野富子と軋轢を抱えていた。軋轢とは将軍の世継ぎの問題であり、富子に子ができない時期に、迎えた養子と、その後に富子に生まれた実子との間の問題である。
 日野富子は公家の日野家の出だが、お金に対する執着が強く、悪妻と評されている女性であり、司馬遼太郎はお今と日野富子の争いに主人公の源四郎を絡ませて物語を展開していく。それに妖術使いの唐天子を登場させて、彼が信じられないくらいの妖術を使って物語は進む。だからあまりの荒唐無稽ぶりに、読んでて白けてくる物語であり、私の好きな小説ではない。司馬遼太郎の小説の中には、忍者、妖術使いのような登場人物が出てくる小説がある。

 司馬遼太郎は応仁の前の時代で、人心も生活も荒んだ時代を、彼なりの設定で書きたかったのだと思う。そしてタイトルの「妖怪」だが、これは妖術使いの唐天子のことか、人並み外れた金銭欲を持った日野富子のことか、あるいは不思議な経緯で義政に取り入って「三魔」の一人と称されているお今のことかわからない。あるいは、将軍の落とし胤との伝承を持つ源四郎も含めて、これらの登場人物全てが妖怪なのであろうか。それとも、下克上が本格化する前の荒んだ時代そのものなのであろうか。

「蜜蜂と遠雷」恩田陸 著

 意欲的で面白い小説だ。芳ケ江国際ピアノコンクールに参加する天才的な3人の若者(カザマ・ジン、栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール)を主人公に、そこに少し歳を取った28歳の男性音楽家(高島明石)を脇の主人公にして、天才達が競うピアノコンクールの世界を描いている。
 小説家の作者は、天才達の音楽を語りながら、そこに「そもそも音楽の世界とは」という視点も入れて書いている。小説の所々に「この世界は音楽に溢れている」というフレーズを入れているが、このあたりのことを書きたかったのかもしれない。
 物語では、脇役に審査員の嵯峨三枝子、ナサニエル(2人は元夫婦)や、高島の姿を映像に撮る彼と知り合いの女性記者仁科雅美、栄伝の才能を信じる音大の学長浜崎とその娘でヴァイオリ演奏家の奏などを登場させて、物語を厚くしていく。

 カザマ・ジンは自宅にピアノもない養蜂家の息子で、審査員達の師匠とも言うべきユウジ・ホフマン(近年逝去)が、このカザマ・ジンをコンクールに送り込んできたのだ。耳が驚くほどよく、天衣無縫の若者として描かれている。コンクールの最中に泊まった先の華道家に華道を習うような男の子である。
 栄伝亜夜は子供の頃から天才と称せられていたが、母が死、ピアノの師の綿貫も死んでから、急に音楽を止める。音楽そのものを止めるのではなく、気楽に音楽を楽しんでいた。ある時、古くからの知り合いの浜崎学長のすすめで音楽大学に入り、またピアノをはじめる。
 マサル・カルロスは様々な血が混じる混血で、幼い時に日本にいて、栄伝亜夜とその師の綿貫からピアノを学ぶように誘われたという奇縁が、このコンクールの時にわかる。ニューヨークの名門音楽大の誇る逸材である。

 私は、この小説の中で演奏されるピアノ曲をほとんど知らないが、恩田陸は各曲を詳しく言葉(文学的に)で表現している。だから、それら音楽をよく知っている人が読めば、また違った感想を持つと思う。そのような音楽に詳しい人の、この小説の評を聞きたいという興味はある。
それにしても恩田陸は、それぞれの音楽を自分なりに聴いて、しっかりした感想を持っているわけであり、大したものだ。そして、恩田陸は「世界は音楽に充ちている」を体現する人物にカザマ・ジンを選び、その音楽の楽しさによって、栄伝亜夜は過去に閉じ込めた音楽の天性を再度開いていくわけだ。28歳の高島明石は、幼少の頃、カイコ棚を持つ家の祖母に育てられ、その情景を思い出すように演奏して、特別の賞を得る。同時に天才たちの音楽を聴き、改めて音楽の楽しさを認識して、この道に進もうとする。

 コンテストでは、技術は凄いが、演奏がアトラクションになっているような音楽家なども登場させている。間接的に恩田陸はこのような音楽を批判しているのだろうか。
 コンテスタント(コンテストの出場者)の特異な才能と、その才能を正しく評価する専門家の世界は興味深い。同時に細かいことはわからなくても、いい音楽には素直に感動する聴衆も書いており、いい音楽の普遍性も理解できるし、救われる思いも持つ。

 ちなみにタイトルの「蜜蜂と遠雷」であるが、カザマ・ジンが養蜂家の息子と言う点と、コンテストの途中で、耳の良いジンが遠くの雷を聞く場面があるからかとも思うが、恩田陸が「エントリー」の章で書いている「世界は明るく、どこまでも広がっていて、常に揺れ動きやすく、神々しくも恐ろしい場所」とか繰り返し書いている「世界は音楽に充ちている」ということから付けたのであろうか。私にはよくわからない。

「司馬遼太郎全集21 義経」司馬遼太郎著

 義経の生涯を、幼時から頼朝から追われる身になって京都から九州に向かうところ(結局は九州に行くことができないのだが)まで書いて終えている。さすがに司馬遼太郎であり、よく知られた話を面白く小説にしている。
 各登場人物の性格を、裏付けるエピソードに基づいて明確に書いて、物語の伏線にして厚みを出している。後白河法皇の権謀好きで変な好奇心(今様好き、隠れて各種見物に出向くこと)、新宮十郎行家の軍事はダメだが生き残る為の政治的な権謀術数能力、義経の軍事の天才ぶりと親族・肉親を信じ・甘える心情と、人間社会で生きていく上での政治的力学把握能力の欠如、好色ぶりなどである。平家の頭領行盛については臆病な性格を出自に遡って書いている。
 そして頼朝については、境遇から性格形成に至ったことを書く。伊豆での流人としての暮らし、そこで伊豆の豪族の娘と関係を持ち、北条政子の婿となるが、政子を恐れる様子を書き、そして頼朝の基盤は、朝廷の収奪に不満を持つ関東の豪族にあり、彼等の意向を常に意識せざること、東国では女性の地位が京都よりも高かったことを示している。
 また頼朝は流人の間、京都の公家から京都情勢の連絡を受けていたこと、大江弘元や京都の政治を知る人物の助言を常に受けていたことが、鎌倉幕府成立の大きな礎になったことも理解できる。

