「風神の門」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集2の「風神の門」である。司馬遼太郎が初期に書いていた忍者ものの時代小説である。
 主人公は伊賀者の霧隠才蔵で、舞台は関ヶ原の戦いが終わり、これから徳川方と大坂方の争いが想定される時期の京都から始まる。
 才蔵は堺の商人の為に情報を取ったりする仕事についており、八瀬の里にある茶屋に郎党と一緒に湯を浴びにいくところから始まる。そこで徳川方の刺客に襲われる。
 八瀬の里で顔がわからないが良い香りのする女性に会い、再見したいと思う。下忍を使って調べると、公家の菊亭大納言の姫とわかり、その屋敷に忍び込む。そこで姫に会うが、八瀬の里の女性とは違うことに気付く。八瀬の女は公家の娘の名を騙っていたわけである。
 その者は淀殿の侍女で、後にこの侍女が大坂方の諜報活動の中心人物として京都にいる牢人などに大坂方に参陣するように働きかけていたことがわかる。
 そして才蔵を襲った刺客らは徳川方の諜報機関に属する武士とわかる。
 こんな形で、大坂方、徳川方双方の暗躍に才蔵は巻き込まれ、それぞれから自陣営への参加を求められる。

 才蔵の生き方は、どちらの組織にも属さず、己の忍びの技術で生き抜くというものだが、一時は徳川方になって活躍し、次ぎには豊臣方となって活動していく。実際には、登場する魅力的な女性の為に、活動するようなはめになる。司馬遼太郎小説にまま見られるパターンである。

 霧隠才蔵はスーパーマン的な忍者である。前述した豊臣方の女棟梁は隠岐殿とよばれ、淀殿の侍女で大野治長の妹である。公家の菊亭大納言の姫は、菊亭大納言が豊臣方に近かった公家であり、豊臣方、徳川方のそれぞれに利用されて翻弄されていく。
 そこに、隠岐殿の腹違いの妹が登場する。当初は当然に豊臣方だが、実は徳川方の女間者だとわかる者も彩りを添える。

 また忍者間の闘争の中で、大坂方に属している猿飛佐助と出会う。猿飛は甲賀忍者で、甲賀忍者は伊賀忍者と違って、組織に属すとして、大坂方の、特に真田幸村に心酔していた。結局、猿飛佐助と協力して幸村の命で徳川家康の命を狙うことになる。

 この道中で、才蔵を助ける甲賀忍者の女が登場する。
 出てくる女性は皆、それなりに魅力的で才蔵は惹かれ、女性も才蔵を恋い慕う。
 家康暗殺では風魔忍者の強敵も現れる。そして最期は大坂で真田幸村の為に戦い、落城時には淀殿の侍女の隠岐殿を助けて落ち延びる。
 荒唐無稽な物語であり、このような小説だけなら、司馬遼太郎は大衆時代小説作家で終わったと思う。
 大坂方の武将としては真田幸村と後藤又兵衛が好きなようだ。
(本は文庫本を紹介する)

「上総の剣客」「奇妙な剣客」 司馬遼太郎著

 全集12所載の短編である。幕末に江戸麻布永坂に「おだやかさま」と称される剣術道場主がいた。上総飯野二万石の保科家の剣術指南役で、北辰一刀流の千葉道場では海保帆平らと「千葉道場の四天王」とよばれていた森要蔵である。

 近所の人から「おだやかさま」の仇名をつけられるほどに、物腰が柔らかく、本当に強いのかと近所の町人が噂をするほどだった。
 有るとき、近くの石屋が鑿で石を割る仕事を観ていて、石屋とどちらが早く割るかを競うことになる。石屋の方が早く割る。

 この夜、要蔵は人が変わったように考え込み、妻を離別して旅に出ると言う。森要蔵は剣で迷いが生じた時にこれまでも時々、このような奇行をしてきたと書いている。妻はこの奇癖にいつもとまどっていた。要蔵には子がいたが、長男はこのような父の態度に反発して剣の道を継がず、次男が天稟の冴えを見せる。

 留守中の道場を時々見るように頼まれた海保帆平は、この話を聞き、自分も石屋の仕事を見てから、石割に挑む。すると四半刻で割り、驚いた石屋に自分は「森の弟子だ」と伝える。

 1年ほどして要蔵はいつものように何事もなかったように家に戻る。石屋で海保帆平と同様に石を早く割るようになっていた。

 世は幕末動乱。江戸詰めの武士も上総に引き揚げることになり、森家も引き揚げる。
 上総で藩論は紛糾するが、藩主は少数で抜けだし、勤皇になり、藩を朝廷に返納する。その結果、藩士は三々五々に行き先を決めるが、要蔵は会津に行くと決め、次男を連れて行くとした。妻は内心は反対するが、仕方が無い。

 会津での森父子の戦いぶりは生き残りの会津藩の山川健次郎がくりかえし語るほど見事なものであった。官軍の板垣も見事な戦いぶりに銃撃するのも止めて見入るが、その後の銃撃で2人は戦死する。
 なお、飯野藩には講談社の創立者の野間青治の先祖もおり、要蔵の義理の孫で、戦死した次男と同姓同名の森寅雄の話も追記してある。

「奇妙な剣客」

 これも全集12の中の短編である。毛色の変わった小説で、安土桃山時代にバスク人の剣客が、日本行きのポルトガル船に乗って、日本に来て、平戸と日本側の武士に殺される顛末を物語りにしたものである。

 バスク人は不思議な民族でアッチラの子孫だとかの伝承があり、日本人に親近感を持っていたという想定である。

 この剣客は航海中に海賊との戦いに貢献していた。平戸に着いた時に、船の乗務員と町の人がトラブルになる。平戸の武士(この人物の生活ぶりも書いているが、特段の話でもない)と戦い殺される。おもしろい小説ではない。

「理心流異聞」司馬遼太郎 著

 これも全集12所載の短編である。天然理心流の道場にいた北辰一刀流の沖田総司の逸話である。
 三多摩地区で、近藤の代稽古に出向いた途中、3人連れの武芸者に出会う。相手は名乗らないが、沖田の名を知っており、試合を申し込まれる。他流試合は禁止だからと言ってその場を去り、近藤、土方にこのことを伝える。
 沖田から、これら連中は脛(すね)当ての道具を持っていたと聞いた近藤は、彼等は松月派柳剛流の者であると推測する。この流派は上段から脛を狙う特異な剣法であった。そして、最近は三多摩の天然理心流の地盤を荒らしていた。

 当時、天然理心流には江戸に道場もあったが悪性の麻疹がはやり、道場は寂れていた。

 ここで柳剛流に関する逸話が挿入されている。江戸の道場を軒並み負かしたことがあるようで、北辰一刀流の千葉栄次郎も負けたが、次ぎに試合をした桃井春蔵は勝ち、これを観て研究していた千葉栄次郎が再度立ち会って勝利したという話である。

