「名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか」小谷野敦 著

この本は、歴史学者の本ではなく、名前と言うものに興味を持った作家の随筆である。昨今、話題になっている夫婦別姓、ウェブの発達によるウェブ上の匿名問題などにも触れている。
次の章に分かれている。著者が名前に興味を持ち、色々と考察した結果をまとめている。
「武家官位について」「氏と姓」「諱と訓み」「外国人の名前」「一苗字、一名の近代日本」「匿名とは何か」である。

「武家官位について」では武家官位は時代によって取り扱われ方が違い、、室町時代で金銭で官位が与えられていたことを成功(じょうごう)と呼ぶ。また戦国時代は羽柴筑前守のように信長が私的に与えた。
徳川時代は幕府が朝廷から、朝廷からの官位とは別に武士に官位を与える権利を得た。同時代に同じ官位は無く、調整が必要になり、大名はやはり自分の任国の官位、例えば島津氏は大隅守や薩摩守、山内氏は土佐守などを希望した。
歌舞伎や近世の小説では昔の朝廷の官職名の「造酒(みき)」など善玉で色男に使われ、逆に「弾正」、「玄蕃」は悪玉に使われるというのも面白い。
また「丸」には人糞の意味があり、糞に災厄を退ける力があると思われ、人名につけるようになる。

「氏と姓」は氏は古代における一族の名称で、その代表が氏上(うじのかみ)で後の氏長者となる。源氏、平氏は天皇が臣籍になった者につける。足利、徳川などは苗字であり、公文書は源家康とかになる。女性の名前はわからない。ドラマで、例えば淀君とするが、淀君は蔑称で、淀殿が正しいとか、いや違うなどの論争もある。

「諱と訓み」では人名の本当の読み方はわかりにくく、新井白石の名は君美だが、「きみよし」と言う学者もいるし、「きんみ」と呼ぶ学者もいる。中宮定子も「ちゅうぐうていし」と読んでいるが「さだこ」の可能性もある。もっとも昔は人の名を呼ぶようなことは無かった。だから諱(いみな)と呼ばれていた。
上位者から一字を拝領するのを偏諱(へんき)で、代々に家で使われるのが「通字」である。だから偏諱で上下関係がわかる。
ここで著者は最近の相撲取りの名前が部屋伝統の通字(春日野部屋の栃、佐渡ヶ嶽部屋の琴など)を使わないこともあり、わかりにくくなっていると述べている。

「外国人の名前」では国によって様々であるのは当然として、色々と紹介しており「なるほど」と思う。ロシア人のミーシャはミハイルの愛称であり、「ミハイルちゃん」と愛称に更にちゃんをつけるのはおかしいと論じている。また外国では構造物に人名をつけることが多い(ジョン・F・ケネディ空港、レニングラードなど)という文化の違いにも言及する。

「一苗字、一名の近代日本」は明治の戸籍制度で定められたのだが、ここで諱系の名前と通称系の名前が混在するようになる。また昔は雅号も普通だった。西郷隆盛(南州)などだ。ここで夫婦別姓制度について問題提起をしている。

「匿名とは何か」で匿名での批評に怒った人物との論争を紹介しているが、匿名が許されるのは政治批判であり、文学者、芸術家への匿名批判が是か非かが問題となっていた。
最近はウェブの発達で一般人による匿名発信が可能となると、匿名の倫理は崩壊していると書く。当人の病気や家族のことなど、プライバシーがかかわる場合は匿名が許されるが、他は実名が原則だろうと述べている。そこに昨今は個人情報保護法がからむ。

「刀の明治維新」 尾脇秀和 著

この本は副題に「帯刀は武士の特権か?」とあるように、帯刀ということに焦点を当てて、江戸時代から明治初年までのことを記している。
江戸時代の帯刀のことは拙著『江戸の日本刀』で記したが、私が当たれていなかった史料にも言及しており参考になる。
要旨は、江戸時代のことは拙著と同様であるが、次のようなことである。
①帯刀(二本差し)が武士身分の象徴となり、百姓、町人には道中差しや礼式の場(婚礼、葬儀、年頭の挨拶など)で脇差一本だけの佩刀は許されていたこと。(所持は禁止しておらず、常時帯刀の禁止)
②脇差の長さが武士でも制限され、町人、百姓の脇差帯刀もどんどん制限されてきたこと。
③江戸時代後期になると身分の上昇を願い、金銭で帯刀身分を得る動きがあったこと。

町人、百姓身分での帯刀について、昔からの由緒や、職業上の慣例(例えば医者、儒者、神官、修験者など)、また大工頭は「職人統制の必要から」などとして帯刀を求める動きがあった。
また京都では普段は町人だが、時々公家の家来としての仕事をする人間などがいて帯刀を望んだ。

帯刀の許可は領主の権限(この場合は領内のみ有効)だが、神職を支配する京都の吉田家、白川家、陰陽師の土御門家などが許状と一緒に帯刀許可を出すこともあった。鋳物師の真継家は御室御所(仁和寺)からの免許である。

武士の帯刀は特権というより義務であり、帯刀していないと罰せられた。しかし、刀は斬っていいものではなく、与力、同心でも召し捕った時に褒賞が出るが、斬った時は出ないという状況だった。しかし18世紀末からはテロの時代となり、切捨、打捨措置も発動される。文久・慶応が殺傷の巷になったことで後世に刀への恐怖感が出る。
切捨御免という言葉は江戸時代にはなく、福澤諭吉の『学問のすすめ』(明治6年11月刊)が初見である。江戸時代に慮外打(無礼打)が認められていたが、この時でも「やむことをえず」(不得止事)場合と限定している。

そして明治初期の帯刀のことが詳しいが、明治初年、官員は必ず帯刀だった。公務にかかるという身分標識にする狙いだった。そして、民間の帯刀者についても調査し、明治2年に平民(百姓、町人)の帯刀を一切廃止した。
明治2年に「府県奉職規則」で府県による帯刀許可規定を作成したが、褒賞によるものは府県ではなく民部省へ上申が必要だった。

しかし藩も県にも規定が残り、取締、褒賞規定に差があったので様々な平民帯刀が表面化してきた。明治5年に平民への苗字帯刀許可規則は名実とも消滅した。なお官員以外の医師などは曖昧なままであった。こうして明治4年までは帯刀は官員・華士族のみが帯刀となる。こうした整理のあとの帯刀が廃刀令で禁止される。

役人の方は佩刀だったが、洋服を着ることで邪魔になり「帯刀をしないで良いか」との問い合わせが増えた。そして、明治4年半ばに「礼服以外の時は脱刀勝手たるべし」となる。脱刀自由令が出る。帯刀身分の方から帯刀への憧れが消失したわけである。
(明治2年に森有礼は廃刀議案を提出するが、否決され、森は辞任している。また、明治5年に司法省の江藤新平などで廃刀令は検討されていた。だけど政府は反対を恐れてためらう)

この時期、文明開化を説く啓蒙の書が多数出版される。旧来の習慣を「旧弊」と馬鹿にする。その一つに帯刀があり、旧弊とバカにされる象徴となって、刀は凶器と位置づけられてきた。

明治8年山県有朋は廃刀を建議する。明治9年廃刀令が出る。おおむね歓迎されたが、一部士族は逆らうが、どんどん取り締まられていく。
また脇差は帯刀ではないという意識もあった。それも取り締まられ、没収される。葬式でも同様。

そうして刀の価値が暴落する。商人(町田平吉)の中には二束三文の刀を買い、外国に売る者もいた。刀が二束三文になったのは、人を殺した因果応報だと質屋にまで軽蔑される。

他で参考になったのは次の話である。
大坂の陣などで戦いにおいては「きっ刃」として”刃を下向きにして腰にさす”ことが普通だったが、戦争がなくなるとこの差し方が消滅し、反りの無い刀が流行した。
だから当時は抜刀する時にわざわざ刀をきっぱに持ちかえる(そりを返す、きっぱをまわす)ことが行われていた。

「日本人の名前の歴史」 奥富敬之 著

勉強になる本であった。皇親が皇籍離脱して臣籍に降下する時には必ず賜姓(すなわち姓名が与えられる)がある。皇室財政が豊かな時は臣籍降下が遅い(例えば5代目に降下)が、厳しいとすぐに降下。自分で喰っていけということだ。
四姓(源平藤橘)では、669年に大化の改新の功績で中臣から藤原姓を賜る。橘は県犬養氏の娘三千代が授かる。敏達天皇の四世美努王に嫁して皇子を産み、次ぎに藤原不比等に嫁して娘を産む。この娘が聖武天皇と結婚して光明皇后となる。こうして橘姓を賜う。本来は一代限りだったが奈良遷都の直前の708年に皇子の葛城王などが望み、彼は橘諸兄となる。