 東国武士の心情もよくわかる。土地を大事にし、それを一族とともに広げ、その権益を守ることに専念する。戦いは土地争いに起因し、土地を主体とする恩賞(権益の確保)をもらう為でもあるわけだ。義経のように大将が先頭に立って戦ってもらっては恩賞の機会も減るし、船の水夫などを射るのは恩賞にもつながらず、むしろ卑怯という悪名になるわけだ。後に義経を追討する時、御家人を募るが、義経の武威を恐れ、誰も手を挙げない。自分の得にならないことは頼朝の命にも服さないのだ。そこで土佐房という者が出向き、返り討ちにあう。
 東国の武士にとっては、義経には土地に根ざした郎党がいないことも、軽んじた一因である。また自分の土地権益を守ってくれるのが頼朝であり、義経は弟と言っても、御家人と同じ立場というわけだ。
 義経が兄の誤解を解くために、戦いでの自分の功績を頼朝に伝えれば伝えるほど、自分達の功績を無視する義経に反感を抱くわけだ。

 また当時、平家の拠点の西国は飢饉だったことを記して、平家方には兵が集まらず、士気が低いまま富士川に出陣して逃げ帰る伏線を書いている。
 木曽義仲の田舎者の行動が京で反感を持たれ、義仲傘下の軍勢も寄せ集めで、京都で略奪を終えると、郷里に帰ってしまうような状況もなるほどと思わせる。
 義経の軍事上の天才ぶりの記述も冴えている。鵯越の戦いでは、平家は六甲山地の下に海岸沿いに陣をひいていて、京都側の平地に兵を厚くしていたわけだが、山から平家の本陣にたった数十騎だが突入して、火をかけたから、驚いて本陣が崩れ、海に逃げた為に総崩れになる。
屋島では平家が想定していた海からの攻撃ではなく、阿波の方に上陸して騎馬で攻めた為に、平家が海上に逃げて、結果として敗戦になる。
壇ノ浦の戦いは海流の流れが時間で変わることで、それを利用したことが知られているが、当初に押されていた時に船が苦手な東軍は陸沿いに船で逃げ、その陸に弓射隊を配置していたのが功を奏したわけだ。また水夫を狙って射る禁じ手も有効だった。

 源氏は伝統的に親族の仲が悪く、これが平家との違いと書いているが、この傾向は後の鎌倉幕府の北条政権でも引き継がれる。鎌倉幕府の権力闘争も陰惨なイメージがつきまとう。

「名将乃木希典と帝国陸軍の陥穽」鈴木荘一著

 この本は、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で無能な乃木希典将軍、頑迷な伊地知幸介参謀長と評価したことに対して、逆に高く評価すべきと書いていて興味深い。そして児玉源太郎総参謀長は軍政家としては評価すべきだが、軍事能力は劣るとし、その作戦参謀の松川敏胤は優れているが、井口省吾は愚将と書いている。
 鈴木氏は、これまでも国民文学になって愛されている『坂の上の雲』に書かれている司馬史観に対して異論を唱えていたが、「あれは小説だから」と言われ、まともに議論してもらえない状況に業を煮やして、この本を執筆されたのだと思う。

 そして日本が軍事、作戦の教師として招き、司馬遼太郎も高く評価しているメッケルを、軍政家としては良いが軍事学はダメではないかと論じている。鈴木氏は太平洋戦争につながる誤りの一因にメッケルの教えがあるとも言う。すなわちメッケル軍事学を学んで太平洋戦争時に大本営の参謀として、大きな誤りを招いた服部卓四郎、辻政信、瀬島龍三を強く非難している。この3人への鈴木氏の評価に私は異論は無いが富永恭次も加えるべきであろう。これら参謀の無能の証左は本論と違うから簡単に書かれているだけだが、辻政信が作戦を主導したノモンハン事件(司馬遼太郎も書きたかった事件)については章を設けて論じている。
 また司馬遼太郎は、自分が戦時中に配属された戦車隊の戦車をボロクソに貶しているが、世界では日本の戦車はそれなりに評価されていたことを示している。

 鈴木氏はきちんと資料を読み込む人物であり、ここで書かれていることは『明治卅七八年日露戦史』などの資料を読み込まれてのことだと思うが、具体的な事柄ごとに典拠となる資料(ページも含めて)を明示されている方が良いと思った(参考文献の書名は巻末に掲示)。
 例えば、①旅順第2回総攻撃の前に203高地攻撃を乃木の第3軍が進言しており、むしろ児玉源太郎が正面攻撃に拘ったこと、②遼陽会戦で敵将クロパトキンが囮作戦で撤退したことを野津軍、奥軍は感づいたにも拘わらず総司令部は突入を命じ、危ういところ、松川参謀が黒木軍に背面から攻撃させることで救ったこと、③奉天会戦と戊辰戦争時の白河城攻略との共通点と、奉天会戦時の乃木軍の奮戦(児玉は進撃が遅いと叱責したが)のことなどである。
 もっとも同じ資料を読んでも、反対の意味に解釈する人がいるわけだから、現代史を研究している学者は「あれは小説だから」で逃げずに論戦に参加されることを期待したい。

