「新編 市川歴史探訪」千野原靖方著

この本は”探訪”とあるように、地図も付いていて、本を手に史跡を見学・散策する為の本である。次の章に分かれている。「1下総の国府」「2弘法寺と真間の手児奈」「3須和田台」「4国分僧寺と尼寺跡」「5国府台古戦場」「6八幡庄と法華経寺」。これらが、市川の見所ということだ。ただし市川市に多い貝塚遺跡は含まれていない。

下総の国府は、下総台地(標高は20~25㍍程度)の西端の江戸川に接している国府台にあったが、明確には特定されていない。総社もあったが、六所神社として須和田の方に移転されているが、いつ移転したのかはわからない。ここや周辺台地の縁には多くの貝塚遺跡が分布しており、太古から人が多く住んでいたところである。

古代は、ヤマトタケルの伝説でもわかるように、相模の三浦半島の走水から海路で富津の須恵(周淮)に至るのが東海道のルートであった。上陸した場所が上総で、それから東京湾沿いに東海道が通り、この下総の国府に至ったのである。
その後、東京湾沿いが干拓されて天候に左右されやすい海路を避けて、陸路を武蔵から下総に行くようになる。武蔵国が東山道から東海道に所属が変わり、東海道となったわけである。
『更級日記』の作者は上総の国司の娘だが、上総から東京湾岸の東海道を通って、市川の井上(いのかみ)駅に至り、そこから北上して松戸に至り、「まつさとの渡り」から太日川(江戸川)を渡り、武蔵の豊島駅(千代田区麹町、平河町)へ出て東海道を京都に上っている。

真間の弘法寺は、天平9年(737)に僧行基が求法寺を建てて手児奈を供養したのがはじまり、その後、弘仁13年(822)に空海によって7堂が造営され、真言密教の弘法寺になる。元慶5年(881)に天台宗になり、この間、根本寺、妙法寺などとも称した。弘安元年に法論(真間問答)によって日蓮宗となる。徳川家康から30石の朱印状。明治21年に火災によって諸堂を消失したから、建物は新しい。

須和田台は以前は真間・国府台とつながって東西に長い舌状台地だった。弥生時代の遺跡がある。六社神社がある。

下総の国府があった国府台台地とは、国分谷を隔てた国分台地に国分僧寺と国分尼寺があった。この跡らしい所が判明しているが、史跡らしい形に整備されているわけではない。開発が進んでわからなくなっている。
千葉常胤五男の胤通が国分を領して国分氏を名乗る。国分胤通は葛飾郡国分郷の他に香取郡本(もと)矢作(やはぎ)(香取市)にも居して、香取神宮領の地頭にも任じられている。4人の子は矢作の他に香取市大戸、成田市村田に住していることが記されている。
戦国時代の国分城の遺構も、住宅開発によってわからなくなっている。

 国府台古戦場は里見公園になっているところが中心である。市川城と国府台城が同一か違うかに説が分かれている。天文と永禄の二度の国府台合戦があった。里見公園内には明戸古墳、法皇塚古墳がある。幕末には市川戦争があった。

八幡荘は北西部の国府台周辺(国分川の西側)と南部の行徳周辺を除く市域が荘域であったと考えられる。谷中郷(若宮、中山、高石神、北方)、曽谷(蘇谷)郷(曽谷、松戸市秋山)、中沢郷(法免、宮窪)、大野郷(大野、松丸)の4郷からなっていた。史跡は葛飾八幡宮とその周辺である。
中山法華経寺は日蓮ゆかりの寺で、日蓮宗の本山の一つであり、色々と江戸時代の建物は残っている。
<リンクした本とちょっと違うような装幀であり、別の本の可能性もあるがリンクしておく>

「房総の道 成田街道」山本光正著

成田山参詣に使われた成田街道の各宿場の宿場としての概要(旅籠の数など)や、その地での名所・見所などを書いていると同時に、江戸時代の宿場町の実態を書いていて、興味深い。
 関東平野のような地域には道も多く作られていて、向かう場所の地名が付いた街道が多く存在した。大山祇神社に向かう道は大山街道になるから、各地にいくつもの大山街道が存在したわけである。江戸から成田へ向かう成田街道は、そのようなことはない。

成田街道も、幕府が定めたのは水戸佐倉道の佐倉道である。江戸時代後期に成田山参詣が盛んになると成田道と呼ばれることが多くなったわけである。日本橋から千住、そして新宿、そこから小岩・市川関所を通って八幡に行く。ここまでが道中奉行管理である。そこから船橋、大和田、臼井、佐倉城下に入り、酒々井、成田という道中である。ただ、日本橋から一度、北の千住に向かって行くよりも、浅草から隅田川を渡り、横(東)に向かい、平井の渡しで荒川を渡って小岩の方に行く方が近道で、便利である。また荒川を逆井の渡しで渡り、行徳方面に向かって、江戸川を今井の渡しで渡り行徳に出て、それから八幡、あるいは船橋に向かう方が便利となった。佐倉藩なども、逆井の渡しから市川・小岩の関所で向かうルートを申請したようだ。(佐倉藩は算段次第で1日で江戸に到着するが千住を通ると夜間になって献上物などに支障が出るとの理由を申したようだ。)
また日本橋小網町から船で小名木川経由で行徳まで行く船便が歩く距離が少なく、江戸後期には多く利用されている。

この本では、途中の各宿場ごとの様子が詳しく書かれている。もちろん資料の残り具合で、詳しくわからない宿場もあり、精粗はある。宿場の世帯数、旅籠屋の数、町屋の様子から名産や名所まで記している宿場もある。

それから江戸時代の宿場の支配の仕組みも詳しく書いてある。ただどういう基準で道中奉行の管理と、その他にわかれているのかなど、わからないことも多い。

「司馬遼太郎全集41 大楽源太郎の生死」司馬遼太郎著

 これも「胡蝶の夢 二」の巻末にある短編である。長州藩が維新の舞台に出る前に、吉田松陰よりも早く世間に知られた大楽源太郎の物語である。大村益次郎の出身地の鋳銭司村(すせんじむら)の隣村の出身である。長州の門閥家老児玉家の家来の家に生まれる。安政の大獄で死んだ梅田雲浜、頼三樹三郎などと知り合いの早い時期の尊皇攘夷家である。長州藩では月性の時代である。司馬遼太郎は評価していないが詩人として力量はそれなりにあり、同時代人から評価されていた。

 活動内容として冷泉為恭という画家を暗殺したことを記しているが、逃げ回っていた絵師の殺害であり、司馬遼太郎は大楽の人物評価をおとしっめる出来事として書いている。
 松陰亡きあと、高杉などが長州の革命勢力の中心になるが、高杉は大楽を評価しない。明治維新後も長州藩の要人は大楽を無視し、犯罪者のように扱う。ただし勝海舟は薩摩人に比して長州人を評価しないが、大楽については抽象的だが「善さそうなな男だったよ」と褒めているそうだ。

 大楽は高杉が将軍を襲おうとした時、「自分が」と大言を吐いて、まずは一橋慶喜の元に出向き、入れられなければ自害すると言って、肥後浪人と出向く。途中で情勢が変化して、肥後浪人が自害する。この時、大楽は目の前にいたのに、何もせずに逃げる。これで決定的に評価を下げる。高杉から国に帰れと言われる。

