「江戸の画家たち」小林忠 著

江戸時代の絵画を、「得意の技法」「好みの主題」「画賛物の楽しみ」「見立絵の鑑賞」の4章に分けて述べている。
 そして、各章においても、何人かの画家を取り上げ、その画家の一つの作品(中には複数)を取り上げて、各章のテーマに即して解説している。これは、それぞれの篇が連載物として発表したことによる。だから一話で完結していて読みやすく、内容もなるほどと思うが、写真が白黒写真で絵の鑑賞する本としてはものたりない。

 はじめに江戸時代の絵画の特徴を日本の絵画史の流れを踏まえて概説している。大和絵と漢画の流れを無理なく自然に合流させ融合したのが狩野探幽であり、格調高く、瀟洒な趣致をもつ新古典様式を創りあげ、和画とよばれ規範となる。桃山時代の開放的で力動感や生命力の豊かな表現はなく、また室町時代の水墨画の精神性の深みも期待できないが、親しみやすい主題の軽淡で鮮麗な表現を評価すべきと書く。

 そこに長崎からの西洋画、漢画が入るが、その日本化も享保年間以降の画家の課題となった。また中期以降になると地域や身分を異にする在野の画家が出る。

 「得意の技法」の章では応挙の付立(つけたて:輪郭に線を用いず色や墨の面のひろがりにより形をあらわす没骨描の一技法で、一筆描で没骨の面を創り出す)、玉堂の擦筆(さつぴつ:乾いた筆を紙面にこすりつける)、森狙仙の毛描、宗達の彫塗(ほりぬり:下書きの描線を損なわないように避けて色を塗る彩色法)、懐月堂安度の肥痩線描、土佐光則の白描(色彩を排除した墨のみによる大和絵風の絵画)、池大雅の指墨(指に墨をつけて描く)、蘆雪の水墨、若冲の筋目描(水気をおびてにじみ広がる墨と墨の面にでる筋目)、中村芳中の垂込(たらしこみ:太い線や面を使って描き、完全に乾かない内に別の色彩を加えて自然にできるむらを生かす)、久隅守景の外隈(そとぐま:表そうとする物の形の外側を濃淡の墨の面でとり囲み、紙や絹の素地の白を積極的に活用するもの)、蕪村の草画(簡略な描写のうちで余情をたっぷりと伝える俳画)を解説している。

 「好みの主題」の章では吉祥画、風俗画、漫画、花鳥画、四君子画、見立絵に分けて、該当する絵を解説している。

 「画賛物の楽しみ」の章では1月から12月までにふさわしい画を描いたものを取り上げて、絵を季節に合わせて掛け替えた日本人の感性を解説している。西洋の絵画は季節に合わせて掛け替えることはしない。

 「見立絵の鑑賞」の章では、昔の日本あるいは中国の物語・画題を、江戸時代にふさわしく、絵の主人公や背景を変化させて描いており、なるほどと思う。例えば寒山拾得の画題における人物の姿を、湯女や町娘に置き換えて表現したり、源氏物語の御簾から女三の宮を見初める場面を、湯女が縄のれんから顔を出す絵に変えたりしている。
 伊藤若冲が釈迦の最期の釈迦涅槃図(釈迦の周りで多くの人物、動物が嘆いている)を野菜で取り合わせた絵もそうである。
 こういう古典の教養を当時の人が持っていたわけである。

「司馬遼太郎全集15 豊臣家の人々」司馬遼太郎 著

 全集15に「関ヶ原 2」と一緒に収録されている小説である。文字通り、豊臣家の親族や養子、猶子であった殺生関白こと豊臣秀次、金吾中納言こと小早川秀秋、宇喜多秀家、北政所、大和大納言こと豊臣秀長、駿河御前、結城秀康、八条宮、淀殿・その子に章は分かれている。

 秀次は秀吉の姉「おとも」の子である。阿波の名族三好家の名跡を継いで三好秀次となる。小牧長久手の戦いでは大将となって家康の本拠地三河を衝く別働隊を率いるが惨敗する。秀吉と淀殿の間の子鶴松が夭折した為に、秀吉の養嗣子となり関白となる。しかし秀吉に第二子(後の秀頼)が生まれると、秀吉は秀次が邪魔になる。秀次は学問を庇護していたが、乱行もあり、それを咎められて切腹させられ、妻妾や子も誅殺されて「悪逆塚」と刻まれる。

 小早川秀秋は北政所の実家の木下家に生まれ、子のない秀吉夫婦の養子となる。幼童の頃は可愛げがあったが、成長すると愚鈍さがでる。秀吉と淀殿の間の子ができるまでは、それなりに大事にされたが、子ができてからは邪魔になり、その意を受けて黒田如水が毛利本家への養子と考える。相談された小早川隆景は小早川家に迎えることにして毛利家を守る。第二次の朝鮮の役に大将となったが、そこでの戦振りを軍監が石田三成に告げて、秀吉の怒りを買い、越前転封の命を受けるが、家康が取り繕う。それで家康に恩を感じ、一方で石田三成を恨む。これが遠因で関ヶ原での裏切りにつながる。

 宇喜多秀家は秀吉が宇喜多直家から頼まれて養育する。すこやかに育つが、宇喜多家内部の統率に関心が無く、家が乱れる。それを家康に利用される。ただ秀頼公の御為という念は揺るぎなく、関ヶ原では西軍で戦う。戦後、妻の実家の前田家などのとりなしで、八丈島遠島となる。ここで83歳まで生きる。徳川四代将軍の治世である。

 北政所は秀吉の糟糠の妻である寧々さまである。陽気でフランクで偉ぶらない人として描いている。福島正則、加藤清正などを育てる。淀殿に子ができると、そちらに近江閥が自然に出来、北政所の方は尾張閥とされて、徳川家康を頼るようになっていく。

 豊臣秀長は秀吉の母が後に嫁いだ竹阿弥の子として生まれる。あまり事績は知られていないが、竹中半兵衛の指導を受け、播磨・但馬の領主として姫路城を居城として、中国大返しの時は留守を守り、後に紀州、大和を任される。武将としても人の和をはかり、優れた人物である。天正19年に50歳で歿したが、亡くなってから豊臣政権が揺らぐ。

 駿河御前は秀吉の妹のことである。百姓に嫁いでおり、その亭主を秀吉が侍にしようとしたがどうにもならない。その後、佐治家に嫁ぐも亭主は死に、その後、副田甚兵衛の嫁となる。
その後、秀吉と家康が講和した時に離縁させられて家康の嫁となる。このように運命の変転を描くが、人柄については無口な人として、秀吉のせいで人生を戸惑って暮らしたと書いている。小説になりようのない人だったようだ。

 結城秀康は家康の次子だが、正妻築山殿の子でなく、築山殿に狙われ、家康にとっても思い入れが少ない子だったようだ。本多作左衛門重次が庇っていた。小牧長久手後の和解にあたっての人質として豊臣家に出される。青年の頃から剛毅で、成長すると自然な威があり、家康も秀忠も気を遣って遇していたことが書かれている。秀吉に実子が生まれてから関東の名門結城家の養子となる。関ヶ原の時は江戸で後詰めとなり、上杉を抑えた功として戦後一番の加増を受けて越前に移封される。その後、34歳で唐瘡で逝去する。

 八条宮とは、誠仁親王の子で後陽成天皇の弟である。後の桂離宮の基礎を造った人物である。今出川晴季が斡旋して秀吉が猶子として育てる。秀吉の建築好きを見て桂離宮に至るような小説にしている。秀吉の茶道のこと、細川幽斎を登場させて歌、古今伝授のことなども織り込まれている。

 淀殿・その子は、淀殿を中心に近江閥ができていき、それと尾張閥との争いで豊臣家が滅ぶ様子を描いている。淀殿の女中衆が片桐且元に不信を持ち、それが大坂の陣につながるようにする家康の計略を書く。淀殿の乳母の大蔵の息子が大野兄弟であった。

 司馬遼太郎もあまり好きな人物はいなかったと感じる小説である。

「倭寇と勘合貿易」 田中健夫 著

前期倭寇は日本の南北朝時代から室町時代にかけて朝鮮半島を主要対象として中国大陸沿岸に行動したもの。後期倭寇は応仁の乱後に、文禄・慶長の役にいたる間、主として東シナ海、南洋方面に活動したものである。
前期倭寇は日本の三島(対馬、壱岐、松浦地方か)の民が食糧を略奪する為に朝鮮半島を荒らす。だから米の運搬船と備蓄倉庫を狙う。人も拐かし奴隷で売る。
後期倭寇は明が海禁政策をしたことに対して、中国沿岸の民も違法の通商に出たものが多く、彼等が倭寇を名乗る面もある。
明代の公式の貿易に勘合貿易があるが、これは日明貿易だけでなく、朝鮮貿易も琉球貿易もあるいはシャムなど東南アジア全体の貿易の中で考えるべき。

前期倭寇の中には兵数3000とか、船数400余隻という規模もあり、大規模な騎馬隊があり、沿岸だけでなく奥地にも侵攻したこともある。日本側には資料がない。13世紀に日本から朝鮮(高麗)に進奉船が行って通商があったが、それが元の侵攻で国力の衰えた高麗が拒否したので海賊になったのではとも推察される。また対馬、壱岐が貧しい地域だった面もあると思われる。
1389年に朝鮮軍が対馬を攻撃する。高麗は室町幕府に交渉するが駄目で、対馬の宗氏や大内氏などと交渉しながら倭寇対策をする。その中で倭寇の根拠地である対馬を1419年に襲う(応永外寇)ことも行う。1419年には望海堝の戦いは明が倭寇の船30隻を撃破し、1000人程度を殺す。また朝鮮側に降伏すれば罪を許し、田地や家財を与えるなどの優遇策(これを受け入れた倭寇は投下倭人と呼ばれる)や、通商を許可して懐柔策を取ることも行う。入港する港を限定する。