 この本で、もう一つ改善してほしい点は、挿入されている地図が地点の地名は書かれているものの両軍の配置や、道路、高低差などの情報が記されていない為かわかりにくい点である。 

私は『坂の上の雲』は名作だと思う。そこで無能と書かれている乃木将軍だが、姿が美しい人間(侍)として好きな人物である。、また鈴木氏が軍事の能力を悪く言う児玉源太郎も、太平洋戦争時の指導者と違って「この戦争を終わらせるタイミング」を常に意識していた人物として尊敬している。
コロナ禍で、蔵書の司馬遼太郎全集62巻を読み始めており、20巻まで読了したが、この中では『竜馬がゆく』と『峠』が良い。『竜馬がゆく』の中にも史実と違うところが当然にあるが「小説だから」で楽しんでいる。

「司馬遼太郎全集20 加茂の水」司馬遼太郎著

 この物語の主人公は玉松操。岩倉具視の活動を文書起草で助けた人物である。鳥羽伏見の戦いの途中で登場した錦旗の考案者でもある。
 下級公家の山本家(家禄150石)に生まれ、醍醐寺に入れられ、一山きっての学僧になったが、狷介な性格で堕落した僧を棒で打つなどして寺を出て、還俗した。50過ぎてのことである。
 もちろん妻帯はせず、儒者のような服=乞食のような格好で、当初は近江坂本に流遇し、のちに坂本の北の方の真野の里に流れ住んだ。坂本時代も気に入らぬと棒で叩くような人物であった。村の子供達に読み書きを教えて食べるものを得ていた。
 岩倉具視が洛北に隠棲していた時に、岩倉が自分には文章の素養が無いとして、人物を探している時に、三上兵部(義胤)と出会う。
 三上は江州の人物であり、玉松操を思い出す。そして岩倉の元に来て貰うように頼まれるが、玉松の人柄を知っているだけに、招請に応じるとは思えなかったが、玉松に会って説得する。
 当初は岩倉を奸物と思い、断っていたが、会ってから判断するということになり、岩倉村に出向く。岩倉は役者だから、玉松に嫌われないように接遇し、話の中で意気投合する。
 それ以降、岩倉の陰謀を文(手紙)にして活動する。思想的には徹底的な攘夷主義者である。岩倉はこの頃は薩摩の大久保利通との関係で本心は倒幕開国主義になっていた。
 陰謀の一つが錦旗の作成である。玉松が古書から想像してデザインし、帯地を買って長州で縫製したものである。これが鳥羽伏見の戦いの途中で登場したことで、戦局は薩長方に大きく傾く。

 維新後は政府が開国主義になり、岩倉の元を放れて、明治5年に病没した。加茂川のほとりで誰にも看取られずに亡くなったわけだ。岩倉が死ぬ前に、肥後の井上毅に、自分が死ねば玉松のことなど歴史から消えるだろうと涙を浮かべて話をしたことで史料が残り、司馬遼太郎の小説になったと言うわけである。
 激動の時代に生まれた不思議な人物の一人である。

「司馬遼太郎全集20 鬼謀の人」司馬遼太郎著

 大村益次郎(村田蔵六)の話である。長州の鋳銭村(すせんじ:今の山口市)の村医の出で、緒方洪庵の塾に学ぶ。そこで塾長までになったが27歳時に祖父の言いつけで村に戻り医者となる。塾の頃から医学だけでなく西洋の軍学の書を読んでいた。
 蔵六は合理的な発想に終始したから愛想も言えず、医者としては流行らなかった。この性癖は生涯続き、反感も持たれる。また当時の長州藩は当然に蔵六の存在を無視していた。

 宇和島藩が密かに匿っていた髙野長英の後継者として緒方洪庵の推薦で村田蔵六を傭う。洋書の翻訳を頼み、上士格で百石で召し抱える。その後、幕府の蕃書調所の教授方手伝い、また加賀藩からもお手当を得ていた。また幕府の講武所の砲術部門の教授も兼ねる。
 物語では、桂小五郎が有備館御用掛を命じられた時に軍制を洋式化するために、蘭語を読める人物を探していた時に蔵六の名前を聞いたことにしている。そして桂が吉田松陰の回向で寺に来た時に、僧から近くの寺で女囚の解剖があり、その解剖をするのが蘭医の村田蔵六と知る。後に桂は松蔭が引き合わせてくれたと述べる。

 桂も医師の出身であり、見学に行く。解剖後に蔵六に挨拶をし、後日に伺う段取りをつける。事前に伊藤俊輔に調べさせると、実は以前に、竹島を早く長州が押さえることが国際法上で大切と桂の元を上申してきたことがあったことを知る。
 藩内では急な登用は難しいから、桂は軍書の翻訳の依頼という形にして雇い入れる。曲折の後に先手組の上士として藩校で兵学、海軍術、砲術の教授とした。大村は原典ではなく、自分の翻訳書で教える速成法とした。

その後、長州は4カ国艦隊の砲撃を受ける。この時は何の関与もしていない。40歳の時である。
 幕府の第2次長州征伐時に、潜伏先から戻った桂が村田蔵六を用いることを進言する。幕府の扶持をもらっていたから名を大村益次郎に変える。そして石州口の参謀として実戦に出向く。そこで逸話を残しながら勝利に導く。益次郎は戦闘の前日には石盤を抱えて自分で偵察に行く。そして明日の作戦を予想し、指示するスタイルだった。

