「江戸の家計簿」磯田道史 著

江戸時代の武士、農民、商人や芸人、職人の収入や、食品の物価、料理・嗜好品・雑貨などの価格を現代の価格に換算して示し、その江戸時代の生活実態やリサイクル社会の実情、江戸の出版事情などを記述している。
私も拙著『江戸の日本刀』の「29章 江戸時代の貨幣・収入単位と物価水準、新々刀の価格」で江戸時代の物価を現在価格に換算したが、その時は米の価格などではなく、人件費を比較して1両30万円で換算した。
この本も1両30万円で換算している。江戸時代と現代では嗜好も異なり、製造方法や生産量も大きく違うから、分野によっては1両30万円の換算が合わないこともあるが、それは仕方が無い。
この本は幅広い分野で、江戸時代の物価を網羅していて興味深い。

農民の収支を『江戸物価事典』(小野武雄編著)から示している。耕作面積水田一町歩の農民の例である。米20石、畑作5反でダイコン売上135貫文、麦収穫6石で13両750文(395万円6250円)の収入で、支出は11両で差し引き2両とある。

大工が比較的高収入(年収800万円)であることが記されている。また髪結い職人も月収60万円とのことである。日本橋から吉原までの駕籠料金は500文で現在価格で3万7500円とある。千両役者はほとんどいなかったようだが500両(1億5000万円)程度の年収をとる役者はいたようだ。

また江戸時代は美味として三鳥二魚として、鶴、ヒバリ、鷭、鯛、アンコウがもて囃されたようだ。
雑誌に連載していたものを加筆して出版されたようで、途中、途中に他の人のエッセイが織り込まれている。作家のあさのあつこ氏、シーボルト研究者の宮坂正英氏、発酵学者の小泉武夫氏、歴史学者の北原進氏がそれぞれの分野で記したものである。

帆船日本丸、横浜みなと博物館

自治会の旅行で、標記の施設に出向く。事前に団体予約していたためか、ボランティアのガイドの方がいて、説明していただくが、想像以上に勉強になった。ただし見学時間が十分ではなく、ボランティアの方に説明時間を短くお願いしたために失礼したのではと反省している。

日本丸(これは初代の船で今は2代目が航海練習船として就航)は外から見ると、優美な帆船(重要文化財に指定)であるが、中に入ると鋼鉄製の頑丈な船だ。4本あるマストの傾きを微妙に変えていること、帆船の操舵では大きな舵輪の1回転が1度の進路変更であり、例えば30度と大きく曲がる時は30回も舵輪を廻さなくてはいけないことを知る。

横浜みなと博物館では、横浜という港町が幕末からどのように発展してきたのかがわかり、また横浜港に求められる機能が時代を追って、どのように変化し、それに対応する為に、港の設備・機能をどのように変えてきているかがよくわかった。
ペリーの艦隊の模型もあり、大砲を撃つために、下側の帆は畳んでいること、砲撃の煙でも国の旗が見えるように国旗が大きいなど、なるほどと思う。
港は当初は絹を輸出し、その後、移民を送り出し、関東大震災では横浜が東京以上の被害を受けたこと、そして震災の瓦礫を埋めて山下公園が整地されて作られたこと、そして太平洋戦争で被災など、時代ごとの変遷がよくわかる。
今は豪華客船が着くようになり、コンテナ船はコンテナが18000個も詰めるような大形船が竣工し、その荷下ろしをする為のガントリークレーンの機能がいかに進化して省人数で対応できるようになっているのかがよくわかる。

昼は赤レンガ倉庫内のレストランで食事をして、東京湾横断道の海ホタルに寄って帰宅する。

「ハプスブルク展」於国立西洋美術館

オーストリアと国交樹立150周年記念ということで、ウィーン美術史美術館に収蔵されているハプスブルク家に伝わった武具、工芸品、調度品、絵画などの美術品を展観するものである。
ハプスブルク家はライン川上流の豪族であったが、13世紀末にオーストリアに進出。そこを拠点にして15世紀以降は神聖ローマ帝国の皇帝の位を世襲し、スペインにも勢力を伸ばし、欧州各国の王家とも姻戚関係を結ぶ。ナポレオンによって神聖ローマ帝国解体後はオーストリア=ハンガリー2重帝国の皇帝として第一次世界大戦まで君臨した。

この展覧会では、ハプスブルグ家の皇帝一族としてマクシミリアン1世(15世紀)、ルドルフ2世(16世紀)、フェリペ4世(17世紀)、マルガリータ・テレサ(17世紀)、マリア・テレジア(18世紀)、マリー・アントワネット(18世紀)、フランツ・ヨーゼフ1世(19世紀)、エリザベト(19世紀)に脚光を当てて、その蒐集品などを展示している。

これら人物の肖像画が展示されているが、ディエゴ・ベラスケスの有名なお人形さんのようなマルガリータ・テレサの像や、女傑と称せられるにふさわしいマリア・テレジアの像、肌が美しく、髪型も華やかなマリー・アントワネットの像、現代にも通じる美人のエリザベトなどの女性像が目立つ。
美術史的にはベラスケス以外はあまり有名でない作家だが、当時にもて囃された肖像画家の渾身の作品である。美術史の分類ではバロック美術(均衡のルネサンス絵画から、躍動感があり、明暗がはっきりするようになる。画題はルネサンス期と同様にキリスト関係、ギリシャ神話関係、王族の肖像画など)の系列であろうか。

クレオパトラの絵(作者チェザーレ・ダンディーニ)なども真に迫った迫真性があり、カラヴァッジョの絵のようだ。

皇帝蒐集の絵画であり、一族の肖像画や古典的な画題(キリスト関係、ギリシャ神話関係)が多い。自分達の統治が優れていることを立証する民衆の絵も存在する。
肖像画は似ていなくてはいけないし、立派に見えることも大事だろう。背景で人物を暗示することが必要などでの制約もあるが、この過程で写実画は進歩したのだろう。

絵画以外の作品では、マクシミリアン1世の甲冑などの甲冑コレクションが目を惹く。材質は鉄、皮などだが、鉄は錆びておらず、今、作ったように健全で驚く。機能的ながら豪華である。槍試合用などの用途別に造りが少し違うようで16世紀頃のものだ。
金線細工の小籠、フォークやスプーン(セイロンで作られた水晶に金、宝石で装飾)や十字架型の日時計は緻密で豪華な細工である。また法螺貝や、椰子の実などの自然のものをを取り込んだ水差なども面白い。

藤ノ木古墳

法隆寺から西の方角にあって近くである。小高い丸い岡として綺麗に整備されているが、これが未盗掘だったとは信じられない。今は何度か発掘調査が行われ、その都度、整備されてきたのであろう。
江戸時代までは横にお寺(陵堂)があり、その建物が幕末に火災にあったという伝承を裏付けるものが発掘されたようだ。寺(陵堂)があっ為に古墳が境内に取り込まれていた為に盗掘を免れたようだ。

内部を見られるように古墳の入口は厳重な戸にガラスが嵌められているが、照明が故障しているようで真っ暗な闇しか見えない。ただ私が行った時は、太陽の加減で少し内部が見えた。

内部の様子や、発掘当時の遺品の状況は、近くの斑鳩文化財センターに出向くと詳しくわかる。来る人が少ないせいか、そこの案内の方に詳しく説明を受ける。
埋葬されていたのは、20代くらいの若い男と40代くらいの男の2体が、ほぼ同時期に一緒に埋葬されていたようだ。埋葬者は正式にはまだ特定されていないようだが、ほぼ同時期に亡くなったと言うことから蘇我馬子に殺害された穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟)、その従兄弟の宅部皇子ではと推測されている。蘇我派=仏教導入派と物部派=仏教否定派の闘争が激しかった時代である。

藤ノ木古墳からの出土品そのものは別のところに保管されていて、このセンターではレプリカの展示である。レプリカと言っても、破損状況や変色状況まで再現されていて見事なものである。馬具の立派なものが出て、鞍の部材の文様には象が描かれている。随を経てインド、西アジアの影響である。

