「西郷隆盛と大久保利通の明治維新」鈴木荘一著

 この本はなかなか興味深い内容である。本のタイトルだけ見ると西郷と大久保の事績を辿ったもののように思えるが、著者鈴木氏なりの明治維新の真相追究の研究結果が著されている。
 本の構成は、第1章から第4章までは、明治維新後の西郷隆盛の業績と、西郷が唱えたという征韓論の本当の内容と、西南戦争までを記述する。そして第5章からの後半は若い時期の西郷隆盛と島津斉彬を中心に薩摩藩の内情、西郷が戦いに出て、江戸城無血開城に至るまでの流れを書いている。この順序と、著者の人物評価が断定的なところに引っかかる読者はいると思う。人物評価では大久保利通、勝海舟、松平春嶽、木戸孝允を中心とする長州閥に厳しい。

 前半部分の内容だが、明治維新で大変だったのは、維新の主役だった薩長も含めた廃藩置県と、武士身分の実質的解体だと思う。明治維新は「自ら特権を捨て支配階級を降りた士族の犠牲的精神によって成立した」と福沢諭吉が書いているそうだが一理ある。
 薩摩では下級武士が革命の主役だったが、倒幕後は倒幕に消極的だった上級武士が藩政を握る。それに下級武士が「藩主は無用、我々は直接、王臣になる」と言うことを聞かなくなる。島津久光の子で維新後に藩政の中心に座った島津久治は、かつては倒幕に反対していたので「薩摩武士にあるまじき軟弱さ」と批判され、家老職を辞職して、後には自殺する。その混乱を治められるのは西郷しかないと要請されて薩摩藩参政になる。領地をすべて藩庁に召し上げ、上級武士の禄を8分の1にし、下級武士の方を底上げし、士族限定の民主化を行う。

 全国の廃藩置県を実効のあるものにする為には西郷の力が必要とのことで西郷は中央に呼び戻されて参与となる。薩摩・長州・土佐から兵力を献じて天皇の御親兵として成し遂げる。
 岩倉使節団が外遊(鈴木氏は文字通り外遊として、評価していない)中に長州の井上馨、山県有朋などは私財を蓄える汚職をし、これを江藤新平が糾弾した。長州の汚職体質の批判を読んでいると、今の安部元首相に至る長州出身者の体質までを想像してしまう。もっとも乃木希典のように清廉潔白な人物もいる。

 岩倉使節団が戻るが、この汚職刷新も含めた留守政府が成し遂げた業績に嫉妬したのではと鈴木氏は推論している。

 なお征韓論は当初は、木戸孝允が唱え、その狙いは薩摩士族を朝鮮半島で戦わせて疲弊させて勢力を削ぎ、長州が明治政権で主導権を握る為と書いている。明治6年に外務少輔・上野景範が「朝鮮は日本を無法の国との掲示を揚げた。改めさすために若干の陸海軍を派遣し、修好通商条約を締結させる必要がある」と述べて閣議で取り上げられる。この時は西郷が「自分が無腰で出向いて交渉する」と述べ、この方向でまとまり、最終は岩倉使節団が帰国後に最終決定となる。
 帰国した岩倉、大久保はともかく内治優先と反対するが、他は賛成。すると岩倉、大久保は辞表提出。これに三条実美が気を病んで倒れる。そこで岩倉が三条の代理となって上奏して中止が決まる。江藤は岩倉の上奏は閣議決定していないとして、西郷らは辞職というのが真相である。

この時、明治政権において、次の3つの流れがあった鈴木氏は整理する。
A。西郷の「士族による清廉潔白な武士道政治」
B。江藤新平、板垣退助、後藤象二郎らの「イギリス・フランス流の民主的議会主義」
C。岩倉・大久保の「天皇を中心とするドイツ型専制君主制の有司専制」
明治6年の政変で、Cの流れが勝つ。Aは各地の士族の乱の平定、Bは後の自由民権運動の形を変える。
 薩摩藩士横山安武が、維新政府の腐敗体質や、木戸孝允の征韓論に反対して諫死する。もちろんAの考え方の人物であり、西郷の征韓論反対もこの考え方だった。

 後半の薩摩藩の内情は詳しく、わかりやすい。私もはじめて知る事柄が多く書かれている。島津斉彬と、お由羅騒動のことなど、詳しいことは知らなかったが、この本ではじめて知る内容もある。寺田屋事件のことも、精忠組の組織・人脈の中で解説されており、勉強になった。
 また島津久光の野望も詳しく書かれており、この野望に薩摩藩が引きずり回され、西郷が歯止め役として果たした役割なども理解できた。
 驚いたのは、和宮が江戸城無血開城に果たした役割も高く評価して、具体的に記述されていることだ。和宮が慶喜の命などはどうでもいいが、徳川の家名の存続を訴えたことが記されているが、こういうロジックで迫られたら、逃げ帰った不甲斐ない慶喜に不満を持つ幕臣も矛を収めるのではなかろうか。
 江戸城無血開城は、勝海舟の手柄のように伝わっているが、勝と西郷の会談で決まったのは、慶喜の身柄を姫路の池田家で預かる条件を水戸に変更したことだけだと、明快に書かれている。池田家も当主は水戸家からの養子で、慶喜の弟にあたるから、そこに預けられても粗略にはされないと述べられているが、確かに、そうであろう。
こういうことで勝海舟に対しては厳しい評価を下している。勝海舟は、第1次長州征伐時に西郷と会い、長州のことよりも幕府内部の問題を述べて、西郷の心を溶かしたが、この時は勝海舟が失脚する1ヶ月前のことであり、西郷をたぶらかしたという認識である。
ちなみに福沢諭吉も勝海舟の評価に厳しいから、鈴木氏の解釈も一理あると思う。