 その後、この3人組に同門の井上源三郎がやられる。近藤は沖田が北辰一刀流を学んでいたから、柳剛流を破ったことがある北辰一刀流の知り合いのところで対策を聞けと暗に伝え、沖田は伝手を頼って教えを受けようとするが断られる。

 そして沖田は柳剛流の本拠の蕨に出向き、試合を申し込む。寺の裏の松林を月夜の晩に指定される。相手は7人で待ち伏せをし、沖田は這々の体で戻る。
その後、沖田は一時期、行方がわからなくなる

 沖田が戻ってきた頃に、京都で浪士徴募の動きがあり、近藤らは参加する。江戸の道場が寂れてきたことも背景にある。これが後の新撰組である。

 京都で浪士取締で戦う中で、長州藩に与力していた松月派柳剛流の者と出会い、沖田は激闘の末、討ち果たして、長年の怨みを解消した。
 あまり面白くない小説である。

「大夫殿坂」 司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集12所載の短編である。この作品は、作州津山藩の大坂屋敷勤めの武士が死去し、その跡目を剣も使える弟が継ぐことからはじままる。
 兄の跡目を継いで大坂に来て見ると、藩邸のものも、何となく兄の死の真相を隠しているように感じる。そこで真相を探るべく、動きだすのだが、藩邸の者はこぞって詮索はやめるように言い、女遊びに誘う。そこで大坂藩邸の腐敗を知り、義憤にかられ、また兄も女遊びを盛んにしていたことを知る。

そして兄と親しかった遊郭の女から、兄の死の真相を探ろうとする。兄は駕籠に乗って帰る時に刺客にあったことを知る。刺客の正体を藩邸の者も何となく知っているような雰囲気で、奉行所の与力も真相を知っているが、言わない。

 当時は幕末動乱の時代で、大坂では新撰組が金集めなどに跳梁していた。その新撰組隊士と、遊郭の女をめぐってトラブルになって殺されたことがやっとわかる。
 大坂の奉行所も与力内山が新撰組に殺されたりして、関わりたくなかったわけである。弟は脱藩して、兄を殺した新撰組隊士を狙う。そして往時、福島左衛門大夫正則の屋敷があったことから名付けられた大夫坂で戦い、相打ちで果てる。

 各藩の大坂蔵屋敷の腐敗(商人と癒着しやすい構造になっていた)、新撰組が治外法権的な組織になっていったことなどが書かれている。広義の司馬遼太郎の新撰組関連作品である。

「越後の刀」司馬遼太郎 著

 竹俣兼光を司馬遼太郎が物語にした小説で、全集12所載である。
 主人公を栃尾源左衛門(元上杉家の藩士で牢人している)として、京都の借家で「おもよ」という妻と暮らす。生活は「おもよ」が面倒をみていて源左衛門は働かない、京の町を歩き回っているだけの男なので「おもよ」の金も無くなりつつあった。

 時代は大坂の陣の後に設定している。ある時、源左衛門が長い菰包みを抱えて帰宅する。それは刀であり、その刀を源左衛門が観ているときに「おもよ」は何人かの人影の幻影を見る。彼の着物には血が付いているが、刀を持ちかえったいきさつは何もしゃべらない。

 「おもよ」は源左衛門のことを知ろうとして地蔵院の義了に調べてもらうことにする。義了は所司代に出向いて、上杉家の家臣2人に源左衛門のことを聞く手立てを得る。確かに源左衛門は昔、上杉家にいたことを老年の武士から聞くが、その場で、義了がその男が刀を探しているようだと言うと、もう一人の竹俣甚十郎が関心を示す。

 義了は相国寺の雲水に豊臣家に仕えていた男がいて、その男から源左衛門は大坂城で秀頼の近臣で落城の時に殉死したとの話も聞く。その雲水を連れてきて、面通しをすると、確かに大坂城にいた源左衛門だった。

 所司代は大坂牢人を探索し、動向を把握していた。そこで大坂牢人の一人の魚津鹿之進が鳥辺山で墓守のようなことをしていたが、最近は見かけないと言う情報を得る。義了が調べると、鹿之進は秀吉の阿弥陀ケ峰の廟に通っていたことがわかり、妙齢の女性が近くにいたことも判明する。
 なお鹿之進は現在はいなくなっているが、その住居の後は涼やかに立ち退いたようなあとで、突如立ち去ったような状況ではないとのことであった。

 源左衛門は持ちかえった刀を自分の差料にして佩刀していた。そこで義了は研師、鞘師にあたる。ここで、その刀は無銘だが備前長船兼光であることがわかる。上杉家の若い武家も調査にきたという。竹俣甚十郎であった。

 義了は所司代の与力から、上杉家の刀に関する情報を聞くと、上杉家の兼光を京の研ぎ師に出した時に別の刀に取り替えられたことがあり、その時は石田三成に頼み、悪人を捕まえる。その後、この太刀は太閤からねだられ、献上したことがわかる。
 所司代は、その刀を上杉の竹俣家の者が探している情報も義了に寄こす。

 なお大坂落城時に、兼光で秀頼を介錯した毛利勝永を介錯したのが栃尾源左衛門であった。この刀は近習魚津鹿之進が持ち出し、秀頼の後生を祈っていた。栃尾源左衛門は魚津を探しており、やっと見つけて魚津を殺し、魚津の住まいで、女(淀殿付きの女中)を脅かし、刀を奪ったというわけだ。女は世を儚んで家を片付け、出て行ったから、跡がきれいだったというわけである。

 義了がここまで調べて「おもよ」の家に行くと、源左衛門はいない。そこで義了は「おもよ」に、今頃は竹俣一行に栃尾源左衛門は殺されているだろうと推測していることを話す。

 所司代としては元和牢人が2人片付いたわけである。

もちろん司馬遼太郎が創作した話である。

「岩見重太郎の系図」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集12に所載の短編である。面白い小説で傑作だと思う。薄田大蔵という人物が主人公である。大坂で梶派一刀流の道場主として世を送っている。
 あるとき、大坂から奈良に出向く用があり、そこで2人の武士が戦っているのに遭遇する。大蔵は剣術道場の主であり、仲裁に入ろうとした。しかし双方から黙殺され、戦いが続き、一人が死に、もう一人の若者は重傷だが、場を立ち去る。
 そこに紫の袱紗の包みが落ちており、開けると古びた巻物だった。自分の姓の薄田の文字が読めたので懐に入れ、近くの人を喚んで顛末を話す。自分が殺めたものでないことを証明する為に佩刀を渡して奉行所に届けるように言って去る。

 大坂の道場に戻り、一人で袱紗を開けて、中をみると薄田家の系図であった。薄田隼人正兼相で終わっていた。翌日、原持明軒という経師を訪ねる。この人物は諸家の系図作りも手がけていた。大蔵は自分の家の蔵から出たと嘘をつくが、持明軒は「お宅に蔵があったかな?」と眉唾な話だと察するが、系図作りは彼の商売である。彼から薄田隼人正は大坂の陣で後藤又兵衛らと一緒に活躍した武将であることを知る。