 第一次長州征伐時には附近の農民を集めて忠憤隊を組織し、実際の戦闘が行われた第二次の長州征伐時は従軍しなかった。三田尻近くの商家の娘と出来て、そこに大きな塾(西山書屋)を建てて松下村塾ばりのことをしようとした。塾は繁盛する。
 明治2年に兵制がかわり奇兵隊の解散があった時に、これが隣村の大村益次郎の案と知って大村の暗殺を示唆する。また解散させられた兵が騒ぐ。これら事件に大楽が関与したとされ追われることになる。
 九州に逃げ、久留米藩に迎え入れられる。その内、久留米藩も大楽が新政府のお尋ね者と知り、関わりを恐れて久留米藩の者に暗殺される。

司馬遼太郎の筆致は好意的ではないが、「有隣は悪形にして」と同様に吉田松陰の人物像と対比する対象として取り上げたのだろう。また大村益次郎と同様に長州と言っても周防出身者は優遇されていないという例で取り上げたのかもしれない。

<司馬遼太郎全集41に所載だが、これも下記の短編集にあるようであり、リンクする)

第31回浮世絵オークション

昨日、標記のオークションにおける下見会に出向く。去年はコロナで中止だった。初日(平日)の午後であり、入場者は多くはない。今年は写楽の「二代目市川門之助の伊達の与作」が目玉のようで2千万円の開始価格で出ている。古いところでは鈴木春信の「大名行列遊び 春駒」は摺りも保存も良いものだ。中性的な少女は春信らしい。歌麿も何枚か出ているが、歌麿の女性は浮世絵の中では一番好きだ。卑猥な絵だが、「歌まくら」の女性の顔はいつもよりふっくらしていて生気がある。北斎は少なく、広重も今年は良いものがない。国芳は良いものも数は少ないが出ている。

川瀬巴水が多く出ているが、開始価格は安い。開始価格が安い方が多くの参加者のビットを誘い、盛り上がることが多い。吉田博、土屋光逸、高橋弘明、豊成、笠松紫浪、石川寅治、伊東深水、小早川清、鳥居言人の新版画も目につく。
他では近代の版画家の谷中安規の作品が多く出ていた。
また肉筆画も良いものがあった。輝方と蕉園が対で二幅にしている軸の絵はいいものだ。開始値が20万円と安い。軸物は今は住宅に掛ける場所が無く、そういう意味でも人気が無いようだ。
この軸と歌麿の画、谷中安規の版画に惹かれるものがあったが、入札はしない。

懇意の浮世絵商に聞くと、開始値は安めにつけているが、海外のサザビーやクリスティーズのオークションで浮世絵が高値で落札しているから海外客の関心も高いと期待していた。会場への外国人の参加はほとんど無いが、日本の浮世絵商を通して落札を依頼しているのだろう。
<浮世絵オークションのページ>
http://www.ukiyoe.or.jp/

「司馬遼太郎全集41 有隣は悪形にて」司馬遼太郎著

 「胡蝶の夢 二」の巻末にある短編である。吉田松陰と野山獄で一緒になり、後に松陰が尽力して出獄させて、松下村塾の教授に迎え入れた人物の物語である。学業面では秀才だったのだが、人柄が狷介で、自己愛が強く、人を見下すような癖がある人物で、親戚中から嫌われ獄に入れられていた人物である。松陰が獄に入った時に、松陰の人柄で、獄中の人物、それぞれが得意としている分野の師となって互いに教え合おうとしたエピソードは知られているが、その時の難物の一人が富永有隣である。
 結局、松陰は富永から書を学ぶ。富永は儒学でも一家言を持っており、松陰は儒学の中でも孟子を好むが、富永は正統的な儒学。
 富永は松陰のおかげで獄から出たのに、親戚には相手にされず、結局、松陰の実家の杉家にやっかいになりながら松下村塾で教える。
 富永の性格は直らず、塾生からは嫌われる。
吉田松陰は再度、獄に入り、結局江戸に送られて死罪になるが、この時、富永は自分も再度、獄に入れられるかと思い、松陰との関係を絶とうとして、松下村塾から出奔する。
藩内を漂泊するが、明治2年に長州藩の兵隊が長州に戻り、解雇される事態になって、解雇された兵が騒ぐ。この時に吉田松陰も師としていたという理由で担がれる。反乱は鎮圧され、有隣も捕まるが、温情で逃がされる。その後、富永は土佐に潜伏する。結局、捕まるが、品川弥二郎が「あの人は単に悪形というだけの人だから」として死刑にはならなかった。
後に国木田独歩が『富岡先生』という短編を書く。
結局、富永が命を長らえたのは松下村塾にいたからなのだが、当の富永は歴史的な場所にいたことをわからずじまいであったことを司馬遼太郎は書く。
吉田松陰の人の良さを、対局にある富永有隣を描くことで、クローズアップする狙いなのかもしれない。

(リンクは司馬遼太郎全集41でもいいのだが、この短編集にあるようなので、こちらをリンク)

「ゴッホ展 響き合う魂 へレーネとフィンセント」於東京都美術館

クレラー=ミュラー美術館の所蔵品を中心に、一部ファン・ゴッホ美術館の所蔵品も含めた展覧会である。
 今は、事前予約制で、1時半~2時の入場で予約していたのだが、京浜東北線が鶯谷で人身事故ということで山手線まで止まるというハプニングに見舞われた。秋葉原で立ち往生だから、駅中で昼食を取り、改札を出てタクシーで向かうことになった。

 ヘレーネ・クレラー=ミュラーとは実業家の夫アントン(鉄鋼業と海運業で富豪)の支えのもとで美術品を収集し、特にゴッホの作品に感銘して多くの作品を、ゴッホが評価の途中にあった段階から集めた収集家である。ヘンク・ブレマーという美術評論家のアドバイザーもいたとのことである。

 ゴッホの作品が中心だが、ヘレーネが購入したミレーやルノアール、ピサロ、スーラ、シニャック、ルドン、ブラック、モンドリアンの作品や、はじめて名を聞くルーロフス、ハブリエル、ラトゥール、トーロップ、アンソールなどの作品も展示されていた。小品が多いから、ヘレーネの好みで購入していた作品で、コレクションとしての展示などは考えていない時期だろう。

 ゴッホの作品では、初期のデッサンの作品が20点ほど展示されている。3年ほどデッサンばかり描いていたと説明にあった。後のゴッホの作品が思い浮かばない写実・堅実なデッサンが大半だが、強いて後のゴッホのイメージにつながるものを選ぶと、農民の人物像の素描である。「タンギー爺さん」のようなデッサンだ。あと「砂地の木の根」というデッサンは生き物のように木を描いていて面白い。当たり前だが、画業の基礎はデッサンだ。ゴッホのデッサンは初見であり、興味深かった。

 次に油彩のオランダ時代の初期作品だ。暗いというか重厚な感じの絵である。「麦わら帽子のある静物」における麦わら帽子は、麦わらの質感が出ていない。
 それからフランス時代の作品になる。印象派風の絵が生まれる。「レストランの内部」はこの時代の特色が顕わである。その1年後の「黄色い家(通り)」はゴッホらしい黄色と濃い青の空の対比が印象に残る良い絵である。