関根正二「三星」 於国立近代美術館

 昨日は近代美術館の所蔵作品展に出向く。私が好きな関根正二の「三星」が展示されているのを観に行くためである。

 今日は、いつもより画面全体が暗く感じがした。その分、関根のバーミリオンと唇の赤というかピンクと、3人の頬の朱が目立った気がする。もっとも暗い画面の中の赤、朱系の色であり、際立つ感じではないが、これら色がこの絵のポイントと感じる。
 「三星」とはオリオン座におけるオリオンのベルト付近の三つ星のことのようだが、星座で言うと、地球からは等間隔に、同じような光の強さで見えることから知られている。
 ”身体の中心に位置”、”等間隔”、”同じような光の強さ”がキーになるが、関根の自画像の中心の男の光の強さが少し強いと感じる。

 真ん中の関根と左の女性がよく似ていることに改めて気が付く。関根の姉と言われるのが首肯できる。
 バーミリオンのマフラーのようなものは関根と右側の恋人が身に付けていて、左側の姉はつけていない。2人の関係を大事にしたかったのだろうか。
 ただ、姉も入れているのは、姉も関根にとっては大事な人だったのだろう。
 真ん中の関根と左側の姉が似ていると述べたが、右側の恋人も、目は少し違うものの何となく似ている。もっとも視線は、集中しておらず、それぞれが別のものを見つめているように感じる。これがミステリアスなところなのかもしれない。

 自分にとって大切な人の姿を自分と共に残しておきたいとの想いで描いたのだろう。胸から上は描かれているが、下の方はよくわからない。花を持っているようだが、よくわからない。そういうものよりも3人の容貌が大事だったのだろう。

 この絵を描いた後に、関根は今のコロナウィルスと同様に流行していたスペイン風邪に罹患して20歳で夭折する。
 心を打つ絵である。

関根のその想いは、観る私にも伝わる。いい絵である。

葛飾地誌3部作(『葛飾記』『葛飾誌略』『勝鹿図誌手繰舟』)

 今、郷土史関係の調べものをしており、葛飾地区(具体的には市川市)のことを書いた江戸期の本に当たる。
 葛飾地誌3部作とも言われているのが『葛飾記』『葛飾誌略』『勝鹿図誌手繰舟』であり、私が今回、紐解いたのは、それぞれの解説本の次ぎの書籍である。調べものが主眼であり、全部を読んだわけではない。
 『『葛飾記』の世界』(鈴木和明著)
 『『葛飾誌略』の世界』(鈴木和明著)
 『勝鹿図誌手ぐり舟』(宮崎長蔵著)

 原本の『葛飾記』は『燕石十種』(第5巻)所載である。序によると寛延2年(1749)の刊行である。著者は青山某とだけあり、行徳に住んだ青山氏の一族で青山文豹という説があるようだ。葛飾郡における特に行徳地区を詳しく紹介した観光ガイドブック的な本である。
 『『葛飾記』の世界』(鈴木和明著)は『葛飾紀』の原文を所載・注釈している本で、関連する資料も各項目ごとに掲載している。この本の方が数値(当時の石高、家数、運賃、宿場間の距離など)について記されていて参考になる。

 『葛飾誌略』は『房総叢書』(第6巻)に所載で、原本は文化7年(1810)の刊行で、これも作者は不明であるが、馬光(俳号)とも考えられる。常楽寺(船橋市西船)の僧侶か檀家かとも言われている。
 これもこの地区の観光ガイドブックである。また俳人らしく、全国の俳句友達から海浜に関する俳句を集めて所載している。
 『『葛飾誌略』の世界』(鈴木和明著)も『葛飾誌略』の原文を所載・注釈している本で、関連する資料も各項目ごとに掲載している。

 『勝鹿図志手繰舟』は稀覯本で、たまたま著者宮崎氏の実家(市川市新井)で見つかった。文化10年(1813)に発刊で、著者は行徳金堤とあるが、大田錦城の序文の中で、金堤荒井里正とあり、行徳の新井村の名主鈴木清兵衛で、俳号を金堤とした人物と考えられる。
 手繰舟とはこの地の漁法の手繰り網(てぐりあみ、たぐりあみ)で舟に3人が乗って袋網を引いて、海底で魚をすくいとった漁の舟のことである。ハゼ、メゴチ、エビ、シャコを採った。
 この地区の知られていない名所・旧跡の事跡を網でたぐい取るように拾い集めたからではないかと著者の宮崎氏は推測している。
 挿絵に谷文晁や葛飾北斎などの有名な画家の作品を挿入しており、作者の交遊関係がうかがわれる。
 なお、この鈴木清兵衛は、『葛飾記』『葛飾誌略』のことをまとめた鈴木和明氏の先祖にあたるようである。

 『勝鹿図誌手ぐり舟』は『勝鹿図志手繰舟』は、作者が原文を適宜所載しながら、作者なりにまとめている本である。1章は「行徳今昔ー金堤の生きた時代」、2章は「金堤の葛飾散策」、3章は「行徳の民俗」、4章は「俳人金堤の交遊録」としてまとめている。

 いずれの本も、行徳の知識人が刊行に大きく関わっていて、当時のこの地の発展(経済、文化)が背景にあると考えられる。当時の行徳は、製塩業が盛んで、また成田参詣の通り道として賑わっていた。

「戦国武将の肖像画」二木謙一、須藤茂樹 著

 肖像画には寿像(生前に描かれたもの)と「遺像」(死後に描かれたもの)があり、もちろん信頼性が高いのは寿像である。寿像には本人の思いがこめられているが、遺像は追善、顕彰などの目的がある。