 大蔵は大坂に住んでいながら薄田隼人正のことは何も知らないから、戦いの地に出向いて歩き回ったりする。

 持明軒から、薄田隼人正は天橋立の仇討ちで有名になった岩見重太郎のことだとも聞く。

 持明軒は偽の系図作りの専門家だから、嘘と承知で、本物らしく大蔵のところまでの系図を作ることとして20両請求する。これでしかるべき大名家に仕官できるかもしれないと匂わす。

 出来上がった系図では、薄田隼人正が婢女(はしため)の梅に生ませたのが大蔵の父となっており、後日の証拠にこの系図と正宗の短刀を渡すとある。本物になりきるには天下の名刀正宗を探さないといけないが、大坂では鍛冶の井上真改が所持していると持明軒は情報をくれる。

 ある夜、あの時の若者ともう一人に襲われる。若者は薄田源次郎と名乗る。大蔵が二人を斬って、辻斬りとして届け出る。辻斬りを斬ったのが薄田隼人正の子孫で剣客だとして、薄田大蔵は脚光を浴びる。

 この男の薄田源次郎は江州余呉生まれの無宿とわかる。余呉に出向いて身元を確認すると由緒など無いことが確認される。大蔵は一安心する。

 経師の持明軒が井上真改の屋敷に連れて行ってくれる。そしたら辻斬りを退治したことで有名であり、真改が正宗を貸してくれると言う。

 大坂の陣で、薄田隼人正を討った河村新八は水野勝成の軍に属しており、その後裔の備後福山藩主水野勝慶が薄田隼人正の子孫を探していることがわかる。福山藩の用人が大蔵に元にくる。大蔵は返事を待ってもらう。

 町奉行所から連絡があり、奈良で殺された男は播州書写山の寺侍崩れで、名は岩見新之助とわかる。そこで大蔵は播州岩見郷に出向く。古老に聞くと、ここは岩見重太郎の出身地ではないと言う。ただし岩見新之助のことは知っており、彼は書写山の寺で什器、宝物を管理していたが、それらを盗んで密売していたことがわかり、放逐された人間であると判明する。寺の宝物の中に薄田家の系図があり、それを盗んだのだと推察される。この人物も本当の薄田隼人正に関係が無いことがわかり、大蔵は安堵する。

 大蔵はここまで調べてから、水野家に出向き、馬廻役200石で取り立てられる。首尾良く偽の子孫になりおおせたのだが、大蔵の心は晴れずに、静かな余生を送ったという。

 余談として井上真改から借りた正宗を経師と一緒に返却に出向くと、真改はあれは自分の作品と明かした。なにもかも偽物の出来事であった。

 後に水野家は嗣子がなく除封され、家臣は散って、薄田家は大坂で大名貸しの商人になった。

 偽者になりすますことへの薄田大蔵の不安な心理がうまく書かれている。また大蔵の妻は金持ちの家の出で、当初は大蔵を軽く見ていたが、その態度が変化していく様子なども面白い。

「宮本武蔵」 司馬遼太郎著

 冒頭は「街道をゆく」みたいな調子で、武蔵の故郷、作州讃甘郷(さなも)郷宮本村を訪れ、そこで武蔵と同姓の新免さんに出会ったりする。
 播州との境で、母は播州人という想定である。本来は平田が姓で、平田無二斎の子として生まれる。ここ一帯の領主は新免伊賀守という。無二斎は地下牢人だったが、若い時は将軍義昭の御前試合で十手術で吉岡憲法から3本のうち2本をとっている経歴を持つ。
 父も武芸者で当初は父から学ぶというのは千葉周作と同じである。また武蔵の体格が大きかったことも千葉周作と同じである。
 この父から武芸を学ぶが、父とはうまくいかなかったという伝承を書いていく。

 13歳の時に有馬喜兵衛という兵法者を打ち殺す。五輪書には16歳で但馬で兵法者に勝つと記されている。
 17歳で関ヶ原の戦いに宇喜多家で参陣するが、新免家の者と一緒に大坂に逃げ、九州の黒田官兵衛を頼る。あっさりと書いている。

 21歳で都に出る。ここで室町幕府兵法所の吉岡憲法一門と戦う。吉岡清十郎、弟の伝七郎と倒し、一乗寺の下り松で戦う。観てきたように戦いの様子を記述する。
 奈良で宝蔵院流の槍と戦い、ここで二刀流のヒントを得る(父の十手術の影響もある)。敗者の宝蔵院は武蔵に怨みを持たず、奈良で滞在。奈良、京都での見学で武蔵の芸術的センスは磨かれたと書く。

 次ぎに伊賀で鎖鎌の宍戸梅軒と試合をして斃す。試合ごとに武蔵が編み出した剣術の形(ここでは三心刀)を説明していく。

 江戸に出向き、ここで知名の人と交際したり、武器を作ったりもする。そこに夢想権之助の杖術と試合をする。武蔵はこの人にも恨まれずに後に九州で交誼を続けた。
 槍、鎖鎌、杖という異種の武器との戦いや、父の十手術などが、二刀流の元になっていると読者に示していく。

 新免家の者は関ヶ原の敗戦で九州に逃れ、黒田官兵衛に頼るが、全員が仕官できず、後に小倉を領した細川家に仕えていた者が多い。細川藩には兵法指南佐々木小次郎がおり、傲慢な性格で嫌われており、新免家ゆかりの家中の者は小次郎との試合を望む。すぐには武蔵は試合をせずに京で禅に関心を寄せる。また小次郎の情報を集める。
 新免衆は家老・長岡佐渡に仕えており、巌流島での決闘に進んでいく。小次郎と戦う前に小次郎の姿を見るような場面も入れている。

 この後、姫路城下で三宅軍兵衛という兵法者と戦う。三宅は後に武蔵に傾倒する。
 また大坂の陣に豊臣方で参戦したとの伝承もあるが詳細はわからない。この小説でももちろん書いていない。

 江戸で軍学者として名高い北条安房守の知遇を得る。このように武蔵の世渡りが上手というと語弊があるが、兵法者でありながら人に嫌われない性格を示している。
 将軍家に3千石で仕官という望みを持つが叶えられない。当時の兵法者は200石から600石程度である。将として戦をしてみたいと思ったのかもしれない。
 次ぎに尾張徳川家での仕官も望むが、ここには柳生兵庫助がいて路上で武蔵とすれ違い互いを知るような書き方である。そして藩主に武蔵の剣は教える剣ではないと進言する。

 晩年の57歳時に肥後細川家が客分として17人扶持300石で迎え入れる。そして62歳で逝去。

 吉川英治はお通という女性を登場させるが、司馬遼太郎としては珍しく女性が出て来ない小説に仕立てている。吉川英治のお通さんのイメージにかなわないと思ったのかもしれない。
 武蔵の芸術面に触れたのは斬新だと思う。ただし、その才能が開花した由縁は説明できていないが。