元は外国貿易に寛大だったが、徐々に厳しくしてきた。1300年代のはじめに日本商人が慶元で元の役人に乱暴をした。通商条件で衝突。
14世紀半ば以後、山東半島方面で倭寇の活動(朝鮮半島から移ったか)がある。

明は1368年に建国。倭寇は毎年、数件発生していたが、1552年から1563年にかけてひどい。天文、永禄の時代である。これは慶長、元和まで続く。16世紀からの倭寇が後期倭寇で前期倭寇とは構成員も、行動も地域も異なる。
元は世界との交流が活発な国だったが、中央アジアのムガール帝国が明を敵視して、陸路の東西交通が遮断。アラビア人などが中国の東南の海港に来るが中国人が海外に渡航しての貿易は厳禁される。

筑紫商客が足利義満に両国通商の利益を説く。これに義満は乗り、応永8年に明に使節を送る。足利義満が日本国王に1402年に任じられ、日明貿易を始める。
中国の銅銭の輸入が主眼。応永10年の遣明船に義満はじめ諸大名は武器を積んでいく。
応永14年の遣明船が帰った時は利益が20万貫にのぼったという。
勘合とは使者を派遣した場合、使者の真偽を証明するために使用する符節。日本には応永11年にはじめて勘合符が支給。日本は1401~1547の150年間に19回だが、安南89回、チベット78回、琉球171回などとあり、勘合貿易は倭寇対策ではなく、明の世界政策。
遣明船は五山の禅僧が使節として関与。大内氏と細川氏が貿易上で争う。永正16年の勘合船で細川方と大内方が争い、明で争うことになる。これ以降は大内氏が独占するようになる。
日本からの輸出品は金銀や、硫黄、太刀、扇子

琉球船が南蛮貿易などで活躍。暹羅、旧港、ジャワ、マラッカ、スマトラ、スンダ、パタニ、安南などと交易。応永から寛正・文正ころまでは盛ん。永享年間が一番畿内に来た・九州にも来る。琉球使になって博多商人が朝鮮に渡ることも多い。応仁、文明の乱で畿内に来なくなる。堺商人はすすんで琉球に渡航した。琉球には島津氏が特殊な地位。
琉球の貿易活動は16世紀になると衰える。これは中国商船の活動がはじまり、ポルトガルが来たから。

15、16世紀になると密貿易が主流になる。地方の沿海官豪(地方の富農地主層)は商人と結託して、海上活動を黙認し、倭寇も操った。倭寇の頭目の王直が種子島における鉄砲伝来に関与したことも知られている。後期倭寇の中の日本人は30%程度で、出身は薩摩、肥後、長門が多いとされる。

16世紀になるとポルトガル人がくる。1510年にゴアを奪取した。1511年にマラッカを攻略した。1522年に広東で打ち払われるが屈することなく進出。
通貨としての銀は宋代から盛んになるが、明でも銀が必要になる。また国際貿易に銀が大事となる。これをスペイン、ポルトガルが埋める。16世紀以降に銀の出を増やした日本が登場。

「司馬遼太郎全集14、15 関ヶ原」司馬遼太郎 著

 以前に読んだ時は非常に面白いと感じたが、今回の再読では、それほどとは思わなかった。以前の読書での知識が、新鮮さを奪っているのかもしれない。あるいは他の資料で関ヶ原の戦いのことを何度も目にしているからなのだろうか。
 天下分け目の関ヶ原の戦いと言っても「戦争は政治・外交の一手段」だから、戦いそのものよりも、戦いに至るまでの、それぞれの参戦者の政治・外交で帰趨が決まるわけである。司馬遼太郎もそこに力を入れて書いている。この戦いでの政治・外交でのポイントは義ではなく、利・欲であることも書いている。まさに義の石田の敗北である。なお義が敗れた背景として、秀吉晩年の外征などで国民を苦しめた政治との訣別という点にも視点を置いている。
 それぞれの武将の私怨、恩義、自家にとっての損得勘定、戦いの大義名分とそれを受け止める各人ごとの解釈などが綾なす人間模様となって小説は進む。
 はじめに、石田三成の人柄、その家老の島左近のことが出てくる。東軍では家康の人柄、謀将の本多正信の考え方などの著述が続く。三成の側室となる初芽という女性を小説らしく登場させる。
 三成の鋭利過ぎて人に嫌われる横柄な性格を書き、秀吉子飼いの武闘派諸将(福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興、浅野長政など)との確執、特に朝鮮の役での秀吉への報告の件でのトラブルなどが起因になっていることを書く。
 家康が勝手に大名間の婚姻などを決め、それを弾劾する動き、そこにおける前田利家の重みと、その死。それからの家康暗殺の動き、三成殺害の動きと、三成は家康邸に逃げ込んで佐和山に退隠する。次ぎに家康側が前田家に難題を持ちかけ、結局、利家室の芳春院を江戸に人質にとることで前田家の動きを止める。直江山城守と三成に密約があった前提で小説にしており、家康は上杉家の上洛を求め、それを拒む上杉家が直江山城守の直江状を送り、上杉家討伐が始まる。
 改めて思うのは、司馬遼太郎は人間に対して好き嫌いがはっきりしていることである。藤堂高虎などは悪く書き、幕末物の小説の中でも伊勢藤堂藩は家祖高虎の性格が出して悪役的に書かれる。福島正則も好きでは無いようだ。小早川秀秋は軽蔑している。
 このように関ヶ原の戦いに関与する各大名の性格、この事態への対処の方法などのエピソードを一章ずつ書いていく。
 前田家以外の五大老の家では、宇喜多家の宇喜多騒動という重臣間の内紛に家康が関与して力を弱める。毛利家は形だけは西軍の総帥になるが、吉川広家と安国寺恵瓊との確執を描く。上杉家では、後に上杉家を裏切った藤田信吉に触れる。

 小大名のことも書く。近江の名門京極高次のこと、西軍に義を通した田丸直昌、桑名の水軍を管理し、中立を守った氏家行広(後に大坂の陣で大坂城に入る)、親子で分かれた水軍の九鬼家、大坂方についたが、途中で東軍になり、兵糧米を東軍に差し出した鍋島勝茂、直茂のことも記述される。
 大谷義継と三成の友情、五奉行の増田長盛、長束正家の性格と立場(彼等は家康討伐の命令書を出すが、その石田三成蜂起の情報を家康に知らせている)も興味深い。
 大坂に残っている大名から上杉討伐中の家康軍に参加している当主への密使が無事に使命を果たすか否かで、後の加増も決まる面もあり、山内家のエピソードなども興味深い。次は、大坂にいる各大名家の夫人が人質にならないようにする脱出劇のドラマがはじまる。加藤清正室の脱出、細川ガラシャの死のことなどである。
 結果として西軍になった島津家の経緯、小早川秀秋の性格に触れ、木下勝俊と藤原惺窩との出会いを書き、伏見城攻めとなる。
 黒田如水の九州での活躍に至る経緯、真田家が両軍に分かれた犬伏の別れのことなどが書かれる。なおこの小説の結末は黒田如水と尼になった初芽との出会いの話で終わる。
 小山会議での堀尾忠氏と山内一豊とのエピソード(若い忠氏が「城地を徳川殿に進上する」との発言案を一豊が奪って先に言い、それで土佐一国をもらったこと)や石田憎しだけの福島正則の煩悶や会議という場では誰も発言せずに、声の大きい者(福島正則)の言に大勢は流れることなどの人間の心理を書く。
 先発した東軍諸将の心の動きと家康の慎重な姿勢、実際に西軍と戦わせてからの家康の尾張・美濃への下向となる。岐阜城(織田家)の戦いと内応、中山道での真田軍と秀忠軍のことが書かれている。
 大垣城などでの石田三成と島津家との確執、家康が大垣を攻めずに大坂に向かうとの情報を流し、関ヶ原に野戦に追い込まれる動き。三成の焦りが描かれ、そこに小説らしく、三成の愛妾初芽が登場したりする。また参陣しても意味のない場所で待機する西軍大名(最期は寝返る)などの日和見の様子などが描かれる。
 そして関ヶ原の戦いだ。小早川秀秋が裏切るまでは西軍が優勢という感じの叙述である。大谷吉継の奮闘振り、その家来の湯浅五助の忠義と戦いが印象的である。島左近の奮戦と蒲生氏郷系の家臣の活躍、その長の蒲生郷舎(横山喜内)の壮絶な戦いを描く。戦いの最中に三成が腹痛に苦しみながら各陣地に督戦に回る様子なども描かれている。
 敗軍の将になっても死なずに逃げるのは、源頼朝の石橋山にならっての逃避になぞらえてのことと書く。三成は逃避行の中で、昔、面倒をみた村人たちの義の心を知る。豊臣恩顧の大名の義の無さと対比が皮肉である。
 捕らえられてからの各大名の接し方、それに対する三成の心境なども小説らしく書いている。ここでも小早川秀秋は惨めに書いている。

「明治維新とは何だったのか」半藤一利・出口治明 著

2人の対談集であり、ペリー来航から西南戦争頃までを、「1.幕末の動乱を生み出したもの」「2.御一新は革命か内乱か」「3.幕末の志士たちは何を見ていたのか」「4.近代日本とは何か」と言う章立てで論じている。
1章では、ペリーの最大の目的は南北戦争後に急成長をしたアメリカ経済の受け皿にアジア市場が大事となり、その為の太平洋航路の開拓とある。この時、日本の老中の阿部正弘は開国・富国・強兵の順でやっていくしかないと考え、人材を登用する。ここで徳川幕府が初期に鎖国を選択した理由を議論しているが、西国諸藩が自由に貿易して幕府以上の富を得ることへの危惧との意見に私も賛成したい。この章の中で慶応元年から明治2年にかけての小銃の輸入量のデータ(長崎、横浜)が掲示されているが、面白い。銃の性能の差も加味すれば薩長が勝つのも当然となるのだろう。

