「お殿様の人事異動」安藤優一郎著

 江戸時代の国替え、幕閣内の出世レースを具体例で記述している。面白い本であった。
 まずはじめに徳川家康の関東転封が取り上げられている。早い段階で情報のリークがあったようである。家康に限らず大名は国替えに応じることで、家臣(=国人領主)を従来の領地から離れさすこと(弱体化)ができるわけで、それは大名にとってのメリットであった。秀吉は家康家臣の井伊直政を上州箕輪12万石、榊原康政の上州館林10万石、本多忠勝の上総大多喜10万石も指示していた。
 上杉景勝は会津転封時にその年の年貢米を持っていってしまい、代わりに越後に入った堀家がこれを恨み、家康に上杉家謀反との告げ口をしたとのことだ。このような問題は黒田家と細川家の間でも細川家が豊後中津に転じた時にも生じ、両家は長く反目した。

 関ヶ原後の国替えは凄いもので、改易が88家、416万1048石、減封も5家で208万2790石、豊臣家の分も含めると当時の日本全国の石高の約40%の780万石が対象になった。

 江戸時代当初の国替えは対大坂城用の戦略的包囲網の中で行われる。跡継ぎが幼少で重要拠点を任せられないとなったのは姫路城である。幕府の法度違反の国替えもある。4代将軍の時代になると改易は減る。

、常陸磐城藩、老中になるための関東、東海への国替え、三藩同時の国替えの事例として庄内藩、長岡藩、川越藩のことと、最後は明治維新時の国替えの例まで記している。

 幕府の要職は老中、若年寄、それに町奉行である。奏者番(儀式の時の取り次ぎ役)から寺社奉行、それから大坂城代、京都所司代になり、老中就任が一般的である。
若年寄は奏者番、寺社奉行から昇格する。
 旗本は町奉行がトップで、御番入りとして番組に入り、目付役になり、遠国奉行になる。長崎、京都、大坂は別格である。そして勘定奉行になり、その後町奉行である。
 大岡越前守忠相の事例や長谷川平蔵の火付盗賊改役の事例も紹介している。平蔵は人足寄場を作った時は自身の持ちだしも多くあった。その分、庶民からの評判も良かったが、同僚や上からの嫉妬もあり、町奉行になれなかったようだ。また平蔵は役目の費用を捻出するために、銭相場で儲けたりしている。公の為とは言え、こういうことも反感をもたれた。
 大岡越前守も嫉妬に悩まされながら徳川吉宗の信頼で、大名まで出世している。

 国替えは突然に発令され、拒否できないから大変だった。参勤交代の費用も馬鹿にならないが、国替えの費用はその比ではない。
延享4年の磐城平藩から日向延岡藩を例にした研究書から記述している。対象となる藩の江戸留守居役が中心となり、幕閣とも打ち合わせて進めていく。行政書類の引き渡しだけでなく、城(武器も含めて)や藩士の家の修理も行い、きちんと引き渡す必要がある。藩士の家財の引っ越し費用は藩から出るも、それだけでは足らず、また引っ越し作業も大変である。引っ越し時に家財を売る藩士も多く、それを目当てに安く買い叩こうと商人が入ってくる。
 転封先での石高が減少すればリストラも必要になる。江戸時代の後期になると各大名家も手元不如意で費用の捻出も大変になる。すでに国元で領民から御用金を集めていたり、様々な名目で借金をしていた場合は領民も反対する。百姓一揆もおこりかねない。
 また転封先に忍びの者を潜入させて実情を調べるのはどこもやった。

 松平定信は自身の権力を増す手段として辞任願いを活用した。辞任申し出→引き留められる→権力を強めて留任という手口だ。しかし老中になり聞く耳を持たなくなってきた時に、老中がこれを利用して辞任を認めてしまう。

 天保11年に幕府は庄内、長岡、川越の3藩に国替えを命じる。川越藩松平家は手元不如意で将軍家斉の子を養子に迎え入れ、転封を願う。長岡藩は新潟の奉行職も兼ねており、そこから役銀が6000両ほどあったが、薩摩藩の琉球密貿易の取締の甘さも指摘されていた。当時はどの藩も有力領民(大商人、庄屋)から借金もしており、領民は転封でそれが無になることを恐れる。領民の反対は手が込んでいるというか、今の庄内のお殿様の治世は素晴らしいから引き続きお願いしたいというような内容で反対したようだ。こういう工作や水戸藩や東北諸大名などへの根回しで庄内藩は国替えを撤回させた。
この時の国替えは水戸藩や東北諸藩の反対も取り付けて撤回に追い込まれる。

 明治維新後に徳川家は駿河、遠江の70万石に減封になり、大リストラとなる。藩士が乗って向かう船の中は地獄だった。
 新政府は庄内藩と盛岡藩に国替えを命じる。これに対してそれぞれが新政府に70万両を献金することで免れている。

「遺産 LEGACY」原作『天正遣欧使節記』原作者グィード・グワルティエリ

 天正遣欧使節団の日本出航からローマでローマ教皇に謁見して帰国するまでのことが書かれている。1586年7月に『日本遣欧使者記』として記述されたものの現代語訳である。
 通読しての感想は、この使節団がスペインでもローマでも大歓迎された様子がこれでもか、これでもかと具体的に書かれていることである。使節団の4少年の態度、挙措が優れていたことも、その一因であることがわかる。使節団の団長的な役割は伊東マンショ、次席が千々石ミゲルである。それに原マルチノ、中浦ジュリアンである。中浦ジュリアンは何度か熱を出して治療を受けていることが書かれている。歓迎されたもう一つの要因はイエズス会の力であろう。そして時代はカトリックが全盛の時代であり、スペインはフェリペⅡ世の治世で、ポルトガル国王も兼ねてスペイン帝国は「太陽の沈まぬ帝国」としての全盛期である。天正遣欧使節を迎えた後に、イギリス海軍に無敵艦隊が敗れるなど衰運の兆しが見えてくる。

第1章では日本の風俗が記されている。これはザビエル書簡などでも知られている内容である。
第2章は、使節が派遣された理由として大友宗麟、有馬晴信、大村純忠がキリシタンに帰依し、領国にも広めていた。イエズス会のヴァリニャーノ神父がローマに帰ることになり、3大名の名代として自分の親戚の少年を派遣することにした。成人よりも少年の方が厳しい旅にも耐えられるだろうとの思惑もあった。信仰も厚いし、賢くて謙遜、誠実な性格を有していた。
第3章はインドのゴアに至る航海で、第4章がゴアからポルトガルへの船旅だが、この時の艱難辛苦の様子が実に生々しく記録されている。暴風雨、一転して風の無い凪、難破しやすい浅瀬、そして海賊出現する海域と大変な旅だったのだ。当時は南蛮人が日本に渡ってきていたから、航海はそれほど難儀なことではないと思っていたが、認識を新たにした。以降の章では、スペインに着いてからの使節団への歓迎の様子が、行く先々で記録されているが、ものすごい歓迎ぶりだったことがわかる。使節団はヴァリニャーノ神父の考えだろうが、公式の謁見の時は日本の衣装を着たりしている。歓迎は遠くまでの出迎えと見送り、その隊列の仰々しさ、都へ入城した時の迎えの王侯・役人の高い身分、礼砲などと、謁見の式典、晩餐の豪華さである。そして有名な教会でのミサや、教会の聖遺物の見学などである。
 ローマ教皇に謁見し、歓迎されるが、時のローマ教皇グレゴリオ13世は使節を歓迎後に逝去され、次のローマ教皇シスト5世が選出される時に立ち会うという経験もする。

「司馬遼太郎全集27 世に棲む日日」司馬遼太郎著

 司馬遼太郎全集をコロナ禍の中、第1巻から再読しているが、全集の24,25,26は『坂の上の雲』であり、これは以前に再読したことがあるから、次の27巻を読む。
 前半が吉田松陰のことで、この部分にも高杉晋作のことが書かれるが、後半が高杉晋作の事績である。司馬遼太郎の言葉で言うと、革命の初動期は詩人的な予言者が現れ、偏癖の言動をとって世から追い詰められて、非業に倒れる。これが吉田松陰である。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。この危険な事業家も多くは死ぬ。これが高杉晋作である。それらの果実を採って、先駆者の理想を容赦なく捨て、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが処理家の仕事である。伊藤博文や井上馨などの元勲となる。

 吉田松陰は不思議な若者である。清澄という感じで、その当時の世の中においては激越な思想を展開する。佐久間象山のように脂ぎっていない感じで、勉強して、知識を深めるのは普通の学者であるが、彼は現実をとらえ、それを改善すべく論を唱えている。それが結果として当時の世には過激な思想になっている。松下村塾での塾生に対する影響度や牢の中で他の収容者への影響度などはたいしたものである。これも各人の現実である個性を把握する姿勢から生じているのだろうか。
 養子に入った吉田家の家学の山鹿流軍学で藩主に講義するなど藩の門閥からも好意を持たれていたのに、旅をして色々な人物と出会った影響や黒船が来航した時勢への危機感から、あのような人物が生まれたのであろうか。
 尊皇攘夷なのだが、黒船に乗船して海外に渡ろうとしたように、開国して力を付けてから異人と対等にという思想なのだ。水戸藩などの神国日本的な尊皇攘夷ではない。黒船に乗り込もうとした松陰の事績を知っているから松下村塾の塾生は尊皇攘夷を掲げながらも西洋の進んだ兵器などを取り込んで革命戦争に立ち向かったのであろうか。処刑に当たった山田浅右衛門も見事な最後と感心している。

