「上方武士道」 司馬遼太郎 著

これも司馬遼太郎全集の第1巻に収録されているものだ。昔、読んでいるはずなのに、まったく記憶がない小説であった。再読して理由がわかった。要は司馬遼太郎作品の中で最も出来のよくない作品だからだ。

主人公は京都の公家の出身で、剣術がやたらに強い。そして大坂の薬問屋の養子になるのだが、ある門跡から江戸行きの隠密行動を頼まれる。密命を帯びて江戸に下る道中が荒唐無稽の時代小説になるわけだ。
公家の行動を監視する京都所司代の命で阻止しようとする甲賀者との争いということだ。その首領が例によって魅力的な女忍者。その道中に、弥次喜多道中的に百済ノ門兵衛という大坂の侍と伊賀の忍者の青不動という人物を配して、主人公を助ける。
百済ノ門兵衛は主人公を薬問屋に斡旋することで儲けた男で、剣も強いが商売にも長けている人物である。青不動も忍術に優れた男という設定である。

前半部分は忍者を主人公にした『梟の城』と同じように、甲賀の忍者と伊賀の忍者(主人公はこちら側)の争いで、少しは緊迫するが、後半は章ごとに脈絡の無い色々な女性を登場させて艶のある場面を作り、読者に迎合する。また大立ち回りを入れてサービス精神が溢れるが、筋はどでもよくなる小説である。週刊誌の連載だったようで、筆が荒れてしまっている。

「超写実絵画の襲来」 於Bunkamuraザ・ミュージアム

コロナウィルス騒動で、多くの美術館が閉館中だが、ここは開館している。昨日の午後出向くが、入場者は少ない。帰りに東急百貨店の1階を通ったが、客はほとんどいない。

今回の展示は、千葉市にあるホキ美術館の所蔵品から選んでの展示である。いずれの作品も真に迫るほどのリアリティを持つ絵画である。「真を描く」ことは写真が出来る前の絵画の究極の目的の一つであり、我々が絵を学ぶ時に、対象物をできるだけ忠実に、丁寧に写そうとするわけだから、人間の本能の一つかも知れない。その「お絵かき」の極地に達した人の作品で、日本の現代作家の作品である。
写実だから、構図などは別にしても、色と形は誰が画いても同じかと思うが、各作家ごとに個性が出ているから芸術である。

五味文彦は対象物の質感(羽や毛はそれぞれの触感がわかるように、ガラスなどは無機質の冷たさなど)の表現にも魅了され、拘っているような作品だ。
展覧会全体のポスターにも使われている生島浩の「5:55」という作品が印象に残る。フェルメールのような構図で若い女性を描いたものだが、6時までにモデルをやめて帰らねばならないという焦りの雰囲気が確かに出ている。
大畑稔浩の「剣山風景-キレンゲショウマ」は、剣山中に群生しているキレンゲショウマが黄色い花をつけているところを描いたものだが、この植物が花を咲かせて、生き残っている場所と、そこで生き残っている植物の可憐さ、逞しさが表現されていると思う。
渡抜亮の「二つの動作」は女性半身像なのだが、気になるところのある絵である。

一流の画家であれば、誰でも真を写すように画けるだろうが、それを更に徹底して素材や筆までも工夫して追求していくところに感じるものはあった。

「梟の城」(司馬遼太郎著)

コロナウィルス騒動で図書館も閉鎖である。そこで、この機会に蔵書の司馬遼太郎全集を読むことにした。さっそく1巻に収録されている「梟の城」を読む。
面白い。学術書と違って小説だし、この頃の司馬遼太郎は歴史小説ではなく、時代小説であり、荒唐無稽なところがいい。デビュー作で、直木賞の受賞作でもある。この頃から歴史の知識は豊かで、後の活躍を予見させるところがある。

伊賀の忍者が、豊臣秀吉の暗殺計画を実行するというテーマで、伊賀者の内部での抗争、甲賀者との争いに、魅力的な女性をからめ、映画にしたら面白いものが撮れそうな小説である。そう思って、調べたら、映画は2本つくられ、ドラマも作られていた。

忍者の行動は荒唐無稽なのだが、それなりに忍術の道具などは考証している。豊臣の世から徳川の世に移りそうな時代背景も司馬遼太郎らしく書いている。また主人公や各登場人物の複雑な心の動きの描写などはさずがにうまいと思う。

小説だから、内容を紹介するのはやめるが、面白くて、すぐに読了できるものである。
(全集だが、文庫本を紹介しておく)

「江戸・東京の地震と火事」山本純美 著

この著者の「江戸の火事と火消」は以前に読んだことがあるが、この本では現代の東京の火事・防災のことも書いていて、今を生きる人々の防災にも役立つような視点でとりまとめられている。
第1章から第5章までは「江戸の火事」「火消の組織」「江戸の防災組織」「江戸の防災対策」「水との闘い」と江戸時代の話が中心だが、「第6章 地震の恐怖」、「第7章 現代の防災」は近現代のことが中心である。

江戸時代における江戸の火事は約90件が知られている。冬の北西風、春先の南西風のもとでの延焼が多い。江戸三大大火は明暦3年(1657)の振り袖火事、明和9年(1772)の目黒行人坂火事、文化3年(1806)芝車町火事である。
明治になると明治25年(1892)に神田大火、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲が酷い火災である。

江戸時代は、機械力が無く、消火力は劣るが、次のような点は優れていたと指摘する。
①地元の人が消防の担い手となり、動員力はある(現代では自治体職員、消防署員などは地域外に居住していて、当該地に来るまでが時間がかかる)。
②中央(幕府)の命令で、季節風を直角に遮断する広小路、火除地、防火堤などが設けられていた。
③町の辻ごとに水桶が用意されていたり、井戸も多かった。
④町のあちこちに火の見櫓(吉宗時代から)があり、特に冬場は常時の監視がされていた。夜間は木戸がある辻番所に人がいて通行が制限されていた。放火犯などの不審者の見張りに良い。
⑤食糧の備蓄も考えられており、災害後は救小屋にて業者を徴用して食糧を提供している。
⑥人々も火を粗末に扱わない慣習や民間信仰があった。

水害対策としては、大々的な利根川東遷事業などを評価している。また下町の川沿いの地区では、家ごとに小舟を持っていて、それで避難し、また救助作業を行う。

現代の防災の話は、防災読本のような内容である。

「武士の日本史」高橋昌明著

この本は、武士は東国ではなく、都で生まれたと最初に唱えた著者の本である。武士誕生の経緯を「1.武士とはなんだろうか」「2.中世の武士と近世の武士」で説き、「3.武器と戦闘」では実際の戦闘の様子を書いている。今のテレビドラマ的な立ち回りの否定である。
「4.「武士道」をめぐって」「5.近代日本に生まれた「武士」」では、今、我々がイメージしているような武士や武士道が誕生した経緯を説明している。江戸時代に惰弱に流れていた武士を質実剛健に戻す為に、昔の東国の農村で生活したような武士になれということで、武士の東国誕生説が刷り込まれた面も指摘している。
最期の「終章.日本は「武国」か」は、日本は古来からツワモノの国、勇敢な国民性があったなどの通説を打破して、再度、戦争などを起こさないようにとの著者の主張が強く出ている本である。

「1.武士とはなんだろうか」では武士は芸能人の一種として見なされ、侍は六位クラス(貴族は従五位下以上)、中央官庁の三等官クラスだったと論じる。そして武芸を家業とする特定の家柄の出身者で、具体的には弓箭の道。弓馬の扱いに優れた者である。乗馬は貴族など許された者が出来、馬の口取りなどの郎党を必要し、飼育に金もかかることを記する。
奈良時代、あるいは平安前期から武士は存在し、武士の家とは坂上田村麻呂、紀田上、大野真雄・真鷹、小野春風。紀最弟、文室綿麻呂、坂上苅田麻呂、藤原利仁の流れである。
東北と九州の脅威に備える場所や、都が武士が配置される場所である。桓武治世以降に賜姓皇族や藤原秀郷流が軍事貴族となる。11世紀以降は大手を振って登場し、鎧などの武具は貴族社会で生まれる。また平氏が関東に土着し、武士の暴力団的性格も出る。