2章では光格天皇の時に「幕府が天皇に打診する」ことの契機が生まれたとあり、なるほどと思う。薩長の関ヶ原の恨みをはらす暴力革命で、東北戦線は東北諸藩の反乱ではなく、防衛戦争と半藤氏は唱えている。ここで、県名と藩名が一致しない賊軍への扱いや、明治後期から大正にかけての陸軍将官の出身地一覧(圧倒的に薩長が多い。他は土佐、筑前、肥前、肥後、加賀、東京)や、明治年間に華族になった人物の出身地などの数値データが提示されているが面白い。華族の中でも上位の公爵、侯爵は薩長出身者である。
また岩倉使節団が海外に出た後の西郷隆盛が幕府出身者を登用したりしたことを述べている。西郷は詩人で理想主義者で毛沢東に似ており、大久保が現実主義者で周恩来に擬せられるとする。
維新の三傑無きあとは伊藤博文(政治)と山形有朋(軍事)となる。ここで統帥権問題をきちんとしておけば良かったが、同藩のよしみで「なあなあ」となり、これが尾を引く。また、このあたりから吉田松陰を持ち出し、御一新を明治維新としていく。

3章では、勝海舟が最初に日本人を意識したと評価する。西郷が宮廷改革をする。グランドデザイナーが大久保利通、合理主義者が桂小五郎、陰謀家が岩倉具視、軍事の才能があった板垣退助は会津戦争で武士は立派だったが町人、百姓はだめなのを見て、これは政治が悪かったためと悟り、自由民権運動にとある。よくできた話であるが本当だろうか。なおアーネスト・サトウのことにも言及している。

そして、近代日本は薩長がつくり、太平洋戦争で薩長が滅ぼした(統帥権問題)と述べている。

「画商のこぼれ話」 種田ひろみ著

おいだ美術を経営している画商のエッセイである。おもしろいのは贋作に関係する話である。中国陶磁器のことや山下清の贋作などの話が紹介されている。山下清の事件は、著者がいない時の画廊に「父親の喜寿の祝いに父が好きな山下清の作品を贈りたいが、お宅にあるか?」との電話がある。価格の方は相場に任せるというような内容である。「生憎、今は無いが、仲間業者にも確認して用意しておく」という返答をする。その後、しばらくしてから、別の人が「山下清の画を持っているが、折り合えば売りたい」との電話があり、来社される。「今は京都に住んでいるが、仕事のトラブルで急にお金が必要となる。千葉に住んでいる両親に相談すると、これで金策の一助になるだろうと渡される。昔、山下清に縁のあった人から両親が直接入手したそうです」との話。この時も著者はいないが、社員が「社長に観てもらってから」と言うと、「京都に帰るから、別の画商のところに行く」と言う。そこで購入。購入後、鑑定に出すとダメ。もちろん売り主にも電話はつながらない。
買いたいと電話をしてきた人物と、売りに来た人物がグルになっていたようで、そちらに電話をしてもつながらない。

私も知人の骨董商から、浮世絵の贋物を掴まされた同様な話を聞いたことがある。売りに来た人は品の良いお婆さんだったそうだ。騙す方もテクニックを駆使しているわけだ。
中国陶磁器の贋物の話も仕掛けの元での詐欺である。

絵の話は私にはあまり参考になることは無かった。昨今の現代美術の話や、昔の人気作家の価格暴落の話などもある。要は絵など美術品は本人が好きで買うもので、金儲け、金の保全の為に買うものではないと言うことだ。騙されるのも欲が動機にあってのことなのであろう。

「アジアのなかの戦国大名」鹿毛敏夫 著

「なるほど」と思った本である。室町時代から戦国時代にかけて西国の大名は中国、朝鮮、東南アジア諸国との貿易に目を向けていた。日本の天下取りよりも、そちらの方が関心事だったのかもしれないと思うようになる。

周防の大内氏は朝鮮との通交が大半だったが、宝徳3年(1451)の遣明船派遣において足利義政が幕府が船を仕立てることができないから諸勢力に日明勘合をばらまいたことで、それに参加した。博多商人と結託していた。その後、細川氏の策略で途絶えるが、40年後の永正の派遣から天文7年、天文16年と独占する。博多商人以外の堺商人や薩摩商人も参画していた。豊後大友氏の家臣の上野遠江守も参加していた。上野氏は豊後水道を中心とする海の武士。中国との貿易も行っていた。

遣明船とは別の地域大名の私貿易も多かった。

豊後の大友氏はやはり朝鮮外交をしていた。宝徳の遣明船にも関与していた。 大友氏はそこで私的な遣明船を行う。入貢を断られると沿岸警備の手薄な福建海域にまわり私貿易を行う。倭寇密貿易船である。大内義長は贋の日本国王之印を使用している。弘治の船ではバレて明は取り締まり、倭寇の頭目の王直が捕まる。
大友氏は天文21年に正式に遣明船を派遣。大内義隆没後に大友家の者(晴英、大内義長)が大内氏に入嗣したためである。硫黄、瑪瑙、金屏風、扇などを持って行く。

肥後の相良氏は天文11年に琉球へ派遣。国料船(関税免除などの特権を持つ公船)として派遣する。市木丸を建造して、これを明にも派遣していた。肥後の宮原で銀が見つかりそれで明に派遣。
松浦鎮信もシャムと通交していた。島津義久はカンボジア国王への親書もある。大友氏もカンボジアと通交。カンボジア国王から大友義鎮は「日本九州大邦王」と呼称されていた。天正元年(1573)の段階で外交関係を樹立していた。島津も三州の太守だが、九州全域が領地のように行動していた。松浦氏も日本国平戸ではなく、日本平戸国と自称。
西国ではないが、越前の朝倉義景も永禄10年(1567)薩摩を通して琉球と通交。毛利氏は永禄5年(1562)に対馬宗氏へ朝鮮王朝への斡旋を依頼している。

貿易品で大事なのは硫黄。宝徳の遣明船では39万7500斤の油黄(硫黄)、15万4500斤の銅、10万6000斤の蘇芳、9500振の太刀、417振の長刀、1250本の扇が輸出品。
硫黄は薩摩の島津氏が硫黄島から、豊後の大友氏は湯布院の伽藍岳、鶴見岳や九重連山から採る。採るのは簡単であった。宋の中国は兵器として黒色火薬の原料として需要があった。日本では寺院の灯心の着火剤需要だった。ちなみに硫黄は昭和前期には花形産業。硫酸、硫安になる。昭和30年代になると石油脱硫装置で効率的に硫黄が生産されるようになる。昭和40年代半ばに国内の硫黄鉱山は閉山になる。
シルバーラッシュと同様に、サルファー(硫黄)ラッシュだった。 日明貿易、南蛮貿易、朱印船貿易の主要輸出品であった。

この頃の九州中世社会にはアジアへの志向の強さがあり、その伝統からの他者受容の開放性があった。城下町には唐人がおり、大友氏には樹岩見山という唐人が狩野永徳にアドバイスした。飫肥藩の医師には徐氏がいる。臼杵には陳元明がいて、漆喰が得意な仏師だった。
アジアン大名はキリスト教の宣教師を西域より来朝の僧としてとらえていた。都市信仰には開放性があった。九州では大友義鎮、大村純忠、有馬氏、中国四国では宇喜多氏、一条氏、畿内では高山氏などが切支丹大名。アジアン大名からキリシタン大名が生まれる。

「大坂侍」「泥棒名人」「けろりの道頓」 司馬遼太郎 著

 「司馬遼太郎全集13 俄 浪華遊侠伝」に所載の3つの短編である。「大坂侍」は大坂人の気質をうまく書いていると言うか、少し極端に描いていると言うべきか、興味深いものである。
 主人公は幕末の大坂の川同心で十石三人扶持である鳥居又七である。同心は一代限りの雇いだが、子を推薦することで代々と家を繋いできている。鳥居の家は長篠合戦で勇名を馳せた鳥居強右衛門の末と称して、他の大坂侍とは違うという誇りを父は持っている。父は病身であるが、鳥羽伏見の戦いで慶喜将軍が大坂から江戸に逃げ帰ったが、幕府の彰義隊が江戸で戦うとの情報を聞いて、息子の又七に参加するように勧める。主人公の又七は大坂侍にしては珍しく剣術はできるが、この時はそこまで幕府に義理立てするのはと一笑に付す。
又七は材木屋大和屋源右衛門の娘のお勢が黒門組の連中にからまれていたのを助けたことにより、お勢に惚れられて材木屋の婿にと迫られている。もちろん大和屋も乗り気であり、
又七の極楽政なる極道の友や、又七の剣の師匠の渡辺玄軒にも縁談がまとまれば50両という金をもらう約束だから、この縁談に熱心である。縁談を斡旋するものも金で動くわけだ
お勢を助けた時に痛めつけた黒門組の連中から又七は狙われる。その用心棒に天野玄蕃という剣術道場主が傭われている。
また又七の妹の衣絵は、従兄弟の具足方同心の田中数馬の許嫁である。

又七は黒門組に襲われる。そこに彼等の頭領の黒門久兵衛が止めに入る。それは玄軒が10両を渡したからである。喧嘩も金でやりとりされるのに又七もあきれる。

大坂城は新政府に明け渡されることになる。黒門組の用心棒の天野は勤皇に取り入る。
又七の父が逝去する。手文庫の中に10両あり、これが江戸行きの費用と父の遺言であるが、又七は妹の結婚資金として手渡す。
その妹の許婚の田中数馬が新政府の天野に幕府の間諜の容疑で捕まる。要は保釈の金目当てである。
又七は天野玄蕃を斬り、玄蕃が持っていた金の内、百両を奪い、船で江戸に向かって、父の遺言のように上野の彰義隊に入ることにして大坂を出奔する。
しかし、彰義隊では仲間も一人もおらず、また大坂の者というと勘定方に廻されそうになり、怒り、大坂侍の悲哀を感じる。
彰義隊の上野の戦いでは、目に見えないところからの弾丸が中心であり、又七は幻滅する。そして大坂の回船問屋の江戸店に逃げ込む。この回船問屋は又七に阿呆なことはやめとけと言っていた。官軍に金を貸しているし、彰義隊を討った大砲の弾はここが運んだものと言う。又七は大坂から出てきて、大坂の商人にやられたようにものと気が付く。
そこにお勢が心配して来ている。孫悟空がお釈迦様の手の中で暴れていたと同様に、大坂の商人の手の中で暴れていたと気が付く。
何事も金の世界という大坂における侍の位置づけを司馬遼太郎は語っている。

