「楽市楽座はあったのか」長澤伸樹 著

良い本である。著者は楽市楽座に関して現存する全史料に当たり、それが発布された背景や、その後のことまで詳しく分析している。また先行する研究者の論も幅広く紹介している。そして参考文献における参考とした部分までキチンと載せている。
このような本だけに読みやすくはない。またタイトルは売る為だと思うが、センセーショナルな表現となっている。我々の頭にあるような通説としての楽市楽座はなかったと言っているだけである。

楽市楽座と言えば織田信長となるが、著者はこれまでに楽市の文書は14通、楽市楽座が7通、楽座は1通の合計22例が発見されており、現時点の初出史料は天文18年に六角氏が近江・枝村に出したもの、それから永禄9年の今川氏真が駿河の富士大宮で出したものであることを紹介している。この次ぎが織田信長である。
そして徳川家康、佐久間信盛、柴田勝家、北条氏政、羽柴秀吉、池田元助、池田輝政、北条氏直、前田利長、羽柴秀次、北条氏規、北条氏直、京極高次、間宮直元、そして最期が慶長15年に美濃の黒野に加藤貞泰が出したものである。

詳細な分析をしているだけに、簡単に紹介するのは著者に失礼になるが、楽市は時の権力者が戦乱からの復興や前支配者の否定などの独自の判断や価値観で生み出した一時的な特区で、諸税などを免除して居住者を増やした政策である。だから新しい時代へ矛盾無くつながっていく政策ではないし、幅広い地域に広がるものでもないとしている。

楽座も座組織の解散ではなく、座商人の特権を認めるかわりに義務づけてきた役銭の支払いを免除することで、商人支配の新しい体制ができれば不要となるような政策だった。戦国大名にとっては座からの運上金は大切であった。

すなわち戦後の復興や、新しい城下町・宿場町の振興や軍事の重要拠点に商人を集める為などが政策目的での施策である。

「生誕125年記念 速水御舟」 於山種美術館

本日、刀剣の畏友H氏と標記展覧会に出向く。山種美術館は安宅コレクションの速水御舟作品も購入して、120点もの作品を保管しているという。山種美術館が広尾で新たに開館した時にも「速水御舟-日本画への挑戦-」展が開催され、それも妻と観に行ったことがある。
余談になるが、安宅コレクションは安宅産業の安宅英一氏が主導し、今は大阪市立東洋陶磁美術館に収蔵されている東洋陶磁(住友銀行が寄贈)も素晴らしいものである。美術品道楽で会社を潰したと言われるが、商社よりも蒐集した美術品の方が価値があると私は思う。

速水御舟は洋画の岸田劉生に比肩する日本画の中では最高の画家だと私は思う。以下、今回の展示品で私の記憶に残っている作品に感想を記していきたい。
「桃花」という色紙サイズを軸装にしたものは、桃らしい優しいピンクの花が実に可憐で美しく、そこに新芽の萌葱色がわずかに彩色されていて若々しく、欲しい作品だった。
墨画にわずかに彩色した「比叡山」も地味な絵だけど力があり、印象に残っている。これは写実というよりは比叡山の量感が迫ってくる。
「百舌巣」は百舌鳥の雛が2疋いる巣を描いたものだが、写実が生き生きしている。実際の鳥の巣らしく汚いものを写実的に画き、汚いという感じよりも真実らしい巣、鳥が安らかに生育する場を画いている。
「春昼」は古い民家を写生したものだが、明るい色調で爽やかで暖かい。国立近代美術館に収蔵されている奈良の民家を描いた絵と雰囲気は似ている。

重要文化財の「炎舞」は私がいい絵を前にした時に生ずる胸に水が上がってくるような感じがする凄いものだ。炎の形態は北斎のビッグウェーブに匹敵する。実際の炎の形は、もっと複雑なのかもしれないが、御舟の描く炎は北斎の波と同様に我々のイメージを掘り起こしてくれる。加えて、この炎の色、鮮やかな緋色というか不思議な色である。それが背景の黒というか黒茶色の中から浮かび上がり、凄いものだ。この黒の効果が効いている。そしてそこに非常に写実的で鱗粉までわかるような蛾を配して、舞を舞わせている。不思議な画家だ。

同時期には昆虫を写実的に描いた作品がある。

「朝鮮牛図」も不思議に力のある作品で、印象的である。黄土色の牛、どうということのない牛だが、写実・写生から別の境地にいっている感じである。

大きな屏風の「翠苔緑芝」はアジサイの花が立体的に描かれている。技法について説明が記されていたが、覚えてはいない。御舟は日本画において色々な技法を試している人である。この絵には黒猫がいたり、白兎がいたり、変な構図の絵であり、画家が何を狙いにしたのだろうか。

「夜桜」は桜の枝を夜景の中に画いたものだが、同様に夜の桜の絵が何点かあった。御舟は桜を夜に画きたかったようだ。夜の桜は何か妖艶な感じもする。
「紅梅」と「白梅」の一対の軸装があったが、すっきりと気持ちが爽やかになる良い絵であり、梅の香りも漂う。

もう一つの重要文化財「名樹散椿」。私は椿の愛好家でもあり、京都の地蔵院に出向き、この絵のモデルとなった五色八重散椿を観にいったことがある。実際の五色八重散椿よりも、この絵の方が背景を画いていない分、主役感が凄い。バックの金色の技法について”金箔”と”金泥”と、この絵に使われている”金砂子の撒きつぶし”の違いの解説があったが、艶消しの金の奥深さが理解できた。

ヨーロッパに出向いた時の作品が並ぶ。何より驚いたのは裸婦でデッサンである。素描3として展示されている作品は、この延長にキュビズムがあることを予感させられるものだ。

「鶴」は気品というか気格を感じる作品だ。「春池温」は何と読むのだろうか。絵は池の水面から鯉が頭を出したところに桃の花を配した絵である。水中の鯉、外に出て身体が濡れている鯉などきちんと描き分けていて素晴らしい。水もうるさく無く表現ができている。
「白芙蓉」も素晴らしい。枝葉は墨の濃淡で描き、芙蓉の花に白、花芯に紅色を僅かに配しているが、いい絵である。H氏も感服していた。
「秋茄子」も同様の作品である。

「武士道と日本型能力主義」笠谷和比古 著

興味深く、面白く参考になる知見に富んだ面白い本である。著者は武士道とは何か、そして武士道が江戸時代においてどのように具体的に運用されたかを明らかにする。そして身分制社会の中で工夫された足高の制などによる人材登用制度が日本的な年功序列制度につながり、欧米とは違った日本の経済発展を支えたことを明らかにしている。
そして、その制度を欧米の能力主義に比較して劣っているとして否定するような風潮に警告を発している。

まず「第1章 赤穂事件と武士道」で、赤穂事件時の藩士に①大石内蔵助らが主導した浅野家再興路線グループ(内匠頭ではなく浅野家に忠義)、②堀部安兵衛武庸や奥田のように、武士の一分として主君が非業の最期を遂げたのに、仇の人物がおめおめと生きているのを見過ごすのは世間に顔向けができないと考えるグループ(自己の名誉を守る為の主君への忠義)、③片岡、磯貝らの内匠頭側近のひたすらに主君内匠頭の無念を晴らしたいと考えるグループ(恋人に殉ずるような忠義)がいたとする。

著者は②のグループの持つ忠義を持つ武士は、主君の意向に唯々諾々と恭順していくような武士ではなく、武士個々人の強烈な自我意識、自立の精神を持って、忠義とは阿諛追従ではないとする武士道とする。