 高杉晋作も不思議な人物だと思う。藩主への忠、親への孝が基本にある中での無鉄砲さである。勉学もでき、剣術もある程度はできた人物であるが、上海に派遣され、西洋勢力の強大さ、それに屈服したシナの状況を現実に見たことが大きな影響を与えたのだと思う。 革命という事業で必要な仕事を次から次へとこなしていく。そして仕事が終了後に小成に安んじることなく、栄達をはかることなく、一線から退き、また彼が必要となったときに登場して、困難な仕事をこなしていく。時代が生んだ天才としか言いようがない。
 ここで井上聞多(維新後馨)と伊藤博文、山県狂介(維新後有朋)の活躍も描かれているが、さすがに維新の元勲になっただけのことはある。司馬遼太郎は山県などは好みでないから筆は好意的ではないが、それなりの人物と思う。乃木希典の従兄弟の御堀耕助(太田市之進、長州報告隊総督)の展開したゲリラ戦のことも書いている。
 第二次長州征伐に勝った時の高杉の活躍を書いているが、奇跡的である。ただし長州藩が海外から輸入した兵器の力などは書いていない。また大村益次郎にも触れていない。そういえば、この小説には久坂玄瑞、桂小五郎に触れている部分はごく少ない。

 明治維新の位置づけは色々な解釈があるが、高杉の武力での活躍、長州藩内の佐幕派と尊皇派の争いなどを見ると、やはり革命であったとの思いを強くする。

 小説家は物語を読むに耐えるストーリーに仕立てるのが役割だが、司馬遼太郎は人に対する好みが激しい人だと改めて感じる。

「成田街道いま昔」湯浅吉美著

 副題に「『成田参詣記』の世界をたずねる」とあるように、安政5年刊行の『成田参詣記』(成田詣の手引書)の道中と比較しながら現代の街道に残る史跡を紹介している本である。「成田山智光誌」という雑誌に59回にわたって連載されたものを、成田山選書の一冊として刊行されたものである。こういう背景があるから、著者も旧道を楽しみながら、寄り道をされながら記されている。

 江戸では深川不動堂と成田は結びつきが強く、元禄16年に初の江戸出開帳があったとの記録がある。市川團十郎の出身地が成田近辺で、成田山に願をかけて子宝を得たことから江戸で人気になる。
 江戸時代後期は成田山参詣に限らず、伊勢や富士山などの参拝にことよせた旅行が盛んになった時代であり、その流れの中で『成田参詣記』が佐原の清宮秀堅によって執筆された(この本はこれまでは中路定俊、定得父子の著作とされていたのを、著者湯浅氏が清宮秀堅であることを突き止めたのである)。

 昔は深川から行徳への船便が盛んで、これを利用する方が江戸の庶民が参詣するには便利だったようだ。日本橋から陸路で出向くと、隅田川を両国橋で渡るのは問題ないが、中川を逆井の渡しで越え、今井の渡しで江戸川を渡り行徳に出て、八幡に向かうか、小岩・市川の渡しで江戸川を越えて八幡に向かうであった。小岩・市川の関所は結構厳しく、庶民は行徳道を好んだ。もっとも行徳に向かうのならば、日本橋小網町か、深川で行徳行きの船に乗り、小名木川、中川、新川を経由して江戸川を渡るのが簡単であった。最盛期には60艘以上が運航していたようだ。

 八幡から先は一本道で、国道14号沿いに船橋に至り、ここから国道296号(今も成田街道と通称)で八千代や佐倉を通って酒々井に出て成田というルートである。酒々井では千葉から来る街道(国道51号)と合流する。

 以降はルート上を『成田参詣記』の記述と現在を対比、紹介しながらの道中記となる。純粋にルート上というよりはルート近辺の史跡を幅広く紹介している。観光案内でもあるから当然なのだが。

 私が初めて知るような史跡も多く紹介されていた。昔の栗原本郷村(今の西船橋)に多聞寺(一名、毘沙門堂)があり、この辺りが二子が浦という海岸であり、ここが日蓮が富木常忍の船で鎌倉に船出した浜であるっことを知る。

 また船橋は宿駅で、当然に女郎がいて、参詣客はここが楽しみだったことも書かれている。成田参りに夫婦でお参りしてはいけないという俗信は、この楽しみの為だったと記する。

 船橋から酒々井までの成田道(296号線)の両側は関東ローム層で酸性土壌で水利も悪く、広大な馬牧が幕府直轄で営まれていた。今でも野馬土手の痕跡(新京成の滝不動駅の近くに400㍍)があるとのこと。所々に柵を設けて木戸があり、その名残が高根木戸である。
 薬園台は、文字通りに幕府が本草学者丹羽正伯に命じて30万坪の下総薬園があった。

 知られていない臼井城の歴史や、印旛沼干拓史、そして佐倉城下の史跡を巡る。義民佐倉宗吾のことに触れて、成田山の案内で終わる。

「落ちる!そこから”第二の人生”が始まった」新谷直慧 著

 私は著者とは知り合いである。その前提での書評である。この本は新谷直惠さんの自伝でもある。
 私は新谷さんが最初に社会人として勤めた会社の同僚(入社は私の方が1年後輩だが)である。彼女は3年で辞めたと書いてあるが、私は13年在籍して独立した。彼女の御父上は存じ上げないが、御母上や御令妹にはお目にかかったことがある。そして私が独立した後に、新谷さんからの紹介の仕事をさせていただいたことがある。以降、年賀状のやりとりは続き、この本もその縁で紹介されたものである。
 小柄な人で、私が”感性の人”と初めて称したと思うが、感覚が独特で、それが乾いているように感じる人だ。湿気を含む感情とは別物の感性だ。
 自分が行くと感じた道をためらいもなく、そして意気込まずに進んでいくような人だ。この本にも、そのような生き方が表されている。普通の人なら悩み、考え込むような人生の転機にも、来た運命を大仰に考えずに受け入れるように歩んでいく。

 自伝的なエピソードに出てくる彼女の時々の仕事は、折りに触れて存じ上げているが、この本に書かれているようなことまでは知らなかった。
 普通の人なら、絶望し、戸惑い、思い悩む転機を、”落ちる”と表現しているのだと思うが、彼女はそれも運命として、進んでいく。まさに「落ちる!そこから”第二の人生”が始まった」である。

 彼女は編集者が本業であるが、彼女の好む人物、惹かれる人物、興味を持つ事象は、普通の人は”ちょっと”と思うようなことも多い。カリスマ的指導者の話も出てくるが、普遍的な評価とは違う。ヨガ、瞑想などはともかくとして、前世への関心などが、そのように該当する。こういうものへの関心が来た運命を受け入れる素地にもなっているのだろう。最後の方に縄文時代に心酔する人との対談があるが、縄文時代を買いかぶっているところがある。
 ただ、私のこのような批判も彼女は気にしない。私は私。それが新谷直恵だ。

「関ヶ原大乱、本当の勝者」日本史史料研究会 監修 白峰旬編著

 今に伝わる関ヶ原の戦いは、本当の史実かどうかわからないエピソードに満ちており、それを見直したいとのことで、研究会所属の諸氏が分担執筆している本である。
終章は近衛前久の日記の分析で、12章は当時のそれぞれの武将の戦いを取り上げ、検証している。通説とは違う史実だけを述べているわけではなく、従来からの通説を史料で実証しているところもあり、世間受けを狙った本ではない。分担執筆だが、武将一人一人ごとの分担執筆であり、読みにくくはない。

 徳川家康は、大坂の陣はともかくとして律儀者との世評が高いが、秀吉没後から、ずば抜けた野心と先進性を発揮していると書く。先進性とはスペイン領のルソンとメキシコを結ぶ通商圏の構築や鉱物精錬技術(アマルガム法)の導入を図っていたことなどである。後世の幕閣の中には「鎖国は祖法」と言っていたが。野心の方は諸大名との縁組みや大老衆(前田利長、上杉景勝)の追い落としである。

 上杉景勝の章では神指原の築城は対徳川のものではなく、そもそも本拠を会津若松からここに移す計画であったとする。直江状に関しては、直江兼続と西笑承兌の間に書簡があった存在は確かだが、内容は家康の挑戦状といえるものではなく、上洛が困難なことを述べている内容である。そして豊臣政権に反逆の意思がないことを、「内府ちがいの条々」で表明して、北奥羽、越後、常陸への政治工作を強め、伊達、最上氏を屈服させたうえで徳川家康に圧力をかけることを意図したとしている。

 伊達政宗は家康派だが石田三成と没交渉ではない。家康方の浅野長政と仲が良くなく、当時の人間関係が徳川方、石田方の2つではなかった。家康からの百万石のお墨付きは確かにあったが、これは戦国の常識の「自力次第」の結果次第であり、そこまでは占拠しておらず仕方がない。戦後、秀頼の身を案じていたと記されている。

 最上義光は愛娘を豊臣秀次に嫁がせて、秀次事件で殺されており、豊臣政権から心が離れつつあった。最終的には直江軍を破り、庄内を手に入れている。伊達政宗の母は最上義光の母(ただし政宗の弟の方を愛し、政宗を毒殺しようとしたと知られているが、これも創作の疑いが強い)であり、伊達家との関係をよくするように心がけていた。