「北斗の人」司馬遼太郎 著

 『司馬遼太郎全集12 北斗の人 宮本武蔵』に所載である。北辰一刀流を立てた江戸時代後期の千葉周作のことを伝記的に書いた小説である。
 周作は陸奥の国に生まれる。百姓身分で父は馬医であったが、千葉家の祖父が北辰夢想流という剣術を編み出したとある。父もまた百姓ながら剣術を嗜み北辰夢想流を継いでいた。
 父はそれなりの山っ気がある人物として描かれている。馬医として世を送り、その次男が後の千葉周作である。大男であったようだ。小さい時から蜂を退治するなどの逸話も紹介している。蜂の巣から出る蜂を一匹ずつ棒で殺したようなことを書いているが、眉鐔の伝承であろう。また、父は村で盗賊を捕らえたことがあり、それなりに地域では大事にされていたようである。そのような縁から周作は村の名主を烏帽子親として元服する。司馬遼太郎らしく、ここで村の娘雪江を登場させる。

 父は息子の為に江戸に行くことにする。そして松戸で道場を開いていた初代浅利又四郎の元で千葉周作をあずけることに成功する。たまたま浅利は後継者を探しており、千葉周作が眼鏡にかなう。そこで養女と婚姻して浅利周作となる。この養女との絡みも書いて読者を飽きさせない。

 浅利又四郎の道場では周作が一番強いから、周作は浅利の宗家である中西派一刀流の中西忠兵衛の元に入門したく、婚家を出る。千葉家の遠縁であるという植木屋に居候し、修業する。その過程で自分なりの剣技を高めていく。ここの娘との話が後半を彩る女性で、この娘と結婚するという。

 従来の剣術の伝統芸能的なものや、宗教にも結びついて神秘性を高めた剣術理論を周作は排して、理論的かつ体系的な習得方法を考える。これが後に「技の千葉」と喧伝された元になるのである。
 
 そして剣術修業に出て、地方の道場破りをしていく。ハイライトが上州の馬庭念流との対決である。念流の門人と試合をしながら、周作のファンというか門下にしていく。その延長に、馬庭宗家と一触即発の危機を迎える。

 その後、東海道でも地方の道場を訪れ試合をして剣名を高めていく。
 そして江戸の品川で道場を開く。教え方が斬新であり、人気が出て、すぐに手狭になり神田お玉が池で道場をつくる。その横には儒学の東条一堂がいて、これもなかなかの人気学者であり、周作と意気投合する。そして学問は東条一堂 剣は玄武館として繁栄していく。千葉周作は62歳まで生き、水戸藩に抱えられ栄達するが、息子達は剣の才能はあったものの短命であった。

 当時の江戸の剣術道場は今の東京の大学のようなもので、そこでの同門のネットワークが後の尊皇攘夷倒幕に生きてくる。学生運動がおこったようなものである。また千葉周作は水戸藩に抱えられ、水戸学を学ぶ者(尊皇攘夷)に親しみやすかった面もあるのだろう。

「愛染明王」司馬遼太郎 著

これは福島正則の生涯、性格を描いた短編である。その性格を彼の生涯における逸話を繋げながら、粗暴、短気、勇敢、異常に名誉心が強い、酒乱、だけど愛嬌があって部下思い(病的な人情深さ)、可愛げがあるというように描いている。

この性格を裏付けるように、少年の頃の殺人事件を起こしたことから始まる。酒乱で、酔って正体を失い、その時に部下に切腹を命じたことを忘れ、酔いが覚めた後にひどく後悔して泣くなどの話も紹介される。

これは有名な逸話であるが、関ヶ原後に部下を京都に差し向けた時に、部下が徳川家の軍に通行を禁止される。帰った部下が、その場で事を起こすと主家に迷惑がかかると思い、引き返してきました。ただ武士として辱められたので切腹すると述べる。正則は徳川軍の態度に激怒し、「よし切腹しろ。その代わり仇は必ず自分が討つ」と徳川家にその時の責任者の処罰を激しく要求する。徳川家は、その場で阻止した役人を処分すると言うが、正則はそれでおさまらない。あくまでも責任者の奉行・伊奈図書を切腹させろと迫り、家康もやむなく同意する。

このような粗暴、短気な人物だが、加藤清正と違って、自分一人でやるというより、組織を作る才能もあると評価する。

家康に、正則の「三成憎し」の感情をうまく使われて関ヶ原で西軍=豊臣方に先陣となって戦う。大坂の陣では江戸に留められる。広島城の無届け普請で取り潰しになるが、何度も災害による普請の届けを出していたが、徳川幕僚にはぐらかされて、取りつぶしの口実に使われた。

このような福島正則を、憤怒暴悪の表情をもち、しかも内面は愛憐の情をたたえるという愛染明王に例えた物語である。なお、正則が流された配所の信州の荼毘所に一体の愛染明王の石仏があると結んでいる。

司馬遼太郎全集8には、他に「軍師二人」という短編も収められている。これは大坂の陣における後藤又兵衛と真田幸村のことを描いている。後藤又兵衛の方に同情的である。

「おれは権現」司馬遼太郎 著

これも全集8に収められている短編で、福島家の家臣・可児才蔵の物語である。本人は自分自身には山城愛宕の勝軍地蔵(愛宕権現)が乗り移っていると信じていた。そして最期もこの地蔵の縁日である二十四日に死ぬと預言していていた。

福島家の大身となった現在も妻が無く、子もいない。これまでも多くの女性が側女として仕えるが子に恵まれず、このままでは可児家は取り潰されてしまう。ただ才蔵は、このことを気にはしていない。
そこに側室として入ったお茂代が子を産もうと考える。何か可児才蔵には子を作らないことへの秘密があると気づき、それを探ろうとする。すると出来助という人物に義理立てしていることがわかる。思い人か寵童かとも考えるがわからない。

豪傑・可児才蔵の逸話だが、関ヶ原の時、大活躍するが、首を持ってこない。福島正則が聞くと、重いから切り取った首の口に、笹の葉を噛ませておいたと証言する。そこで探すと、その通りに笹の葉を噛ませていた20の兜首があったという。

福島家には竹内久左衛門という古い家来がいて、お茂代は出来助のことを探ろうとするが「知らない」と言う。久左衛門が才蔵にこれまで多くの側室を紹介していてきたが、いずれも石女(うまづめ)の噂がある女性だったことを知る。お茂代も離縁された女であり、そう思われていたふしがあることがわかる。

ある時、才蔵が山城愛宕に詣る時にお茂代は同行を許され、可児家の出身地、美濃可児郷に出向く。そこで若い時の才蔵の話を聞く。それによると、明智家に奉公するが、当時は臆病で念仏を唱えて人の後ろから参戦するような性格だった。牢人になって3年、佐々成政に奉公し、この時、能登末森城の退却戦で首18という活躍をする。さらに20の首をとるという大活躍をしたそうである。

山城愛宕でお茂代は才蔵の口から次のような秘密を聞く。臆病者として牢人中に山伏に出会い、加持祈祷を受け、愛宕権現で勝軍地蔵が体内に入るという経験をする。その祈祷の山伏が出来助であり、才蔵の家来となり、一緒に槍働きもできる人物であることを知る。