[2章 自立の思想としての武士道」で、あの『葉隠』にも諫言の重要性を説いていることを紹介して、事なかれ主義的な恭順を嫌悪する武士道を紹介している。
家康も若いときに、嫡男信康を失うことになった切っ掛けの才気煥発の大賀弥四郎(実は武田のスパイ)を信頼したことへの反省から武骨、無礼でも自己の本心を包み隠さず行動し、自己の命を惜しまないような、誰にでも直言する剛直の士を愛した。

「第3章 武家屋敷駆込慣行」、「4章 主君「押込」の慣行」の事例を紹介する。
そして「5章 日本型組織の源流としての「藩」」で、藩の軍事組織が平時に行政組織に転換することを示す。軍事組織においても、先備(さきそなえ)の旗頭の家老の現場判断が優先され、行政組織においても、実際の活動は中央統轄型ではなく、むしろ出先ごとの現場優先、現場判断型の自律分散的だったことを明らかにする。すなわち日本は現場の意見が実質的に採り上げられ、稟議で上が決裁していく組織であったことを示す。
明治維新においても、藩の下級役人が主導する。

「6章 名君の条件」で徳川吉宗の足高制を能力主義的昇進システムとして紹介し、結果として勘定奉行は軽輩からの登用が多いことを例示している。また御家人株の金銭による売買の事例も紹介して、これも人材登用につながったことを記している。

蜂須賀藩10代の重喜の改革が失敗した例、逆に上杉鷹山の改革成功例を紹介して、権力に対する歯止めを欠いたままに導入される能力主義や自由な人材抜擢は専制政治、恐怖政治に裏腹な関係であることを警告する。

上杉鷹山の政治などは日本型民主主義的だった。

「7章 能力主義のダイナミズム」では寛政の改革で厳格な試験制度も導入され、その結果、川路聖謨、井上清直、栗本鋤雲、勝海舟などの軽輩から幕末外交・政治を担った人材が出たことを立証していく。

「8章 封建制度の日欧比較」でヨーロッパの封建制から絶対主義王政の流れを考察し、君主に独自に任用される委任型官僚が必要になり、役人・行政官はそれぞれの分野における専門家を採用という西洋型能力主義が生まれた背景と説明する。

これに対して日本は封建領主が武士を行政官僚とし、現場で働く中から教育し、登用していく日本型年功序列が生まれ、そして現場をよく知る下級役人の案が稟議の結果採用されるとする。
だから実質は能力主義だったと指摘する。

「9章 日本型組織の過去、現在、未来」「10章 伝統文化とグローバリズム 新しい日本社会を求めて」で、江戸時代商家の人事制度も紹介し、日本型の組織の良さを再認識すべきと結んでいる。

立派な著作である。

「甦る画家たち」 堀晃著

絵が好きな著者が、世の中にはあまり知られていないが、評価に値すると思った画家を取り上げて簡単に紹介している。著者が住んでいる名古屋を中心とした東海地方の画家が多く、44人ほど取り上げている。
私が名前を知っている画家は真野紀太郎、菅野圭介、野口謙蔵、片多徳郎、加賀孝一郎、伊藤久三郎などくらいである。もちろん名前だけをチラッとということで、作風などに詳しいわけではない。

著者は絵が好きなんだなという感じはひしひしと感じる。小品でも著者自身が購入して手元に置いて楽しんでいるのはいいのだが、その割に絵に対する著者自身の評は少なく、著者の感性を発露するよりも、その画家を世に紹介したいという思いの方が強いと感じる。

桐生の大川美術館の大川栄二氏や梅野隆氏という在野の愛好家を師としている人である。

写真は白黒写真で小さく、写真からはその画家のことがわからないのだが、中には観てみたいと思う画家もいる。宮脇晴、横山潤之助、田中保、水島裕、栗田雄などの写真図版が印象に残っている。

現代でも、毎年、美術系の大学などを卒業する人が1万人近くいるのだろう。その中のごく一部が評価され、さらにその中の一部が人気画家になるという世界。
そして生前に人気画家でも、死後は忘れ去られるという世界。逆に生前は知られていなかったが、死後に再評価されるのが、ごく稀に存在する世界。この分野に著者がいるわけである。こういう顕彰・再評価は大事である。

ティモシー・リダウト、ベンジャミン・フリス デュオ・リサイタル

ティモシー・リダウトとは1995年生まれという若手のヴィオラ奏者である。ベンジャミン・フリスはピアノ演奏家で名高い。昨日、トリフォニーホールの小ホールで演奏会があり、妻と出向く。

音楽に造詣の深い人は、誰々の演奏として、前売り券を購入して出向くのだろうが、私は心地よい音の世界に浸りたいだけだから、直前になっての割引き券の案内で出向くことが多い。この演奏会もそのような案内で知る。加えてヴィオラという楽器である。だから、この演奏会でも客の入りは8割くらいだったと思う。
でも客の入りと演奏の質は比例しない。今回は非常に心地の良い演奏会であったと妻と喜ぶ。ピアノも良く、ヴィオラが融け合うような、一方で競い合うような良い演奏だ。

演奏された曲は「ベートーヴェン/ホルン・ソナタ Op.17」、「シューベルト/アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D821」、「シューマン/アダージョとアレグロ Op.70」、「ヴュータン/ヴィオラとピアノのためのソナタ Op.36」である。私の知らない曲ばかりである。

ヴィオラはオーケストラの一部でしか聴いたことがなかったが、ヴァイオリンのような高音の天使のような美しい音色や、チェロやベースのような腹に響くような迫力のある低音とも違って、人間の男性の声のような感じの親しみやすい音域であった。人間的な優しい音色である。チェロとヴァイオリンの間の音域なのだろう。

演奏された中の、どの曲だかは記憶に無いが、ヴィオラが人がしゃべっているかのように演奏し、それにピアノが応える。ピアノが強く叩き出すと、ヴィオラも強く弾く、共に歌い、共にしゃべるようだ。
またヴィオラが自然の風のようにメロディを奏でると、ピアノが風に吹かれて何かが音を立てるような感じで呼応する。

ヴィオラはヴァイオリンより大きく、弓も長いと感じる。弓を端から端までの全部を使って、同じ音を長く奏でたり、弓の一部で弾むように引いたり、様々な音色が生まれてくる。

ピアノも響く良い音であった。時にヴィオラの演奏を引き立てたり、自分の方が主役となってヴィオラをリードしたり、自在の演奏であった。

2人の演奏者も共に楽しかったのだろう。アンコールは3曲も奏でられた。曲目はわからない。演奏者が英語で曲名を言うが、ブラームス、バッハという人名しか理解できなかったが、曲名などは私にとってはどうでもいい。
音楽とは音を楽しむものだ。



 

「大江戸武士の作法」小和田哲男監修

時代劇に出てくる武士ではなく、本当の武士の姿を図解で示すという本である。図が多く、内容も軽いものかと思っていたが、読んでみるとそれなりに面白く、参考になる。
大きく次の5章に分かれている。「1.暮らしの作法」「2.武術の作法」「3.行事の作法」「4.仕事の作法」「5.軍事・警備の作法」である。

「1.暮らしの作法」では、年貢米の支給は春と夏に25%ずつ、秋に50%という三季制である。蔵米取の武士は米俵で受け取っても運搬や保管場所にも困る。だから浅草の蔵前で支払手形を持参した武士が受け取るのではなく、それを代行する札差に委託して、武士は札差から現金を受け取る方式となる。前借りもあり、それが札差商人を大きくさせた。
また武士のお供などの最低の給与は三両一人扶持で、1日玄米5合分と別に年三両の現金支給であった。サンピン侍の蔑称はここからくる。

武士の格の違いでの家屋、門構え、お供の数などが違うが、それを図示してある。今の時代劇は武士は供を連れていないが、当時はこんなことはありえないのだ。
大名の江戸屋敷は塀と長屋が一体で、長屋に単身赴任の下級武士が暮らしていたのだが、その中の構造なども図示してある。単身の武士や町人が多かった江戸で発達した棒手振という商売や屋台の様子もよくわかる。
武士や町人、その夫人の衣服、髪形、食事の様子や、武士の旅行の衣服もわかる。

