「細川忠利」 稲葉継陽 著

細川忠利とは細川忠興(三斎)の跡を継いだ大名である。この本で認識を新たにしたところがあり、興味深い本であった。副題に「ポスト戦国時代の国づくり」とあるが、戦国期の細川忠興(三斎)の時代から、天下泰平の時代=徳川幕府に気を遣う時代に、どのように国づくりを行い、対処していたのかを明らかにしている。今は永青文庫に伝わる細川家の膨大な文書をもとに展開している。

忠利は三男である。長男忠隆(休無)は、家康暗殺計画が前田利長、浅野長政、土方勝久、大野治長らによって企てられたとされた時に、正室が前田利長の妹であることで嫌疑をかけられる。
この時、忠利は前田家の生母まつと同様に人質として江戸に送られる。徳川秀忠のもとで暮らしたことで、結果として信頼を得る。秀忠と同様に高麗八条流馬術の奥義を受ける。なお藤原惺窩からも儒学を学ぶ。

一方、長男忠隆は関ヶ原後に廃嫡される。慶長9年に忠興が国元で体調を崩し、この時に忠利が家督を継ぐように幕府から指示される。忠興は奇跡的に回復し、江戸から見舞いに駆けつけた忠利に代わり、次男の興秋が江戸に人質として送られるが、次男興秋は途中で出奔してしまい、興秋の関係者が誅伐される。よくある大名家の御家騒動の芽が摘まれたわけである。

忠利は側近家臣団を作っていく。その藩士からの起請文をいくつか引用している。後にも記すが起請文の内容が興味深い。藩士から藩主忠利に一方通行的に忠誠を誓ったものでなく、藩主からも藩士への約束をするような双務的な信頼関係のあるものであり、なるほどと思う。

大坂の役の時も忠興が軍を率い、忠利には家督を譲らなかったが、元和6年に忠興が江戸で重い病気にかかり、家督を譲る。忠利36歳の時である。ただし忠興はまたも回復して三斎と名乗る。

その後20年小倉藩主として、藩領の政治を行う。実務能力のある家臣の中から惣奉行3名を選任して藩を運営していく体制で組織的になる。
惣奉行が判断できないものは家老衆に相談することになっていた。(実際には上級武士層の問題が家老衆に相談されている)
惣奉行の下に郡奉行12名を置き、地域ごとの責任者とする。村には村役人=庄屋衆がいる。この間に手永(てなが)があり、その管理責任者が惣庄屋。手永の不正な者を罰して、公正な政治を行うことを心がける。すなわち次のようなルートである。村→手永(惣庄屋)→郡(郡奉行)→藩庁奉行所(惣奉行)→家老衆(家老合議制)→当主

郡奉行は百姓の申し出を取り上げて、その是非を判断している。検地の不正も糾弾して悪徳な惣庄屋を罰している。また藩士の百姓に対する実力行使を厳禁したり、目安箱を設置している。(目安箱は戦国期の北条氏や今川氏にもあるようで徳川吉宗が最初では無かったのだ)

すなわち、百姓は領主と一定の条件合意のもとで支配関係を結び、訴訟と逃散の権利を保持する自立性を有していたわけだ。

細川家の家老は細川家が室町幕府に出仕していた頃からの同輩が大半。寛永7年時点では忠興4男細川立孝3万石、6男細川興孝2.5万石、長岡式部(松井興長)2.5万石、有吉頼母1.5万石、長岡監物(米田是季)0.65万石、長岡勘解由(沼田延元)、志水伯耆、小笠原備前0.5万石であった。

これら家老とも血判起請文をかわしており、主君の御意に背くものとは親類・縁者でも通じない、幕府の法度をうけた細川家の法度も順守。藩主が徳川に反するようなことがあれば御意見(諫言)をし、それでもご同意いただけないなら、自分は一味しないという内容であり、藩主の行動も家の存続があってのことという意識が出ている。その家老衆も自分の家中から同様な起請文を受けているわけだ。

問題となったのは隠居の細川三斎の中津隠居領である。3万7千石があり、大名領は石高に応じて公儀負担があるが、ここには無役として負担が無かった。また中津衆とよばれる武士が133名いて、その知行高合計は4万2千石余であった。三斎は自分の領の統括者として中津奉行を設け、忠利の統治権が及ばなかった。裁判権も同様で、後に肥後に移封された時も熊本と八代間の対立として受け継がれる。

寛永の大旱魃が生じる。細川忠利は百姓救済に動く。茶道具を売却している。

寛永9年に加藤忠広が改易となって、細川家が肥後に移封される。忠広嫡子光広の幕府転覆の陰謀の嫌疑とされるが、加藤家は藩内の統治ができておらず破綻状況になっていて、熊本城の毀損も修理できていない状況であった。
細川忠利は移封後に小倉藩時代と同様な改革を行う。

藤原惺窩門人の浅野内匠頭長直(長矩の祖父)が若かったので大名としてのあり方を指導していた。家光にも参勤交代の大勢の行列や公儀普請の件など「下々は草臥れている」と苦言を呈す。また九州大名の指南役として薩摩藩にも助言していた。

寛永14年に島原の一揆。武家諸法度の加勢禁止で初期対応が遅れた。

肥後では三斎隠居家は3.7万石、三斎附き家臣の4.7万石、それに家老の長岡河内守分の1万石で計9.4万石が別家中のようになる。家中対立もあり、三斎の子立允(立孝)に隠居領を譲り分藩する動きを見せる。

細川忠利は寛永18年に56歳で逝去。光尚が後継になる。その時の家臣から光尚への起請文は「三斎様とは過去にも通じていないし、今後も一切通じない」ということが明記されている。

正保2年に八代の立允(立孝)が逝去、そして三斎も死去した。三斎の遺言があったが幕府と調整して立允の子の行孝に3万石を相続させて、八代から宇土へ移封させることが承認される。
八代に城代として家老の松井興長を入れる。この時に、三斎側近28人はお暇を願いでる。戦国時代の主従はこのように人(主君)に付いていた。これが忠利や光尚への起請文との違いである。

「日本の色を知る」吉岡幸雄 著

江戸時代から続く家業の染色屋を営んでいる著者の本であり、季節ごとの色にちなんだ風物を取り上げ、季節の情景を身の周りから浮かび上がらせ、これらのことが詠われている昔の物語や和歌などを紹介している。

その中で、昔ながらの染色方法などの話が出てくるが、それが興味深い。
最終的に鮮やかに染め上がるのだが、その元となる植物を選定し、それを加工するわけだ。煮たり、水洗いしたり、曝す方法、その過程で加える灰などの成分、昔の人はよくこれだけの工夫をしたものだと改めて感心する。

藍染めは日本独自と思われているかもしれないが、世界でも行われていたとしての解説も面白い。ヨーロッパ人は大青(ウォード)というアブラナ科の植物を原料としていた。15世紀にインド藍(マメ科の木藍(モクラン))が輸入され、それはイギリスが独占する。だからインディゴ・ブルーとなる。
スペインは中南米の国から輸入するようになる(ナンバンコマツナギ)。なおエジプトでも藍があったことはミイラの遺品からもわかる。
中国では2300年前に荀子が「青は藍より出でて藍より青し」と書いているように藍の染色が盛んになる。

藍は木綿にもよく染まるので、日本では木綿が伝来し、普及した以降に盛んになり、京都の九条周辺や播磨が産地であった。阿波藍は、吉野川が暴れ川であり、よく氾濫する。蓼藍(たであい)は水に浸かっても育ち、連作を嫌うので水害で土砂が替わるのはむしろ都合が良い。そこで蜂須賀家政が奨励して阿波の藍という特産に育てる。
この本には書いていないが、阿波踊りを観に行った時に徳島藩の農民は藍の年貢に苦しめられていたようだ。

冠位十二階として色が階級(紫、青、赤、黄、白、黒)を表したが、これは随の制度を見倣ったものである。ただし、中国は黄が今でも尊ばれる。紫は帝王紫という言葉があるようにギリシャ、ローマで貝の内蔵からとった紫が喜ばれ、それが東洋にも伝わったと記されている。

「落日の豊臣政権」 河内将芳 著

副題に「秀吉の憂鬱、不穏な京都」とあるが、文禄年中の京都を中心とする地方の世情を記していて、なるほどと思うところがある。
秀吉の時代は 「慶長見聞集」に「弥勒の世」と記されたり、「大かうさまくんきのうち(太閤様軍記のうち)」に「太閤秀吉公御出生よりのこのかた、日本国々に金銀山野に湧き出て」とあるように、豪華絢爛な桃山時代と思われているが、それとは違った事実を教えてくれる。