映像を上映する簡単なホールがあり、そこで私一人だが映像を上映してもらった。私の後には地元の幼稚園児が入って観ていた。
玄室への入口を模した通路があったり、家形棺のレプリカもあり、発掘当時の中の様子も再現されている。なお外にも赤く塗られた棺の模型があるが、これで狭い場所で壊さないように棺の蓋を開ける発掘方法などの準備を行ったと説明を受ける。

未盗掘であったが、凝灰岩の石棺であり、凝灰岩は水を通すために、棺の内部に水が溜まったこともあり、発掘時も少し水があったようである。凝灰岩だから溜まった水も下に抜けるわけだ。

棺の中にある靴も太刀も大きいものだった。埋葬者の身長はともに160㎝くらいで当時としては高い方だが、敢えて大きく見せたようだ。

なお、現在はここで「中宮寺跡を掘る」として特別展が開催されていて、この近くの古寺の屋根瓦が展観されていた。今の中宮寺とは別な場所に当初は中宮寺が建立されいたようで、その跡地を発掘した成果が展示されている。

古代史に関心がある人にはたまらない場所であろう。

法隆寺 唐招提寺 薬師寺

今回、奈良の寺と京都の寺の違いがわかった気になる。簡単に言うと奈良の寺には庭が無い。京都の寺には庭がある。奈良の寺は古い時代に建立されており、中国の影響が強く、京都の寺は室町以降の建立で日本式(畳に座ることも含めて)なのだろうか。

法隆寺と薬師寺は中学か高校の修学旅行で来たことがあるが、それ以来である。唐招提寺ははじめてである。どの寺でも、出会う僧侶、モノを尋ねる案内人もフレンドリーな挨拶をされて気持ちがいい。

法隆寺には朝早く出向く。JR法隆寺駅から20分程度歩いただろうか。途中から、両側に石垣で土手になって松並木がになっている幅一間ほどの参道が一直線に続く。
参道から南大門を入ると、途中に東大門と西大門を結ぶ通りがあり、東大門を抜けると東院伽藍で、そこに聖徳太子の為の八角の夢殿がある。一面だけが開けられていたが、中はよくは見えない。
東西の通りの先に中門を真ん中に廻廊が取り巻き、後ろに大講堂がある。廻廊の中に右に五重塔と左に金堂が建っている。ここが西院伽藍である。

金堂の中、五重塔の前で僧侶達が勤行していた。世界最古の木造建築物だ。各建築物の建設時期は全て同一ではないが、一つ一つの建築物だけでなく、全体が残っているのも貴重である。カンボジアに行ってアンコールワット等の遺跡を見たが、あれは石造の部分だけが残っているだけで、当時にあった木造の建物は跡形も無く、儚い思いを懐いたことを思い出す。それだけ法隆寺は貴重である。

金堂は2階建てで一階の屋根が大きく、どっしりした印象だ。薬師寺の三重塔もそうだが、五重塔が高い印象を持たなかった。他の建物が大きいからであろうか。ともかく、人間の住まいではなく、仏様の住まいであるという印象だ。

大宝蔵院は新たに百済観音像をまつるための建物だが、法隆寺の宝物である玉虫厨子や橘夫人厨子などが保管されている。照明が暗いので見えにくいが、玉虫の羽が貼られているのだろう。

今回は西の小高い丘の上にある西円堂を訪れる。昔の庶民の刀剣が所狭しと奉納されていたとされるが、現在は中を覗いても何もない。

唐招提寺は南大門を入ると広いアプローチがあって、その先に金堂が存在感を持ってせまってくる。鵄尾も大きく、屋根が裾野をひく距離が長く立派である。中には盧舎那仏の大きな像と、千手観音の素晴らしい像も安置されていた。
この後ろに講堂があり、右側に東室・礼堂の細長い建物があり、さらに右側に正倉院のような校倉造りの経堂、宝蔵がある。日本最古の校倉造りとのことだ。結構、床が高い。
今は奥の御影堂は工事中であった。
新宝蔵では、仏像が展示されていたが、頭部がないが「東洋のビーナス」とされる如来形立像があり、なまめかしい曲線である。
境内の左の方には戒壇跡の石造りが残っていて、今はインドの仏塔のようなものが鎮座している。鑑真和尚が日本の僧に受戒したところである。

ここは奥の御影堂、鑑真和尚御廟などは一段高い土地にある。
日本への航海が厳しく、5度の失敗で盲目になられたとあるが、航海の失敗と目はどのように関係しているのであろうか。航海とは関係無しに、御歳を取られて白内障で盲目になられたのではなかろうか。

薬師寺は西側の古い三重塔が修理中であったが、足場が外れつつあり、見える。再建された西塔は鮮やかな朱だが、西の方は木の古びた色と白の漆喰で落ち着いている。

ちなみに薬師寺は昔、高田好胤氏が法話を行い、それで人気を博して金堂などの再建費用を集めていた。その法話の伝統は今に続いているようで、この時も僧侶が面白くお話しされている様子が窺えた。
再建された金堂は色も綺麗であり、創建当初をイメージしやすい。ただ何となく金集めが優先されるような感じがする寺である。

薬師寺は仏様が優美な感じがして魅力的である。薬師如来を中心に日光、月光菩薩像や東院堂の聖観世音菩薩像も優美で魅力的である。火災で焼けたものもあるようだが、黒光りしていて魅力が一層に引き立つ。


大阪市立東洋陶磁美術館

大阪歴史博物館から廻る。平常展の安宅コレクションと李秉昌韓国陶磁室などが目当てであるが、この日は他に「受贈記念 辻井コレクション 灯火具-ゆらめくあかり」と「沖コレクション 鼻煙壺」が開催されていた。
私は焼き物に詳しくないが、高麗青磁や中国の青磁などの色と形状に強く惹かれる。高麗青磁にも色々な色が発色するようだが、ここに収蔵されている作品の水色に灰色が交じったような青磁は好きな色だ。また形も優しい感じがして愛おしい。
私は美術品は刀剣、刀装具、浮世絵などを集めているが、これらの前に高麗青磁を知っていれば、こちらにはまったかもしれない。

12世紀の作品で「青磁瓜形瓶」は口の開いた首から行灯のような上部が膨らんだ壺、そして下部はまた末広がりの台だが、良い形だ。
「青磁砧形瓶」も「青磁瓶」も「青磁陽刻 牡丹蓮華文 鶴首瓶」も皆、同じように魅力的な色で、形状の調子も良く似たと言ってもいいものだが、形そのものはそれぞれに違っていて魅力的である。

「青磁 洗」は堂々たる広口でわずかに下がつぼまるような深皿である。「青磁陽刻 筍形水注」は太くて短い筍の先端部が蓋になっている水を注ぐ器で面白くも美しい。これらも12世紀の製作のようだ。

黒釉、白磁などもあるが、白磁の色合も優しさがあっていい。高麗の歴史は知らないが、陶磁器にとっては素晴らしい時代である。

焼き物の名称は青磁のほかに粉青、鉄絵、青花など決まりがあり、形状にも特有の言葉があって、それらの組合わせで識者は想像できるのだろうが、私には知識がない。

中国の南宋、元の時代は13。14世紀だが、この時代の青磁は少し緑色が増して濃くなるような気がするが、これはこれで魅力がある。国宝の「飛青磁花生」も展示されているが、そんな色合いに、黒っぽい文様が鉄で付けられたものだ。下脹れのたおやかなプロポーションをしている。黒っぽい模様は配置をちょっと間違うと汚くなるような気がするが、微妙なところで素晴らしい。

国宝と言えば油滴天目も展示されているが、不思議な模様が出るものだと感心する。また天目茶碗では木の葉が焼き付けられているようなもので発想が凄い。
日本人の感性と言うか茶人の感性だと、飛青磁とか油滴、木の葉のような乱れがある方が好まれるのではないか。

中国は歴史が古いから、時代ごとに様々なものがある。唐三彩のものは色よりも西域の人物などの風俗が面白く、明の時代のものは紺色などの綺麗な発色に緻密な文様。清は大きなものも出来てくるような気もする。

日本の陶器では、織部の時代の、歪みのある造形が面白いが、日本人が表面ザラザラの陶器を好むのは縄文土器からの感性であろうか。

鼻煙壺は小さなものであるが、色や模様が綺麗である。こういうものや灯火具など、このように種類で集める人がいることを知り、その分、陶磁器の世界は深いものだ。鼻煙壺は19世紀から20世紀のものが大半だ。灯火具は江戸時代の後期から明治にかけてのものが多い。