「2.武術の作法」では、それぞれの武術を簡単に紹介している。なお幕末には鎧の着方もわからなくなっていたようだ。

「3.行事の作法」では、元日の朝の行事から各節句の祝い方や、一番大事な八朔の行事などもわかりやすい。

「4.仕事の作法」では俗に茶坊主といわれている者も御用部屋坊主、同朋頭、肝煎坊主などに分かれていることを知る。勘定奉行が激務で、有能な者が任命されていたこともわかる。
火付盗賊改は治安が悪化した時代に、重大犯罪のみを扱う特命捜査隊のような位置づけで、武士も検挙することができ、取り調べも非常に厳しかったことが書かれている。
江戸の消防衣装、消防道具も図示している。

「5.軍事・警備の作法」では、幕府の大番組、新番、小十人組の旗指物が図示されている。上方の在番も任務だが、道中や上方での費用もバカにならず、厭がるものが江戸時代後期には多くなったようだ。

御庭番(将軍直属)、京都の禁裏付、仙洞付、八王子千人同心、鷹匠、奥医師、奥絵師などの役割やその姿も掲載されている。

「印象派への旅 海運王の夢」展

スコットランドのグラスゴーで海運業、船舶の売買で財をなしたウィリアム・バレルのコレクションである。9000点以上のコレクションがあるそうだが、この展覧会では73点ほどの陳列である。そもそもバレルは寄贈に当たって国外で陳列することは許さなかったそうだが、現在は所蔵の美術館の改装工事中で、特別とのことである。数が少ないから、観てまわるのに時間もかからなかった。

私が知っている画家で展観されているのはゴッホ、ルノアール、セザンヌ、シスレー、ミレー、クールベ、ドガ、マネ、コローなどである。それらの有名な画家よりもリボー、マリス、ポンヴァン、ラトゥール、ブーダン、シダネルなど初めて知る画家の作品が多い。知らない画家には、蒐集家バレルの出身地のスコットランドの画家もいるようだ。

水彩でグワッシュ(不透明な水彩画であり、塗り重ねも出来る)という作品多く、これらは油彩と違いがないように見える。解説にもあったが、水彩で外に出て早く画くということは、印象派の作画スタイルに似ており、これら水彩画家も印象派の一つの魁と思える。

展覧会では「1章 身の回りの情景」(この中を「室内の情景」「静物」に分けている)、「2章 戸外に目を向けて」(この中を「街中で」「郊外へ」に分けている)、「3章 川から港、そして外洋へ」(ここは「川辺の風景」「外洋への旅」に分かれる)に分けて展観している。小品も多い。

1章の「室内の情景」の中には、マリスやリボーという画家の室内の人物作品があるが、これらはレンブラントなどのオランダの画家のような光の陰翳が強い絵である。オランダの画家の影響かと思ったが、帰宅してから、オランダの画家の影響というよりは、当時の室内の照明事情のもとで画けば、こういうふうになるのかとも思いついた。

2章では、クロホールの「二輪馬車」は水彩、グワッシュだが、細密な画で驚きを感じる。またシダネルの「雪」という作品もが印象に残っている。1901年の作品だが、日本の浮世絵の描く雪よりもふっくらと湿り気があり、独特の世界である。「月明かりの入り江」という絵も展観されているが、夜景であり、浮世絵にヒントを得ていると感じる。これまた感じがよく、好きな絵である。

海運王ということから3章の「川から港、そして外洋へ」で、水辺の風景画や船の画を並べているが、シダネルの「月明かりの入り江」もそうだが、帆船の絵など印象に残る絵がある。水辺の景色だが、明るい絵は少なく感じた。帰宅してから思ったのはスコットランドの天候はこういう空が多いのではないかということだ。

知名度の高い画家の作品のコメントは次の通りである。

ゴッホの作品はバレルがコレクションにあたって信頼していた画商リードを描いた肖像画である。いつものゴッホの作品よりもおとなしいというか整った感じであるが、筆致はやはりゴッホであり、記憶に残る作品だ。

セザンヌは色も独特なのだと改めて思う。明るい色も魅力的であり、セザンヌの絵だとすぐわかる。「倒れた果物かご」「エトワール山稜とピロン・デュ・ロワ峰」の2枚が展示されていた。

同様にルノアールも風景を画いても静物を描いても、ルノアールだとわかる筆致である。「画家の庭」「静物-コーヒーカップとミカン」が展示されていた。

ミレーのデッサンが2枚展示されていたが、当たり前のことだが、デッサンの段階からミレーの描く農民の姿であり、なるほどと思うと同時に魅力的なデッサンであった。

この展覧会全体の目玉はドガの踊り子を描いた「リハーサル」であるが、ドガは”動き”を画こうと思った画家なのだと改めて感じる。また「木につながれた馬」という作品もあった。


「竹内栖鳳 芸苑余話」 平野重光 著

竹内栖鳳は「東の大観、西の栖鳳」と称された巨匠である。先年、国立近代美術館で展覧会があり、その時にライオンを描いた屏風などの大作で、かつ西洋画的な屏風などを拝見し、「なるほど、凄いものだな」と感じた記憶がある。時に見かける小品とは格段の差があった。

著者は竹内栖鳳に関する本を共著も含めて2冊上梓しているようだが、この本は執筆の過程で集めた資料や、その後に入手した資料から、体系的では無いが、竹内栖鳳の人となりを浮かび上がらせているものをまとめている。

栖鳳の粉本主義(お手本をなぞる)ではない、写生へのこだわりについて次のようなエピソードを紹介している。船とカモメを絵にしようとした時に、カモメの姿態描写に納得がいかなかった栖鳳は、伊勢に出向いたがカモメは存在せず、そこで敦賀に出向いて、子ども達の捕獲方法を学んで生け捕ることができた。餌を食べさせることにもようやく成功して、今度は京都の自宅に輸送して飼育する。京都の家では井戸水をモーターで昼夜間断なく流して3、4年生かして観察・写生する。その間、水道水を盗水だと誤解を受けたりする。しかしいつでも写生できるとなると、後回しになり、構想の絵は完成しなかったようだ。
展覧会には「雨」という作品を出すが、展覧会の審査に不満を持つ男から画に墨を塗られてしまうという後日談もある。

東本願寺の襖絵に画いた雀二羽が剥ぎ取られるという事件もあった。当時から栖鳳の絵は高価で、「雀一羽イクラ」という世界であった。
東本願寺では大谷光演(彰如上人、俳号:句佛)氏と親しく、大門天井に天女を画く構想もあり、進行していた。東京から「みどり」というモデルを読んでデッサンをしていくが、完成間近にモデルが急死してしまう。
次のモデルの「文枝」は裸になる前に躊躇してしまう。その時の風情を画いたのが「絵になる最初」という作品である。
天井画の方は未完で下絵の一部が残っている。

竹内栖鳳は京都二条城の裏手の繁昌していた料理屋「亀政」の息子である。この家は御池通油小路に移転する。姉のコトが代わって継いでくれて画業に専念することができた。この生家の近くで栖鳳も耕漁荘という画室を設けて住んでいた。その後栖鳳は嵯峨に3000坪の敷地を購入して霞中庵という別荘を建設する。建物、造作、庭に凝ったものだった。その後、東山高台寺に1300坪あまりの敷地で居宅と画室を建設し「霞中山房」と称する。完成後に肺炎にかかり、湯河原に湯治に出向き、結局、そこに「山桃庵」を建てる。