 アルル時代になると良く見るゴッホらしい絵が出てくる。「レモンの籠と瓶」のレモンはレモンらしい鮮やかな黄色ではなく、よりくすんだ黄色というか黄土色のようなものだ。上手とかの印象はないが、気になる絵である。
 「種まく人」はミレーの構図をゴッホの色彩とタッチで描いている。太陽が沈みかけ、麦は緑か紫が多様な色を使っている。
 「糸杉に囲まれた果樹園」もゴッホのタッチと色だが、まだ穏やかな風景画だ。木や草を単純な色だけで描かず、様々な色を重ねていることが理解できる。
 最後のサン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズの時代では、「夜のプロヴァンスの田舎道」という糸杉の絵は、いい絵である。最高の糸杉だ。
 また「悲しむ老人」は、ヘレーネの夫からの25回目の結婚記念日のプレゼントだったようだが、寂しいという悲しみがよく描かれている絵でいい絵である。
 「サン=レミの修道院の庭」、「麦束のある月の出の風景」などもパレットナイフで草を書いたような筆致で力強く、色も強く、ゴッホだなという良い作品だった。

 ゴッホは文学が好きだったと解説にあったが、農民や老人に向ける目から、その人柄が想像できる。また画業では印象派、後期印象派が跋扈していたパリでの影響。ちょうど明治維新で開国した日本からの浮世絵の色彩などの外的要因も、大きな影響を与えたことが理解できる。

 この美術館のゴッホ作品の額が全部同じで、白木というほど白くはないが柾目が出た木で四隅に四角の板を当てたようなものだった。絵の色、筆致を際立たせる為なのであろうか。

 予約制だが、観客はそれなりにいた。また火曜日なのに若い人が多かった。

「司馬遼太郎全集41 胡蝶の夢二」 司馬遼太郎 著

 全集として2巻目で完結編である。(1巻目のブログ:https://mirakudokuraku.at.webry.info/202109/article_2.html
 松本良順はポンペと過ごした長崎から江戸に戻る。時の奥医師筆頭の蘭方医の伊東玄朴は良順を好まず、良順もこの男が嫌いであった。玄朴は良順を新設の西洋医学所の長にはしなかった。ただし、良順は実質、医学所の長として教育を行う。兵書を読む者が多かったので、禁止すると不平が出たこともあった。長崎時代と違って伊之助などの腹心がいないので苦労する。
その後、伊東玄朴は失脚し、良順は力を発揮できる立場にもどる。

 良順の父、佐倉藩の順天堂の佐藤泰然は佐倉藩の身分、施設を弟子の山口舜海に譲り、隠居したが、舜海もポンペに学ぶべく、長崎に出向くと留守中に再び佐倉藩に仕えるが、舜海が佐倉に戻ると、自分は横浜に移住する。そこで米国の医師で伝道家のヘボンに学ぶ。末子の董を伴うが、彼は後に林家に養子で入り、外務大臣として日英同盟締結に尽力することになる。

 伊之助は平戸の岡口家の婿養子になるべく平戸にいたが、祖父の伊右衛門が連れ戻しに来る。佐渡奉行の口利きのようなルートで出向いたので、平戸藩の岡口家としてはどうしようもない。
 伊之助は佐渡に戻っても相変わらずだが、新任の佐渡奉行の元での組頭の山本修輔が認めてくれる。この人物も低い身分の出身であるが能吏であると同時に腹が据わっている人物て、幕末の佐渡を中立の立場で被害なく納めた。

 関寛斎は嫌がっていたが徳島藩の藩医になる。殿様の蜂巣賀斉裕(徳川家斉の子)は寛斎を頼り、寛斎も情が移るが逝去される。次の茂韻は勤王の念が強く、倒幕戦に寛斎も従事する。横浜で佐藤泰然の元を尋ねる。そこに佐渡からのの伊之助と出会う。寛斎は彰義隊討伐戦での負傷者の治療も行う。なお寛斎は維新時は時の徳島藩で権勢を持った井上高格が森林を伐採するなどの施策を出すが、これに反対する。寛斎は後に、北海道十勝の原野を開墾し、83歳の時にそこで自害する。

 良順は一橋慶喜に呼ばれて京都に出向く。そこで薩摩の朝廷工作と対峙する中で、ひどい不眠などに悩まされていた慶喜の不眠症というか神経の悩みに、アヘンを投薬して直す。良順から見た慶喜像を司馬遼太郎は展開しているが、それなりに興味深い。

 また将軍家茂の侍医団に入り、家茂からも非常に信頼され、良順が寝る間も無いほどに頼られる。だから良順は家茂の人柄については同情的であるが、時の幕閣については評価していない。これは司馬遼太郎の考えなのかもしれない。

 新撰組の近藤と知己になり、京都の本願寺の屯所の衛生状態を改善する。良順は新撰組には親近感を持ち、土方とともに函館まで行って治療に当たっている。

 良順はポンペが愛蔵していたドクロ(オランダの海軍士官が逝去した時に、この国の為に役立てて欲しいと言って解剖標本にしたもの)を譲り受け、大事にしていた。そして、それを医学所に譲り渡す。折りに触れて、このドクロのことが書かれていく。
 鳥羽伏見で破れ、徳川幕府が倒れる時の江戸城の雰囲気を書いているが、こんな感じだったのだと思わせるような筆致である。大言壮語をする人物もいるが、いざとなると腰抜けなのは古今東西変わらない。

 そして良順はこの時期に非人とされていた弾左衛門家と非人の平民化に尽力をする。ポンペに医の前に患者は平等という意識からであろう。近藤の甲州鎮撫隊にも弾の配下が随うが、まともに戦わない。弾は新政府にも献金しており、その意を含んでいたのかもしれない。

 伊之助を庇護してくれた祖父が亡くなる。伊之助は佐渡奉行が帰任するときに同行して横浜に行こうとする。横浜では佐藤泰然の元に世話になる。そして語学の才を重用される。イギリス人医師ウィリアム・ウィリスやシッドールらの医師を通訳として助ける。伊之助は松本良順と同様に遊郭も大好きである。日本がドイツ医学中心になった時も医師ホフマン、ミュルレルをドイツ語の才能を活かして通訳として活躍する。

 伊之助が体調を崩し、東京に帰りたくなる時に、狭い駕籠に揺られながら、『荘子』の一節に夢に胡蝶になり、目が覚めると荘子になるというような一節が浮かんだとして本書の題名にしているとのことである。大きな流転の中で、どちらが現実であるかわからないということのようだ。

 本は、江戸時代の絶対的とも言える身分制の中で、分際を弁えることが大切な世の中を、世間的な礼儀感覚が欠落している伊之助や、祖父が下賎の出身である松本良順、九十九里の農民出身の関寛斎が、医学(剣術もそうである)という技能の力で身分の壁を崩していったことを描いた小説だ。
 小説としては主人公が2人(松本良順と伊之助)、それに重要な脇役(関寛斎、佐藤泰然)が登場することでわかりにくい点もあるが、良い小説である。

「私流に現在を生きる」堀文子著

 画家の堀文子のエッセイである。今までの生き方、経験を書いている。他人から見れば、やりたいと思いついたことを、ためらいなくやってきたように生きている感じである。
 父は中央大学の教授で歴史学者、母は松代藩で佐久間象山、鎌原桐山と並び三山と言われた山寺常山の曾孫である。母は、戦前のある意味理不尽な制度の中で苦労された為か、女性も自立と言うことを唱えられていたようだ。弟を戦争で亡くしている。

 職業婦人になりたいとのことで美大に行き、卒業後は東大農学部の研究室で拡大鏡で標本を絵として記録していくことで給料をいただき、その後は美術教師、それから挿絵や絵本などで生計を立てていた。
 そこで、ある外交官の原稿の挿絵を描くことで、その外交官と結婚するが、夫は病弱で14年の結婚生活で逝去される。その後、外国を見てみたいとの思いから、アメリカの保険会社の社長スター氏(堀氏の絵画を評価)の尽力で戦後の混乱期の中、実行する。エジプト、ギリシャ、イタリア、フランスに出向く。この時の海外生活のエピソードも興味深い。そこで日本の良さを認識する。 例えば、フランスでも貴族の家では子どもに厳しいことを知る。また美しい言葉に厳しいことを知る。日本のしかるべき家と同様である。