奈良時代には賜姓として、文室(ぶんや)、岡、清原、豊原、高階があった。桓武天皇の時は広根、長岡と賜姓があり、延暦24年には102人もの皇籍離脱をする。
これ以降の嵯峨天皇の時にも合計32人を臣籍降下。この時、全て源の姓。以降、各代の天皇が源をつくり二十一流となる。嵯峨天皇は三筆と言われた能書家で中国の古典の知識があり、『魏書』の世祖が臣籍降下させる時に、「卿と朕とは源を同じうす」という故事を知っていた可能性もある。江戸時代の知識人は水元の意としている。また中国式に名も一字名だった。

ちなみに嵯峨天皇は日本の名前を画期的に変化させた。源姓、童名、漢字二字の実名、系字の導入など中国式の取り入れた。系字は兄弟が実名のうちの一字を共有するものである。それが嵯峨上皇没後150年ほど経つと、通字にかわる。後三条天皇の頃である。院政期の前後から全ての家が通字を持つ。

平氏は四流あるが、高望王が朝敵をたいらげたから平という説もあるが違う。自分で喰っていけの臣籍降下が源氏であるのに対して、平氏は自分から願い出て臣籍降下という面がある。平氏は地方官でも役職に就いていた。一世、二世の皇孫の賜姓は源、三世は平ということもあるとの学説がある。著者は平安遷都があった時に因んでの平姓ではと提起している。

古代の姓(かばね)が元であり、それは臣、連、県主などそれは種類が多かった。そして氏集団の名前が氏名だった。それは地名に由来する葛城、巨勢、蘇我、尾張、紀などがあり、それぞれ一定の職能を担当していた。蘇我が財政と外交、中臣、忌部が神道、大伴、物部、久米が軍事などである。
また職業、技術に由来する氏名に服部、土師、弓削、犬飼、鳥養、錦織、卜部などがある。後に丈部が長谷に、久備が久米、膳が高橋などになる。

大宝元年(701)に大宝律令が制定されると姓に意味は無くなる。四姓の言葉は1200年の「官職秘抄」にある。印度のカースト制度、中国、朝鮮にも四姓の制度がある。日本は制度ではない。

姓名を賜姓する一方で、罪として姓名を取り上げたり、改姓させることもある。姓を奪う権限は、氏族の長にもある。事前に氏族が集まり、その決定を下す。
氏の長者の権能は氏神を祀り氏社、氏寺を管理。氏の学院を管理、氏人を放氏、また続氏する、氏爵を推挙する。

藤原は中臣で朝廷の神事、卜占の担当。まつりごと=政治を担当するようになる。京都に藤原が多くなり、区別するために住邸の所在地で呼び合う。この時期、男は妻の家に住む。だから父と子で称号は別。

源平合戦から鎌倉時代に12~13世紀に社会全体が母系から父系になる。称号は個人のものでなく、一定の家のものになる。こうなった時に名字という。古代は名字と書き、江戸時代に苗字。名字は狂言、謡曲に残る。

武家は名字の地を一所懸命の地として守る。今昔物語に武家の名字がある。平良文が村岡五郎と名乗る。名字は便利であり、10世紀からすぐに普及。自分が領主であることを誇示する。

頼朝は源姓の制限をする。御門葉ノ制という。6人が任じられた。頼朝が国司を推挙する権限を持つ国を関東御知行国として、三河、駿河、武蔵、伊豆、相模、上総、信濃、越後、豊後などがある。この下に准門葉もあった。

源氏は紋が無く、白旗だけ。笹竜胆は村上源氏の諸流がつかう。三代で亡びたので家紋は成立しなかった。

名字には官職由来のものも多い。佐藤は佐渡守、衛門佐、兵衛佐、下野佐野荘由来などがある。左藤は佐藤の転訛とする説と左衛門尉由来説がある。

源平合戦頃には領地を持たない者も姓名を名乗るようになるが、名前だけの武者もいる。

非領主階級の人々は名字公称を自粛する風潮が室町時代にも続く。このうち許可無く名字を名乗るのが罪となる風潮がでる。同時に名誉、報償として名字を名乗らせることもおきる。献金で名字を与えることもあった。旗本領でも起きる。

明治に戸籍で名乗らすように指示を出すと、庶民はその裏を考えて、名字は無いとか届ける。明治5年の壬申戸籍である。翌年徴兵制が敷かれる。

実名は時代ごとに特徴がある。大和朝廷は男は彦、女は媛、姫である。郎女・郎子(いらつめ)がある。男性では動物の名前も多い。ただ実名敬避という風潮は呪術から生まれる。そこで通称。太郎、次郎などの仮名(けみょう)や律令官職名を名乗る。
麿、麻侶、麻呂も多い。のちに自分のことをまろという。下層階級の丸だが童名としても使われる。

烏帽子親の儀式で童名を捨てる。この時偏諱頂戴となる。幼名が皆、惣領は同じというのもあった。



「日本史の謎は「地形』で解ける」 竹村公太郎 著

著者は元は建設省の技監であり、ダム、河川のことの専門家のようである。日本史上の出来事を地形の視点から新たな解釈を下している本であり、なかなかおもしろい。
以下、各章の内容を断片的だが、記していく。

関東平野は徳川家康が来たころは関東湿地であった。ただ日本一、肥沃で水が豊富だった。そして利根川東遷工事を1594年から羽生市北部の川俣で「会いの川締切り」工事を行う。その後、お手伝い普請という方法を考え、全国の大名の力を借りる。1621年に利根川と西の流域を結ぶ幅7間の赤堀川が開通。3代将軍の時代である。その後も拡幅、掘削を続け、11代家斉の時代に幅40間にまで広がる。

京都の東海道側からの入口の逢坂は狭く、ここを上の比叡山から攻撃されると京都に入れない。だから信長は比叡山を焼き討ちにした。

鎌倉は山に囲まれて狭い。前は海で由比ヶ浜であり、守るのに便利な地形である。また当時の京都はスラム化し劣悪な環境で疫病が流行していた。

元寇は牛馬を制御する民族の侵略だが、乾いた大地の無い日本では進軍できなかった。そして乾いたところには森林が茂っていて進軍の邪魔をした。これが勝因の一つである。なお1288年にベトナムはバックダン川の戦いでモンゴル軍を破る。これも得意の水軍に持ち込んでの勝利である。

皇居の半蔵門が江戸城の正門である。甲州街道に続き、そこは尾根道。半蔵門は橋ではなくて、土手がお濠を横切る構造である。ここは総力を挙げて守る門である。

小名木川は家康が江戸に入ってすぐに開削する。行徳の塩を運ぶためではなく、江戸湾を横切り軍を迅速に動かすための高速道路だったのではないか。佃島の漁師は家康にとって信頼できる海の民。だから移住させて水運にあたらせた。

江戸の当初は赤坂の溜池が水道のためのダムだった。人口が増えるたびに新しい水源が開発されてきた。

吉原遊郭に行く日本堤は江戸市街地を荒川の水害から守る大事な堤。遊郭を造り、この上を歩かせることで堤を強くした。

日本の歴史は稲作民族が狩猟民族を圧迫した歴史。征夷大将軍とはそういう意味。最期の狩猟民族は毛利家。中国地方は平野が少なく稲作に不向きな土地だった。

江戸には海運で多くの物資が集められていた。物資=モノは情報でもあある。文明の中心は交流にある。日本列島の地理的中心は中部地方か近畿地方。縦(日本海側と太平洋側)が近いのは琵琶湖を使った近畿。京都の前に巨椋池があり、ここは琵琶湖から瀬田川になり、それは宇治川になる。また上から桂川、木津川も巨椋池に流れ込む。この北が京都である。
京都から巨椋池経由で淀川を下ると大阪湾である。こうして江戸や京都が首都になっていた。

奈良は宿泊施設が少ない。それは長く停滞したから。奈良の人口は奈良時代に20万人弱。平安時代になると2万人くらい。そして鎌倉時代はもっと少なくなる。室町時代は3万人、桃山時代は4万人で、江戸時代はまた鎌倉時代と同様に少なくなる
交流軸から外れたからである。

奈良時代は、シルクロードは大阪湾から大和川を上って奈良盆地に入る。当時の奈良盆地は湿地水面が広がっていた。交通の便が良く、シルクロードの終点であった。
福岡は大都市だが大きな川もない。それなのにこれだけ栄えているのは大陸との交流軸にあるから。ゴミの漂着が多いことでも理解できる。

奈良盆地は都であった期間に、周りの木々を伐採して不毛の地になる。山が荒廃すると水害が盆地を襲う。また土砂が水面を埋める。生活汚水が溜まる。それで平安遷都に踏み切ったのである。