それから10年後、皆老いてくる。そのうち竹内久左衛門が出来助とわかってくる。出来助との約束は、禄は半分で、可児家の跡継ぎは出来助の子が継ぐというものであった。ただ出来助の子は病没していた。

お茂代も行で対抗するために、山城愛宕で女行者を呼ぶ。歳老いて才蔵は自分の予言通りに24日に死んだ。
この後、可児家は取り潰されるが、しばらく経って、女行者が懐妊していることがわかり、その時は可児家を再興するかという話になるが、福島家そのものが取り潰される。

不思議な物語だが、面白い短編である。

「花房助兵衛」司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集8に所載の短編で、宇喜多家の家来の花房助兵衛の話である。秀吉にも遠慮しない剛強な侍大将として記述は進む。
小田原の陣の時に、秀吉が滞在しているところに下馬せずに通りかかり、警備のものと揉める。それを見ていたのが出雲の歩き巫女の吉備之助である。この時に花房助兵衛の落とした袋を拾う。中には小壺があり、そこに小さな骨が入っていた。すると吉備之助のお付きの巫女に、若い女の亡霊のようなものが取り憑く。そこでこの小壺を花房助兵衛に届けようとするが、花房の陣は軍律が厳しく入れないので、いずれ渡そうということで旅を続ける。

出雲に戻り、備前の花房のことを聞く。助兵衛は朝鮮に出て、活躍していた。
時はたち、宇喜多家で内紛がある。戸川肥後守、岡豊前守、長船紀伊守の重臣が争う。花房は戸川に与し、秀家の寵臣中村次郎兵衛を撃たんと大坂に出る。その騒ぎを徳川家康が調停する。そして戸川と花房は常州佐竹家預けとなる。この時に、吉備之助は花房に会い、例の袋を渡す。いわれは何もいわない。吉備之助ははじめて花房助兵衛に出会った時と同様に、ときめく。

関ヶ原前の小山会議の時に、東軍諸将は佐竹が腹背をつくかが心配になった時に花房は呼ばれ、動向を聞かれる。彼は佐竹は動かないとの観測を述べる。ただし、そのことを誓詞に書けと家康に言われるが断る。武士が言ったことを更に誓詞とはという気持ちである。このことで大名にはなれずに備中高松で七千石となる。なお大坂の陣には病気を押して輿に乗って参陣という逸話を残す。

戦国、豪傑物語の一つである。小壺の謎は解明されずに、小説としては物足りなさを感じる。どうせ小説なのだから、ここで花房助兵衛の若い時の艶っぽい物語を展開してもと、私は思うのだが。

「覚兵衛物語」司馬遼太郎 著

この短編も、司馬遼太郎全集8に所載で、加藤清正の家来の飯田覚兵衛の物語である。
飯田覚兵衛が老年になって若い女が側室としてあがってくる。覚兵衛が若い時に馴染んだ女性と似ている。そこで覚兵衛が昔語りをする。
覚兵衛は山城の山﨑村で15まで過ごす。百姓の子でサイ八と呼ばれていた。後に同じく加藤家の家老になった森本儀太夫とも幼友達であった。儀太夫は力士といい、2人で暴れていたが8つの時に、この村に尾張中村生まれの夜叉若という子が来る。遊びの中で3人で党を組もうとのことになる。そして、その中で大将を決め、終生大将のもと家来として一緒に過ごそうと約束する。この時、夜叉若が大将になるが、その後、彼は尾張に帰る。

のちに夜叉若は秀吉に仕え、加藤清正となる。彼は百五十石の物頭になった時に力士とサイ八を呼びにくる。サイ八は武士は嫌だが、説得される。
合戦の都度、清正におだてられてここまでくる。覚兵衛は戦上手であった。清正が死ぬ時、2人を呼んで、二代目の息子忠広を頼むと言われ、ここでも侍を止める時を失う。
ところが忠広と合わず、加藤家を辞す。その後、加藤家は取り潰される。

加藤清正の人使いの上手さを書いた面もあるが、これを書くならば、もう少し突っ込んで書いて欲しい。

飯田覚兵衛の人生、加藤清正に操られた人生を「侍が嫌だった」とのトーンで否定的に書くのも、覚兵衛の実績を見れば無理があるように感じる。

平和になった時に、どの大名家でも生じた古老と二代目との確執が真相なのだろうが、そのように読者に思いこませるのにも、材料が不足している。

「雨おんな」司馬遼太郎 著

この短編も、司馬遼太郎全集8に所載である。出雲の歩き巫女の「おなん」という女性が主人公である。関ヶ原合戦の時に、たまたま、この地にお供の者(与阿弥、市)と3人と旅をしていた。
夜、西軍に属した宇喜多家の稲目左馬蔵に最初に犯される。朝方には東軍に属した福島家の尾花京兵衛に犯される。ともに戦の前に女と交じると武運があるという言い伝えをつげる。ともに名を聞き、戦いの後に尋ねてくればと言うようなことを述べて戦いに行く。
関ヶ原合戦の時は遠くで銃声を聞きながら、怯えて過ごす。東軍の勝と知る。

その後、「おなん」は旅を続ける。岡山は宇喜多家の領地ではなくなっていたが、ここで稲目左馬蔵の消息を訪ねるがわからない。その後、安芸広島に行く。ここで尾花を訪ねる。尾花は思い出し、寝床で関ヶ原の戦話をする。それで福島軍と宇喜多軍と戦ったことを話す。尾花京兵衛に囲われて、屋敷に住み着いて2年になる。元々が旅をする巫女だから、この生活に飽きてくる。

広島城下に乞食のような武者が来て、勝負して負ければ「この首進上」と書いた高札を立てる。

福島正則の耳にも達し、「福島家の名折れだ。誰かと試合をさせろ」と命じるが、家老は尾花を呼んで、彼に足軽をつけて、この男を闇に葬ることを命じる。
京兵衛は暗殺に出向くが、「おなん」も同行することを許される。そしてここでの戦いの過程で、この乞食侍が稲目左馬蔵であることがわかる。戦いの中で稲目は川に流されるが、「おなん」は付き人の与阿弥に命じて、稲目を探させる。与阿弥が川原で稲目をみつけ、宿を世話する。

暗殺に失敗した尾花京兵衛も稲目左馬蔵を探していた。「おなん」はお供の3人で尾花の屋敷を出て、稲目がいる宿に向かう。
すると、尾花も探知して、すでに宿から稲目と尾花は出て、戦おうとしていた。
そこに「おなん」が来て、稲目であることを知り、尾花にいきさつを話す。そして闘う前に稲目が関ヶ原でのことを話す。関ヶ原で稲目は首2つを取って駆け回っていたが、敗軍となり、逃げようとした時に尾花が来て戦う。勝てそうだが、首をとっても誰も恩賞をくれないから尾花に自分が取った首を与える。尾花はそれも自分の手柄として出世をしていたわけである。

