長谷川利行の画集3点

御縁があって長谷川利行のデッサンを入手した。所蔵していた絵画4点を下取りに出す。強く清らかな少年像だが、「東京の落書き 1930’s 長谷川利行と小熊秀雄の時代」展の画集に所載で、そこでは「少女」とされている。妻とも話すが、少女と見えなくもない。そういうことがあり、改めて長谷川利行の画集を3冊紐解く。

長谷川利行の作品には具体的な人物(例えば岸田国士、前田夕暮、矢野文夫、寺田政明、靉光など)を描いた絵もあり、それらは魅力的だが、無名の少年や少女を描いた絵も多くある。私に御縁のあった絵もその中の一枚だが、私が好きな一枚で、凛としたところ、清らかなところ、純なところなどを感じる。

昭和51年2月に日本橋三越で開催された「長谷川利行展」の出品シールも添付されている。この展覧会の副題に「長谷川利行 河野コレクション」とある。河野コレクションとは河野保雄氏のコレクションのことだと思う。氏は福島市の実業家で、音楽評論家でもあり、日本を代表する洋画コレクターの一人とのことだ。いち早く青木繁、岸田劉生、関根正二、長谷川利行などの画家を評価したようだ。ちなみに私はこれら作家は好きであり、関根正二の「三星」の絵(国立近代美術館蔵)は大好きな1枚である。ともかく河野保雄氏が所有されていたものだろうか。

また羽黒洞の木村東介氏の鑑定シールも添付してある。木村東介も独特の画商である。肉筆浮世絵の扱いでも名高い。

長谷川利行の絵は、人物画以外には、当時の東京のモダンな建造物を描いたものや、それら建造物の内部を描いたものなどもある。関東大震災後の復興に心が惹かれたのかもしれない。彼は詩人、歌人であり、関東大震災を歌った歌誌「火岸」も出している。

「生誕100年記念 長谷川利行展 図録」、「長谷川利行画集」が今回観た画集だが、後者の立派な本では長谷川利行を高く評価する画家、画商などが座談会で語り合っている。長谷川は「日本のゴッホ」と言われているが、ゴッホよりいいと述べている人もいる。ファンだから、このような言い方になるのだろう。

これら画集の解説の中で、長谷川利行は西洋画で言えばフォービズム(野獣派)だが、表現主義的な画家でもあるとして、日本の文人画の系列なのではあるまいかと述べている一節があり、この評が私の気持ちにも合致する。蕪村、浦上玉堂、鉄斎などの系列なのだろうか。蕪村の京都の夜の雪景色を描いた絵など大好きだが、これら画家の作品は、このように私の感性に合うものと、あまりピンとこないものがある。長谷川利行の作品も、この作品のように自分の感情が揺さぶられるものもある反面、あまり感動しないものもある。こういうのが文人画の特色なのであろうか。

長谷川は金が無い生活をし、絵を買ってくれと押しつけるようなところもあり、そういう状況だから風体も汚く、敬遠する人も多かったようだ。また絵もキチンとしたデッサン力の裏付けのあるものではないが、心打つものがある画家である。

「長谷川利行画集」に掲載の絵では、利行の色が美しい画家と感じる。「生誕100年記念 長谷川利行展 図録」に掲載の絵をみると、色は濁った暗い感じのものが目に付く。早描きの作家なのだが、さらに省筆した絵も掲載されている。「東京の落書き 1930’s 長谷川利行と小熊秀雄の時代」展の画集では、人物画の良いものが収められている。

以下にリンクした画集は私が読んだ画集とは違うが何種類も出されており、その一つとして掲載しておく。


『シリーズ藩物語 福井藩』舟澤茂樹 著

これは「シリーズ藩物語」として、刊行されているものの一冊で、越前福井藩の話である。
藩祖の事績や、代々の藩主のこと、その時々で藩に生じた出来事や、藩の特産品などが書かれていて興味深い。
朝倉氏時代のことは触れられておらず、柴田勝家からのことで、結城秀康以降の江戸時代の話が中心である。幕末の松平春嶽と次ぎの代まで記載されている。

江戸時代は加賀藩への抑えの役割、家格的には秀忠の兄の家ということで68万石の大藩となるが、秀康の子忠直の時に「越前騒動」(久世騒動)という重臣間の御家騒動がある。秀康は武功の士を求め、それらを高禄で召し抱える。その結果55万5千石を家中の給地で12万5千石が秀康の蔵入地という構成になった。万石以上の家来が7家もあるという状況である。こういうことが御家騒動の遠因の一つである。

また忠直が大坂の陣の恩賞の不満などから生活が乱れ、豊後に配流になる。そして50万石になり、徳川綱吉政権時代に藩主の問題から「貞享の半知」と言われる事態(25万石)になる。
「貞享の半知」は藩全体の知行削減だが、寛文時代から藩財政が逼迫して、藩士の知行が実質的に削られていく状況も記されている。
そして、福井藩は将軍家から養子をもらうことで、藩財政を持参金で補填するようになる。幕末の松平春嶽も、田安邸で徳川斉匡の8男と生まれ、11歳で越前家を継ぐ。春嶽は中根雪江(側用人)、浅井政昭(側向頭取)という藩主に直言して諌止するような家臣を登用している。医術も盛んであり、藩として種痘をやったことも知る。

国立近代美術館 通常展

昨日、妻と出向く。先週まで鏑木清方の「幻の《築地明石町》特別公開」で非常な混雑だったようだ。この日は「MOMATガイドスタッフ」によるギャラリー解説に参加する。この解説は、スタッフからの一方的な説明ではなく、そこに参加した人からも意見を聴取するようなもので、こういうのも面白いと感じる。
ただ、私もそうだが、美術に詳しい人から、そうでない人まで参加した人が勝手な意見を言うわけだから、意義を感じない人もいるかもしれない。
そういう形式だから、一つ一つの作品に時間がかかる。今回は菱田春草の作品で明治天皇が愛されたという「雀に烏」の屏風と、写真家の奈良原一高の「無国籍地から」の一連の写真作品と、菱田春草の「蟻」(正確な題かは自信が無い)の掛け軸の3点の作品だ。
「蟻」の作品を紹介する前に、参加者一人一人に蟻の絵を画いてもらう趣向である。私も画いたが、正確には画けない。菱田春草がある人から絵を頼まれたのになかなか画かない。そこで注文主はせめて蟻の一匹でも画いてくださいと言ったら、春草は本当に蟻を小さく一匹画いたという逸話のある掛け軸である。一流画家が常日頃からデッサンを行っていることを、我々素人に画かせることで教えてくれたようだ。