 肖像画は平安時代からある。鎌倉時代には中国から禅宗の肖像画形式(頂相(ちんそう)が伝わる。武将の肖像画では神護寺の「伝・源頼朝」がある。この絵に限らず、肖像画の作者ははっきりしないが土佐派や狩野派の画家と思われる。自画像が関東に多いのは画技を教養の一つとして積極的に学んできた関東武士の伝統が考えられる。

 あの有名な足利尊氏と伝えられてきた騎馬武士像は細川頼之、高師直、高師詮だという説がある。もちろん尊氏説がある。神護寺の頼朝像も足利直義説もある。

 当時の着衣の解説も詳しい。束帯が朝廷出仕の正式な礼装でモーニングに該当する。手に笏(しゃく)を持ち、裾(きょ)という裾を引きずる。衣装の色は黒が多い。
 衣冠はダブルの略礼服の感じ。手には扇の一種を持つ。
 直衣(のうし)は天皇・公卿の日常着、狩衣(かりぎぬ)は民間から起こり、殿上人の私用の平常着になる。色目が自由になる。
 鎌倉時代は武士は直垂(ひたたれ)を常服にしていたが、室町時代から大紋の直垂(大きな紋を染める)、素襖(すおう)の直垂が現れる。 ともに折烏帽子(おりえぼし)をつける。
 そして略式礼装として肩衣袴姿(かたぎぬはかますがた)が生まれる。袖が無い肩だけのものである。
 肖像画にはこの他、羽織袴、着流姿があり、法衣姿があり、もちろん武装姿がある。

 肖像画もたくさん紹介されていて興味深い。印象に残った顔に簡単なコメントを付ける。信長、秀吉、家康の外に足利義輝(下絵も残り、端正)、勝家、利家(飄々とした老人)、光秀(知性的)、長秀(若々しい)、浅井長政、黒田長政(顔は泣き顔)、朝倉義景、本多忠勝(武装姿で有名な絵)、榊原康政(沈着)、井伊直政(端正)、上杉謙信(よく見る肖像画以外にも色々ある)、武田の信虎(異相)、信玄(これは穏やか)、勝頼、北条早雲(意思が強そう)、北条氏康(立派)、毛利元就(もみあげからあごひげ)、斎藤道三(おだやか)、加藤清正(知的な感じ)、福島正則(きかん気)、竹中半兵衛、蜂須賀正勝、石田三成(老成)、池田恒興(ぎょろ目)、佐竹義宣、真田昌幸(癖の強そう)、幸村、小早川秀秋と豊臣秀頼(ともにか弱い)、仙石秀久、結城秀康(いい男で立派→後で梅毒に罹っていたとも言われるから、敢えて顔の崩れを補正したのかもしれない)、尼子晴久、長宗我部元親、三好長慶(整って立派)、大友宗麟、穴山信友、津軽為信(濃いひげ面)、伊達政宗(目が両目ともある像もある)とある。

 女性はお市の方、茶々、初、江、久芳院(藤堂高虎の夫人)、高台院、お犬の方(信長の妹の一人)、旭姫、大政所、天秀尼(秀頼の娘)、三の丸殿(信長妹で秀吉の側室)、北条夫人(武田勝頼の妻で北条氏康娘)亀姫(家康の娘で奥平信昌の妻)、春日局。
 信長の血筋は今の基準でも美人である。

「司馬遼太郎全集42 菜の花の沖1」司馬遼太郎著

 高田屋嘉兵衛の物語である。淡路島の貧しい農家に生まれ、兵庫で船乗りになり、後に船を入手して蝦夷地貿易に携わり、廻船問屋として財をなす。函館の開発、千島航路の開拓などに貢献し、ゴローニン事件が起きた時に、ロシア側に拿捕されたが、解決に尽力する。晩年は郷里の港の整備など社会資本充実にも貢献した偉人である。
 司馬遼太郎全集で3巻にもなる長編である。だから1巻ずつ読後記録を記していく。

 淡路島の西海岸の都志の貧しい農家の出生(名字を持つ高田家の親戚)で菊弥と幼名を持つのが主人公である。当時、菜種から油と採る産業が淡路島の対岸の灘地方に生まれ、その原料の菜種がこの地方に植えられていたことが『菜の花の沖』のタイトルにつながっている。
 彼の家は貧しかったが子どもは多く、これらの弟たちが、後に嘉兵衛を助けて廻船業を支えていく。一通りの学問を近くで学んだ後に、母の妹の嫁ぎ先で漁師相手に商売している和田屋に奉公する。成人して若衆宿(村の若者が集まり、結婚するまで共同生活をする)に入るが、奉公先がある所ではなく、生まれた村の若衆宿に属する。その為に働く場所では仲間はずれにあう。司馬遼太郎はここで若衆宿の風習を詳しく記述していく。

 和田屋の商材は大坂から仕入れる為に、商売のことや、船のことに関心を持つ。ここで漁業において日和見の名人などの話を聴いて育つ物語を挿入している。
 網元の娘に惚れたのか、惚れられたのかは不透明な書き方だが、この娘が後の妻になる。このトラブルで、こちらの若衆宿の者とトラブルになり、この地を追われるように逃れる。
 そして親戚の明石の船問屋堺屋喜兵衛(鳥取藩の御用を勤める)にやっかいになって、船のことを覚えていく。ここには弟の嘉蔵が奉公し、すでに船乗りになっていた。帳簿関係の仕事も的確にこなしていく。