尾花は戦場で敵に命を助けられたことを恐れて、稲目を殺そうとするが、尾花は右腕は切られ、稲目はどこかに旅立つ。

ありえない話を巧みに短編時代小説に仕立てていて興味深いが、無理はある。無理筋だけに、何となく終末が見えてしまう。

「侍大将の胸毛」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集8に所載の短編の一つである。この巻の短編は戦国時代の脇役である豪傑を主人公にしたものが続く。これは渡辺勘兵衛のことを書いている。

 関ヶ原後に主君藤堂高虎の命を受けて大葉孫六が、勘兵衛に自家への仕官を勧めに行くところから物語りは始まる。この後、司馬遼太郎は藤堂高虎のことに触れるが、世渡りが上手で戦が下手のような印象を読者に与える。もちろん史実とは違うだろうが、あとで渡辺官兵衛との対立が不可欠になる伏線である。

 渡辺勘兵衛は増田長盛の侍大将として高名な武将であった。当初は中村一氏に属し、小田原攻めの時に主君の山中城一番乗りを助ける。その後、退転して増田長盛に仕えたわけだ。増田家は関ヶ原には参陣しないが、石田方であり、関ヶ原後に増田長盛は高野山に出家遁世。

 居城の郡山城を預かっていた渡辺勘兵衛は、敗戦で城から逃げる者が狼藉を働くのを防ぐ。そして城明け渡しの時に見事な応対を示し、男を上げる。この時、藤堂高虎は城の受取に出向いていた。

 大葉孫六のこの時の勧誘では返事をもらえずに、「いずれまた」となる。
 諸国を遍歴していた勘兵衛が伊豫今治に来て、藤堂家に仕官することになる。この時、大葉孫六は参勤交代の供で江戸に行っていた。留守の間、勘兵衛を世話した大葉孫六の妻が勘兵衛に関心を寄せる。性的関係には至らないが、物語に艶めきを与える。タイトルの「侍大将の胸毛」とは渡辺勘兵衛の胸毛のことだが、この女性との間で生じることからきている。物語の最期に勘兵衛が藤堂家を退転する時に、妻との話は印象的に終わる。

 さて、江戸から帰国した藤堂高虎は官兵衛に対面して、当初は8千石を提示し、断られてから2万石へと上げるが、結局、勘兵衛は藤堂家の戦での駆け引きを任せてもらうことを条件に1万石で仕官する。
 大坂夏の陣に出陣。高虎の命に背いて、当座、緊急の対応が必要な敵を討つ。これに軍令違反と高虎は怒る。藤堂隊は苦戦するが、勘兵衛隊は活躍する。この時の経緯から藤堂家から退転する。

 おもしろい短編小説である。
(全集では無く、文庫を紹介する。この短編集に収録されているとあるが、私は未確認であるので、御自分で確認してほしい)

「売ろう物語」司馬遼太郎 著

 これも司馬遼太郎全集8に所載の短編の一つである。後藤又兵衛と同郷で幼馴染みの同姓同名の商人が主人公であるが、後藤又兵衛のことを書いている。
 黒田家が筑前で大封を得た時に又兵衛は一万六千石になる。商人の又兵衛は、又兵衛に連絡して筑前での商売の伝手を得ようとする。幼い頃は、同姓同名なので頭の形から武将の方は「なまず又兵衛」、商人の方は「柿阿又兵衛」と呼ばれていた。

 又兵衛は如水の薫陶を得るが、如水の跡を継いだ黒田長政とは相性が悪く、黒田家を退転する。隣りの細川家が二万石で召し抱えることになったが、黒田家からの横槍が入り、幕府も調整して、仕官は断念される。今度は福島家が三万石で迎え入れたいとの話があるが、又兵衛は蹴る。
 商人は仕官の際の石高に関して「自分を高く売るだけが商売ではない」と忠告もするが、その後は又兵衛を傭う大名が無くなる。零落した時に、伊豫の加藤家なら二、三千石ならなんとかなると口を利くが、又兵衛は断る。
そして大坂城からの誘いを受けて、大坂城に入る。夏の陣の前に、徳川家からの寝返りをすすめる使者が五十万石と言うのを聞いて満足して討ち死にしたと小説は終わる。

 途中で、黒田長政と後藤又兵衛の関係がまずくなっていく経緯も書いてあり、興味深い。
戦国乱世において男を発揮した英雄の一人だが、そういう男だけに平和の世では生きるのが難しい。また2代目の主君にとっては手に余る家臣となるわけだ。

 後藤又兵衛が自分自身で売り込みをしたわけではなく、商人の又兵衛が端で男の売値について述べているだけである。それにたいして「売ろう物語」のタイトルはふさわしくないのではと思う。また商人の又兵衛のことも、魅力的には描写されておらず、あまり面白くない小説である。

「言い触らし団右衛門」 司馬遼太郎 著

全集8に所載の短編の一つである。大坂の陣で活躍した塙団右衛門(ばん だんえもん)を取り上げている。この人の事績もよくわからないようだが、数少ない良い漢詩が残されているそうだ。戦国乱世にしか生きられない人物で、戦いでは先頭を切って敵陣に突っ込んで槍働きをする人物である。
人柄、風貌などは作者の想像だろうが豪傑らしく描写している。遠州横須賀の生まれで、須田次郎右衛門と名乗り、秀吉傘下の武将加藤嘉明の足軽となる。しかし、すぐに退去して加藤家牢人(この肩書きが欲しかった)として、京都で仕官先を探す。その時、長命寺に盗賊が入った際に、盗賊を退治し、食客となる。ここの僧は観相の名人で、彼から塙団右衛門の名を提案される。

加藤嘉明が大名になった時に再度、傭われる。ただ雑兵扱いであり、大坂の町で売名行為というと悪いことだが、目立つことをしていた。加藤嘉明はこのような団右衛門を嫌っていた。
加藤家の朝鮮出兵時に動員され、その時に大指物を立てる時に団右衛門の怪力が役に立ち、これで名前が売れる。そして350石の物頭になる。関ヶ原の時は自分の鉄砲足軽を置いて、単騎で突っ込んで手柄を上げるが、軍律違反を問われる。これで嫌気がさして、再度、加藤家から離れる。奉公構とされるが、小早川家に仕官する。しかし小早川家が断絶して牢人になる。

ここで口入屋の出戻り娘とねんごろの関係になる。そして大坂の陣である。紀州徳川家からの仕官の口もあったが、大坂城に入る。そして冬の陣における夜戦の大将に任じられて手柄を立てる。この時に、「寄せ手の大将 塙団右衛門」という木札をばらまいて相変わらずの売名行為。

夏の陣では紀州方面の担当になるが、先陣争いをして、単騎突入。ここで大暴れするが、戦死。首実検が雨と腐敗で中止となった時に、ねんごろの関係となっていた出戻り娘が、憑かれたように、「われも一手の大将なり。首実検をしないと祟る」と言って、首実検を行ったという逸話を入れて物語りを閉めている。