当初は幸野楳嶺から棲鳳という雅号をもらい、名乗っていたが、洋行の途中から栖鳳となる。 棲は俗字だからとして書道の杉山三郊氏から栖鳳への変更を進められていたようだ。それ以前にも篆刻師が俗字など彫るのは嫌だと勝手に栖鳳と彫ったこともあったようだ。だから時々、この頃の作品に栖鳳印が押されていることがある。

弟子の橋本関雪から逆に破門されたことがある。関東大震災時の栖鳳の寄付金が低かったことなどへの反感や審査体制などがあったようだ。

魯山人との交流もある。魯山人は篆刻を学び、近江長浜の柴田源七が贔屓にする。柴田家の長男の嫁が竹内栖鳳の長女。それで款印の篆刻を申し出て、栖鳳に認められる。栖鳳が他の画家を紹介して世に出て行く。

歌舞伎の中村鴈治郎とも親交がある話とか、岡倉天心から東京に移住を進められたことなどがあるという話も記載されている。

「最期の絵 絶筆をめぐる旅」 窪島誠一郎 著

画家を20人取り上げ、その絶筆=最期に発表したとされる絵画を紹介しながら、その画家についてのエピソードを記している本である。
この中では野田英夫の「野尻の花」は信濃デッサン館で観て、実にいい絵だなと印象に残っている。この本で野田英夫のアメリカ人の妻は野田の最期を見届けずにアメリカに帰国するが、共産党員であって、野田の死も何か組織が関係のありそうな説もあることを知る。

西郷孤月の「台湾風景図」も、どこかの展覧会で拝見したような記憶があるが、松本市美術館が所蔵しているから、私が観たと記憶しているのは別の絵かもしれない。若い時は大観、観山、春草らと四天王と呼ばれていたことを知る。岡倉天心に殉じて中央画壇から去り、橋本雅邦の娘との結婚が破綻して、不遇な生活を送り、38歳で逝去する。台湾風景を画いているが、寂しい感じを与える絵である。

鴨居玲の「自画像」も観た記憶があるが、自画像を多く描いているから別のものかもしれない。うつろが表情が鮮やかな赤(スカーレット)の背景、橙色(バーミリオン)の中に浮かび上がっている。クライけれど好きな画家である。

佐藤哲三の「帰路」は有名な「みぞれ」と同様な蒲原平野の光景だが、これも記憶がある。東京駅の美術館だったかもしれない。この作者の絵にも心が惹かれる。

靉光の「(梢のある)自画像」も鴨居と同様にいくつかある自画像と記憶がかぶっているかもしれないが、印象に残っている。少し顎を上に出して、昂然としているが実に寂しい感じが出ていてたまらない。出征前の展覧会に出品されたもののようだ。

伊澤洋の「風景(道)」は無言館で観ているはずだが、その時の記憶は他の戦没学生の絵と一緒に「もっと画きたかったろうに」という思いに総括されてしまっている。

はじめて知る画家も掲載されている。伊澤洋もそうだが、渡辺學(銚子で画いた人)、宮芳平(森鴎外の小説「天寵」のモデルとのこと)などだ。

古賀春江が晩年に精神を病んでいたことを知る。岸田劉生も遊蕩、酒浸りで歿している。全盛期の絵はピューリタン風な精神も感じる荘厳な絵であり、日本洋画の最高峰と思っているが、その差に驚く。

香月泰男はシベリアシリーズの重い絵で知られていて、私も好きだが、流行作家でもあり、納税額が1億円を突破するような年もあったそうだ。だが常にシベリアで亡くなった戦友のことが脳裏から離れなかったようだ。

鶴岡政男も「重い手」が有名で、これは名作と思う。この本によると、晩年は女好きで、他の入院患者が眉をひそめるような奇行をしていたようだ。

「江戸の外交戦略」 大石学 著

標記のテーマに即して、わかりやすくまとめられている本である。章ごとの終わりに参考文献が明記されていているのもありがたい。
全10章は「1.鎖国前史ー東アジア世界の変動と第一次グローバリゼーション」「2.豊臣秀吉のグローバリゼーション対応」「3.戦後処理と鎖国の道」「4.鎖国体制-「四つの口」と琉球・蝦夷」「5.通信使外交の展開」「6.通信使外交の歴史的位置」「7.近世日本の朝鮮人」「8.将軍吉宗と国際情報」「9.第二次グローバリゼーション-合理主義・客観主義の浸透」「10.洋学の浸透」である。

10章の内、5.6.7章の3章を朝鮮通信使の記述にあてられていたり、秀吉の朝鮮出兵のことに詳しいが、それは著者が韓国との歴史共通教材づくりのプロジェクトに参加されていた為である。朝鮮出兵時の具体的進路や抵抗の様子、江戸初期に国交回復に資した対馬藩の国書改竄までしての苦労、朝鮮からの通信使は日本に侮られないように優秀な人材をあてたこと、朝鮮から通信使が来日しても、日本側から朝鮮に出向かなかったのは、秀吉の朝鮮侵攻時に、道が判明していたから進軍されたとの思いから、朝鮮側が警戒して断っていたとのことなどを知る。

この後、明が衰えて清になると、朝鮮に朝鮮中華主義が生まれる。また日本では鎖国の過程で、日本型華夷意識が生まれ、これが攘夷思想につながる。

キリシタン禁教の歴史もわかる。秀吉のキリシタン禁止は天正15年に大村純忠が長崎をイエズス会に寄付していたことに衝撃を受けたためだが、南蛮貿易は積極的に推進。慶長5年にスペイン船サンフェリッペ号が土佐浦戸に漂着した際に船員がスペインはキリスト教を布教したのちに日本を植民地化しようとしていると述べたために京都、大坂で宣教師26名を捕縛、長崎で処刑。
この本では当時のキリスト教信者数は天正10年に約15万人、慶長5年約30万人、慶長10年には約70万人とある。拙著の「正誤表」で直した数値よりも多いから原典にあたらないといけない。

「四つの口」とはオランダ、中国の長崎、朝鮮の対馬、琉球の薩摩、蝦夷の松前である。

朱印船貿易と糸割賦制のことも理解できる。糸割賦制とは、当時の最大の交易品の中国産生糸を、ポルトガル商人が独占しており、価格をつり上げるのをふせぐために、長崎で糸割賦制を創設。京都、堺、長崎の商人が仲間を結成し、春に価格を決定し、その価格で一括購入して仲間に分配する制度で、後に江戸と大坂の商人が加わる。

なお「鎖国」という言葉は元禄3年にオランダ商館のケンペルが著書『日本誌』を記し、それを訳した通詞の志筑忠雄が「鎖国論」と訳したことからはじまる。

第8章では、吉宗は実に細かいことまでオランダ商館長に質問していることが記されている。これが洋書解禁やオランダ医学の導入などにつながる。

19世紀に欧米列強は産業革命を推進し、工業生産のための原料入手や製品の販売先をもとめ、世界各地に進出。この動きがアヘン戦争や日本の開国につながる。

「戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣」笠谷和比古 著

視点が斬新で、かつ興味深く、また著者の頭脳が整理されていることを証明するように読みやすい本である。
著者の言わんとするところを私なりに整理すると次の通りである。
①関ヶ原の前に、豊臣政権内で石田三成方と加藤・福島など七将の間で、朝鮮の陣に起因する対立がある。これで三成襲撃事件が起きる。なお三成は家康屋敷ではなく、自分の伏見の屋敷に逃げる。佐和山までは護衛を受ける。この後に家康暗殺計画が発覚して加賀前田家の家康への屈服などが起きる。
②豊臣方の合意として上杉討伐に家康や諸将が出向く。
③この間に石田三成・大谷吉継の家康討伐計画が起きる。
④小山会議は①の段階の情報で開かれ、三成討伐が決まる。あくまで反三成の合意。
⑤大坂で石田方は秀頼、毛利輝元なども巻き込んだ反家康同盟を結成するのに成功する。
⑥ここで大坂にいる諸将の妻子を人質とする動きが出てガラシャ事件が起き、この後は強制はしない。