 毛利輝元は長く実子ができずに、いとこの秀元を養子にすることを秀吉に認めてもらう。しかし実子秀就が生まれ、秀元をどうするかが課題となる。そのために三成に接近する。
 関ヶ原時には蜂須賀家の阿波徳島を占拠する。伊予にも軍勢を送り込む。九州北部にも改易されていた大友吉統を支持して介入するなど当時の戦国武将らしい野心家である。
 戦後は黒田長政、井伊直政に取りなしを頼むが、かなわなかった。吉川広家へは徳川方は莫大な恩賞を示して毛利家の切り崩しをしている。切り崩された吉川広家を忠臣、安国寺恵瓊を悪役にするストーリーは江戸期に吉川家が広める。

 石田三成は当初は尾張を核とした決戦構想をもっていた。次に濃尾国境の決戦を画すが、東軍の進撃が早く岐阜城が落ち、大垣城近辺の決戦を考えるが、家康が大垣を通り過ぎて京都に向かうとの情報で関ヶ原に迎え撃つ。

 宇喜多秀家は秀吉没後に家臣団が分裂して力を削がれる。慶長4年の冬から翌年の家中の騒動は家康が出ておさめる。この夏に再び家臣が離れる。そしてキリシタンの明石掃部が登用されて、伊勢方面の戦いに出てから関ヶ原に向かう。関ヶ原の戦いの詳細は不明だが、戦場を離脱して薩摩で隠れ、その後八丈島に流される。明石掃部はキリスト教徒の黒田長政の説得で救出される。

大谷吉継はどう戦ったかはわからない。小早川ははじめから敵で、後ろに回られ、前は藤堂高虎だし、小早川と同時に横から脇坂安治、小川祐忠に攻められ序盤で壊滅したのではなかろうか。吉継の首を隠したという湯浅五助は関東浪人で馬の世話をする新参の小者。大谷浪人は仕官がしやすかったとあるが、どうしてだろうか。                            
 前田利長は人質として母を江戸に出して家康に屈服とされているが、大坂に母と自分の妻を実質は人質として置いていたから、それが江戸に替わり、妻は戻るわけだから悪い条件ではない。大聖寺城を落とした後に兵を引いたのは、越後の一揆討伐を救援するため。関ヶ原後に西軍についた弟の所領が加わり、石高は増えたが、豊臣家の大老からの政治的地位は大きく低下。

 長宗我部盛親は元親の4男で家督を継いだので、お家騒動がある。豊臣政権下では官位ももらえず、冷遇されていた。本来は家康と近い。使者が道をふさがれ、徳川に付けなかったので西軍になると伝わるが、このあたりの真相は書かれていない。関ヶ原では毛利勢の後ろに陣取った為に、毛利軍が動かないからそのまま敗戦。
 家康が赦免の使者を出し、上洛したが、国元で反乱(浦戸一揆)が起き、それで再興できず。

 鍋島勝茂の父の鍋島直茂は勇将で龍造寺隆信を補佐して戦う。隆信亡きあとは遺児政家(器量に乏しい)をもり立てる。朝鮮の役にも龍造寺軍を率いて奮戦。家康とは親交があり、関ヶ原の時に父直茂は家康と同行を望むが、家康から国元にいることを命じられ、代わりに息子勝茂が龍造寺隆信の遺児高房(15歳)を大将にして参戦。途中でどういう経緯かはわからないが秀頼公の為にと西軍になる。父も九州でやむなく西軍として消極的に戦う。勝茂は関ヶ原の前に伊勢の東軍を攻め、関ヶ原時はその東軍の押さえとして伊勢にいた。関ヶ原後に謹慎した。黒田長政、井伊直政、元佶長老(肥前小城の出身で足利学校の庠主(しようしゆ)→家康の軍師の一人)の取りなしで、立花攻めを申し付けられる。父直茂とともに、黒田長政と加藤清正と一緒に立花宗茂を攻める。竜造寺家に替わって鍋島家が佐賀藩主となる。

 これは本に書いておらず、私の推測だが、関ヶ原後に九州の西軍大名(島津、鍋島、立花)には処置が甘いのは、九州まで攻撃に行く手間との関係ではなかろうか。その分、九州で暴れた黒田如水の功績が薄められたのだろうか。

 小早川秀秋はねねの兄木下家定の子。小早川家の養子になる。慶長の役で働きが悪く、秀吉から所領を没収され越前北庄に配置替え。19歳で補佐したのは稲葉正成、平岡頼勝の重臣。前日に家康に起請文を出しており、開戦と同時に東軍について戦う。ぐずぐずしていて家康から問鉄砲を放たれたというのは嘘。

 黒田長政は戦いだけでなく調略で貢献。毛利輝元、吉川広家を味方にする。小早川秀秋にも説得。当時は中津で約13万石だが大幅に加増。

 井伊直政は関ヶ原の時の軍監であり、事前に福島正則に先陣を譲るように交渉し、家康の子の松平忠吉と戦の火ぶたを切ったのではなかろうか。抜け駆け説は違うとする。

 最後に近衛前久の書簡を紹介している。山中(これも地名)と関ヶ原での戦いがあり、山中(宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、石田三成)が主戦場だった。
 関ヶ原は小早川秀秋が戦った場所で、島津が撤退の時に戦った場所。小早川秀秋は松尾山ではなく、関ヶ原に大谷隊と一緒にいた。

「司馬遼太郎全集23 殉死」司馬遼太郎著

 乃木希典のことを書いたものである。小説なのだろうが伝記的、それも少し悪意のある伝記とも読める。乃木を戦前の軍国主義、天皇至上主義の象徴とも捉えて、それに対する司馬遼太郎の反発も籠めているのだろうか。
 章は大きく2つに分けられている。「要塞」と「腹を切ること」である。
 冒頭に乃木家が仕えた長府毛利家の上屋敷が今の港区麻布北日ヶ窪町にあったことを記し、ここは地名からわかるように日当たりが良くないこと、そして事を成した赤穂浪士の内、武林唯七らの10人が腹を切ったという故事を書く。そして武林唯七は中国人を先祖に持ち、漢詩が得意だったことを書いていく。作者は乃木の詩才については評価しており、それを暗示させるようなエピソードの紹介である。
乃木は18歳で戊辰戦争に参加して豊前に出戦。負傷して藩校明倫館文学寮に入る。従兄弟の御堀耕助(太田市之進、長州報告隊総督)に誘われて軍人に進む。吉田松陰の師匠で叔父にあたる玉木文之進は乃木家にも濃い親戚にあたる。御堀は明治4年に逝去するが、死の直前に薩摩の黒田清隆に23歳の乃木を紹介し、陸軍入りを頼む。そしていきなり少佐で任官する。
 明治8年に熊本鎮台歩兵第14連隊の連隊長心得に任じられ、2年後に西南ノ役が起こる。植木方面の戦いで負け、軍旗を奪われる。乃木はこれに責任を強く感じて負傷して入院していた病院から抜け出して久留米の戦いに加わる。
 この戦い後に中佐になる。周りは乃木の心痛からの自殺を心配する。以降も長州閥の軍人として出世するが、児玉源太郎の軍と乃木の軍が演習で戦うことがあり、この時は児玉が勝ち、「乃木は戦が下手だ」と言ったことを紹介している。このようなエピソードから司馬遼太郎は乃木の戦下手を印象づけていく。
 30歳で薩摩藩の湯地家の娘お七(後に静子)を嫁にもらう。湯地家の定基は後に元老院議官、貴族院議員になる。当時の乃木の副官伊瀬地好成大尉(薩摩)が縁談を進める。なお乃木は結婚後も料亭で毎晩遊ぶような生活を続けていた。
 明治18年37歳時に陸軍少将になり、翌年ドイツに薩摩の川上操六(日清戦争までの天才的戦術家)と一緒に留学する。留学後にガラッと生き方が変わりストイックなきまじめな軍人となる。司馬遼太郎はドイツでは兵学ではなく、軍人のあり方を学んだと書く。
 明治27年に日清戦争に従軍し、中将となり男爵となる。明治34年から37年まで休職となり那須の別荘で暮らす。
 明治37年に日露戦争が始まる。第一軍は鴨緑江北上作戦で薩摩の黒木為楨、第二軍は小倉の奥保鞏が司令官となる。陸軍の作戦構想に、当初は旅順攻略は無かったが、海軍の要請で取り上げられる。日清戦争時に乃木は旅順近辺に出向いて知っているとのことで選ばれる。
 旅順、203高地の激戦は承知の通りである。乃木、参謀長伊地知幸介が無能で多大の死傷者を出したことを司馬遼太郎は書くが内容は割愛する。ここで乃木は長男勝典、次男の保典を失う。
 私は乃木、伊地知の無能のせいというよりは、当時の陸軍全体の要塞に対する認識不足が苦戦の原因と思う。

「腹を切ること」の章では妻の静子のことを書く。姑に苦労したこと、長男の勝典は士官学校に入学したが、軍人は好まず、静子もそれを手助けしようとしたことが書かれている。また保典は明るくて淡泊な子として静子はいとおしみ、その死を勝典以上に嘆いたと伝わる。
 ここで乃木は日本における陽明学の学徒につながる一人(吉田松陰と玉木文之進から)として記述が始まる。乃木は山鹿素行の「中朝事実」を愛読したようだ。明治天皇に恩を感じ、忠誠を尽くし、天皇も乃木を愛したことの逸話を数多く紹介していく。明治天皇の意向も入り、日露戦後に学習院の院長になり、昭和天皇の教育を担当する。学習院の生徒からは煙たがられたと書く。
 明治天皇が崩御される。乃木は毎日弔問に来ていた。そして大葬に参列後に自宅で切腹し、妻も死ぬ。妻は当初は死ぬつもりはなかったといような日常を書き、一緒に殉死に至る過程も書いていく。自決の場面として、妻が短刀で3度突き刺し、3度めは乃木が手伝いとどめをさし、その衣服を整えたと想像している。その後、乃木は十文字腹を切り、軍刀の柄を畳の上におき、刃を両手でもって、上体を倒して喉を貫いた。
 この報は日本だけでなく、世界に広がり、その中世的な死に世界は驚き、賞賛した。
ともかく乃木希典は劇的な人生で、姿勢が美しい人物という印象を持つ。軍事に無能という司馬史観の是非はおいて、昔の日本人の生き方の一典型という感を持つ。