面白い小説である。
(文庫本をリンクしておく)

「尻啖え孫市」 司馬遼太郎著

司馬遼太郎全集8の「尻啖え孫市」である。読みやすい小説だが、自治会からみの仕事が多く、なかなか時間がとれなかった。
紀州雑賀の鉄砲隊を率いた雑賀孫市を主人公にした痛快な時代小説である。時代小説と書いたが、雑賀孫市は実在した歴史上の人物であるから歴史小説でもいいのだが、ほとんど事績がわからない人物である。それを司馬遼太郎が女好きで鉄砲の腕はもちろん、腕力も強く、権力欲の無い快男児に仕立てている。女好きと言っても、カラッと明るい女好きで、理想の女性を求めて、それだけが生きがいのような男にしている。
司馬遼太郎全集を再読して改めて思うのだが、主人公への魅力的な女性の絡ませ方に意を配っていることを認識する。

この小説では、カラッと明るい女好き孫市は、好ましい女性を種々の観音に例えて女性遍歴をするような人物にしているから、孫市の行動の節々に魅力的な女性を沿わせてくる。
読者に読んでもらうためのテクニックでもあると思う。昭和38年~39年に「週刊読売」に連載された小説という側面もあったのであろう。

孫市が京都に出向いた時に見かけた女性(それも足先だけ)に憧れ、それが織田家の息女と聞いて、岐阜の城下に来るところから小説は始まる。ここで木下藤吉郎に会う。藤吉郎が信長と諮って、織田家の親戚筋の娘を、孫市が顔を見ていないことを幸いに、仕立て上げる。その娘を京都に出向かせて、それらしくする傍ら、織田の朝倉攻めに孫市を誘う。浅井の裏切りで退却するが、その殿戦を申し出た藤吉郎に協力して戦う。そして京都で憧れの女性に会うが、偽物だったことを知り、織田家と絶縁して、紀州に戻る。

紀州では一向宗が力を増している。そして孫市が京都で見初めた女性は紀州の名門、紀家の姫と知る。孫市は宗教など大嫌いな男であるが、姫は浄土真宗を信仰しており、その姫も参加されるという聞法の集会に出る。
そこで浄土真宗の説法僧法専坊信照に出会い、僧が姫との仲立ちをする。というのは石山本願寺が信長との戦いに備えて雑賀孫市を大将に迎えたいと考えていたからである。孫市は茶席で姫と会う。ただ姫は孫市より、法専坊の方に好意を持っていると感じる。

堺に出向く場面になる。懇意の鉄砲鍛冶のところで、そこの養女で種子島家の血を引く女性に出会う。この鉄砲鍛冶も、その養女も本願寺門徒であり、孫市の本願寺側への参戦を希望していた。
堺で藤吉郎に再会し、藤吉郎から信長の堺代官が孫市の命を狙っているという情報をもらう。その暗殺者と戦う。

養女を連れて紀州に戻り、本願寺の為に戦うことになる。養女は種子島家の血を引いているので鉄砲女神のような位置づけで、雑賀衆のまとめ役となる。
石山合戦は孫市の鉄砲隊のおかげで信長の攻撃を跳ねかえす。一度、朝廷の仲立ちで講和を結んだのは、孫市のアイデアであるような小説になっている。
その後も信長と戦い、時には孫市が信長を狙撃するが、信長勢力は拡大していく。本願寺は信長と和を結び、石山本願寺を退去する。紀州攻めを防いだが、脚を負傷する。後に、孫市は家督を譲り、堺で隠居する。
その後、信長は本能寺で死に、秀吉が天下をとる。、秀吉と家康の争いの時に、秀吉側から味方につくようにと要請されるが、隠居であり、判断は国元に任すとした。秀吉側から雑賀へ説得に来た使者は態度が大きく、徳川方につくことになる。秀吉と家康が講和後に、雑賀も開城する。藤堂高虎が秀吉が会いたいと言っているとのことで、粉河寺に出向くが、ここで孫市は死ぬ。

「尻啖え」とは孫市の捨て台詞である。
(全集ではなく、文庫本をリンクする)

「燃えよ剣」司馬遼太郎著

司馬遼太郎全集の第6巻である。以前読んだ時のことはすっかり忘れているが、導入部はこんな小説だったのかと新鮮であった。
私が自分で定義している時代小説と歴史小説の違いは、時代小説は主人公は架空(例えば忍者)ということで、歴史小説は主人公は歴史上の人物で一応の事績は知られている人物というところが違う。この小説は歴史小説であるが、前半の新撰組ができるまでの多摩にいる頃の土方の描写は時代小説らしく、女性、敵役に架空の人物を設定して、それに土方を絡ませて生き生きと書いている。そして司馬遼太郎独自の土方歳三のイメージ(組織作りに長けて、政治的なことには関心がなく、無愛想で軍事に才能がある)に合致するエピソード、あるいはそのような人柄を強調するようなエピソードを興味深く挿入して、読者に司馬遼太郎の持つイメージを植え付ける。このあたりが司馬史観と言われるところなどだろう。
もちろん、そのようなエピソードで埋められた主人公土方歳三の活躍は読者を飽きさせない。また一人の男としての生き方を憧れも感じさせるような筆力で展開する。そして男の生き方の魅力を増幅させる為に、魅力的な女性を絡ませる。このあたりが司馬遼太郎の小説家としての上手なところである。

新撰組の時代からは、史実に即して物語は展開するが、史実に会話の内容などは残っていないから司馬遼太郎の創作である。創作だが、それが主人公に命を吹き込み、読者は魅了されていく。そして上述したような土方歳三のイメージを膨らましていく。

当方は刀のことに詳しいから、この小説に出てくる刀の話や、戦いの場面は鼻白むところが多い。
新撰組は、京都で尊皇攘夷のテロリズム(刀による暗殺)が吹き荒れた時に、刀には刀として組織される。テロリストのカウンターパートとして4年間だけ京都で存在感を示している。維新の時代になるとテロリストの汚名は新撰組に着せられる。

土方は、この後、甲州鎮撫隊、宇都宮城奪還、会津、仙台と転戦していき、函館の五稜郭の戦いで戦死する。新撰組の中では刀の時代から銃砲の時代の戦いに適応できた人物である。

(本は全集でなく文庫本を紹介>

「炎の人 式場隆三郎」 市川市文学ミュージアム

この冊子は市川市文学ミュージアムが開催した「式場隆三郎 没後50年記念企画展」の時に作成されたものである。
式場隆三郎は明治31年に新潟県に生まれ、精神科医となり、昭和11年から市川で国府台病院を開院した人物である。ゴッホの研究をしたり、柳宗悦と一緒に民芸運動に携わり、戦後は山下清を世に出した人間として知られている。
この本で知ったが、生涯で約200冊の著作を刊行したとのことだ。ゴッホに関する著作だけでなく、精神病関係の書、医学教養書、小説など幅広い。中央公論社からは毎号のように寄稿を求められていたとある。
画家では他にロートレックの本も上梓している。また、戦前に東京にあった不思議な建物二笑亭にも関心を寄せて書いている。
彼がゴッホに関心を寄せたのは学生時代に読んだ「白樺」の影響であると記されている。私は式場氏のゴッホに関する著作は読んでいないのだが、ゴッホの手紙の翻訳も含めて、これだけ多くの本を出版しているのに、現在のゴッホ研究においては、式場氏の著作はあまり重視されていない。これは他の著作にも共通しているようだ。忘れられている人物である。
なお、彼は松方コレクションの返還=国立西洋美術館の建設にも尽力したことが記されている。こんな業績も忘れられている。