⑦小山会議は反石田でまとまっただけであり、その後石田方が秀頼も巻き込んだ反徳川にしたので、家康は江戸で豊臣七将の動向を確認したり、各地の武将に手紙を書いての同盟工作や上杉、佐竹対策をする。
⑧秀忠軍の上田攻略は小山会議で決まったこと。攻略できなかったのは真田が巧みに戦ったから。
⑨小山会議での山内一豊の自城提供の申し出で、不安定な状況下での家康の東海道進軍が容易になったのは大きい。
⑩名古屋清洲で諸将が家康到着が遅いと苛ついていた時に、家康使者村越茂助の口上によって日和見を非難されたと思い岐阜城攻略に,向かい、落城させる。
⑪この報を受けて、家康は9/1に江戸城を出て11日に清洲到着。石田方はこの早さに驚く。
⑫家康は決戦が長くなり、毛利輝元が秀頼を押し立てて出馬した時の東軍諸将の動揺、裏切りを恐れた。だから徳川主力の秀忠軍を待たずに決戦に挑む。

⑬毛利・吉川軍が南宮山、小早川軍が松尾山に陣取る中を家康が桃配山に陣を進め、西軍の包囲網の中にまで軍を進めたのは、彼等の裏切りを確信していたからである。
⑭開戦するが、三成軍は大坂城から大砲(石火矢)数門を運び、これで応戦したので戦闘は硬直状態。他の西軍諸将も強く、一進一退となる。
⑮小早川軍には家康からも黒田からも目付が派遣されていたが、小早川の先鋒平岡頼勝と稲葉正成が動かない。一方、南宮山の毛利は先鋒の吉川が抑える。当時、先鋒の意向は非常に大きい。
⑯家康は焦り、小早川に鉄炮を放つ。やっと手はず通りとなり、勝利する。

2段階論(反石田だけでまとまる段階から、西軍に対峙する段階)と、秀忠軍の想定通りの行軍、家康が江戸から動かなかった理由、関ヶ原の戦い時に確信していた裏切り想定がなかなか裏切らなくて家康が爪を噛んだことなど新鮮である。

関ヶ原後に、家康は東軍諸将に恩賞を出すが、領地宛行状を発行して領地を定めていない。これは鎌倉幕府以来の東国・西国の二元統治体制が生きていて、西国は豊臣秀頼の管轄という意識が生きていたからである。
この意識は征夷大将軍になっても存在し、徳川家、豊臣家に皇室も巻き込んでの閨閥で対処することも指向したが、結局、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすに至る。

二元統治体制だったとの証明は、①家康としての領地宛行状の未発行の件、②秀頼の領国は摂津・河内・和泉だけだが、豊臣家の旗本というべき武将の知行地は伊勢など他の西国に存在していたこと、③江戸城普請は天下普請だが秀頼には役が無く、普請に豊臣奉行人が介在していることなどで理解できる。

大坂冬の陣の後に堀の埋め立てを行うが、騙したのではなく、当初の条件に二の丸、三の丸の堀も埋めるとあった。ただし、二の丸の堀は豊臣方が破却するという条件だったのを徳川方が実施したので抗議された。

大坂夏の陣では籠城できないから野戦になったが、大坂方の武将は死を覚悟して奮戦するも、数の力で消耗して敗戦。

大坂の役後も、太閤検地的な中央による一元管理は行わず、日本全体を統治する体制が構築できずに、各地方(領国)ごとに大名統治に任せた。大名領国への内政干渉的施策はとらない。
また、豊臣秀吉は大名家臣にも秀吉自ら領地をあてがう(例えば直江山城守)ことをしたが、家康はしていないのも上記の根拠である。


「戦国武将を育てた禅僧たち」小和田哲男 著

「なるほど」と思った書物である。この本によると、禅の教えは儒学と結びついていて、儒学は人間の道、政治のあり方などを教示してくれる。すなわち禅で戦国武将は統治者としての心構え、思想を学んだということが記されている。
禅門で学ぶ学問には兵法の書も含まれている。また易学とも強い結びつきがあり、この結果として禅僧から、戦国武将の軍師と呼ばれる者を輩出したことが記されている。戦争には運も大切だ。
また禅宗に限らないが、当時の宗教は全国に末寺を有して、ネットワークを持っていた。そういうこともあり、戦国武将間の連絡・外交に禅僧が活躍したことが理解できる。外交官でもあったわけだ。

本は次の7章からなる。「1.武将にとって禅とは何だったか」、「2.子弟の教育機関だった禅寺」、「3.武将幼少時の師となった禅僧」、「4.戦国の合戦と禅僧」、「5.易者でもあった禅僧」、「6.信長「天下布武」の陰に二人の禅僧」、「7.政治顧問に迎えられた禅僧」の章である。

「1.武将にとって禅とは何だったか」では武将は禅僧との問答によって精神を鍛える、すなわち精神的な徳を涵養することだったと著者は説く。徳とは具体的には武士としての行儀、分別、人の上に立った時の礼儀、日常生活の規律と説明している。
北条早雲こと伊勢新九郎盛時は建仁寺で修行しており、さらに大徳寺で修行し、大徳寺特有の「宗」の字のついた宗端を名乗る。同時期に大徳寺にいた一休宗純は僧が軍書などを読んでいる風潮を批判している。早雲が定めたとされる21カ条に「第一、仏神を信じ申すべき事」とあり、早雲は当時としては人道的な政治”慈悲の政道”を行ったことで知られている。すなわち、これは儒学的知識でもある。

徳川家康の師とも言える藤原惺窩も元は禅僧である。この弟子が林羅山。また朝倉孝景、結城政勝のように家訓を残している武将は、その家訓の内容に禅、儒教的な教えを織り込んでいることが理解できる。武田信繁、大友宗麟も禅の影響を受けていた。

茶禅一味という表現もあるが戦国武将に流行した茶道も禅の精神を持っていた。

また今川義元は栴岳承芳と名乗り、禅寺で修行していた。この軍師ともされる太原崇孚こと雪斎も禅僧であり、徳川家康は今川時代に彼に学ぶ。

「2.子弟の教育機関だった禅寺」では武将の子の一人は仏門に入れるのが当時の習いでもあった。「一子出家すれば九族天に生ず」という言い伝えもあるが、教育機関でもあった。時にその中から還俗して武将に戻る人物も足利義教、今川義元などのように出る。
「3.武将幼少時の師となった禅僧」として武田信玄は岐秀元伯から『碧巌録』を学ぶ。その後に快川紹喜が師となる。上杉謙信は天室光育、伊達政宗は虎哉宗乙が師で『十八史略』を学び、黒の軍団、独眼竜のヒントを得た。

「4.戦国の合戦と禅僧」では陣僧として多くの僧が出兵し、兵の最期を祈り、屍体処理にあたる。また従軍医でもある。また禅門のネットワークを使った使僧、外交僧の安国寺恵瓊は有名である。

「5.易者でもあった禅僧」では禅宗が密教化していき、易学に近づいていくことが述べられる。その易学の教育研究センターが足利学校である。学ぶ者が3500人~3000人もいた。禅宗の学校だが、参禅はなく、漢籍中心の講義を受ける。そこでは易学が重要な課目であった。戦国武将は足利学校で学んだ者を軍師として招くことを盛んに行う。徳川家康は閑室元桔(足利学校第九世庠主)に関ヶ原の戦いの日時などを占わせている。金地院崇伝も活躍した。朱印状の発行と禁教令のような法案の作成にあたる。

「6.信長「天下布武」の陰に二人の禅僧」の章は神も仏も信じないように思われている信長が、策彦周良と沢彦宗恩を活用して、前者は天主の命名、後者は天下布武の言葉を選んだとの説を紹介している。