 彰義隊討伐の時、江戸の官軍は兵力が少ないこと、江戸を焼いて反感を買うのではと懸念して攻撃しない。益次郎が京都から出向き、攻撃の手はずを整え、上野の山だけの戦闘範囲で一日で終わらす。この時、薩摩軍を最前線に配置したり、ぶっきらぼうな物の言い方で薩摩の海江田武次などの反感を買う。海江田は後に大村暗殺の黒幕と言われる。
 東北戦線からの援軍要請の大半も大村が握りつぶし、ここでも反感を買う。大村益次郎は維新後の敵は薩摩になるだろうとして備えをしていた。
 明治2年9月に京の旅館で12人の国粋攘夷主義者に襲われ、その時の傷が元で11月に死去。
 彗星のように必要な時に現れて、仕事をして、去って行った生涯である。読んでいても不思議な感じがする一生である。後に長編小説「花神」が大村益次郎を主人公とする。


「司馬遼太郎全集20 王城の護衛者」司馬遼太郎著

 会津藩の松平容保の物語である。はじめに会津松平家の歴史を語る。秀忠は妻を恐れたが、一度だけ侍女に手を付け、子が生まれる。信州高遠の保科家に預けられ成人する。秀忠には18歳時に目通りし、その死後、会津23万石を拝領する。家光の弟だが、家光をたて、実直に仕えて信頼される。家光の死に際して「宗家を頼む」と言われ、それを元に家訓を定める。その八世に子が無く、美濃高須の松平家から養子として入る。高須松平家は次男が尾張徳川家を継ぎ、3男は石見浜田の松平家を継ぎ、5男は一橋家を、6男が容保、7男は伊勢桑名の松平家を継ぐという幕末の大事な家となる。
 容保は身体は弱かったが頭脳、志操は優れていた。保科正之の遺訓を大事にした。19歳時にペリー来航、26歳時に桜田門外の変。この事件以降に京を中心に天誅事件が頻発する。これに対処する為に京都守護職に任命される。容保をはじめ会津藩は厭がっていたが、受けさせられる。文久2年12月に会津藩兵が京都に入る。当初は厳格な取締りをしなかったが、足利将軍木像梟首事件後に新撰組を使って厳しく取り締まる。これが会津藩への恨みとなり、戊辰戦争の悲劇につながる。
 会津藩は公家に働きかけての政治的な動きをしなかったので、京都政界では長州藩、それから薩摩藩に翻弄されていく。そして何よりも徳川慶喜の変幻極まりない政治姿勢に振り回される。
 孝明天皇は攘夷だが佐幕で、会津藩と容保を非常に信頼して、異例のことに直接宸翰を賜る。これには容保も感激して、その書翰を晩年まで竹筒に入れて肌身放たず身に付けていた。まさに勤皇だが、時世の流れで最期は朝敵として討伐を受ける。無念な一生であった。
 なお司馬遼太郎は孝明天皇の死去の原因は天然痘として、暗殺説を否定している。
 鳥羽伏見の戦い後に、大坂城から慶喜にだまされるように江戸に退去し、江戸においても慶喜から会津への退去を求められる。
 晩年はほとんど人と付き合わない生活を送り、一度、怨念に充ちた漢詩をつくる。死後、竹筒の御宸翰の話が長州の山県が知るところとなり、高額での買い取りの依頼があったが、応ぜず、今でも会津松平家に蔵されているとのことだ。

「司馬遼太郎全集20 最期の将軍」司馬遼太郎著

 徳川慶喜の話である。慶喜は水戸の徳川斉昭と、正室の有栖川宮家の登美宮吉子との間で3男として生まれる。ちなみに徳川斉昭は藩政改革で業績を上げたが、優れているだけに独断的で、女色に卑しく、この面でも大奥から嫌われた。
 慶喜は少年時代は七郎麿と呼ばれ、武芸に熱心だったが読書はきらいであり、斉昭から座敷牢に入れられたこともある。少年時代から軽躁で遊びに狡猾さがあり可愛気がなかったようだ。これは後の慶喜の生涯にも共通する。11歳の時に一橋家から養子を望まれた。老中阿部正弘が慶喜を将軍にしたがっているとの腹を読んでの持ちかけたもので、斉昭は承諾する。

 優秀で弁も立ち、相手のほとんどが言い負かされる。何でも自分でやって、できてしまうような才人である。斉昭の血を引いて、女好きであり、京都時代は新門辰五郎の娘を愛妾にした。その縁で辰五郎の配下が家来になる。また一橋家は御三卿の家柄であり、生粋の家来がいない。渋沢栄一などを後に家来とする。

 思想としての水戸学の尊皇があり、朝敵になることを恐れる。これが行動の根本にある。そして「貴人に情無し」の言葉があるが、周りは自分に奉仕する者という意識で、家来への情は欠落している。大坂城から脱出する時に「自分には策がある」とか言って側近をだましたりしても平気である。少年時代からの軽躁で、遊びに狡猾さがあり、可愛気がないという性格が続いている。

 慶喜は自分の考え・行動を状況に応じて変え、他人からはその政治的活動が複雑で理解し難いから、慶喜が変節したのは側近が悪いのだと誤解され、腹心の用人の中根長十郎、平岡円四郎、原市之進が暗殺されている。絶対に主君にしたくない人物である。
 司馬遼太郎はコロコロ変わる慶喜の心情、行動を丹念にたどって歴史小説にしており、慶喜が大政奉還をしたのも必然と思わせるように書いているのはさずがである。ただし、司馬遼太郎自身が好きな人物ではない筆使いである。

 慶喜に対して、同情する点は一橋家という家来もあまりいない家を立脚点にしていたこと、江戸城内の大奥や、幕府閣僚、旗本も、親の水戸の斉昭への反発が根強かったこと、もちろん慶喜の変節極まりない行動、考え方も反発を受けたこと、もちろん京都での薩長主導の政界からの警戒、また当初は味方だった四賢侯にも理解されなくなったこと、そして欧米列強がやってきたという時世という大きな波である。こういう中での立ち居振る舞いであり、活躍にも限界があったことだろう。