 それからアメリカ、メキシコと出向く。特にメキシコの感性に惹かれたことを書いている。
 68歳でイタリアに行く。同じ敗戦国でも自然を破壊することなく、思想のある風景を保っていることに感動する。「戦争に負けても生活と料理と愛と言葉は売らない」という気概である。
 82歳の時にヒマラヤにブルーポピーを求めて出向く。標高4500㍍でスケッチしている。
 著者は、自然界で本来の生物としての能力を発揮して命を輝かせているもの、それが雑草でも、目をとめたいと考えている。
 日本では創画会に属すが、日本の画壇制度の制度には反対である。落款についても反対している。
 昨今の女性は、若くきれいでいたい」「おいしいものを食べたい」とか、何でも目に付くものを「かわいい」で済ましているが、これは文化の幼児化傾向として警鐘を鳴らしている。
 そして堀文子は「慣れない、群れない、頼らない」という生き方をしてきたと結んでいる。人間誰でもひとりぼっちなのに、一人では寂しいなんていうことに疑問を呈している。

「改訂版 市川の歴史」中津攸子著

 今、この本に限らず市川市の歴史に関する書物を読みあさっている。個人の思い出を書いた自費出版物にも目を通している。

 この本は、市川市の歴史を上段に、下段に日本の歴史を書く形式である。石器時代、縄文時代から近代までを書いている。著者は市内の学校の先生だった方で歴史以外に文学に関する著作を残されている。
現在の市川市の公的な歴史とは違う箇所もあるが、一人で書かれた通史である為に、読みやすい点が良い。また新しい知識を得ることもできた。

 縄文時代は市川というか千葉県は全国でも有数の繁栄地帯で、貝塚遺跡は多い。私も小学生時代に拾った土器の破片を持っている。奈良時代は国分寺の話と万葉集で唱われた市川(特に手児名伝説)である。平安時代は荘園の史料がわずかにあり、どこまで信頼できるかわからない平将門伝説だ。鎌倉時代は千葉常胤の一族からみの話と、日蓮上人の周りの人物などから浮かび上がる史実が中心である。
南北朝、室町時代になると、千葉氏が分裂してきて、そこに上杉禅秀の乱以降の関東の内乱の時代になるが、この地の歴史として残る話はわずかである。次は北条と里見などの争い。そして北条がこの地の派遣を握るが、北条が豊臣秀吉に滅ぼされると、市川に勢力を持っていた北条方の武将が没落し、江戸時代となる。

江戸時代は江戸に近いから幕府領や旗本領が存在していた。行徳の塩とか八幡の梨とかの産業も出てくる。行徳の塩の生産性は悪かったが、江戸に近いところで採れる必需品ということで保護を受けてきた。江戸市場を意識した近郊農業・産業である。そして江戸時代後期は成田参詣の道中で賑わう。

戊辰戦争でささやかな戦い(幕府残党の殲滅戦)があり、その後は首都防衛の軍事都市となり、終戦後は東京近郊のベッドタウンという位置づけである。
この本に書いてあるわけではなく、私が考えたことだが、江戸が日本の中心となってからは、常に江戸近郊ということで存在価値が出てきているわけだ。

関東大震災では上毛モスリン中山工場のレンガ造りの建物が倒壊して女工11人が死亡。男子3名、行徳で女子1名が死亡と他地域に比べると被害は少ない。太平洋戦争でも狙われたのは中山の山中アルミ工場で、あとは東京空襲の余剰の爆弾を落としていった感じである。
大正6年の台風による大津波は行徳の塩田を壊滅させたが、総武線の鉄道土手で津波は止まる。

「黄金文化と茶の湯」中村修也 監修

 この頃は調べ物や、送られてきた自費出版物などを読んでいる。こういうものも面白い。
 それはさておき、この本は「よくわかる伝統文化の歴史③」とあるようにシリーズものである。簡単な本かと思ったが、私には新しい知識を得ることができた興味深い本であった。いくつかメモしたことを記していく。

 ヨーロッパからもたらされた文物としてポルトガルからのカルタのことが紹介され、それは京都でも作られたが、出来の良いものは「三池」と呼ばれ、発祥の地の名前で呼ばれていたようだ。復元された天正カルタの絵札の図が掲載されているが、新鮮である。
 天文年間の城造りの名人として、安芸国出身の少南(おとな)平三、坂の市の介、松田三郎入道の名前が挙げられているが初めて聞く名前である。
 「あらゆる価値観が混乱しますと、かえってわかりやすい価値観を求めるようになり」それが黄金ではないかとの指摘も面白い。
 秀吉が亡くなり、7回忌にあたる慶長9年8月の豊国大明神の祭礼は屏風に画かれるほどの盛況で、京都の町衆のエネルギーの様子を記している。そして風流踊りが流行する。かぶき者が闊歩し、出雲の阿国がかぶき踊り、また風流踊りの一種に「ややこ踊り」も流行する。もっとも、これら踊りは天正時代にもあった。

 戦国武将の茶の湯は、殺伐とした生活を癒やすという側面もあったと書いている。大内氏、今川氏、薩摩の上井覚兼の日記にもある。堺衆のはコミュニケーションの場、寄り合いの場の茶であり、これらとは異質。

 織田信長の父信秀の頃から茶道具を集めており、平手政秀も当代一流の文化人であった。信長は京都、堺で名物狩り(買い上げること)を実施している。
 秀吉は禁中の接待にも茶の湯を利用すると同時に北野の大茶会のように庶民にも広げた。
 千利休が武野紹鴎の弟子という史料はないが、今井宗久は弟子であった。堺衆は寄り合いとして茶の湯を嗜んでいた。

 中世と近世のやきものの違いは、①無釉や単色でなく、複数の色彩、②少量生産ではなく大量生産であった、③生活の為の器が各種生まれたことなどである。
 窯業の技術革新として大窯から登り窯になったことを説明されている。登り窯で生産者と需要者(新興の町衆)という相互関係が生まれる。町衆の好みが反映される。この窯業の発達に逆らったのは少量生産の楽焼。そして茶道では唐物重視から国産品重視となる。
 志野焼きは白いキャンパスを得た茶碗。もう一つの白いキャンパスが磁器。陶器は土が原料だが、磁器は石(砥石のような)が原料。高い温度で焼く。
 そして非対称な美が織部焼が誕生する。美濃と唐津が2大産地となって競い合う。

 織物は輸入品として、輸入先には残っていないものが日本では残っている。ヨーロッパの毛織物、ビロード、インドの絹なども中国製品とともに出回る。武将も陣羽織などに仕立て直していた。辻が花染めは、まだ解明されていないことが残っている。名称の意味も諸説がある。能装束に、これらの優品が残されている。

「司馬遼太郎全集 40 胡蝶の夢一」 司馬遼太郎 著

長編小説であり、全集として2巻ある。1巻ずつ感想を書いていく。幕末の医学界の様子を、幕府御用医師となった松本良順と、その弟子の伊之助(佐渡の島倉伊之助、司馬凌海)を主人公にした物語である。日本における西洋医学の黎明期を描いた小説である。
封建の世に、また観念的な攘夷論が横行する中で、医学という実用の学問分野で西洋化のメリットが知られたわけである。
松本良順は面白い人物で、幕府の医師として、新撰組の治療にも当たり、その後も節を曲げずに函館戦争にも従軍している。降伏し、服役の後には大日本帝国軍医総監にも任じられている人物である。