「泥棒名人」

五畿内随一の名人といわれた泥棒の江戸屋音次郎(元は江戸でならした泥棒)と、行者玄達と呼ばれて大坂の泥棒名人の物語である。あまり面白くなく、結局は行者玄達に泥棒で負けて女房も盗まれるという話である。

「けろりの道頓」

大坂の安井村の大地主の「けろりの道頓」は頭が大きくて立派な顔をしており、市内を循環していた秀吉の目に止まる。その時に連れていた道頓の愛妾の一人を秀吉の側室にと望まれ、提供する。
道頓は秀吉にあったことに感激しているようであり、また愛妾の一人を秀吉に差し出したことでがっかりしているようだが、表情にはあまり出ないでけろりとしている。御礼に秀吉から錦鯉が来ると、その為に大きな池を掘る。
あるとき奉行から、大坂城下に大きな堀を掘削することを頼まれる。これだけの工事を請け負えるのが道頓しかいないとのことだ。ただ関ヶ原の戦いなどで話は立ち消えになるが道頓が自分で作ると言い出し、自費で工事をはじめる。
大坂の陣で、工事中止を要請され、あっさりと途中で工事をやめる。そして道頓は敗色濃厚の大坂城に入り、死ぬ。
道頓の死後、徳川の大坂城代が、工事を行い、道頓堀と名付ける。
大坂人の一つとして紹介された面白い短編である。

「司馬遼太郎全集13 俄 浪華遊侠伝」 司馬遼太郎 著

 幕末~明治にかけて大坂で活躍した明石屋万吉の物語である。面白い小説である。明石屋万吉の父は幕府隠密の明井采女である。十一代将軍家斉の内命を受けて、大坂の高級幕吏の身辺を探っていたが、家斉が死去した為に復命の機会を失って浪人したという設定である。北野村の百姓の娘を妻として、明石屋儀左衛門の養子となり、名も九兵衛と改める。万吉はその長男である。そのうち、父親は養家を追い出され、一家は乞食同然の身となり、万吉は商家に奉公に出される。そこに父親が逐電したとの連絡が入り、母を食べさせる為に何も考えずに商家を出る。
 仕事も、食べるあても無い中で、違法な賭場を開いているところに飛び込んで、そこにある金を取ることを思いつく。当然に殴られ、半殺しにあうが、それを覚悟で実行する。殴られても一切抵抗せずに、金を奪う。その内、違法な賭場を開いている人間は万吉が来ると嫌になり、「もう来るな」で銭を渡して済ますようになる。万吉は、そこで得た金を母の家に投げ込む。母は当初は誰が金を投げ込むかもわからず、その内、万吉だとわかると泥棒をした金と思い、使わずに保管しておく。
この後、万吉は孝行の鏡としてお上から表彰されるようなこともある。

こんな命を粗末にする稼業をしている中で、存在感を増していく。頼まれたら、仕事の内容を聞かずに受けるか、受けないかを決め、受けると決めたら命を捨てるつもりで取り組むのが男稼業である。
色々な頼まれ仕事の記述が面白い。大坂の米問屋に頼まれて、江戸からの買いで高騰続ける米相場を潰すような乱闘も行う。役人は江戸の業者とグルであり、出頭した万吉は牢内で物凄い拷問を受ける。石抱きや海老攻めなど普通の人では耐えられない責め苦を受ける。それでも依頼主の大坂の米問屋の名前を出さず、役人も感心し、依頼の米問屋から毎年の礼米を受ける。
またある時は、大坂に赴任した幕府の高級役人から、身分の高い幕府の隠密が行方不明になり、恐らく探っていた奉行所与力などに謀られて牢内にいるのではないかとの推測の上、万吉が牢に入ることで助けることを頼まれて首尾良く救い出す。後にこの時の隠密が大坂町奉行に赴任して粛清を行う。

このようにして得た礼(米や金銭)も私腹を肥やすことなく、頼られる人間にばらまき、益々人望を高めていく。幕末の大坂も治安が悪くなり、一柳家一万石という小大名が大坂の川の警備を頼まれ、それを万吉を上士(足軽頭で十人扶持)に取り立てて警備してもらうことになる。この為の費用も万吉持ちであり、番所を賭場にして費用を稼ぐ。武士だから姓名を名乗る必要があり、本姓の明井ではなく、小林佐兵衛と名乗る。
禁門の変後に負けた長州人の取締が厳しくなるが、万吉は川の番所で長州侍を助ける。勤皇も佐幕も無く、大坂の町を守る(往来安全)というスタンスである。桂小五郎も見逃したことにしている。この時、助けた長州人が明治になって、万吉の力になってくれる。万吉の力になると言っても、明治の新政府も万吉の動員力や人望、資金力を頼りにするわけである。

 長州人を助けていることを幕府の役人は知り、万吉を亡き者にしようと画策し、一柳藩の大坂留守居役と謀って新撰組に万吉を斬らすようなことを実施する。この気の弱い大坂留守居役が万吉に藩に代わっての警備を依頼した人物である。武士の情けなさも司馬遼太郎は書いていく。
 鳥羽伏見の戦いでは一柳藩が幕府方につくとのことで、万吉こと小林佐兵衛も戦いに参加し、部下を失う。万吉は後悔すると同時に、この過程で幕府の侍のどうしようもなさを知る。
 万吉は身分性社会の中での幕府、侍の腐敗を知る。同時に万吉が牢に入って助けたような隠密のような侍もいることを万吉は感銘する。

 維新後、処刑されかかるが、万吉が助けた長州侍に刑場で出会い助かる。万吉は賭場の運営から手を引き、困窮するが、昔、助けた者が米相場に導き、万吉は巨利を得る。堺で土佐藩士がフランス軍人を殺し、土佐藩士が切腹する堺事件のことも詳しい。ここでも頼まれ仕事をする。
 禁門の変の時に幕府によって殺された長州藩士66名の霊を商売にしていた人物は、長州系の新政府要人の要請にも商売利用を止めなかったが、万吉が役人に頼まれ、別途、祀ることになる。こんな費用も万吉持ちである。また、新政府の役人によって北区の消防頭にさせられ、また旧幕府時代の「お救い所」を新政府が引き継ぎ、万吉が北区に授産場を建て、家財を使うようなハメになる。品川弥二郎から国会議員の選挙における政敵つぶし頼まれたりする。それが男稼業の明石屋万吉である。

 長寿で亡くなるが、自分の一生は俄(にわか)を演じていたようなものとの万吉の述懐がタイトルになっている。小説だから虚実取り混ぜてあり、どこまで本当かはわからないが関東の博徒とは違う、上方の博徒を描き、司馬遼太郎の傑作の一つである。

「北斎漫畫」永田生慈 監修・解説

葛飾北斎の「北斎漫画」の初編から十五編までを一冊にまとめ、解説を加えた分厚い本(959頁)である。金工村上如竹の馬の姿態が、ここに描かれているかと思い、全ページを概観した。
解説によると、早くから西洋の人に高い評価を受けていたのが、富嶽三十六景ではなく、この北斎漫画だったと言うことだ。
いずれも巧みなデッサンであり、動植物図譜であり、挿絵であり、風景のスケッチであるが、私は人物の動きのある様々な姿態を写し取った絵に感心する。初編、二編、三編によく観られる。四編には鳥の様々な飛翔の姿が素晴らしい。五編は物語の挿絵が多い。六編は武士が弓を引いたり、馬を乗りこなしたり、槍や棒を使っている図など武闘編である。七編は風景画、八編は様々であるが、人物の姿態や顔の様々が面白い。九編は物語絵が多い感じ、十編は市井の曲芸師や物売りに幽霊などである。十二編には精巧な絵や卑猥な絵もある。十三編から十五編は以上の色々なジャンルが交じっている。十四、十五編は北斎没後の編集の可能性もある。全編を通すと、彫りの出来にムラがあり、また計画的でもないと指摘されている。

北斎55歳時の文化11年(1814)に初編が上梓されている。北斎のデビューはこの25年前の安永8年(1779)に勝川春章としてだ。役者絵を中心に幅広い題材を絵として黄表紙や洒落本などの挿絵の分野でも活躍した。そして北斎は寛政6年(1794)に宗理と画名を変える。上方から伝えられた琳派の様式になり、俵屋という画派の頭領となる。流行した狂歌の狂歌摺物に作品が多く、叙情的な雰囲気を持つ。美人画の評価も高い。寛政10年(1798)に北斎になるが文化年代から勇壮な武人など漢画的になる。これは当時流行していた長編小説の読本挿絵として発展する。
この時代に数は少ないが美人画や東海道、あるいは洋画表現を用いた名所絵などもある。
50歳以降、作品は少なくなる。あの富嶽三十六景を上梓したのは天保2年(1831)からだ。
文化7年に絵手本の初作を出す。絵手本は中国からの画譜に影響されたと思われるが、京都では西川祐信、江戸では鍬形薫斎(北尾政美)に多い。
北斎は文化9年に大坂、大和吉野、紀州、伊勢に旅し、名古屋で滞在。この時に北斎漫画の初編の下絵が制作される。この年に江戸に戻るが、文化11年に名古屋の永楽屋から上梓される。二編から十編までは江戸の角丸屋から出版される。後に永楽屋が版本を買い取る。
角丸屋は北斎に読本挿絵を依頼していた版元である。5年で十編まで完結し、角丸屋は版木を文政五年頃までに永楽屋に売却する。
十一編から十五編だが、永楽屋が中心に角丸屋も入れて9の版元の名がある。すべての刊年は不明であるが文政六年から天保四年頃と想定される。