「2.中世の武士と近世の武士」では院政時に院の武士として存在感。王家内部の対立、権門寺院との関係、荘園の激増による寺社勢力と国衙の争いなどに活躍する。
そして源平のツワモノの家から2次的な武士のイエが誕生。独自に武装集団。武に堪能な在地領主の一部が武士身分になる。
鎌倉の御家人は頼朝に従うもので、京都大番役も御家人の役割。征夷大将軍は頼朝が前将軍という称号をやめ、新たに大将軍を拝命したいと申し出て、王朝側が選ぶ。平家物語が平家の軟弱さを広める。江戸幕府が頼朝に私淑だから、ますます平家の貴族化がいわれる。南北朝の内乱は尊氏と直義の争いに、破れた直義側の残党が南朝が乗ったために長引く。
義満没後は守護の力が強くなる。世襲して守護大名となる。
太閤検地で中央側が検地(それまでは申告させていた)するようになり、江戸時代は石高制となる。秀吉時代の兵農分離(刀狩り)と喧嘩停止令は受け継がれる。江戸時代、大名は幕府の意向を忖度して寄り添った政策で領内の統治を行う。
地方知行と蔵米知行に分かれるが、だんだん蔵米知行(サラリーマン的)になる。

「3.武器と戦闘」では当初は弓馬による「楯突くいくさ」。双方の距離が1町(109㍍)あたりから楯を並べ、5~6段(55~65㍍)程度まで楯を並べ、鬨の声をあげて矢戦。
「馳組むいくさ」は、互いに馬を馳せての弓矢の戦い。敵に動揺があれば楯の間から騎馬武者が押し出す。おのおの徒歩の集団を連れて行く。
こうなると馬を狙うようになる。馬の太腹を射て、主を跳ね落とさせて、起ち上がろうとするところを追物射にする。
源平内乱期は鎧の防御力の向上がめざましい。馬は平均129。5㎝。(今は158㎝のサラブレッド)馬がのせられる重量は自重の3分の一。これを越えると、走行力は3割減ずる。日本の馬は去勢していないから暴れ馬。発情期は大変。馬には口取りがいる。疾走は前提としていない。ヨーロッパの中世の騎兵も白兵の突進はなかった。白兵の突進をやったのは18世紀以降。馬は食べさせる必要があり大変。
馬上の太刀打ちは右手の片手切り。身体を右方に沈めて抜かないと馬の首を切りつけてします。手綱も切る。ともかく刀は弓にかなわない。接近戦だけ。
馬上の弓が馬上の太刀になるのは14世紀。敵に届くように長大な刀となる。しかし攻撃する方も怖い。やがて下馬しての斬り合いになる。イエズス会士は我々は馬で戦うが日本人は戦う時は馬から下りると報告書を出す。そして鉄砲が登場する。
戦国大名の軍役は戦闘員の人数と携行する武器の種類と数量だけだが、近世の軍役では出陣を華やかにする道具類運搬や兵糧搬送を含めた総数である。
竹刀剣術はスポーツに過ぎない。

「4.「武士道」をめぐって」は武士道の誕生の経緯を書く。戦国期まではツワモノの道とは違う。鎌倉期は謀反は武士の名誉とまで言った。自尊心が強い。江戸時代は儒教と結びついて治者としての倫理学になる。

「5.近代日本に生まれた「武士」」では黒船が来て従来の武士身分が弊害となって安政の軍事改革(老中阿部が海防強化の海軍伝習所と講武所)、文久の軍事改革(慶喜が洋式軍隊を目指す)が不徹底で、長州の奇兵隊に負ける。
明治維新は士族の特権を奪ったが、官吏の出身は士族が圧倒的に多く、士族の政権である。明治政府は富国強兵をとなえ、参謀本部が『日本合戦史』全13巻を明治22年~大正13年に発行するが、史料が無く、文学的虚構もあって戦史が戦争を誤らせる面もあった。(奇襲重視)
新渡戸稲造『武士道』はキリスト教の皮をかぶっている本で、もう一つは忠君愛国からの武士道となる。軍人勅諭などで戦死の美化。精神主義が強調される。生きて虜囚の辱めを受けずとか大和魂が重視

「終章.日本は「武国」か」では秀吉が朝鮮出兵した時に明国を長袖国とし、日本を弓箭きびしき国としたことがあるが、これは思い込みで、中国、朝鮮の弓に比較して日本の弓が大きいことや、島国で他からの攻撃がほとんど無かったことも一因ではないか。滝口の武士の役割の一つは「鳴弦」で邪気・魔除けをすることであった。
日本人が元々勇敢というのも太平洋戦争の人的資源の蕩尽のスローガンにされただけであった。

「武士の起源を解きあかす」 桃崎有一郎 著

馴染みが無い平安期のことが多く、私には読み難い本であったが面白い本であった。この人が解き明かした武士の起源が本当のような気がする。

武士が東国という地方で生まれたという説が一般的だったが、高橋昌明氏が武具も騎射などは都の衛府(軍事部門の役所)で生まれたのではないかとの魅力的な論を展開している。このブログでも高橋昌明氏の「武士の成立 武士像の創出」(https://mirakudokuraku.at.webry.info/201802/article_9.html)を紹介している。

この本の著者の論を簡単には紹介すると、武士は京を父とし、地方を母とするハイブリッドであると論じる。
都の貴族=王臣家の者が国司に任じられるが、当時の国司職は世襲ではなく、その任が終わった後に都に戻ることになる。王臣家の者が多くなると、都に戻ってもまともな職はない。そうなると、その国に居座り、地方の豪族の娘と婚姻することで勢力を伸ばすことをはじめ、それが武士となったとする。

この背景として、奈良時代の中期の聖武天皇の時(743年)に墾田永年私財法によって、私有財産が認められたことが大きなきっかけとする。開墾の計画者は国司に届け出る義務がある。許認可の権限を持つ国司が、これで私腹を肥やすようになる。
桓武は国司の水田、陸田の所有を禁止。郡司も同罪とした。次の平城天皇は802年に方針転換をして、ある程度までの田地所有を許す。また聖武朝では国司と郡司・百姓の娘との婚姻の禁止を打ち出したりしていた。
しかし私有財産は拡大していき、後の荘園制につながっていく。国司の違法行為は当然に禁じられていたが、身分の高い者の犯罪は罪が減じられることもあり、法律は骨抜きになる。

そして王臣家が特に増えたのは桓武天皇が子どもを32人も作ったころからである。その皇子にも子どもが生まれ、ねずみ算式に増加していく。中央に職が無くなり、臣籍降下して地方に根付くきっかけとなったわけである。桓武期の782年に氷上川継の乱が発覚し、多くの貴族が連座した。藤原秀郷の子孫が下野に土着するきっかけとなる。嵯峨天皇も多くの子を作り、彼等に源姓を与えて臣籍降下させる。そして親王任国制度(上総、常陸、上野)が発足した。

国司の下で年貢を集め、都に送るのは郡司階級の責任だが、その地に居座った前国司やそれと結託した者などによって妨害される。年貢未納の責任も追及される。そこで郡司階級は疲弊して、群盗になる者、また王臣家に取り入って一緒に悪事をする者などに分かれる。
こうして治安は乱れ、群盗や俘囚の乱、僦馬の党と呼ばれる機動的な盗賊団などが発生し、平将門の乱も発生する。(これまでにも将門と同様な事件・行動が発生していたが、将門は天皇に代わって新皇ということを唱えたことで大きな問題となる)