「司馬遼太郎全集20 酔って候」司馬遼太郎著

この小説には以下の4つの短編が含まれている。「酔って候」「きつね馬」「伊達の黒船」「肥前の妖怪」である。いずれも幕末に大名ながら活躍した人物を取り上げている。全体のタイトルにしている「酔って候」は土佐の山内容堂、「きつね馬」は薩摩の島津久光、「伊達の黒船」は伊予宇和島の伊達宗城、「肥前の妖怪」は肥前の鍋島閑叟の話である。もっとも「伊達の黒船」は殿様のことより、蒸気船を作れと命じられた非常に器用な提灯の張り替え屋嘉蔵のことを主に書いている。

 「酔って候」の山内豊信容堂は山内家の分家の生まれで、剣は無外流を学び、馬術は源家古流、居合も学び、馬術と居合は練達していた。22歳の時に藩主が34歳で逝去。その実弟が25歳で跡を継ぐが、襲封の御礼に行った時に急死する。公儀の法度では廃絶だが、家老が島津斉彬、伊達宗城、黒田斉溥などを通して老中阿部正弘に工作して15代藩主になる。
 上述したように武芸に堪能で酒も強く、侠客のような気風があり、史籍、漢詩、和歌なども造詣がある。土佐藩特有の上士、下士の身分制度を堅持し、吉田東洋を抜擢する。越前松平春嶽、宇和島の伊達宗城、島津斉彬と「天下の四賢侯」と称せられた。井伊に逆らって一橋慶喜を推したために、隠居せざるを得なくなる。その後の幕末動乱は下士層の脱藩浪士が長州藩と結んで活躍し、容堂は後藤象二郎、乾(板垣)退助の上士を使い、大政奉還や慶喜赦免のことなどを働きかける。

「きつね馬」は島津久光の話である。兄の島津斉彬を尊敬していたので、兄と同様なことをやろうと指向したが、西郷に田舎者と言われたように、人物の位が違っていることを書いている。大久保は久光に取り入り、藩士個人ではなく、藩全体で倒幕に向かうように工作し、成功したわけだ。薩摩藩主を江戸に呼ぼうと幕府が画策し、その実現を阻止するために江戸の上屋敷を大久保などが暗躍して火事を起こす。それでも幕府は木曽川治水の金を免除するかわりに藩邸を造り替え、上京するように仕向ける。この途中で寺田屋事件を起こし、この帰りに生麦事件をおこすわけだ。西郷のことは安禄山として謀反人扱いであった。

「伊達の黒船」は伊予宇和島藩の伊達宗城の話だが、彼も伊達家の親戚の旗本の生まれで養子になる。優れた人物だったようで新しい機械にも関心が高く、藩で蒸気船を作ろうとする。人材を探したら、城下の器用な提灯張り替え職人の嘉蔵を家来が推挙し、その嘉蔵が苦心惨憺して、最期は長崎に行って学び、蒸気機関を作ってしまうまでを描いている。宇和島藩の藩士や、御用商人などは嘉蔵の身分が低いので馬鹿にし、結局は機関の製作を邪魔するている様子を書いている。藩医の村田蔵六(大村益次郎)が作ったと思っていたが、彼は船体を作り、肝腎の蒸気機関は嘉蔵が作ったわけだ。

「肥前の妖怪」は佐賀鍋島藩の鍋島閑叟の話である。鍋島藩は一代おきに明君が出るとのことで子供の頃から期待され、それに見事に応えた実に優秀な藩主であることが記されている。乳母の影響も書いている。藩の金が無い現実を踏まえ、藩も商人のようにと考え、密貿易も行ったようだが、記録は残っていない。その後、西洋との違いは軍事技術の差と気が付き、大砲や銃器を自前で製産するようになる。また一定の学問を修めないと家禄を減じるとの制度をつくり教育に力を注ぐ。藩の頭脳は藩主だけでいいとして藩士の統制を強め、鎖国主義を貫く。幕末の土壇場で薩長につき、薩長土肥となり、近代的軍事力を発揮する。

「司馬遼太郎全集19、20 峠」司馬遼太郎著

 いい小説である。私は司馬遼太郎の小説の中で一番好きである。幕末に越後長岡藩士として誕生した河井継之助の物語である。
 継之助の家は勘定奉行や新潟奉行などを務めたことがある上士で百二十石程度の家系である。代々の役職柄で、金銭の蓄えのある家で裕福であった。この冨が全国を遊学し、同時に芸者遊び、吉原での遊びも好きな人物像を作り上げる。

 長岡藩牧野家では当時では珍しく朱子学ではなく、陽明学が学ばれていたそうである。ただ「知識は知ることだけでなく実行が伴わなければダメ」くらいの教えだったと考えられるが、継之助は陽明学に傾倒していく。その考えが表出した為か、継之助は武術でも基本の役割さえ学べば、それ以上に精緻に極めるということはしない人物として描かれている。この小説では陽明学のこともわかりやすく紹介している。

 また当時は学問を修めた人物に会って啓発されることが大事であり、継之助は諸国に出向く。前半の継之助の廻国修業中の話として大垣藩の小原徹心、伊勢藤堂藩の齋藤拙堂、土井聱牙(ごうが)などの学問もあって施政にも携わった人物を河井が訪れる場面があり、彼等の業績も紹介されている。廻国修業の中で前記のような人物の元を訪問したことは歴史小説的だが、時代小説らしく読者を楽しませる箇所、例えば本願寺縁戚の娘で情交を交わすところや、吉原の大夫と遊ぶところなども織り込んでいる。最も吉原での遊びの中で、当時の吉原の仕組みなどを詳しく語るところは司馬遼太郎らしい。また道中で長州の吉田俊麿と同行させて長州藩の成り立ちなども書くところもある。そして幕藩体制である封建制度のことや、佐幕勤皇の動きに合わせて、日本における天皇制のことなどに対する司馬遼太郎の学識も折り折りに披露している。