「コレクター福富太郎の眼」於東京ステーションギャラリー

 昭和のキャバレー王と言われた福富太郎は絵画のコレクターとしても名高い。この展覧会は彼が集めた絵画を展示している。
 職業の影響と思われるが、女性を描いた絵が多い。それも心中をしようとするような女性や、寂しげなというか儚げに狂っている女性を描いた絵など、ただ単純に女性の魅力を描いたものではない絵に、コレクションの特色があり、心打つものが多い。

 第1室は「コレクションのはじまり鏑木清方との出逢い」である。彼は鏑木清方の大コレクターで、画家本人とも親交があったことが紹介されている。常に見る鏑木清方の作品は浮世絵の女性を日本画で再現したような絵が多いが、ここでは「刺青の女」や、「妖魚」という人魚を描いた屏風など、独特の作品が展示されている。「薄雪」は男女の心中物だろうか。

 次に「女性像へのまなざし 東の作家」として菊池容斎、渡辺省亭、池田輝方、池田蕉園や竹下夢二、伊東深水などの作品が展示されている。鏑木清方の師や弟子にあたる作家が多い。
 菊池、渡辺がそれぞれに描いた「塩治高貞妻浴後図」が展示されている。風呂を覗き見されているエロティックな絵だが、描かれた女性の気高い印象がそれを中和している。池田輝方の「お夏狂乱」は心中物、松本華羊の「殉教(伴天連お春)」なども儚くて美しい。また伊東春水の作品「戸外は春雨」(こんな名前だったかは確信が持てないのだが)は絵巻物にストリップ小屋の楽屋の状況を描いたドガのような作品であり、福富太郎のキャバレーの開店前を彷彿とさせる。

「女性像へのまなざし 西の作家」では上村松園や北野恒富、島成園に甲斐庄楠音だ。松園の作品は「よそほい」と言うもので、着物を着付けている絵である。北野恒富の「道行」は心中物で寂しく儚く妖しい。甲斐庄楠音の女性の顔は常の絵と例によって何か気持ちの悪い絵である。

 「時代を映す絵画 黎明期の洋画」として、幕末、明治の画家、高橋由一、山本芳翠、川村清雄、五姓田義松やチャールズ・ワーグマン、ビゴーなどの作品である。女性の絵に限らない。

 「時代を映す絵画 江戸から東京へ」に岡田三郎助や吉田博、萬鉄五郎、岸田劉生、佐伯祐三、村山槐多、小磯良平などの作品である。吉田博の水彩画「朝霧」などいいものだ。また岸田劉生の「南禅寺疎水附近」は、あの有名な重要文化財「切通しの写生」と同様のむき出しの土を描いている。

 村山槐多の「婦人像」は水彩の小さな作品だが、力というか訴えてくるものがある女性像だ。この作品の額縁が、私が所蔵している長谷川利行の「少年像」が入れてある額縁と同様の作りであることを発見した。同じ美術商(羽黒洞木村東介と推測している)か同じコレクターの元にあったものだと思う。この村山の作品の解説に福富太郎が、どこかの結婚式で、この絵を所有・愛惜していた人物に出会ったエピソードが記してあるが、この絵の元の所有者が長谷川利行の作品も所蔵されて同じ額縁を作らせたのだろうかと想像してしまった。

 それから戦争画のコレクションが「時代を映す絵画」として展観されていた。また特別出品として、今は福富太郎コレクションから流出している作品もあった。
 向井潤吉の「影(蘇州上空にて)」は以前に東京都近代美術館で見た時に感激した作品である。戦争画の範疇なのだろうが、戦後の農家シリーズよりも断然いいものだ。飛行機の大きな影が、時代を覆う影なのだろう。
 また岡田三郎助の「あやめの衣」はアヤメの模様の紺の着物を着た女性の後ろ姿を描いた名作だ。満谷国四郎の「軍人の妻」も襟を正させて名作である。

「兵器と戦術の日本史」金子常規 著

この本は知人から借用したものだ。知人が「古戦場を巡るツアー」に参加したと聞いたので様子を伺いに行った時に、このツアーに同行された人が歴史、古戦場に非常に詳しく、その方に紹介されたとのことであった。
 古戦場とか古城に出向く時があるが、往古を想像することは難しい。新たな建物が周囲に建っていることもあれば、植栽の成長度合い、河川、道路などの改修で、わからないことが大半だ。詳しい人やガイドと同行するのが望ましいと思う。

 それはさておき、この本は興味深かった。著者は軍人出身で自衛隊に奉職した人であり、現在の日本の防衛に役立つような視点でまとめられている。刀の歴史に参考になる話は少ない 。
 章は「倭歩兵の興隆と衰退(海北400年戦争)」「律令徴兵歩兵の誕生と終末(蝦夷百年戦争)」「少数精鋭騎兵の勝利(覇権武士に移る)」「突撃騎兵と矛歩兵衝突す(元寇)」「歩兵台頭す(元弘・南北朝の乱)」「足軽歩兵地位を確立す(応仁より天下統一へ)」「陸の鉄砲・海の大砲(朝鮮の役)」「洋式近代軍の勝利(幕末・戊辰戦争)」「太政官徴兵軍勝利す(西南戦争)」「日本帝国軍の盛衰(日露より大東亜へ)」の10章に分かれている。

 古代の朝鮮を巡る戦いの記述は初めて知る内容が多く興味深いが本当かなとも思う。邪馬台国の時代から倭人は日本と朝鮮に住んでいて、鉄の産地であった弁韓(任那)の支配を巡って新羅と争っていたとする。鉄矛盾の歩兵が倭を建国し、日本列島を統一する。次に鉄短甲と長槍が出現して崇神、応神天皇が海北(任那)を回復する。その過程で新羅が熊襲を支援したり、磐井の乱などで後方の攪乱工作を行ったと言う。
 高句麗の好太王は挂甲矛騎兵を中心とする軍団で、それには負ける。日本は馬が後進国、そして船での馬の輸送に難があり、騎兵は強化できなかった。倭の水軍も唐の大型水軍に白村江の戦いで負ける。
 その後、日本国内の新羅派(片や百済派)工作が功を奏して、新羅派の天武天皇の時代には海北の奪還をあきらめる。

 律令期は徴兵歩兵で蝦夷征伐を行う。この時は弓のほかに弩もあったとされる。弩は秦の始皇帝の統一時以来の武器で、弓よりも習熟が易しいのだが、日本でどうして廃れたのかと疑問に思っているのだが、この書に回答はない。藤原広嗣の乱の時は弩が威力を発揮したとある。
 なお徴兵による大衆歩兵は戦力になりにくいことが課題と書く(2次大戦における徴兵と同様)。その後、北関東の騎兵の力が認識される。また蝦夷のゲリラ戦に苦労するが、これは朝廷が現地に出向かずに指示した弊害と書く。その後俘囚騎兵も東北平定に活躍する。
 平将門は騎馬武者の数は少なかったが、盾を利用した歩兵の弓も協力して戦う。将門の騎馬戦は性能の良い鎧兜での突撃騎兵に弓の盾歩兵の助力で勝つが、藤原秀郷が将門が歩兵無しで突撃した時に弓騎兵で倒す。この基幹兵力であった東国源氏(弓騎兵)が次代の覇者となる。

「少数精鋭騎兵の勝利(覇権武士に移る)」では頼朝の軍事指導はことごとく失敗していて関東武士は頼朝の軍事能力には信頼を置いていなかったとする。一方、義経の戦法(大将が先頭に立って少数集団で突入)は鎌倉武士に不評だった。一騎打ち、個人プレーで敵の首を取るのが鎌倉武士であり、一族・一党で戦うのを好んだ。良馬を養い、優良な甲冑を着て、弓、太刀打ち、組み討ちの戦技を練ればいい。義経が屋島の戦いで行ったような少数の基幹兵力で渡海して現地兵力で征討すると、鎌倉武士の手柄が奪われるわけだ。義経には所領が無く、郎党もいなかったから仕方が無い面もある。
 奥州藤原氏は義経を立てて旗頭にして、頼朝軍を奥地に誘い込み、兵糧攻めにすれば良かったのだが、平泉の栄華の中で精強を忘れて、頼朝に滅ぼされる。

 承久の乱は、後鳥羽上皇の周りの文民が軍を統帥したことで、戦略・戦術を間違えたことが上皇方の敗因である。

「歩兵台頭す(元弘・南北朝の乱)」では楠木正成が工夫して活躍する様子を記述する。鎌倉の騎兵を城塞で食い止め、ゲリラ戦に持ち込む。しかし最高指揮官を朝廷にしたために、現場の策が用いられずに、足利尊氏に負ける。