なお郡司階級は昔の国造の流れもひいており、その土地に長く根付いている。一方、王臣家は京の貴種である。当時の婚姻は妻問婚であり、王臣家が居座りやすかった。

平安初期までの朝廷の常備軍は徴兵された百姓が大部分で、プロの戦士の兵は領主であり、郎党を持つ。要はプロの戦士とは弓矢と馬の扱いができるかどうかである。すなわち弓馬の道は技能が難しく、郡司や富豪百姓のような有閑階級でないと習得ができないのである。馬は飼育にも金がかかる。著者はこれらの階級の武人を「有閑弓騎」と呼んでいる。だからこれらの人は自ら農業は行わず、農民を使って勧農は行う。馬を飼って、騎馬術を身に付け、弓術の練習をしていたクラスである。
東国に出現した武士は裁定者、仲裁者としての王臣家らしい意識を持っていた。すなわち地域や小規模な社会のまとめ役であろうとすることを根本的な存在意義としていたことが平将門の乱の当事者たちの行動を見るとうかがえる。

都の貴族の中には位は低いが、兵衛や滝口などの武士の役目もあった。そして坂上、紀、大伴、文室、小野などの有力な武士を輩出することで名高い家もあった。
後の武家の先祖として有名になる藤原秀郷のさらに先祖は蝦夷の俘囚などの対策で、軍事技術を学んだのではないかとも論じている。また平家の祖の葛原王は馬の牧で有名な地をもらうことで、馬に馴染んだのではと論じている。また平良持が鎮守府将軍として陸奥に赴任したときに騎射術を学んで武の伝統は身に付けたのではないかと推測している。こうして王臣家の貴種でありながら武の伝統を持つ家も生じていた。これらの王臣家の血と地方豪族の血が混じって武士が誕生したというのが、「京を父とし、地方を母とするハイブリッド」という意味である。

「もっと知りたい茨城県の歴史」小和田哲男 監修

今、ちょっとモノを書いており、読む方は調べることが中心になっている。この本は郷土史的な本であり、興味深いところがある。大きく茨城県の史跡、信仰、事件、人物、文化・生活に分けて記述されている。

 「史跡」では、次のようなことが記されている。
 古代の常陸は新治、筑波、茨城、那珂、久慈、多那の国に別れていたそうで、筑西市の葦間山古墳は完全には残っていないが復元長は141㍍もあり、新治郡(当時は国)の国造の墓ではないかとされている。
 また舟塚山古墳は石岡市にあり、全長186㍍もあり、関東地方では天神山古墳(群馬県太田市)に次ぐ古墳であり、こちらは古代の茨城国である。

 中世になるが、結城17代晴朝は秀吉の猶子を秀康を養子にして家の存続を図る。秀康は天正18年に城下を拡張して御朱印堀と呼ばれる空堀の内側は地子税免除の町人町とするが、慶長6年に越前に移封され、結城氏は父祖の地を離れることになる。

 古河公方がいた古河は常陸、武蔵、上野、下野の接触点にある地で、利根川と渡良瀬川の水運が使えた場所である。この頃の川筋と今は違うから、当時の川筋を理解していないと、地勢がわからないところがある。

 徳川時代になると、関東郡代の伊奈氏が忠次、忠治の2代にわたり関東の民政に力を注ぐことになる。この人物は評価されるべき人だ。備前守忠次は灌漑用水路を堀り、各地に伊奈堀、備前堀と称されるものが残っている。忠治は利根川の東遷したり、つくばみらい市付近で一つになっていた小貝川と鬼怒川を分流して谷原地区の新田開発の道をつけた。

 時代は下るが、今は水戸市に含まれる内原町に内原訓練所がある。ここは昭和2年に設立された西茨城郡宍戸町(現笠間町)の日本国民高等学校が前身である。昭和10年に内原に移転し、昭和12年に満蒙開拓青少年内原訓練所が創設され、全国の農民の次男、三男を対象として、約2ヶ月間の訓練を経て、満州に入植するための準備を行う。結果として86500人余が満蒙に出向き、多くは帰らぬ人となる。棄民したと言われてもしかたがない。

 「信仰」も面白い。親鸞が常陸に縁があり、笠間市稲田の稲田草庵(西念寺)で20余年過ごす。ここで過ごすに至った経緯は諸説があって不明だが、下野の有力者:宇都宮頼綱の所領が笠間郡にあった為という説をこの本では取り上げている。

 法然の浄土宗を天台宗から独立させたのは常陸出身の聖冏(しょうげい)とのことである。久慈郡岩瀬城の城主白石義光の子で浄土宗の教義を明確にし、戒律の触れた書物などを著す。

 また夢想疎石が佐竹義継を弟子にして臨済宗を広める。画家の雪村も臨済集の画僧である。
 また徳川斉昭が明治の廃仏毀釈を先取りするような政策を打ち出したが、寛永寺などが幕府の有力者、大奥に働きかけて潰される。
 水戸藩の内部抗争は有名というか、あきれるほどに激越なもので、この為に、尊皇攘夷の魁となったので、明治期に活躍した人物が出なかったわけだが、明治になってからも山岳党(県北出身)と河川党(県南・県西出身)が県議会で争ったとある。なお水戸藩の内紛時には斉昭・藩内改革派側と長男慶篤・結城寅寿の門閥派側では書簡の内容が漏れることを恐れて、神発仮名という暗号を使っていたようだ。

 塚原卜伝は鹿島神宮の祝部の卜部覚賢で、近くの塚原城の城主の養子となる。卜部家は「鹿島の太刀」という古くから伝わる剣術を代々継承していた。

 江戸時代後期に江戸の漢詩壇で活躍したのが大窪詩仏(医師)で、59歳の時に秋田藩に招かれ江戸藩校の教授となる。土浦の町人学者の沼尻墨僲は地球儀を作る。古河藩土井家の4代土井利位は雪の結晶の研究に打ち込む。『雪華図説』を著す。

 あんぱんをつくった木村安兵衛は常陸田宮村(牛久市田宮町)に生まれる。横山大観は水戸藩士の酒井捨彦の長男として生まれる。

「三井家のおひなさま」於三井記念美術館

知人からチケットをいただき、妻と出向く。広い意味では美術品なのだろうが、ひな人形と御所人形(公家に愛好され、後には民間にも普及)の展示であり、感興の中味は美術とは異なる。

江戸時代後期のものもあるが、近代になって三井家が三井財閥になった時代のひな人形であり、豪華なものである。三井家には明治になると、前田家や浅野家などの旧大名家から輿入れしている。
近代のものだから人形の着物の褪色も少なく、着物の欠損、汚れも少なく、織り、模様、刺繍なども見事である。京都の丸平大木人形店の五世大木平蔵が人形作りの名人だったようで、そこから購入した作品の展示が多い。この人形店のものであろうか、丸平文庫と言う所に所蔵されている御所人形も展示されている。

人形だけでなく、その人形用の調度品も小さいながらもきちんとした作りの調度で、金蒔絵がきちんと施されている。このような調度品も含めてお内裏さま、三人官女、五人囃子、仕丁なども飾ると、8畳間程度が必要となるのではと感じる。いきいきと演奏しているように見える五人囃子の人形が印象に残っている。

大きなひな人形もあり、立ち姿、座り姿と屈伸できるような人形もあった。ひな人形の顔は時代によって流行があるようだ。享保雛という言葉での説明もあった。江戸後期から近代は目が細い品のいい顔で、最近のように目が大きく、ぱっちりは無い。手指は長く、やや不自然である。

調度品では貝桶(”貝合わせ”と言う二枚貝の貝殻を合わせる遊び用の貝が入っている桶である。二枚貝はその片割れしか合わないことから、貞節の象徴として大事にされる)が大名家における女性道具の先頭を飾るものだったことを知る。