奈良原の作品は廃墟の中で、三角形、四角形、円形などの幾何的な模様が出たところを写真に撮り、そういうことで、どこの国の写真かなどをわからなくしているから「無国籍地から」という表題にしているのであろうか。参加者各人が、作品群の中から自分の好きな1枚を選び、それを選定した理由を述べるというスタイルであった。

「雀に烏」は烏と雀に柳を描いたものである。烏が一羽、中段のやや下部の柳の枝に止まり、寂しげな絵である。明治天皇はこの孤独に共感を感じたのであろうか。柳は老木で、よく見ると細かく色を塗り分けて巧みである。柳の枝は冬の為か葉も無いが、新芽は画かれている。そこに雀がたくさん止まっている。飛んでる鳥はいなかったと思う。

通常展であるから、何度も拝見している絵が多い。だけど名品であり、良い美術館だと思う。中村彝の「エロシェンコ像」、岸田劉生の「自画像」、松本竣介の「Y市の橋」など良い絵である。日本人の作品だけでなく、マティス、セザンヌ、ブラックなどの名品も展示されている。
フジタの戦争画も展示されている。自分の技倆を誇っているような絵である。
今回の展示では、工芸品も展示してあるのが変わったところである。近くの工芸館が金沢に移転する為であろうか。

「レンズが撮らえたオックスフォード大学所蔵幕末明治の日本」フィリップ・グローヴァー著 三井圭司編

オックスフォード大学付属図書館に所蔵されているピット・リヴァースのコレクションから幕末期の日本の写真を紹介した本である。
日本人の肖像写真、日本の風俗、日本の景色などの写真である。横浜で観光客用に売られていた写真もある。当時は白黒写真であるが、それに手彩色しているものもある。
肖像写真には第一回遣欧使節団や第二回遣欧使節団のメンバーで名前が判明している人物もある。有名人では福澤諭吉がいる。着物の正装姿で大小を差している写真である。大小を見ると、大と小をまったく同じ刀装にしている人より、違う人の方が多い。柄糸は白黒写真だから判然としないが、大が白、小が黒の柄糸もある。ワイシャツ、蝶ネクタイの上に着物を着ている写真もある。
他に有名人の写真として徳川慶喜のがある。
女性の写真もある。パリ世界万博の日本茶室で働いていた女性とのことだ。琴を弾いたり、人力車に乗ったりの女性もいるし、今でも美人と思える若い女性の写真もある。
また日本の風俗として、鎧を着たり、火消し装束の武士もいる。切腹を申し渡された時の様子を演技しているものもある。
町人も雑技団のメンバーが写真に写っている。見事な刺青を着色した人物もいる。
風景は富士山、銀閣寺、金閣寺、鎌倉の大仏、伊香保温泉、亀戸天神、堀切菖蒲園、清水寺、四条大橋、石山寺、祇園、奈良明日香の遺跡などや考古の出土品のもある。またアイヌ人を撮ったものもある。写真を撮った人の関心が趣くままである。

「国宝ロストワールド」岡塚章子、金子隆一、説田晃大 著

この書は、明治の写真の黎明期に、日本の仏像、建築物などを被写体として写真家の作品を紹介している。こういう写真が残っていたおかげで、沖縄の首里城や法隆寺金堂壁画の再建もできたわけである。

当初は記録的なもの、日本の観光みやげの写真だが、芸術的な写真も登場するようになり、その経緯も面白い。

全部で33の写真である。写真家としては横山松三郎(日光や法隆寺夢殿、東大寺大仏、名古屋城天守閣など)、フェリーチェ・ベアト(長谷の大仏)、日下部金兵衛(東大寺大仏殿)、アドルフォ・ファリサーリ(知恩院三門)、小川一眞(法隆寺の釈迦三尊像、興福寺無著菩薩立像など)、光村利藻(彦根城天守閣)、工藤利三郎(興福寺阿修羅像など)、鎌倉芳太郎(首里城正殿)、小川晴暘(中宮寺菩薩半跏思惟像、新薬師寺跋折羅大将像など)佐藤浜次郎(法隆寺金堂壁画)、佐藤辰三(観心寺如意輪観音菩薩像)、辻本米三郎(神護寺薬師如来立像)、大八木威男(高松塚壁画)、坂本万七(法隆寺五重塔北面侍者像)、土門拳(神護寺薬師如来立像、平等院鳳凰堂夕焼けなど)、入江泰吉(東大寺戒壇堂広目天像、秋深き法起寺など)、藤本四八(薬師寺薬師如来坐像の足裏)、渡辺義雄(唐招提寺講堂内部の天井)である。

私はアドルフォ・ファリサーリの知恩院、小川一眞の無著菩薩立像、小川晴暘の中宮寺菩薩半跏思惟像、新薬師寺跋折羅大将像、辻本米三郎の神護寺薬師如来立像、坂本万七の法隆寺五重塔北面侍者像、土門拳の神護寺薬師如来立像、入江泰吉の東大寺戒壇堂広目天像の写真が好きだ。
被写体の素晴らしさ、その素晴らしい魅力を引き出した写真家の目、技術に感服する。

なお本文の中で、著者が主な写真家の技術的系譜や技法などを記して、日本写真史になっている。

「考古学が解き明かす古代史」古庄浩明 著

考古学者が書いた日本の古代史(弥生時代~壬申の乱)である。水田遺跡としては佐賀・菜畑遺跡で山ノ寺式土器と一緒に発見されたのが古い。紀元前300年頃か。稲は中国の長江の中・下流域が起源で、朝鮮半島経由か、あるいは海を越えて直接来たかである。青森県砂沢遺跡から水田跡が発見されるなどの結果、稲作は急激に広まったと考えられる。

日本では銅と鉄が同時期に伝わり、青銅器は主に祭りに使われる。島根県出雲市斐川町神庭西谷の荒神谷遺跡で中細形銅剣が358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見。近くの加茂岩倉遺跡でも銅鐸39個が発掘。出雲勢力はその後青銅器の祭祀を放棄して、方形の墳丘の四隅を突き出させる四隅突出型墳丘墓を造る。次の段階で近畿では古墳文化が起こる。近畿の古墳には吉備地方の特殊器台や九州の鏡を埋納する儀礼も取り込んでいるから、近畿と各地方のつながりが想起される。

金印については真偽論争がある。邪馬台国論争で近畿説では卑弥呼の墓を箸墓古墳とし、纏向遺跡を邪馬台国とするのが一般的だが、著者は中山大塚古墳が一番上の河岸段丘にあり、特殊器台が出土しているし、近くの黒塚古墳(天理市にあり、33面の三角縁神獣鏡が出土し、盗掘穴から三世紀代の庄内式土器が出土)が卑弥呼を補佐した男弟の墓と考え、次のトヨが箸墓古墳の主ではなかろうかと推測している。