「司馬遼太郎全集11 国盗り物語(後編)」 司馬遼太郎 著

 後編は織田信長の物語となっているが、明智光秀のウェイトも高く、2人の物語である。それは斎藤道三の衣鉢を継ぐのが娘婿の信長と道三の妻の縁戚の光秀という位置づけで、光秀は道三に可愛がられ薫陶を受けていたという設定だからである。
 昔、読んだ時は織田信長中心の物語だったという印象が強かったが、今回、再読すると明智光秀のウェイトがかなり高い。また昔は面白い小説で司馬遼太郎の傑作の一つだと感激したが、今回は前編も含めてあまり感激はしなかった。
 ここで展開されている信長と光秀の葛藤=光秀が謀反を起こす理由は、信長の近代性(中世の伝統を無視して合理的に思考・行動する)と、光秀の古典的教養(古くからの伝統も大事にする)から来るとして、物語をその方向にもっていっている。ある意味で陳腐な説である。

 はじめに信長の少年期のうつけ者と言われた時代を描き、濃姫との結婚、信秀の葬儀の時の態度、斎藤道三との対面が書かれる。古くから知られた話である。
 信長と美濃の間でお勝という娘が元で緊張する場面が描かれる。お勝の言いかわした者が信長の近習に討たれる。信長はその近習を美濃に追放する(実質は道三に頼んで匿ってもらう)が、お勝が美濃に行き、道三の跡を継いだ義竜に訴え、それが美濃と尾張の緊張につながる場面である。その後、道三と義竜は争い、道三が討たれる。
 明智光秀は伯父が道三方につき、美濃から追われる。京都の朽木谷で、都を追われていた足利義輝に仕えていた細川幽斎と出会い、親交を結ぶ。

 信長は桶狭間で今川を破る。光秀は越前に出向き、朝倉を頼るが越前は老大国になっていて光秀が活躍できる余地はない。
 信長は堺と京を見学して視野を広める。その後、信長は美濃攻略を試みるが義竜相手でうまくいかないが義竜は35歳で逝去する。
 光秀は細川幽斎らと足利家の勢威恢復を試みるが思うようにいかず、足利義輝は三好、松永に殺される。そこで奈良で僧侶になっていた足利義昭を引っ張りだし、甲賀の和田家に匿う。その後、越前金ケ﨑城に朝倉家が足利義昭に住居を提供する。
 信長は稲葉山城を攻略すべく、美濃国内に調略の手を伸ばす。木下藤吉郎が活躍する。光秀の足利家再興の悲願は、朝倉家ではらちが明かずに織田家に頼ることにし、光秀は織田家にも仕える。ここから信長の家臣としての明智光秀の活躍が始まる。
 信長は上洛し、将軍の館を京に作るが、光秀は信長に足利家再興などの気持ちが無いことがわかってくる。光秀は煩悶するが、足利義昭の性格・器量を知ると、信長が覇権を握るのが仕方無いと思い、忠勤に励む。
 足利義昭は反信長連合に暗躍する。越前攻め、その最中の浅井の離反での殿軍として木下藤吉郎と徳川家康と協力して窮地を脱する。浅井との姉川の戦い、比叡山の焼き討ちなど光秀も参加した戦いの話が続く。
この間、比叡山の焼き討ちや、浅井長政などの髑髏の杯などで光秀は心の中で信長への反発を強めていく。
 信長は古くからの家臣を追放していく。いつか自分もと光秀は考える。また荒木村重が叛旗を翻した後の荒木一族へのむごい仕打ちに心を痛める。
 謀反前後の光秀の行動や、そこにおける心の動きなどは、司馬遼太郎の小説らしく巧みである。

「渡来人とは何者だったか」武光誠 著

古代史では渡来人という言葉が出てくる。これは歴史学の用語で「飛鳥時代以前に、朝鮮半島から日本へ移住してきた人々」のことである。だから鑑真のように奈良時代に唐から来た人には使わない。

渡来人で有力だったのが、飛鳥地方南部を本拠とした東漢(やまとのあや)氏で、蘇我氏の全盛時代に軍事面で助けて活躍する。
もう一つの集団は京都の太秦を本拠とした秦(はた)氏である。それぞれ始祖は漢の劉邦、秦の始皇帝としているが、嘘である。始祖がいい加減なのは日本の豪族でも同様である。
東漢氏は兵力と技術力で蘇我氏に重用される。仏教興隆策の担い手であった。蘇我入鹿が暗殺され東漢氏は政権から遠ざけられるが、壬申の乱の時に大海人皇子側について戦い、復権する。文氏、民氏、坂上氏などが中央で活躍するが、地方にも出向き、武士になった家も出たと考えられる。

秦氏は蘇我氏の元で大蔵の管理などに携わる。機織りの技術をもっていた。そして山城、近江に勢力を広げる。農地開発でも力を発揮し、秦河勝は聖徳太子の参謀にもなる。山背大兄皇子に近づき、中大兄皇子に接近する。壬申の乱後に中央政界から離れ、桓武天皇の長岡京建設時に協力する。

その他は船氏、西文氏、鞍作氏などが渡来系氏族であった。朝廷の実務を担当する下級役人の地位を世襲していた。明治期に西洋諸知識が必要になった時代と同様である。船氏は高句麗からの国書を読んだことで知られている。津氏、白猪氏も蘇我氏の元での実務官僚。鞍作氏は鞍作りの技術を持ち、仏像も造る。

3世紀の邪馬台国の時代は往来はわずかだが、大和朝廷が北九州を支配下に組み込んだ4、5世紀は朝鮮半島南端の加邪(かや)とは比較的自由に行き来ができ、言葉も共通していた。
6世紀に新羅と百済が国を意識する。600年に新羅が加邪(8国)を併合。678年に新羅が朝鮮半島を統一。

7世紀末に百済が亡び、この時に数千人ほどが日本に移住。百済の官位で上から2番目の「達卒(だちそつ)」の者も約70人ほどいた。兵法、医術、儒学、陰陽五行に詳しい者や漢詩などに堪能な者は知識人として優遇される。秦氏の影響が強い近江国神前郡に400人、蒲生郡に700人ばかりが移住。また東国にも2000余人が移住。
高句麗が668年に滅ぶが、その時に2000人ほどが移住し、常陸や東国(武蔵の高麗郡が中心)に移住する。

大化の改新(645)の後に、唐の制度にならって近代化したが、この頃、漢字も日本古来の豪族も学び、渡来人優位は崩れてくる。その例として、大宝律令制定(701)の編集人19人の内、純粋な渡来系出身者は6人だけ(広く考えると8人)となる。

「名画の読み方」木村泰司 著

この本は西洋美術を理解する上で大事なことが書いてあるが、一通りの西洋絵画の基礎知識が無いと理解するのは難しい本だ。同時に当時の西洋絵画がキリスト教の宗教画がメインであることから、キリスト教の知識(画題の理解)が無いと読みにくい。さらに言うと宗教画のもう一つのギリシャ神話の知識が必要だ。

19世紀までは、絵画は見るものではなく読むものだったと言う。確かに宗教画は、文字の読めない民衆をキリスト教に誘うものであり、絵本のような絵で理解してもらうことが大事だったと思う。
絵画のジャンルを歴史画(聖書などを題材とした宗教画や、神話のストーリーを画いた神話画、抽象的概念を絵で表した寓意画)、肖像画(神が創りたまえた人間を描く)、風俗画(日常生活を描く)、風景画、静物画に分けている。そして、この順が絵画の価値(ヒエラルキー)を物語っていた。だからそれらを画く画家も、この順で社会的地位が高かった。

当時の発注主は高位聖職者や王侯貴族であり、歴史画と肖像画が主になる。歴史画の付属として風景や静物であり、これが生まれたのは17世紀以降となる。17世紀以降に新興市民階級が勃興してきて絵画に対するニーズ、嗜好が変化してきたわけである。
19世紀の民主化と社会の多様化によって絵画のヒエラルキーも曖昧となり、崩れていくわけである。そこから印象派などが生まれるわけで、それ以降の絵画鑑賞と、それ以前は別のものと著者は書く。

宗教画は目で見る聖書。ユダヤ教は偶像崇拝を禁じているが、キリスト教は2次元の偶像崇拝は容認されていた。画く題材は旧約聖書、新約聖書の大事な物語となる。例えば旧約聖書のストーリーでは「天地創造(神が7日をかけて大地や生物を創り、最後に人類を創る)」、「アダムとエヴァの楽園追放(神の命に背き、蛇の誘惑で知恵の木の実を食べ、楽園追放)」などである。

新約聖書では「受胎告知」、「東方三博士の礼拝」、「最後の晩餐」などである。

そして描かれる人物(聖人、神話の主人公)は、それぞれ象徴する持ち物を持って描かれる。それをアトリビュートと言う。日本でも「竹があるから虎だろう」「牡丹があるから猫だろう」となる。

例えばヨハネは鷲、ペトロは鍵、逆十字架、ヒエロニムスはライオン、骸骨などだ。

神話画ではギリシャ神話が元である。ヌードを描く時は神話画が口実になったわけだ。16世紀のローマやヴェネチアは人口に対して娼婦の占める割合が高く、宮廷人を意味するコルティジャーナと呼ばれた高級娼婦が、江戸の花魁のような存在になる。音楽や文学などの諸芸に秀でて賞賛され、女神のモデルになる。
オリンポスの12神もそれぞれにアトリビュートを持つ。ユピテルは鷲や雷電、牡牛や白鳥、黄金の雨などである。