御所人形で大名行列を再現したのが展示されていたが、圧巻である。行列の役割に応じた人形が姿態、衣装、持ち物まで整えて展示されている。袋に入れた鉄砲や弓を持つ供侍まで、大名行列の様子がわかる。三井家に嫁いできた前田家や浅野家などの旧大名家の関係だろうか。

なお御所人形は色々な種類があり、鞍馬天狗、橋弁慶を演じているようなものからお花見や大黒、恵比寿や騎馬の武士(宇治川先陣…三井家は佐々木源氏の出という伝承もある)など様々である。御所人形の顔は子どもらしく大きく、同じような顔だ。現代のリカちゃん人形は女性が主だが、御所人形は違うのだ。

この美術館には、茶室仕様の展示スペースがあるが、床の間に円山応挙の水仙図、お茶碗は斗々屋茶碗の銘「かすみ」であった。床の間の掛け軸は、遠く、暗い場所だから水仙は良く見えない。

「刀剣と格付け」深井雅海 著

副題が「徳川将軍家と名工たち」であり、江戸幕府の将軍を中心に刀剣がどのように贈答(献上、下賜)されてきたかを書いている。
著者は江戸時代を研究対象とする歴史学者であるが、刀剣には詳しくはない。ゼミの学生が江戸時代の刀剣贈答に関する論文を書き、それを生かすような意味で取りまとめた書物である。
著者は江戸城の内部の部屋のことなどに詳しいので、江戸城内での刀剣保管場所や献上、下賜するときの将軍、大名の配置などは具体的である。
贈答には当然に古刀の名刀が使われるが、8代将軍吉宗が新刀を奨励し、贈答にも新刀を用いることもはじめる。
吉宗は新刀鍛冶のコンクールのようなことも行い、また享保名物帳として今に残る名刀の履歴などを本阿弥にまとめさせるが、これらのことを既刊の資料から第Ⅰ章でまとめている。今に伝わる名刀がオーソライズされたわけである。
歴代将軍では二代秀忠が毎月17日(家康の命日)に刀剣の勉強、鑑賞を本阿弥光室(十代)を招いて行っていたことが記されている。あとは吉宗が大いに関心を寄せている。

第Ⅱ章は家康から七代家継までの刀剣の下賜、献上の実態を明らかにしている。献上の目的は家督相続御礼、次が隠居(致仕)御礼で全体の75%である。
下賜の理由は大名の国元への暇乞いへの餞別、褒美・大名邸へのお成り、将軍御前での元服祝いである。特に大名邸へのお成りは綱吉の時代に多い。綱吉は柳沢吉保家に58回、牧野成貞家に29回。松平輝貞家に25回と全体の76.7%が側近の屋敷へのお成りである。
刀剣の管理は腰物方が担当し、頭は腰物奉行(当初は腰物頭)で役高七〇〇石。人員は二人。配下に腰物方(役高二〇〇俵、15~16人の旗本、内3~4人は御差方として将軍の佩刀を取り扱う)と同心(一〇人で御家人)がいる。ここに各種の刀剣に関わる職人が配属されているわけである。
第Ⅲ章が吉宗の刀剣改革として、新刀鍛冶改のことを主として佐藤幸彦氏の調査結果を引用してまとめている。そして吉宗は享保7年にこれまでのような大名との儀礼を簡素化し、隠居・遺物献上が廃止され、家督御礼もとりたてておこなわれなくなり、贈答に用いる刀剣も代金20枚までに限るの法令を出す。この結果、高額な刀剣の贈答が減り、献上件数も減少している。
また将軍の佩刀が初代家康から各代に至るまで記されている。新刀を佩刀にしたのは吉宗が最初で、あとは九代将軍とか少ない。
新刀に注目した吉宗にちなんで、ここに新刀番付の一つが紹介されている。

「なぜ日本はフジタを捨てたのか?」富田芳和 著

副題に「藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949」とあるように、フランク・エドワード・シャーマンというボストン生まれの占領軍将校が残した資料をもとに、終戦後にフジタが海外に出向くいきさつをまとめている。

フランク・シャーマン(1917~1991)は少年の頃に画家になろうとしていた。パリに短期留学した時にモンパルナスでフジタを見かけたという思い出を持っていた。
太平洋戦争時に徴兵を受け、陸軍工兵科第64地形図技術工兵大隊に入隊。1945年11月に占領軍の兵士として来日。中国大陸の詳細な地図作りにおける印刷スペシャリストとして勤務。そこで同郷のバンカー大佐から日本の民主化の為には芸術家も必要で、その支援をすることも命じられる。そして凸版印刷にオフィスを与えられる。のちにシャーマン・ルームと呼ばれるサロンを設け、そこに文化人(画家、歌手、作曲家、邦楽家、写真家、茶道家など)を招待したパーティを催していた。

シャーマンは凸版の関係者から向井潤吉に会い、紹介状を貰って昭和21年(1946)フジタに会う。そしてフジタもシャーマンの思いや人柄を信頼して親交を深めていく。一緒に骨董店を廻ったこと、京都旅行のことなどフジタの人柄が出た楽しい記述が続く。フジタは職人の仕事の細かいところを観察している。この職人仕事の吸収がフジタの画業を世界的にした一因であることがわかる。裁縫や額縁作りなどにも腕をふるう。

話は変わるが、日本の美術界は、昭和19年に美校改革があり、結城素明、小林萬吾、田辺至、伊原宇三郎などの戦争画を画いていた画家が追われた。そして小林古径、安井曾太郎、梅原龍三郎などが教授となる。後押ししたのが細川護立侯爵で、児島喜久雄、横山大観などだった。反フジタの勢力であった。なお大観は戦争画は画かなかったが、戦意昂揚の催しなどには積極的だった。

フジタは昭和19年に神奈川県津久井郡小渕村藤野に疎開した。藤野にはフジタを慕って猪熊弦一郎、佐藤慶、脇田和、中西利雄、伊勢正義、荻須高徳、三岸節子らが疎開する。彼等は新制作派協会を設立する。
終戦後、フジタは戦争画や軍に協力した資料を焼いたとされているが、これは誤解である。フジタは世界を知っていたから自分の戦争画が海外で賞賛されると見込んでいた。「アッツ島玉砕」は戦意昂揚とはほど遠い絵で軍部は困ったが、鑑賞者は自分の身内を絵の中に見出し、置かれた賽銭箱に賽銭を投じて、花が備えられ手を合わせたという。フジタもドラクロアのジャンヌダルクの絵に匹敵すると自負していたようだ。ただしフジタはチャンバラ絵と称したような戦争画も画いていた。

戦争が終わった後に、工兵局美術班長のミラー大尉が日本の戦争画制作者の氏名とその保管場所の調査をしていた。別に戦争協力者として摘発する目的ではなかった。彼はフジタが疎開していた藤野に出向き、その仕事を依頼し、フジタが引き受ける。

昭和21年に東京都美術館で集めた戦争画がGHQ関係者に展示されたがケーシー少将は芸術的に高いものがあるとの意見であったが、部下のシャーマン・リーは自分の見解をまとめるに当たり、親しい日本の画家の横山、安井、梅原の助言を参考にし、戦争の宣伝の為の絵に過ぎないと論評した。そこでケーシー少将は結論を先送りして、これらの絵画は20年間、アメリカの倉庫で保管されることになる。

1946年に軍国主義者の公職追放が始まる。政界財界だけでなく文化人にも及ぶ。宮田重雄がフジタや猪熊を攻撃する。新制作派協会で、フジタと親しかった内田厳が共産党のシンパで、日本民主主義文化連盟の戦犯リストを持ってきて、フジタをリストに入れたことを連絡してくる。横山大観や川端龍子などはあったが、新制作派協会の作家は除かれていた。お先棒をかついだ内田自身は悩んだようだが、フジタは哀れんでいる。君代夫人は内田の裏切りを許さなかった。