「特別展 決定版 刀装具鑑賞入門」於大阪歴史博物館

大阪歴史博物館に初めて出向き、標記の展観を拝見する。アクリル版の上の鐔を斜めにして観やすくしたり、小さなLEDライトを当てたりして鑑賞の便を図っている。表裏の模様の違いを見せるための工夫もしている。それでも暗くて観にくいところがあるが、今はライトの持ち込み・照射もありとして便宜を図っているとのことである。

すでにカタログ(カタログの感想はhttps://mirakudokuraku.at.webry.info/201910/article_7.html)を送っていただいており、誌上で展観される刀装具を観ていたが、実際に拝見すると、また印象が異なる。

埋忠二字銘の「松皮菱透花象嵌鐔」は明寿より時代が若い江戸時代初期~前期のものだろうが、この時代にも松皮菱文様が広く流行したのだ。私はHP上で「桃山時代のファッション-「松皮菱文様」」( http://katana.mane-ana.co.jp/matsukawabishi.html)で所蔵の金山鐔松皮菱透かしの補足説明として、松皮菱紋は古くは後藤乗真と極められている小柄にあり、戦国大名で織田信長の前に京周辺に覇を唱えた三好一門の家紋から始まり、丹羽長秀の旗印、辻が花染め織物の模様、織部焼の器にあると説明してきたが、江戸時代前期の伊万里焼にも見ている。また所蔵の赤坂初二代の四方松皮菱にあり、これは江戸の寛文新刀期のものではなかろうかと推論しているが、この鐔も参考になる資料である。京都のものであり、華やかである。

寛文三年紀・行年銘六十二歳が切られている宗義の鐔があったが、やり過ぎなデザインと感じるが年紀があり、研究資料だ。京都の埋忠系の鐔が他にいくつかあるが、素銅地に桐紋散しで無銘だが光忠のような鐔、埋忠重義の輪繋透象嵌鐔など面白いものがある。

細かい所はわからないのだが「鉄仁」と銘がある覆輪に拙い亀を透かした鐔は金家の一派なのであろうか。地鉄に魅力を感じる。
また、無銘だが、真鍮の三重の覆輪があり、円を六つ透かした鐔は確かに桃山期の雰囲気のある良い鐔だ。
山吉兵は所蔵していないので、銘はまだ研究していないが、山吉らしくトロリとした鉄味の素朴な小鐔が陳列されていた。

知られていない金工だが、奥州の磐城の政久、会津の松村弥右衛門の鐔も魅力のあるものだ。後者は埋忠明寿の影響を上手に受け止めた名品だ。なお、諸国の鐔の中に勝矢コレクションの中に肥後鐔が無かったというのは不思議である。早くに勝矢家から出てしまったのであろうか。
薩摩の二代正勝/英彦の鐔も独創的である。長州鐔の中では井上清高の花菱唐草透鐔は素晴らしい。中井善助友恒は地の仕立てが独創的である。

後藤廉乗の牛車図を拝見した時、その車軸の傾きを観て、うれしくなる。後藤光佐は力作、程乗の鋸図小柄はさすがである。後藤光煕の藤戸図における波の表現、戸張富久の月が波間に映っている小柄は名作だ。

浜野一門の薄肉彫、縦図の人物図は上手いがアクが強くなるものもある。大森英秀の干網千鳥図は豪華で目を惹く。石黒政常の鯉図小柄は水流の彫りに感銘。
田中忠重という作者の「柏に鳩図縁頭」は津尋甫にある赤銅魚子地に赤銅で高彫というもので興味深い。
会場の最期の場所に、阪井俊政氏の鐔製作過程を撮った映像が流れていて興味深く観た。

東京ディズニーランド

娘と孫2人のお供で我々夫婦2人が昨日、ディズニーランドに出向く。風も無く、快晴でいい天気であった。我々も子どもを連れて何度も来ているが、昔と違っている感じもした。
現在も、シンデレラ城は改修工事中で、他に工事中の箇所もいくつかあった。目立たないようにしているが。また園の近接する外部では新たな工事もしており、まだまだ進化していくのだろう。

上の孫は3歳10ヶ月の男の子で、途中、ベビーカーに乗ったり、おんぶをせがんだりするが、よく歩く。途中でトイレに行きたいと言った時に、広い園内のトイレの場所まで歩いて我慢できるかと思ったが、ちゃんと出向けて感心した。
電車が好きだから、行く時に武蔵野線に乗れ、中でウエスタンリバー鉄道に乗り、帰りにディズニーランド一周のモノレールに乗って、そのおもちゃのプラレールを買ってもらって満足である。

娘がスマホでファストパスなどを上手に取って、あまり並ばずに観ることができたが、こういう機器をうまく活用できないと、難しい世の中になってきた。

施設で改めて印象に残ったのは音楽の使い方である。外では何も聞こえないが、中に入ると、場所ごとに大きな音で流れる。次の場所では、その場面にあった音楽や音声だけが聞こえる。観客は次から次へと流れていくのだから、うまく計算されて設計されているのだろう。
パレードでも、自分達の前に来ると、大きく聞こえると感じるのは、パレードに使う車に隠されたスピーカーがうまく機能しているからなのであろうか。そのような音楽はあちらこちらで流れていると思うのだが、余計な音、騒音として聞こえないのは大したものである。

映像も上手に活用している。ホーンテッドマンションでは、ダイニングの上にお化けのようなのが漂っているのなど、うまく出来ている。

色の組合わせも神経を使っていて、イッツ・ア・スモールワールドは美しいというか可愛らしい。

園内の人にモノを尋ねると、どの人も丁寧に教えてくれて感じが良い。こういうことが本当に大事なモテナシの心なのだろう。

食事は注文すると流れるように提供されるが、電子レンジで簡単にできるものを、見た目を良く提供している。これも工夫の一つだろう。いい値段を取っており、儲かるものだろう。

孫の為にポップコーンが入った容器を買ったが2400円もして驚いた。

アジア系の外国人も多く、また平日だが、若い日本人の夫婦も多い。子ども連れも多く、各アトラクションの前にあるベビーカー置き場は物凄い数である。ベビーカーを間違ったり、紛失するトラブルは無いのであろうか。

「戦国大名の遺宝」 五味文彦 監修

この本は以下の10章ごとに、その分野に詳しい専門家が著述し、それらをとりまとめたものである。見て頂いてわかるように、少し変わった歴史遺産を取り上げている。各章の内容に精粗がある感じもするが、それなりに興味深い。
「1.甲冑具足」、「2.装束と調度品」、「3.旗印」、「4.狩野派の絵画」、「5.読書と漢詩」、「6.戦国大名と茶道」、「7.囲碁・将棋」、「8.城郭」、「9.合戦図屏風」、「10.井伊家の遺宝」である。

「1.甲冑具足」では戦国武将が個性を生かして様々な意匠の甲冑を身につけていたことがわかる。兜の色々な種類の解説もあり、基礎知識を得るのにもよいし、各武将の甲冑を知るのにも良い。加藤嘉明の「黒漆塗仏胴具足」も面白い。南蛮の影響を受けた兜も広く使われていたことがわかる。
「2.装束と調度品」では辻が花染の胴服や武将の陣羽織、南蛮風の外套など、各武将の斬新なデザインに驚く。加藤清正の「蛇の目紋羅紗陣羽織」は、蛇の目が赤と黄であり、地は黒という鮮やかさである。豊臣秀吉の「黒黄羅紗地富士御神火文陣羽織」も、富士の御神火のデザインが面白いし、色も黒と金で鮮やかである。武将が使った刀剣と外装も紹介され、また馬具、采配、軍配、法螺貝、背負太鼓なども出ている。
「3.旗印」では大将の所在を示すのが馬印と解説されてきたが、旗印と区別がつきにくく、著者は旗の形をしたのが旗印で、そうでないのが馬印としている。屏風などから各武将の旗印を示している。神仏系と紋所系、記号、図形系などもある。