 「足軽歩兵地位を確立す(応仁より天下統一へ)」に長篠の陣の記述があるが、これは武田側が攻撃してこないと不発に終わる戦いだった。武田の騎歩チームが強力だったが、信長は木柵を急設し、鉄砲の威力を城塞戦と同様にした。武田にとって木柵と大量の鉄砲は誤算。強兵なるがゆえに信玄は慎重だが、勝頼は未熟で強兵に驕慢となる。
信長、秀吉は長槍足軽を活用した。その士卒共存時に秀吉は足軽出身であり、足軽軍団の士気が高まる。だから秀吉は足軽・武士を基盤に新政権を開くべきだったのに、朝家摂関の権威で政権を運営したことが失敗であった。
 家康の東国政権は武田家を見習うように騎兵重視策=武士重視を採ったので、足軽軽視になってしまった。騎歩チームでの戦いは武士の損耗が大きく、馬も銃弾に弱い欠点がある。鎖国と長く続いた封建制度で幕末まで存続しただけである。

「陸の鉄砲・海の大砲(朝鮮の役)」では、戦国時代に発達した日本の鉄砲の威力と、戦国武将の能力で朝鮮軍を圧倒したが、秀吉に現地の状況が正確に伝わらず(この時はボケていたこともあろう)、戦略的な勝利を納められなかった。海では亀甲船で大敗したが、この苦戦で大砲の価値を知り、大坂の役で攻城に役立てたとする。

「洋式近代軍の勝利(幕末・戊辰戦争)」は火縄銃とゲベール銃(滑腔燧式式)とミニエー銃(施条銃砲)の差。それに散兵戦術に戦国以来の大将中心の軍隊が負ける。

「太政官徴兵軍勝利す(西南戦争)」では、突撃能力では劣る徴兵の官軍が、銃砲、実弾の量の消耗戦で勝ったことが記される。

「日本帝国軍の盛衰(日露より大東亜へ)」では、旅順を墜としたのは、敵陣の側背に移動させて攻撃したことでロシア軍が脅威を感じて退却した為とする。
 なお著者には「兵器と戦術の世界史」の著作もあり、近代戦はそこに詳しいようだ。
 ノモンハンでは戦車にやられたが、ソ連の戦車はガソリン瓶攻撃で炎上。それで肉薄攻撃が対戦車戦法となり、対米戦で悲惨な目にあう。
 
 今の時代は武士を蔑視した律令摂関末期や、足軽の地位を貶めた徳川幕府末期と似ているのではなかろうか。そして米国軍事力の傘での安保体制で大丈夫なのかと警告している。防衛は観念論ではなく、現実を常に直視して対策が必要。著者はミサイル砲兵が大事と述べている。

「家訓で読む戦国時代」 小和田哲男 著

鎌倉時代の北条泰時が定めた御成敗式目が我が国最初の武家法。この後に鎌倉中期に宇都宮家式条、宗像氏事書が制定される。これらの延長上に戦国家法がある。
条文全てが確認されている戦国家法は9種類ある。これは領国の法だが、他に家訓と呼ばれるものがある。家法が「法規範」に対し、家訓は「道徳的規範」になっていることが多い。また家訓に類したものとして武辺咄と遺言状(置文)がある。
領国だけに通ずる家法があるということは室町幕府の本での領国ではなく、戦国大名そのものが勝ち取った領国を示す。
また戦国家法は、領主と武将との相互契約という意味合いもあった。「六角氏式目」や「相良氏法度」に見られる。領主の専断を防ぐ意味も持つ。
家訓として代表的なのは「朝倉孝景条々」(朝倉敏景十七箇条)や「早雲寺殿二十一箇条」や武田信繁の「古典厩より子息長老エ異見九十九箇条之事」などがある。
著者は内容を「耳の痛い話こそ聞け」「柱多ければ家強し」「人は善悪の友による」「犬・畜生といわれてでも勝て」「夫婦喧嘩も見逃さない」の5章に分け、それぞれの中に(諫言を受け入れる度量)とか(譜代門閥主義の打破)(兵書を学ぶことの大切さ)(命を惜しまず戦え)(上に立つもののつとめ)などの章をもうけて、関連する条文を紹介している。

教訓は読むだけだと、当たり前のことを言っているとなるから、そういう点で目新しさはない。教訓はそれを実行するかいどうかということである。
刀に関しては、「朝倉孝景条々」に「一振の名刀を買うよりも、百の槍を買って百人に持たす方が役に立つ」という有名な一章を紹介している。

「司馬遼太郎全集23 歳月」司馬遼太郎著

 江藤新平の物語である。江藤は、幕末に佐賀藩から登場して、明治になって司法卿、参議になって明治新政府の骨格作りに尽力したが征韓論に破れて下野し、佐賀の乱を起こして処刑される。
 幕末に佐賀藩は鍋島閑叟という優れた殿様の元、工業化を進め、大砲や蒸気船まで造る藩になるが、二重鎖国と称されるほどに、他国と交わらず、藩士の往来も禁止していた。 物語は江藤新平が、29歳の時に、時世を憂いて、藩を脱藩して、文久2年の京都(天誅の嵐が吹き荒れていた)に出向き、長州の桂小五郎などに会って現今の情勢を知り、それをまとめて藩に提出して、脱藩の罪を覚悟して自首するところから始まる。

 彼は手明鑓(てあきやり)という最下層の身分に生まれた。土佐の一領具足の身分と同様のものだ。葉隠の国の肥前だが、枝吉神陽という人物が独特の勤皇思想の学問をつくりあげており、思想結社的な団体の義祭同盟があった。神陽の実弟が副島種臣で、門人に大木喬仁、大隈重信、江藤新平などが出たわけである。

 藩に提出した当時の情勢をまとめた論は、奇跡的に藩主鍋島閑叟まで届き、新平は死を免れて永蟄居の身となる。

 大政奉還後までは佐賀藩は倒幕にも動き出していないのであるが、さすがに佐賀藩も時世に遅れてはとなる。新平は鍋島閑叟に目付を通して意見言上を願い、鍋島閑叟は江藤新平を許し、京に派遣して周旋、探索の命を授ける。

 それまで生活に逼迫していて、ろくに着物も持っておず、藩の金で古着を買う。この古着が立派なもので、他藩の連中は江藤が上士階級のものと思い、佐賀藩のこれまでの対応を批判するが、事情がわかって理解される。
 戊辰戦争に遅ればせながら佐賀藩は参戦し、大砲の威力で彰義隊を殲滅したりして存在感を出していく。江藤も才幹を買われて、江戸城の行政資料を引き継ぎ、民政と会計に携わるようになる。
 江藤はその後、佐賀に帰り、藩政改革をするが、同じ身分の足軽階級にも禄はやらないという酷な改革をし、命を狙われる。
 その後、新政府から東京に戻ることを要請される。小禄と呼ばれる芸妓を妾にして、この生活も小説らしく彩りを添える。
 江藤は廃藩置県も考えていた。またお雇い外国人のブスケの助言も入れて法律を整備していった。新政府における薩長の人物の横暴に憤り、常々「長州は狡猾、薩摩は愚鈍」「長人には金、薩人には女」と称して、これら藩閥の打破に苦心していた。

 要人が外国使節として出向くが、その留守内閣とでもいうべき地位の一人となる。長州人の大蔵大輔井上馨が江藤の司法省の予算を大きく削り、一方で長州閥の山県有朋の陸軍省の予算は満額を認める。これで司法省の幹部が辞任し、井上は大蔵大輔を辞任する。長州閥の関与した汚職事件に山城屋和助事件(実名は野村三千三、山県有朋の陸軍省から多額の資金を借りて焦げ付かせる。野村は自殺)、尾去沢事件(南部藩内の事件だが、そこに井上馨が関与して鉱山利権を手に入れる)などを摘発していく。

征韓論では西郷に与するが、負けて下野する。佐賀で不平士族の頭目に担がれて挙兵する。
佐賀の乱と称されるが、あっさり負けてしまい、そこからの逃避行を書く。西郷の元に行き、次いで土佐藩の有志の元に行く。そして大久保利通が文官だが実質討伐軍の最高権力者として、同類の匂いを持つ江藤への憎しみを司馬遼太郎は書いていく。江藤への共感・同情を書くというよりも、大久保への批判のような筆致である。

 当初、連載していた時は「英雄たちの神話」だったが、単行本にする時に「歳月」に改めたそうだ。読んで何で歳月なのかはよくわからないが、印象的な小説である。

「壱人両名」尾脇秀和 著

 タイトルの「壱人両名」とは、身分社会の江戸時代に、常は百姓だが、あるときには神官として別の名前を名乗るという人物があり、このようなことを称している。「身分」と「職分」との分離である。ある意味で融通の利いた制度であると著者は評価している。(他にも、大名の末期養子は禁止だが、生きていると見なして、養子を選定して幕府に認めてもらうことなども融通を利かした制度と例示している)
 多くの事例を挙げている。公家の三条家に仕え、大小二本を指す大島数馬が京都近郊の百姓利左衛門とか、百姓と神職、町人と百姓、武士と商人、町人あるいは百姓と医師などの事例が出されている。職業にはふさわしい名前のイメージがあり、医師を担う時は林玄蕃などになるわけである。商家であれば伊勢屋弥兵衛などがふさわしい。