当時の日記(「孝亮宿禰記」「言経卿日記」「舜旧記」「義演准后日記」「16・7世紀イエズス会日本報告集」「多聞院日記」「駒井日記」など)や「当代記」や「慶長見聞集」を駆使して具体的に記している。これらが、この時代の基礎史料ということも理解できた。

文禄は、天正20年(1592)に改元され、文禄5年(1596)に京都に大地震がおこり、伏見城が崩壊するなどした為に、慶長に改元されるように短い時代である。

天正10年代の10年余で、京都の町造りが本格化し、8千~1万の戸数が、3万戸になって人口10万人以上に拡大する。その京都の聚楽第が建ち、そこには関白秀次がいて、秀吉は伏見にいる時代である。

華やかな時代の象徴として、金銀を大名、公家に配る秀吉の事績も存在するが、これは秀吉の資質としての気前の良さと同時に貨幣政策でもあったのかと記している。
そして「ならかし」という言葉が出る。奈良借と書くが奈良町民に対して南京奉行が金を貸しつけ、その利息を取ることであり、奈良の町人は高利に苦しんだことが記されている。京都、大坂、郡山などの城下町を整備する為に、これら地には優遇策も出されるが、奈良の町などには厳しかったことがわかる。

京では秀次家臣間で、喧嘩の刃傷事件が起きる。秀次周辺は淀殿の懐妊に神経を尖らせていた。このような事件や辻斬り、強盗も生じる。文禄の役という対外戦争からの忌避や、伏見城などの普請での荒くれ男の集まりや、関白秀次と太閤の対立などによる世情不安による。関白が千人切りをしているとの噂もたつ。盗賊・石川五右衛門の事件などは武家の奉公人の犯罪であった。都市の治安は悪化していた。

当時、京では陰陽師、声聞師が多くいたが、これらの人を捕まえて、豊後や尾張の荒地の開墾などに送り込む。これは対外戦争で男が出ている時に女房がこのような者を家に上げるのを防ぐためでもあった。
宇喜多の豪姫が産後におかしくなり、狐が憑いたとされる。狐は出産や死に結び附けられており、声聞師払いもこの一環で実施される。

淀殿に世継ぎが生まれ、文禄4年に秀次に謀反の疑いが着せられ、秀次が切腹させられる。秀次の妻妾や子が三条河原で殺され、聚楽第も取り壊される。ただし、秀次家臣の近臣は別だが他の家臣は他大名などに取り立てられていることも記されている。

文禄5年に降砂があり、毛のようなものが降った。(浅間山噴火の影響か)
そして文禄5年(1596)閏7月の深夜に京都に大地震が起き、伏見城崩壊するなどの被害が出る。伏見城は再建されるが、苛酷な労働で怨嗟の声も満る。なお大地震は天正13年(1585)にも中部地方から近畿東部にかけても発生していた。

文禄の役という対外戦争の不満、逃亡兵による治安の悪化、普請工事による荒くれ男による治安の悪化、天変地異、秀吉の後継問題による秀次事件、京都、大坂、郡山重視で奈良などの町衆の不満などが「落日の豊臣政権」の現象である。

「日本美術読みとき事典」 瀬木慎一 著

日本美術の仏像と絵画について、その形式、様式、技法などを解説した本である。
仏像については仏の位階や仏の役割や、仏を守る天部、神将などの役割を解説している。簡単に述べると、阿弥陀如来などの如来が最高位で、次いで菩薩。天部とは吉祥天とか○○天と付く仏像で、神将は十二神将である。

絵は巻子、絵巻、掛軸、障壁画、屏風から錦絵(続き絵、揃い物)などの形式が説明される。
絵では宗教画があり、それは釈迦などの説話画である本生図や、仏伝図で有名な画題「捨身飼虎」などがある。浄土の有様を画く浄土変相図、曼荼羅図などもある。

歴史画は縁起絵からはじまり、伝承画(伴大納言絵詞)、文学画(源氏物語絵巻)、御伽草紙、戦記物語(平治物語絵巻) などとなる。

絵画の中国での発達は、人物画、山水画、草木、禽獣、器物などへ移っている。

山水画は現実には存在しない山を描き、それから実際の山を描くようになる。そして構図や画法で四季山水、日月山水、楼閣山水や破墨山水、水墨山水、竹林山水などと分かれる。

人物画は中国では道教の老荘思想の竹林七賢などの画題や、漁師と樵夫もよく登場する。儒教系の人物は孔子が代表だが、鍾馗、西王母なども好まれる。
江戸初期に岩佐又兵衛が近世風俗画を描く。浮世絵は悪所を描く絵画でもある。その4大テーマは歌舞伎役者、遊女と各種女性、相撲の力士、物語の中の人物となる。

花鳥画は江戸後期に写実性が強まるが、それは西洋絵画の影響である。それから静物画が生まれる。生命体を見て写す写生と、静止した物体として写実するヨーロッパの違いでもある。

水墨画は中国で文人が放縦な詩情をあらわす絵画として生まれ、禅僧が日本に伝え、雪舟で頂点となる。近世は侘び茶での心象表現として描かれ、江戸時代後期に文人画となる。

文人画は詩画一体の絵画として文人が描く画で、やがて文雅を基調とする詩情がある絵となる。江戸後期に南画として流行する。

風景画は山水画から分化した。名所旧跡を書き、道中絵、都市の景観(室町期に洛中洛外図があるが)を描くようになる。

日本では妖怪、幽霊図がある。鬼がはじまりであるが、幕末に多様となる。また風刺画は信貴山縁起、鳥獣人物戯画からあるが幕末には国芳となる。

日本画は幕末には大和絵、狩野派、浮世絵、南画、円山四条派の5系統になる。フェノロサは外人なのに日本讃美者であり、この時代の共感を得る。彼は西洋のマネの油絵と南画を排斥する。狩野芳崖、岡倉天心などが賛同する。そして黒田清輝が帰朝して、東京美術学校に洋画科が生まれ、以降、洋画も発達する。

「ギリシャ人の物語Ⅲ」塩野七生 著

第Ⅲ巻は「第1部 都市国家ギリシャの終焉」、「第2部 新しき力」の構成である。
「第1部」ではスパルタがペロポネソス戦役に勝つが、スパルタの覇権はギリシャに前向きな影響を何ももたらさなかったことを書いている。
スパルタは軍事最優先の国、その軍事は最上位の階級のもので、階級制をあくまでも維持する国である。そして軍事以外の文化的なことは何もない。その軍事も最上位階級の軍事(=戦争)による消耗を防ぐ為に市民兵よりも傭兵が活躍するようになる。内部の身分格差はそのまま残るから、階級間対立に常に神経を使い、スパルタだけのことが優先でギリシャ各都市への影響力はない。そして外交的にはペルシャと結ぶようになり、ペルシャの傭兵になったりもする。

一方、負けたアテネは海軍力が削がれ、その結果、通商の利益も失い国力を低下させ、政治でもスパルタ寄りの人物が登場するような衆愚政治となる。

ここでソクラテス裁判のことを記している。考えることの大切さを訴えて人物だが、この書ではプラトンの著作を読むことを推奨して、あまり詳しくはわからない。

その後、テーベにペロピダスとエパミノンダスという2人の人材が現れる。軍政も改革し、騎兵の力を活用して、レウクトラの会戦でスパルタの主力軍を破る。その後、全ギリシャを二分するマンティネアの戦いでテーベ方はスパルタ・アテネ方と戦う。テーベ方が優勢だったが、指揮官のエパミノンダスが戦死し、その勝利を確定できないまま終わる。
このテーベに、同盟したマケドニアから王子のフィリッポスが人質として送られてくる。彼はテーベの軍事を学んでおり、紀元前362年に23歳のフィリッポスがマケドニアで王位につく。

「第2部 新しき力」はマケドニアの王フィリッポスとその息子で後にアレキサンダー大王と呼ばれるアレクサンドロスの物語である。
フィリッポスは王位争いに勝ち、軍事上の改革をする。マケドニアの重装歩兵はファランクスと呼ばれる。農民層まで対象を広げ、槍(サリサ)をスパルタの槍の2倍近い6.5㍍にし、これを2つ折にして持ち運びやすいようにした。そして密集隊形をさらに大型化した。

フィリッポスにはパルメニオンという18歳年長の補佐役がいて軍事を司った。農地改革も実施して、鉱山の経営にも関心を寄せて国力を増強していく。
そしてギリシャで生じた神聖戦争(神託で有名なデルフォイをめぐる都市間の争い)に乗じてテッサリア地方を傘下にする。
この時、アテネでは憂国の士のデモステネスがマケドニアの危険性を訴える。
この戦争でマケドニアが勝ち、アテネには寛大に、テーベには厳しく対処した。スパルタは自国に引き籠もった。コリントの講和会議でマケドニアがギリシャの実質的な盟主になり、ペルシャに対峙することになる。