「4.狩野派の絵画」では狩野永徳(豪壮、華麗)、山楽(生命感あふれる動感表現)、探幽(繊細、優美)などを解説している。
「5.読書と漢詩」は北条早雲が家訓で少しの暇があれば物の本を読むことなどを書いている。そして禅需一致で儒教の本も読み、また連歌などを行う為に王朝文学も読んだことを記している。漢詩は信玄や謙信、伊達政宗が知られている。
「6.戦国大名と茶道」では当時の社交に茶道は不可欠であり、名物道具が贈り物に使われていることを書いている。
「7.囲碁・将棋」は、これまであまり紹介されることはないが、当時の武将に愛好されたことを記している。取った駒が使えないが駒数が多い中将棋も行われていた。駒の製作では公家の水無瀬家が家業とし、囲碁、将棋の専門家も生まれ、これらの人を招くことによる情報収集の役割もあったのではと書く。
「8.城郭」では現存する城の天主を一つずつ解説していて「なるほど、こういう視点があるのか」と感じるところがある。
「9.合戦図屏風」は現存する合戦図屏風に即して場面を解説し、「10.井伊家の遺宝」は井伊家という大名家の視点から以上のような各種遺宝を解説している。

「東洋文庫の北斎展」於東洋文庫ミュージアム

東洋文庫ははじめてである。ここは本の博物館であり、東洋学の研究図書館という位置づけで世界5大東洋学研究図書館の一つと言う。蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊とのことだ。
入ると受付と売店があり、そこから館内に入ると、右側の扉が中庭に面したオリエントカフェというレストランになっている。三菱と縁がある小岩井牧場の食材に拘った食事を提供している。ここで妻と食べる。そこに行くまでの壁にアジア各国の有名人の言葉や本の一節が現地の言葉で記されている。

館内は細長いロビー(オリエントホール)があり、20冊ほどの蔵書が展示してある。今回は葛飾北斎が生きた時代というテーマで『ナポレオン・ボナパルトの生涯』、『共産党宣言』、『純粋理性批判』、『ハワイ語辞書』などの書が並んで解説されている。本の言語は様々である。ホールの片面には広開土王拓本レプリカなどがある。この碑文がこんなに大きいとは知らなかった。また画像で、ここに所蔵されている書籍の概要が観られる機器もある。

そこから壁に付着したような階段を上がって2階に行く。この中央には古書が3段の岩場のような本棚にぎしりと収納された本棚が圧倒する。1段目は9棚、その上に2段目が少し奥まって3棚、されにその上には3段目が2棚ほどの書棚である。本も昔の本だから背表紙も立派である。これはモリソン書庫と言って、岩崎久彌氏が当時の金で70億円ほど出して購入したモリソン氏の蔵書である。G. E. モリソン氏が北京駐在中の約20年間に腐心収集したもので、『東方見聞録』、『天正遣欧使節記』や『ペリー提督日本遠征記』、『南洋漂流記』などがある。ペリーが上陸した時の図も展示してあるが、赤い服を着て上陸したようだ。

その左横の部屋が名品室と言うことで国宝の『文選集注』や『イエズス会士書簡集』、『解体新書』、『ターヘルアナトミア』などが展示されている。

その奥から回廊を伝わって戻るような形で2階の右側に行く。ガラスの床面のところがあり怖い。今回はそこで北斎展が開催されている。北斎の浮世絵は少なく、本の挿絵として北斎が画いたものなどの展示が多い。浮世絵は「諸国瀧廻り」の数枚が刷りも保存も良い。この水の表現は迫力がある。

今回は、「葛飾北斎とその時代」というテーマで安村敏信氏の講演があり、拝聴する。
北斎の若い時から、それぞれの時期の代表的な作品と特色を説明される。次のように6期に分けて、()内に記した特色を画像を紹介しながら説明される。次の通りである。
「1.春朗期19~34歳」(役者絵、相撲絵、浮絵)、「2.宗理期35~44歳」(宗理風美人、洋風版画)、「3.葛飾北斎期45~50歳」(鳥羽絵、読本挿絵、美人画の新境地)、「4.戴斗期51~60歳」(『北斎漫画』、鳥瞰図)、「5.為一期61~74歳」(『富嶽三十六景』、花鳥図版画)「6.画狂老人卍期75~90歳」(幻想の世界へ)

その後、北斎の門人とされている人の作品、同時代に活躍した他派の浮世絵師の作品を説明される。筆記具を持参しなかったので講演内容を詳しくメモしなかったが、「なるほど」と思った。

「教科書には書かれていない江戸時代」山本博文 著

面白い本であり、本当に教科書には出てこないような江戸時代に暮らした人の生活、行動、考え方などをわかりやすい文章で記述されている。私はこの人の文章は好きだ。
本の構成は”第1編 武家の世界”では、章が「1.武士の稼業も楽じゃない」、「2.参勤交代の経済学」、「3.武士の黄昏-幕末期の武家」になり、”第2編 庶民の世界”では「1.多様性のある江戸時代の都市」、「2.明日は今日より面白い」、「3.江戸時代は薬社会」となる。
”第3編 学問の世界”では「1.儒学者の時代」、「2.江戸に花開く最先端の「知」」、「3.蘭学者に対する弾圧」になる。

「1.武士の稼業も楽じゃない」では武士の行動原理を説明しており、<武士の一分>という非合理だが大事な思考様式があることや、廉恥心(恥を知る)を持ち、名誉心がバックボーンにある忠義、また悲しみを押し殺すような忍耐の精神を説明して、切腹の心をいくつかの視点から解いていく。旗本を例にした武士の出世コースの説明もある。
「2.参勤交代の経済学」では1日の距離は30㎞から40㎞歩く。多額の費用もかかるが、費用は江戸屋敷の維持の方が高い。随行の武士が全て本陣、脇本陣に泊まれるわけではなく、普通の宿にも泊まる。馬の宿泊料は人間の3倍程度かかるなどが理解できる。
「3.武士の黄昏-幕末期の武家」では旗本戸川伊豆守安愛の伝記を紹介している。それから天璋院篤姫の生涯を、薩摩藩の仙波市左衛門という人物の日記も織り交ぜて紹介している。それから大奥のことを書き、将軍家茂と孝明天皇の交流も書く。ともかく孝明天皇は異国人が日本に来ることを極度に嫌ったわけだ。清国の状況などを知っていた人は攘夷などできないことはわかっていた。開国して技術を盗んでから攘夷というものだった。
孝明天皇は慶喜も厚い信頼を寄せていたというか、頼りになるのは徳川家という感じであった。大政奉還を決断した背景に、当時、京都に薩摩藩士がたくさんいたことにある。ただ京都にいたからと言って薩摩が挙兵するということではなかった。

第2編 庶民の世界「1.多様性のある江戸時代の都市」では全国に260藩があり、2万石以上が城を持つ。人口3万人くらいの都市は3万石の城下と考え、門前町、港町も発展していた。酒田の本間家は北前舟の交易で財産を築く。冨山は薩摩から琉球の薬種を仕入れていたことなどが記されている。
「2.明日は今日より面白い」で景気の変遷を書いているが、元禄時代は好景気。次の将軍から吉宗の時代は緊縮の時代。宝暦から明和、安永、天明までが田沼意次の好景気。女髪結いは明和・安永頃からとか、江戸の見世物興行、園芸などのことにも触れている。
旅行も大人気で、飛脚問屋は金も運んだこと、為替制度もできていたことを記す。

第3編 学問の世界では「1.儒学者の時代」江戸時代は薬が大事で、儒者が医者も多く、また家伝の薬(寺院、武家、医家)も人気だった。「2.江戸に花開く最先端の「知」」では儒学者など学者を簡単に紹介。特に熊沢蕃山を取り上げている。池田光政が非常に学問好き。閑谷学校もつくる。後に蕃山とあわなくなる。次の池田綱政は学問が嫌いとある。
伊藤仁斎や荻生徂徠は実証的な学問であった。
そして西洋文明の脅威が認識されるようになる一方で、「3.蘭学者に対する弾圧」が鳥居耀蔵を中心に行われたことが記される。