日本の美術界のフジタ排斥の状況や君代夫人のヒステリー症状を見て、シャーマンはフジタを渡米させようと動く。ドルの獲得方法として、アメリカの画廊での個展を企画する。またその後の生活の為に、アメリカの大学での教授の口などを探す。マッカーサー夫人の依頼での講演なども好評だった。

アメリカでフジタの展覧会を知ったベン・シャーン(リトアニア生まれのユダヤ人)は「ファシストを許すな」として反対キャンペーンを展開する。国吉康雄はフジタに恩義もあるが自分の立場からベン・シャーンに協調する。
フランク・シャーマンはこの動きに危機を感じ、マッカーサー夫人の依頼のクリスマスカードの制作や講演をフジタに依頼する。そしてマッカーサーから、アメリカがフジタを招待することにしてもらいビザ発給にこぎ着ける。1949年にフジタは「けんかはやめてください。国際水準になる絵を描いてください」と言って飛び立つ。

フジタを排斥した日本の美術界は、その後、多くの「巨匠」「人気作家」「重鎮」を招き入れて巨大化し、ガラパゴス的美術市場(世界で通用しない)を作る。アメリカでベン・シャーンなどの運動にも嫌気がして、1950年にアメリカからフランスに飛び立つ。

シャーマンの残した資料は親交のあった河村泳静氏が預かり、氏から北海道伊達市の教育委員会に預けられているとのことである。

「幕末史 かく流れゆく」中村彰彦 著

 著者は学者ではないが、会津藩のことや幕末史で多くの著書を上梓されている。この本は幕末に起きた事件を105の章に分けてわかりやすい文章で記されている。章ごとの文章は短いが、その短い文章の中で、要点を記されていて、幕末史を網羅的に知るのにはいい本である。もちろん、著者が大事と思う事件、関心を持った事件が中心であり、人によっては違和感を持つこともあるだろう。
 まず著者は幕末を、天保12年(1841)に一度出した幕命(川越藩、庄内藩、長岡藩の三方領地替え令を撤回したこと、すなわち幕府の弱体化が始まった時点からとの意見である。一般的には、幕末は嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した時からとされている。そして幕末の終了を著者は明治10年(1877)に西南戦争が終結するまでとしている。

この本ではここまで書いていないが、日本が欧米列強の植民地にならなかったのは英仏の間にアメリカという緩衝材的な国が入ったこと。それから英仏のロシアとのクリミヤ戦争(1853~56)、中国でのアロー号事件(1856~60)、アメリカの南北戦争(1861~65)などのタイミングなのだと感じる。

それから廃藩置県などがスムーズにできたことも不思議である。近衛兵を作ったこと、華族制度という名誉を作ったことなどが記されているが、武士というものが利欲に恬淡なのも一因ではなかろうか。

阿部正弘を高く評価する人が多いが、著者は自分の考えがない優柔不断なタイプと見る。ぶらかし策という先送りで対処しようとしたことも書いている。ただ、阿部正弘が老中の時に幕府の秀才川路聖謨、筒井政憲、井上清直、岩瀬忠震などの優秀な役人を登用していることは著者も評価している。

水戸藩というより徳川斉昭の強烈な個性と水戸藩の性格、井伊直弼の育ちや彦根藩の性格からも生じている個性のぶつかり。これは一橋派と南紀派の対立となる。

孝明天皇は徹底した異国嫌い、そして幕府よりの姿勢。この天皇の死を著者は岩倉一派による毒殺と考えている。

なお暗殺という言葉は、従来の日本語には無く、闇討ちではなく暗殺になったのは英語のアサシネイトに由来するというのはなるほどである。

著者は西郷隆盛に常に暴力的、謀略家として批判的である。徳川慶喜についても「ああ言えば、こう言う」の口だけ、それも二枚舌として批判的である。

「森山良子コンサート」於市川市文化会館

歌謡曲のコンサートは坂本冬美の時以来だ。もっとも森山良子は歌謡曲と分類していいのか迷う。19歳でデビューした時の歌「この広い野原いっぱい」はフォークソングのジャンルであった。私が好きな「さとうきび畑」は反戦フォークの一つなのか、よくわからない。ニューミュージックというジャンルなのだろうか。もちろん、音楽のジャンルなどどうでもいい。このコンサートでも「涙そうそう」に次いで歌ったが、私はこの歌唱が一番良かった。しみじみと聴き入ってしまった。

50年以上、歌手として活躍されて70歳台になられたようだが、物凄い声量だ。また高齢になると、高い音は出にくくなるとされているが、そんなことはなく、見事なものだ。
ただこのホールの音響に問題があるのか、少し歌詞が聴き取りにくいこともあった。また、歌に合わせて背景のスクリーンに映像が出るが、抽象的な模様はいいとしても、この映像が少し手を抜いているのかなとも感じた。

多くの歌を披露されたが、デビュー曲も含めて、若い時の自分の歌から、他の方が歌われたヒット曲なども歌われた。自分のアルバムに入っているが、世間では注目されないものの、ご本人が思い入れのある歌として「あやとり」と「家族写真」という曲も歌われる。
また最近はクラッシックに歌詞を付けて歌うこともされていて、2曲ほど披露される。「小犬のワルツ」はピアノに合わせて早口言葉のように歌い、驚く。よく口が回るものだとも思った。そのような歌を集めたCDも出されているようだ。
アンコールではジャズの曲も披露されたが、音楽もご本人も生き生きしていて活力があり、ジャズらしい音楽だった。

合間、合間のトークもなかなかに巧みである。加齢ネタが多いが、観客も高齢者であり、観客席は盛り上がっていた。

「アウトローと呼ばれた画家 評伝 長谷川利行」吉田和正 著

長谷川利行の評伝である。伝記的な部分や、長谷川の奇行のことなどは、これまで読んだ本や画集の解説記事などと同様だが、長谷川の謎の青年時代(京都時代)のことをよく調べている。またこの時に熱中していたのが歌であり、その歌の整理などはうまく書けている。
本は次のような章立てになっている。「1.空白と謎にみちた少・青年時代」「2.生きることは絵を描くことに値するか」「3.無頼と奇行」「4.天城画廊と長谷川利行」「5.行路病者・長谷川利行・胃癌」「6.利行の死と作品の急騰」である。

「1.空白と謎にみちた少・青年時代」では、父方の祖父軍二は58の歳に淀藩に6石5斗2人扶持で召し抱えられる。この石高では軽輩の下士である。俳句を嗜む風雅な人で和歌山に縁があったようだ。父は利其で伏見警察署に勤務しており、利行を偏愛したようである。
なお長谷川家の長男利一は数学、スポーツが得意で、利行の前に和歌山の耐久中学に入り、人目をひく男だったが、早くに亡くなる。もう一人の男子も夭折する。母は淀藩の御殿医の血をひいていた。
利行は、早くから書物に親しみ、父から可愛がられる。淀下津町の高等小学校を出て明治40年に兄の通っていた和歌山県湯浅町の耐久中学に入学。
当時、利行は水彩画を習っていた。師は当時の水彩画界では高名な大下藤次郎である。また文学や詩に親しんでおり、中学時代に同人誌を発行している。しかし理由は不明だが中退する。失恋したからとも噂される。
それから29歳で上京するまでが謎である。水彩画を習って、どこかの学校に通う。大下藤次郎が急逝後に水彩画を離れる。なお当時の長谷川には妻子があったとも言われている。幾人かの証言と、長谷川の短歌からも妻子の存在が窺われる。
大正8年に雑誌に短歌を投稿して所載される。特選の常連となる。京都市内を次から次へと転居。歌人の生田蝶介が選者であった。当時の短歌は、繊細で澄んだ心の動きを抒情的に調べ高く歌いあげたものである。そして大正8年に『木葦集』という私家版の歌集をだす。
大正9年に生田蝶介を頼り上京。小説も書くが評判を得られなかった。後に生田氏と訣別する。
大正12年に関東大震災に遭遇する。この時の短歌がある。
絵は新光洋画第1回展に「田端変電所」が入選。時に32歳であった。