フィリッポスはアレクサンドロス(アレキサンダー大王)の母のオリンピアスを離婚して再婚した。その結婚式の場でアレクサンドロスは再婚者の親族のアッタロスと喧嘩し、それに父が怒り、家出する。
フィリッポスは紀元前336年に暗殺される。46歳である。この時、アレクサンドロスは20歳である。

アレクサンドロスは父からスパルタ人レオニダスという教師を付けられ、厳しい肉体訓練をしていた。そして一方で哲学者のアリストテレスに師事していた。これらに学友がおり、彼等が後に軍事面の指揮者(将軍)となってアレクサンドロスを助けることになる。

アリストテレスは次のことを教えたとあるが、参考になる。①先人達が何を考え、どのように行動したかを学ぶこと(これは歴史、すなわち縦軸の情報),②日々もたらされる情報(横軸の情報)、③これら情報に対して偏見なく冷静に受け止める姿勢の確立と、情報に基づいて自分の頭で考え、自分の意志で冷徹に判断し、実行すること。
本は母からホメロスの叙事詩『イーリアス』を薦められ、愛読書として影響を受ける。

遊び友達の一人がヘーファィスティオンで生涯の友となる。また誰もが乗りこなせない駻馬のブケファロスも彼の生涯を支えた。

彼の初陣は神聖戦争の時にカイロネアの会戦で、騎馬隊で突っ込み、勝利に貢献する。

以降は痛快なアレクサンドロスのペルシャからアジア、エジプトへの遠征物語である。遠征した経路、距離を見ると、若いからだと思うが凄いものである。
戦術は騎馬隊を菱形に構成して、その頂点(ダイヤの切っ先)に立って敵中に突っ込むのがアレクサンドロスである。このような大将自らが先頭に立って突っ込むのは他に無い。
3万の歩兵に5千の騎兵という兵種構成である。遊び友達・学友の各隊の指揮官との意思疎通も見事なのがアレクサンドロスの戦闘である。
記録者、通訳要員、技師集団、それに医師集団を連れての遠征で、ペルシャを滅ぼし、エジプトを征服し、インドのインダス川まで進出する大遠征を行う。

彼の戦いを次々に書いてあるが、私なりに勝因をまとめると、次の通りである。
①敵の情報を集めるのに熱心で、それをもとに考えるのはアレキサンドロスただ一人である、②アレキサンドロスの考えを理解して、指示通りに兵をまとめあげる腹心の優れた将軍たちが揃う、③従来とは違った兵種、陣形による戦闘、特に騎兵の活用、④補給の重視(新兵の補充も含めて)、⑤勝者の寛容、武士の情けを持っており、敗者の活用もできたこと、⑤アレキサンドロスの若さ(若くなければあれだけの大遠征をできない)

他の将軍と違って先頭で戦うから、負傷もするが、これは凄いことだと思う。

「古文書返却の旅」網野善彦 著

著者は網野史学と言われるような斬新な中世史観を提供した歴史学者だが、この本は著者の研究が数多くの古文書を読むことで生まれた背景をエッセイ風に書いている。
著者は戦後1949年に東京月島の東海区水産研究所の仕事に従事する。その仕事は漁業制度改革の資料とする名目で、全国各地の漁村の古文書を借用・寄贈で集めることである。
主唱者は宇野脩平氏でソ連のアルヒーフ(文書館)を目標としていた。しかし古文書の整理は膨大な作業で、その内に予算が切られ、品川区戸越の文部省史料館と同じ敷地に水産庁水産資料館が1955年に設立されるに至る。そこは保管庫に過ぎなかった。
そして、借用し放しの百万点の古文書は宇野氏の再就職先の東京女子大の倉庫にリンゴ箱に入れられたまま山積みされた。著者は高校教師となる。史料は、この後も変遷があって著者が勤務した神奈川大学に日本常民文化研究所に文書が保管されるようになるが、その間の整理・返還作業のことを述べている。

史料は著者名の借用書で借りたのもあり、その後、他の研究者から、問い合わせを受け、その都度、宇野氏の元で探したりしていた。
史料所蔵者から水産庁にも返却の催促が多く寄せられるようになり、1967年に借用文書返却予算が付いた為に、返却の為の整理をする。しかし宇野氏が逝去。それから、ここで述べたような文書返却作業の旅が続く。借用期限を過ぎており、地方の研究者からは非難され、著者は盗人よばわりされたこともあったようだ。

この本は、その過程での返却の物語を記している。文書整理方法の未熟から、表題が誤って記されていたり、その過程での古文書の修復の話とか、地方旧家や地区全体での保管状態などの逸話もあり、旅での印象、人情なども記されている。

そして、後の網野氏の研究につながること、例えば土地がないから水呑百姓のように思われていた家が、海の民として遠く蝦夷や四国の方まで交易をしている商人だったことなどを発見したことを記している。
文書が漁業関係だったこともあり、海の民、海部=海夫の生態が書かれている。

旅では、開発によって無くなってしまった岸辺の風景に触れている。

「ギリシャ人の物語Ⅱ」塩野七生 著

しばらく間が開いたが、第Ⅱ巻を読む。副題に「民主政の成熟と崩壊」とあるが、成熟が「第1部 ペリクレス時代」で崩壊が「第2部 ペリクレス以後(26年間)」だ。
(第Ⅰ巻の読後ブログhttps://mirakudokuraku.at.webry.info/201807/article_3.html

ペリクレス時代とはギリシャ民主政治がもっとも機能した黄金時代と呼ばれている。この本にも良く引用されているが歴史家ツキディデスが述べた「形は民主政体だが、実際はただ一人(ペリクレス)が支配した時代」である。

アテネではアリステイデス(正義の人と称される)が紀元前462年に死去した後にキモン(正直な人と称される)が毎年10人のストラテゴズの一人に選ばれる。この人はペリクレスよりも年上で軍事的な才能もあった人である。
スパルタに大地震が起き、スパルタでヘロット(国所有の農奴)の反乱が起き、それがペリオイコイ(手工業、商業者)にも広がってきた時にアテネに救援を求める。キモンが兵を率いていくが、スパルタはアテネが裏でヘロットを助けるのではと疑い、帰してしまう。帰国したキモンはアテネ市民から反発される。そして1年後に当時34歳のペリクレスによって陶片追放される。ペリクレスは名門アルクメオニデスの一門で資産家である。派手ではなく、酔っ払い的なつきあいもせずに貴族的な生き方に終始した。演説は静かに聴かせて、考えさすような演説である。

ペリクレスは①民主政を機能させること、②ペルシャ戦で得たエーゲ海の制海権を堅持していくこと、③デロス同盟の堅持が課題と認識していた。

演説がうまく、説得力がある。視点を変えれば、事態もこのように見えてくると演説で民衆に示した。
その名演説の一例だが、戦争の死者追悼の場で生まれたものだ。「われわれは美を愛する。だが、節度をもって。われわれは知を愛する。しかし溺れることなしに。われわれは富の追求にも無関心ではない。だが、それも、自らの可能性を広げるためであって、他人に見せびらかすためではない。アテネでは貧しさ自体は恥とは見なされない。だが、貧しさから抜けだそうと努力しないことは恥と見なされる」

ペリクレスの時代、宿敵のスパルタの王はアルキダモス、ペルシャの王はアルタ・クセルクスだが、3人ともに同年代で良識を持っていた。だから平和が続いた。
スパルタとは休戦条約を結ぶ。アテネ、スパルタはそれぞれペロポネソス同盟(スパルタが議長程度の緩い同盟)とデロス同盟(ペロポネソス同盟から80年後に、アテネ主導で対ペルシャからの防衛が目的で分担金の負担があった)の盟主である。

ペルシャとの間はカリアスを使者にして紀元前448年にカリアスの平和と呼ばれる講和(相互不可侵条約)が成立する。

アテネは広く才能のある人を受け入れ、哲学者、歴史家、劇作家、詩人、画家、彫刻家、建築家などが活躍するチャンスがあった。階級制があったが下層階級だからと言って、その人の活躍を妨げるようなことはなかった。

ペリクレスは公職に就いているうちは日給を払うことにした。これで軍鑑(三段層ガレー船)の漕ぎ手が集まる。
また、ペリクレスはパルテノン神殿を建てる。

ペリクレス49歳時に都市の一つのポリスがデロス同盟からの脱退を通告、メガラも分担金負担を拒否してきてスパルタを頼る。しかしスパルタが自制する。コリントもアテネに反旗を翻すが、紀元前446年の全ギリシャ30年の平和を会議で宣言する。スパルタはヘロットの反乱に悩んでおり、それにアテネが移住先を示したから会議がまとまる。

