「新編 市川歴史探訪」千野原靖方著
この本は”探訪”とあるように、地図も付いていて、本を手に史跡を見学・散策する為の本である。次の章に分かれている。「1下総の国府」「2弘法寺と真間の手児奈」「3須和田台」「4国分僧寺と尼寺跡」「5国府台古戦場」「6八幡庄と法華経寺」。これらが、市川の見所ということだ。ただし市川市に多い貝塚遺跡は含まれていない。
下総の国府は、下総台地(標高は20~25㍍程度)の西端の江戸川に接している国府台にあったが、明確には特定されていない。総社もあったが、六所神社として須和田の方に移転されているが、いつ移転したのかはわからない。ここや周辺台地の縁には多くの貝塚遺跡が分布しており、太古から人が多く住んでいたところである。
古代は、ヤマトタケルの伝説でもわかるように、相模の三浦半島の走水から海路で富津の須恵(周淮)に至るのが東海道のルートであった。上陸した場所が上総で、それから東京湾沿いに東海道が通り、この下総の国府に至ったのである。
その後、東京湾沿いが干拓されて天候に左右されやすい海路を避けて、陸路を武蔵から下総に行くようになる。武蔵国が東山道から東海道に所属が変わり、東海道となったわけである。
『更級日記』の作者は上総の国司の娘だが、上総から東京湾岸の東海道を通って、市川の井上(いのかみ)駅に至り、そこから北上して松戸に至り、「まつさとの渡り」から太日川(江戸川)を渡り、武蔵の豊島駅(千代田区麹町、平河町)へ出て東海道を京都に上っている。
真間の弘法寺は、天平9年(737)に僧行基が求法寺を建てて手児奈を供養したのがはじまり、その後、弘仁13年(822)に空海によって7堂が造営され、真言密教の弘法寺になる。元慶5年(881)に天台宗になり、この間、根本寺、妙法寺などとも称した。弘安元年に法論(真間問答)によって日蓮宗となる。徳川家康から30石の朱印状。明治21年に火災によって諸堂を消失したから、建物は新しい。
須和田台は以前は真間・国府台とつながって東西に長い舌状台地だった。弥生時代の遺跡がある。六社神社がある。
下総の国府があった国府台台地とは、国分谷を隔てた国分台地に国分僧寺と国分尼寺があった。この跡らしい所が判明しているが、史跡らしい形に整備されているわけではない。開発が進んでわからなくなっている。
千葉常胤五男の胤通が国分を領して国分氏を名乗る。国分胤通は葛飾郡国分郷の他に香取郡本(もと)矢作(やはぎ)(香取市)にも居して、香取神宮領の地頭にも任じられている。4人の子は矢作の他に香取市大戸、成田市村田に住していることが記されている。
戦国時代の国分城の遺構も、住宅開発によってわからなくなっている。
国府台古戦場は里見公園になっているところが中心である。市川城と国府台城が同一か違うかに説が分かれている。天文と永禄の二度の国府台合戦があった。里見公園内には明戸古墳、法皇塚古墳がある。幕末には市川戦争があった。
八幡荘は北西部の国府台周辺(国分川の西側)と南部の行徳周辺を除く市域が荘域であったと考えられる。谷中郷(若宮、中山、高石神、北方)、曽谷(蘇谷)郷(曽谷、松戸市秋山)、中沢郷(法免、宮窪)、大野郷(大野、松丸)の4郷からなっていた。史跡は葛飾八幡宮とその周辺である。
中山法華経寺は日蓮ゆかりの寺で、日蓮宗の本山の一つであり、色々と江戸時代の建物は残っている。
<リンクした本とちょっと違うような装幀であり、別の本の可能性もあるがリンクしておく>
下総の国府は、下総台地(標高は20~25㍍程度)の西端の江戸川に接している国府台にあったが、明確には特定されていない。総社もあったが、六所神社として須和田の方に移転されているが、いつ移転したのかはわからない。ここや周辺台地の縁には多くの貝塚遺跡が分布しており、太古から人が多く住んでいたところである。
古代は、ヤマトタケルの伝説でもわかるように、相模の三浦半島の走水から海路で富津の須恵(周淮)に至るのが東海道のルートであった。上陸した場所が上総で、それから東京湾沿いに東海道が通り、この下総の国府に至ったのである。
その後、東京湾沿いが干拓されて天候に左右されやすい海路を避けて、陸路を武蔵から下総に行くようになる。武蔵国が東山道から東海道に所属が変わり、東海道となったわけである。
『更級日記』の作者は上総の国司の娘だが、上総から東京湾岸の東海道を通って、市川の井上(いのかみ)駅に至り、そこから北上して松戸に至り、「まつさとの渡り」から太日川(江戸川)を渡り、武蔵の豊島駅(千代田区麹町、平河町)へ出て東海道を京都に上っている。
真間の弘法寺は、天平9年(737)に僧行基が求法寺を建てて手児奈を供養したのがはじまり、その後、弘仁13年(822)に空海によって7堂が造営され、真言密教の弘法寺になる。元慶5年(881)に天台宗になり、この間、根本寺、妙法寺などとも称した。弘安元年に法論(真間問答)によって日蓮宗となる。徳川家康から30石の朱印状。明治21年に火災によって諸堂を消失したから、建物は新しい。
須和田台は以前は真間・国府台とつながって東西に長い舌状台地だった。弥生時代の遺跡がある。六社神社がある。
下総の国府があった国府台台地とは、国分谷を隔てた国分台地に国分僧寺と国分尼寺があった。この跡らしい所が判明しているが、史跡らしい形に整備されているわけではない。開発が進んでわからなくなっている。
千葉常胤五男の胤通が国分を領して国分氏を名乗る。国分胤通は葛飾郡国分郷の他に香取郡本(もと)矢作(やはぎ)(香取市)にも居して、香取神宮領の地頭にも任じられている。4人の子は矢作の他に香取市大戸、成田市村田に住していることが記されている。
戦国時代の国分城の遺構も、住宅開発によってわからなくなっている。
国府台古戦場は里見公園になっているところが中心である。市川城と国府台城が同一か違うかに説が分かれている。天文と永禄の二度の国府台合戦があった。里見公園内には明戸古墳、法皇塚古墳がある。幕末には市川戦争があった。
八幡荘は北西部の国府台周辺(国分川の西側)と南部の行徳周辺を除く市域が荘域であったと考えられる。谷中郷(若宮、中山、高石神、北方)、曽谷(蘇谷)郷(曽谷、松戸市秋山)、中沢郷(法免、宮窪)、大野郷(大野、松丸)の4郷からなっていた。史跡は葛飾八幡宮とその周辺である。
中山法華経寺は日蓮ゆかりの寺で、日蓮宗の本山の一つであり、色々と江戸時代の建物は残っている。
<リンクした本とちょっと違うような装幀であり、別の本の可能性もあるがリンクしておく>