 司馬遼太郎は『龍馬が行く』も『坂の上の雲』もそうだが船が好きなのかもしれない。ここでは海の上の世界が実力主義、合理主義の世界で、陸は幕藩体制で堅苦しく、不条理な世界であることを述べている。当時の和船の構造のことも丁寧に書いている。

 樽廻船に乗り、船乗りとして一人前になっていく様子が書かれる。網元の娘おふさも出奔し、ここで夫婦の生活をはじめる。借りた家の家主が船大工の伝兵衛であり、船の構造も覚えていく。樽廻船で江戸にも航海するなど経験を積んでいく。弟たちも郷里から呼んで船乗りとして修業させる。こうしている内に、自分の船を持つことを夢見る。

 この地の北風荘右衛門貞幹という豪商の知己を得る。北風家は船乗りを大事にし、その結果、この地に荷が集まり、商売もうまくいくという好循環を保っていた。
 その家に出入りしている腕の良い船頭で、新しい帆を考え出し、それを売り出して財をなした松右衛門を知り、船のことを色々と教わる。彼も嘉兵衛を目に掛けて何かとアドバイスをくれる。
 
 自分の船を持つという夢の実現の為に、その資金を生み出す為に鰹を捕り、鰹節にして売ることを考えるが、産地ごとに強固な座(株)の組織があり、入り込むのは難しい。司馬遼太郎は当時の商業・工業の産物や流通の仕組みも書いている。

 弟たちも、嘉兵衛が船頭になったことで郷里から出て、働くようになる。
 この内に北風家から、紀州徳川家が切り出した大木を江戸に運んでくれとの依頼を受け、それを筏船に仕立てて無事に運び、名を上げる。こんなことから北風家に信頼され、北風家が難破して廃船にしようとしていた薬師丸を買った船を、譲ってもらい、船主の道を歩む。

 鳥取藩の御用で日本海に出向く内に、蝦夷地での商売を考えるようになる。その為には頑丈な船がいるが、生半可な額ではない。秋田までの仕事をした時に、この地で信頼できる船大工与茂平を知る。後に与茂平に自分の持船(1500石積みの大船)を造ってもらうことを決める。
 船員を郷里から集める為に、帰郷すると、石持て追われた身だが、娘を強奪した形になっていた網元も許してくれ、在所の村の庄屋も嘉兵衛の弟の嫁に自分の娘をどうかと言ってくれるようになっていた。
 長慶丸も持つようになり、薬師丸と2隻で稼いでいき、新たに八〇〇石積みの寛政丸も所有して、秋田で完成した大船辰悦丸を受け取りに行く。恩人の船問屋堺屋喜兵衛は息子たちを嘉兵衛の元に預けて、一緒に働いて、ゆくゆくは高田屋を興すように算段してくれる。
司馬遼太郎の小説だけに、時代背景、当時の産業、廻船業の実態、和船の構造などに詳しい。嘉兵衛の周りの登場人物の性格も細かく描いていく。ただ嘉兵衛がこれだけの海運の知識を持つに至る過程はあまり丁寧に書いていないのが物足りない。

「明暦の大火 「都市改造」という神話」岩本馨著

著者は建築、都市設計の視点から研究されているようで、興味深い内容であった。大火前と大火後の江戸の地図、大名屋敷の位置などを史料から細かく分析して、明暦の大火の焼失範囲や、大火後の復興状況の実際を明らかにしている。

有名な「むさしあぶみ」は、大火の実情を表す史料として評価されているが、この本は著者浅井了意が誰かに聞いてまとめた物語で、悲惨さと同時に幕府から批判されないように幕府の施策も書いている本として、この本の中では典拠とせずに、批判している。

大火の範囲を、当時の地図史料(これも近年新発見が相次いで、2006年に臼杵市で寛永末年の地図「寛永江戸全図」が発見され、また大火直後の江戸の地図「明暦江戸大絵図」も発見されている)を丁寧に観て、各種史料と付き合わせて洗い直している。そして新たな大火による焼失図を作成されている。

オランダ商館長で江戸に来ていて火災にあったワーヘナールの日記などから分析している。
焼死者数も「むさしあぶみ」は10万7036人だが、「正慶承明記」では「3万7千余、このほか数知れず」となっている。これには水死者や行方不明者は含まれていない。死者数については調査はここまでとして、これ以上は探求していない。

身分社会であるから、大名やその家族などの焼死はほとんどなく、旗本(神尾吉勝)一人くらいしか検証できる人はいない。大名などは船で逃れた者もいる。

救済として4人の大名に対して粥施行をさせている。また紀伊家から献上された米千俵を金1両=8斗で払い下げることも書いている。

罹災武家への救済は、石高比だと高禄の者(9万9千石)は銀300貫目だが、禄に対する割合が年収の約5%と低く、逆に1万石と低い大名の場合は銀100貫で、年収の約17%と高い割合になるようになされている。

江戸城の再建がなされなかったのは保科正之の献策と伝わるが、これは会津藩の記録にあって藩祖を顕彰するような史料にあり、実際はわからないとしている。

大名屋敷の配置を、大火後に計画的に行ったとも言われているが、各大名は以前の上屋敷が手狭になったので広い屋敷に移りたいという要望が強く、幕府はそれを調整していただけである。
大名屋敷を進んで返納する動きもあったが、それは幕府に遠慮という横並び意識と、上記の広い屋敷に代えてもらいたいという意識である。幕府が都市改造した結果とは言えないことを立証している。
幕臣の屋敷については、以前から不足しており、大火後に浜町とかに設定されている。

大火後に定火消屋敷も10箇所ほど設けられるが、武士の屋敷を守る為に配置されている。
火除地も14箇所に設けられたが、その効果を検証する研究によると、延焼を防ぐ効果は無く、延焼する時間を延ばす効果しかないことが実証されている。このようなこともあり、江戸の発展に伴い、縮小する火除地もある。