紀元前431年にコルフとコリントの争いからアテネとスパルタの間でペロポネソス戦役が始まるが、お互いに決着をつけないまま27年も続く。
戦役の最中にアテネで腸チフスが流行する。ペリクレスは紀元前429年に死ぬ。スパルタ王アルキダモスもこの2年後に死ぬ。4年後にはペルシャのクセルクセスも死ぬ。

ここから第2部だが、衆愚制と呼ばれる時代で、いくつかの人物が取り上げられているが、私の関心を惹くような人物はいない。例えばアテネではアルキビアデスという若い政治家が出る。また、スパルタは正規軍ではなく、外人部隊のようなものを造り、戦争する。正規軍と違って監察官(王の行動を監視)がいない分、指揮系統が通り、機能的となってスパルタが戦争に勝つ。
アテネ敗因の大きな原因はイタリアのシチリアのシラクサを攻めたこと、そして食糧の供給先の黒海からの入口の防御を怠ったことである。
そして紀元前404年にアテネは負ける。結局アテネは50年かけて築きあげた繁栄を25年で台無しにしたことになる。
この戦争の過程で、お互いが残酷な仕打ちをするようになる。
勝ったスパルタも社会構造が時代遅れで覇権を行使できない。ペルシャが漁夫の利を得たが、帝国全体が崩れはじめる。

「山本五十六 戦後70年の真実」 NHK取材班 渡邊裕鴻 著

平成26年に大分県立先哲史料館で、山本五十六が自らしたためた書簡や極秘資料が公開された。これは山本の生涯の友であった海軍軍人堀悌吉が保管していたもので、堀の資料も同時に公開された。
これをもとにNHKで「山本五十六の真実」という番組を放送し、それを基にした書籍である。だから番組でインタビューした有識者の声も含まれている。

私がはじめて知ったことを中心に簡単に記していく。

堀、山本ともに海軍兵学校で友情を育み、ともに秀才で、日露戦争に従軍し、山本は負傷している。そして欧米にも渡航している。堀はフランスに派遣され、軍事だけでなくオペラなども繁く鑑賞している。そして第一次世界大戦を見ている。堀は海軍は平和維持のための存在という思想を持つ。
山本は35歳でアメリカのハーバード大に留学している。その間、アメリカの油田やデトロイトも見聞している。そこで航空機の発達に注目する。

国際連盟ができ、国際協調の気運の中で軍縮が議論される。日本海軍はアメリカ海軍に対して7割の海軍力を保持するのを原則としていた。大正10年にワシントンで軍縮会議が開かれる。加藤友三郎が首席全権になり、主力艦は英米の10に対して6を受け入れる。6でも訓練や戦い方で何とかなると考えた為である。しかし、この過程で加藤寛治などは反対する。艦隊決戦に拘った艦隊派と呼ばれる勢力ができる。

日本は補助艦でカバーしようと軍拡をする。昭和5年にロンドン軍縮会議が開催され、ここで山本は随員として参加する。やっと対米0.6975で決まる。この時の山本の態度は対米7割を強硬に主張するも、政府が決めたら従うべきと他の随員を抑える。日米開戦の時もこういうスタンス(米国との戦争は反対だが、決まったら勝つように考える)だった。

こうしたやりとりの中で海軍には条約派と艦隊派が生まれる。これが野党やジャーナリズムに煽られて5.15事件の遠因になる。満州事変後に艦隊派が強くなる。海軍大臣となった大角岑生が条約派を予備役にする人事を行う。堀も去る。

山本は昭和10年に航空本部長になり、軍縮条約の中で航空戦力の力にいち早く着目した。堀越二郎の設計で96式艦戦を登場させる。
しかし時の海軍首脳は量より質として大艦巨砲主義で7万屯の大和を造る。パナマ運河を通れないという意味である。山本や井上成美は航空母艦と飛行機と唱えたが。

そしてナチスの台頭を見て、三国同盟に進む。当時海軍次官だった山本らは反対する。その時点で、石油の海外依存度は9割以上で、そのうち米国からの輸入が8割を超えていた。また鉄鋼の9割弱、ニッケル、生ゴムなどは全量を輸入していた。

昭和14年に連合艦隊司令長官になる。及川古志郎が海軍大臣となり、三国同盟を受け入れる。アメリカは強く反発し、日本は北部仏印進駐に進む。
山本は対米戦争回避だが、連合艦隊司令長官としては作戦計画を用意しなければならない。従来の迎撃作戦は無理とし、開戦劈頭に猛撃して、米国民の士気を奪うことと主張し、真珠湾攻撃を計画する。真珠湾に出撃しても、交渉がまとまったら引き返せと厳命する。

真珠湾では第2陣の攻撃はされずに終わり、機械工場や燃料タンクも見逃す。南雲、草鹿は戦艦主兵の艦隊決戦派であった。

アメリカは真珠湾はだまし討ちとして、逆に戦意が高まる。

そしてアメリカは「グレーブック」という敗因を分析したものをつくり、次ぎに生かしていた。そして航空主兵に転換していく。

またニミッツは海軍の序列28番目だが、彼を太平洋艦隊司令長官に抜擢して提督にした。ルーズベルトが海軍次官を務めていてニミッツを知っていたという面もあるが、人事が柔軟であった。

珊瑚海海戦は世界史上初の空母同士の戦い。急降下爆撃機で祥鳳が沈没。日本はレキシントンを沈没させ、ヨークタウンを中破で互角の勝負だった。
アメリカはグレーブックで、日本は士気が高く、パイロットの技術が優れていると分析し、そこから優秀なパイロットを教官にしてパイロットの大量養成に乗り出す。アメリカ人は元々自動車の運転をしていた。

そしてニミッツはヨークタウンを急いで修理させた。

敵が空母を狙ってくるのだから空母の防空能力を高めないといけないのに日本はやらなかった。

ミッドウェイ以降は日本の暗号が解読されていた。後の山本機の撃墜もその一例。またミッドウェイ戦の時は、ミッドウェイとアリューシャンの2つの作戦で兵力が分断されていた。加えてミッドウェイ戦の目標も、ミッドウェイ島攻略と米空母撃滅の2つがあり、どうしても兵力は分散されてしまった。

そして日本軍の奢りがあった。4隻の空母を視界内に集中配備してしまい被害が拡大する。一方、アメリカは分散配置していた。珊瑚海海戦の教訓が生かせなかったのは同じ人間が作戦に当たれなかったという点もある。

「巨大アートビジネスの裏側」 石坂泰章 著

著者はサザビーズジャパンの代表取締役も勤めたことがあり、サザビー、クリスティーズの2大オークション会社の実態や、オークションで巨額で絵画を競り落とす人々のことや、美術業界のことなどを興味深く記している。オークションの場におけるセリ人とも言うべきオークショニアについても詳しく、やはり、この人の腕もオークション成功の一つであることを認識する。

またオークションにかける作品の選定(出品にこぎ着けるまでの大コレクターとの人間関係の構築から、作品の真贋鑑定も含めて)におけるサザビーなどの役割もなるほどと思う。

オークションに参加して、高額に競り落としていく大コレクターの中の有名人(芸能界や財界人など)は、私や日本人にとっては別世界の人だが、これが世界の現実であろう。残念ながら日本人の話は少ない。その中ではユニクロの柳井社長が、ニューヨークの美術館MOMAに寄付して金曜日に無料で入館できることを実施していることが紹介されている。

従来は西洋の印象派絵画が価格、人気のピークだったが、現在ではピカソやウォーホールなどの現代美術がピークを形作るようになっていることを書いている。また中国の経済発展から中国美術も大きなピークを造りつつあるようだ。
もっとも、印象派が評価を高めたのは彼等が活躍した60年後の1950年代のオークションからとのこと。それまではオールドマスターが主役だった。このように60年後に歴史の試練に耐えて古典になれるかがポイントであり、最近の現代美術の最終的な評価は定まってはおらず、中には「有名だから買う」とか、「流行っているから買う」があることは否めない。
そうは言うものの、現代のインテリアが印象派絵画よりも現代美術を飾るのにふさわしくなっていることも記されていてなるほどと思う。

国民性によって絵画の色も人気、不人気があり、青は、先にブログにアップした「染付」もそうだが万国共通に人気があり、モネの睡蓮などや、ピカソの青の時代の作品などは人気がある。赤は最近人気が高まるが中国人が好む。逆に売りにくいのは茶色、また緑はヨーロッパの一部の国では運気を下げると人気が無いが、日本国内には多い。中東、印度、中国には金色が人気。また日本の黒は神秘的と思われている。

昔は、アート初心者が時間をかけて店と信頼関係を作っていいものを集めるというのが、一つのパターンだったが、オークションに参加すると、このような手間を掛けずにいいものが集められる。すなわち1990年代から「オークションでコレクションを形成する時間を買う」という動きが出てきた。