以降から第2章以下になるが、昭和2年の第14回二科展で樗牛賞を受賞する。この時に強く推奨したのは正宗得三郎や有島生馬などである。なお当時の画壇の中では里見勝蔵や熊谷守一は利行の才能を認めるが、梅原龍三郎、安田靫彦などの多くの画家は嫌っていた。
ここから、貧困と無頼に流れ、酒乱と奇行の13年の画家人生が始まる。1930年協会奨励賞を受賞する。
一方で絵の押し売りをしているなどの評判も立つ。この頃に矢野文夫と親交を持つ。矢野と中学同級の熊谷登久平(画家、後に断交)とも知り合う。矢野とは深い付き合いになるが、後に矢野の背広を無断で質に入れてしまい、一時期疎遠となる。しばらく後に手塚一夫とも一時期同居するが愛想をつかされる。長谷川の才能を認めても、生活態度などから付き合っておられないのだと思う。
また靉光などと知り合う。画家仲間(大野五郎、寺田政明、井上長三郎)との交流もある。

高崎正男こと天城俊彦は作家志望の男だが、売れず、壮絶な人生を送っていた。ただ高崎は長谷川の絵を認め、長谷川の絵を売ることに努める。後には長谷川を監禁するように絵を画かしたと悪評も立つが、長谷川の才能を認めた男である。

利行のパトロンには医者が多かったと書いてある。父が逝去後、長谷川も胃癌が悪化して路上で行き倒れる。そして昭和15年に東京市養育院に収容され、逝去する。
最期まで大事にした行李も処分され、遺骨は高崎正男が引き取るが、東京の空襲時に飛散する。しかし後に高崎の夫人がその一部(空襲後に高崎が拾い集めたもの)を保管していたことがわかり、菩提寺に埋葬。

「利休のかたち」展 於松屋銀座店

副題に「継承されるデザインと心」「松屋創業150周年記念」とある。千利休が使用したと伝承がある茶道具を展示して、その利休型とでも言うべき道具類を伝統を守りながら今に伝えている道具職人(千家十職と称されているが、この展示では茶碗の楽家、釜の大西家、漆芸の中村家)の道具類を展観している。

千利休の好みは”冷凍寂枯”とも称されているが、地味で優しい感じのものが多い。織部好みの”破調の美”、小堀遠州の”自然な雅”とは違う。なるほどと思ったのは千家再興を許された三代少安の子宗旦の道具も展示されていて、それは更に”寂枯”を追求しているように感じたことである。千家再興という意識が強かったのであろう。ただし宗旦の時代は、織部、遠州に続いて「姫宗和」と言われる金森宗和の時代に移っており、流行遅れになっていったのだと思う。楽茶碗の方は長次郎の作風から、少し華やかなものに変化している。

国宝の茶室待庵の映像や簡単な材料で復元したものが展示されていた。この復元はチーピーなものであり、展覧会のぶち壊しであり、無い方がよい。

赤楽茶碗の「白鷺」や黒楽茶碗の「万代屋黒」などの初代長次郎の作品は小ぶりで感じの良いものだ。
棗も優しい形の漆黒なものは、どこにでもあるようなものだが、何か惹きつけられるところがある。

創業150周年記念というほどには力が入っていない展覧会である。茶道具の展覧会は先年国立博物館でも開催されており、そういうのを観ているだけに内容の薄いものと感じた。美術と言うより茶道関係者に観てもらいたいという展覧会なのだろう。入口で和菓子付きの抹茶サービス(1000円)の受付をしていた。見ると会議室のような机を囲み、そこに客が10人以上座って茶が運ばれるのを待っていた。茶道の雰囲気もまったく感じられないもので、馬鹿にしている。デパートの外国人客の取り込み策であろうか。

「天下統一とシルバーラッシュ」本多博之 著

信長、秀吉、家康という中央政権が出来たことによる経済面への影響をまとめた本である。経済を動かす血液が貨幣であり、当時は銀が東アジア市場では統一貨幣だったわけである。

銀算出の中心が石見銀山であり、本格的な産出がはじまったのは大永7年からである。博多商人の神屋寿禎が関与する。精練技術の灰吹法は明から朝鮮をへて日本に伝わる。。石見銀山は16世紀半ばから17世紀前半が最盛期であり、ここでの産出・精練技術が日本各地に伝わる。

この銀が東アジアの貿易構造を変える。それまでのヨーロッパ人の交易は胡椒とキリスト教布教が中心であった。天文8年の大内氏遣明船が銀の使用のはじめで、同じ頃に朝鮮に銀を持ち込み、綿布を持ちかえる。博多商人が関与。中国商人やポルトガル商人の日本来航を促し、後期倭寇の活動が活発になる。西国大名は独自に貿易する。

折しも鉄砲が普及する。この為の火薬原料(硝石、硫黄)は輸入品であり、これを輸入する為に銀が重要となる。他に生糸、綿なども銀で輸入された。

京都に於ける金銀の流通は永禄の終わりから元亀年間を転換点として天正年間の前半に一挙に拡大。金を装飾に使ったり、唐物の蒐集に使う

織田政権は法定枡(京の十合枡)を天正2~3年頃に登場させる。米穀量に基づく石高が、種類によって価値が異なる銭額に基づく貫高よりも、知行宛行や軍役賦課の権力編成の価値尺度に有効と考える。(福建地方からの中国渡来銭の供給途絶もあるか。)

信長は金と銀の通貨としての使用を、銭との換算基準を示して公認。秀吉は重量と品位を政権として保証する法貨を天正15年から鋳造・発行。
文禄年間に米との相場が立つ。朝鮮出兵で米が必要になり、全国の流通網もできてくる。

そして秀吉は長崎を直轄領とし、海賊停止令を出す。
中央政権がない時は、大名・国人、商人は個々に主体的に経済活動。領国を越える船舶の安全保障に海賊がいた。見返りに通行料を払う。大名は国人に一定量の運上を収めることで鉱山経営の権利を保証される。戦国末期から織田政権下に金銀の国内流通は急速に活発。金を含め、貿易品も国内に流入。日本経済は東南アジア経済と連動する。

秀吉の統一政権は外交権の再統一をし、天正16年に海賊停止令を出す。天正15年に長崎を直轄にして輸入品の先買権を行使。日本人の海外渡航は禁止しない。朝鮮出兵は物流の一元化が進むきっかけとなる。

豊臣政権は国内の金銀鉱山の開発を積極的に進め、諸大名の鉱山領有を認めつつ、生産物の一部を上納させる。文禄・慶長年間に金銀の社会浸透が進む。大都市では年貢米が売却されて金銀に換金される貢租換金市場となる。各大名は鉱山があれば収奪を強化、無い場合は九州大名などは海外、フィリピン貿易でまかなう。政権は朱印状で制限し、ルソン壺の独占購入などの貿易政策をすすめる。5大老の体制下では徳川家康が外交権を掌握していく。
関ヶ原後に徳川による国内主要金銀鉱山の接収。家康は慶長6年に慶長金銀を鋳造。金貨は武田の甲州金の四進法(両、分、朱)を採用。甲州出身の大久保長安の影響か。