寺院は江戸の北郊の駒込に移るのが多い。なお吉祥寺の移転に伴い、住民が武蔵野に移り、吉祥寺村ができたとの伝承はあり、時期は一致するが、寺の吉祥寺に門前町があったかは確かではない。
浅草寺町は大火前にも寺院の集積があった。大火後にさらに集積が進んでいる。

幕府の都市改造のスタンスの基本は、大火前への状態への復旧であり、幕府主体の改造は少ない。都市改造も明暦の大火の前から計画されていたのが多いとしている。

幕府の都市改造を意識すると、明暦の大火は幕府が意図的に起こしたという説が生まれるが、憶測に過ぎない。
振り袖火事の異名も紀伊國屋文左衛門の物語から生まれたものである。

大火後に桃山建築の大名屋敷が簡素になったとの説もあるが、それ以前に三間梁制限があったとも考えられる。

「むさしあぶみ」の物語で、神話化されてくる。牢屋敷の開放という美談、一方で囚人が逃げてきたと思い浅草橋門を閉じた為に焼死者が多くなったことの悲劇についても全てを信じてはというスタンスである。

「むさしあぶみ」は明治以降も史料として使われ、都市改造神話も生まれてくる。

<吉川弘文館の歴史文化ライブラリー532なのだが、リンクができない>

「維新の後始末」野口武彦著

 幕末の歴史を書いている著者の新書である。週刊新潮に連載したものを本にしたと「はしがき」にある。だから一話が短いから読みやすい。言い換えると、読み流してしまい、後に印象が残らないきらいがある。
 「第一部明治夢幻録」として22の物語が収録されていて、「第二部明治反乱録」として22の物語である。大きく2つに分けているが、収録されている物語がそれぞれに合致しているかは別である。編集部が、勝手に分けただけのような感を持つ。
 1番目は「明治維新は革命か」である。革命の3つの条件はフランス革命を例に、①政権担当者の交代、②社会制度の変革、③財産の位置を変えることとし、この条件に対して明治維新はどうかと分析している。昔の支配階級の武士身分は消滅したわけではないのに、抵抗しないで秩禄処分を受けている。幕府は自然に倒れたような感じである。新政府の人間は復古の大義を掲げながら文明開化という欧化政策を進めた。徳川幕府は第二次長州征伐、鳥羽伏見の戦いと負けたこと、その後は維新後10年間の政変・反乱で徐々に革命勢力内の交代が進んだ。そして維新政府の中に復古派と欧米派がいて対立していたことなどを書いて、この時代には様々な明治維新のヴィジョンがあったが、現実は誰の思惑とも違って推移したのではと書いている。
 維新後、東京の人口は半分になり、空いた屋敷地で茶や桑を栽培し、結果として失敗したことを書いている。
 暗殺事件として、大村益次郎、広沢真臣の暗殺、岩倉具視暗殺未遂、大久保利通暗殺事件の紀尾井坂の変を取り上げる。
 反乱・政変として、奇兵隊の反乱、詩人にして反逆者の雲井龍雄のこと、明治6年の政変、征韓論、佐賀の乱(憂国党という保守派、征韓党、それに中立党などがあった等)、神風連の乱、萩の乱、西南戦争などを書く。
 対外戦争として、台湾出兵は琉球民が台湾人に殺される。清に抗議したら、台湾は化外の地、では占領しようとなる。琉球が日本だということを国際社会にわからせることにもなった、朝鮮半島の江華島事件
 対外交渉として、岩倉使節団(当初の狙いは条約改正)、隠れキリシタンの浦上四番崩れの話、中国人を奴隷としてペルーに行くマリア・ルス号の事件も書く。日本にも吉原という奴隷制度があるでないかとペルー政府に突っ込まれたようだ。樺太・千島交換条約は樺太へのロシアの圧力に英国などが懸念して、争わずに交換ということになった。
 汚職事件として、井上馨の汚職事件の一つの尾去沢鉱山事件、山県有朋の疑獄である山城屋和助事件
 風俗面で、人力車が繁盛し、その人力車は色彩豊かだったことを書いている。「あぐら鍋」として肉食文化が興ったこと、ざんぎり頭、、廃刀令、鉄道開設時の資金調達で悪徳外国人に騙されそうになったことや、冥土の土産に乗車した老人がガタと揺れるたびに南無阿弥陀仏を唱えたなどの話、
 法律では、死刑制度では絞首刑が採用されたこと、仇討ち禁止令、秩禄処分、、版籍奉還、貨幣制度を円にしたこと)、地租改正、徴兵令は反発を受けたが、軍隊に入ると食事が提供されるので静まった。、言論統制の為の讒謗律、警視庁創設、西南戦争勃発に警視庁が西郷暗殺団を鹿児島にということがあったが、視察を刺殺と間違えたなどのことが書いてある。
 経済面では、小野組の没落事件、三井と三菱、
 他に、 普仏戦争時にパリにいた日本人渡六之助の日記も紹介、島津久光の話や、西郷星(民衆の人気)のことなども書いている。