美術品に訪れる最初の試練は買って帰った一週間後、一ヶ月後である。いい作品は眺めれば、眺めるほど新しい気づきが生まれる。次ぎにその作家が第一線から退くときに試練が来る。また最初の所有者が亡くなるときに、次のコレクター、美術館が欲しがるかが試練である。そのようにして60年後の時代の価値観の変化に耐えてこそ、名画となる。

絵画の場合は金融商品と違って思い入れがあるから、2倍、3倍にならないと売ろうという気にならない。美術品は不況になっても、持っている人が資産家だから出てこない。そうは言うものの、美術品は不要のものだから不況になると売れない。

欧米では美術品は観光の目玉になる。日本でもベネッセの直島などは観光に資している。

コレクターになるには好き、嫌いをはっきりさせることだ。そして優れた本物を見ることが大事。

中国書画、古陶磁の供給元は日本である。中国は文化大革命でダメにしてしまった。

日本は分厚い文化の中間層が無い。欧米はセレブの2代目などに美術教育をしている。日本では分散している公立美術館を集約すれば、良い美術館を作ることができるだろう。


「偽書『武功夜話』の研究」 藤本正行・鈴木眞哉 著

ある方から『武功夜話』が全巻あるので読まないかと薦められる。内容に問題があるとの噂を知っていたので、標記の本を読む。
著者の藤本氏、鈴木氏は在野の研究者だが、私はお二人の御著書は参考にさせていただいている。

そもそも『武功夜話』は原本が公開されておらず、そのあたりも胡散臭い。伊勢湾台風の時に土蔵が壊れて発見というストーリーも物語風である。
津本陽や遠藤周作、秋山駿が、この本を土台にして小説、評伝を書いており、信頼されるようになった。これらの人は小説家だから、嘘でもいいのが、「信頼できる史料」と述べているようだ。
またNHKの「歴史への招待」でも取り上げられたことで広く知られ、信頼感をえてしまった。従軍慰安婦なる誤報を流した朝日新聞が、この本を評価した紹介も書いて、本の販売にも力になったようだ。

もちろん、これらに取り上げられる背景に学者が貴重な第一次史料と評価したことがある。また一部は信じられるとして使っている学者もいる。(この本では実名を挙げているが、ここには記さない。世間に知られた学者もおり、私の手元資料では残しておく)

著者のお二人は①文体、用語、表現が同時代の文書と違う点(例えば手紙に年号が記されていたり、鉄砲隊・弓手などの当時に無い言葉が使われていたり、後からは言えるが予言的な会話が出てきたりするところなど)、②登場人物の官職、年紀の誤記が目立つこと、③この書物の中でも矛盾する記述があること、④良質史料による裏付けがなく、相違する記述もあることなどから偽書と判断されている。

墨俣一夜城の話は具体的で面白く記されているようだが、墨俣は河川が集まる要衝で、以前から城(当時の城のイメージは今と違い、砦のようなもの)があり、後に備前岡山藩の重臣となった伊木氏の居城だった。一夜城の話自体も明治になって生まれた話だが、『武功夜話』には河川の流れがその後に変化しているが、そのことは反映されておらず、また明治になって生まれた地名が出ているという致命的な欠陥があるとのことだ。

この他にも、信長、秀吉に関する戦争や逸話が取り上げらているが、お二人は丁寧に、その誤りを指摘している。

私は小説家でもないから、今さら『武功夜話』という物語を読む必要はないだろう。

「染付」 於出光美術館

刀の方の畏友H氏のお誘いで出向く。氏は高麗青磁なども御持ちであり、焼き物にも造詣が深い。染付とは白地に酸化コバルトで文様を描き、透明釉薬をかけて焼くと、文様が青色に発色する磁器である。
今回の展覧会では「青」色が中東の人に非常に好まれた色であるので、中東の青色の容器(磁器だけでなくガラスなども含む)と中国の明、清の染付、それに日本の肥前窯で作陶された磁器、さらに、それらをヨーロッパで写した磁器など展観してあり、グローバルな展示で興味深かった。それで副題が「世界に花咲く青のうつわ」ということだ。

「1.青の揺籃(ゆりかご)-オリエントの青色世界」の冒頭に展示されている「マーブル装飾瓶」(東地中海地域で1世紀頃)は化粧水を入れるような小ぶりな容器なのだが、深い青で美しいものだった。その他、トルコを観光した時に観たモスクにあったようなブルーのタイルまで、色々と展示してあった。青でも深い藍色から明るく薄い空色的なものなど種々ある。

トルコに行った時に「青は天の色」としてトルコ人は愛していると聞き、それはイスラムの教えと関係するのかと思っていたが、今回の展示でイスラム教が生まれる前から愛されていたことを知る。トルコだけでなくイラン、イラク、シリア、レバノンなどのものだが遊牧民に愛された色だったわけだ。

「2.中国青花磁器の壮麗-景徳鎮官窯と民窯」では、冒頭にイランあるいはイラクの14世紀中期の「銀象嵌燭台」と、その形を磁器で写した「青花牡丹唐草文八角燭台」(明・景徳鎮)が並べてあり「なるほど」と思う。
明の景徳鎮で作られた官窯製品には(大明宣徳年製)などの銘があるが、形は整い、色、模様も見事である。この中では「青花アラベスク文扁壺」という形態のものが、大きくて立派で発色も見事なものだった。これを清の時代に写した「青花吉祥文扁壺」も見事で、明時代と清時代の作の違いが説明してあり、参考になる。清の時代は明の時代では未熟だった技術も完成したが、敢えて「にじみ」などの味を出すために針で突いて色をにじますようなことをしているようだ。
また大きな皿もあり、さすがに宮廷のもので迫力がある。

同じ景徳鎮で作られたものでも民窯とされるものは少しラフであり、その分、親しみやすさを感じる。

「3.温雅なる青-朝鮮とベトナムの青花」は朝鮮とベトナムの青を使った焼き物であり、温雅とあるようにキチンとした印象よりも土俗的な感じもして暖かみを感じる。

「4.伊万里と京焼-日本の愛した暮らしの青」は日本の伊万里焼と京都の青木木米、現代の板谷波山の青系統の作品である。伊万里は現在のキャプション(作品表示)では肥前窯と表示されている。古伊万里、伊万里と呼んでいたものだが、茶道から来ている風情のある呼び名から学術的な呼び名になるのだろうが、寂しい感じである。
板谷波山はさすがである。佐野の吉澤記念美術館でよく拝見しているが、陶工というより、芸術家的な作家意識があった人だったのだと思う。

「5.青に響く色彩-豆彩と鍋島」では日本の官窯とでも言うべき鍋島窯の作品が圧巻である。中国の官窯と同様にキチンとした作品で模様も整然としていて美しく、今回の展観を拝見して認識を新たにした。肥前鍋島藩は刀剣もそうだが、このような工芸品を藩外に輸出して稼いでいたのだ。

「6.旅する染付-青のうつわの世界性」では日本、中国の染付をヨーロッパで写した磁器(イタリアのドッチア窯、オランダのデルフト窯、フランスのセーブル窯、ドイツのマイセン窯、イギリスのラベンス窯)を比較しながら展示している。絵がどことなくヨーロッパ風になっていたり、形だけ写したが故に変な図になったものなどもある。ともかく、これだけの写し物があるのは、それだけ旺盛な需要があったわけだ。青の魅力畏るべしである。

「日本銃砲の歴史と技術」 宇田川武久 編

この本は日本銃砲史学会が会員の種々の論文を集めて刊行した本である。だから多くの人(19人)の論文が掲載されている。大きく2部構成になっていて、「銃砲通史編」と「銃砲技術編」である。

「銃砲通史編」では日本における砲術武芸の歴史や鉄砲伝来の諸ルートと幕末事情、それに郵便配達人が所持した短銃や西南戦争の銃砲陣地のテーマまで幅広い。ここに刀剣愛好家には関心を惹く「野田清堯の鉄炮銘からみた武家の序列」という安田修氏の論文が所載されている。この中味は、鉄砲に「日本」と銘しているものは日本の最高権力者であった徳川家康が所持したものとして、銘振りの違いで武家序列が出ているということである。

「砲術武芸の歴史」は宇田川武久氏の論だが、銃だけでなく、大砲のことも書かれていている。伝来から明治までの砲術の歴史を五期に分けて、流派をいくつか取り上げながら概説している。幕末には西洋流が主流になっていく中で400近い流派があったことが誌されている。

「鉄砲伝来伝説の系譜」は伊川健二氏の論だが、鉄砲伝来のことが書いてある史料(史料と言っても伝説も含み、それも日本だけでなく明・朝鮮や西洋人の史料も含む25編)から、この伝説の原データはと辿って図示しており、力作であるが、観てもスッキリはしない。日本教会史、南浦文集、紀伊国名所図会、訂正増訳采覧異言という史料(伝説)に関連する伝説が集まっている。要は種子島にアントニオ・ダ・モッタとフランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショットの3人のポルトガル人が1542年(43ではなく)に伝えたということが基本である。