 江戸時代は各人は「支配」に属し、評定所のような正式の場で氏名を記す場合は、支配→肩書き→氏名となる。たとえば「阿部備中守殿領分 備後国深津郡坪生村 百姓 弥右衛門」とか、武士であれば「町奉行 榊原主計頭組同心 鈴木庄蔵」とか「本多丹下支配 牢番人 石橋弥吉」などと記される。町人には姓はないが、屋号が記されることもある。武士でも陪臣であれば誰々家来と肩書きはなる。ともかく、どこか一つの支配だけに属していることが前提であった。
 「支配」は今で言うと国の違いのような感じであり、その人物を取り調べようとして、「支配」が違うと、「支配」の大元の許可を得る必要があった。
 壱人両名の人物がいることは黙認されていたが、何か事件が起こると、面倒となる。たとえば裁かれる方は「武士」の身分を述べるし、訴えた方は低い身分「百姓」として訴える。この場合は「支配」元に確認したり、常の行動を調べて、取り調べの席から検討しなくてはならない。たとえば百姓、町人ならば砂利(白洲)だが、下級武士なら板敷きになる。

 また江戸時代の人は名前(通称)をたくさん持っていたと認識されているが、一時期には必ず一つであった。ただ幼名が留吉で成人して庄次郎、父親が逝去後に跡を継いで九郎左衛門、老いて隠居して鏡円など変化することで、一人がたくさんの名前を持っていたと思われている。
 武士の実名は諱(忌み名…他人が呼ぶのは失礼)とか名乗(なのり)とも呼ばれるが、官名などの通称で呼ばれることが多くなり、実名の方が形骸化していく。

 江戸期は「支配」と帰属関係にある「身分」はうるさかったが、「職分」(…たとえば医師としての場)で壱人両名は黙認の方向であった。(藩によっては、たとえば医師では藩の試験を通った上で認める藩もあった)。しかし秘密裏に名乗っているような場合は露見すると罰せられた。

 江戸時代後期になり、武士身分を金で買えるようになると、壱人両名における職分を身分として認めてもらうような動きになる。この場合、一方の身分から抜ける身分片付、支配替(従来身分は別の者を養子にしたりで譲る)が必要であった。
 住んでいる場所も武家地、町地、百姓地と支配(身分)と連携しており、住居の売買、所有などで問題になることもあった。

 明治になってからも当初は江戸時代と同様であったが、明治3年に華族、士族、卒族、町籍になり、庶民に苗字公称が許される。明治5年に改名を禁止して一人一名を強制した。この意味での一人両名の廃止となる。明治8年に徴兵制の運用で全国民に「苗字+名」=氏名が強制された。

佐倉の旧堀田邸

明治22年に、佐倉藩主堀田正睦の子の堀田正倫が地元に戻って建設した邸宅である。この殿様は地元を大事にされ、往時はこの屋敷に近接した場所に広大な農事試験所と、その畑も存在していたと説明書に書かれている。
また堀田正倫は地元の若人の為に奨学会を作り、当時の佐倉中学校(今の県立佐倉高校)に多額の寄付を行っている。

建物は、近代和風建築だが、重要文化財に指定されている。立派な冠木門があり、入ると車寄せに大きな玄関がある。玄関棟の屋根のカーブは柔らかく雄大である。
この玄関棟の他に座敷棟(客を迎え入れる)、居間棟、書斎棟、湯殿が残っている。往時は台所棟もあった。(書斎棟と居間のの2階部分は非公開)
それぞれの棟の性格ごとに釘隠しの文様が違っていたり(座敷は桐、居間は橘、書斎は楓)、壁の色なども違っている。壁や作り付けの家具にインド更紗を貼ってあったりしているところもある。襖、障子、欄間も、派手ではないが、キチンとしている。
床の間の柱には黒檀や紫檀の太い銘木が使用されていてさすがである。
全体の印象は質素で簡素で、品が良い建物である。

佐倉城からは順天堂ほどは遠くないが、離れている。ここも下総台地の一つの鹿島台地という場所で、北側は大手門から順天堂に至る新町通りの方で、南側に川(高崎川)があり、JRの線路がある。庭に出ると電車の音が近くに聞こえる。川を隔てた向こう側の台地の森を借景としている。植栽は少なく、芝生中心の大きな庭園である。洋風庭園の趣きもある。当時の有名な庭師の伊藤彦右衛門の設計とのことだ。庭は広く、端は台地から川に向かう崖のようで、端までは出向いていない。

佐倉順天堂記念館

佐倉にある佐倉順天堂記念館にはじめて出向く。京成佐倉駅から1.5㎞ほどにある。昔の佐倉城(国立歴史民俗博物館)からも、そのくらい離れた場所である。佐倉城の大手門から商店が軒を連ねる新町通りの外れにある。

佐倉は下総台地特有の台地と谷津と呼ばれる谷から構成されている町で、坂が多い。新町通りから大手門に向かうメインの通りは尾根道なのであろう。両側の道は坂を下る道ばかりである。

佐倉順天堂は、幕末の天保14年に蘭方医佐藤泰然が開いた蘭学塾兼診療所で、往時は「西の長崎、東の佐倉」として、東日本各地から蘭学と医学を学びに来ていた。患者も名声にひかれて東日本各地から泊まり込み(近所の旅籠に泊まって治療を受ける)で来ており、記念館に上州伊勢崎の患者が「手術が失敗して死んでも構いません」というような趣旨の誓約書が展示されていた。麻酔を使わずに乳ガンの手術もしたようで、患者も医者も大変だったことと思う。泰然が長崎で学んだ洋書(ポンペのサインあり)なども展示されている。

往時はもっと沢山の建物(塾生が住む)があったようだが、今はそれほどでもないが、広い。隣りに今でも病院があり、御子孫が院長として診療している。

佐藤泰然が凄いのは、ここは知識・技量が凄い養子(佐藤尚中…後の順天堂大学の創始者)に継がせ、自分の実子は他に養子として出しているところだ。その養子に出した実子も非常に優秀で、次男の松本良順(幕府の医師となり、新撰組の治療や、のちには五稜郭まで従軍し、後に陸軍軍医総監)や五男の林董(幕府方として函館戦争に従軍。後に外務大臣、日英同盟を締結)がいる。娘の嫁ぎ先などの係累も、表にして展示されていたが、明治、大正の有名人が多い。
なお佐藤尚中も優秀な養子(佐藤進…ベルリンでアジア人初の医学博士号を得て東京の順天堂で教える、佐藤舜海…佐倉の順天堂を継ぐ)を迎えている。佐藤進の奥さんは佐藤尚中の長女で女子美の校長として女子教育に尽くす。

当時の手術・治療代金が明示された額も掲げてあったが、明朗である。先に紹介した患者の手術同意書もそうだが、今の医療の先駆である。

蘭癖大名とされた堀田正睦に招かれたのだろうが、天保の改革での洋学派知識人弾圧も移住の背景にあったのだろうか。

堀切菖蒲園

昨日は堀切菖蒲園に出向く。昔、出向いたことがあるが、リニューアルされていた。以前は菖蒲畑という印象だったが、今回は公園のようになっていた。14くらいの区画に分かれているが、花の品種ごとに分かれているわけではなく、2年目、3年目とかの札が立てられていたから、花の若さで区別されているのであろうか、よくわからない。区画ごとに水がたたえられていたり抜かれていたりしており、区画ごとの水門で調節しているのだと思う。

今年は桜をはじめとして、季節が早く動いているから、ハナショウブも早く、見頃かと思ったが、まだ早く、3分咲き程度であった。6月上旬くらいが見頃だろう。見頃前だからか見物客は少ない。

パンフレットには約200種6000株が植えられているとある。品種は江戸、肥後、伊勢や山形県の長井地方などを源流として品種改良されているようだ。
花の名前は凝った和風の名前「春の海」「群山の雪」「水の光」「さくら」、高名な女性の名前の「清少納言」「王昭君」や、カタカナで洋風のものまで様々である。私が愛好する椿と同じで品種改良した愛好家がつけるのであろう。肥後は肥後六花として椿やサザンカ、ハナショウブなどの愛好家が多く、肥後鐔もそうだが文化レベルが高かったのだ。肥後のハナショウブは一番外側の大きな花弁がまくれるようなものが多い印象で派手である。

江戸時代後期の旗本松平左金吾定朝が菖蒲オタクで菖翁と称して、品種改良をしたとある。この地では百姓の伊左衛門が菖蒲園をつくり、一帯に栽培を広めたようだ。彼の小高園の跡地も近くにある。

歌川広重の「名所江戸百景」にも取り上げられているが、この浮世絵においては視点を低く、菖蒲を近景に大きく切り取り、名作として知られている。欧米では、この広重の作は「アイリス」と言われ高値で取引されている。
この構図でもわかるように、ハナショウブは上から眺めるよりも、下(横)から艶やかな花とスッキリした葉と茎とを一緒に観た方が魅力的なのかもしれない。尾形光琳の燕子花屏風は上から観た絵だが、カキツバタは花と同時に葉も書き込んでいる。

園内には色んな木も植えられ、それに名札が付いているから興味深い。フェィジョアという木に、可愛い花が咲いていた。

「市川の歴史を尋ねて」市川市教育委員会(綿貫喜郎著)

タイトルの通り、千葉県市川市の歴史を太古から現代までを記述した本である。表紙などは市川市教育委員会としか書いていないが、「あとがき」に綿貫氏の著者名があったので上記のようにした。地域のことを調べる必要があり、紐解いた。地域の歴史は災害対策などに不可欠である。