京都に都が移ると、淀川流域から巨椋池がルートとなり、奈良は交流軸から外れる。

家康も京、大坂には木材資源が枯渇していると考え、江戸に遷都。兵庫の六甲山、滋賀の田上山が荒廃した山。

緑の空間が多いとは庶民ではなく貴族、王族、大寺院があったこと。庶民の大坂は緑が少ない。自然を守るのは権力者。庶民は自然を潰す者。


「近代工芸の名品-棗にまつわるエトセトラ」 於国立近代美術館工芸館

刀剣の畏友H氏からのお誘いで、標記の展覧会に出向く。お茶道具の中の棗(なつめ)に焦点を当てた展示である。刀装具ほどではないが、棗も小さなものであり、見にくい展示であったが仕方がない。

棗の製作にかかわるのは漆芸家、木工芸作家であり、蒔絵師、木地師、塗師などとも呼ばれている。螺鈿細工も使われる。

展示されている作家は明治以降の人で、赤地友哉、音丸耕堂、音丸淳、黒田辰秋、田口善明、田口善国、増村益城、松田権六、室瀬和美、三代渡辺喜三郎、松波保真、川北良造、中野孝一などである。他に近代の工芸ということで荒川豊蔵、石黒宗麿、三輪寿雪、15代楽吉左衛門、富本憲一、藤田喬平、増田三男、松井康成、三浦小平二などの作品も展示されていた。

赤地友哉については館内で製作過程を紹介したDVDが流されていた。曲輪っぱを組合わせて造形して、その後に和紙、麻布などを張り、そこに漆を何度も塗っていく製作過程だが、丹念、精巧な作業で、漆の工程では少しのチリが入っていれば、それを除去することも必要となる。

このように棗が出来るまで、木地から造形する人、漆を塗る職人、そこに螺鈿や蒔絵を施す職人など多くの手間がかかっている。棗は深い蓋で閉めて湿気を防ぐのだが、ピタッと閉まるようにするだけでも大変だと思う。
刀装具を保管する箱は桐が大半だが、昔は閉める時に空気の抵抗を確かめながらゆっくり閉まり、ピタッと収まったが、最近の桐箱はガバガバなのも多く、職人技術の劣化を感じる。

松田権六の蒔絵はデザインも色も細工も凄いと思う。また黒田辰秋の螺鈿も美しい。

漆芸に関して、昔は武士の表道具である刀剣の鞘の塗りが一番大切だったはずであり、鞘にも様々な塗りの技法が使われている。しかし、今では、私もそうだが、それらの技法を知る人もいないし、愛でることができる鑑賞者もいなくなっている。こうなると技術が途絶えてしまう。困ったものである。

この展示は明治以降の作品だが、江戸時代の作品の中には近代をはるかに凌駕するものもあるはずであり、日本の工芸品は絵などに比べると、評価が低く、かわいそうになる。

なお近代美術館の工芸館は、金沢に移転するようだ。東京一極集中よりもいいのではないかと思う。

「若林かをり フルーティシモ!plus」 於すみだトリフォニーホール

昨夜は標記のフルート奏者の演奏を妻と聴きに行く。寒い夜だった。最近は夜出向くこともなかったが、夜遊びをする人は寒い中、大変だと思う。

曲目は全て私が知らなかった曲ばかりである。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの「ソナタ イ短調 Wp132/H562」、ヨハン・セバスティアン・バッハの「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」、サルヴァトーレ・シャリーノの「フェニキアのイメージ」、ペロティヌスの「祝福されたる子よ」、スティーヴ・ライヒの「ヴァーモント・カウンターポイント」に休憩を挟んだ後のルイジ・ノーノの「息づく清澄」である。

ルイジ・ノーノ「息づく清澄」は現代音楽である。フルートだけでなく、合唱団による合唱と、電子音響という組合わせで演奏される。合唱も意味のある言葉(歌詞)を歌うのではなく(意味があるのかもしれないが当方にはわからない)、各音程を担当する12人(ヴォックスマーナというグループ)が指揮者に合わせて、ある音を強く、あるいは弱く、また長く、さらに長くと発するものだ。それに合わせてフルートもメロディを演奏するのではなく、ある音からなる短い旋律を強く、あるいは弱く演奏する。そこに繰り返しのリズムの電子音(有馬純寿氏)が流れるという音楽である。
宗教音楽、日本で言う声明(しょうみょう)のようなもので、私は興味深かったが、妻はこういうのはダメだと言っていた。ともかく、このような実験的な音楽もあることを認識した。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ「ソナタ イ短調 Wp132/H562」はフルート演奏がぶつ切りのような感じもして私の好みではない。18世紀前半の作曲家の作品である。

ヨハン・セバスティアン・バッハ「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」はバッハらしく、パートごとに同じ旋律が繰り返し演奏されていく。解説によると元はオルガン独奏の為に作曲されたとある。

サルヴァトーレ・シャリーノの「フェニキアのイメージ」はフルートをまるで打楽器のように使うアフリカの音楽のようだった。現代音楽の作家とのことだ。私のイメージのフェニキアは海洋国家であるが、これはアフリカだ。

ペロティヌス「祝福されたる子よ」は私にはオリエンタル風に聞こえた。解説によると1220年という古い時代に聖堂でのミサの行列の時に演奏された曲とある。

スティーヴ・ライヒ「ヴァーモント・カウンターポイント」はフルートに加えてリズム的な電子音が聞こえる演奏である。事前にフルートの演奏が録音されていてそれが流れていると解説にある。それら録音も相俟って同じような旋律が繰り返し演奏されていく感じを持つ。

意欲的なフルート奏者なのだと思う。
観客を見渡すと、若い人、中年の人が多く、最近出向く老人ばかりの会とは違っていた。また男性も多く見かけた。
トリフォニーホールの地下の小ホールははじめて出向くがこじんまりして聴きやすいと感じるが、トイレが狭く、休憩時に軽い飲み物を提供する場所に人が一人しかおらず、行列となっていた。

「考えるよろこび」 江藤淳 著

江藤淳が各地で行った講演をまとめたものである。講演という一般の人への話であるからわかりやすいが、勝海舟に触れた講演を除いて、各講演ごとに脈絡はない。次の6つの講演が収められている。
「考えるよろこび」、「転換期の指導者像」、「二つのナショナリズム」、「女と文章」、「英語と私」、「大学と近大-慶応義塾塾生のために」

「考えるよろこび」では古代ギリシャの劇詩人のソポクレスが書いた「オイディプウス」という戯曲、エディプスコンプレックスの語源になった劇だが、この劇をみたアテネの人々は人間のあるべき姿、ものをつきつめて知ろうとする人間のおそれ、ものを考える人間が究極において持っていなければいけない勇気などを知ったとする。

ソクラテスは哲学者とされているが、フィロソフィはフィル=ものを愛する(フィルハーモニーは音楽を愛する)という言葉とソフィア(知恵、知性)が合体した言葉である。すなわち知性を愛することである。
ソクラテスはアテネの市民として出征して勇敢に戦ったこともあり、頭だけの人ではない。また裁判官を任命された時は世評に囚われずに自分の考えを通した。スパルタに占領された時、スパルタにもいいところがあると言っていたので、ソクラテスはスパルタ側に協力を求められるが拒否する。今度はアテネの復興の時代に時の政府の物質万能主義的な政策に反対し、精神の大切さを訴え、政府から睨まれ、愛国者から訴えられ罪をきせられる。アテネに留まれば死刑となるが、アテネにとどまることを選ぶ。すなわち、考えてつきつめてものごとを知ると勇気を伴う必要がある。

アメリカ議会でもリンカーン暗殺後に大統領になったジョンソンに対して、議会が反対して罷免という時に、一人の議員が賛成しなかった。彼も大統領には反対だが、三権分立の精神が犯されるのに反対して政治生命を絶った。

考えるよろこびとは自分の正体を見極め、確かめることと書くが、世間に迎合しないで自分の考えを通すことの大切さを述べている。一人では悪いことはしないが集団になると「正義」「平和」と称して暴力・悪をやるのが人間であると認識すべきだ。

「転換期の指導者像」では勝海舟のことを取り上げて高く評価している。いくつかの美点を書いているが、勝の目測の確かさを評価している視点が新鮮である。目測とは、自分が達成しようとしている仕事との距離を正しく計測し、客観的にみることで、情熱と同時にこのような打算が必要と説く。

勝は現実的な開国論を展開する。それは外国は貿易で来る、それは儲かるからだ。だから当方も貿易を行い、国を強くする。そして教育を盛んにし門閥に頼らない実力主義の人材登用をはかるというものだ。