「初期江戸幕府の西洋砲の導入」では徳川家康がオランダ、イギリスから石火矢、攻城砲を献上、あるいは購入して大坂の陣に備えていたことが具体的に書かれていて参考になる。なお幕府の大砲部門は牧野信成が総責任者的な立場だったことを知る。

「高島流・西洋流砲術伝授の形式と伝播について」は江戸後期に高島流の砲術が普及したが、当時の和式砲術流派とそれに賛同する者の反対を受けたこと、しかし西洋列強の兵器を目の前にすると西洋流を受け入れざるを得なかった経緯が書かれている。鉄砲、大砲は理科系の世界で、事実(この場合は威力)が明白になるからなのだ。

コラムに「大砲技術の進歩と駐退機構」があり、そこで大砲を発射すると反動で大砲が下がることを抑制する駐退機構のことが書かれている。私の祖父は学徒として幹部候補生で少尉に任官し、後に第一次世界大戦の時に青島に派遣された砲兵中尉だったが、大砲発射の反動の大きさを常に語っていたそうだ。

鉄砲伝来の諸「銃砲技術編」では火薬発達の歴史、その中でも硝石の製造法、それに火縄銃の鋼材や鍛錬方法のことなどの論文である。

「房総ゆかりの作家展」 於千葉市美術館

千葉に行く用事があり、その用事の前に知人と千葉市美術館に出向く。房総ゆかりの作家として、千葉中の美術(図画)教師でもあった堀江正章の指導を受けた菅谷元三郎、大野隆徳、柳敬助、板倉鼎、三宅策郎、無縁寺心澄などの作品が並ぶ。そして無縁寺の指導あるいは影響を受けた国松伽耶、山谷鍈一、遠藤健郎、武内和夫などの作品もある。
これらの中で山谷鍈一の「祖母の像」が印象に残っている。祖母への愛情が感じられる。

それから房総で画いたり、房総の景色を描いた作家の作品が並ぶ。鶴田吾郎、小野具定、椿貞雄などの作品である。椿は岸田劉生亡きあとに船橋に住んで描いていたようだ。これらの中では小野具定のいずれも大きな絵が見応えがあった。

絵だけなく、工芸、書なども展示されていた。また千葉市にあった画廊(国松画廊)の看板も展示されていた。地方の画廊の果たす役割も確かにあると思う。

それから特集として「銅版画家 深沢幸雄を偲ぶ」があり、深沢幸雄の作品が多く展示されていた。深沢幸雄は山梨県の出身であるが、千葉県市原市鶴舞に長く住んでいた縁での特集展示であった。
私はこの中ではサンテ「神曲」地獄編より「チェンタウロ」という版画に心を惹かれた。

深沢幸雄は銅版の技法も、エッチング、アクアチント・エッチング、メゾチント、ドライポイント等と変遷させているが、作風自体もメキシコでの経験などを踏まえ、自分の内面を描くものから叙事詩的なテーマを描くなど様々である。

いずれも抽象的な表現であり、画題がすぐにわかるものではない。

千葉市も県庁所在市だが、賑わっているところは少なく、昔より寂れてきている印象を持った。たまたま訪れた曜日、時間、天候の問題なのであろうか。

「刀鍛冶考」 小笠原信夫 著

小笠原信夫先生が東京国立博物館の「MUSEUM」(ミュージアム)や展示会カタログ、「東京国立博物館紀要」などに寄稿された論文をまとめたものである。
「江戸の新刀鍛冶」の章では小笠原先生のご指示で、私が先生の近著などの記述を生かして加筆している。

収められているのは「大坂新刀鍛冶・河内守国助考」「江戸の新刀鍛冶」「備前長船鍛冶 右京亮勝光・左京進宗光の性格」「小柄小刀私考」「出羽大掾国路に関する一私考」「埋忠明寿とその周辺」「長谷部国重についての一考察」「備前長船鍛冶の研究」「新藤五国光に関する一考察」「備前大宮鍛冶の系譜に関する問題」「山城鍛冶了戒・信国考」「室町時代刀剣の様相」「龍門延吉に関する一考察」「『古今銘尽』開版の諸条件」の論文である。

各章ごとに内容を紹介していくと量が多くなるので簡単に紹介したいが、従来の「刀の研究」=「真偽、作風という鑑定中心」という本阿弥家のようなスタイル(本阿弥はここに価値評価も入るが)を脱却して、当時の時代背景などから踏み込んでおられる。

鑑定中心だと、作風が違うと別人にして、すなわち二代があったというようになる。「備前長船鍛冶の研究」では従来の長光二代説を、当時の他分野における襲名の習慣等などから否定されている。当時の大御所本間薫山氏などは二代説も受容する立場であり、先生の立場で、このような論を発表するのはご苦労があったと思う。
ちなみに藤代松雄先生も作風は同じ人物だからこそ変えていくものだと主張されており、今では一代説が主流になっていると思う。ピカソにしても作風をどんどん変えているのだ。
なお、藤代松雄先生の研師的な眼の研究を小笠原先生が時代背景等の視点から裏付けられているような研究も多いと感じる。「備前大宮鍛冶の系譜に関する問題」で論述されている銘字における逆鏨の系列なども、そうだと感じる。

もちろん、鑑定的な研究もなさっており、「埋忠明寿とその周辺」では天正、文禄年紀の「城州埋忠」銘の作刀を作風を比較することで、明寿とは別の父・明欽の作品と推測されている。
そして、埋忠一派は京都で本阿弥家と密接なつながりを維持して刀装具の製作にあたって栄えていたが、本阿弥家が江戸に移った時に京に残ったが故に、吉岡家などに仕事を奪われ、衰退したと歴史的背景から分析されており、参考になる。

ただし、歴史的事象を刀剣の研究に取り入れられていても、刀鍛冶のことなど史料は残っておらず、先生も苦労されている。「備前長船鍛冶の研究」で、長光の時代に他分野でも襲名が行われていないことを説明されているが、この前の時代からの友成、正恒の同名で多様な銘ぶりの鍛冶の出現や一文字派の刀工銘の説明では「慕っての名乗りでは」とか苦労されて解説されている。残された課題である。

「新藤五国光に関する一考察」「山城鍛冶了戒・信国考」では多様な銘ぶりの新藤五国光や信国の銘字図版を提供されており、それらが真と是認されている中での研究は大変だと思う。私などはおかしいのもあるのではと言ってしまうが、お立場では言及しにくかったと思うが、精読すると、この銘ぶりが本来の新藤五かとわかるような記述である。

「『古今銘尽』開版の諸条件」では、時代を追うごとに正宗の弟子が多くなっていく状況、すなわち正宗神格化の状況をいくつかの古伝書を時代を追って分析されている。こういうことが現在の刀剣学のベースにあるだけに研究は大変である。

「新聞記者 司馬遼太郎」(産経新聞社)

司馬遼太郎は産経新聞社に勤めたことがあり、その時の逸話を集めた本である。司馬遼太郎こと福田定一は、22歳で復員し、大阪の新世界新聞に入社。それから京都の新日本新聞社に入るがつぶれ、昭和23年6月に産経新聞の京都支局に入る。そこから地方部、文化部を経て、直木賞を受賞後の昭和36年に出版局次長を最後に退職して作家活動に専念している。38、9歳の独立となる。

京都支局では宗教(寺回り)部門担当になる。西本願寺に記者クラブがあり、今の国宝の飛雲閣で昼寝をしていたとかの逸話が残る。それから大学部門も受け持つ。自然科学系の学者との付き合いが多かったようだ。

昭和25年の金閣寺炎上事件の時に、当直であり、鹿苑寺の庫裡で犯人と村上住職とのやりとりをスクープしている。
また住友本社総理事で歌人でもあった川田順68歳が40歳の元大学教授夫人との恋愛事件があった時に川田の和歌から「老いらくの恋」という言葉を抜き出し、それを見出しに使い、流行語になる。

大阪の文化部に勤務の時は梅田画廊に出入りし、画家の三岸節子を評価したりしている。

ここで書かれたような人柄だったのだと思うが、悪いことは一切書いていない。文章は上手で座談もうまい新聞記者の姿である。

昭和31年に第八回講談倶楽部賞を『ペルシャの幻術師』で受賞し、そこから司馬遼太郎の名前を使う。寺の住職でもあった寺内大吉から小説を書くことを薦められたようだ。

直木賞を獲った『梟の城』は忍者が主人公だが、新聞記者のように描いていると解説している。それは、新聞記者は無名性と新聞の公共性を武器に権力や権威の中枢に容易に接近するが、忍者は忍びの術で天下人の実態に接近して、実情を知るというか暴くという点が共通すると説く。