 市川市の北部台地には貝塚が40箇所と多く、堀之内貝塚、曽谷貝塚、姥山貝塚は有名である。海岸から遠く離れた台地の上に、たくさんの貝殻が堆積しているの見て、昔の人は大昔に巨人がいて、台地に腰をおろし、おおきな手を海に伸ばして、貝や魚を捕って食べた跡と考える。これがダイダラボッチと呼ばれる巨人の伝説になる。
 その後、海が後退すると同時に、市川砂州が今の京成線、国道14号沿いに形成され、台地との間は真間の入江が広がる。総武線は海岸沿いで、このあたりから行徳の方は真間ノ浦廻(うらみ)と呼ばれていた。
 稲作は須和田あたりからはじまる。スワは湿地のことである。湿地の上の台地に弥生時代の集落遺跡がある。須和田遺跡、小塚山遺跡などである。
 古墳時代の遺跡も6世紀の法皇塚古墳、里見公園内の明戸古墳などがある。
 大化の改新後に下総と上総に分かれる。当時の東海道は相模から海上を通って上総(市原市)、そして市川砂州の上を通って下総(市川市国府台)に至る。葛飾は葛の葉が茂った所とされているが、一説には砂地の意味といわれる。
 万葉集に歌われた美女伝説:真間の手児奈(てこな)は国府台の下の真間の入江に暮らしていた。山部赤人は上総国山辺郡(後に武射郡と一緒に山武郡)の出身。「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 不尽の高嶺に雪は降りける」は鋸南町の田子台から富士を望んだもの。台の下の海岸線は田子の浦と呼ばれていた。
 推古朝624年に各国に国分寺が建立。今に国分の地名が残る。

 大和朝廷は蝦夷征伐。軍役で荒廃し、848年に上総で俘囚丸子廻毛(わにこのつむじ)が反乱を起こし、875年には下総の国でも俘囚が反乱して国分寺を焼く。935年頃に平将門が反乱する。市川の北東部は将門擁護(成田には参詣しない)、南西部は将門攻撃派に分かれる。
 その後、1028年に平忠常が下総東部から常陸南部にかけて勢力を張り、乱を起こす。
忠常の子の常政、常近は処分をうけず、千葉氏、上総氏となる。前九年の役、後三年の役で源氏との結びつきを強め、常胤は義朝と一緒に戦う。
 頼朝が旗揚げ時に味方になって功を上げる。
 鎌倉新仏教の担い手も来る。日蓮は市川で、若宮の富木常忍(千葉介の執事)、中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信を信者とし、中山法華経寺など日蓮宗寺院も多い。
 蒙古襲来後、千葉氏は同族が争い、室町時代には古河公方と上杉氏の間で同族争う。国府台が北条、里見の合戦の場になる。
 徳川が関東に。行徳を天領にして塩作りが栄える。用水堀(内匠堀)を田中重兵衛(内匠重兵衛)と狩野新右衛門(浄天)が尽力して通し、新田開発も進む。
 八幡は市川砂州上にあり、北部は真間の入江が広がる湿地で穀物の栽培に不向き。川上善六は寛保二年(1742)に、この「砂地」という地質にふさわしい農産物として梨の栽培を成功させる。その梨栽培の秘訣を村人にも教え、この地に梨栽培が広まり、「八幡梨」は江戸市場を賑わすようになる。
 桃の栽培も八幡の川上善兵衛が安政4年(1857)に埼玉県松伏町に行った折に桃の優良な種を買い求め、栽培に成功し、それが八幡、中山、葛飾、市川に広まる。
 苺は明治35年に新田の後藤弥五右衛門が試植に成功。大正時代の耕地整理で各所に島畑が激増すると苺が広まる。大正14年には千葉県農事試験場の大島技師が栽培した大島苺=千葉一号を改良して市川新田苺と好評を得る。昭和初期は東京市場の苺総取引量の20%が市川苺。
 幕末に戊辰戦争があり、新政府側で12名、徳川側で約20名が戦死する。

 明治になり、国府台に大学設置を計画するも、陸軍の訓練所として教導団と歩兵大隊、野砲兵第16連隊が作られ、日露戦争で活躍する。
 江戸時代は江戸と行徳に船便があり、成田参詣に利用される。明治4年には江戸川に蒸気船が運航。千葉、茨城、埼玉、群馬、栃木を結ぶ。鉄道は明治22年に本所から市川、船橋、千葉、佐倉、八街を結び、明治42年に京成が発足。
 行徳は塩以外に海苔。浦安はバカ貝の産地。江戸川放水路で行徳は東西に分断される。
災害は元禄16年の元禄大地震、天明6年の大雨での洪水、寛政3年に大津波、大正7年の大津波(台風の大風で3㍍の津波)、大正12年の関東大震災。市川は上毛モスリン中山工場のレンガ塀の倒壊で女工11名が圧死。中山村で男子3、行徳で女子1の15名の死者。朝鮮人暴動のデマで連合紙器の従業員3名が南行徳村で虐殺、若宮で朝鮮人、八幡で日本人がころされる。

 関東大震災後に人口は急増。昭和9年に市川市。市名と市役所の位置で市川町、八幡町、中山町、国分町でもめる。今の市役所に八幡座というドサ周りの芝居小屋400坪があり、その跡である。

 太平洋戦争では、昭和19年11月に中山駅南の山中アルミ工場に爆撃。菅野、曽谷、下貝塚、12月に本行徳、塩焼、北方、若宮、20年1月に行徳小、2月に真間に撃墜された飛行機が落下、2/25に最大の被害が市川新田、中山、菅野にある。

戦後は闇市。軍隊の跡地に学校。合併で大柏と行徳を市域にして拡大。海岸埋め立ても行われる。

「司馬遼太郎全集22 花の館(戯曲)」司馬遼太郎著

 これは司馬遼太郎が唯一書いた戯曲である。主たる登場人物は、足利義政と妻の日野冨子に、義政の弟で僧だったのを義政から将軍にするからと強く言われて還俗させられた足利義視(僧の時は浄土寺義尋)が有名人のキャラクターで、他は司馬遼太郎が創作した人物が登場する。
 昔、読んだ時は面白くないと思った記憶があり、今回もあまり読む気がしなかったのであるが、再読してみて、なるほど司馬遼太郎はこういうことを書きたいのかと感じた。

 足利義政は政治よりも庭造りとか能とか美の方に関心があり、早く隠居したいと考えて、弟を還俗させる。妻の日野冨子は関所を設けて、関銭を集めるなど財力に強い関心を持つ。

 日野冨子は一度、子供を亡くしているが、弟が次の将軍として還俗してから、義政の子を宿す。後の足利義尚である。当然に家督争いの種が生じることになる。家督争いとは権力欲(日野冨子にとっては財力を集める力でもある)をめぐる争いである。この争いは義視と義尚の、それぞれの後見となった細川勝元と山名宗全の争いにもつながり、同時期に生じた有力氏族の畠山家や斯波氏の家督争いも両者を頼り、応仁の乱になるわけだ。

 そして応仁の乱では足軽という金次第でどちらにも味方する兵力が生まれ、この戯曲では鬼の兵六という足軽大将が登場する。
 この無慈悲で鬼のような兵六が女神のように崇めるのが嬉野という高級娼婦である。娼婦も足軽と同様に金次第だが、その汚い金の頂点にいる足軽大将と高級娼婦を金とは無縁な愛で絡めている。荒唐無稽なのだが、そこは物語の世界である。

 その嬉野と昔に夫婦の約束をしていたのが能役者崩れの銀阿弥で、この人物も脇役の一人として嬉野を忘れられない男として登場する。そして金や愛欲や権力などの世俗の欲に無縁な旅の乞食僧も登場させる。
 応仁の乱前後の各種の欲望が剥き出しで争う人間模様を、欲から無縁で聖とも言える存在に近い人物を絡ませて物語を進めていくわけだ。戯曲として成功しているかはわからない。司馬遼太郎は戯曲をこれ一つしか書いていないわけであり、本人もあまり手応えは無かったのではなかろうか。

「司馬遼太郎全集22 短編(外法仏、朱盗、牛黄加持、八咫烏)」司馬遼太郎著

 司馬遼太郎全集22に収録されている短編である。司馬遼太郎の一つのジャンルである宗教、妖術に関係する時代小説であるが、面白いものではない。ただ司馬遼太郎は産経新聞の京都支局で宗教関係の取材を担当していた時代に、こういう密教のことなどを勉強したのだろう。後の「空海の風景」などに繋がっている。

「外法仏」は天台密教の高僧(藤原氏の出身)が近寄ってきた巫女(実は外法と言える怪しい呪術を使う)の色香に迷い、死後にその首を外法の道具として盗られる物語である。藤原氏出身の后の子を天皇の位につけたい藤原氏の氏長者が、紀氏出身の后に生まれた有力な天皇後継候補を追い落とすために、競い馬を行う。この勝利の祈祷をこの僧に依頼する。一方、紀氏側も真言密教の高僧に祈祷を頼む。天台密教と真言密教の争いになるが、負ける寸前に、この巫女の力で勝利する。しかし、力尽きて逝去し、死後、この高僧の首は外道仏として盗られるという話である。

 「朱盗」は太宰府の少弐に赴任した藤原広嗣が、太宰府に軍を集め、朝廷に反乱するが、その時に、隼人の娘に惚れる。この隼人の娘がある日逃げ、太宰府近くの谷に百済からの亡命者の3代目が住んでいるところまで追う。ここで広嗣はこの者に会うが、この者は広嗣の行動が、百済の大将軍が、滅びる時に行った行動と同じだと指摘する。この者はここから穴を掘り、遠くの古墳を盗掘して、そこに使われている朱を盗ろうとしていたことが後に明かされるが、タイトルと内容は一致しない。広嗣は、この者の言動に怒り、この者を捕らえて奴に貶めるが、都からの征討軍が来て負け続けた時に、この者を百済から援軍にきた将軍の鬼室福室と偽り参陣させる。しかし敗戦となり、この者はどうなったかはわからない。