「和歌文学大系75 左千夫歌集」永塚功著

 伊藤左千夫は『野菊の墓』の小説が有名だが、本質は歌人であることを知る。上総の国の出身で、この頃は豪農であったが、父親は東金藩の士族で、上総の地で江戸後期に興った上総道学(山崎闇斎の儒学が基本)の学者であった。そういうことで漢学や儒学、和歌などの勉強もしていたようだ。若い頃は政治家志望だったが、眼病で法律の勉強ができずに、牛乳搾乳業を東京の下町で営む。一日に18時間も働く生活で多くの子女を育てる(男子は夭折ばかり)。
 30歳頃から茶道と歌道を学び、37歳で正岡子規に出逢い、傾倒して歌の道に励む。
子規逝去後はアララギの創刊に携わる。後に同人(斎藤茂吉ら)と意見が合わなくなる。
 故郷に近い九十九里浜で詠んだ歌や、近隣で詠んだ歌などに雄渾な歌も残っている。
現在、短歌は3192首が判明しているようだが、この歌集には1972首が所載されている。
 有名な歌は次のようなものだ。
「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」(自分の職業を入れた気合いの入った歌)
「人の住む国辺を出でて白波が大地両分(ふたわけ)けしはてに来にけり」(九十九里浜の歌)
「おり立ちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く」
「かつしかや市川あたり松を多み松の林のなかに寺あり」(私の住まいの市川市の葛飾八幡宮を詠んだ歌)

「城と隠物の戦国誌」藤木久志著

 戦乱の世では、洋の東西を問わずに、民衆は自分や家族の身を守る為に領主の城に逃げ込み、領主は民衆を守り、民衆はそこで雑兵となって戦い、また普請の手伝いをしたり、食事の支度などで手伝ったことが記されている。そして戦乱の世では自分の大切なものを寺社や穴蔵に隠すということをやっていたことを史料から明らかにしている。

 はじめに中国の古代では「城」(領主の住む内壁)と「郭」(民の居住区を囲む外壁)が異なることが記されている。「郭」に住む住民はほとんど農民であり、朝に郭門を出て、郊外の耕地で農耕に従い、日暮れとともに郭内に戻る生活である。やがて戦国時代(中国史の紀元前5世紀頃)には外郭の強化が図られて城郭となってくる。
 外壁強化は農民の力によって行われ、敵が攻めてくれば防御に勉め、去れば耕作に励む。これを「堅壁清野」という軍事政策という。

 中世の西洋も同様であり、周辺民衆の緊急避難のために豪族の居住域の倍ほどの広さを持つ民衆城壁を常備していた。ドイツ語の末尾に付けられる「ブルク」は①城、②避難所、③保護の意味がある。

 日本でも、戦国時代には、このように外郭で囲まれた区画が存在し、それは構、構中、惣構、要害などと呼ばれていた。

 戦国北条氏の城郭には補修を周辺住民に定期的に行わせている文書が残っている。学者の中には住民をこのような労働によって収奪していたとみる人もいるが、住民側の平和の負担という説も有力で、著者は後者の立場である。メンテナンスの作業時期は農閑期に設定している。
 著者は考古学者や郷土史研究家とともに、小田原城とか、関東の北条方の城における住民避難場所(百姓曲輪)の跡を調査している。もちろん、このような城は関東だけでなく九州にも存在する。
 秀吉の小田原攻めでは郭内に武士が2、3万人。そして百姓・町人も同数程度いたことがわかっている。秀吉は戦争終結後に、郭内の百姓・町人は本来は敵だが、戦後の耕作など復興を考えて、これら民衆は武器を取り上げるものの放免する政策をとっていた。

 また寺社も、民衆が逃げ込む場所になっていた。永正9年に北条早雲が鎌倉を攻めた時、鎌倉の住民は鶴岡八幡宮に逃げ籠もる。食糧なども持ち込む。北条軍は避難住民の命は助ける。その代わり、住民が社内に持ち込んだ俵物には課税を要求し、ただし神社関係者の俵物は免税とした。このように鶴岡八幡宮は戦時においても地域住民から信頼され、領主にも影響力を持っていた。
 このような事例は織田信長と熱田神宮でも見られる。
 また神社の裏山が地域の避難所になっている例(越後の青海神社)もある。

 戦時に家財などは穴を掘って埋めるのが一般的であった。だから『雑兵物語』では住民が埋めた場所を探り当てるノウハウが書かれている。
16世紀末、埼玉兼比企郡の古刹・慈光寺では寺僧たちは寺の宝物を土中に埋めて、遠くの山に避難している。

 考古学では隠し穴(地下式坑)が発掘されることが多い。近年は遺骨の出土も無いことから墓所ではなく、隠し場所との説も有力になっている。2007年当時の集計によれば、その概数は全国で1000地点余り。おおよそ5500基が知られている。そのうち約3000基ほどが千葉県に集中している。これらは14世紀半ばに現れ、15世紀に一般化する。隠し穴には荷物だけでなく、人間が何人も入れるほどのもある。
 また銭甕の発掘も相次いでいる。埋納銭(信仰の為)という説もあるが、著者は埋蔵銭説である。

 隠し物や預けた場合の受け取り方法についても史料を調べている。これも大変重要なことである。寺社などは聖なる空間であり、誰もが預けることがわかっているだけに、聖なる空間に侵入して奪う不届き者が多い。こうして盗られた場合の処置方法なども大事になる。
 寺社によっては、縁がある遠隔地の寺社や、寺社領地などに更に預けることも行っている。
 預けられた方は、その信用を大事にするという風潮もあった。一方でごまかして取得する者もいた。