古墳時代とは3世紀中頃から7世紀末頃までである。各首長は身分秩序に応じた古墳を造る。前方後円墳で古いのは箸墓古墳。

鉄製品は朝鮮の弁辰(加邪)から鉄鋌(てつてい)というインゴットで輸入していた。
東日本には濃尾平野を中心に狗奴国があった。

3世紀後半から中国は混乱。これに乗じて高句麗が勢力を伸ばす。朝鮮では346年に百済が小国連合の馬韓を、356年には新羅が小国連合の辰韓を統一する。南下する高句麗に対抗。ヤマトは南部の弁韓(任那)に進出。高句麗に圧迫された百済は倭と同盟。396年に任那を支配。高句麗で倭と戦ったのが好太王である。

高句麗と戦うことで倭も馬を重視し、都を河内に移す。仁徳天皇などである。4世紀後半は朝鮮半島諸国は中国に朝貢する。倭も中国南朝に朝貢する。413年~502年に倭の五王が計13回朝貢する。
軍事のウェイトが高くなり、各地の古墳からワカタケル大王(雄略天皇)との関係を示す鉄剣が発見される。

朝鮮半島では475年に高句麗が百済を攻め、任那では倭の支配力が後退して、512年に任那を百済に譲渡。新羅も浸食。

倭では王族同士の骨肉の争い。大王に権力が集中し、それを支える大伴、物部などの豪族の力が強くなり、支配層の身分制度が確立する。地方では反発も生まれ、吉備氏が反乱する。武蔵でも争いがある。

越前から継体天皇が入り507年に即位する。527年には筑紫磐井の乱が起きる。
百済から仏教が531年に伝わる。562年、新羅は任那を完全に制圧。百済などからの渡来人が文化をもたらす。

571年の欽明天皇の見瀬丸山古墳が最期の前方後円墳で以降は円墳や方墳。7世紀には八角形墳が大王の墓に生まれる。

589年に中国で隋が統一する。日本は4回の遣隋使。天皇中心の中央集権国家が生まれる。疫病の流行に伴い、崇仏と廃仏の争いが生まれる。
以降は聖徳太子の時代から、645年の大化の改新に到る。663年に白村江の戦いで負け、百済は名実とも滅亡し、新羅が朝鮮を統一する。
672年の壬申の乱と移っていく。

「特別展 人・神・自然 …ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界」於東京国立博物館

先日、「正倉院展」を拝観し、その時に東洋館で開催されている標記の展覧会を観たのだが、この時は予約したレストランからの連絡で観覧を中断した。面白い展示であり、昨日、この展覧会のみ再訪した。これは世間に騒がれていないが実に面白い展覧会である。

エジプト、メソポタミア、ナイジェリア、中央アジア、西アジア、ギリシャ、ローマ、東地中海、中国、メキシコ、グァテマラ、ペルー、南アラビアなど各地の古代に創られた美術工芸品の展示である。出品目録は全部で117点とある。

前2050年頃のメソポタミアの「男性像頭像」は写実的で端正な顔の像で美しい。他に前2000~前1800年頃の「男性像頭部」も展示されていたが、人間らしい自然な造形であった。「容器」として宝石を散りばめた銀細工も凄いものだった。

ナイジェリアのノク文化という前5世紀~後5世紀の「男性像頭部」はアフリカ系の顔立ちの像で目鼻が独特、頭部の頭髪の編み方も印象的であった。当展覧会で一番印象に残ったものである。
エジプト新王国時代のアマルナ文化の「女性像頭部」はエジプトらしく後頭部が長い像だが威厳もある。「化粧用匙」は女性が飛び込みをしているようなスラッとしたものだ。

「バクトリアの王女」は前2300~前1800年頃に中央アジアで製作された小さい全身像だが、衣服の模様が網目のようで手が混んでいる。材質は金と銀だろうか。
古代ローマ(161~175年頃)の「女性像頭部」はまさにローマの彫刻で、顔立ちなどは現代人と同様に写実している美人である。

西アジアの「容器」、「皿」は狩りをしている様子を写した金属器だが、この地域の嗜好なのだろう。西アジアでは前アケメネス朝ペルシャ(前7~前6世紀)の「水差し」は豪華な金属工芸である。

メキシコ・オルメカ文化の「ペンダント」は面白い。また南アメリカではペルーのモチェ文化(2~3世紀)の「ペンダント」は猿のような模様で印象に残る。グァテマラ・マヤ文明の「仮面」は人顔を四角くしており特徴的である。ただ中南米はインカのもののような感じで既視感はある。

アラビア半島南部古代南アラビア文化(100年頃)の「浮彫」は大きな大理石に彫られたデフォルメされた女性半身像のレリーフだが、強い印象を残す。「墓碑」は同様だがより抽象化されているが、その分、面白い。今のイエメンだが凄いものだ。

図録が価値があると思ったが、家に展覧会図録が多くあり、処分を考えている最中であり、断念した。
知る人は知るで、意外と多くの人が観覧に来ていた。

「蘇我氏の古代史」 武光誠 著

藤ノ木古墳を見学し、その埋葬者説の一つに、ほぼ同時期に蘇我馬子に殺害された穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟)と、その従兄弟の宅部皇子(宣化天皇の子)という説があることを知ったので、この本を読む。

この本は蘇我氏の本流の稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代の事績を中心に記述している。古墳時代など古い時代のことは勉強していないから、理解しにくい点もある。加えて馴染みの無い古代の人名(天皇になると名が変わる)や、血族結婚が多い為の関係性の把握にも骨が折れる。

蘇我氏は豪族連合政権時代の大和朝廷の末期(6~7世紀)に栄える。
稲目の頃は大供金村と物部麁鹿火(あらかい)が大連で稲目が大臣だった。蘇我氏は葛城氏に連なる豪族であった。朝廷の財政を預かる役割だった。
仏教が伝来した時に蘇我稲目が家を寺(桜井寺)で仏を祭る。飛鳥の西に欽明天皇の見瀬円山古墳、東に蘇我馬子の石舞台古墳を築く。馬子は積極的に仏教を保護した。