廻国修業の最期に生涯の師となる備中松山藩の山田方谷に出会う。彼は学者であるが同時に政治家であり、大きな影響を受ける。
継之助は大政奉還時に長岡藩として藩主も含めて大坂に出向いているのだが、大政奉還時の幕閣の狼狽する様子や大坂城内の混乱振りを詳細に書いている。それは時の老中板倉勝静が山田方谷の抱え主であったことなどから、老中に継之助が自由に会えて情勢を語らしたりできるように小説をうまく構成している。
 このような小説づくりの巧みさは、継之助と幕府外国方の福地源一郎(桜痴)が懇意であったことなどでも発揮されており、福地の言を通して、維新時の幕府内の混乱、旗本・御家人の腰抜けぶりなども生き生きと描いている。
また福地を通して横浜の外国人街に出向き、スイス人商人との交流や、武器商人スネルと交流する様子を描いていく。スイス人との交流は継之助が長岡藩を武装中立という立場を目指した遠因になっているようだ。またスネルは商人の博奕的感覚もあったと思われるが、長岡藩の武器の近代化に大きく寄与している。機関銃であるガットリング砲を2挺も購入したのは、この人物とのつながりによる。長岡戦争時にはスネルを通して藩主をヨーロッパに亡命させることも手配している。武器の購入にあたっての資金は、慣例であった賄賂などの政治を正したりして藩庫を豊かにしたことや、江戸屋敷の什器・重宝を売却したりで調達しているが、当時の越後平野の豊かさもあったのだろう。
 福地源一郎から、同様に技能(外国語)によって幕府に抱えられた福澤諭吉と知り合う設定にしており、ここで福澤の思想を紹介している。

 江戸から長岡に外国の武器商人スネルの船でかえる時に桑名藩(柏崎に藩領をもらい移封)の殿様や立見尚文(後に日露戦争で活躍)と会話したりと興味深い。

 複雑で難しい時世の中で、長岡藩の筆頭家老(執政)になった河井継之助は困難な藩の舵取りを迫られる。武装中立と言っても7万石余の小大名であり、どうしても時世の大波に押し流されていく。越後諸藩も薩長軍(西軍)への軍用金の提出と兵の派遣を要請され、拒めなくなってくる。
 西軍の陣地で最期の談判に出向いた時、越後に来ていた会津軍は談判を妨害する目的で、近隣で西軍と争う。その中で長岡藩の軍旗を遺して退却するようなことも行い、時の西軍の軍監である岩村は河井との談判を拒絶する。
 万策尽きた継之助は、河井の政策に反対していた藩士の元に出向き、自分(河井)の首を差し出して、軍用金を提出して、会津攻めに加わるか、西軍に反抗して会津と一緒に戦うかの2者選択となったことを伝える。これには継之助の反対者も一緒に戦うことを賛成して長岡戦争に至る。
 武装中立を志向していたので、それまでは会津軍なども自藩領に入れず、榎峠などの要衝も西軍が占拠するに任せていた為に、苦戦を強いられるが、近代的な軍装備も相俟って、よく戦い、西軍に多大の損害を与える。
 城を奪われたが、泥濘んだ地帯を渡るという奇襲で奪い返すこともする。しかし、いかんせん小藩の長岡藩士は1200~1300名程度の兵力である。蒸気船で柏崎や新潟に送られてくる新手の西軍や、寝返って攻めてくる近隣諸藩の多勢には抗することは無理である。この過程で長州の山県、薩摩の黒田など西軍側の将帥のことも触れられている

 戦いの途中で継之助は砲撃に当り、深手を負い、その傷が元で会津への街道の途中で死去する。河井家の従僕として松蔵という忠義溢れる魅力的な人物も登場するが、松蔵に命じて棺桶を作らせ、自分の遺体を焼く薪を積ませて死去する。
 なお、河井には子がいなく、妻は長岡の狭い世界だけに生きるような女性としているが、継之助との細やかな愛情を育んだ武家の女性として描いている。
 河井継之助の風貌、気概、考え方がわかりやすく、また魅力的に書かれている小説であり、読了するのが惜しい感じとなった。


「小菅優&新日本フィルハーモニー交響楽団」於すみだトリフォニーホール

昨夜、標記の演奏会に妻と出向く。緊急事態宣言発出前だが、中止の連絡がいつ入るかと思っていたが、無事に開催された。
観客の座っている席は結構な間隔であり、そういう配慮はされている。

ベートーヴェン生誕250周年に関する催事の一環で、演目は「劇音楽エグモント序曲」「ピアノ協奏曲第1番 ハ長調」「ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 皇帝」の3曲である。
「劇音楽エグモント序曲」はオーケストラだけの演奏で、指揮は角田鋼亮である。劇音楽だけあって曲調の変化を伴いながらもダイナミックな曲で、オーケストラも力一杯の演奏も見せて、楽しい。序曲がこれだと、本篇への期待がいやがうえにも高まるだろう。

次からピアノが入る。ピアニストの小菅優さんははじめて知るが、ドイツで長く暮らし、ヨーロッパ各地の交響楽団と共演し、特にベートーヴェンの曲に思い入れがあると解説に記してある。
弱い打鍵でも音がクリアであり、また物凄く早い打鍵の場面でも一音一音が明確で見事な演奏だった。

ベートーヴェンが偉大なのは私が今更言うまでもないが、聴いていると、音楽に安らかさとか穏やかさを表現するにしても、その前に心を大きく波立たせるようなダイナミックなメロディ・音が入る。この後に安らぎが来るような音楽である。私のような人間には心が震えるような演奏が強く印象に残る。「ピアノ協奏曲第1番 ハ長調」では第1楽章、「ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 皇帝」でも第1楽章と、第3楽章の印象が強く残る。