また司馬は、根っからジャーナリスト的な目を持っていたと述べる。ベトナム停戦協定締結後にベトナムに出向くが、そこで『人間の集団について』を書く。戦争は補給が決定するが、ベトナムは補給を後ろの超大国が行うことで、終戦の道が見えない戦争だったと書く。

なお産経の近藤紘一(『サイゴンから来た妻と娘』の著者)を高く評価し、「新聞記者の持つちっぽけな競争心、功名心やおぞましい雷同性を少ししか持たなかった」と弔辞で述べているそうである。

台湾には何度か出向き、国家には適正サイズがあり、中国がチベットや台湾を一緒にコントロールする愚を書く。今の帝国主義的中国を予言していたことになる。

文庫の末尾に解説が付くが、そこで産経新聞論説委員の皿木氏が次のように記しているのが面白い。『坂の上の雲』における日本海海戦の時に沖の島の宗像大社の使夫として目撃した人の談話を取り入れているが、こういう点が新聞記者的と評する。
私はこの解説に同感する。私が『坂の上の雲』で感動した箇所は、バルティック艦隊を発見した沖縄の漁師が、近くの無線所がある島まで一生懸命に漕ぐ姿である。こういうエピソードの挿入が上手だと確かに思う。

「後鳥羽院 第二版」 丸谷才一 著

立派な評論であり、頭が下がる。こういう評論は和歌、古文などに素養のある人間がじっくりと読んで感想を記すべきもので、私のような人間の感想は参考にしないで欲しい。
この評論は後鳥羽上皇の和歌について、高く評価して、色々な視点から分析している。上皇の詠まれた和歌を一つずつ解釈し、その本歌取りをした本歌や、同時代(藤原定家など)の評価や、後代の人(本居宣長、折口信夫など)の評価なども踏まえて著者自身の解釈を示していく。

近代において、後鳥羽院は歌人としての評価は高くなかった。それは明治からの藤原定家否定の流れに連動していて、正岡子規の理想は源実朝であった。それを丸谷才一のこの評論で、後鳥羽院、新古今集の評価を高めたわけである。

後鳥羽院の歌には、帝王調・至尊調という雄大な調べがあり、また歌謡性(後鳥羽上皇は遊戯を好むたちで当時の今様、宴曲などの民衆的歌謡や和讃、講式などの仏教的歌詠などの言い回しを取り入れる)があり、日本の宮廷に育まれたエロティック(丸谷才一は古代の宮廷は母系社会で、世界にも珍しいほどの恋愛への肯定的評価があったとする)とか、それからユーモアもあると解説する。

そして、後鳥羽院が承久の乱を起こした動機などにも思いを馳せている。後鳥羽院が三種の神器無しで即位し、その宝剣が見つからなかったことが心の傷となり、それが刀へのこだわりになって刀剣製造にあたったのではないかとのことを、この評論で述べている。

私は、このことを思いついていたのだが、私が思いつくようなことは先人も思いついていたわけだ。

丸谷才一は承久の乱について、文学の場のために政治を改めようとした。承久の乱は世界史におけるただ一つの文化的反乱ではなかったろうかと述べている。ここまで大胆な仮説は相当な自信が無いと展開できないだろう。

和歌は祝言によって生まれ、儀式となり挨拶となったと折口信夫は論じたが、和歌は確かに宮廷という場をもっていた。古代の呪術と政治の一致という側面があり、それを後鳥羽上皇は意識していた。宮廷というサロン文化の大事な一つであったわけだ。
同時代の藤原定家は歌の場としての宮廷を重んじないで、和歌をもっと純粋な文学に仕立てようとした。そこで後鳥羽院と藤原定家はお互いの才能を認めながらも、相容れないところがあったと論じる。

なお、芭蕉は草庵において宮廷を懐かしむことを一つの儀式として確立したとか、宮廷と和歌との密接なかかわりあい方それ自体のパロディを造ったのが蜀山人の天明狂歌だという文章もあるが、私にはわからない。

「隠岐を夢みる」は折口信夫論でもある。折口信夫は『女房文学と隠者文学』で後鳥羽院を評論している。折口は天皇の前半の逸楽と後半の敗残の悲壮感をロマン的に見ていた。折口は同時代の北原白秋を評価して、その才能への嫉妬がある。白秋は歌舞伎なども取り入れている。折口は自分も後鳥羽院になぞらえたかったのではと丸谷才一は論を展開している。

後鳥羽院は武家に対抗するためか、和歌の家(御子左)、蹴鞠の家(飛鳥井、難波)、読経の家(慶忠)、唱導の家などを定めている。和歌の家の藤原俊成、定家とつづく御子左家の俊成の弟子が後鳥羽上皇で、相弟子が藤原定家であるわけだ。
なお、後鳥羽上皇は和歌では西行を評価しており、他では藤原良経、慈円を評価する。慈円は『愚管抄』を書き、そこで後鳥羽上皇の関東政策に批判的である。

日本文学は世界にも稀な長い伝統を継続しており、世界にも無いとしている。8世紀の古事記から続き、勅撰和歌集は天皇が命令して編集させるものだが10~15世紀の間に21も編纂されている。そこでは昔の歌と当代歌人の歌を載せている。

後鳥羽院は日本的モダニズムの開祖であるとも論じる。一時的なもの、うつろいやすいもの、偶発的なものを狙って永遠なるものを目指しており、それは「新古今」の名にも表現されていると論じる。






「享徳の乱」 峰岸純夫 著

副題に「中世東国の「三十年戦争」」とあるように、応仁の乱に先んじて東国で生じた大乱のことを記している。応仁の乱でも同じだが、乱の経緯、個々の戦闘などはわかりにくい。同名字の者(一族)が敵味方になって戦い、時に裏切ったりするから人名をたどるだけでも紛らわしい。

私は相川司氏の本で教えられたのだが、室町時代は京都中心の政権(室町幕府)とは別に関東十カ国(関八州に甲斐・伊豆)の政権があったことの歴史認識を基礎に持たないといけない。
幕府の「将軍→管領(細川、斯波、畠山が三管領)」と関東の「鎌倉公方→関東管領上杉)があったことから認識すべきである。
この本では「兄の国」(足利尊氏からの室町幕府)と「弟の国」(足利直義以来の鎌倉公方)に分けて、兄は弟をコントロールしたがり(関東管領上杉氏を通じて)、弟は兄のくびきからのがれようとする動きを基調にする。(義満の時代に土岐頼康の反乱の時に鎌倉公方の氏満が表向きは幕府支援として兵を出そうとしたが上杉憲春が諌死)、大内義弘の応永の乱の時に鎌倉公方の満兼は武蔵府中に出陣して上洛しようとしたが、上杉憲定が抑える)

享徳の乱も、享徳3年に鎌倉公方足利成氏が上杉憲忠を自宅に招いて殺すという対立に、京都の幕府(義政→細川勝元)が関東管領側について起こした紛争から始まる。幕府は新たに関東公方を派遣したのだ(これが伊豆の堀越公方)。
利根川の埼玉県南岸の五十子(いかっこ)に関東管領側が陣を構え、対岸には鎌倉から古河に行った古河公方側が陣を張り、戦ったわけである。だから利根川から南は関東管領側、北は古河公方側というのが基本となる。

その後、関東管領側の家宰・長尾家の内紛で長尾景春と扇谷上杉家の家宰・太田道灌などの戦いがあり、さらに太田道灌が主君の扇谷上杉の当主に謀殺されるなどして戦いは30年近くに及ぶ。

この間、京都では義政→細川勝元ラインに対抗する山名宗全が、享徳の乱が収拾がつかないことや将軍継嗣問題などで対立して応仁の乱が生じたというわけである。関東の享徳の乱が長引いたことが応仁の乱の契機にもなっている。

この本で著者は、戦国大名の前に戦国領主が、この乱で生まれたと書くが新鮮で面白い。
当時、関東各地には鎌倉時代以来の本貫の地(家が発祥した地で、西国に領地を得た御家人も、本貫の地を所領として持っていた)を代官を通して治めていたが、関東の争乱の過程で、この地の領主に簒奪されていった。関東各地の寺社領も浸食される。このように一帯の土地を奪ったのが戦国領主である。
ただし、関東は戦国領主化した者の上部に古河公方や関東管領という過去の政治体制が残り、関東それ自体のなかから突出した戦国大名は生まれなかった。
越後長尾家(上杉)、武田、北条が三つ巴になって争った理由である。

そして、その北条に関することだが、享徳の乱終結に際して、本来ならば無くす必要のある堀越公方(伊豆)を妥協の産物で伊豆守護として古河公方の管轄地域とは別に残したことで、関東の一角伊豆が、駿河からの伊勢宗瑞(北条早雲)に蚕食され、それが後北条氏の関東制圧につながったとの指摘はなるほどと思う(この前に大地震があり、早雲が被災者に厚く支援して、味方につける)。