敏達天皇が亡くなり、炊屋姫は子の竹田皇子を王にしたいが幼いので、姫と馬子が中継ぎとして豊日皇子(用明天皇:敏達天皇の異母弟で炊屋姫の同母兄)を大王にする。この時、穴穂部皇子は自分が大王になりたく、物部守屋と近づく。
用明天皇は病気になる。この頃、物部と蘇我が対立する。ここに彦人大兄皇子という第三勢力が大王になることを望む。しかし馬子側の圧倒的兵力を見て動きを止める。
物部側の穴穂部皇子と宅部皇子を討てとの炊屋姫の命令を受けて、馬子が殺す。翌日に宅部皇子を殺す。馬子は穴穂部皇子の弟の泊瀨部皇子に、竹田皇子が成長するまでの大王にすると約束して味方に付ける。
この後、物部守屋を討伐する。そして泊瀨部皇子が崇峻天皇になる。そして新羅遠征計画が立案される。崇峻天皇が蘇我馬子を討とうとしたので、逆に崇峻天皇を暗殺する。
炊屋姫が推古天皇となる。推古天皇は補佐役として聖徳太子(用明天皇の子で厩戸皇子)を起用する。
飛鳥文明がはじまる。古墳の時代から氏寺という大寺院の時代である。607年に遣隋使を派遣する。
その頃、朝鮮半島の高麗、新羅、百済の争いが激しくなり、三国は競って日本に友好を求める。

この後も、蘇我氏を中心に複雑な政治情勢が記述されていく。簡単に記すと、中国大陸の隋、唐の大帝国の成立。それに伴う朝鮮半島の混乱。それが日本の政治情勢に影響する。
一方で、遣隋使として帰国した者が大陸の中央集権国家の姿を教える。
そして豪族連合政権時代から中央集権国家への移行をはじめたのが645年の大化の改新である。それから672年の壬申の乱まで朝鮮半島情勢も含めた激動の時代に入る。

「戦国 戦の作法」小和田哲男 監修

戦国時代の戦いの流れや陣形、かけ声、様々な武器のことなど、戦いに関することを幅広く記述されている。絵での解説も多く、わかりやすい。
石を手ぬぐいを利用して遠心力を増して投げる方法など、なるほどと思う。この方法だと、遠くには飛ぶが、命中率は低くなるが、遠くの敵の集団に投げ込むのには有効だろう。
馬の鎧も、当然にあったことと思っていたが、この本で具体的に知ることができる。狙う方からすれば標的の大きい馬を攻撃するは優先順位が高い。
具体的に、この本では次の章に分けている。「1.戦いの作法」「2.出陣・進軍の作法」「3.裏工作・戦後の作法」とに大きく分け、「1.戦いの作法」では「流れと戦法」「接近戦の武器」「飛び道具」「防具」「馬」「目印」「ケース別の戦い」(ケースとは野外、海上、城郭)として、それぞれを説明している。
同様に「2.出陣・進軍の作法」では「軍隊の働き」「従軍中の問題」などが記述され、「3.裏工作・戦後の作法」では「情報戦略」「戦後の処理」などに興味深いことが書かれている。
時代小説、歴史小説でも書こうと考えている人には参考になるのではと思う。

「日本史の深層」矢作直樹 著

この本は、こういう見方も一理あると言うことを書いているのだが、歴史の時々において、天皇陛下の考えられていたこと、天皇陛下の行動が多くの局面で正しかったという視点が強く出ている本である。具体的に言及されている天皇陛下は明治、大正、昭和という近代の陛下である。ここまで常に陛下のお考え、行動は正しかったとされると天皇陛下にとっても迷惑ではなかろうか。
人は、考え、行動するに当たり、各人の接する情報によって判断するだろうから、他国の王族クラスの方と接することの多い陛下は、それなりの的確な判断があったことも考えうる。
著者は医学分野において東大教授も勤めたこともあるようだが、このような思想というか考え方を持つ人がいたことに驚く。
即位の礼などでも、多くの人が陛下のお姿を拝する為に集まっている状況を見れば、このような本の愛読者も一定数以上はいると思う。
私も人からは右寄りだと言われるが、この本にはついていけない。

「江戸の家計簿」磯田道史 著

江戸時代の武士、農民、商人や芸人、職人の収入や、食品の物価、料理・嗜好品・雑貨などの価格を現代の価格に換算して示し、その江戸時代の生活実態やリサイクル社会の実情、江戸の出版事情などを記述している。
私も拙著『江戸の日本刀』の「29章 江戸時代の貨幣・収入単位と物価水準、新々刀の価格」で江戸時代の物価を現在価格に換算したが、その時は米の価格などではなく、人件費を比較して1両30万円で換算した。
この本も1両30万円で換算している。江戸時代と現代では嗜好も異なり、製造方法や生産量も大きく違うから、分野によっては1両30万円の換算が合わないこともあるが、それは仕方が無い。
この本は幅広い分野で、江戸時代の物価を網羅していて興味深い。

農民の収支を『江戸物価事典』(小野武雄編著)から示している。耕作面積水田一町歩の農民の例である。米20石、畑作5反でダイコン売上135貫文、麦収穫6石で13両750文(395万円6250円)の収入で、支出は11両で差し引き2両とある。

大工が比較的高収入(年収800万円)であることが記されている。また髪結い職人も月収60万円とのことである。日本橋から吉原までの駕籠料金は500文で現在価格で3万7500円とある。千両役者はほとんどいなかったようだが500両(1億5000万円)程度の年収をとる役者はいたようだ。

また江戸時代は美味として三鳥二魚として、鶴、ヒバリ、鷭、鯛、アンコウがもて囃されたようだ。
雑誌に連載していたものを加筆して出版されたようで、途中、途中に他の人のエッセイが織り込まれている。作家のあさのあつこ氏、シーボルト研究者の宮坂正英氏、発酵学者の小泉武夫氏、歴史学者の北原進氏がそれぞれの分野で記したものである。

帆船日本丸、横浜みなと博物館

自治会の旅行で、標記の施設に出向く。事前に団体予約していたためか、ボランティアのガイドの方がいて、説明していただくが、想像以上に勉強になった。ただし見学時間が十分ではなく、ボランティアの方に説明時間を短くお願いしたために失礼したのではと反省している。

日本丸(これは初代の船で今は2代目が航海練習船として就航)は外から見ると、優美な帆船(重要文化財に指定)であるが、中に入ると鋼鉄製の頑丈な船だ。4本あるマストの傾きを微妙に変えていること、帆船の操舵では大きな舵輪の1回転が1度の進路変更であり、例えば30度と大きく曲がる時は30回も舵輪を廻さなくてはいけないことを知る。