音楽が教会で神に捧げる荘厳なものや、バックミュージック的に、食事、舞踏の場に流れていれば心地良いととらえていた当時の貴族には、音楽が主役となって心を騒がすようなベートーヴェンの曲は新鮮と同時に違和感を持ったことだろうと改めて思う。その曲、その演奏の為に音楽会に聴きに行くようにさせたのがベートーヴェンなのだろう。

ピアノの独奏の場面、ピアノが先導してオーケストラの演奏を引っ張る場面、逆にオーケストラの音に乗って、ピアノが入り込んでいく場面など、小菅さんと角田さんのオーケストラは一体となって楽しかった。

なお、この演奏はGO TOイベントの対象で、入場料が安くなっている。私はGo Toの特典を使ったことはなかったが、この演奏会ではじめて恩恵を受けた。

「司馬遼太郎全集18 戦雲の夢」司馬遼太郎著

長宗我部元親の息子の長宗我部盛親の物語である。私の好きな小説である。元親は晩年に嫡子信親を島津との戸次川の戦いで亡くした後は気力が衰え、秀吉亡き後を探る政局にも無関心となって秀吉没後に死ぬ。
元親には二男、三男がいたが、末子の盛親が跡をとるように元親生前に定める。次男は病死したが、三男は津野家に入り津野孫次郎親忠となる。盛親を家老の久武内蔵助が推しているが、権勢を強める久武に対して、国元では反感を持つ武士が多く、彼は津野孫次郎をもり立てようとする動きを強める。津野は藤堂高虎と関係があったとされ、関ヶ原後に何者かによって殺される。当然、盛親に関係のある者の殺害と予想されたこともあって、関ヶ原後の処分が厳しくなったと言う。

司馬遼太郎は盛親を欲の少ない男として描く。一騎駆けの武者として才能に溢れているが、戦国大名的な欲が薄い人物として描く。それが女性との接し方にも現れるとして、そのあたりを小説的に書いている。それら女性の中では、弥次兵衛の妹の田鶴、晩年に京都の具足師の娘の里が主な女性であり、他の公家娘とか京都所司代の隠密でもあった女などは小説の点景である。

徳川と石田の争い時においては、国元で東軍に参戦すると決めて、徳川家に使者を出すが、その使者が途中で西軍方の陣を抜けられずに戻ってきて、仕方無く西軍に付く。この時、山内家の使者は山伏に変装して、無事に東軍方へ妻女の手紙とともに届けられる。使者の首尾で、土佐を失った者と土佐を得た者の差が書かれていて興味深い。

西軍として参陣するが、西軍諸将の動向に失望する。そして伏見城の戦いに参戦して功を上げるが、関ヶ原の戦いでは毛利軍の近くで、戦場を傍観していただけで敗軍となって落ちのびる。
戦後、井伊家を通して詫びを入れるが、前述した津野孫次郎を殺害事件などで、心証を悪くして、改易となって死は免れるが京都所司代の監視の下で寺子屋の師匠として大岩祐夢と改名して過ごす。
この間に、自分の夢、男と生まれたからの生きがいが具体化してくる。

なお、盛親の行動の近くに、司馬遼太郎の小説らしく伊賀者の雲兵衛という者を登場させ、司馬遼太郎らしい筋を展開しやすくしている。また盛親の気が付かない夢を女遊びを教えて蕩けさせて、別の意味で市井に平穏に暮らす道に導こうとする本願寺坊主を登場させて、小説に厚みを持たしている。

盛親には幼き頃から一緒に過ごした家老の息子の桑名弥次兵衛がおり、この交流も物語に深みを添える。盛親との交流を通して、盛親の人柄、境遇などを生き生きと描写するのに活用している。大坂夏の陣で盛親の長宗我部軍と桑名弥次兵衛が属する藤堂軍が戦い、弥次兵衛が戦死する。

男の夢は事の成否は問わず、やりたいことを見つけ、それを実現すべく行動することと、長宗我部盛親の物語を通して書いている。

「はじめて読む人のための人間学」藤尾秀昭 著

いただいた本である。雑誌「致知」の編集長が執筆した本であり、この雑誌が取り上げる孔子から二宮尊徳、松下幸之助、安岡正篤などの言を紹介しながら、要は人間は環境や他人のせいにしないで、自分自身の心の成長を常にはかりながら生きていくことが大切ということをくりかえし説いている。

当たり前のことだから、以上のように書くと、何の面白みも感じぜず、流されることであるが、それを上記の先哲の言も織り込みながらやさしく記述した本である。

読むだけなら1時間もかからずに読める。だけど、本に書かれていることを実践しようとしたら一生かかってもできないということである。

そういうことで、私は読み流してしまう本である。

「源氏物語 時代が見える 人物が解る」谷沢永一解説 風巻景次郎・清水好子

刀剣に関する論文を次から次へと書いていたから、アウトプットに追われ、インプットの読書などは、関係する資料の渉猟・読み込みに終始していた。

この本は、久し振りに谷沢永一氏の名前をみたので読んだ。私は谷沢氏の著作は好きであり、この本は谷沢氏が書いた部分は解説だけだが、碩学の谷沢氏が選択した風巻景次郎と清水好子の文章を取り入れて、良い本に仕上がっている。

この本の第1部が「やさしい源氏物語入門」として風巻景次郎の文、そこに谷沢の解説。第二部が「「源氏物語」要約」として清水好子の文で、そこにも谷沢の解説という構成になっている。
風巻景次郎とは国文学の大家で、正岡子規以来の万葉集重視から古今和歌集、新古今和歌集こそ平安朝以来の文学の伝統を継ぐものだと再評価をした人物とのことだ。