伊之助は佐渡島の生まれで、人間関係の機微がまったくわからないが、記憶力が抜群で語学の習得に天性の才がある人物として描かれる。島では脇本陣のような家系の分家に生まれ、祖父の伊右衛門が大事に育てていた。記憶力が良いだけに、少年時代には勉学だけに精進させられた為か、人間関係がまったくダメになってしまったという設定である。小説ではこのことを印象づける場面をこれでもかこれでもかと出している。こういう人間がともかく嫌われたことを明らかにしたい為であろう。
伊之助の祖父は伊之助を佐渡から江戸へ修行に出し、蘭方医の道に進ませようとする。
そして幕府の奥詰御医師の松本良甫に奉公することになる。こんな性格だから松本家の用人など使用人仲間からは嫌われるが、養子の松本良順はその才を認め、伊之助も良順には伊之助なりの忠誠を尽くす。良順の学問修業に同行させてもらい、端で聞いているだけで覚えてしまうわけである。

松本良順は佐倉順天堂の蘭方医佐藤泰然(松本良甫の親友)の息子であり、松本家に養子となった人物である。松本の家は元来が漢方医であり、奥医師仲間からは家督を継いだ良順は嫌がらせを受ける。佐藤泰然の父(松本良順の祖父)は出羽の庄内から出てきて、悪党とも才覚者とも言える人物で、度胸と知恵で旗本の用人として頭角を現した人物である。勝海舟の祖父と一脈通ずるところがあるのが面白い。父の佐藤泰然は蘭方医として立派な人物で、佐倉藩で蘭癖大名と言われた堀田正睦に信頼された人物である。佐藤泰然は養子佐藤舜海を取り、この人物が東京の順天堂大学の創始者である。他に日英同盟の締結時の外務大臣林董も実子の一人だと記憶している。

伊之助は松本家でも人間関係のことや、近所の娘との色事の始末の為に、良順もかばいきれなくなり、実家の佐倉順天堂に修行に出される。佐倉順天堂でも、生来の性格から仲間や教師に嫌われる。結局、伊右衛門が佐渡へ連れ戻すことになる。

良順は面白くない奥医師勤めをしていたが、幕府が長崎で御軍艦教授所を造ることを聞き、そこに軍医も派遣されてくることを知り、永井尚志に頼みこみ志願する。ここで勝海舟にも知己となる(親しくなったわけではない)。

良順は伊之助を佐渡から長崎に呼ぶ。
良順は長崎ではやりにくいことも多々生じるが、岡部駿河守など良識ある上司に恵まれる。
オランダから派遣された軍医はポンペで、ポンペは誠実に熱心に日本人に教授する。医学の基礎は自然科学全般であるということから日本人に教えていく。伊之助はポンペにも嫌われるが、語学の才を活かしてポンペの講義録をまとめ、良順や塾生を勉学を助けていく。
良順は実習航海で勝海舟などと一緒に薩摩に出向き斉彬にも会う。
コレラの流行が上海で起こっていることをポンペが知り、当時としての最新の治療法をまとめ、緊急に出版したりした。

江戸でも将軍の病気が大きな課題になっていた。若年寄遠藤但馬守が母の病気で蘭方医伊東玄朴の治療で快癒したことから、井伊大老に推薦し、急遽伊東玄朴が呼び出される。将軍の病気は手遅れだが、逝去の時期を明言したことで信頼され、漢方で固まっていた幕府奥医師に伊東玄朴が登用され、伊東玄朴は政治力のある男で蘭方医仲間を増やしていく。

長崎のポンペは解剖実験をしないと本当の医学教育はできないと主張し、苦労しながら解剖も行う。
またポンペは長崎にヨーロッパ並みの病院を建てることを提案し、良順が幕閣の反対を説得しながら小島療養所の建設にこぎ着け、そこで医療を行う。身分の隔て無く治療にあたる取り組みをした先進的な病院であった。ここでは諸藩の医学生も良順の弟子ということで学ぶ。一人前の蘭方医の佐藤舜海や長与専斎なども学ぶ。
ポンペにも嫌われていた伊之助は『七新薬』という薬学の本を関寛斎の校閲で出版する。関寛斎も佐倉順天堂で学んでいた者で浜口悟陵の援助で医師になった人物である。

伊之助はポンペから破門され、長崎に学びに来ていた平戸の医師の養子となる。
そして、ポンペがオランダに帰国し、代わりにボードウィンがやってくるところまでで第一巻は終わる。そして良順も江戸に帰ることになる。

面白い小説である。全て史実かはわからないが、細かいところまでよく調べている。良順が長崎の丸山で遊ぶ時の当時はやっていた音楽なども描写されているし、各地の地形なども実際に現地に出向いていると感じる表現力である。
(2巻目のブログ:https://mirakudokuraku.at.webry.info/202110/article_1.html?1633308539

「日本の歴史四 揺れ動く貴族社会」川尻秋生 著

小学館の日本の歴史シリーズの一巻で、平安時代のことが記述されている。この時代のことを調べている中で、時代を通して一通り把握しておこうと考え、手にした本である。平安時代は、京都の朝廷と諸国、民衆との距離があり、史料もあまり残っておらず、各事件も背景や顛末がよくわからず、読んでいても、面白くないのが正直なところである。

この書は「1.『古今和歌集』の時代を考える」、「2.古代国家の変容」、「3.列島の災害と戦禍」、「4.受領の成立と列島の動乱」、「5.新しい仏教」、「6.貴族の成立」、「7.都市の暮らしとムラの生活」、「8.東アジアとの外交と列島」の章に分かれている。

目新しいのは、史料考察の中に文学(和歌集なども)も含めていることである。またこの時期の天災(地震、噴火、疫病など)にもページを割いていることである。疫病に関して、あの藤原道長が位を極めて栄耀栄華を誇ったのも、兄2人が疫病で亡くなった(一人は推定)為とのことというのは認識を新たにした。

この時代の地方のことの記述は史料が無いから少ないが、その中でも東国(蝦夷も含めて)が多いのは俘囚の反乱や平将門や平忠常の乱などがあるからであろう。ただし、やはりこれらの乱の背景、経緯などはよくわからない。蝦夷(東北)から俘囚(捕虜)が東国や各地にかなり多く連れてこられているようだが、奴隷なのか、あるいは何らかの自由があったのかなどはわからない。平将門の乱などは当時の関東平野と現在の地形が変わっていることもわかりにくい一因かもしれない。もっと水運のウェイトが高かったのではなかろうか。
都での政変や乱(安和の変、応天門の変)も、よくわからない。

また考古史料も、奈良時代などと違って少ないと言う。その理由は、平安時代になると現代につながる場所が多く、その後の開発で失われていることも多い為とのことである。その意味でも実態把握が難しい時代なのであろう。

氏(ウジ)からイエへの変化、国司が受領国司となり、受領国司が武力を持って地方武士という流れなどは理解できた。

「大伴氏の正体」関祐二 著

 平安時代の俘囚の乱に関する資料を探していた時に、目に付いた本である。副題に「悲劇の古代豪族」とあるが、大伴氏は古代から天皇を軍事面で支えた氏であるが、藤原氏によって疎外されてきた。そして万葉集は大伴家持が日本書紀や古事記などの正史に対して、歌に名を借りた歴史書として編纂したというようなことが書かれている。