横浜みなと博物館では、横浜という港町が幕末からどのように発展してきたのかがわかり、また横浜港に求められる機能が時代を追って、どのように変化し、それに対応する為に、港の設備・機能をどのように変えてきているかがよくわかった。
ペリーの艦隊の模型もあり、大砲を撃つために、下側の帆は畳んでいること、砲撃の煙でも国の旗が見えるように国旗が大きいなど、なるほどと思う。
港は当初は絹を輸出し、その後、移民を送り出し、関東大震災では横浜が東京以上の被害を受けたこと、そして震災の瓦礫を埋めて山下公園が整地されて作られたこと、そして太平洋戦争で被災など、時代ごとの変遷がよくわかる。
今は豪華客船が着くようになり、コンテナ船はコンテナが18000個も詰めるような大形船が竣工し、その荷下ろしをする為のガントリークレーンの機能がいかに進化して省人数で対応できるようになっているのかがよくわかる。

昼は赤レンガ倉庫内のレストランで食事をして、東京湾横断道の海ホタルに寄って帰宅する。

「ハプスブルク展」於国立西洋美術館

オーストリアと国交樹立150周年記念ということで、ウィーン美術史美術館に収蔵されているハプスブルク家に伝わった武具、工芸品、調度品、絵画などの美術品を展観するものである。
ハプスブルク家はライン川上流の豪族であったが、13世紀末にオーストリアに進出。そこを拠点にして15世紀以降は神聖ローマ帝国の皇帝の位を世襲し、スペインにも勢力を伸ばし、欧州各国の王家とも姻戚関係を結ぶ。ナポレオンによって神聖ローマ帝国解体後はオーストリア=ハンガリー2重帝国の皇帝として第一次世界大戦まで君臨した。

この展覧会では、ハプスブルグ家の皇帝一族としてマクシミリアン1世(15世紀)、ルドルフ2世(16世紀)、フェリペ4世(17世紀)、マルガリータ・テレサ(17世紀)、マリア・テレジア(18世紀)、マリー・アントワネット(18世紀)、フランツ・ヨーゼフ1世(19世紀)、エリザベト(19世紀)に脚光を当てて、その蒐集品などを展示している。

これら人物の肖像画が展示されているが、ディエゴ・ベラスケスの有名なお人形さんのようなマルガリータ・テレサの像や、女傑と称せられるにふさわしいマリア・テレジアの像、肌が美しく、髪型も華やかなマリー・アントワネットの像、現代にも通じる美人のエリザベトなどの女性像が目立つ。
美術史的にはベラスケス以外はあまり有名でない作家だが、当時にもて囃された肖像画家の渾身の作品である。美術史の分類ではバロック美術(均衡のルネサンス絵画から、躍動感があり、明暗がはっきりするようになる。画題はルネサンス期と同様にキリスト関係、ギリシャ神話関係、王族の肖像画など)の系列であろうか。

クレオパトラの絵(作者チェザーレ・ダンディーニ)なども真に迫った迫真性があり、カラヴァッジョの絵のようだ。

皇帝蒐集の絵画であり、一族の肖像画や古典的な画題(キリスト関係、ギリシャ神話関係)が多い。自分達の統治が優れていることを立証する民衆の絵も存在する。
肖像画は似ていなくてはいけないし、立派に見えることも大事だろう。背景で人物を暗示することが必要などでの制約もあるが、この過程で写実画は進歩したのだろう。

絵画以外の作品では、マクシミリアン1世の甲冑などの甲冑コレクションが目を惹く。材質は鉄、皮などだが、鉄は錆びておらず、今、作ったように健全で驚く。機能的ながら豪華である。槍試合用などの用途別に造りが少し違うようで16世紀頃のものだ。
金線細工の小籠、フォークやスプーン(セイロンで作られた水晶に金、宝石で装飾)や十字架型の日時計は緻密で豪華な細工である。また法螺貝や、椰子の実などの自然のものをを取り込んだ水差なども面白い。

藤ノ木古墳

法隆寺から西の方角にあって近くである。小高い丸い岡として綺麗に整備されているが、これが未盗掘だったとは信じられない。今は何度か発掘調査が行われ、その都度、整備されてきたのであろう。
江戸時代までは横にお寺(陵堂)があり、その建物が幕末に火災にあったという伝承を裏付けるものが発掘されたようだ。寺(陵堂)があっ為に古墳が境内に取り込まれていた為に盗掘を免れたようだ。

内部を見られるように古墳の入口は厳重な戸にガラスが嵌められているが、照明が故障しているようで真っ暗な闇しか見えない。ただ私が行った時は、太陽の加減で少し内部が見えた。

内部の様子や、発掘当時の遺品の状況は、近くの斑鳩文化財センターに出向くと詳しくわかる。来る人が少ないせいか、そこの案内の方に詳しく説明を受ける。
埋葬されていたのは、20代くらいの若い男と40代くらいの男の2体が、ほぼ同時期に一緒に埋葬されていたようだ。埋葬者は正式にはまだ特定されていないようだが、ほぼ同時期に亡くなったと言うことから蘇我馬子に殺害された穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟)、その従兄弟の宅部皇子ではと推測されている。蘇我派=仏教導入派と物部派=仏教否定派の闘争が激しかった時代である。

藤ノ木古墳からの出土品そのものは別のところに保管されていて、このセンターではレプリカの展示である。レプリカと言っても、破損状況や変色状況まで再現されていて見事なものである。馬具の立派なものが出て、鞍の部材の文様には象が描かれている。随を経てインド、西アジアの影響である。

映像を上映する簡単なホールがあり、そこで私一人だが映像を上映してもらった。私の後には地元の幼稚園児が入って観ていた。
玄室への入口を模した通路があったり、家形棺のレプリカもあり、発掘当時の中の様子も再現されている。なお外にも赤く塗られた棺の模型があるが、これで狭い場所で壊さないように棺の蓋を開ける発掘方法などの準備を行ったと説明を受ける。

未盗掘であったが、凝灰岩の石棺であり、凝灰岩は水を通すために、棺の内部に水が溜まったこともあり、発掘時も少し水があったようである。凝灰岩だから溜まった水も下に抜けるわけだ。

棺の中にある靴も太刀も大きいものだった。埋葬者の身長はともに160㎝くらいで当時としては高い方だが、敢えて大きく見せたようだ。

なお、現在はここで「中宮寺跡を掘る」として特別展が開催されていて、この近くの古寺の屋根瓦が展観されていた。今の中宮寺とは別な場所に当初は中宮寺が建立されいたようで、その跡地を発掘した成果が展示されている。

古代史に関心がある人にはたまらない場所であろう。

法隆寺 唐招提寺 薬師寺

今回、奈良の寺と京都の寺の違いがわかった気になる。簡単に言うと奈良の寺には庭が無い。京都の寺には庭がある。奈良の寺は古い時代に建立されており、中国の影響が強く、京都の寺は室町以降の建立で日本式(畳に座ることも含めて)なのだろうか。