 「牛黄加持」は醍醐理性院の僧で、生まれは備中権介藤原保連の子を主人公にする。親戚の右大臣藤原長実の姫(今は帝の寵愛を受けている美福門院)が想い人である。この僧の師が、この姫の子の祈祷をすることを手伝わされる。その祈祷は、「牛黄」と呼ばれる牛から取れる薬を使った加持になり、その薬の入手に奔走し、祈祷の手伝いを申し付けられる。加持は成就して後の近衛天皇が誕生する。この僧も権僧正から僧都まで進む。

 「八咫烏」は古代を舞台にした物語である。海族(わたつみぞく)の植民地の紀伊に、本国から征討軍が来る。そして奈良盆地の出雲族を討つ。八咫烏は紀伊に住み、海族と出雲族の混血児で、差別されていた。紀伊からの進軍の時の案内人を頼まれる。吉野川沿いには土蜘蛛という穴居人がいて、その長が一言主で海族に従う。大和盆地は元は土蜘蛛の国で、それを出雲族に奪われたという経緯があった。そして出雲族の長髄彦の軍と対決する。そして一言主と八咫烏が赤目彦と長髄彦の幕舎に入り込み、殺害する。出雲族は降伏する。宇陀の巫女の長の天鈿女命(憑き神が天照大神)も従う。この時に天鈿女命が八咫烏の顔を見て、お前の母は宇陀の巫女の一人の天鎮女ではないかと述べ、海族の集落に逃げた理由を明かす。

「祝祭と予感」恩田陸 著

 この本は先日読了した「蜜蜂と遠雷」の続編というべき小説である。「蜜蜂と遠雷」では唐突に感じた天才カザマ・ジンとピアノ界の伝説の巨人ユウジ・ホフマンとの結びつきの経緯とか、コンクールの課題曲を作曲した菱沼忠明の曲が生まれた背景などを明らかにしている。
 章は「祝祭と掃苔」「獅子と芍薬」「袈裟とブランコ」「竪琴と葦笛」「鈴蘭と階段」「伝説と予感」に分かれている。

「祝祭と掃苔」では、芳ケ江国際ピアノコンクールで優勝したマサル・カルロスと2位となった栄伝亜夜が、幼い時に日本で、ともに綿貫先生からピアノを学んだ奇縁が復活したのだが、コンクール後に綿貫先生の墓参に出向き、それにカザマ・ジンも同行した時の様子を小説にしている。
 そこでマサルがジンに母のことを尋ねる。そして母はシンガポールで有名なソフトウェア会社のCFOで姉がバレリーナということを語る。コンクールの間にジンと亜夜が連弾(セッション)した時のことをジンが語り、マサルは驚く。

 「獅子と芍薬」は審査員で元夫婦だった嵯峨三枝子、ナサニエルが出会った時の思い出が描かれる。大きなコンクールで1位無しの2位に2人が入ったこと(1位になればホフマンに師事できるという約束があったので、その結果は2人にとって共に不本意であった)。そしてコンクール後の演奏でお互いの良さを認め、それから親しくなっていった経緯を描く。章のタイトルは2人を表している。

 「袈裟とブランコ」はコンクールの課題曲「春と修羅」を作曲した菱沼忠明が、夭折した岩手在住の教え子小山内健次の思い出を書く。小山内が恩師の菱沼の為に途中まで作曲した曲と、小山内も愛唱していた宮澤賢治の「春と修羅」の詩想とともに作曲した経緯が明らかにされる。章のタイトルの「袈裟」は夭折した教え子の葬儀を表し、ブランコは葬儀から帰宅して公園のブランコで曲をイメージしたことを意味している。

 「竪琴と葦笛」はマサルがジュリアード音楽院でナサニエルに師事することになった不思議な経緯を明らかにしている。マサルがジャズにも造詣が深く、ピアノだけでなくトロンボーンも演奏するようになった理由が明かされる。

 「鈴蘭と階段」は栄伝の才能を信じる音大の学長浜崎の娘でヴァイオリン演奏家の奏が主役で登場する。奏はヴァイオリンからヴィオラに楽器を変更することを考えていたが、ヴィオラの楽器を購入することに迷っていた。そんな時、チェコの亜夜から国際電話が入る。チェコ・フィルハーモニーと亜夜とジンが共演することになり、ジンの独特の人懐っこさからオーケストラのヴィオラ奏者のところに出向く。その時、亜夜は彼の演奏のヴィオラの音が奏の演じる音だと感じ、同様にジンもそう感じた。チェコ・フィルハーモニーが日本公演を予定しており、その時に譲ってもらうことになる。「鈴蘭と階段」の鈴蘭は奏のイメージで、階段とは浜崎家の防音設備の整った部屋ではなく、階段で演奏するのが好きということから来ている。

 「伝説と予感」はカザマ・ジンがピアノ界の伝説の巨人ユウジ・ホフマンと知り合った経緯を明らかにしている。知人の貴族の館でホフマンは、その貴族の父が収集した古い楽譜を知る。そのサロン・コンサートで、古い楽譜の中からシューマンのダビッド同盟舞曲集を演奏する。その屋敷に父の蜂蜜採取用のリンゴの開花調査に同行してきていたカザマ・ジンが、サロンコンサートでホフマンが弾いた曲を、玄関ロビーのアップライトピアノで弾いているのに出くわして驚く。

「戦国時代は何を残したか」笹本正治 著

 この本は、現代では戦国時代の武将などに脚光があたっている歴史になっているが、この時代に生きた民衆、敗者などにも目を向けるべきだとして書かれた本で、私も共感する。
 若い女性が戦国武将を好きだとか言うが、織田信長をはじめ各武将の残虐性とか、秀吉、伊達政宗などの色好みの状況などをどれだけ知っているのかと疑わしくなる。

 この本では、戦国時代を経て、社会はどう変化したかを次の5章に分けて述べている。「1.モノとしての民衆」「2.戦乱からどう身を守るか」「3.神仏との深い結びつき」「4.自然への畏怖の変化」「終章.現代に続く戦国時代の課題」である。

 「1.モノとしての民衆」では川中島の戦いを例に『甲陽軍鑑』の記述内容の疑問を書いている。鶴翼の陣とか車掛りの陣などは日常的訓練をしていない軍勢で、しかもそれぞれの独立性の強い家臣団が実現できるはずはないと書く。義の人、上杉謙信が例えば仁田山城攻め(桐生市)では城に籠もるを一人残らず、男女ともになで斬りにしている。そして戦国時代は勝った方は物の略奪だけでなく、人を生け捕りにして、商品として売りさばき、奴隷としていたことを各種資料から明らかにしている。著者のフィールドの信濃、甲斐の史料を豊富に出して例証している。通常時に人を誘拐して売ることは犯罪であったが、戦争では人狩りが日常であった。日常でも「辻取」として路上で女性を捕らえて妻などにすることがあったようである。このような状況の一方で、西洋の宣教師は日本では娘たちが両親と相談することなく一人で行きたいところにいくとか、妻は夫の許可なしに家から外出することを記している。安全な国でもあったわけである。もちろん奴隷となった者は海外にも売られたわけである。逆に倭寇がさらってきた中国人なども奴隷として日本にいたわけである。
 戦国大名は自分の領国内の平和の維持の為に、人身売買を規制する方向であった。秀吉は検地で土地の生産量を確定し、年貢を取っていたので、耕す人が必要であったこともあり、人身売買を禁止した。一方で、自分が生き延びる為、あるいは父母の暮らしを守る為に、自らを売るような行為も存在していた。

「2.戦乱からどう身を守るか」では避難先としての山に逃げた資料を多く示している。自らも武装して戦う民衆の姿も記されている。領主の城に籠もることも行われた。強豪武将に挟まれた土地の住民は、それぞれの側に年貢を貢ぐ「半手」「半納」という制度もあった。信長は伊賀や長島の一揆では虐殺をしているし、徳川期の島原の乱時でも一揆勢を裏切って通報していた絵師を除いて皆殺しされる。寺に逃げ込むことも多かったが、信長は寺のアジールとしての役割を無視して恵林寺を焼いている。

「3.神仏との深い結びつき」では神仏は一緒に戦ってくれる存在であったことを記している。夢を大事にした人々もいたが、武田信玄などは夢卜いとか神仏を自分に都合の良いように利用している。裁判などでは神仏の力を借りての起請が行われた。熱湯に手を入れて火傷しなかった方が正しいなどの湯起請があった。古代の銅鐸もそうだが、金属の音に神の降臨を信じたこともあった。村の入口に神仏を置いて結界とすることもあった。

「4.自然への畏怖の変化」は自然災害が多かった時代であり、その予兆に対する関心は高い。凶作時には蕨の根などを食糧にする知恵も生まれる。自然を克服しようとする戦国武将の施策(信玄堤)なども生まれる。諸国を渡り歩く職人は戦国武将の枠を超えた朝廷の庇護などをもとめ、鋳物師と公家の真継家、木地師は白川神祇伯家、吉田神道家などの結びつきが出来てくる。鉱山開発、新田開発が進むと、大地の改変に祟りを観じなくなる。神仏への畏れがなくなっていった時代である。

「終章.現代に続く戦国時代の課題」では史料が残るのは、その史料を持ち伝えることが、個人あるいは家にとって利益があるからである。日常生活の史料は残りにくいとして、史料一辺倒の歴史解釈に警鐘を鳴らし、今の世の中に潜む地球温暖化や食糧問題、そして戦争の危険などに言及している。