「7.政治顧問に迎えられた禅僧」では毛利元就の病気を治した曲直瀬道三のことに触れ、禅僧が医学的知識があったことを述べている。

「日本の金」彌永芳子 著

著者は「彌永北海道博物館」を運営しており、特に北海道の産金の歴史やアイヌ文化を研究している人と著者紹介にある。なんとなく脈絡が通らない展覧会のカタログ的な本である。
北海道の産金の歴史は文書が残っている範囲では江戸時代の松前藩政からになるが、それ以前の日本の産金史についても触れている。
まず陸奥の産金があり、それは天平21年(749)に陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡湧谷町黄金迫とされている)から歴史に残る。聖武天皇の時の記録にもあり、大仏建立時の鍍金に使われたわけだ。
平泉の金色堂や義経を陸奥に誘った金売り吉次(実際は橘次で京都三条の両替師の一人という)の伝説などが陸奥にはある。ナヨ竹という長さ8寸ほどの竹筒で砂金を持ち運んだようだ。

戦国時代の話として甲州の黒川金山、雨畑砂金地、富士金山、安倍金山、西八代郡金山などに触れられている。次ぎに佐渡島の金山のことが書かれている。各地の案内板程度の内容である。

金銀山の産出方法、経営方法の解説があり、湧水との戦い、暗闇における照明の苦労などが記され、坑夫で40歳を超えるものは稀だったことが記されている。ここに灰吹法のことが記されていて参考になるが、はじめてこんな方法を見つけた人は偉いものだ。

金が贈答用から貨幣になる歴史や、外国人に日本が金銀島と伝わった事情を簡単に紹介する。

砂金の形状(中に769グラムほどの大きなものも出たそうである)の説明もある。金鉱山では平均して鉱石1トン中に5~10グラムの品位だが、現在の菱刈金山は1トン中50~60グラムの品位もあるようだ。

松前藩は当初は秘密にしていたが、キリシタンも容認して掘っていたようだ。

砂金掘り用の昔ながらの道具が図解されている。


「ペンシルワーク 生の深い闇から」 木下晋 著

鉛筆を使い、精緻と言う表現を超えて、内面まで刻み込み、抉るような絵を画く木下晋の画文集である。木下氏が折に触れて、新聞、カタログ、雑誌などの発表した文章をまとめ、それに書き下ろしの文章も織り込んで編集されている。

絵の方は、厚手の紙質のページで、多く掲載されている。木下氏がモデルとして取り上げた人は、最後の瞽女として人間国宝にもなった小林ハルさん、貧苦の中で画家を育ててくれた母・木下セキさん、佐渡の相川町の一軒家をアトリエとして画家に貸した家に住んでいた小杉ハツさん、神戸に住み、夫はニューヨークやパリで著名人とも親交があった写真家中山岩太氏の奥さんの中山正子さん、谷崎潤一郎の『痴人の愛』のヒロイン・ナオミのモデルともされている和嶋せいさん、村山槐多の代表作「バラと少女」のモデルの相良キミさんや、美術評論家で画家と親交があった洲之内徹氏夫妻などである。

これらのモデルとなった方の人生にも触れてエッセイとしている。いずれも重く、深い人生を送ってきた人であり、それらの人々の人生の重みを、刻まれた皺の一本一本を描くことで描写して、鬼気迫るものがある。

また、画家の故郷の冨山の呉羽山山麓、画業の挑戦に出向いたニューヨーク、それからインドの貧民窟に出向いた旅のことにも触れている。

著者が影響を受けた詩人滝口修造氏の思い出や、指導を受けた大滝直平氏、無名時代に絵を買ってくれたY氏(銅器の梱包職人)、前衛舞踏家の土方巽氏の夫人で自身も舞踏家の元藤燁子氏や匿名のコレクターのことも記している。

著者の印象に残っている芸術家である陶芸の加藤正義氏、夭折の画家・保多棟人氏、同じく神田日勝氏、田畑あきら子氏、著名な現代美術家・荒川修作氏、メキシコ人画家シケイロス、ノルウェーのサビエ氏の出会いや思い出も記されている。神田日勝氏以外は作品を知らない芸術家であり、機会を見つけて拝見したいと思う。

また信濃デッサン館の窪島誠一郎氏のことにも触れているが、私がこの本を購入したのはある画廊で窪島氏と木下氏が同席された場であった。私は木下晋氏の鉛筆画を2枚所有しているが、それをそこで購入したから画廊主が呼んでくれたわけだ。この本はその時ではなく、その後での購入だ。この時は窪島氏の本を購入している。


「日本の歴史19 文明としての江戸システム」鬼頭宏 著

講談社の日本の歴史シリーズである。表題のように、江戸時代を政治的事象、人物の事績、文化・芸術などは取り上げずに、江戸時代といものを全体システムととらえようとしている意欲的な本である。具体的には人口の推移、生産量の推移と生産品目の変化や、それをもたらした耕地面積の推移、働き手である当時の農村の家庭事情、結婚、離婚、出生率なども調べて明らかにしようとしている。この一つとして、貨幣経済下で勤勉に働けば収入になって豊かになるという意識も大きかったと説く。
また人口の伸びや経済成長が停滞した時は資源が限界に達していたこと、その中でも日本は西欧に比べてリサイクル社会ができていたことなどを明らかにしている。

人口、結婚などは日本独自の宗門人別帳の分析結果などを提示している。東海、北陸の農村は男が25~28歳、女が18~24歳。東北の農村が最も早婚男20歳、女15歳。濃尾平野から畿内が最も晩婚であるとする。

人口は1600年時点では説によって異なるが、著者は1500~1600万人程度とみている。そして享保6年の吉宗による人口調査が2607万人だが、この値には蝦夷地は松前氏の支配地域まで、また琉球は含まないことや、武士人口は全て欠落していること。またデータの基礎となる年齢下限は1歳から7歳程度まで除外とかの調査した藩によっての差異があるので、それらを修正して、享保6年は3128万人程度としている。また弘化3年の2691万人のデータも同様に修正して3229万人と推計している。

実収石高は1600年が1973万石、1700年3063万石、1830年が3976万石。1870年4681万石と推計する。幕府の公表の石高よりも多いが、この推計では食用作物だけでなく、急成長してきた商品作物も含めている。

江戸時代の後半はプロト工業化(産業革命に先行する時期に見られた、農村部における手工業生産の拡大という社会現象)の段階に入っていたとしている。

江戸時代の日本列島内での自己完結的な発展は江戸時代中期に成熟を迎え、行き詰まり後に開国の必然性が意識されたとする。

数値データも多く、参考になる本であり、目的意識を持って読むとさらに面白い本であろう。

「メアリー・エインズワース浮世コレクション」展 於千葉市美術館

この展覧会は、明治の後期に来日したアメリカ人女性メアリー・エインズワース(1867~1950)が蒐集した浮世絵の展覧会である。彼女は日本で購入するだけでなく、アメリカのオークションでも買い集めていた。
現在、オハイオ州オーバリン大学のアレン・メモリアル美術館に1500点が寄贈されている。今回里帰りははじめてとのことで200点が展観されている。

初期の浮世絵に珍しいものが多い。次の5つのパートに分けられて展示されている。「1.浮世絵の黎明 墨摺絵からの展開」、「2.色彩を求めて 紅摺絵から錦絵の時代へ」、「3.錦絵の興隆 黄金期の華 清長から歌麿へ」、「4. 風景画時代の到来 北斎と国芳」、「5.エインズワースの愛した広重」である。

延宝8年(1680)頃に、「浮世絵」という言葉が出現し、墨摺絵が作られる。そのうち色彩として、版画の上に1枚1枚筆で彩色したものが生まれる。このコレクションには、初期浮世絵の珍しいものが含まれている。作者としては菱川師宣、鳥居清倍、懐月度、奥村政信、石川豊信などである。