法隆寺と薬師寺は中学か高校の修学旅行で来たことがあるが、それ以来である。唐招提寺ははじめてである。どの寺でも、出会う僧侶、モノを尋ねる案内人もフレンドリーな挨拶をされて気持ちがいい。

法隆寺には朝早く出向く。JR法隆寺駅から20分程度歩いただろうか。途中から、両側に石垣で土手になって松並木がになっている幅一間ほどの参道が一直線に続く。
参道から南大門を入ると、途中に東大門と西大門を結ぶ通りがあり、東大門を抜けると東院伽藍で、そこに聖徳太子の為の八角の夢殿がある。一面だけが開けられていたが、中はよくは見えない。
東西の通りの先に中門を真ん中に廻廊が取り巻き、後ろに大講堂がある。廻廊の中に右に五重塔と左に金堂が建っている。ここが西院伽藍である。

金堂の中、五重塔の前で僧侶達が勤行していた。世界最古の木造建築物だ。各建築物の建設時期は全て同一ではないが、一つ一つの建築物だけでなく、全体が残っているのも貴重である。カンボジアに行ってアンコールワット等の遺跡を見たが、あれは石造の部分だけが残っているだけで、当時にあった木造の建物は跡形も無く、儚い思いを懐いたことを思い出す。それだけ法隆寺は貴重である。

金堂は2階建てで一階の屋根が大きく、どっしりした印象だ。薬師寺の三重塔もそうだが、五重塔が高い印象を持たなかった。他の建物が大きいからであろうか。ともかく、人間の住まいではなく、仏様の住まいであるという印象だ。

大宝蔵院は新たに百済観音像をまつるための建物だが、法隆寺の宝物である玉虫厨子や橘夫人厨子などが保管されている。照明が暗いので見えにくいが、玉虫の羽が貼られているのだろう。

今回は西の小高い丘の上にある西円堂を訪れる。昔の庶民の刀剣が所狭しと奉納されていたとされるが、現在は中を覗いても何もない。

唐招提寺は南大門を入ると広いアプローチがあって、その先に金堂が存在感を持ってせまってくる。鵄尾も大きく、屋根が裾野をひく距離が長く立派である。中には盧舎那仏の大きな像と、千手観音の素晴らしい像も安置されていた。
この後ろに講堂があり、右側に東室・礼堂の細長い建物があり、さらに右側に正倉院のような校倉造りの経堂、宝蔵がある。日本最古の校倉造りとのことだ。結構、床が高い。
今は奥の御影堂は工事中であった。
新宝蔵では、仏像が展示されていたが、頭部がないが「東洋のビーナス」とされる如来形立像があり、なまめかしい曲線である。
境内の左の方には戒壇跡の石造りが残っていて、今はインドの仏塔のようなものが鎮座している。鑑真和尚が日本の僧に受戒したところである。

ここは奥の御影堂、鑑真和尚御廟などは一段高い土地にある。
日本への航海が厳しく、5度の失敗で盲目になられたとあるが、航海の失敗と目はどのように関係しているのであろうか。航海とは関係無しに、御歳を取られて白内障で盲目になられたのではなかろうか。

薬師寺は西側の古い三重塔が修理中であったが、足場が外れつつあり、見える。再建された西塔は鮮やかな朱だが、西の方は木の古びた色と白の漆喰で落ち着いている。

ちなみに薬師寺は昔、高田好胤氏が法話を行い、それで人気を博して金堂などの再建費用を集めていた。その法話の伝統は今に続いているようで、この時も僧侶が面白くお話しされている様子が窺えた。
再建された金堂は色も綺麗であり、創建当初をイメージしやすい。ただ何となく金集めが優先されるような感じがする寺である。

薬師寺は仏様が優美な感じがして魅力的である。薬師如来を中心に日光、月光菩薩像や東院堂の聖観世音菩薩像も優美で魅力的である。火災で焼けたものもあるようだが、黒光りしていて魅力が一層に引き立つ。


大阪市立東洋陶磁美術館

大阪歴史博物館から廻る。平常展の安宅コレクションと李秉昌韓国陶磁室などが目当てであるが、この日は他に「受贈記念 辻井コレクション 灯火具-ゆらめくあかり」と「沖コレクション 鼻煙壺」が開催されていた。
私は焼き物に詳しくないが、高麗青磁や中国の青磁などの色と形状に強く惹かれる。高麗青磁にも色々な色が発色するようだが、ここに収蔵されている作品の水色に灰色が交じったような青磁は好きな色だ。また形も優しい感じがして愛おしい。
私は美術品は刀剣、刀装具、浮世絵などを集めているが、これらの前に高麗青磁を知っていれば、こちらにはまったかもしれない。

12世紀の作品で「青磁瓜形瓶」は口の開いた首から行灯のような上部が膨らんだ壺、そして下部はまた末広がりの台だが、良い形だ。
「青磁砧形瓶」も「青磁瓶」も「青磁陽刻 牡丹蓮華文 鶴首瓶」も皆、同じように魅力的な色で、形状の調子も良く似たと言ってもいいものだが、形そのものはそれぞれに違っていて魅力的である。

「青磁 洗」は堂々たる広口でわずかに下がつぼまるような深皿である。「青磁陽刻 筍形水注」は太くて短い筍の先端部が蓋になっている水を注ぐ器で面白くも美しい。これらも12世紀の製作のようだ。

黒釉、白磁などもあるが、白磁の色合も優しさがあっていい。高麗の歴史は知らないが、陶磁器にとっては素晴らしい時代である。

焼き物の名称は青磁のほかに粉青、鉄絵、青花など決まりがあり、形状にも特有の言葉があって、それらの組合わせで識者は想像できるのだろうが、私には知識がない。

中国の南宋、元の時代は13。14世紀だが、この時代の青磁は少し緑色が増して濃くなるような気がするが、これはこれで魅力がある。国宝の「飛青磁花生」も展示されているが、そんな色合いに、黒っぽい文様が鉄で付けられたものだ。下脹れのたおやかなプロポーションをしている。黒っぽい模様は配置をちょっと間違うと汚くなるような気がするが、微妙なところで素晴らしい。

国宝と言えば油滴天目も展示されているが、不思議な模様が出るものだと感心する。また天目茶碗では木の葉が焼き付けられているようなもので発想が凄い。
日本人の感性と言うか茶人の感性だと、飛青磁とか油滴、木の葉のような乱れがある方が好まれるのではないか。