「大人の教養図鑑 戦国入門」二木謙一 監修

副題に「戦いとくらしの基礎知識」とあり、「教養図鑑」とあるから、図を多く使った簡単な本かと思ったが、なかなかにしっかりと書いてある本である。
「1.戦国の幕開け」「2.武士・公家・民衆のくらし」「3.戦国の戦い」「4.戦国の群像」という章立てになっており、1章では室町幕府の体制から説き明かしている。室町幕府は中央と関東の2本立てで統治し、守護を京都に呼んでの統治であり、政権基盤が弱かったことを記す。次ぎに関東の戦乱を説明する。ここで太田道灌は足軽を活用して武将を取り囲んで殺す戦術を採用したことが記されている。革新的な戦い方だったわけだ。関東の混乱で生まれた伊豆の堀越公方だが、その家中の混乱に乗じて、駿河に嫁いだ妹の縁で今川家の家督争いをまとめた伊勢新九郎盛時が伊豆に攻め入り、後の北条家を興す。北条家は代々善政を敷いたとされる。
本では次ぎに中央の情勢の説明として応仁の乱を説明する。このあたりから三好長慶が京都地方を掌握する過程も丹念に記述していく。松永久秀のこともそんなに悪臣としては説明していない。

2章では鎌倉時代からの武士の思考パターンを説明するが、頼朝が嫌った義経の事情のことなどわかりやすい。室町時代になると、朝廷は財政が窮迫し、官位を売ったり、地方に流れていったり、家職(陰陽道は土御門家、和歌は二条、冷泉家、笛は久我家、琵琶は西園寺家など)で暮らしをたてたことが記される。
民衆は国人(地域の領主)→地侍→本百姓→下人という身分区分で戦国大名が直接把握したのは国人クラスと書く。山城国一揆、加賀の一向一揆などの民衆の動きや徳政令の背景なども記述していく。そして技術革新が始まり、各地の特産品も生まれてくる。この本で刀剣が特産品になっている国として記されているのは相模、近江、大和、豊後、肥後、薩摩、安芸、備前、美濃、越中である。

3章では戦闘方法の変化、それに伴う城の構造の変遷を書く。足軽の比重が高くなったことや、日本ではこの頃から兵站は戦場で略奪という発想だったことを書く。武器のことも書くが、刀剣については高く評価し過ぎである。なお印字打ち(石投げ)のこともきちんと書いている。鉄砲と雑賀などの鉄砲傭兵集団のことなどに触れ、騎馬軍団に否定的である。私もこの本の通りだと考える。軍師と足利学校のことにも触れ、情報を取る連歌師の役割にも触れている。

4章では東北、関東、中部、東海、北陸、近畿、中国・四国、九州と地域ごとに戦国大名の動向をまとめている。改めて、このように地域別にまとめるのも面白いと思う。

御即位記念特別展「正倉院の世界」 於東京国立博物館

混んでいたが、会場内に入ると、それなりに観覧できた。今は前期の時期で、11月6日から後期になる。展示物の数はリストで116だが、後期の分が36程度あり、前期の展示は80点ほどであろうか。会場内にいくつかの映像展示もあり、琵琶の復元の様子、補修の現場の作業紹介などや、正倉院の成り立ち、正倉院の建物構造などが映像で説明されていて、それなりに興味深い。
また展示物の中に、近代になって複製として造ったものもあり、その展示もあった。複製でも当代の最高峰の職人仕事であり、見事なものである。

「1.聖武天皇と光明皇后ゆかりの宝物」「2.華麗なる染織美術」「3.名香の世界」「4.正倉院の琵琶」「5.工芸美の共演」「6.宝物をまもる」に分かれている。
美術品とは言えないが正倉院の鍵とか、宝物を保管されていた箱の展示もあり、なるほどと思う。そして驚くべきことに、ボロボロになった布の残滓とか、外れてしまった金属金具の部品なども棄てることなく、保管されていて、今回、その一部が展示されていることであった。こういう心が底にあってこそ、これだけの品物が現存しているのだと思う。
記録類も光明皇后の時代からきちんとなされており、その史料の「東大寺献物帳」「法隆寺献物帳」が「1.聖武天皇と光明皇后ゆかりの宝物」で展示されていた。
鳥毛で文字の形に貼ったものも珍しいものだが、何で鳥毛を貼ったのだろうか。近代の模造品も展示されていた。
平螺鈿背八角鏡は後期の展示だが、同様に螺鈿や宝石が華麗で美しい平螺鈿背円鏡が展示されており、見事なものだった。
私の趣味の刀剣では、水龍剣と号されている直刀が展示されていた。反りが無い直刀で、両切刃造という形状で、直刃の刃文が見える。明治天皇が佩刀とされたようで、明治になって加納夏雄が金具を手がけた梨地水龍瑞雲文宝剣の拵が光彩を放っていた。
なお、刀剣関係では、補修の資料(正倉院御物修理図)の中に、明治の補修で研師石川周八の姿が描かれているものを見た。

「2.華麗なる染織美術」の展示は織物であり、時代を経ているために、色が往時の面影が無いものも多い。また形状もボロボロになった為か、一部分だけというものもあった。麻布に墨で仏像を描いたものがあったが、巧みであり、印象に残っている。
花氈という中国の唐から伝来の大きなカーペットがあり、1300年前のものとは思えない。

「3.名香の世界」は興味深かった。あの有名な香木の「蘭奢待(らんじゃたい)」こと黄熟香と、それが保管されていた箱(徳川綱吉時代)が展示されていた。想像以上に大きな香木(目測で1.5㍍程度)であった。そこに足利義政が切り取った跡、織田信長が切り取った跡が明示されていた。明治天皇も切っており、素晴らしい香りがしたとの言い伝えが残っているようだ。仏様に良い香りを供えるという動機があったようだ。カンボジアに行った時に香木は貴重で、今でも高価であると聞いたのを思い出した。

「4.正倉院の琵琶」は今回の目玉である螺鈿紫檀五絃琵琶の展示である。華麗で素晴らしいものだ。模造品も展示されているが、美しい。ストラディバリウスだとか騒いでいるが、音楽的はともかくとして美術的にはこれに遙かに及ばない。

「5.工芸美の共演」では伎楽面酔胡王という伎楽の面も展示されている。西域人の顔であり、当時の唐の国際化の実態がわかり、唐を通じてシルクロードの終点と呼ばれる正倉院を実証するものである。この伎楽面も復元されて、色も元の色を再現したものが展示されていた。酔っていた人物であり、赤ら顔である。ガラス皿もあり、これは西アジア産とのことだ。

「6.宝物をまもる」の展示は、補修した記録などや、前述したボロボロの布の残滓とか、金属金具の部品などが展示されていて正倉院の意義がよくわかる展示で為になった。

国宝、重要文化財とは別に、正倉院宝物という指定もあることを知った。正倉院に保管されているものは国宝などの指定はどうでもよく、宝物で良いのだろう。

本館の展示には刀剣女子が昨日は見当たらず、小龍景光の健全さと出来の良さには感動する。古備前友成、左兵衛尉国吉、来国次、光忠、則重、正宗、長義などの名刀が展観されていた。則重の地から鎬にかけての湯走(だと思う)は私の国広と似ていると思ったが、ゆっくりとは見ていない。

正倉院の特別展を観た後に、「文化財は永遠に」という特別展を見る。地方の寺の仏像を補修する活動をしている財団があり、その資金援助で補修が出来た仏像が陳列されていた。こういう活動は偉い。
この近くに、映像で刀剣の研ぎの過程を説明しているものがあった。修復のことを展示しているコーナーだったと思う。英語の画面だったが、段階を追って、常に観るような刀身になっていく様子が理解できる。