慶長14年に平戸にオランダ商館。銀が輸出され、主にアジアの生糸などが輸入。寛永12~18年には銀が大量に輸出され、幕府は銀輸出を抑え、銅や小判の輸出を認める。応益には灰吹銀(高品位)ではなく丁銀(品位80%)の使用を命じる。キリスト教の禁令強化の中、通商は縮小、朱印船貿易は減少。寛永12年に日本人と渡航と帰国が禁止。寛文8年幕府は銀の輸出を禁じる。寛文11年には中国舟には丁銀の輸出を認める。寛永通宝が広まり、近世三貨制度が成立。

「佐藤優子 ソプラノリサイタル」於紀尾井ホール

昨夜、妻と標記のリサイタルに出向く。地元の隠れた文化人である知人の推奨である。
第1部は佐藤氏がロッシーニ、ベッリー二、ドニゼッティ、ヴェルディの作曲した歌曲を2曲ずつ歌う。歌曲の歌詞は翻訳されて舞台両脇のスクリーンに表示されるが、愛をテーマに恋しい思いを歌ったり、揺れ動く自分の心境を歌い上げるような歌だったと記憶している。同じような調子の歌が多いと感じるが、歌声は声量もあり、高音部とはこちらの耳が震えるような感じがし、自宅でCDで聞くのとは大違いである。ベッリーニの「私の偶像よ」という曲が短いが曲調が違い印象に残っている。印象に残ると言っても音楽に疎い私には音の印象は再現できず、どんな曲かは説明はできない。

第2部はオペラ『ランメルモールのルチア』(ドニゼッティ作曲)から、テノール古橋郷平、バリトン上江隼人の両氏に賛助出演していただき、歌劇仕立てである。
これが良かった。主人公ルチアの感情も歌声に乗せているのか、心に響く。耳に響くだけでなく、心も響くのだ。
長時間、主人公の感情が伴う動作を行いながらの歌唱であり、また座ったり、寝たりしながらの発声などは技術的にも体力的に大変なのだと思う。アンコールの拍手は鳴り止まないが、私も拍手はしても、他の会場の演奏時とは違って「お疲れさま、もう歌わなくてもいいから、本当に良かったよ」との気持ちである。
そういう歌唱の技術だけでなく、気持ちを乗せての歌唱であり、見事だと感心した。以前に妻とオペラのDVDを家で10作品以上観たが、全然印象が違い、帰りに「今度、生のオペラを高い金を出して観に行くか」と語り合う。
今回のオペラは場面の一部分だけを抜き出したものだが、全体のストーリーは「ロメオとジュリエット」のように、対立する家の姫と王子が恋に落ち、悲劇に繋がるという物語である。家でオペラの作品群を観た時もテーマは「愛、恋」ばっかりだと思ったことを思い出す。日本の歌舞伎では、愛、道ならぬ恋もあるが、主君への忠義、関係先との義理立て、親子の情、金銭のしがらみなどが入り込む。もっともオペラにも、このようなものがあり、当方が知らないだけなのであろうか。

テノール古橋郷平、バリトン上江隼人の両氏が掛け合うように歌うところも良かった。またピアノは今回のリサイタル全てを服部容子氏が演奏されたが第2部のオペラの場面ではオーケストラ並みに、その情景にあった音楽を、なめらかに、かつ強弱の付け方も歌を損なわないようにしながらも自信に満ちて弾かれており見事であり、妻が「このピアノの方も凄いわね」と言ったが同感である。

なお佐藤優子氏は平成27年度に五島記念文化賞の新人賞を受賞し、平成29年度新進芸術家海外研修制度研修員としてイタリアで勉強・修業している。このコンサートも五島記念財団(現在は東急財団)が後援している。また過去の五島記念文化賞の受賞者には知られている人としてテノールの錦織健氏、ソプラノの森麻季氏がいる。今回出場の上江隼人氏も受賞者である。佐藤優子氏の今後の大成を期待したい。

「戦争の日本史14一向一揆と石山合戦」神田千里著

この本は私には読み難い専門書で、以下の認識は正しくないことも十分に考えられるから、あくまでも参考程度に読んで欲しい。
一向一揆は一向宗(浄土真宗)を信じる者が権力者に立ち向かった一揆と認識していたが、それほど単純なものではないことが理解できた。一向宗に限らず、民衆は生き延びるために、宗教の持つ病気治療面、寺内特権(諸公事免除、治外法権)などで宗教に頼り、宗教施設のもとに集まる。一方、宗教、宗教施設は集まった民衆を守る為に、また自分の寺社の勢力が拡大するように、その地の権力者とは争わず、その特権を認めてもらうように近づくと言うことである。

宗教は民衆側にあるという側面がある反面、権力者側にすり寄る面がある。それは比叡山延暦寺でも、法華宗でもキリスト教でも同じである。だから従来の親しかった権力者が、新たな権力者と戦う事態になった時に、従来の権力者側に立って戦ったというわけである。
また宗教は昔から寺社内の治外法権的な特権を与えられており、それを守るため、また権力者側からすれば、不都合になった治外法権を制限する為に寺社を攻撃するわけである。

一向宗は加賀を実質支配したり、信長との石山本願寺との争いで有名になっている。
加賀の一向一揆は文明6年(1474…守護富樫幸千代を追放)と長享2年(1488…守護富樫政親を滅ぼし約百年間自治が行われる)にあるが、いずれも時の守護富樫家の内紛において、片方に味方した結果である。守護家の内紛とは応仁の乱の東軍、西軍の影響である。加賀の守護家は力が強くなく、幕府と在地を結ぶ役割を本願寺教団が担うことで守護の肩代わり的な位置を占めるに至ったようだ。

石山合戦は、そもそも本願寺は足利幕府(義昭)と三好三人衆(三好政康、三好長逸、石成友通)との縁が深く、彼等が反信長となったので、本願寺も反信長になったわけである。

なお親鸞の教えを受け継ぐ浄土真宗には本願寺派以外に真宗高田派(下野国高田専修寺)、仏光寺派(京都)、三門徒派(越前)がある。文明6年の加賀では高田派(富樫幸千代方)と本願寺派(富樫政親方)が抗争している。信長の越前一向一揆の掃討には高田派と三門派は信長と一緒に戦っている。
だから親鸞の教え=浄土真宗の宗教の教義には反権力というようなものは無い。ちなみに本願寺派は石山合戦後に蓮如と子の教如が対立し、江戸時代には東西の本願寺に分裂している。

また信長が比叡山を焼き討ちしたり、伊勢長島で一向宗徒を撫で切りにしたことで、信長の反宗教的行動がクローズアップされるが、信長は、比叡山の僧侶や長島の僧侶が堕落し、比叡山では敵の浅井・朝倉に味方し、伊勢長島では信長の敵斎藤龍興も逃げ込んだ時に助けるなど守護不入の治外法権を悪用する佞人凶徒で本願寺門徒の名に値しないと批判して、それを討伐の理由に挙げており、反宗教という言葉でまとめるのは正しくないと書く。

宗教の反権力的役割、民衆の力をことさら一向一揆に求めるのは違うということである。宗教は権力者にすり寄り、庇護を求めるのである。もちろん戦いが始まれば、仏敵とか「進者往生極楽 退者無間地獄」などの宗教的なスローガンで民衆を鼓舞するわけだが。


「ランカイ屋東介の眼」木村東介著

美術商羽黒洞の店主であった木村東介が、生前に展覧会のカタログや雑誌に寄稿した文章を集めたものである。
ランカイ屋とは展覧会屋という意味で、木村が惚れ込んだ画家の展覧会を多く企画していることから称されたようだ。昔の美術商は何人かの金持ちコレクターを客に持つと成り立つという時代に生きており、その当時に値札を付けた展覧会での販売を行ったわけであり、革新的であった。その会場となる当時のデパートの美術部との関係がわかるような記述もある。