咸臨丸の経験で、持ち場持ち場の機能的組織=近代精神を知る。帰国後、攘夷論が強い中、兵庫海軍操練所で幕臣以外も教育する。幕府の小栗上野介はフランス、薩摩長州はイギリスを頼ろうとするが、勝は近代日本を見据え、共食いを避けるようにした。
危機になると政治的舞台の正面に出て行くような人物である。江戸城明け渡しで薩長と交渉する前に海軍の力と焦土作戦(ロシア)を考えてから和平交渉にはいる。そして薩長の支えのイギリスにも、薩摩が和平を拒めば幕府は徹底的に戦う、すると横浜にも被害が及ぶと論じて、事前に根回しをして協力を求めていた。

薩長が慶喜を極刑にすると主張したが、そうなると幕臣が騒ぎ国が2分する可能性があると考え防ぐ。

明治になると身を引く。ただ明治4年の廃藩置県の時に新政府に出仕する。明治6年の時に参議になる(西郷などが下野する)。福澤諭吉に批判されるが、国内分裂の危機をかぎつけたのだと思う。

「二つのナショナリズム」も勝海舟のことを取り上げ、国民生活の安定をはかり、窓を世界に開きながら誤りなく自己実現していく開国的ナショナリズムの大切さを述べている。

「女と文章」の中では谷崎が漢語的な男の文章、源氏物語の女性的な文章と述べているのを引用して、後者で国民的文学が生まれることにも触れている。

「英語と私」は著者の自伝的な英語学習の話であり、イギリス的英語を習い、終戦でアメリカ的英語となり嫌悪感を持ったことなどを述べている。こういう違いがわかるほど勉強していたというわけだ。当初は発音を大事にする英語をならうこと。留学時の話。沖縄問題で英語で発言したが、その内容を褒められ、引っ込み思案の性格が改められたことも述べている。

「大学と近大-慶応義塾塾生のために」は慶応がストライキをやった時に学生に話した内容。福澤諭吉の話などが出てくる。

「苗字と名前の歴史」 坂田聡 著

この本は苗字だけでなく、下の名前の方も中世の史料が現存している近江菅浦や丹波山国荘などの事例から分析しており、興味深い。
また歴史学者であるが、最近の夫婦別姓問題にも史実から言及している。すなわち、平安時代以前は他の東アジア諸国と同様に、日本も夫婦別姓であった。室町時代ころに先祖代々の永続を何よりも重視する日本独特の家制度が生まれ、同時に姓と違って苗字がとってかわり、14~16世紀にかけて東アジアとは別の夫婦同姓になるというものである。古来から日本の伝統というのは誤りとなるが、それでも日本独自の夫婦同姓は長い伝統を持っているわけだ。

また苗字は明治維新後に激増したというのは誤りであり、家制度ができた段階で庶民も苗字を名乗っていたことを立証している。

下の名前の研究では、中世には人生の階段があり、宮座の子供に1歳か3歳の正月に「名づけ」があり童名を得る。成人儀礼に「烏帽子成り」があり、冠をかぶり童名から成人名に名前を変えた。成人男性は老衆(おとなしゅう)と若衆に分けられ、老衆になる時に「官途成り」として官途名を名乗る。60歳を超えると剃髪して出家する「入道成り」という儀式で法名を名乗ることを書いている。

古代の氏とは天皇に仕える集団で、氏名を名乗り、朝廷より臣、連などの姓(かばね)を授かる。
奈良時代になると、姓の役割は律令的な官位の制度にかわり、姓が形骸化して、氏=姓になる。上位は源平藤橘で、下位貴族に大江、中原、菅原、清原などである。

鎌倉武士の時代は、財産が分割相続であり、分割相続された所領の名を名乗る。
南北朝内乱期に長男による単独相続となる。その結果、家督争いが激化し、内乱の長期化が生じる。単独相続で永続性のある家が出現する。

江戸時代は武士の前では庶民は苗字を使えなかったが非公式の場では名乗っていた。

丹波山国荘の史料の分析で庶民は室町時代から苗字を名乗っていたことがわかる。14世紀前半から今安、高室、田尻などが見られる。
他に12世紀に紀伊国神野、真国荘、13世紀の紀伊国野上荘なども庶民は(姓)を名乗っていたが苗字ではない。

名の方は中世庶民は姓型字(源次、平三、藤三郎など)、官途名型字(因幡太夫、左衛門、右兵衛)、童名型字(犬次郎、松丸、菊五郎)、その他(数字など)で、そこには出生の順番の排行(はいこう)名もある。

近江国菅浦の名前延べ3285名を分析すると、姓型字が1173人、その他型が1089人、官途名型字が639人、法名が334人で、童名型字は6人しかいない。

官途名型字は15世紀後半以降に広まる。16世紀には20%となる。衛門、兵衛、左近、右近が増える。
室町時代になると官職の値打ちが急激に下がる。

備中国新見荘、紀伊国粉河荘東村などの事例も調べている。なお東村では16~17世紀になると父親の名前(祖名)を嫡男が継承する風習が一般化する。

女性名は古代型(虫売、広刀自売など動植物などの名)は10世紀に消滅。漢字+子型は9世紀後半から10世紀に急増し、11世紀後半に激減する。嵯峨天皇の命名改革による。
童名型は11世紀に登場し13世紀初頭以降に急増。松女、観音女などである。
排行+子型の姉子、二子などは10世紀前半に出現し、11世紀~13世紀はじめに全女性名の半分を占める。13世紀後半に減少。この頃は女性も財産権を持っていた。
氏女型(藤原氏女)11世紀後半に登場。

「名字と日本人」 武光誠 著

興味深い本である。日本には29万1531件の名字がある。(丹羽基二『日本苗字大辞典』より)。ただし、これは同じ漢字でも読みが違うと別にしている。異体字、同音をまとめると約9万から10万である。

「氏」は、もとは古代の支配層を構成した豪族で、藤原、大伴などで、朝廷が定めた氏上に統率されていた。
「姓」は、天皇の支配を受けるすべての者が名乗る呼称。7世紀半ばの大化の改新。670年に庚午年籍が全国にわたる戸籍がつくられる。
「名字」は、平安時代末に武士の間で生まれた通称である。平朝臣(姓)北条(名字)時政と名乗っていた。

名は領地を現す。つまり名字は領地の地名。それが中世に出自をあらわす名となる。苗字とも書かれ、江戸幕府は苗字帯刀として苗字を正式名称とする。

平安末以来、源平藤橘が姓で、中世に橘は後退する。名字は勝手に名乗ったから朝廷は使わない。しかし中世以降は屋敷所在地の地名である近衛、九条なども使われる。

人口の10%が10大名字(鈴木、佐藤、田中、山本、渡辺、高橋、小林、中村、伊藤、斎藤)だと佐久間ランキング(佐久間英氏『日本人の姓』)にある。第一生命の統計も順位は違うが共通である。

田中、中村は村の有力者、鈴木は熊野信仰、佐藤は藤原秀郷で東北、伊藤は同じく伊勢に勢力を張った藤原基景、斎藤は藤原利仁の子の叙用が斎宮頭、渡辺は摂津の多田源氏、高橋は天地を結ぶ高い橋、神聖な土地として生まれる。

名字は武士層の発達で発生した。土地に関する利権で特定の地名に愛着を持つようになる。名字を伝える家の成立と武士の訪れは同じ。

平安時代までは同一の出自をもつ者が藤原、源、平の姓を名乗る。狭い京都で限られた貴族層が大きな共同体を形成する中で通用する。平安時代末までは夫婦は生活せずに、夫は通い婚。70から80人程度の集団が氏族であった。
清和源氏は同じ姓でも互いに争うようになる。そこで自分が治める武士団にだけの通称「名字」が必要となる。平安時代末に子供を特定の父母の跡継ぎと考え相続させるのが当たり前となる。

代々同一の職業を受け継ぐ単位が家で、家の名字が全国化するのは保元・平治の乱から源平争乱の時。武士は互いに名乗り合う。この時に源平藤橘だとわからない。

頼朝は御家人支配に名字を使う。名字を持つ者が侍身分。頼朝に見参の儀式で御家人になる。交名注進で戦いに加わった者の名字を記して鎌倉殿におくることで御家人にしてもらう。

鎌倉時代は本家と同じ名字のままだと家の子郎党と見られる。そこで、すすんで新しい名字をおこす。南北朝からは新しい領地の名前を名字にせずに以前のを使う。室町幕府は地方政治を守護にまかせ個別の小領主を御家人として直接把握しない。そして守護大名は京都在住。名字が無秩序に広まる。