博物館が修復、補修作業を行っているということも、最近は表に出してきていると感じる。もちろん大切な博物館活動の一つだ。

「ここまでわかった本能寺の変と明智光秀」洋泉社編集部 編

来年の大河ドラマで明智光秀が取り上げられる為か、出版社が16人の研究者、作家にそれぞれのテーマで依頼した論をまとめたものである。テーマごとに分かれているから読みやすいと思ったが、そうでもない本である。断片的になっているからであろうか。
その16編は大きく「1.最新論点!本能寺の変」「2.明智光秀とは何者か」「3.変をめぐる周辺勢力と「その後」」に分けている。
近年話題となっている四国征伐を廻る光秀の重臣斎藤利光の兄石谷頼辰(石谷光政の養子で斎藤家出身)と長宗我部元親(妻が幕府奉公衆の石谷光政の娘)の従来の外交ルートと三好康長、その養子となった織田信長息子の信孝、及び秀吉の甥の信吉(後の秀次)の新たな外交ルートの争いが原因という説も紹介している。私はこの説が直接の原因なのかと思っている。
稲葉一鉄の家臣那波直治が明智光秀に仕えたことに対して、信長が稲葉家の肩を持った裁定を下したための怨恨説もあることを知る。これに斎藤利三が関与しており、このことで信長が光秀を通して利三に死罪を申しつけたとも伝わっているようだ。

信長の明国を征服する意図について、宣教師、特にスペイン系の宣教師は自分たちの武力の補完勢力として日本軍=信長軍を期待していた面はあったようである。

明智光秀は朝倉氏の元にいたことがあるが、室町幕府の幕臣だった可能性も指摘されている。後に光秀の家臣となった者は幕府奉公衆で京都近郊に領地を持つ武士、近江国志賀郡を任され後の近江堅田衆、南山城衆、大和衆(筒井)に丹波平定後の丹波の国人衆などである。

光秀は妻の煕子(ひろこ)だけを愛したとされているが、子女の年齢などから他にも女性が居た可能性を推測している。なお光秀妹とされている信長側室ツマ木(妻木)に関する史料も紹介している。面白い存在である。

柴田勝家は上杉氏と戦っていて、後背地の近江はいち早く光秀の味方になった地域というハンデがあったこと、丹羽(惟住)長秀は織田信孝とともに四国渡海の為に大坂にいたが、ともに在陣していた織田信澄が明智と通じているのではと討伐し、その影響で軍勢をまとめられなかったことを指摘している。
それに対して秀吉は帰路にあたる摂津の大名(高山、中川など)をいち早く味方にできた。

信長と和睦した石山本願寺は顕如(講和派)と息子の教如(反信長派)が対立。これが後の東本願寺と西本願寺に分かれる遠因と記されている。

本能寺の変(6月2日暁)は奈良にはその日の夜10時頃、三河には翌日(3日)の午後6時くらいに伝わっていることが日記などから判明する。秀吉は4日(3日深夜という説もある)、柴田勝家には6日とされている。情報が情報だけに早い伝達である。

「日本人の歴史観」 岡崎久彦 北岡伸一 坂本多加雄

これは雑誌『諸君』に掲載された3人による鼎談をまとめたものである。副題に「黒船来航から集団的自衛権まで」とあり、近代日本史を語り合っているものである。
保守の論客の話であるが、ある程度の近代史の知識が無いと内容の理解が難しい本である。また鼎談をまとめたものであり、論理が飛ぶところもあり、読み難いところもある。

この本のタイトルにも歴史観という言葉が出てくるが、色々な史観を批判している箇所があるが、私には、こんな史観があったのだという驚きがある。例えば「憲政史観」は自由民権運動は公武合体論の流れであり、土佐藩を中心としてた公武合体論から自由民権運動につながるというものだそうだ。また「薩長史観」は明治維新により、それまで続いてきた暗く長い封建時代が終わり、一気に夜が明けて明るくなったとする歴史観とのことだ。だから民党が出て、大正デモクラシーの時代は乱臣賊子が出た時代となる。

また「佐幕派史観」は、幕府側に立ち、開国など幕府の政策に積極的な意義を見出す歴史観とのことである。もちろん、「マルクス主義史観」もあり、これはラディカルであればあるほど歴史的に重要な出来事と考えるきらいがあるようだ。
「占領史観」とは、アメリカの占領のお蔭で日本は民主化したというものである。

巷では司馬史観という司馬遼太郎の歴史の考え方を言う言葉もある。私は司馬遼太郎の歴史小説は好きだが、小説家の考えたストーリーを本当の歴史と思い込んで信じることが理解できないし、それにわざわざ司馬史観なんて言ってレッテルを貼ることもおかしいと思う。
上記史観も、それぞれの歴史を見る視点であって、良い悪いの問題ではないと思うのだが。

この本で、時代ごとに、その時の当事者の行動を評価している。例えば小村寿太郎はあまり評価しておらず、陸奥宗光、津田出などの紀州の人物を評価している。また原敬は高評価で、宇垣一成、田中義一もそんなに悪くないと評価している。なお満州事変の関東軍司令官の本庄繁を男爵にしたのは間違いだったとする。すなわち命令無視して独断専行をした人物を評価したことでおかしくなったとする。
また斎藤隆夫の反軍演説を高く評価している。
なお近衛文麿、広田弘毅、杉山元の人物評価には厳しい。抑えることができた立場なのに無為に過ごしたということである。ただし、この3人の死に方はそれなりに立派だと評価している。日本の近代史に興味を持つ人には参考になる本だろうが、私はあんまり面白くなかった。

戦後政治についての評価の方が興味深く感じられるところもある。
ともかく3人の論者の基本の論調は保守であり、私は違和感がないが、反感を持つ人もいると思う。



「勝矢コレクション刀装具受贈記念 決定版 刀装具鑑賞入門」 大阪歴史博物館

大阪歴史博物館が、刀装具のコレクターであり、研究家であった勝矢俊一氏のコレクション900点の寄贈を受けたことで、展覧会を開催し、その目録も兼ねて、刀装具鑑賞に資する本にもなるカタログを製作された。
なお今回勝矢氏の御親族から寄贈を受けたのは勝矢氏が蒐集したものの約半数とのことだ。勝矢氏は信家鐔の研究において、その図柄においてキリスト教関係のものがあることに着目されて製作時代等を明確にされた業績も輝いている。だから信家鐔もコレクションには多くあったと思われるが、今回のカタログには掲載されていない。なお寄贈品リストには信家も金家の在銘品もあるが、それらは銘が悪いのだろうか、あるいはこのカタログ製作の意図にそぐわないから除外したのであろうか。ともかく触れられてはいない。

はじめに勝矢俊一氏のコレクター、研究家としての人生を紹介する。次ぎに漫画を使った刀装具が刀の外装にどのように使われているかを説明する。昨今の刀剣女子を意識している。
その後に「1.鐔-鉄を愛で、意匠を解き、地域を知る」で、コレクションの中の鐔の何枚かを紹介して、大小鐔、透鐔、鉄の鍛え肌や鐔の下地を説明する。次ぎに鐔のデザインで良く表れるものを紹介し、今度は図柄の持つ意味(そこで留守模様なども紹介)をいくつか解き明かす。そして同じ図柄で作者が違うものを比較しての考察や、透かしの陽の透かしと陰の透かしのことや、古作の写し物、それから古来から言われている伝統的な分類のいくつかを説明する。銅の地金の鐔や、尾張透かしと京透かしの図柄の特色、鏡師、刀匠、甲冑師という本職以外の人が造ったとされている鐔を説明し、江戸時代に日本の各地で造られた鐔を紹介していく。こういう中で鐔の技法や形状などもコラム的に解説している。備後の其阿弥のデザイン力、長州鐔の水墨風(雪舟以来の伝統)の紹介などは特記される。

「2.揃金具-意匠の統一性を楽しむ」では室町時代の作品、後藤家(京後藤家も含めて)、町彫り諸工の作品などを紹介する。

「3.小柄-名品で学ぶ金工の諸流派」では後藤家の極め銘と自身銘のこと、後藤分家と後藤家に学んだ金工(戸張、野村)、桃山時代の金工、加賀象嵌、浜野一門、奈良派、柳川一門、大森一門、石黒一門、村上如竹、京都の金工と分け、最期に木製小柄という珍しいものを掲載している。有名金工のものが登場してくる。

「4.笄、目貫」は少ないが、章を立てて紹介している。
「5.縁頭-視点を絞る」では小柄は各流派を網羅的に蒐集されているのに対して、縁頭では村上如竹一門が多く、蒐集されているので「視点を絞る」という副題になっている。如竹一門以外では近江と美濃の縁頭を紹介して、共通する特色としての図柄の濃密さを指摘している。