寛保・延享期(1741~48)になると、版による彩色が始まり、墨の輪郭線に、紅と緑の色が摺られるようになる。これを紅摺絵と呼ぶ。そして明和期(1764~72)には、狂歌などの趣味人たちの摺り物の制作から、多色摺の木版画=錦絵が生まれる。鈴木春信が代表である。春信らしくない浮世絵も展観されている。鳥文斎栄之の3枚続きのものなど良かった。

3章では錦絵が盛んになった天明期(1781~89)の鳥居清長(8等身の美人)、次いで喜多川歌麿の美人画、東洲斎写楽)の役者の大首絵の展示となる。写楽は「2代目小佐川常世の一平姉おさん」が展示されていた。雲母摺が少し剥げているがいいものだ。歌川豊国の三代目沢村宗十郎の作品も印象に残っている。また歌川国政の「岩井粂三郎の禿たより」もハッとする絵だ。

4章では北斎の富嶽三十六景の「凱風快晴」、「山下白雨」の名品が際立つが、「甲州三坂水面」も面白い絵と思った。また国芳の風景画も展示されていたが、面白い。私も買おうと思ったことがあったが、価格が高いので、これなら広重の方がいいと思った。

5章の広重がコレクションの約半数を占めるとのことだ。保永堂の東海道53次は摺りと保存の良いものが並んでいた。木曾街道69次の「洗馬」「宮ノ越」もいい絵である。
私の好きな名所江戸百景では「大はしあたけの夕立」の初摺りで舟が3艘つながれている絵も展示されていて勉強になる。それ以外に蔵屋敷の壁が白いことに気が付く。「両国花火」も摺りが違うもの2枚が展示されていた。

この展覧会に加えて「ピータードラッカーコレクション水墨画名品展」も行われていた。一度、同館で拝観したことがあるが、禅画(白隠、仙涯)はいいものだ。また曾我簫白の「雪景山水図」は奇矯なところがなく、いい絵と思う。私がこの中で感動したのは谷文晁の「月夜白梅図」である。
水墨画だけでなく尾形光琳の団扇絵や狩野探幽の「波に兎」のような彩色のものもある。

いつもながら千葉市美術館は水準が高いと思う。

「もっと知りたい 千葉県の歴史」小和田哲男 監修

この本は千葉県に関する歴史的事項を「史跡篇」「信仰篇」「事件篇」「人物篇」「文化・生活篇」に分けて簡単に説明している。簡単だけに断片的であるが、こんなことがあったのとか、こんな人物がいたんだということがわかる。

「史跡篇」では縄文時代の貝塚の遺跡が約700と多いこと、また古墳も1300も確認さrていて兵庫に次いで全国2位であることがわかる。古墳時代の国造(くにのみやつこ)も阿波、長狭、上海上、伊甚、武社、菊麻、須恵、馬来田、千葉、印波、下海上と全部で11もあったことを知る。地域の自治権を持った地域権力が多く県内にいたことがわかる。この11が、7世紀半ばから上総、下総、安房の三国になる。また下総台地は馬の牧が多く作られていたようだ。
幕府は慶長14年に東北の諸大名に銚子湊のお手伝い普請を命じている。そして東北諸藩→銚子湊→利根川を遡り→江戸というルートができてくるわけだ。

「信仰篇」では房総は日蓮が生まれたから日蓮宗だけと思ったら、浄土宗を良忠が広めたことを知る。日蓮宗は長享2年に里見氏の援助を得て土気城主となった酒井定隆が日泰上人に帰依して領内の諸寺院を日蓮宗に改宗させる。これを七里法華という。

「事件篇」では河内源氏が東国に地歩を築いたのは平忠常の乱を平定した源頼信からと知る。

「人物篇」では剣術で飯篠家直、小野忠明が出る。菱川師宣や、『利根川図志』を著した医師・赤松宗旦、東京歯科大学の創設者の血脇守之助、日本式点字の開発者石川倉次、サッカー、卓球、テニス等を紹介した坪井玄道などの人物を知る。

関東捕鯨を確立した醍醐新兵衛は鋸南町に住む。小林一茶とも親交があった女流俳人の織本花嬌。蘭癖大名の堀田正睦。平田篤胤の門下で下総国学の宮負定雄、同門で『房総三州漫録』の著者深河潜蔵。波の伊八とも言われる彫刻師の武志信由、農村を立て直そうとした大高善兵衛、平山仁兵衛の兄弟。農政学者の大原幽学。佐倉藩士の孫娘、津田梅子、明治工業の父西村勝三などが登場する。

「文化・生活篇」では、青木昆陽はサツマイモの普及に力を貸したとされているが、下総国武石村(千葉市)で安永年間に一人の浮浪者がサツマイモの作り方を教え、死後に神として祭られたことを知る。


「日本刀の華 備前刀」展 於静嘉堂文庫美術館

刀剣の畏友H氏と標記展覧会に出向く。ここは備前刀に良いものがある。それは明治の大鑑定家今村長賀をアドバイザーとして岩崎家が集めたからである。今村長賀は正宗抹殺論側に与した人物で、備前刀を最上位の刀剣とし顕彰している。

刃文を観るのに苦労した。太刀として、刃を下に展示してあり、H氏としゃがみ込んで拝見した。年寄りに、こんな格好を何度もさせないで欲しい。
なお各刀剣の前に、刀の図に該当部分を示して、そこに作風の特徴(例えば「錵づいている」とか鋩子部分を「枯れて乱れ込む」など)を示して、拝観する人の便宜を考えている。ただし「板目肌が渦巻いている」というような表現があったが、これは杢目肌のことだとH氏に言う。「枯れて」という表現も違和感を感じる。

刀剣女子を意識しているのか知らないが、刀にキャッチコピーのような表現をつけて紹介しているのは、私のような人間にはいただけない。「イケメン大名、本多平八郎の所持銘入り」「長船鍛冶の総帥、華麗なる一振」というようなものだ。

今日は幸いなことに刀剣女子はほとんどおらず、老年の夫婦、老女のグループ、中年女性のグループ、中年女性の一人、老人男性が一人などだ。刀剣展のほかに、国宝の曜変天目茶碗が展観されていた為でもあると思う。

帰宅して思うのは、今は古備前とされている刀工の作風も、長船長光と同じような直丁字風の刃文、そして物打ちから先の刃文が少し寂しくなるような作風のものもあり、せっかく、これだけの備前刀があるのだから、そういう研究に着手したらどうかと思う。

嘉禎の友成も展示されていた。これは、この通りに嘉禎の時代(1230年代で福岡一文字と同時代)でいいのではなかろうか。そうすると源平合戦時(1180年代)に友成を使って戦ったという武将の話は何なのかとなる。
H氏は友成は時代ごとに何人かいたのではおっしゃるが、信国以前に長光も含めて襲名の風習は無かったという説をとると矛盾してしまう。刀剣はわからないことがある。

反りも、鳥居反り(京反り)の太刀から、腰反りの太刀まで様々である。磨上げでも感じは違うし、反りを後世に直したなんて話をすると、混乱に拍車がかかる。反りで時代判定ができると豪語している鑑定好きに整理してもらいたいところである。(前述した古備前刀工の時代見直しに関係する)

以下は個別の太刀の話になる。入口に古備前高綱の太刀が展示されていた。作為の無い細かい小乱れ刃で、小錵出来の、いかにも古備前という健全な太刀であった。朱塗り鞘に、細い柄糸を間隔を空けて片手巻きにして目貫も良く見えるような柄の打刀拵が付いていた。