足利は嫡流以外は僧侶になることで名字の広がりを抑える。今川、大友も同様である。

戦国期は自家の権威付けとして由緒ある名にする。戦国時代は実力主義だが、どこか家柄を重んじる空気がある。大内は渡来系であり、軽んじられる。

豊臣の羽柴、徳川の松平などの姓の下賜がある。戦国の動乱で牢人の移動が頻発し、そこで大名家の名簿に生国が記される。江戸時代は苗字帯刀と、武士以外の苗字は領主がさずけるもの。幕末になると金銭献上でもらえるようになる。武士のほかに神官、医師が名字の使用を認められる。

領主に出す書類では名字は省くが、名字の無い農民はむしろ例外だったのが江戸時代。系図売りも出てくる。
幕末動乱の志士は名字を幕府の身分支配として軽んじる。

明治3年に苗字を用いることを太政官布告。明治4年に廃藩置県に先立って戸籍法。
明治8年に軍務に支障がでるとして苗字必称令。

地方ごとに、その県で多い名字をリスを解説した章や、世界の姓に触れた章もある。例えば中国の姓は約500種類。朝鮮は249種。全人口の半数が五姓と少ない。モンゴル人は個人名しかない。

最期に「先祖探しと名字」という章を設けている。自分の家の先祖捜しをする人に便宜を図っている。


「筑前左文字の名刀」展 於刀剣博物館

期待して出向くが、光源のせいか、左文字の魅力がわかりにくい展示であり、いささかがっかりしている。具体的に言うと、太閤左文字は確か根津美術館で拝見した時は、実に良い御刀だと感動したが、ここで拝見すると、どういうわけが良く見えない。刀身の面の向け方なのだろうか。もっと刃中に互の目足が入っているはずなのだが。

以下、記憶に残っている御刀の雑駁な感想を記していく。

黒田家に伝来したという重文の左文字短刀も刃が明るく、刃幅もあり、鋩子も突き上げ、姿もいかにも左文字である。もっともこの御刀も、もっと刃中が働くのだと思うのだが。

短刀で冠落とし造りの弾正左文字ははじめて知る御刀であったが、左らしい地刃で印象に残っている。

江雪左文字は入ってすぐのところに拵と一緒に飾ってあり、この御刀だけは写真がOKということで、金曜日だが常時数人が並んでいた。他はそれほど混んではいなかったが、昔に比べれば観客は多い。刀剣女子だろうが若い女子も多い。彼女らも進化しており、ギャラリースコープで観ている人も目に付く。妄想にふけるだけではない女子もいるのだと感じ、末頼もしく思う。

さて江雪左文字は磨上げだが、反りが高く、身幅もある。少し切っ先が伸び、堂々たる姿だ。小のたれに小互の目、先が丸い単独丁字の刃など乱れ刃である。焼き幅は狭くもないが広くもない。沸が強く、砂流しもあり、沸の働きが多い。鋩子も乱れ込んでいる。さすがに名刀である。やはり日本刀は短刀よりも鎬造りの太刀、刀だと思う。
鮫鞘の桃山拵の良いのが付いている。

無銘の左の御刀の中では熊本米田家に伝わった本阿弥光常折紙の御刀と、尾張徳川家伝来の御刀が良い御刀だと印象に残っている。

弟子筋では、国宝の観応元年の筑州住行弘の短刀はさすがに明るく、健全で、鋩子、姿も左文字らしく、いい御刀だと思う。それでも刃中の働きは見えず、地金は同じように見える。

安吉では、名物日置安吉の刃は延文頃の備前兼光のように見える。同じく重文の正平十二年紀の安吉もそのような刃である。

吉貞の無銘で本阿弥の金象嵌銘の刀が賑やかな刃で、寂しい出来が多い在銘作とは違う刃紋だが良い御刀と感じた。反りも高いと記憶している。
また吉貞には物部吉貞と銘を切っているものもあることを知る。

左の先駆者ともいうべき良西、入西、国吉(西蓮)、西蓮、実阿なども陳列してあった。中には左文字のように匂口の明るい直刃の短刀の国吉(西蓮)などがあった。

平台のケースの中に短刀を並べている陳列は私には良くは見えない。刃紋は観にくいし、かといって地鉄も見えるわけではない。もう少し照明が何とかならないのだろうか。

あと、違和感を持ったのが所蔵者の欄に、各地の博物館名の他に、(株)ブレストシ-プ、(株)東建コーポレーション、飯田高遠堂だけが個人ではなく明記してあることである。宣伝臭さを感じると同時に、ブレストシープ、東建コーポレーションは事業会社なのだから、日本刀を蒐集することが定款に明記されている会社なのだろうかと感じてしまう。社長の趣味であれば社長名で保持して欲しいと願う。

歳をとって目が悪くなったのであろうかとも思い、鑑賞の後にがっかりして疲れた。
時に刀博に来ていることが多い知人がいるかと思い、電話して疲れを取ろうと思ったが、午前中までおられたが、すでに帰宅した後であった。
また畏友のH氏に電話して感想を述べるが、H氏も刀博の展示に不満を持っていて、観に行かないと言っておられた。

安田庭園も一部工事中。つまらない初場所の喧噪を避けて、震災祈念公園の方から帰宅した。

<追記>
1/24に畏友のH氏が出向かれる。短刀の刃中の働きがよく見えるポイントは各短刀にあるとのこと。H氏は2時間も会場にいたとのこと。

「歴史をつかむ技法」 山本博文 著

意欲的な本で面白い。学校の歴史は歴史知識中心だが、それでは面白くもない。歴史的思考力が身につくと楽しいし、ある面で本当の教養(総合的な判断力)になると著者は書き、その著者の思いを一般人向けに著作にしたものであり、最新の歴史研究の成果も取り入れながら一般向けに簡単に書かれている。

歴史用語にはわかりにくいものがあり、例えば奈良時代の事件にある「乱」と「変」の違いについては、「乱」は軍事蜂起を伴う国家(天皇)への反乱、「変」はときの政権の転覆工作であるなどの説明もある。

過去の歴史時代には時代特有の観念があり、赤穂事件では喧嘩両成敗が当時の武士社会の常識であったことを知らないと解釈が変なものになると述べる。

時代小説は歴史の時空を切り出して、そこを舞台にして展開される物語で、時代に仮託して人間の本質を探究している。また歴史小説は実在した人物を、ほぼ史実に即した物語にして、新解釈を楽しむようなものである。
司馬遼太郎も当初は時代小説だが、だんだん歴史的事実を大事にしてきた。

人類は進歩してきたというのが進歩史観。歴史には一定の方向があるとする。マルクス主義史観もこの一つで、古代奴隷制→中世農奴制→資本主義社会→社会主義社会と考える。

時代区分として古代、中世、近代とヨーロッパの歴史学は区分している。日本では江戸時代を近世に区分している。
考古学でしか研究できない時代を先史時代とする。以降は歴史時代(有史時代)で、日本は魏志倭人伝に出る3世紀頃からのヤマト政権からである。6世紀末に飛鳥に王宮を建設するので飛鳥時代。日本書紀、古事記にも記述がある。奈良時代は平城京が建設され、律令や国家が基礎になった時代。平安時代は律令国家が変質して王朝国家であり、この摂関政治の時代までを古代と呼ぶ。次ぎに上皇が政治を握る院政期になり、その軍事力として武士が台頭する。これ以降を中世。それから鎌倉、室町、戦国となる。織豊期は天下統一があり、江戸時代を近世とする。明治から近代。そして戦後を現代と呼ぶのが普通。これも学者によって解釈が違う。
そして日本の場合は政権所在地を奈良時代、平安時代、江戸時代などと時代区分に使用している。

文化史の時代区分は少し異なり、古代は縄文、弥生、古墳となり、飛鳥時代は飛鳥(仏教中心)、白鳳(遣唐使による唐風が入る)。奈良時代は天平文化で仏教が重んじられ、平安時代は初期は弘仁・貞観(空海の影響など唐風文化)、国風文化(女流文学)、院政期は武士、庶民の文化も入る。鎌倉は武士による質素な文化と新仏教、南北朝文化は正統性にこだわる。室町の初期は北山(公家と武家の融合で能など伝統文化の基礎)、東山(禅宗の影響を受けた幽玄・侘び)で戦国時代は文化が地方にも広がる、桃山文化(雄大華麗、南蛮文化も入る)、寛永文化は京都を中心とする公家文化で武家がパトロン、儒学中心、元禄は町人を中心とする多彩な文化、宝暦・天明の文化(蘭学による科学知識の吸収)、化政(都市の成熟による庶民の文化)
明治は日本なりの西洋文化、大正から昭和初期は市民文化、大衆文化、1930年代はエログロナンセンスの享楽的大衆文化、