 古代のことはともかく史料が無いから、本当のところはわからないというのが実態だと思う。それ故に、邪馬台国論争もそうだが、様々な論が生まれる。この本も、そのような古代史ミステリーを楽しむ本と思うが、読みにくい。読みにくい一因は、当方に古代史とか万葉集の基礎知識が無いことにあると思うが。

 この中で、大伴氏も海の民であり、刺青文化があったことなどを記している。稲作がそうだが、日本の基礎は海洋民族が建てたと私も感じる。海人と馬の結びつきに違和感を感じるが、川を舟で遡る時は、馬で曳かせるとあり、こういうことも一理あると思う。
 博多湾の一帯は古代文化が栄えたところだが、後背地の日田は九州全域への交通の要衝で、この地を抑えられると博多は困ることなどなるほどである。江戸幕府も日田を天領にして代官所を置いていた。
 大伴氏と佐伯氏、来目(くめ)氏、物部氏(弓削氏も物部系)などが、古代の軍事氏族だったことは間違いがないだろう。大伴氏は雄略天皇時代に、その片腕となって活躍したと書く。
 大伴家持の作った長歌で、その一節が「海ゆかば」が鎮魂歌として知られているが、その長歌の中にも、「大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる」などがある。
 古代の政変時の大伴氏の活躍、関与、藤原氏との確執も書かれているが、古代史ミステリーの中である。

「新潮日本文学アルバム 折口信夫」

 新潮社が刊行した日本の文学者ごとの写真や原稿、書簡などをビジュアルに提示して、それを年代順に並べて、解説を加えた本である。巻末に作家の年表もついている。
 折口信夫に関心を持っているが、和歌(この場合は釈迢空=しゃくちょうくう)や民俗学(折口は柳田国男を師として遇した。ただ柳田は自分の説とは違うところも感じていた)や国学、小説家という幅広い分野で業績が残る人物であり、私ごときではとらえようのない。そこでこの簡単な書を紐解く。

 「大阪びと折口信夫」「新国学への志向」「まれびと来訪の実感」「古代研究の深まり」「戦後のよみがえり」と時代順にアルバムが整理され、岡野弘彦の「評伝」と「一枚の写真-野性の雅び」という田久保英夫のエッセイがついている。また年譜も付いている。

 大坂の医家も兼ねる生薬と雑貨の商家に生まれたが、父との折り合いが悪く、複雑な家庭環境であった。
 祖父が飛鳥坐(あすかにいます)神社の累代の神主家に縁があった。父から芭蕉の句を暗唱させられたり、小学校時には百人一首を暗唱していたようだ。右の眉間から鼻梁にかけて青痣があったことが心の傷になる。
姉が国学者敷田年治に学んでいて、この影響もある。大阪府立5中(天王寺中学)時代は兄から文芸の影響を受け、万葉集も読破。辰馬桂二という同級生に恋をする。

 1年遅れて中学を卒業し新設の国学院に入る。ここで三矢重松教授(庄内藩で国学者の気概を持つ)に師事し研鑽を積んだ。国語学や文法に関する研究を行う。宗派神道の研究団体にも入る。新仏教家の僧侶藤無染と一緒の下宿に入る。毎日電報の劇評懸賞募集に一等当選。友人の永瀬薄暮で応募する。卒業論文は言語情調論である。
卒業後、大阪に戻るが1年ほど職がなく、その後府立今宮中学校の教員となる。柳田国男の雑誌にも投稿する。

 再度上京するがしばらく職がない。柳田や文学者と会う。歌集の評論なども行う。大正5、6年に最初の著書「万葉集」(俗に「口訳万葉集」)を出す。大正8年に国学院大学の臨時講師となり、各種論説を発表する。大正12年から慶應義塾大学でも教え、昭和3年に教授となる。

 慶応では芸能史、文学史、国文学演習を担当し、源氏全講会を課外に行う。国学院でも教える。藤井春洋を同居させ、後に養子とする。「古代研究」3巻を刊行する。養子とした藤井春洋は太平洋戦争時に硫黄島玉砕の一人と知る。

 戦後、今回の戦いに敗れたのは日本の神が西洋の神にやぶれたと認識して、神道の教義化も行うが、従来の神道界とは軋轢も生ずる。昭和23年に芸術院賞を受賞し、昭和29年に亡くなる。

「折口信夫 霊性の思索者」林浩平著

民俗学者、国学者、歌人(釈迢空=しゃくちょうくう)、小説家という幅広い分野の巨人である折口信夫の評論である。新書で刊行されているから、わかりやすいかと思って読んだが、著者独自の評論を、聞き慣れない言葉で展開している章もあり、読みにくい本である。私自身が折口信夫の作品をよく知らない為でもあろうか。

 序章も含めると、次の6章に分かれている。序章「折口信夫像の揺れ」、第1章「折口信夫の「発生」」、第2章「折口学とは何か」、第3章「プネウマとともにー息と声の詩学」、第4章「浄土への欲望と京極派和歌」、第5章「霊性の思索者」である。

 序章では、近年、富岡多恵子が唱えた説ー初期に新仏教の僧である藤無染と初期に同性愛関係にあったとの説(歌の筆名である釈迢空という浄土真宗の戒名のような名、國學院入学で上京した時に同居したこと、いくつかの折口の和歌などから推測)-を紹介している。また評論家安藤礼二が藤の業績を調べる中で仏教とキリスト教を神智学で結び付けようとする説で折口の業績も見直す論を紹介している。

 第1章では折口信夫の生家のこと、家庭事情のこと、万葉集を暗記したこと、中学時代の同性愛のことなどを紹介している。そして育った場所の大阪の天王寺丘陵から見る夕日の美しさを記している。夕日→浄土→浄土宗、夕日→歌人藤原家隆に触れている。また國學院で言語学として古代の東北アジアの言語に関心を持ったことを記す。口頭で伝わる文芸に関心を持ち、卒業論文が「言語情調論」である。

 第2章では、折口信夫が文学の発生を、祝詞、呪詞などに求め、それを唱える人や伝承が残る沖縄への関心を記す。こういうことへの関心が柳田国男の民俗学との接点になったのだろう。折口は柳田を師としていたが、柳田は折口の論の全てに納得したわけではないようだ。

 第3章はプネウマ(ギリシャ語で風、息、精霊=スピリット)という概念でこの本の著者が折口論を解説している。難しくわかりにくい論説で私には理解できない。

 第4章では、折口が勅撰和歌集の中で、玉葉と風雅がいいとしているようで、これら勅撰集は藤原定家のひ孫にあたる京極為兼を始祖とする京極派の歌人が編纂し、その歌が収められている歌集である。そして京極派の和歌には夕日が多く取り入れられている。先に述べた天王寺の夕陽=浄土につながる。

 第5章」では戦争で養子とした藤井春洋が硫黄島で戦死したことや多くの若者が死んだことに衝撃を受けて、これら戦死者を「未完成の霊魂」と述べていたことを紹介している。そして、日本が負けたのは日本の神が西洋のキリスト教の神に敗れたと認識して、神道を真に宗教化することに情熱を傾けていることを記している。神道には宗教体系がなく、教典、教義もないということだ。敗戦による天皇の人間宣言で障碍が取り去られ、宗教化が可能になると思ったようだ。それまで神道は宮廷と結ばれ、国民道徳の源泉とされてきた。特攻などを採用した背景に、神道には罪の意識がないことを指摘している。なお、戦前において天皇は祭祀をつかさどる時に神となると述べていたようだ。天皇=神の時代では不敬罪にあたりかねない説であった。