肖像画のはじまりは早く、古代ギリシャからあるが、4世紀にキリスト教が普及すると個人の肖像文化は廃れる。14世紀に復活し、決まりごとは四分の三正面像。全身像は王侯貴族向け、上層市民階級は半身像、職業を表す道具と共に画かれる。16世紀に神話が王侯貴族の間に浸透すると、扮装肖像画もしくは寓意的肖像画が生まれる。アルチンボルドのルドルフ2世がそうである。
17世紀のオランダでは集団肖像画が生まれる。これは記念写真だ。

風俗画は16世紀からフランドル地方で発展し、17世紀のオランダで黄金時代。オランダでは戒めの絵画がはやる。庶民の風俗=悪徳を反面教師としてとらえた。

18世紀のフランスでは雅宴画という風俗画がロココ時代とともに生まれる。上層市民階級向けである。中堅市民階級向けの絵画も出る。バルビゾン派などがそれである。

風景画は、背景としての風景から独立していく。理想的な古典文学のイメージを画いた理想的風景画がはじめである。
17世紀後半からイギリスの貴族がグランドツアーという修学旅行をヨーロッパ大陸に出かける。そのツアーの記念、思い出の絵はがき的なヴェネチアの風景画などが好まれる。

静物画も17世紀に市民階級が勃興したオランダから生まれ、日常生活にあふれるもののシンボリズムで、神秘主義の台頭もある。

国立西洋美術館に行くと、常設展は時代別に展観されている。印象派の部屋までは大半が宗教画、神話画であまり面白くない。印象派の部屋に来ると、一挙に明るくなる。そして20世紀の部屋は抽象画が多くなり、わけがわからなくなる。
私は、別に絵が何を意味しているかなどはわからなくても、自分の心に響くかどうかであるから、この本のような知識を必要としないが、基本知識だと思う。

「司馬遼太郎全集10 国盗り物語(前編)」 司馬遼太郎 著

美濃の斎藤道三の物語である。後編がその娘婿の織田信長の話となる。さて斎藤道三は近年の研究によって、斎藤道三一代で美濃の国主になったのではなく、古文書「六角承禎条書写」によって、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父2代にわたるものではないかという説が有力となっている。

司馬遼太郎がこの小説を書いたのは昭和38年~41年は、この史料が出るちょっと前であり、従来からの通説を使って、道三一代での国盗りとしている。常識では考え難い国盗りだが、小説では女性の力を上手く使うように設定して、説得力のあるストーリーとしている。女性との絡みは司馬遼太郎の読者サービスであり、司馬の他小説でも使う小者(今回は忍者ではないが同様の能力を持つ)の赤兵衛、耳次、杉丸などをうまく登場させて場面を運ぶ。

当初は日蓮宗妙覚寺で法蓮房と名乗り、智恵第一と言われた者だったとの設定からはじまる。寺を出て還俗し、松波庄九郎(北面の武士松波家の一族というのも系図に書いてもらったようにしている)となり、寺からついてきた赤兵衛を家来にして乞食のような暮らしをしている時に盗賊を退治することから小説ははじまる。
その盗賊は京の大きな油問屋奈良屋の隊商護衛隊長を殺していた。それで奈良屋につながりをつけて、奈良屋の若後家お万阿と知り合い、昵懇となる。油問屋を大きくしていくが、商売をやり過ぎて他の油商を敵に回す。当時は油は大山﨑八幡宮が全国の油商に商売許可を出す元締めで油座を形成していた。結局、奈良屋を潰して、新たに山﨑屋となり、山﨑屋庄九郎となる。奈良屋を結局は乗っ取った形になる。ただお万阿は生涯大事にしていた。

商売の間、諸国の事情を探り、美濃に目をつけて、美濃に乗り込む。美濃の日蓮宗常在寺の日護上人は守護代長井利隆の実弟であり、法蓮房時代の弟弟子である。日護上人が兄の長井利隆に推薦し、利隆に信頼され、利隆が仕えている土岐頼芸(現守護の弟)に近づく。
美濃の名族西村家を継いで西村勘九郎となる。この間、山﨑屋の財力を賄賂に活用していく。

頼芸との座興の中で槍の芸(庄九郎は槍の達人)を見せ、頼芸の愛妾深芳野を拝領する。この時、深芳野の腹には頼芸の子が宿っていた。
それから美濃の府城であった川手城を奪い、守護の土岐頼政頼を越前に追い、長井利隆の推薦で、長井新九郎利政になる。
その後、長井家の宗家の長井藤左衛門を討つ。美濃の地侍が立ち、窮地に陥ると元の坊主になると言って道三となる。日護上人がなんとか収めてくれる。

尾張の織田信秀がたびたび美濃に侵入し、これを破ることで美濃の地侍の信頼を得ていく。明智の娘小見の方を、後に正室にするとの約束で養育し、正室にした後に、娘(濃姫)が生まれ、これが織田信長の室となる。明智光秀とも縁ができるという想定である。

土岐頼芸の命で美濃の名族:斎藤氏を継いで斎藤左近大夫秀竜となる。そして自分の城として稲葉山城を設計し、城下町を形成する。当時は武士は常には領地で生活していたが、それを城下町に集め、軍事機動力を高めることを考える。(後に信長が実施)

土岐頼芸の子の小次郎頼秀も反乱するが、これを追い、斎藤山城守利政と改名する。そして頼芸を美濃から追う算段をはじめ、追放する。
尾張から濃姫をもらいたいとの使いがくる。庄九郎も老いを覚えてくる。ここで前編は終わる。

「司馬遼太郎全集9 功名が辻」 司馬遼太郎 著

山内一豊の妻千代と、山内一豊の物語である。織田信長の家臣で50石という小禄で「ぼろぼろ伊右衛門」と異名を持っていた山内一豊が、美濃で評判の美人という千代を嫁にもらって、千代の内助の功もあって土佐24万石の一国一城の主となった経緯を小説にしている。

冒頭は結婚式の当日からはじまる。千代の父は浅井家家来の若宮喜助で、千代が4歳の時に戦死し、母・法秀尼の親戚の不破家で育つという設定である。不破家が母を通して金十枚を鏡箱におさめさせ、これは夫の一大事の時に使うようにと持たす。これが今に伝わる一豊の妻の逸話(名馬を購入)につながる。

伊右衛門こと一豊は、織田家の一つ岩倉織田家の家老の家だったが、信長が岩倉織田家を滅ぼした為に没落していたとの設定である。だから何となく気品のあるような描写をしている。真面目で実直という性格設定だ。

千代は夫を立てながら、するどい観察眼で、夫が良い方向に行動するように助けるという典型的な賢夫人として描かれている。
二人の間には娘が一人しか生まれなかったが、結婚当初に一豊が千代に誓ったことを守って側室も置かなかったという設定だが女忍者との出会いを書く。また一度だけ、千代が側室を進めた顛末も記されている。
なお千代との間の一人娘は長浜城主時代の天正大地震で圧死している。そして捨て子を拾い、養育し、この人物が湘南和尚になり、山﨑闇斎の師となったようだ。

甲賀忍者を登場させて都合良く小説の筋を整えていくのは司馬遼太郎の小説手法だが、ここでも望月六平太を登場させて、この絡みで前述した女忍者との関係が生まれる。

成り上がり者と蔑まれていた秀吉の与力になったのが一豊の幸運の第一歩である。郎党の五藤吉兵衛と祖父江新右衛門と一緒に戦っていく。金ケ崎の殿戦の時に顔に矢が刺さる大けがをするが武功を立てて200石となる。
姉川の戦いでも武功を立てて400石となる。千代の進言で石高以上の家来を傭う。
浅井攻めの横山城の陣でも手柄を立てて1000石となる。長篠合戦にも参加、石山合戦にも参加して2000石となる。この時代の戦闘ぶりは生き生きと書かれている。

この後に10両の名馬を千代のへそくりで購入する有名な物語が入り、一豊の名(評判)が知られる。

そして中国攻めに参加して、ここでも手柄を立てて、敵から名鑓を分捕る。本能寺の変があり、その弔い合戦では功名がなかったが、3000石となり、長浜城番を任じられるが、柴田勝家との戦いの前に、播州に移される。この時、千代の助言で京都に屋敷(実質は諸将の人質)を希望する。千代が政治力を教えるような形である。
柴田方についた瀧川方の伊勢亀山城を攻撃する。一番乗りを果たすが家来の五藤吉兵衛を失う。賤ヶ岳の戦いでも武功を挙げるが3500石になっただけで秀吉子飼いの清正、正則に比較して不満を持つ。

小牧長久手の戦い後に、秀吉の天下が固まった段階で長浜2万石になる。
この頃、京都で千代は唐織の端切れで、色の配合が面白い小袖を作って評判となる。これを無償で気に入った女性に与えてしまう態度であった。日本の服飾デザイナーの嚆矢である。

小田原攻めに秀次傘下の大名として参陣し、山中城攻めでも功を立てる。この後、掛川6万石になる。徳川家康への備えとして秀次傘下の大名が東海道筋に配置されたが、その一人である。

この頃、千代は徳川家康に関心を持ち、次の天下はこちらと思う。一豊は主筋の秀次の元に伺候するのが嫌になる。秀吉に世継ぎが生まれた後に、秀次は乱行に走り、秀吉に誅される。秀次妻女などの虐殺を聞いて、秀吉も耄碌してきたと千代は思う。

千代は、関ヶ原の前に石田方からの勧誘の手紙を封を切らずに小山の一豊の元に届ける。近江生まれの者を使いに出したので関所が通れる。これをそのまま家康に渡すようにと助言してあり、家康は感激する。
そして小山会議の席上、隣りの大名のアイデアを借りて、自分の掛川の城を提供すると申し出て、会議の空気を作る。これを家康は功として土佐24万石にする。関ヶ原の戦いでは南宮山の下に配され、大した働きがないまま終わる。