 町場では、田舎に預けることも行った。戦争中の疎開と同じである。
 また江戸は火事が多く、それから家財を守る為に、地下に穴を掘ることがよく行われていた。

「<武家の王>足利氏」」谷口雄太 著

 この本は、戦国末期まで、に力も無い足利将軍が存立しえたのは何故かということを考察した本である。
 将軍としての足利氏が、利用する側に利益があったから活用されたと言う説(山田康弘氏が唱える)がある。この本の著者は、足利氏に武家の王として価値(武家の王としての秩序意識、序列意識)があったということを述べている。
 一般に政治学では支配にあたって、力(暴力も含めた軍事力)と利益(支配者の利益に預かる)、価値(多くの人とつながりを持って行動できる価値体系=当時の常識)が大切である。
 社会学でも「権力による秩序」、「利害の一致による秩序」「共有価値による秩序」が挙げられている。
 戦国期になると、足利家は「力」は欠けていた。一方、利用価値としては他大名との外交に利用する価値、領国内の問題に対処する価値があった。紛争の調停に将軍の力・お声がかりは役に立ったのである。
 足利家に限らず権力者は、はじめは力によって支配を広げ、その後は血統の貴種性を推し進めて価値を高めてきたとする。後者の方は儀式の時における序列などで、がんじがらめてとしていた。足利期に生きた大名もその価値体系の中で生活していて、序列に実にうるさかったことを例証している。儀式における序列争いである。
 この時代、足利一門か、否かは重要の違いであった。足利一門と見なされていたのは本によって若干異なるが、畠山、桃井、吉良、今川、斯波、石橋、石塔、一色、上野、小俣、加子、新田、山名、里見、仁木、細川、大館、大島、大井田、竹林、牛沢、鳥山、堀口、一井、得川、世良田、江田、荒川、田中、戸賀崎、岩松、吉見などであった。
 新田氏は足利一門と認識されていた。これが別だと我々が認識しているのは太平記という物語に影響されている為である。

 なお、足利時代は京都の足利将軍と管領家と、関東の鎌倉公方と上杉管領家の2元政治(上位は京都の将軍家だが)であった、諸豪族が争う時も、将軍か、鎌倉公方の一族を押し立てて争うことが多かった。すなわち足利家の価値を認識していたことになる。

 権威を成り立てたせるには、細かい儀礼の積み重ねが重要となる。これは西洋の王家のブルボン家などと同様である。席次争いが価値体系を作っていくのである。今の北朝鮮の金氏も、金日成以来の血という権威で統治するようになっている。

 この本には記されていないが、関東では、鎌倉公方の足利家を頂点に八屋形(守護になれる家)という言葉があった。関東地方の名門である宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏である。
 今川義元が織田信長に討たれた時に、輿に乗っていたから義元だと判明して狙われたと聞いている。この輿に乗ることができるのも、名誉ある待遇として足利将軍家から許されていたことだとも聞いたこがある。斯様に社会において、足利将軍家を頂点とする価値体系が存在していたのである。
 福地桜痴は徳川家が滅んだのも、存在していた徳川家絶対の価値体系が崩れていったこと(外交のことに天皇の助言を求めたりしたこと)にあると書いているようだ。
 読み終わってから、鎌倉幕府の後半を牛耳った北条氏は源頼朝とは縁続きではなく、源氏に関係する一族の中では足利氏は有力な氏族だったのだと改めて気が付いた。

「美術展の不都合な真実」古賀太 著

日本の美術館は、企画展に多くの入場者が集まるが、平常時の展示(常設展)は人がまばらというのが現実である。それは世界(西洋)とは違うということを書いて、今後の美術館の展示に問題意識を呈している。

1日当たりの入場者数が多い世界の展覧会(2018)に、日本では6位に国立新美術館の「東山魁夷展」6819人、9位に東京国立博物館の「縄文展」6678人に入り、前年は1位に東博の「運慶展」11268人。3位に新美術館の「ミュシャ展」8505人、5位に新美術館の「草間彌生展」6714人とベスト展入りしている。
ただ美術館としての年間入場者数では17位に国立新美術館が入る程度である。

企画展中心なのは、新聞社主催という日本独自の方式だからである。それまでは百貨店中心だった。新聞社(日本の新聞は欧米に比べ圧倒的に部数が多い)は紙面で広告、招待券を配る(勧誘の一手段)のである。問題点は美術館の学芸員が軽視されていることである。地方の美術館だと館長は役人の天下りが多い。学芸員が企画する作家ごとの個展は、色々な美術館から作品を集めてくるのが大変。○○美術館展ならば、作品リストは先方に任せられる。○○美術館が改装の時が交渉に大事となる。そしてマスコミの事業部員は目玉作品がいくつ来るかが大事となる。

企画展の経費だが、海外から借りてくると輸送、保険、借用料、展示費用、宣伝、会場運営などで総経費は5億円程度。3ヶ月で開催日が80日で、入場券の平均単価1500円で1日5千人来たら6億円となる。これにカタログやグッズの収入がある。ただし1日3千人を超す展覧会は落ち着いて観ていられない。

海外の美術館同士の作品の貸し借りは無料で行われるのが常識だが、日本は国際交流基金が関与して費用を出してくれる。すなわち土下座外交的になっている。

昔は、新聞社持ちの費用で、日本の学芸員を海外に連れていき、自分たちも海外旅行(語弊があるが、結構楽しんでくる)をしたわけである。

東京都美術館と国立新美術館は自分達の所蔵品は無く、会場を貸す形式。ここに日本特有の画壇、書道団体などの組織がからむ。これは中央だけでなく、地方にもある。そして貸し館的な運営に、口を出し、政治家も絡むことがある。こういう画壇や団体は、作品そのものの吟味もするが、有力者のお弟子さん、生徒などの要素が展示作品に出てくる。