古代は大王家(天皇)の後継者をめぐる争い。皇統における直系の概念を見ると理解しやする。父子で皇統を継続し、母が皇女であることが直系の資格である。

百済滅亡で4、5千人以上が亡命し、庶民層の多くは関東に入植する。

奈良時代の仏教は天然痘などが流行して、藤原不比等の子4人が逝去したことなどで盛んとなる。奈良時代も藤原氏より天皇の考えで政争が起きる。聖武が長屋王を殺し、母が皇女の資格者をなくし、以降藤原氏の娘がなる。
平安遷都は桓武が天智系の天皇が続いた平城の地を嫌ったことが本質。

平安時代の摂政関白は律令下にはなく令外官(日本化)。そして官職の世襲が進み、官僚制度が家職化する。これが12世紀前半。

王朝国家では班田収受はできなくなり、国司に大きな権限を与える。前任者から一国の財産などを引き継ぐことから受領と呼ばれる。公領だけで荘園には支配は及ばない。

後三条天皇は藤原氏を外戚としない天皇。上皇が政治を行い、摂関政治は危機。そして上皇は私兵として武士を使う。

鎌倉期の武士の心はたとえ親子兄弟でも対立すれば容赦なく攻め滅ぼす心を持っていた。だから頼朝の直系も絶える。
承久の乱で上皇方の貴族、武士の所領3000箇所を没収して新たに地頭。蒙古襲来で北条宗家(得宗)が力を持つ。そのうち御家人ではない北条家の家来筋の内管領、御内人が力を持ち、御家人と対立する。

南北朝は皇統2つの並列を後醍醐が嫌い、それを調停する鎌倉幕府も力がなくなる。今度は足利家が兄弟で対立する。この3つの勢力が絡みあうから長く抗争が続く。各地の武士も惣領制(宗家を首長として分割相続した分家も宗家を中心に結束する)が解体して、分家が独立の様相を強めて対立が起きる。

足利義満は天皇に成り代わろうとはしていない。室町幕府の正統性は朝廷から征夷大将軍に任じられているからであり、天皇の権威が必要であった。
室町幕府は将軍・有力守護連合である。それに奥州探題、羽州探題、九州探題に鎌倉公方と関東管領があり、将軍の直属が奉公衆。

盛りたくさんの内容の一部を書き抜いたが、歴史に詳しい人にも知識の整理になる本である。

「暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」」 大泉光一 著

ヴァティカン機密文書館にある史料を著者は原文の古典ロマンス語で読み解き、支倉常長の遣欧使節団の本来の目的は、伊達政宗が日本国内にいるキリスト教徒の名目での武力としての活用とスペインの武力を使って徳川幕府を転覆するために働きかけを行ったということが明らかになったと結論づけている。以前に著者の『伊達政宗の密使』という本を読んだことがあり、そこでも同様なことを示唆されていた。
https://mirakudokuraku.at.webry.info/201112/article_6.html

説得力があり、著者の出した結論で間違いがないと思う。なお、この説は戦前の史学者箕作元八博士がヴァティカン機密文書館史料のラテン語による『日本のキリスト教徒の連署状』などを元に、明治34年にドイツの歴史学専門誌に論文を発表し、その内容は日本の学術誌『史学界』に発表されていた。ところが明治35年に村上直次郎博士が慶長遣欧使節の研究をする中で抹殺され、使節派遣の目的は、宣教師の派遣要請とメキシコとの通商開始とされて、それが現在までの通説になっているとのことだ。

当時、日本国内ではイエズス会(ポルトガル国王保護)とフランシスコ会(スペイン国王保護)が布教で争っていた。

政宗の野望はフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロのアイデアと著者は推測する。政宗が寵愛していた外国人側室の病気をソテロ部下の修道士が直して信頼を得た。後藤寿庵という政宗が伊達藩キリスト教徒のまとめ役に任じていた家臣がソテロを紹介する。なお当時の宣教師などの間では、ソテロについて相反する評価がある。対立するイエズス会による評価もあるが、とかく噂のある才人であったことは間違いがないようだ。

慶長14年(1609)にフィリピン前臨時総督のドン・ロドリゴ・ビベロの船が上総沖で遭難する。そのお礼にメキシコから派遣されたのがビスカイノ。家康はメキシコとの通商や銀鉱石の新しい精錬法(水銀アマルガム法)の導入を願う。ただスペインは商教一致主義でキリスト教の布教が許可されないと通商は難しい状況であった。
政宗は商教一致を表面だけ受け入れ、通商を狙う。後藤寿庵を通じて岩手県奥州市水沢地区にキリシタンの居住区を作る。
メキシコとの通商という面では徳川幕府の考えと政宗の考えは一致し、500屯のサン・ファン・バウティスタ号の建造が許可され、幕府船奉行向井将監も協力する。

慶長17年(1612)に幕府は禁教令を出し、江戸のキリシタンを迫害する。慶長18年にはソテロも捕まる。政宗は遣欧使節の件で必要な人物として、幕府と交渉してソテロを救う。そしてソテロは仙台に来る。

この時は関ヶ原の戦いが終わっただけの時で、豊臣家はまだ存在していた。政宗は野望が発覚した時のために、伊達家で家格が170番目の支倉常長を使節として選ぶ。支倉への密命は口頭でスペイン、ローマで伝えられた。ソテロはスペインだけの交渉ではうまくいかないと考え、ローマ教皇からスペイン国王へ命令して、使節の目的が果たせるように画策した。ただ両方とも政宗の信仰心を疑問に思い、相手にしなかった。政宗は洗礼も受けておらず、側室300人などの悪い噂も伝わっていた。

支倉はサンティアゴ騎士団の騎士任命の請願を拒否される。なお政宗はキリスト教騎士団を創設を企てており、その時に支倉がサンティアゴ騎士団だと都合が良いわけである。当時の日本のキリスト教徒の数は37万人とされる。
そして政宗が日本のカトリック王に叙任されて、スペインの軍事力と手を結ぶわけである。

支倉が元和6年(1620)8月24日に仙台に帰着する。政宗はローマ、スペインに野望が受け入れられなかったことを知る。この2日後に伊達藩領でもキリシタン弾圧をはじめる。(それまでは幕府の禁教令に反して、後藤寿庵を通じて岩手県奥州市水沢地区にキリシタンの居住区を作っていた)

なお幕府は支倉と同行してメキシコまで行った向井将監の家臣たちから政宗の陰謀を知ったのではないかと推察する。

以下はこの本には書いていないことだが、日本国内での環境も、政宗の野望を砕いていたことも忘れてはならない。

①松平忠輝は慶長11年(1606年)に大久保長安の仲介により、政宗の長女五郎八姫と結婚する。
②大久保長安の息子の嫁は忠輝の附家老花井吉成である。
→以上から政宗・松平忠輝・大久保長安の深い関係が生まれる。

②元和2年(1616年)に政宗の娘婿の松平忠輝は兄・徳川秀忠から改易を命じられる。
③慶長18年(1613)に大久保長安事件がおき、大久保長安の一族や関連した大名等も処分を受ける。
④慶長20年(1615)に大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぼされ、徳川の天下は盤石となる。
→この時点で政宗・松平忠輝・大久保長安の同盟は潰え、一方、徳川体制は盤石になり、野望実現は無理と認識したと思う。


「生誕135年 石井林響展」 於千葉市美術館

副題に「千葉に出づる風雲児」とあるから、変わった作風かと思ったが、全体にはそんなことはない日本画である。千葉県山武郡(現千葉市)に1884年に生まれ、橋本雅邦に入門し活躍するが45歳で逝去する。卒業したかは記載がないが私と同じ県立千葉高(当時は千葉中)に入ってから東京に転じて画の修業に転じている。
千葉市美術館らしく、埋もれた作家、特に今回は郷土の画家を取り上げており、美術館の姿勢は立派だと思う。

当初は歴史画を明治の後半頃に描く。日本の神話を題材にした画や中国故事を題材としている。女性に変装して熊襲を討ったという日本武尊の伝承から女装した日本武尊を描いた「童女の姿となりて」は、表情も独特で良く画けた絵だと感心する。
ただ全体に人物は腕や手の表現が今一つと感じる。また竹や大木などを画いた時は根元がしっかりと画けておらず手を抜いたような感じも抱く。

鳥が好きだったようで鳥類を描いた作品もあり、鳥の表現には感じるものがある。ハトが2羽描かれている「萬年平和図」という絵は好きな絵だ。この展覧会で欲しいものと言われれば、この絵というものだ。

自身でも書画を蒐集したようで、その中からヒントも得て、自身の作風にも生かしている。特に浦上玉堂に私淑したようで南画風の作品を多く発表している。墨色の変化、たらしこみなどを多用している。たらしこみは成功しているのもあれば、これは失敗ではないかというものもある。