「平安女子は、みんな必死で恋してた」イザベラ・ディオニシオ著

 イタリア人女性が、日本の平安時代の古典を読んで、その感想、解釈を披露している本である。図書館で別の本を捜している中で目に入り、面白そうだから読んだ。
 タイトルや本文の中での著者なりの訳文は、軽い感じであるが、著者の日本語能力も、古典を読む力、古典への造詣の深さなどは大したものだと思う。
 末尾に主要参考文献の外に「イザベラの古典入門ブックリスト」を付けて、私やあなたのように日本の古典を知らない人への古典の解説、入門書として推薦する本のリストを付けている。それも学者が推奨するような本ではなく、著者が読んで感銘した本だと感じる。

 それぞれの物語の位置づけを著者なりの視点でまとめた解説(くだけた解説だが)を記述し、それから著者の論旨に合致する古典の一節を抜き出し、その超訳として、真意を掴みながらの現代的な訳文を付けている。
「東洋経済オンライン」で「日本人が知らない古典の読み方」として連載していたものを本にまとめたと「あとがき」にある。

 取り上げた古典は「平安京を騒がせたプロ愛人」=和泉式部「和泉式部日記」、「ヲタク気質な妄想乙女」=菅原孝標女「更級日記」、「儚げ?バリキャリ?ミステリアス女王」=小野小町の「古今和歌集」、「女であることを誇れ!カリスマ姐さん」=清少納言「枕草子」、「ハイスペック×素直になれない=鬼嫁」=藤原道綱母「蜻蛉日記」、「語り継ぎたい破天荒カップルたち」=「伊勢物語」の女たち、「ダメ男しか掴めない薄幸の美女」=二条「とはずがたり」、「給湯室ガールズトークの元祖」=紫式部「紫式部日記」、「ふたつの顔を持つ日本最古のヒロイン」=かぐや姫「竹取物語」、「イタリアの超奥手こじらせ男子」=ダンテ「新生」VS平安女子である。

 「とはずがたり」は1938年に宮内庁の地理書を整理中に発見されたものとのこと。鎌倉時代の宮中の秘め事が記されているもので後深草上皇に仕えた二条という女性が記したものである。後深草上皇に犯されるところの記述もあるという本である。
 和泉式部をプロ愛人と称するのも凄いが、男性遍歴の多いモテた女性だったようだ。更級日記の作者を本好きなヲタク、妄想乙女とするのも的確であり、うなる。
 清少納言をカリスマ姐さんというのも、なるほどである。キャリアウーマンは枕草子をバイブルにすべきだ。
 伊勢物語は恋愛バイブルと書くが、大学受験以降手にしていない私などは、そういうものかと思うだけである。
 イタリア人が学ぶ古典=ダンテの神曲の話なども面白いが、読んだこともない私にはピンとこない。


「忠臣蔵まで 「喧嘩」から見た日本人」 野口武彦 著

 この本は、忠臣蔵の事件が生じ、それが物語になって長く語り継がれる背景を、「喧嘩」をキーワードにして探っている本である。
 仇討ちの主戦派とも言える江戸在住組の堀部安兵衛や武闘派の大高源五などが持つ気持ちー浅野家お家再興などどうでもよく、不倶戴天の敵・吉良上野介を殺すことが第一-という気持ちの底流に流れる心情はどこが源流なのかと探っている。

 そして「喧嘩」をテーマに様々な出来事を取り上げている。戦国時代の合戦、喧嘩両成敗の言葉や法が登場する戦国家法、武士道に関する著作、豊臣平和令、大鳥一兵衛や旗本奴などの「かぶき者」、徳川綱吉の性格、赤穂藩士の俳句などにも言及している。

 戦国を生きた武士毛利安左衛門は「喧嘩は怒りよりも勇気が出て死を顧(かえり)みないが、合戦では私の忿り(いかり)は無く、忠と義で戦うから喧嘩ほど真剣にならない」というような言葉を『翁草』に残している。

 上位権力による喧嘩禁止令、豊臣平和令(惣無事令)や、江戸幕府の法令は、結局のところ、上位権力に圧倒的武力が備わってこそ、効力が発揮できることを認識する。
 パックス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)、パックス・アメリカーナ(アメリカの巨大な軍事力による平和)も同じことであり、平和という言葉のむなしさも感じる。

 「方広寺鐘銘問題」の章で「権力者は側近に学者を必要とする」と著者は書き、家康の金地院崇伝、南光坊天海、それに林羅山に触れ、言いがかり的な解釈で喧嘩をはじめたことを記す。赤穂浪士事件における荻生徂徠(「もし私論をもって公論を害せば、これ以後天下の法は立つべからす」は見事な論と私は思う)もその位置づけなのだろうか。

 慶長期のかぶき者の大鳥一兵衛のことも詳しく、参考になった。25歳で処刑されるが、人望のあった男で喧嘩の仲裁が実に見事であったと伝わる。主従関係よりも友情(朋友の義)を大切にした。
 この後に続く旗本奴、町奴の事象も、江戸初期~前期にかけての大名取り潰しと浪人激増による治安悪化も忠臣蔵事件の底流として記している。

 徳川綱吉の「初期は天和の治として善政、後期は側用人政治の悪政」を、ローマの三代皇帝カリギュラ、五代皇帝ネロの治世と比較しているのも興味深い。彼らも即位直後は民衆に愛される政治を心がけたようだ。自己の神格化など共通する心理があるのだろうか。綱吉の低身長説、将軍就任に酒井忠清が猛反対したこと、母桂昌院への愛、めまぐるしく代わる寵臣、生類憐れみの令の行き過ぎなども記している。

 なお当時「土芥寇讎記」(どかいこうしゅうき、元禄三年頃)という大名、旗本の行跡を評判記のように記した書物があり、これは綱吉も読んでいて、大名の取り潰しにも利用していたのではとの話がある。それに記載されている浅野内匠頭長矩は、「智有りて利発なり、家民の仕置もよろしい」と褒めているが「女色好むこと切なり。故に姧曲の諂い者、主君の好む所に、随て色能き婦人を捜し求め出す輩、出頭立身す」などと書かれているとのことだ。

全体としてまとまった論旨で書かれていないと感じるが、興味深い本である。

「陰謀の中世史」呉座勇一著

面白く、精読する価値のある本である。私は通読しただけである。著者がこの新書で訴えた論点は、日本の中世史では陰謀論に基づいた史観が広がっている。それらを現在判明している史実で正したいとのことである。
 歴史小説も、謎解き○○史というものも、陰謀的な歴史観が好まれる。例えば本能寺寺の変の黒幕を突き止めたとか、応仁の乱を引き起こした悪女日野富子と言ったたぐいである。
 陰謀論の特色を著者は次のように解説していく。
「加害者(攻撃側)と被害者(防御側)の立場が実際には逆である」→「主体と客体の逆転」
「結果から逆算して原因を作る陰謀論」→「最終的な勝者が全てを予測して状況をコントロールしていた」→「特定の個人・団体の筋書き通りに歴史が動いていく」
「秘密裏に遂行しなければならないため、参加者を限定せざるを得ない」
「事件によって最大の利益を得た者が真犯人である」
「先入観(後白河は陰謀家、日野富子は悪女)に支配される」→「公武対立史観」
「動機を怨恨に」
「動機を野望に」