このような行動の背景に、美術は一部の権力者、金持ちだけのものではないという木村東介の信念があった。だから当時の画商が、有望な若手画家に、このような客層が好む絵を画かせるようなことにも反対していた。
このような木村東介が惚れ込んだ画家とは、長谷川利行、木村荘八、中村正義、斎藤真一、大島哲以に書道家の宮島詠士である。他にジャンルとして肉筆浮世絵、開国美術なども取り上げている。また岸田劉生、横山大観については思い出を記している。

上記の信念から、開業当初は柳宗悦の民芸に属するものを集めて売ることからはじめる。”奥州げてもの”と称していたようだ。この時代のエピソードとして、古いものを買うと近在に触れたら、古色を落として持参してきてがっかりしたような話を記している。

岸田劉生の項では、東介の郷里米沢出身の画家7人が七渉会を作っており、その世話役が東介で、劉生などが顧問だった関係で面識が出来たことを記している。当時は岸田が率いる草土社の展覧会などは美術界から無視されていたようで、それに反発する劉生の挨拶文を紹介している。今では日本最高の洋画画家だが。
横山大観は上野池の端に住居し、東介は湯島と近所。ある時売った大観の絵を、大観自身がへそを曲げて自分の絵ではないとして箱書きをしない事態になり、東介の知人で大観とも親しい大塚巧芸社社主の大塚稔の仲介で面会して、書いてもらったとの縁などが書かれている。

長谷川利行の絵を扱いはじめたのは東介自身が彼の絵に感動したことはもちろんだが、居合わせた式場隆三郎にも強く勧められたことが記されている。式場隆三郎は山下清を発掘した人物でもある。そして買い集め、昭和18年に日本橋髙島屋で展覧会。売れたのはたった2点。その後戦争が激しくなり、郷里の山形に絵を疎開させていた。幼児のような純粋無垢な絵として評価している。

木村荘八は江戸っ子らしい気風と絵で、庶民の声が聞こえるという。中村正義は日展に自作が師の中村岳稜から出展を止められると、日展を脱退し、不羈奔放な形と色の作品を発表した画家である。斎藤真一は瞽女を描いたシリーズで今では有名だが、当初は画題に瞽女は画商から厭がられた。大島哲以も既存の展覧会では賞をもらえていなかったが、素晴らしく、山本丘人も高く評価していた。ただ画題は売れるような綺麗なものではなく、縁起の悪いタイトルのものばかりだった。
要はこのような画家を主に取り扱った反骨の画商だったのだ。立派なものである。

なお肉筆浮世絵は浮世絵が版画で数多く出回るのに対して、肉筆浮世絵は少なく価値があがるはずだということ。開国美術とは江戸時代後期の西洋画の影響を受けた画家の作品である。川原慶賀、西川如見、司馬江漢などである。宮島詠士とは米沢に生まれ、勝海舟に学び、中国に渡り、書家の張廉卿に学び、帰国後に東京帝国大学文学部講師や自宅でも教え、人類平等の理念を持っていた。この書に惚れ込んでいる。

「放水路落日-長谷川利行晩年-」矢野文夫 著

画家:長谷川利行の晩年を小説仕立てで書いた小説である。二科会で樗牛賞を受けて天才画家と言われたが、二科会の中でも長谷川を支持する人は少なく、絵も売れずに困窮する。もっとも絵が売れないのは、当時でも、また現在でも多くの絵描きに当てはまることだが、実家からの援助も無く、加えて少し金ができると呑んでしまったり、周りの人も一緒に飲み食いをしてしまう生活態度である。晩年は金が無く、服装は汚く、金を得る為に絵を押し売りのようにして売っていた画家の姿が描かれている。

この小説では長谷川利行は本名で登場する。主人公は図案デザイナーの五味昌助。実在する人かはわからないが、著者の矢野文夫(長谷川と親交があった)の体験を五味に仮託して小説仕立てにしているような気もする。
五味も無頼で、酒が好きで飲んだくれて女と同棲するような男だが、長谷川の才能は買っている。お互いに金が出来ては、その日の内に呑んでしまうような生活をしている。

なお、著者の矢野文夫は詩人で絵も書き、新聞記者にもなり、晩年は美術雑誌の編集も手がけている。小説の中の長谷川の人となりは、飲んだくれの中に純なところがあるように書いている。時に長谷川の実績を知っている医者などが登場し、絵を買うが、一度、買って貰うと押し売りのように出向いて、絵を買ってくれるまで黙って座っているような生活をする。

晩年は本人は胃潰瘍と思っていたようだが、胃ガンで衰弱して三河島の救世軍宿泊所から養育院の病院で亡くなる。この時に五味が見舞いに行った時の描写も長谷川の無念さが伝わってくる凄まじいものである。なお、病院の規則で身よりのない病人が亡くなると、所持品も燃やされることになっていて、長谷川が大事にしていた作品やスケッチブックがはいった行李も燃やされてしまう。

晩年には高崎という男が画商天城として登場する。長谷川の才能は買っているのだが、軟禁状態で絵を画かせて、展覧会をして儲けるような人物である。長谷川の絵の価格を上げるという情熱も持っており、本当の悪人ではないように描写されている。

この小説の中の長谷川利行の人物像が、小説とは言え、事実であると認識されて、美術の評伝などに引用されているようだ。

なお表題の「放水路落日」の意味は読了してもわからない。本文の中に放水路が出ていたのかもしれないが、まったく印象に残っていない。

「怪しい戦国史」本郷和人 著

歴史学者にしてやや軽い文章を書き、TVにも出演している本郷氏の著作である。産経新聞に連載中の「本郷和人の日本史ナナメ読み」から加筆、修正したものである。だから読みやすいが、一話ごとにテーマが異なる。新聞連載とのことで文字数が限られているから、中には連続して二話にわたるものもある。
それら小話を大きく7つの章に分けているが、章と中味の関連が薄いものもあるが、なかなかに興味深い逸話も紹介されている。

これは本郷氏の独創ではないが、戦国当時の領地石高から、戦国武将の動員力を推計し、それから古くから伝わる物語の中の兵力を検証している。百石について3人~5人の兵役義務が通常だったようだ。だから1万石なら300~500人の動員兵力が妥当となる。これから川中島に動員された兵力などが検証できる。

また当時は大名に属する家臣が一家として自分の郎党を連れて戦いに出向く。すなわち自分は馬に乗っての騎乗の武士、郎党には鉄砲、槍などを持たせての参戦。だから、それを鉄砲部隊、槍部隊という兵種別の編成に引き離されるのは難しかったことになる。戦国大名自身が旗本として、それら要員を抱えれば兵種別部隊は可能となる。

秀吉は軍の行軍速度で山崎・天王山の戦い、賤ヶ岳の戦いで勝ってきたが、小牧長久手の戦いでは失敗した。
福島正則は暴れ者というだけのイメージは違うのではと提起している。秀吉も武辺一辺倒では評価しない武将である。親戚ということもあるが、それなりに能力が高かったのではないかと推測している。

最近、歴史学で言われはじめていることに対しても著者なりにコメントしている。関ヶ原後も大坂の陣までは、公儀は家康と秀頼の2つという説はとらない。また織田信長は普通の戦国大名の一人という最近の風潮も違うと述べている。

家康が信康の遺児の家(2児の内、姉は登久姫は小笠原秀政に、妹の熊姫は本多忠政に嫁がせる)を大事にした例から、信康を信長の命で殺したことに悲しみを感じていたと述べている。また自分の娘の婚家を大事にした事例(奥平家、池田家)などを紹介している。

徳川家康は文化面で各地から古書を集めたりして貢献している。著者が専門にした「吾妻鏡」も後北条家→黒田家→徳川家と考えられてきたが、家康が全国から集めたことがわかってきている。

藤堂高虎は家康に信頼された武将だが、その信頼度がわかるものとして上野東照宮にある三所大権現の絵に家康、天海、藤堂高虎が描かれているとのこと。

花押は実名の代わりに用いたもので、実名+花押というものはない。