また鎌倉公方が関東管領を殺したり、扇谷上杉が太田道灌を殺したりという主君が家臣を殺す「上克上」が、「下克上」の前にあったという指摘もなるほどと思う。


「更級日記」 池田利夫 訳・注

菅原孝標の娘が平安時代の半ば(1050年代頃)に書いた更級日記を読む。読むと言っても、古文であり、大半は現代語訳である。
上総国の介(親王国であり、実質は国司)となった父親の任国で少女時代を送り、その当時は都で源氏物語などを読みたいと思っていた文学少女が、13歳の時に上総から京に上る紀行文を日記形式に書き、それは後年の都での生活にまで書き進められている。
菅原家は菅原道真でも知られているように、文章の家であり、女性と言えども、読み書きの修業ができていたわけである。

昔の記憶だと、上総から都までの紀行文という印象だったが、改めて読むと、後年になってから、当時の思い出(これも日記の原典があった可能性がある)をまとめ直して一冊にまとめたものであることを知る。

当時の道中の風景が書かれている箇所は少ない。貴族だが、中央の高位の貴族ではなく、かと言って最下級の貴族でもなく、国司クラス(夫も下野守)の貴族(だから経済的には裕福)の”女の一生”的な物語である。

夢の話も多く、また仏教への傾倒も窺える。不幸なこともあるが、肉親、親しい人の死は誰もが経験することであり、特にそれらのことがドラマティックに書かれているわけではない。淡々と記述されている。その分、いかにも人生という感じもする。

また夫との愛憎なども書いているわけではない。

源氏物語、枕草子などもそうだが、平安時代の女性は大したものだと思うし、日本というのは不思議な国だとも改めて誇りに思う。

「刀剣書事典」得能一男著

「刀剣春秋」という新聞誌上に発表された「古書遍歴」を改めてまとめたものである。次のような南北朝~江戸時代の刀剣関係古書について、その内容、意義などを解題的にとりまとめている。今の時代にこれらの刀剣古書を紐解く人はほとんどいないと思うが、著者の得能一男氏はこのような古書を読まれていたわけで立派だと思う。
得能氏と同様に村上孝介氏や福永酔剣氏、本間薫山氏など一時代前の刀剣専門家は古書を読まれており、教養の差を感じる。

本に記載の順に書名を列挙すると、以下の通りである。古伝書に興味のある人は、この本の解題を読んでから原典にあたると良いだろう。なお刀剣美術誌上で、本間薫山氏や間宮光治氏などが現代語訳をしている本もある。

『新刃銘尽』、『新刃銘尽後集』、『宇津宮銘尽』、『永禄銘尽』、『往昔抄』、『解粉記』、『鍛冶名字考』、『観智院本銘尽』、『木屋常長伝書』、『享徳銘鑑』、『口伝書』、『元亀本刀剣目利書』、『弘治銘鑑』、『校正古刀銘鑑』、『古今鍛冶備考』、『古今鍛冶銘』、『古今銘尽』、『古刀銘尽大全』、『可然物』、『上古秘談抄』、『新刊秘伝抄』、『新刀弁疑』、『新刀弁惑録』、『長享銘尽』、『天文銘尽』、『伝本阿弥光二押形』、『刀剣古今銘尽』、『刀剣図考』、『刀剣或問』、『刀工秋広口伝』、『直江本長享銘尽』、『能阿弥本銘尽』、『紛寄論』、『文明銘鑑』、『芳運本弘治銘鑑』、『本阿弥光心押形集』、『本朝鍛冶考』、『本朝新刀一覧』、『本邦刀剣考』、『三好下野入道口伝』、『銘尽秘伝書』、『明徳二年鍛冶銘集』、『安田本長享銘尽』である。

『観智院本銘尽』(『正和本銘尽』)は京都の東寺の観智院にあり、応永30年に写されたという日本最古の刀剣書である。

なお、刀剣鑑定は『日本刀大百科事典』によると、大宝律令の頃からあり、源三位頼政、北条泰時の時代の金窪行親などが知られていたようだが、鎌倉時代の終わり頃に名越遠江入道崇喜が出る。
南北朝末期に喜阿弥が出て、その系統に室町時代に能阿弥が出る。能阿弥から田使行豊、彼は備前の難波一族、難波掃部助の弟で難波行豊とも言い、赤松政則に属す。

美濃の斎藤弾正忠は相州秋広から伝授を受けたという。斎藤弾正忠から教えを受けた宇津宮三河入道(美濃の南宮大社の社家出身説が有力)が有名な鑑定家である。この子孫が竹屋裡安と言う。

本阿弥家の祖は松田姓で始祖のことはよくわからないが、室町時代後期から出現する。

阿波の三好一族も宗三左文字の宗三はじめ、三好長慶、三好実休、安宅冬康、十河一存と名刀を所持した一族である。

江戸期に入ると、本阿弥一族、研師の竹屋、木屋などが出て著述を残す。

新刀を取り上げたのが、神田白龍子の『新刃銘尽』が享保六年(1721)に発刊され、『新刃銘尽後集』が補足し、鎌田魚妙の『新刀弁疑』が安永六年(1777)である。
『本朝新刀一覧』は今村幸政が弘化2年に出版。1500余名に対する記述は高度な内容である。1から9で作位を表現している。研師で、京都の人である。
『新刀弁惑録』は新刀だけではなく、寛政9年に荒木一適齋甫秀が目利のことを書く。

『校正古刀銘鑑』は加賀本阿弥の本阿弥長根が天保元年に出版した良書。これで本阿弥家から追放される。
『古今鍛冶備考』は山田浅右衛門吉睦が主著者の名著。水心子正秀などの協力で完成した。
『古今銘尽』は万治四年(1661)の出版。竹屋系の伝書で一番売れた本である。『万宝全書』にも採録されている
次に売れたには『古刀銘尽大全』(仰木伊織が寛政四年に出版)である。

刀装具は野田敬明の『金工鑑定秘訣』である。これは『装剣奇賞』に次ぐものである。後藤家の各代の手癖などを図版で解説している。この巻は今の袋綴じのような形で売られていて、買わないと見られないようになっていたようだ。

『刀剣図考』は栗原信充が天保14年に発刊し、有名な刀の外装が掲載されている。『集古十種』のような本でる。

なお室町時代の本では豊後行平の人気が高いそうである。また陸奥鍛冶など今では顧みられていないが、それなりに評価されていると記されている。正宗十哲などは時代が下る刀剣書ほど高い評価になっていくと書かれている。


「神に捧げた刀」 於國學院大學博物館

知人から、こんな展覧会が開催されていると聞き、刀剣の畏友H氏をお誘いして出向く。展示は「1章.神・死者へ刀剣を捧げる」、「2章.神剣、あらわる」、「3章.中世東国武士の神社信仰と刀剣」、「4章.近世の神社と刀剣、それから」に分かれている。
各章ともに、展示品は多くなく、「1章.神・死者へ刀剣を捧げる」では出土した銅剣、銅矛、直刀である。これらは保存の良いものである。

「2章.神剣、あらわる」では古事記、日本書紀などの古代の書物における刀剣のことが書かれた頁などを見せている。図などもある。刀は石上神宮のフツノミタマを明治になって菅原包則が写したものが展示されていた。

「3章.中世東国武士の神社信仰と刀剣」では箱根神社に源義経が奉納したという薄緑丸と、北条氏綱が鶴岡八幡宮に奉納した相州住綱家の3尺近い太刀と拵が展示されていた。綱家は皆焼風になり、尖り互の目や、丁字刃などが交じる刃文であった。拵も展示されており、太刀拵だが、透かし鐔が付いていた。

「4章.近世の神社と刀剣、それから」では鹿島神宮に水戸徳川家の頼房が奉納した景安が見事であった。古備前派の鍛冶だが、匂口が柔らかく締まっていて健全であり、直丁字で、地鉄が詰んで実に美しい。古備前というよりは長光の時代の作品に見える。生な太刀であり、ハバキ元は焼き落としがあり、そこに水影が出て、その水影の線が上部に続いて薄い映りとなって続いている。これは良い御刀で頭が下がる。
久能山のソハヤノツルキを写した宮入昭平の刀も展示されていた。

なお3章、4章にも資料として古書が展示されていた。

刀は博物館の一角にあるだけだが、考古学関係の常設の展示物も充実しており、見応えがあった。石器、縄文土器、弥生土器、埴輪など壮観である。金属の枕(死者用)があり、はじめて拝見したものである。
また神道関係の展示も充実している。

ちなみに拝観料は無料である。青山の高台にあり、近くの駅からは15分程度歩くところである。