中国は歴史が古いから、時代ごとに様々なものがある。唐三彩のものは色よりも西域の人物などの風俗が面白く、明の時代のものは紺色などの綺麗な発色に緻密な文様。清は大きなものも出来てくるような気もする。

日本の陶器では、織部の時代の、歪みのある造形が面白いが、日本人が表面ザラザラの陶器を好むのは縄文土器からの感性であろうか。

鼻煙壺は小さなものであるが、色や模様が綺麗である。こういうものや灯火具など、このように種類で集める人がいることを知り、その分、陶磁器の世界は深いものだ。鼻煙壺は19世紀から20世紀のものが大半だ。灯火具は江戸時代の後期から明治にかけてのものが多い。

「特別展 決定版 刀装具鑑賞入門」於大阪歴史博物館

大阪歴史博物館に初めて出向き、標記の展観を拝見する。アクリル版の上の鐔を斜めにして観やすくしたり、小さなLEDライトを当てたりして鑑賞の便を図っている。表裏の模様の違いを見せるための工夫もしている。それでも暗くて観にくいところがあるが、今はライトの持ち込み・照射もありとして便宜を図っているとのことである。

すでにカタログ(カタログの感想はhttps://mirakudokuraku.at.webry.info/201910/article_7.html)を送っていただいており、誌上で展観される刀装具を観ていたが、実際に拝見すると、また印象が異なる。

埋忠二字銘の「松皮菱透花象嵌鐔」は明寿より時代が若い江戸時代初期~前期のものだろうが、この時代にも松皮菱文様が広く流行したのだ。私はHP上で「桃山時代のファッション-「松皮菱文様」」( http://katana.mane-ana.co.jp/matsukawabishi.html)で所蔵の金山鐔松皮菱透かしの補足説明として、松皮菱紋は古くは後藤乗真と極められている小柄にあり、戦国大名で織田信長の前に京周辺に覇を唱えた三好一門の家紋から始まり、丹羽長秀の旗印、辻が花染め織物の模様、織部焼の器にあると説明してきたが、江戸時代前期の伊万里焼にも見ている。また所蔵の赤坂初二代の四方松皮菱にあり、これは江戸の寛文新刀期のものではなかろうかと推論しているが、この鐔も参考になる資料である。京都のものであり、華やかである。

寛文三年紀・行年銘六十二歳が切られている宗義の鐔があったが、やり過ぎなデザインと感じるが年紀があり、研究資料だ。京都の埋忠系の鐔が他にいくつかあるが、素銅地に桐紋散しで無銘だが光忠のような鐔、埋忠重義の輪繋透象嵌鐔など面白いものがある。

細かい所はわからないのだが「鉄仁」と銘がある覆輪に拙い亀を透かした鐔は金家の一派なのであろうか。地鉄に魅力を感じる。
また、無銘だが、真鍮の三重の覆輪があり、円を六つ透かした鐔は確かに桃山期の雰囲気のある良い鐔だ。
山吉兵は所蔵していないので、銘はまだ研究していないが、山吉らしくトロリとした鉄味の素朴な小鐔が陳列されていた。

知られていない金工だが、奥州の磐城の政久、会津の松村弥右衛門の鐔も魅力のあるものだ。後者は埋忠明寿の影響を上手に受け止めた名品だ。なお、諸国の鐔の中に勝矢コレクションの中に肥後鐔が無かったというのは不思議である。早くに勝矢家から出てしまったのであろうか。
薩摩の二代正勝/英彦の鐔も独創的である。長州鐔の中では井上清高の花菱唐草透鐔は素晴らしい。中井善助友恒は地の仕立てが独創的である。

後藤廉乗の牛車図を拝見した時、その車軸の傾きを観て、うれしくなる。後藤光佐は力作、程乗の鋸図小柄はさすがである。後藤光煕の藤戸図における波の表現、戸張富久の月が波間に映っている小柄は名作だ。

浜野一門の薄肉彫、縦図の人物図は上手いがアクが強くなるものもある。大森英秀の干網千鳥図は豪華で目を惹く。石黒政常の鯉図小柄は水流の彫りに感銘。
田中忠重という作者の「柏に鳩図縁頭」は津尋甫にある赤銅魚子地に赤銅で高彫というもので興味深い。
会場の最期の場所に、阪井俊政氏の鐔製作過程を撮った映像が流れていて興味深く観た。

東京ディズニーランド

娘と孫2人のお供で我々夫婦2人が昨日、ディズニーランドに出向く。風も無く、快晴でいい天気であった。我々も子どもを連れて何度も来ているが、昔と違っている感じもした。
現在も、シンデレラ城は改修工事中で、他に工事中の箇所もいくつかあった。目立たないようにしているが。また園の近接する外部では新たな工事もしており、まだまだ進化していくのだろう。

上の孫は3歳10ヶ月の男の子で、途中、ベビーカーに乗ったり、おんぶをせがんだりするが、よく歩く。途中でトイレに行きたいと言った時に、広い園内のトイレの場所まで歩いて我慢できるかと思ったが、ちゃんと出向けて感心した。
電車が好きだから、行く時に武蔵野線に乗れ、中でウエスタンリバー鉄道に乗り、帰りにディズニーランド一周のモノレールに乗って、そのおもちゃのプラレールを買ってもらって満足である。

娘がスマホでファストパスなどを上手に取って、あまり並ばずに観ることができたが、こういう機器をうまく活用できないと、難しい世の中になってきた。

施設で改めて印象に残ったのは音楽の使い方である。外では何も聞こえないが、中に入ると、場所ごとに大きな音で流れる。次の場所では、その場面にあった音楽や音声だけが聞こえる。観客は次から次へと流れていくのだから、うまく計算されて設計されているのだろう。
パレードでも、自分達の前に来ると、大きく聞こえると感じるのは、パレードに使う車に隠されたスピーカーがうまく機能しているからなのであろうか。そのような音楽はあちらこちらで流れていると思うのだが、余計な音、騒音として聞こえないのは大したものである。

映像も上手に活用している。ホーンテッドマンションでは、ダイニングの上にお化けのようなのが漂っているのなど、うまく出来ている。

色の組合わせも神経を使っていて、イッツ・ア・スモールワールドは美しいというか可愛らしい。

園内の人にモノを尋ねると、どの人も丁寧に教えてくれて感じが良い。こういうことが本当に大事なモテナシの心なのだろう。

食事は注文すると流れるように提供されるが、電子レンジで簡単にできるものを、見た目を良く提供している。これも工夫の一つだろう。いい値段を取っており、儲かるものだろう。