ゴッホ、ロートレックもそうだが、二笑亭という変わった建物を建てた赤木城吉(仮名)も精神の病を発症した人物であり、また山下清も彼の医業の分野に関係するから、興味の対象が闇雲に広かったわけではない。
民芸の方はまた別で、柳宗悦の木喰上人の調査研究に同行し、彼に師事し、月刊民芸の編集に携わる。そこでバーナードリーチや河井寛次郎などとも親交を深める。
本は沢山刊行しただけでなく、本の装幀にも凝り、芹沢銈介や棟方志功、奥山儀八郎などに依頼している。ちなみに奥山は日本毛織に勤め、広告版画などを制作しており、フリーになってからのアトリエは国府台の病院の近くだったと記されている。ちなみに奥山儀八郎が矢切の渡しを描いた版画は我が家にある。矢切は国府台の近くであり、なるほどと思った。
また彼は病院の庭にバラをたくさん植え、精神病の治療にも間接的に役立てようとしたようだ。このために市川市もバラに関心を寄せて、ローズ・シティなる宣言を行ったことがある。ただし今の市川市では忘れられている。

「微光のなかの宇宙-私の美術観-」 司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集1が忍者物の時代小説であり、少し毛色の違ったものを読もうとして、全集の65に収録されているものを選ぶ。これには「街道をゆく 十四」も収録されている。

「微光のなかの宇宙」には司馬遼太郎が美術について書いた次のエッセイが集められているが、私にはあまり面白くなかった。歯切れの悪い評論と感じる。
「裸眼で」「密教の誕生と密教美術」「わが空海」「激しさと悲しさ-八大山人の生涯と画業」「ゴッホの天才性」「微光のなかの宇宙」「八木一夫雑感」「三岸節子の芸術」「出離といえるような」である。

「裸眼で」は司馬遼太郎が新聞記者時代に美術の担当になった時に、美術をわかろうとしてセザンヌなどの理論書を紐解いた時の違和感を書いている。そして仕事で絵を観ることが無くなった時期から自分を取り戻して絵に自由に感動できるようになったと書いている。そしてゴッホの素描に文学性を感じ、それから鴨居羊子の弟の鴨居玲のこと、上村松園の絵のことなどに触れている。

「密教の誕生と密教美術」と「わが空海」は密教美術、それを日本に持ってきた空海の天才を書いている。密教は紀元5~7世紀ころに南西インドで成立する。この地はアラビア人との交易で栄えていた。釈迦の全て捨てよの教えから、富など持ったまま即身成仏ができることを願い、密教を誕生させる。密教の菩薩像は華麗で、密教は欲望も肯定されることから男女の性愛も肯定されて、それが行きすぎて変な方向になることもあると説く。
最澄が中国製の仏教の天台宗をもちかえり、空海は中国経由でのインドの密教を持ちかえる。そして思想体系を完璧に近いものにした。密教美術は思想表現である以上、造仏には取り決めがある。決まりが煩瑣な面もあるとして不動明王、観世音菩薩のことなどを説明し、滋賀の向源寺(渡岸寺)の十一面観音、河内の観心寺の如意輪観音、高尾の神護寺の虚空蔵菩薩などを紹介する。
なお空海は母方の叔父にあたる阿刀大足が学者として一流であり、彼に学び、唐にわたる前に学識を蓄えていたとする。加えて修験道の修業もした。その結果、唐で中国人にも一目を置かれる学識を発揮し、恵果から密教の正統者と認められる。まさに天才と評している。

「激しさと悲しさ-八大山人の生涯と画業」とは明の八大山人の生涯や、特に生命感に溢れる絵に感銘を受けたことを記している。彼は明の王族ではあるが江西省に住し、清によって亡びる時を経験した人物である。

「ゴッホの天才性」ではゴッホのことを記している。ゴッホは牧師の家に生まれ、生涯、独特の愛他主義をい持っていたが、世間と徹底的に調和できなかった。それが自分の内部にもぐらせることになり、絵を画くしかなくなるとして、ゴッホの人生を辿っている。画業は27歳から37歳の間に過ぎない。

「微光のなかの宇宙」は須田国太郎の画業を紹介している。西洋の油絵ではなく、水蒸気を含んだ日本的な色で描くと評している。作者は西洋の模倣を批判しているから、須田国太郎の画業を評価している。なお須田国太郎は学者で、背広もきちんときた老紳士である。京都の長浜縮緬の問屋の家に生まれ、少年時代に謡曲もならう。三高でドイツ語を学び、京大では哲学科を選ぶ。美術学校に学ばず、大学時代に関西美術院でデッサンを習う。大学院で絵画の理論と技巧を研究。スペインのプラド美術館でバロック絵画を学ぶ。京大文学部講師でギリシャ彫塑史概説を講義していた。

「八木一夫雑感」は陶芸家で司馬遼太郎の5歳上の八木を書く。美術記者時代に知り合う。彼の作陶は思想と感情をかたまりにして空間にぶら下げたようなもので、陶芸の「用」を外しているし、茶の美学などにも逆らっていると評している。だから売れずに貧乏する。父も陶芸家で窯は五条坂にあった。

「三岸節子の芸術」では愛知県尾西市の地主の家に生まれ、女子美に入り、三岸好太郎と結婚する三岸節子のことを記す。公太郎との結婚生活は9年間ほどで、彼は31歳で夭折する。その後、彼女は昭和29年の49歳の時に渡欧する。日本の水蒸気の多い気候に対して欧州の乾いた色彩の鮮やかな気候を体験する。

「出離といえるような」は『街道をゆく』で一緒に旅をして挿絵を描いた須田剋太のことである。武蔵の吹上で教育者の息子として生まれ、芸大を4度落ちる。浦和で下宿し、絵ばかり書く生活を送る。ただ官展に入選していた。妙義山で山籠もりをし、40を越えていた昭和19年に京都、大和に行く。絵画では通算3度、官展の特選にはいる。奈良では東大寺の上司海雲と親しくなり、新薬師寺の一角に住む。結婚して西宮に住む。抽象画の長谷川三郎に出会い抽象画を志向する。道元の思想を体現するようになる。『街道をゆく』の挿絵をお願いしたのは橋本関雪の息子の橋本申一が推薦した為とのこと。この時64歳だが、司馬遼太郎は書生のようだとの印象を持つ。

(全集ではなく文庫本を紹介)