土佐では一領具足の反乱に悩まされ、相撲の興行にこと寄せて殺害するという汚点を残す。千代はこれには反対で、長宗我部の遺臣を家臣に加えるように進言するが、聞く耳をもたない。これが一豊の器量なのだと千代は思う。
高知城の建設は難工事だが、完成し、千代は一豊が逝去後は京都で暮らす。

千代の賢妻ぶりを強調して書いてあるが、千代の上司の気持ちを見抜くような気配りは面白い。

「幕末・維新~並列100年~ 日本史&世界史年表」山本博文監修

調べ物をするために紐解いた本であるが、参考になる面白い本である。「1.列強の接近」「2.幕末の動乱と国際情勢」「3.明治の日本に迫るロシア帝国」の3章に分けられている。年表だから、1800年のはじめから1900年までの約100年間を、見開きページで20年から5年程度ごとに日本史と世界史の年表を掲示し、そこに関係する事件や事件の背景などを記したコラムを配している。また時々の事件を読み解く鍵となる人間関係が記されたり、その時代のトピック的なことがらを整理したものもつけている。

1800年のはじめはナポレオンがヨーロッパを席巻した時期である。すなわち、これ以降、ヨーロッパにも国民国家の意識が出てくる。1821年ギリシャ独立運動、1831年にイタリアの統一運動が起こる。1839年にオランダがベルギーの独立を認める。ドイツも1862年にビスマルクがプロイセンの首相に就任して国がまとまってくる。
日本の明治維新なども世界史的流れとも思う。

そのナポレオン戦争時に、支配下に入ったオランダ船をイギリスが拿捕する事件が1808年のフェートン号事件である。この事件後も1824年にイギリス船が薩摩の宝島に上陸したりで1825年に異国船打ち払い令を出す。
しかし1842年アヘン戦争で大国の清が負けて南京条約が締結される。幕府は慌てて同年に薪水給与令を出す。水野忠邦の天保の改革の頃である。
中国では清の弱体化に伴い太平天国の乱が起こり、それは1864年まで続く。

アメリカはイギリスからの独立戦争が1814年。1846年に米墨戦争で、アメリカはカリフォルニアを獲得(太平洋岸に出る)。
1861年アメリカの南部州が南部連合。南北戦争。終結が1865年であり、両軍あわせて62万人の死者。終結後の武器が戊辰戦争時の日本に来たわけだ。その後、1869年に大陸横断鉄道。1897年にハワイ併合、1898年に米西戦争でスペインを破りフィリピンを領有と太平洋にどんどん勢力を伸ばしてくる。

1866年に薩長同盟が出来た時に、プロシャ・オーストリア戦争がはじまる。プロイセンの元込め銃による匍匐しての射撃が、オーストリアの先込め銃の立射を破る。そしてフランスも元込め式の銃を採用。第二次長州征伐で大村益次郎が、元込め式銃の散開戦術で幕府軍を破る。

ロシアは世界中で南下政策。1800年頃に日本に交易を求めに来ていた。1853年にはオスマン帝国とクリミヤ戦争(英仏も参戦)して1856年に集結する。この中古武器も流れるか。1858年に清とロシアは愛琿条約。クリミヤ戦争で地中海経由の南下が妨げられ、アジアに来る。1860年ウラジオストック建設。


日本の領土のことも参考になる。
小笠原諸島は米英の漂流民がいたが、咸臨丸で小笠原諸島の測量航海を行い、実測図をつくり文久2年(1862)に日本領と認めさせる。

沖縄に関しては、明治4年(1871)に台湾の琉球漁民殺害事件に抗議し、明治7年(1874)に台湾出兵。その後、イギリスの仲介により、清と互換条款を結び、賠償金を得る。琉球藩は清国との関係継続の嘆願を出していたが、明治政府は拒否して1879年に沖縄県を設置。明治12年(1879)にアメリカのグラント前大統領は日清修好条規の調停案で沖縄を二分した案を日本政府に提案。一方、清国は沖縄を三分して先島諸島を清、奄美諸島を日本領として、沖縄本島を独立させる案を提示。日本はグラント案(沖縄二分案)を了承するが、清が拒否する。そして日清戦争後の下関条約(1895)で日本の沖縄領有が確定する。
昔の沖縄の人は、中国にも属したいと思っていたのだ。貿易上の利であり、今の中国に属したいと思う人はいないだろうが、こういう歴史を忘れてはいけない。またアメリカは太平洋岸に出てから、ハワイ、フィリピンと来ており、終戦後は沖縄を占拠し、今も大きな基地を設けている。これもアメリカのムーブメントなのだ。

「兼好法師」小川剛生 著

吉田兼好の伝記を、信じられる史料を元にまとめている。新書と言えども専門的な本であり、基礎知識が無い私には難しい本であった。先年に「方丈記」を再読したが、「徒然草」の内容は忘れている。
兼好は通説では吉田神社の神職である卜部家に生まれ、朝廷で六位蔵人などに任じられた後に出家して徒然草を書くというものだが、これは吉田神道の吉田兼俱(室町期の文明・長享頃に活躍)が文書を捏造した結果である。兼俱は藤原定家も当時の吉田神道の弟子で歌道の奥義を得たとか、日蓮も吉田神道から仏の三十番神のことなどを学んだとかの文書を捏造した。卜部氏では平野流が嫡流であったので、吉田流の家格を高める為に捏造したようである。

実際の卜部兼好は、蒙古襲来の弘安の役後に誕生し、10歳くらいで一家は鎌倉に下向して、金沢流の北条氏に仕える。金沢は鎌倉の外港六浦の近くで重要な地である。元服して四郎太郎と名乗る。金沢貞顕が京都の六波羅探題に任じられ、その関係で鎌倉と京都の行き来もある。金沢文庫には古文書が保管されていて、仏典などを写経した裏に当時の手紙があり、その中に兼好の母のものと思われる手紙が見つかる。鎌倉幕府では京都との文書のやりとりなどで、卜部家のような京都の実務的な知識人も必要だったのであろう。

兼好は京都にいる時に蔵人所に属して、滝口あるいは雑色・所衆として内裏に仕えた可能性もあるようだ。東山六波羅近辺に住む。山科に田畑を購入したという史料もある。その後、堀川家に遁世者として出入りし、和歌の分野で名を挙げる。遁世者は身分差をクリアすることができる。かたわら徒然草を執筆。鎌倉幕府が滅んだ時点で50歳前後である。歌人として暮らし、尊氏執事の高師直との関係も生まれる。70歳代後半に逝去する。
鎌倉幕府の六波羅探題には京都の公家衆や宗教関係者も多く出入りし、これが兼好の人間関係を広げる。

兼好は和歌の世界では二条流の四天王の一人として評価されていた。この本では関係して、和歌の世界のことにも触れられていて興味深い。二条流は昔(新古今和歌集など)の歌を本歌取りして作るのが主で、こうすることが当時の共通言語(共通の感情を伝えられる)のような感じであった。他に冷泉流、京極流というのが生まれる。いずれも藤原俊成→定家→為家に連なる家である。京極家の歌は自由な発想や古歌にとらわれない表現があり、現代ではこちらの方が評価が高い。

「司馬遼太郎全集7 幕末」 司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集7に収録のもう一編である「幕末」である。幕末に生じた暗殺事件を12取り上げている。当初は「幕末暗殺史」というタイトルで発表されたようだ。司馬遼太郎はこれらの物語を書く中で、運良く維新後まで生き延びた人物にシニカルな目を向けている。三流が生き延びて、栄爵を受けたという感じである。

冒頭は「桜田門外の変」である。水戸藩以外から参加した薩摩藩士有村治左衛門兼清が主人公である。薩摩藩と水戸藩のつながりとして、日下部伊三次の遺族が登場する。日下部は元薩摩藩士で、事故で脱藩し、水戸領高萩で私塾を開いていた。水戸の烈公に知られて、水戸藩士になる。日下部は水戸と薩摩の接着剤の役目をつとめる。日下部は安政の大獄で捕まり牢内で衰弱死する。長男も牢死し、未亡人と娘が残されていたという設定で、その娘と有村との恋愛が描かれる。本懐を遂げて有村は死に、後に娘は有村の兄の俊斎と結婚する。日下部家の原姓の海江田を名乗り、維新後海江田武次として子爵になる。
司馬遼太郎は暗殺は嫌いだが、桜田門外の変は時代を変えた暗殺事件と評している。生き残って栄爵を受けた海江田武次への皮肉も感じられる。

「奇妙なり八郎」は新撰組の母体となる浪士団を結成して京都に出向き、奇妙な動きをした清河八郎が見廻り組の佐々木に暗殺された事件である。清河八郎(庄内の豪農出身)の所持する無銘の兼光は剣相術でいうところの七星剣で、持ち主は王者になるという卦があり、それに影響されたように清河は行動して、斃されるという物語にしている。

「花屋町の襲撃」は坂本竜馬を暗殺された海援隊が陸奥宗光をもとに仇討ちをする物語である。十津川郷士の中井庄五郎(居合の達人)に参加を求め、はじめは新撰組原田左之助を狙い、その内、船舶の衝突事故で竜馬に苦汁を吞まされた紀州藩の三浦休太郎が黒幕と思い込み、襲撃する。三浦は新撰組に守られていて、襲撃は失敗する。

「猿ヶ辻の血闘」は会津藩から密偵の役割をもらった藩士大庭恭平は、薩摩の人斬り田中新兵衛と知り合う。新兵衛は深酒をしていた時に姉小路公知の用心棒の吉村右京と私闘があり、苦汁をなめていた。姉小路少将は勝海舟に出会い、過激な攘夷論から脱却しつつあった。それを過激派浪士は許せないとなり、御所の猿ヶ辻で襲撃し、そこに田中新兵衛の刀の鞘を置き忘れたように工作して、新兵衛は取調中に自害する。薩摩藩離間工作である。