そのほか後藤七郎右衛門家(一乗の実家)の伝来ではないかと推測している「ヤニ型(刀装具の完成品に松脂と墨などを混ぜたものを押し当てて型取りしたもの)」のコレクションを紹介している。黒いもので写真ではどんな作品かはわからないが、それに「徳乗作 光覧極」などの説明が添付してあり、詳しく研究すると面白いものだろう。ちなみにこのようなヤニ型は大阪城天守閣に末永雅雄氏のコレクションがあり、京都国立博物館にもあるようだ。

さらに併設展示をしている根付作品ーこれらは根付の研究で名高い渡邊正憲氏から寄贈を受けた-も所載されている。
また大阪で活躍された現代の装剣金工阪井俊政氏の作品も10点ほど紹介している。阪井氏は勝矢氏に教えを受けた時期もあるようだ。

最期に勝矢コレクション総覧として、白黒の小さい写真だが、全作品が掲載され、それぞれの作品概要が名称、銘、法量だけだが掲載されている。

以上に概説したカタログの構成からもわかるように、従来の刀装具の書にない新味な工夫をしており、意欲的である。900点を超える寄贈品から、このようなカタログにまとめ上げるのは大変な苦労だったと思う。

従来の透かし鐔の分類名称である尾張、京などを使っている箇所もあるが、それら流派の特徴を説明するような箇所は一つもない。これらの分類は根拠がないから、あえて避けたのではと思う。
各金工個々の説明も詳しくない。これも伝承の話が多く、また今回の解説方法の中では不要と考えてのことであろう。
図柄の説明の箇所に、はじめて知ることもあり、なるほどと思う。葡萄に栗鼠の図の説明に私などは「武道に立す」と習っていたが「武道に律す」とあった。また片輪車の説明に、木製の車輪にひび割れが起きないように水に浸けるなどの説明を読んで勉強になった。
金工の彫技に関しても、浜野一派の特色として「肉取りの技術とリアルな人物表現を流派の特徴」と的確な評をしている。長州鐔の図柄における雪舟一派の影響という指摘もなるほどと思う。

写真は必要最低限は映っているが、被写体=作品に対する愛情が足りない感じである。これだけの数を記録撮影するのが第一であったわけであり、やむを得ないだろう。刀装具の魅力がわかる拡大写真も無い。

掲載された刀装具には私の好みのものが少ないが、戸張富久の再評価には賛成である。

執筆の中心は内藤直子氏だと思うが、今後も従来の刀装具研究とは別の視点ー例えば日本美術全体の幅広い視点-からの手垢にまみれた評ではない言葉での評、史料が無い中だができるだけ根拠のある資料に基づく論に期待したい。根拠となる資料も無いのに京金工、京金具師との極めなどを払拭して欲しい。

なお、巻末に協力者として私の名前が挙げられているが、勝矢氏の論文の検索をしただけである。

迎賓館赤坂離宮

昨日、妻とはじめて出向く。明日からは即位の礼での賓客来訪に備えて休館とのことだ。入場料が1500円(和風別館は別料金で予約制で今回は参観せず)と国の施設なのに高い。妻は至る所に警備・案内の職員が配置されているから、その人件費ではないかと云うが、来館者一人一人に35頁のカラーの立派な冊子が渡されるから、その料金も込みなのだと思う。手荷物検査もある。内部は写真撮影が禁止だから、冊子のカラー写真で代用ということなのかもしれない。
それによると、紀州徳川家中屋敷跡に明治42年(1909)に大正天皇のお住まいとして、建築家・片山東熊の指揮下で造られる。その後、昭和49年に建築家・村野藤吾が賓客接待用の迎賓館として改修している。

全体の印象は先年訪問したベルサイユ宮殿と同様な建物の外装・内装で庭園の造り方も左右対称で中央に噴水というスタイルである。建築資材の大理石が眼に付くが、大理石は種々の模様があり、産地が違うことは歴然だが、それがどこのものというのは冊子に詳しい。日本だと床柱や天井板の木材の種類に凝るが、西洋は大理石なのだろうか。

入ると、まず玄関ホール・中央階段を見る。来客は正門から入り、長いアプローチを車で来て、正面玄関に付ける。そこでホストが迎え、一緒に室内に入り、赤い絨毯の上を階段で2階の大ホールに続く。来賓も高齢化して階段を上がれなくなったら難しいななどと思う。
大ホールから朝日の間に行く両脇に小磯良平の「絵画」と「音楽」の絵がそれぞれ掛けられている。

朝日の間は表敬訪問や首脳会談が行われる最も格式の高い部屋であり、今年の4月に改修工事が終わったばかりで、カーテン、シャンデリア、調度品(桜をちりばめた段通、濃緑のビロードのカーテン、椅子等)は美しい。天井には朝日の元で4頭立ての馬車に乗った女神が描かれている。改修工事の様子なども映像で紹介されている。また段通やカーテンは古いものか余材なのかはわからないが、手で触れるような展示もある。

彩鸞の間は本来は来客が最初に通される控えの間だが、首脳会談や条約調印にも使われている。柱に金色のレリーフで鸞(らん)という鳥や、兜や剣(サーベルと日本刀)などもある。ベルサイユ的であるが、違うのは王様などの肖像が無いことだ。

花鳥の間は、食事をするところにも使われ、壁に渡辺省亭の下絵を濤川惣助が七宝焼で製作した花鳥図が30枚飾られている。頭上の花鳥はフランス人画家の油彩である。

羽衣の間はオーケストラボックスがある。大きなガラス窓に立派なシャンデリアが3基ある広い部屋である。当初は舞踏会が行われるホールとして造られており、1枚仕立ての天井画が描かれている。

ところどころに「お手をふれないでください」のカードが置いてある。案内の人に「来賓が来られた時には、こんな札は置いていないでしょう?」と聞いたら苦笑して「ええ、取り除いています」とのこと。
「ここで泊まれる来賓もいるのですか?」と聞くと「泊まれるのですが、最近の賓客はホテルで泊まられるのがほとんどです」とのことだ。

庭は建物の後ろに主庭が広がる。大きな噴水があり、そこに青銅製のシャチ、亀、グリフォン(鷲の上半身、下半身がライオン)が据えられている。松だが地上部からすぐに枝が分かれる赤松(タギョウショウ:多行松)が植わっている。庭には砂利を全面に敷き詰めており、清掃も行き届いている。

裏の主庭から前庭(正門側)に回って帰ることになるのだが、前庭は芝生に松が散在する庭である。散在する松も左右対称に植えられている。

「江戸時代の「格付け」がわかる本」 大石学 著

江戸時代は身分がやかましい世界であった。この本は、大名、武家、農民、町人などの身分格付けや、食べ物などの番付などを紹介して興味深い。新書であり、読みやすく、簡潔にまとめている。
官位は古代の律令制が基本だが、時代が下がると、当初の令になかった官職(これを令外官と呼ぶ)が増え、征夷大将軍もそうである。正一位、従一位に太政官の太政大臣、二位に左大臣、右大臣、三位に大納言などど定まっており、武家の官位は幕府が管理し、朝廷は認証するだけである。職人などの官位は門跡寺院などの権限で発行される。この時の御礼が大事な収入になるわけである。

大名の官位だが、大名家の家格ごとに初官(はじめに任官される位)と極官(家格の最高位)が定められている。○○守などの受領名は自由だが、幕府お膝元の武蔵守は原則は不可、また三河守は津山松平家、陸奥守は仙台伊達家、薩摩守は島津家に限定されていた。
親藩は御三家、御三卿、御家門などに分かれており、また大名も国持大名(ほぼ一国を治める)、国持格大名(宗、伊豫宇和島伊達、立花など)、城持大名(石高で10万石以上)、城持大名格大名、陣屋大名などと分かれていた。
譜代、外様の区分はよく知られているが、この本ではじめて知ったのは関ヶ原以降に臣従した相馬、脇坂、水口加藤、秋田、戸沢、丸岡有馬などの大名は願譜代として譜代大名と同じ待遇を受けたということである。

このような大名の格の違いなどから、江戸城での部屋の違いなどや、屋敷の門構えのありかたや、衣服が違っている。屋敷は武士で御家人クラスは、まとまって組屋敷に住み、門は両開きの冠木門で300坪程度の敷地。200石取りの旗本だと片番所付きの長屋門で600坪の屋敷となる。