印象に残ったのは”包”が付く刀工の作品だ。古備前吉包は直調に頭を揃えた丁字刃が明るく冴えて、物打ちから上は長船長光と同様に小模様だ。

一文字信包の太刀もいい。刃幅もたっぷりあり、大ぶりの刃文で大互の目で、ハバキ元に濃い映りが出ている。匂口も締まって明るい。この太刀には時代の上がりそうな桐文の金具が付いた黒呂色鞘の風格のある拵が付いていた。

一文字包家の太刀は珍しいが、直丁字の刃で映りがよく出た刃で健全である。

”包”が付かない御刀では、一文字吉房は華やかな刃文で、いかにも全盛期の福岡一文字という太刀だ。なお解説に吉房、信房、則房は”備前の三房”と言われているとあったが、私ははじめて知った言葉だ。”古備前の三平”は知っていたが。

一文字守利は本多平八郎の息子の所持銘が金象嵌で入っていたが、豪快で健全な立派な太刀である。

長船真長の小太刀と長船景光の太刀は元に濃い映りが帯のように出ていた。乱れ映りが乱れずに連結したような映り、棒映りの棒が太くなったような映りである。真長は華やかな刃文で、逆丁字刃も含めて、色々な乱れ刃が交じり、楽しそうな出来である。
景光も健全で直丁字刃の立派な太刀である。

雲生は3尺に近い太刀で、直調に互の目刃が交じり、長光後期作のように見える。鑑定会の判者も勤めるH氏に「こういうのは同然にするのですか」と聞く。
雲次には二重刃が見える。葵紋の糸巻太刀拵が付いている。

刃は見えないが、草壁打ちの勝光・宗光合作の大身槍が展示されていた。珍しいものである。

刀装具は後藤家の代々の作品が各代2点ほどずつ展示されていた。いずれも立派な健全な作品だ。あとは後藤一乗の作品が多く展観されていた。後藤上代の作と比較すると”軽い”感じだが、時代の差なのであろうか。

曜変天目茶碗は稲葉天目と号されている国宝である。自然光が入る入口脇の庭園に面した空間に一つだけの展示であり、趣きがあった。本当に油滴のように周りが虹色に輝いている滴が2~3ずつ茶碗の中に散りばめられていて玄妙な感じがする。外側は釉薬がかかっていないような肌だが、H氏に伺うと、釉薬はかかっていて、それが垂れたような痕跡もあるとのことだ。不思議な焼き物が出来たもんだ。昔、もの凄い価格で落札したようだ。

行き帰りはH氏と二子玉川駅まで歩くのだが、いつも道を少し間違える。こういうことも運動だと思って歩く。



「戦国京都の大路小路」 河内将芳 著

戦国時代の京都は上京と下京の2つに分かれていたとの話は知っていたが、この本は具体的に地図に落とし込んでおり、よく理解できた。
また洛中洛外図などの絵を駆使して、それら市街地を廻らせていた土塀や堀の様子もよくわかる。堀を掘った土で、土塀を作り、要所に門があるが、その門のいくつかには櫓がある。土塀で囲まれた全体が惣構となる。
堀の中には、幅約6.5㍍、深さ約2㍍の跡も発掘されている。
中世ヨーロッパや中国の都市と同様である。もちろんヨーロッパは石造りという違いがある。

町の中にも、120㍍程度ごとに木戸門(釘貫)を造っており、夜になると閉められてた。門には潜戸はつけられていた。

上京と下京の町の間や、土塀から外れた地域は麦畑などが広がっていて、連歌師宗長は『宗長手記』の中で大永6年(1526)の項に「内裏は五月の麦のなか、あさましとも申すにもあまりあるべし」と記している。

下京は、南北街路は東から東洞院、烏丸、室町、町、西洞院、油小路の範囲である。堀川通りに堀川が流れていて、ここが西側の境界となっていた。
東西街路は北から押小路、三条坊門、姉小路、三条、六角、四条坊門、錦小路、四条、綾小路、五条坊門、高辻が惣構の中にある。
鴨川の橋は四条通りと五条通りにあるだけで三条通りにはなかった。四条通りが大事な通りであった。

上京は、下京より少し西に広がり、南北街路は東から東洞院、烏丸、室町、町、西洞院、油小路、堀川、猪熊、大宮である。東西街路は北から上立売(西大路)、北小路、武者小路、一条、正親町が惣構のなかにある。
上京では堀川の西側も惣構に取り込まれていて、川ヨリ西組という町であった。堀川の東寄りに小川も流れていて、応仁の乱では川より西が西軍となっていた。
上京では上立売(西大路)が大事な横の通りである。

下京と上京をつなぐ南北街路は室町通りとなる。この通りに面して足利義昭の屋敷があり、妙覚寺もあった。

町は道路をはさんだ両側の約60軒ほどが向い合って共同体を形成していた。

道路は日に2度清掃して水を撒く。道路の地面は中央が高く左右が傾斜しており、すぐに乾くとフロイスは記している。(ヨーロッパは反対に中央に溝)

公衆便所が家の前の道路にあって、すべての人に開放されていた。烏丸通りにあるのが絵に残されている。臭気にヨーロッパ人は辟易したが、人糞は肥料として売られていた。

そういう戦国時代の京都を秀吉が改造した。まず聚楽第を東西は上京の外、すなわち大宮通りの外側で上屋町通りまで、南北は一条通から出水通までの規模で造られる。

そして三条橋を架橋する。この橋から小田原北条攻めに出陣するデモンストレーションが行われる。

それから京都全体を囲む御土居の建設がはじまる。御土居の門は10カ所だけ。町々の木戸門(釘貫)は撤去される。

そして縦の道として「つきぬけ」を増設する。平安時代から続いた碁盤の目の真ん中を突き抜けるような道である。

こうして、当初は8千から1万の人口が戸数3万を越えるように発展した。



「私家版 大きな時計」 舟越保武 著

昨日、本箱を整理していたら、標記の本が出てきた。外箱に入っていて、中の本にはパラフィン紙もかかったままで、読んだような痕跡も無い本である。
私は舟越保武の良いデッサンを所有しており、その縁で購入して読んだ本だと思うが、改めて再読した。この人は彫刻家が本業であるが、文章においても、「巨岩と花びら」というエッセイで、日本エッセイスト・クラブ賞を授与されている。

本のあとがきを読むと、この本は1986年に日経新聞に25週にわたって掲載したエッセイをまとめたものである。そして私家版とは著者が2002年に逝去された時に、ご家族がお世話になった方への御礼として、デッサンを多く入れ、装幀も変えて出版されたものとある。だから定価も無い。ちなみに所載されているデッサンは著者が1987年に脳梗塞を患い、右手が利かなくなってから描いたものと、奥様のあとがきにある。

私は、古書店から購入したのだろうが、そんな経緯もまったく記憶にはないが、2004年5月15日の郵便局の4500円の払込受領証が挟まっていた。

タイトルになった「大きな時計」は収められている一つのエッセイの題から採られたのであろう。著者は俗な言葉で言うところの落ち込むことが多く、その時に「大きな時計も小さな時計も、どっちも時間は同じだ」との言葉などを思い出して心を整えるようなことが書かれている。

このように著者の生活、身の周りの出来事に関して、著者の考え、思いを綴っている。言葉などはあてにならないが、眼の表情に、その人の心が全て出るというとも記されている。

また彫刻家らしく、人間の表情を似せる為には、後頭部をしっかりと似せて作らないとうまく行かないとも書いてある。
人間は動物より優れているようなことを言っているが、顔などは動物の方がいいとも書いてある。そしてただ人間が美しいのは手指とも述べている。

老いて目立ってくる皺についても記しており、肘の後ろの皺などに本当の年齢は出るなど観察が細かくて興味深い。

作品と同様に、ストイックで心のきれいな人(あるいは心をきれいにしようと常に意識していた人)だったことが理解できる。

(リンクした本は私家版ではない)