席画として画いたものをみると、基本のデッサンの修業が足りないのではと思うものもあるが、敢えて飄逸した味をだそうとしているのかもしれない。

当時の一時期には「東の林響、西の関雪」と評価されていたようである。

晩年作(45歳で逝去だから晩年ではないのだが、林響の生涯の晩年)の中には、墨一色を画面に横に筆跡を残して描き、その中に池にいる魚類や小動物、昆虫を描いた「野趣二題(池中の舞)…もう1枚は(枝間の歌)」があり、この作風は独創的で、これを大成したら面白かっただろうと感じた。

「武士道の名著」山本博文 著

これは良い本である。武士道というか武士の生き方の指針がわかりやすい古書を取り上げて、そのエッセンスを解説している。取り上げられた本は「甲陽軍鑑」(小幡景憲)、「兵法家伝書」(柳生宗矩)、「五輪書」(宮本武蔵)、「山鹿語類」(山鹿素行)、「堀部武庸筆記」(堀部武庸)、「葉隠」(山本常朝)、「折りたく柴の記」(新井白石)、「日暮硯」(恩田木工)、「言志四録」(佐藤一斎)、「留魂録」(吉田松陰)、「西郷南州遺訓」(西郷隆盛)、「武士道」(新渡戸稲造)の12冊である。

これらの書は新渡戸の本を除いて、武士道を解説する為の本ではないが、武士たちの内面に刻み込まれて、強い行動規範として武士を拘束した思想が息づいているとしている。

「甲陽軍鑑」(小幡景憲)は武田信玄を理想として、高坂弾正が書いたとして江戸期の軍学者小幡が書いたものである。武士はあまり学問に力を入れず、家職の奉公に専念すべきとする。武士の意地を主君への奉公以上に置く話も書いている。戦中では生き延びようという臆病な考えを捨て、死を覚悟して戦うと死中に活路も見えると書く。

「兵法家伝書」(柳生宗矩)は上巻が「殺人刀」、下巻が「活人剣」である。剣法というよりはもっと大きな政治にも使えるような心構えが書かれている。例えば身構え=戦いの前の準備の大切さ、また治まる時に乱を忘れるなとも説く。そして機を見ることの大切も書いている。さらに表裏(はかりごと)の重要性も説いている。

「五輪書」(宮本武蔵)は兵法は勝つことが目的と明確である。それが主君の為になるとしている。場所取りは重要として太陽を背にすること、敵を見下ろすこと、敵味方の現在の景気(勢い)を観ることも書いている。平常心を持つことの重要性を説き、その逆だが敵を脅えさして敵の平常心を揺らがすことも必要。「我が事において後悔せず」「仏神を尊べど、これを頼まず」

「山鹿語類」(山鹿素行)は儒学も取り入れた武士道として、武士の義を重視する。反対の語が利である。生か死かの局面では、自分より重い者の為に害があれば死地に逝くこと、そうでなければ自重して命を大切にと説く。

「堀部武庸筆記」(堀部武庸)は赤穂浪士の一人であり、実際の武士の行動がわかる。武士の面子の為に討ち入るのではなく、主君の仇を打つことであると書いている。武家古来の法である喧嘩両成敗にもつながる。討ち入りは家来の身で亡君へ忠を尽くすことでもある。

「葉隠」(山本常朝)は本来の武士道と江戸時代の武士の立場を自覚しながら前者の立場を記している。二者択一の場面では死ぬ方の確率が高い方を選べという。この理由は、このような場面では選択が的確に出来にくい。人間は死にたくないから、どうしても理由をつけて死なない方を選びがちであるからであるとする。それは「腰抜け」の道である。そして奉公の至極の奉公は諫言にあり、それは家老にならないとできないとも書く。

新井白石は父子ともに土屋家を追われ、堀田家に仕えるも堀田正俊が江戸城で殺害されて浪人となるなど苦労する。金澤藩に仕官の話があった時は金澤出身の友に職を譲ったりしている。37歳の時に甲府徳川家に仕官する。「折りたく柴の記」(新井白石)はそうした中で大志を抱いていた白石の自叙伝で、古武士的な精神を持っている。

「日暮硯」(恩田木工)は財政再建の為に自分の家族にも厳しく律した真田藩家老である。他の本が武士個人の修養に重きを置いているが、この本は武士が施政者になった時の姿が理解できる。自分に全権を持たせてもらい、自分の私利私欲を抑え、それで他藩士もそのような心得になるように導き、藩士だけでなく百姓にも言葉を信頼してもらって成し遂げた物語である。

「言志四録」(佐藤一斎)の言葉には王陽明の伝習録にある言葉があり、その影響を受けていると思う。「当今の毀誉は畏るるに足らず、後世の毀誉は畏るべし」は、伝習録の「毀誉は外にあるものならば焉んぞ避けえん。ただ要は自修いかんのみ」と似ている。朱子学と陽明学も武士道に取り入れた箴言集がこの本である。

「留魂録」(吉田松陰)は吉田松蔭が死の2日前から書いたものである。至誠の思いで述べた言葉は通ずるという思いが出ている。

「西郷南州遺訓」(西郷隆盛)は西郷に私淑した庄内藩士が聞いた言葉をまとめた本で、為政者としての心得を述べている。私心を捨てることの大切さを説く。この本にあるが明治維新の三大改革の「徴兵制」「地租改正」「廃藩置県」は西郷が参議の時に実施されたものということを再認識すべきと思う。
人ではなく天を相手にする。自分を愛すると失敗すると書く。

「武士道」(新渡戸稲造)は日本人の思想、道徳感を西洋人に説明するために英語で書かれた本である。義(正義のことで武士として踏み行うべき道で卑怯、不正をしない)、勇気、仁(真に勇気があると平静となり、他者への情愛、憐憫も生まれる、敗者への武士の情けも説明する)、礼(他人の気持ちを思いやり、物の道理を正しく尊重)、信と誠(武士の一言は必ず守る)、名誉、忠義(ただ主君におもねることではなく諫言も)が武士道にとって大事として説明している。武士道だけでなく日本人の美徳も含めている。

バッドアート美術館展 於東京ドームシティ ギャラリーアーモ

新聞社からもらったチケットで妻と出向く。東京ドームも本当に久し振りであるが、入口に嵐のチケットを求める女性が何人も看板を持って立っていた。

この展覧会は普通の美術館には収蔵できないようなガラクタ絵画を集めたアメリカ、ボストンにある美術館の収蔵品である。だからこの作品はゴミ箱やリサイクルショップなどから集められたもので、お金など出して購入したものではないようだ。
美術館の創立者がパーティの時にこのような絵を飾り、参加者が「これも面白い」というノリでコレクションが増えてきたようだ。このように注目されると、ここに作品が持ち込まれることも多いようだが、この館のキュレーターが、ある基準で選定しているとのことだ。その基準なるものも記されていたが覚えていない。

入場料は1300円もするが、若いカップルが来て、見て、ケタケタと笑って喜んでいた。パロディみたいな絵も多い。次のようなテーマで分類されて、並べられていた。
「肖像画ならぬ「笑像画」 」、「ありそうにない風景画・静物画」、「ぬーど絵画集」、「バッドアート動物園」、「ドッペルゲン画」、「バッドアート運動会」、「溢れ出る宗教観」である。

会場は写真撮影可であり、多くの人が写真を撮っていた。これをインスタグラムとやらにアップして喜ぶのではなかろうか。そういう面白いものが基本的に多い。

色遣いとかで面白いものもあり、また構図でハッとするようなものもあり、それなりに面白い。そうなのだ。「面白い」と言うことでいいのだと思う。

「長沢蘆雪」 岡田秀之 著

長沢蘆雪は円山応挙の弟子であるが、変わった絵も書いていて面白い。特に紀州の無量寺の襖絵の虎は凄いものだ。襖から飛び出てくるようだ。龍虎の襖だから龍の絵もあるが、ともかく凄い。この本は今の読者向けに「かわいい こわい おもしろい」などの副題をつけて軽薄な感じになっているが、評価されるべき画家だ。『奇想の系譜』でも取り上げられている。なお、この本の著者の辻惟雄氏と研究家の河野元昭氏との対談も掲載されている。

この本で様々な蘆雪の作品を知ったが、応挙と同様に子犬の絵もたくさん書いていることを知る。当時の流行の画題であったのであろうか。こういうのが「かわいい」絵である。雀や幼い子が連なった絵も画いている。
一方で「山姥」を画いている絵もあり、これはなかなかに気味が悪いが「奇想」の系譜に入るものだろう。同様に気味が悪いような岩を描いて印象的な海浜奇勝図屏風(メトロポリタン美術館)もある。金地に墨で大胆な岩を描いている。