著者は、陰謀説では機密保持をどうしたかなどが説明しにくい。どうしても完全犯罪はできない。論理の飛躍がどうしても出る。
人気があるのは単純明快な説明。そして批判する人に「そうでない」と言うのならば、それを説明できる証拠を出せと挙証責任に転嫁することで生き残る。そして陰謀論を唱える人は「歴史の真実を知っているという優越感に浸れる」。そして妙に使命感が強く、陰謀論を強く主張する。
そして意外と、インテリ、高学歴ほどだまされやすい。そして専門家はそのような論は取るに足らないと考えているから、本気で論駁しない。だから陰謀論は生き残ると記している。

 第1章は「貴族の陰謀に武力が加わり中世が生まれた」という章で保元の乱、平治の乱を取り上げている。第2章は「陰謀を軸に『平家物語』を読みなおす」であり、鹿ケ谷の陰謀、義経の話を取り上げている。第3章は「鎌倉幕府の歴史は陰謀の連続だった」として、源家将軍家が断絶したこと、北条得宗家にまつわる陰謀を解き明かし、第4章は「足利尊氏は陰謀家か」として鎌倉幕府を倒した時、それから観応の擾乱を取り上げる。第5章は著者が得意とする応仁の乱を巡る日野富子の悪女説を取り上げる。そして第6章は「本能寺の変に黒幕はいたか」、第7章は「徳川家康は石田三成を嵌めたか」となり、最後に「陰謀論はなぜ人気があるのか?」として、歴史を賑わす陰謀論が出てくる背景を分析している。

 それぞれの具体的な歴史上の事案に沿った解説も面白いが、内容も豊富で、長くなるので、人気の本能寺の変に記されている箇所を簡単に紹介する。
 怨恨説では、光秀の母が人質となって丹波波多野氏を降伏させたが、信長が波多野を殺した為に報復で殺されたことへの恨み説も江戸時代になって生まれた説で同時代資料にない。家康饗応の席での折檻や、齋藤利三が稲葉一鉄との間でのもめ事があったことや武田攻めの時に我らが骨を折った甲斐があったと述べての折檻も、信頼性の低い資料にしかない。丹波を取り上げて中国攻めに向かわせた為の恨みも、国を取り上げたら兵の動員もできないから、ありえない。

 野望説は戦後に本格化した説である。光秀勤王説で朝廷黒幕説も、当時の朝廷(いつもそうだが)は信長という権力者にすり寄っており、ありえない。光秀の足利家幕臣説と足利義昭黒幕説も、鞆にいた時の足利家の最大支援者毛利家が謀反を知らず、ありえない。イエズス会黒幕説はフロイスが後に天罰説的に書いたからであって、信長は自己の神格化というより、各地の神社を手厚く祭っていたから違う。秀吉黒幕説も、秀吉は信長を中国攻めに迎えようとしていたから信長の動向に常に気を配っていたから、本能寺の変を的確に知っただけではと推測する。
四国攻めの齟齬による動機説については紹介しているだけである。著者は突発的な光秀単独犯ではないかとの立場である。

 

「図説 市川の歴史 第二版」市川市教育委員会

この本は「市川市史」全7巻8冊に準拠し、それを市民向けにやさしくコンパクトにまとめた本である。歴史の本かと思うと、内容には自然、民俗も含めて記述していて良い本である。

第1章は「市川の地形のなりたち」である。第2章は「市川最古の住民たち」として市川に多い縄文期の貝塚の紹介である。第3章は「卑弥呼の頃の市川」は古墳時代、第4章は「手児奈の風景」は万葉集から平安時代の頃である。第5章は「豪族千葉氏と法華経寺」で鎌倉時代から室町時代である。第6章は「江戸近郊農村のくらし」として江戸時代。第7章は「都市化する市川」、第8章は「伝承されてきた民俗」、第9章は「かわりゆく自然」である。

ここでは「市川の地形のなりたち」の内容を紹介する。地球は46億年前に誕生したが、関東平野は関東造盆地運動という約2000万年前からの地殻変動で作られる。それは中央部の沈降と周囲の隆起で形成される。周囲の古い地層が残っているのは銚子の犬吠埼と、青梅・奥多摩の山岳。その間は盆地で、そこが海の底になった時は海底の砂や貝層がたまり、隆起したら富士山、箱根の火山灰が積もりローム層。さらに関東の奥からの川の堆積物が貯まるという構造。

関東平野のお盆の底の岩盤まで、市川あたりで厚さは約2000㍍。ここまでは杭を打てないから、砂の木下(きおろし)層(台地部では地下7~9㍍、沖積低地部では地下10~20㍍)が固いからそこまで打つ。その上の関東ローム層は古い時代から下末吉ローム層、武蔵野ローム層、立川ローム層と分かれる。
今日に近い地形の骨格は2000年前にでき、ほぼ現在と同じ原風景は500年前にできる。

市川砂州は東京湾奥の海岸として約5000年前からはじまり、約3000年前にはできていた。縄文時代後期である。市川の縄文遺跡も約3000年前に終了する。長さ4キロ(中山の台地麓の高石神から江戸川まで)、幅0.5~1.5キロ、海抜4~7㍍ 。
これは海からの津波の防波堤になる。1917年の高さ4㍍以上の高潮は市川砂州の南端で止まる。
北側の山側(下総台地)は標高20㍍以上の広くて平らな台地。この台地が樹枝状に川で抉られて谷(ヤツ、ママの地名)になっているのが下総台地の特徴。ここに流れた水は市川砂州で出口をふさがれるから排水が悪い土地(真間の入り江)になる。
だから下総台地は畑(水の便が悪い)、真間の入り江のような低地は田(稲田、蓮田)(海に近く、水位が高く、水はけが悪く、洪水の心配)、市川砂州は果樹が植えられる。

行徳は江戸川(昔は太日川)の自然堤防の上に14世紀頃からできる。
江戸幕府は行徳の塩の為に、新川・小名木川(併せて行徳川)を開削。寛永9年に船便を行徳船。本行徳村の河岸場から日本橋小網町3丁目の行徳河岸(今の箱崎ランプあたり)を結び、これが成田詣などにも利用される。

菊川と神田明神

昨日は友人とウナギの菊川に出向く。神田駅で11時待ち合わせであり、私は早すぎると思ったが、出向くと、店の前に店員さん2人が立ち、来店者の整理にあたる体制が整っていた。すぐに入店できるが、「早くて正解だった」と友人に言う。
私にとって今年の菊川は、やや淡泊な感じだが、これはこれで、この方がいいと言う人もいるだろう。身は豊かでほくほくでさすがである。
お店が忙しい時期であり、長居は失礼と思い、早々と出るが、12時前でも店前に小雨の中4組ほどが並んで待っていた。

その後、友人が久しぶりだから神田明神にと言うことで歩く。ここは初詣は凄いが、昨日は台風もあり、閑散としている。
「平将門公展2021」を展観しているとのことで500円の入館料で入る。美術として観るべきものは梅花鮫(かいらぎさめ)皮を鐙(あぶみ)と鞍(くら)の全面にふんだんに使った馬具である。贅沢(ぜいたく)なものだ。
将門公の御神像はいつごろ製作されたものかは確認していないが、近世のものだと思う。神田祭のジオラマが江戸時代、現代と2つ作られている。これも現代の製作だろう。
江戸後期の神輿(みこし)か屋台が展示されているが、凝った木彫のものだ。
他は戦国武将の絵など、今の人向けの展示で、入館料に見合わないと思うが、神田明神へのお賽銭の一種だ。境内にはお土産品店と飲食店や小ホールが一緒になった会館もできており、昔と雰囲気が違うとも感じる。