孫の為にポップコーンが入った容器を買ったが2400円もして驚いた。

アジア系の外国人も多く、また平日だが、若い日本人の夫婦も多い。子ども連れも多く、各アトラクションの前にあるベビーカー置き場は物凄い数である。ベビーカーを間違ったり、紛失するトラブルは無いのであろうか。

「戦国大名の遺宝」 五味文彦 監修

この本は以下の10章ごとに、その分野に詳しい専門家が著述し、それらをとりまとめたものである。見て頂いてわかるように、少し変わった歴史遺産を取り上げている。各章の内容に精粗がある感じもするが、それなりに興味深い。
「1.甲冑具足」、「2.装束と調度品」、「3.旗印」、「4.狩野派の絵画」、「5.読書と漢詩」、「6.戦国大名と茶道」、「7.囲碁・将棋」、「8.城郭」、「9.合戦図屏風」、「10.井伊家の遺宝」である。

「1.甲冑具足」では戦国武将が個性を生かして様々な意匠の甲冑を身につけていたことがわかる。兜の色々な種類の解説もあり、基礎知識を得るのにもよいし、各武将の甲冑を知るのにも良い。加藤嘉明の「黒漆塗仏胴具足」も面白い。南蛮の影響を受けた兜も広く使われていたことがわかる。
「2.装束と調度品」では辻が花染の胴服や武将の陣羽織、南蛮風の外套など、各武将の斬新なデザインに驚く。加藤清正の「蛇の目紋羅紗陣羽織」は、蛇の目が赤と黄であり、地は黒という鮮やかさである。豊臣秀吉の「黒黄羅紗地富士御神火文陣羽織」も、富士の御神火のデザインが面白いし、色も黒と金で鮮やかである。武将が使った刀剣と外装も紹介され、また馬具、采配、軍配、法螺貝、背負太鼓なども出ている。
「3.旗印」では大将の所在を示すのが馬印と解説されてきたが、旗印と区別がつきにくく、著者は旗の形をしたのが旗印で、そうでないのが馬印としている。屏風などから各武将の旗印を示している。神仏系と紋所系、記号、図形系などもある。

「4.狩野派の絵画」では狩野永徳(豪壮、華麗)、山楽(生命感あふれる動感表現)、探幽(繊細、優美)などを解説している。
「5.読書と漢詩」は北条早雲が家訓で少しの暇があれば物の本を読むことなどを書いている。そして禅需一致で儒教の本も読み、また連歌などを行う為に王朝文学も読んだことを記している。漢詩は信玄や謙信、伊達政宗が知られている。
「6.戦国大名と茶道」では当時の社交に茶道は不可欠であり、名物道具が贈り物に使われていることを書いている。
「7.囲碁・将棋」は、これまであまり紹介されることはないが、当時の武将に愛好されたことを記している。取った駒が使えないが駒数が多い中将棋も行われていた。駒の製作では公家の水無瀬家が家業とし、囲碁、将棋の専門家も生まれ、これらの人を招くことによる情報収集の役割もあったのではと書く。
「8.城郭」では現存する城の天主を一つずつ解説していて「なるほど、こういう視点があるのか」と感じるところがある。
「9.合戦図屏風」は現存する合戦図屏風に即して場面を解説し、「10.井伊家の遺宝」は井伊家という大名家の視点から以上のような各種遺宝を解説している。

「東洋文庫の北斎展」於東洋文庫ミュージアム

東洋文庫ははじめてである。ここは本の博物館であり、東洋学の研究図書館という位置づけで世界5大東洋学研究図書館の一つと言う。蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊とのことだ。
入ると受付と売店があり、そこから館内に入ると、右側の扉が中庭に面したオリエントカフェというレストランになっている。三菱と縁がある小岩井牧場の食材に拘った食事を提供している。ここで妻と食べる。そこに行くまでの壁にアジア各国の有名人の言葉や本の一節が現地の言葉で記されている。

館内は細長いロビー(オリエントホール)があり、20冊ほどの蔵書が展示してある。今回は葛飾北斎が生きた時代というテーマで『ナポレオン・ボナパルトの生涯』、『共産党宣言』、『純粋理性批判』、『ハワイ語辞書』などの書が並んで解説されている。本の言語は様々である。ホールの片面には広開土王拓本レプリカなどがある。この碑文がこんなに大きいとは知らなかった。また画像で、ここに所蔵されている書籍の概要が観られる機器もある。

そこから壁に付着したような階段を上がって2階に行く。この中央には古書が3段の岩場のような本棚にぎしりと収納された本棚が圧倒する。1段目は9棚、その上に2段目が少し奥まって3棚、されにその上には3段目が2棚ほどの書棚である。本も昔の本だから背表紙も立派である。これはモリソン書庫と言って、岩崎久彌氏が当時の金で70億円ほど出して購入したモリソン氏の蔵書である。G. E. モリソン氏が北京駐在中の約20年間に腐心収集したもので、『東方見聞録』、『天正遣欧使節記』や『ペリー提督日本遠征記』、『南洋漂流記』などがある。ペリーが上陸した時の図も展示してあるが、赤い服を着て上陸したようだ。

その左横の部屋が名品室と言うことで国宝の『文選集注』や『イエズス会士書簡集』、『解体新書』、『ターヘルアナトミア』などが展示されている。

その奥から回廊を伝わって戻るような形で2階の右側に行く。ガラスの床面のところがあり怖い。今回はそこで北斎展が開催されている。北斎の浮世絵は少なく、本の挿絵として北斎が画いたものなどの展示が多い。浮世絵は「諸国瀧廻り」の数枚が刷りも保存も良い。この水の表現は迫力がある。

今回は、「葛飾北斎とその時代」というテーマで安村敏信氏の講演があり、拝聴する。
北斎の若い時から、それぞれの時期の代表的な作品と特色を説明される。次のように6期に分けて、()内に記した特色を画像を紹介しながら説明される。次の通りである。
「1.春朗期19~34歳」(役者絵、相撲絵、浮絵)、「2.宗理期35~44歳」(宗理風美人、洋風版画)、「3.葛飾北斎期45~50歳」(鳥羽絵、読本挿絵、美人画の新境地)、「4.戴斗期51~60歳」(『北斎漫画』、鳥瞰図)、「5.為一期61~74歳」(『富嶽三十六景』、花鳥図版画)「6.画狂老人卍期75~90歳」(幻想の世界へ)

その後、北斎の門人とされている人の作品、同時代に活躍した他派の浮世絵師の作品を説明される。筆記具を持参しなかったので講演内容を詳しくメモしなかったが、「なるほど」と思った。