清水好子とは関西大学の名誉教授として源氏物語についての研究書が多い人物である。

第一部は入門書として書いた本だから「文学について」「文学の種類について」「光源氏の物語」「源氏物語はどうして出来たか」の章に分かれている。
ここで、源氏物語はそれ以前に生まれた物語と違って怪奇なことがなにもない。ほんとうにあるかのように書かれている本であり、書かれている作中人物の気持ちも「そうだろうな」と思わせるところが目新しいと書く。

源氏物語は、帝の后の中でももっとも身分の低い人、帝が一番深く愛した人から生まれたのが光源氏。母は亡くなるが、帝はこの人によく似た藤壺を愛すようになる。その後、光源氏はこの人を愛すようになり、子供ができる。また光源氏は藤壺の姪にあたる女性紫の上を養女のように面倒をみるというように、母を早くに亡くしたという点は紫式部と共通だとする。

そして、源氏物語は当時の公家の中では位が低い受領クラスの娘が入内して栄華を極めるという時代が過ぎた時に執筆されたと書く。紫式部の母は早く死に、父に育てられ、父が兄に漢文を教える時に自身も学び、本に嗜むようになったことなどを源氏物語誕生のきっかけとしている。心を病んだことで作者は誠実になり、千古に読み継がれる文学になったとも書く。

第二部の清水氏は、源氏物語の各帖ごとを要約している。要約と言っても小説風にエッセンスをまとめているから、源氏物語を読んだ気になる。各帖に名付けられた名前(桐壺、夕顔、若紫など)の意味も考察している。

谷沢永一は、源氏物語は心の襞を1枚1枚めくるように丹念に述べる表現を大成した物語で筋の展開を追っていくより、より感覚的になって生動する気分を捉えようとしていると解説し、漢詩文の影響を受けていると書く。

「司馬遼太郎全集18 夏草の賦」司馬遼太郎著

長宗我部元親の物語である。元親の妻となった美濃の斎藤内蔵助利三(後に明智光秀の重臣)の妹の菜々も主人公並みに物語に登場させている。この一族には石谷光政(兄弟)や春日局(斎藤利三の娘)などが出ている。そして当時の岐阜城下での絶世の美人として描いている。元親は長宗我部家に外部の優秀な血を入れようとして、土佐と商売をしていた堺の商人に頼み、彼が仲介しての輿入れとなったわけである。鬼の住むと言われた土佐に嫁入りするわけであり、菜々もそのような性格を持つ魅力的な女性に描いているのは、いつもの司馬遼太郎の筆である。一条家に使いに出向いての大暴れなどは面白い。

元親は早くから織田信長に関心を示しており、長男の名乗りにおいて信長から「信」の字を賜っていることである。織田家において長宗我部と親しいのは明智家である。その重臣の斎藤、石谷は菜々の兄である。今回、再読して驚いたのは、織田家が元親に対して、土佐と阿波の一部は認めるが、他の領土は返上しろと無理な要求を使者として伝えたのが石谷光政であり、その説得の場面が描かれているのだが、その中で元親が「それほど拙者に同情してくださるのなら、いっそかの信長を斃してしまわれては」と石谷に伝える場面があることである。そして元親は「明智どのが、信長を斃す。斃したあと、毛利家と同盟していちはやく京をおさえる。拙者は四国勢をあげて大いに応援つかまつりましょう」と言う。ここでは石谷が狼狽して、明智光秀には言えないと、帰るシーンである。
現在、本能寺の変は、信長が従来の織田家の外交ルートの明智→長宗我部路線から、織田信雄(秀吉も三好と縁戚になる)→三好路線に変更したことが一因と言われはじめており、ここで司馬遼太郎が石谷に「帰って殿(明智)に、このこと(信長を斃す案)を伝えます」と書いておけば、先駆的な洞察とされたことであろう。

元親は若い頃は女の子のようにか弱い男と見なされ、次の領主が勤まるかと家臣から案じられていた。司馬遼太郎はエピソードから人柄を浮かび上がらせていくような腕を持つ小説家だが、この本では「元親は天性の策謀家」とか「元親は権謀家」とかの言葉を出している。エピソードとなる物語が資料として少ないのだろう。
このような知謀も駆使して四国全土を切り従えていく様子が書かれている。土佐の動員能力を高めるために一領具足の制度を作ったとする。この一領具足の民を駆使して四国平定を進めた時に、中央では信長、次いで秀吉の政権ができる。その政権は土佐一国は認めるが、他国は返上しろと命じてくる。この時の元親の悲哀を書いている。
元親は大坂で秀吉の威勢を知り、その人物に触れて、自信の天下取りを諦めるのだが、何の為に土佐の民を一領具足としてまで戦争に駆り出し、多くの民を殺してきたのかと悔恨の念にさいなまれる。
それから元親と菜々の間に生まれ、信長の一字をもらった信親の人物像を描いていく。勇気も知恵もある理想的な跡取りである。元親は理想的な武将となった息子故に、悪賢さなどを身につけさそうとする。
そして、秀吉の命令で、大友氏救援の為の島津征伐の先鋒として長宗我部軍は渡海する。この時の総指揮者は秀吉の軍監の仙石秀久であるが、陰険な口先だけの男として描き、同じく先鋒の三好一族の十河存保とは仇敵の間柄。そのような軍で、島津軍に大敗する。
そして大事な跡取りの信親を死なす。この死を知らずに菜々も病気がちになり逝去する。
この後は気力も萎え、秀吉後の政局に関する動きにも乗り遅れ、西軍となって改易される。また家の相続においても、長男信親亡き後に、二男、三男の相続を認めずに末子の盛親(菜々の子)とするなど混乱する。
なんで「夏草の賦」というタイトルかと言うことを考えたが、「夏草や兵(ツワモノ)どもの夢の跡」という芭蕉の句意を、司馬遼太郎は元親が四国平定に邁進したが中央権力によって、その成果を失うという元親晩年の姿にふさわしいと感じたのであろう。