この当時の画家であり、宴席に呼ばれた席で即興で画いたものもある。指で画いたものもあり、パトロンを驚かしたものだろう。応挙の弟子のように細かく写生した絵もある。

蘆雪は宝暦4年(1754)に丹波篠山藩士の上杉氏の元で生まれたと伝わる。父は後に淀藩に移る。安永7年の25歳くらいには応挙の門であり、作品も残っている。29歳頃から蘆雪を名乗り、寛政11年(1799)に46歳で逝去する。
大坂で死ぬが若く突然の死去で毒殺の噂もあるが、著者は確かな説ではないとする。

蘆雪は伊藤若冲のように自分の体質として奇想のおもむきを持っていたのではなく、伊藤若冲などの活躍を見ながら、そのような絵も面白いとして、いわば「人工の奇想」にいったのではないかと辻氏と河野氏との対談で話されている。

天明6年(1786)33歳の時に南紀の寺に師匠応挙の代わりに出向き、自由奔放な絵を画く。例の虎の名作もこの時の作品である。当時の紀州は宝永4年(1707)の大津波の被害から寺社が再建された時である。紀州では無量寺のほかに、成就寺、草堂寺、円光寺、持宝寺、徳泉寺、高山寺(ここだけ真言宗で他は臨済宗)などに作品が残されている。

作品は禅寺に多く、当時の有力な禅僧との交流もあったわけである。また当時、地方の人が京都の文化に憧れており、絵師は署名の上に「平安」と記しており、蘆雪も例外ではない。

「なぜ日本人は劣化したか」  香山リカ 著

著者は精神科医とのことだが、最近の日本人は若者だけでなく全世代、全階層、全分野にわたって劣化しているのではないかとの問題意識を持って、この本を著している。
まず新聞活字が大きくなり、情報量が減少していると指摘する。昔は一息で読めるのは800字とされていたが、今は200字になっている。新聞は1950年から86年までは一行15字。それが2002年には11字になり、情報量はその分、減少している。高齢者が多くなり、目が不自由な人が増えたから字が大きくなった面もあるが、若者もこの方向を是認している。例えば若者は、本でもあらすじ本みたいなものを好んで、それが売れている。

次は企業の不祥事が相次ぐようにモラルが悪化している面を劣化の証左としてあげている。この本では一昔前の雪印の事件などが例にあげているが、今でも自動車メーカー、耐震装置メーカーなど続いている。また仕事はできないが遊びはできるとして精神科医に来る患者や、一方で医師の方にも使命感が欠けていると著者の身の周りから分析している。

ゲームが流行しているが、ゲーム愛好家の想像力は劣化しているとも書く。

また、若者の生きる力が衰えている。精神力だけでなく、身体的能力や体力も昔に比べて衰えていると走力や投擲力などのデータで説明している。

またリベラリズムや護憲勢力が失速していることにも触れている。そして排除型社会になって寛容の力が失われつつあるとも指摘している。

そして著者はこれらの劣化が新自由主義の思想から来ているのではと問題提起をしている。弱者がますます阻害されてきていると論じ、この先には、弱者が横に連携し、強者層との2極分化がおこるのではという識者の論も引用している。

こういう風潮は生命を維持する力も劣化させる。セカンドライフに憧れるのもその一つではなかろうかと述べる。

そして、自分達が劣化しているとの認識を持つことの大切さを指摘し、著者は精神科医としての治療の現場から、損得の論理で理解させることの有効さを認識し、劣化は個人的にも社会的にも損になるということを認識するのも必要なのではと書く。

私自身は、あまりピンと来ない論であったが、大きな方向としては日本人の劣化(日本人だけではないかもしれないが)があるということは理解できる。




京都・都ホテル 四川

法要は仏光寺本廟で行われたが、法要の前に南禅寺の前の牧護庵にある伯父夫婦の墓に参る。長い間、参拝しようと思っていたが機会を逸していたが、ようやくお参りができた。
仏光寺本廟も今は床暖房が入り、加えてストーブを焚いている。逝去したのは私より若い従姉妹だが、非情に寂しい。

その後、近くの蹴上の都ホテルまで歩いて移動し、食事をしたが、中華料理の四川というレストランで、実に美味しい中華であった。全体にあっさりしていて、中華特有の脂っぽさはなく、特にチャーハンは絶品であった。山椒が入ったような爽やかな辛みもあった。さすがに京都である。

南禅寺方丈、南禅院

京都の寺はどこも大きいが、南禅寺は大きな寺院である。今回は三門には登らず、方丈を見学する。方丈庭園は枯山水の庭で小堀遠州の作庭と言われている。巨石の格好から虎の児渡しと呼ばれているようだ。奥行きはあまりない。
どこの枯山水の庭もそうだが、落ち葉がほとんど落ちておらず、毎朝の清掃が大変だろうと思いがいく。この人件費も拝観料に含まれているのだ。

方丈の建物は豊臣秀吉が建造寄進した御所の殿舎を後陽成天皇から拝領して移築したそうだ。襖絵は狩野元信、永徳のものとされるが、印象には残っていない。新しく復元されたきれいな鶴の絵があった気がする。

その続きに小方丈があり、ここは伏見城の小書院を移したとされる。襖絵に狩野探幽の虎が描かれていたが、首、頭が小さい虎だ。こちら側にも枯山水の庭園がある。こちらの方が木も無く、より枯れた感じがして、好きである。ただし方丈よりも更に奥行きが無い。
禅宗は枯山水の庭に何を求めたのだろうか。

奥には六道庭とか、苔が美しい庭園もあった。南禅寺垣の塀もあった。中庭のちょっとした庭園も美しく、風情がある。

琵琶湖疎水の方にある南禅院は、南禅寺の中でも一番古い寺院のようで、池の周りに高い道があって池の周りを回遊して楽しむことができる。回遊して楽しむと書くと、明るい感じだが、江戸の大名庭園の池泉回遊式庭園と違って、深淵である。作庭は亀山法皇ともいわれ、昔から京都の三名勝史跡庭園の一つとされてきたようだ。

苔が美しい。苔の上の落ち葉をトングのようなもので1枚ずつ拾っているから大変だ。

なお琵琶湖疎水のレンガ橋は明治にでき、当時は風情を壊すと思われたであろうが、今となってはレンガが古色を帯びて風景に溶け込んでいるのが不思議である。
 

詩仙堂、円光寺

法事があり、京都に出向く。紅葉も終わり、雪も無い時期であるが、洛北の詩仙堂、円光寺に出向く。私はこの二つの場所は好きである。詩仙堂の入口にかかるように白いサザンカが咲いていて迎えてくれた。ここの建物はどうということはないが、庭はよく出来ている。なおここは正しくは凹凸窠(おうとつか)というようで、でこぼこの土地に建てた住居という意味だそうだ。その名称の通りに、段差のある敷地をうまく使った庭園は魅力的である。

これまで上、中、下の三段になっていると思っていたが、五段ほどの高低差がある土地を活用している。上段の庭は建物(詩仙の間)から出られる庭で白砂を敷いた庭であり、ツツジの丸い植え込みが境界を形成している。もちろん借景に紅葉が見える。その下に獅子威し(鹿おどし)がある段があり、そこから中段のススキを噴水のようにしつらえている庭がある。池があり、そのほとにはトクサが植えてある。そこから下段の庭に2方向から行ける。その一つには藤棚があり、下の建物に至る。

東山からの水流が横に流れていて、大きな竹薮が背景になっている。この屋敷の上は八大神社で、そこには一乗寺下り松の切り株が安置されていた。

これを作った石川丈山も不思議な人物である。徳川家の臣でありながら、33歳で藤原惺窩に朱子学を学び、母に孝養を尽くすために広島の浅野家に十数年仕え、54歳の時に京都にきて、59歳で詩仙堂をつくり90歳まで生きる。朱子学だけでなく、書道、漢詩も大家で煎茶の一つの流派の祖でもある。

円光寺は、紅葉の時期が最高だが、そこの十牛之庭の周りの紅葉が枯れ枝になっていた。池の周りには紅葉の落ち葉の残りが残っていたが、この清掃も大変だと思う。きれいな苔が生えており、熊手のようなものでの清掃はできないだろう。池の中に落ち葉の清掃も半端な作業ではないと思う。この池=栖龍池は洛北最古の泉水とのことだ。

入口に入る前に、平成になって整備された枯山水の庭=奔龍庭がある。龍を暗示しているような石棒が突き刺ささった石組であり、面白い庭である。昔の井戸の部材も活用しているようだ。白砂を渦巻き模様に掃き清めていて美しい。

裏山に墓所があり、徳川家康を祀る場所もある。墓所には村山タカ女の墓と、マレーシアの王族で広島大学に留学中に原爆の被災を受けて亡くなったの墓がある。井伏鱒二の『黒い雨』を読んだばかりであり、なんとも言えない気分となる。