女性は名前で身分の違いがわかるそうで、「子」が付くのは宮廷の女性や将軍の正室である。
また町人や百姓の中での身分格差や、僧侶や絵師の身分格差など幅広く取り上げている。
町人も江戸など三都で違いがあり、江戸は町年寄(三人)、町名主(城下町の建設時期で草創名主、古町名主、平名主など)、町代、その下に家持(家主)となっている。落語に出てくる町人はこの下の店子である。

商人は、普通は丁稚→手代→番頭となり、勤務評定で昇進は決まる。
豪商は初期は朱印船貿易を行う特権商人、門閥商人。次ぎが材木商などの公共事業の投機方型豪商と、最初は一業種で成功し、後に複数の商売を行った近世本町人のタイプ。これら商人の中には後に両替商になり、そのいくつかが明治以降に財閥となる。三都以外の地方にも豪商は生まれる。

農民は村方三役とされる百姓代、組頭、庄屋(名主)がおり、その下に本百姓、そしてその下に水呑百姓などの隷属農民という格差である。なお農民は公式文書には名字を使えないが名字は持てた。そして名字は武士が許したが、金で許可することも多い。もっとも金さえ出せば江戸時代後期は武士の身分も買えた。

医師は典薬頭、奥医師、番医師、寄合医師、小普請医師が武家待遇で、他は町医者に分かれ、部門として本道(内科)、外医(外科)、口中医(歯科)、眼医、小児医、鍼医の種類があった。
僧侶は宗派によって階級や名称が違う。僧位には法印、法眼などの位がある。
絵師は狩野家が御用絵師となり、それは奥絵師(四家)、表絵師(十二家)の身分格差がある。

盲人の仲間組織は当道座で、その最高位が検校、次いで別当、乞頭、座頭となる。検校は法印になり、社会的地位は高い。それで座頭金という高利貸を行って蓄財に励む。その.返済が滞れば多くの盲人が玄関に押し寄せるということで、取り立ても厳しく、財をなす。勝海舟の先祖もその一人で、武士の身分を買ったわけである。
料理屋、菓子屋にもミシュランガイドのような格付けはあった。

「気象で見直す日本史の合戦」松嶋憲昭 著

日本史の出来事を当日の天気と照らし、考察するという本であるが、読み難くいと感じるのは天候のこと以外のことに触れているからであろうか。
取り上げた事件は桶狭間の戦い、本能寺の変、備中高松城の水攻め、中国大返し、関ヶ原の戦い、文永・弘安の役、稲村ヶ﨑の伝説である。
天候のことがわかる資料は少なく、また不完全なものが多い。一方で著者は天気に関しては多くの人が同時に体験しているから創作が難しいから、軍記物や物語でも史実を伝えているのではとも書いている。ただ、この本では司馬遼太郎の小説や問題のある武功夜話などを引用しており、鼻白むところがある。
参考になったのは、同時代の公家の日記(言経卿日記…京都)僧侶の日記(多聞院日記…奈良)や家忠日記(三河中心)などの天候の記事から、天気の記述を抜き出し、天気は西から変化していくという自然の摂理を織り込んで、事件当時のその場所の天候を推測している点である。
事件当日の天候と似ている現代の天候を探し出しての考察も行っている。
蒙古襲来の神風についてだが、昔からの説ではなく、昭和18年の頃から神風が強調されるようになってきたことを、教科書の記述内容の変化から明らかにしている。太平洋戦争で敗色濃厚になってきた時期であり、神風期待があったのであろうか。ただ文部省主導ではなく、当時の歴史学者主導の説だったとしている。
文永の役は旧暦の10月20日が現在の11月26日にあたるから、昭和33年に気象学者の荒川秀俊は神風=台風ではないと唱えている。筆者は元が日本から引き揚げる時に壱岐に停泊中に、その季節特有の暴風雨に遭遇したのではと推論している。

弘安の役では、風向きの記述から、台風が九州東岸(宮崎、大分)を通り、それに伴う風で元軍の船が損壊したと考えている。そこに元軍側の気象知識の不足(日本と中国は違う)から操船を誤った可能性を指摘している。

「軍事の日本史」 本郷和人 著

歴史学は軍事のことをまともに研究してこなかったと本郷氏は述べる。そして日本人が好きな軍事は「鵯越の逆落とし」や「桶狭間の奇襲」などだとして、小人数で大軍を破るような話が取り上げられるおかしさを説く。
そして戦いは①戦術、②戦略、③兵站の3つが鍵。そして戦いに勝つ為には、④兵力、⑤装備、⑥大義名分が大事になると真っ当な議論をしていくのだが、大上段にふりかぶった割に、今一つ、実証的ではない感じである。それだけ史料が少ないのだろう。
また本郷氏は歴史を易しく、興味深く書く学者であるが、その分、論理構成などが思い付き的な感じもする。

毛利家文書などをみると、首一つとるのも大変であり、それが本当の戦いではないかと述べる。そういう戦において、死んでも仕方が無いとして、死ぬ気で戦うのは家の繁栄を望むためである。そして実際の戦いでは、追撃戦が最大の快楽になる。怖くなくなるし、相手を殺すことが容易になる。武将もこのことを知っていて「追い首」(追撃戦での首獲り)は手柄にならなかった。

そのような人一人を殺すことが大変である戦いの次元が変化したのは鉄砲の登場である。鉄砲は人を殺す罪悪感を無くすと書く。

兵站の話だが、戦国時代は一人一日3合の米が必要であり、1万人の兵だと1日で3万合=30石となる。それは4500㎏の米となる。1㎏500円だと、4500㎏だと225万円。戦が1ヶ月かかると兵糧代に6750万円となる。それに武器、馬(馬は飼料代)の代金が必要となる。こういうお金をかけての戦いであり、それなりの覚悟が無いとできない。また鎧兜は高価なものだった。

なお、兵の動員力は百石あたり2.5人程度である。1万石なら250人程度の軍隊である。

中世は一騎打ちの時代であり、騎馬による弓での戦いが中心。この時に郎党が助けるのはありとされていた。しかし源義経が壇ノ浦の戦いで採用した船の水主梶取(かこかんどり)を弓で狙う作戦は卑怯とされていた。武士特有の倫理観がある。

戦いは兵力=動員力の勝負である。戦いに確実に勝つのは相手の兵力の3倍を、戦闘局面に集中することである。

鎌倉時代の有力な家は300人くらいの兵隊を動員する。それが室町時代になると、2000とか3000人の兵力が、守護大名が自分の才覚で国の武士を動員できる規模となる。
それが信長の時代になると、もう一桁上がる。西洋ではナポレオンが国民皆兵で集めた。これだけの動員となると、プロでない兵士を動かす武器の工夫(長鑓で上から叩く、鉄砲など)が必要となり、また戦いにおける大義名分も大事となる。信長は大義名分を大事にする。

川中島の戦いは、戦いの後に川中島地域を支配したのが武田家だから信玄の勝ちである。武田の有力武将が戦死しても、戦争目的を成し遂げた方が勝ちである。
信長が越前攻めの最中に、浅井が反乱すると逃げたのは挟み撃ちの恐怖であり、兵糧が途絶えるのを恐れたためではないか。

本郷氏が唱える軍事に対して、小さな戦いのことも筆が走っていて、池田屋事件では天然理心流に刀を短く使う方法があり、室内で闘えたとか、軍上手な武将は立花宗茂であって、彼は家来に慕われていたとかの逸話も交じる。

日本では武が常に文を圧倒した。関ヶ原の戦いで家康が圧倒したから、ここからは実質的に家康が第一人者で、ここが江戸時代の起点と考える。

秀吉の戦いは革新的であって、兵站を重視していて、例えば敵の食料を買い漁ることをやる。また戦争を土木工事に置き換えて水攻めなどを行う。また「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いでの大垣からの反転攻勢などの運動を軍事に入れている。

軍事に直接関係無いので、どういう脈絡でこの話が書かれていたのかは忘れたが、明治政府は才能を重視した政権で、広く人材登用を行い、当初は世襲をしない政権であった(のちに華族制度)と書く。




家康は江戸に厭離穢土をかけた