「冷泉斬り」とは絵師の冷泉を過激派浪士が襲う事件である。絵師の妻が美貌であり、暗殺者たちとそれを護衛する側の者が、冷泉の妻との絡む中で、物語を進めていく。

「祇園囃子」は十津川郷士の浦啓輔が主人公で、彼は郷里を出奔する前に、師の娘とできてしまう。京で土佐藩士山本旗郎と知り合い国事に奔走する。長州藩の意を受けて山本は、水戸藩の勤皇の論客住谷寅之介を斬るように浦に持ちかける。暗殺後に、浦は後味の悪さと、京都に自分を追いかけてきた師の娘(懐妊した)が嫌で京都から出る。山本は京にいたために殺害犯と知れる。明治になり、住谷の息子2人が山本旗郎を仇討ちで斃す。浦は早くに京都を離れた為に、下手人とは思われずに維新後は横浜の貿易商の手代となる。

「土佐の夜雨」は吉田東洋暗殺事件である。暗殺者の一人那須信吾と吉田東洋との出会いから、東洋に下横目として使われていた岩崎弥太郎を登場させて、物語に膨らみをもたせて記述している。

「逃げの小五郎」は但馬出石に潜伏した桂小五郎の潜伏生活ぶりを出石藩堀田半左衛門と出会いから書きはじめ、京都の池田屋事件、蛤御門の変の時の桂の逃走ぶりを芸者幾松(後の木戸孝允夫人)も登場させて描写していく。維新後は桂(木戸)は光彩が無いと司馬は皮肉的に書く。

「死んでも死なぬ」は英国公使館焼き討ち事件を起こした伊藤俊輔と井上聞多のことを描き、特に女好きで、どこでも糞をするような聞多の生命力の強さを描いている。聞多は明治期に大汚職事件を起こし、テロリストの伊藤博文は初代内閣総理大臣である。

「彰義隊胸算用」は彰義隊に参加した寺沢新太郎を主人公にして、天野八郎、渋沢成一郎をそれぞれ首領に仰ぐ派との彰義隊内の対立と、彰義隊と言っても江戸のゴロツキの集まりのような実状を描く。寺沢は天野派である。彰義隊の首領もそれぞれが百姓上がりであり、幕末の旗本・御家人は黒門口で戦死した大久保老人以外は腰抜けが大半だったことも書いている。

「浪華城焼打」は大坂城の焼打ちを企てた土佐脱藩浪士の物語である。もちろん事が途中で露見するのだが、主人公の大利鼎吉よりも脇役の田中顕助(維新後伯爵)が印象に残る。

「最期の攘夷志士」は、その田中顕助が鳥羽伏見の戦いに先立って、紀州藩への牽制の為に高野山で部隊を展開させる。その隊の参謀格に昔から攘夷の最前線で活躍していた三枝蓼、朱雀操、川上邦之助などがいる。その後、京都に隊は戻る。新政府は攘夷どころか諸外国と結ぶ。これに三枝は憤りを覚える。天皇に謁見する英国公使を三枝らは襲い、失敗して極刑を受ける。攘夷の主義から開国に転じた田中光顕のような者が爵位をもらい、妾を侍らすのが明治政府。

全て小説だから、どこまで真実かはわからないが、維新で生き残って栄爵を受けた志士は三流という司馬遼太郎の史観が出ている。

「神田日勝 大地への筆触」展 於東京ステーションギャラリー

神田日勝の展覧会は一度、観てみたいと思っていた。コロナ騒動も一段落して、入場制限はあるものの東京ステーションギャラリーで開催される。この美術館は私好みの企画が多く、好きな美術館だが、展示スペースが複数階に別れているのが難である。私は一通り観た後に、気になる絵に戻って観るから、階がまたがる場合は不便である。
32歳で夭折する北海道鹿追町の農業をやりながら画業に励んだ画家である。画題は自画像の他に、農耕馬、牛、風景や働く人が多いが、これらは黒褐色から茶褐色のような暗い色合いの絵が多く、重たい。

一方というか、ある時期には鮮やかな色彩を使って空想上のアトリエを描いたものやフォービズムのような鮮やかな原色で抽象化した人体を描いたものなどもあることを知る。色彩鮮やかな絵などは本当に描きたいものだったのだろうか、あるいは自分の殻を破りたいという試行的な作品なのであろうか。私は後者のような感じを懐く。色彩鮮やかな絵の中には彼が持つことが叶わなかったアトリエや、各種食料品などが描かれているから、彼の願望を表現したのかもしれない。

展示されている作品は大作(ベニア板に描く)が多い。これらは展覧会への出品作として描かれたものだと考えられ、確かに力作である。風景画は手頃なサイズのものが多い。こういう絵は地域の人などに購入されたものなのであろう。売り絵と片付けられないような感じのよい風景画もある。北海道の大地である。

ペインティングナイフで、馬の体毛や人物の肌、壁面の石材、木材などを描いていく作品は迫力がある。ペインティングナイフをどのように使用したのか私にはわからないが、馬の剛毛や石材の表面など迫力がある。馬はサラブレッドではなく、ズングリとした農耕馬である。農機具やソリを引く労働に使役されたために腹の一部に毛が擦り切れているところなども描かれている。
死んだ馬を描いた絵には感動した。作者の馬への愛着が感じられる。

最期の馬の描きかけの絵(半身像だけで他はベニア板のまま)や、新聞紙の紙面を細かく描いた壁面を背景に、膝を抱えてうずくまる自画像など代表作とされるものも展示されている。

神田日勝が影響を受けた画家として、兄の神田一明(東京芸術大学に学ぶ)や帯広で活動した寺島春雄や、北朝鮮の帰還事業に参加して消息を絶った曺良奎(チョヤンギュ)、海老原喜之助、海老原暎、北川民次の絵も展示されていた。「なるほど」と思った。
曺良奎(チョヤンギュ)の作品は洲之内徹の本などで知っていたが、現物ははじめてであり、惜しい画家だ。(北朝鮮帰還事業に参加し、現地で消息を絶つ)

「明治の金勘定」山本博文 監修

 私は拙著『江戸の日本刀』で幕末の刀価を現代価格に換算したり、刀の雑誌で「刀剣販売カタログ「日本刀 現存の優品」の分析」として、戦後落ち着いてきてから現代までの刀価格を、インフレも加味して取りまとめてきたが、昔の価格を現代価格に置き換えるのは苦労する。

 明治時代も、初期の文明開化の時代から明治末年では開国や幕藩体制の崩壊によるインフレや、生活習慣の洋風化という劇的変化や、急激に進展する技術進歩があり、難しいだろうと思うが、さすがに山本先生である。わかりやすくまとめられている。

 私も苦労したが、個別の物価で現代と比較すると、その物の当時の人気、稀少度や、その後の生産・製造技術の進歩や、政府の統制などの影響を受けて、マチマチの換算率になる。地価などは交通事情の変化や、人口の増加などで大きな影響を受ける。

 そこで、当時の人の収入ベース(諸品を購入する原資=生活をする元となる)を現代の収入ベースで比較するのが、一番妥当と思う。この本では明治30年代の公務員給料を基本にして現代価格と比較している。この公務員給料は約2万4千倍になっているが、2万倍になったとするのが妥当として換算している。すなわち(1円=2万円、1銭=200円、1厘=20円)である。

 本は「序章.波乱の船出を乗り越えていく明治新政府」「1章.文明開化の新しい味覚」「2章.急激に変化した明治の生活」「3章.収入格差が激しい大変革」「4章.教育に力を注ぐ新政府」「5章.新時代で遊びも多様化」「第6章.金が絡んだ明治の事件」に別れている。

 「序章.波乱の船出を乗り越えていく明治新政府」では、幕末に欧米と日本の金銀の価格差から金が大量に流出したことを受けて、幕府は安政7年に天保小判1枚を三両一分二朱などに置き換えて万延小判を発行して、それを抑える。ただし国内ではこれまで金の4分の1の価値の銀が12分の1になったのでインフレが加速する。大坂で米価は約11倍になり社会不安を加速する。また幕末は各藩が藩札を刷ったり、贋金が生まれたりして混乱したことを記す。
 新政府は明治4年に一両=一ドル=一円にし、純金1.5グラムを一円にする。円の百分の一を「銭」、銭の十分の一を「厘」とした。明治30年に日清戦争で清国から得た賠償金2億3千万両(テール)が入って安定する。

 「1章.文明開化の新しい味覚」では当時の諸品が明治になって日本で登場した経緯を説明して、その当時の価格を記しており、食物の起源としても面白い。「2章.急激に変化した明治の生活」では鉄道、電報、自転車などの江戸時代にはなかったものの価格だ。
 例えば牛肉百グラムの明治26年の価格が3銭6厘(現代価格で約720円)で、幕末から町のごろつきや緒方洪庵の適塾の書生が食べていたが、幕末に来日した外国人は香港やアメリカから輸入し、文久2年に横浜で「伊勢熊」、慶応元年に江戸神田で三河屋が提供。新政府は肉食を奨励し、明治4年には明治天皇が牛肉を食べる。料理屋がスキヤキなど日本人の口に合うように工夫して広まることが記されている。
 郵便制度が始まるが、切手は4匁まで3銭だから、現代価格では600円だ。自転車は現代価格では約400~500万円もしたようだ。

 「3章.収入格差が激しい大変革」では、当時は身分制の名残があり、収入格差は地位によって学歴によって非常に大きかったことを説明している。総理大臣の年俸が約2億4千万円、国会議員が約4000万円、帝大出の高級官吏の初任給月給が約100万円に対し、巡査の初任給は約18万円、二等兵の給与は1.8万円。
「4章.教育に力を注ぐ新政府」は学費、楽器、書籍などを比較している。
「5章.新時代で遊びも多様化」では動物園の入園料、歌舞伎、大相撲、ホテルの料金比較だ。妾の手当などもある。
「第6章.金が絡んだ明治の事件」では井上馨の汚職などだ。