最近の展覧会では、関連の講演会やギャラリーツアー、イアホン・ガイドやデジタル画像をつかったりして、観客の便を図っている。

見逃せないのは国立近代美術館、国立西洋美術館、藝大大学美術館などの名前をあげている。私も好きな東京ステーションギャラリーや千葉市美術館もあげられている。

日本の現代アートの展覧会がむしろ世界を引っ張る可能性もあるのではと書いている。

「明治、このフシギな時代」矢内賢二編

 この本は,、このような講座が開かれ、その内容を書籍化した本である。次の5章に分かれており、章ごとの執筆者が異なる。「第1章<演劇>市川団十郎は大根役者だったのか」、「第2章<美術>三井(三越)呉服店と美術」、「第3章<文学>恋人たちの明治文学史」、「第3章<文学>恋人たちの明治文学史」「第4章<音楽>明治のうたごえ」「第5章<暮らし>日本人の「はだか」」である。
 この本に限らないが、執筆者が章ごとに異なる本は読みにくい。この本も正直なところ第3章以下はまじめに読んでいない。

 九代目市川団十郎は名優として名高いが、若い時はさほどうまいとは思われず、むしろ大根役者(大根はどこを切っても当たらないから、こう名付けたとある)と思われていた。30歳くらいから評価が上がり、それ以降(奇しくも明治に改元後)から評価が高まり、名優とうたわれるようになる。父親は7代目市川団十郎で、その五男である。生まれてすぐに河原崎座の座元の養子となり、三代目河原崎長十郎と名乗る。そして嘉永五年に権十郎となる。若い時は「なまなま」という印象(演技が未熟で工夫や面白みがないという意味か)だったようだ。兄の八代目団十郎が嘉永七年に自殺して、跡を継ぐことになる。
 当時は暗い陰鬱と屈折を感じさせる役ところの評判が良かった。その後、加藤清正役についた時に、戦国武将的な衣装で演じ、このあたりから評判になる。その後も江戸時代のカブキの約束事に反するようなことをしていき、「活歴」と呼ばれるようになる。カブキの嘘と戦ったと筆者は書く。そして明治20年代になると、団十郎は伝統的な演出に戻っていく。これは直接の後継者に恵まれなかったからと筆者は推測している。大回りして江戸の歌舞伎に行き着いたとある。

 第2章は、今でもあるデパートによる美術展が誕生した経緯を書いている。高橋義雄は水戸の出身で慶應義塾に学ぶ。そして時事新報に入り6年過ごす。前橋の生糸商が米国の実地調査に行く人材を探していると聞いて応募する。米国でイーストマン商業学校で学ぶが、スポンサーの生糸商が事業に失敗。そこで水戸の旧藩主に頼み、留学を続ける。
 フィラデルフィアでワナメーカー百貨店を見学。そこで、この業態の将来を確信する。次に英国に出向き、リバプールでボウズ氏という日本美術愛好家に出会う。そこで美術の勉強もする。そして金持ちが美術を購入する文化も知る。
 帰国後、高橋は三井銀行に入り、三越呉服店の経営改革に招かれる。明治37年に三越で「光琳遺品展覧会」を開催する。大盛況だった。
 次に日比翁助(久留米出身)が引き継ぎ、本物を保証する意味で新作の絵画を展示販売する形態もとり、日本独特の百貨店での美術展と、百貨店での美術品販売がはじまる。この当時、三越がパリの日本大使館の内装装飾を請け負う。

 いずれも興味深い内容だった。明治という時代の文化は、改めて見直される必要もあると思う。


第3章以下は真面目に読んでいないので評は省略する。

「日本美術の底力」山下裕二 著

 面白い本である。まずはじめに、日本の美術の底流に縄文土器の意匠の流れと弥生土器の意匠の流れがあるとする。縄文とは「装飾的」「動的」「過剰」という流れである。弥生とは「洗練」「シンプル」「静的」「淡泊」とする。
 そしてこれまで日本美術では弥生の美が、日本の美として評価されてきた。建築における日光東照宮と桂離宮の評価の差を見れば理解できよう。
 それが昨今、伊藤若冲の再評価以来、縄文的な美の系譜が見直されてきたと言う。
 まず、縄文の美を発見したのは岡本太郎が「縄文土器論」を発表したことからである。岡本は「たくましくみなぎる生命感」と書いている。次に著者の師でもあるようだが辻惟雄が『奇想の系譜』を発表して、その系譜に連なる画家を再評価した。「精緻な描写」、「大胆な構図」、「絢爛豪華な色彩」が特色である。
 この本は、具体的に縄文的な美術を紹介していく。まず縄文土器の名品を解説している。それから広くは知られていない名品として「日月山水図屏風」(作者不明)、次に岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風」と、彼のおどろどろしい絵も含まれる「山中常磐物語絵巻」を紹介する。伊藤若冲の作品「動植綵絵」が続き、曽我簫白の「群仙図屏風」を説明し、白隠慧鶴の「達磨図」、そして葛飾北斎の「諸国瀧廻り木曽路ノ奥阿弥陀ケ滝」と続く。
 地方の絵師である土佐の絵金こと絵師金蔵の作品、新潟の彫刻家石川雲蝶の魚沼市の西福寺の天井彫刻、それから明治の超絶金工の宮川香山の「褐釉蟹貼付台付鉢」や安本亀八の相撲生人形をなど、知られていない芸術家の作品の紹介があり、面白い。
 明治画壇の山本芳翠の「浦島」、三越本店の巨大な彫像「天女(まごころ)像」(佐藤玄々)も紹介される。一方で、室町時代の雪舟も「慧可断臂図」のような「逸脱」と「乱暴力」を持った作品があることが説明される。雪舟は弥生的な美の体現者でもあり「破墨山水図」を紹介し、これは抽象画に入り込んでいると説明する。同様に長谷川等伯にも秀吉遺児の為の寺に金碧障壁画という縄文的な作品を画く一方で弥生的な美の極致である「松林図屏風」を画いていることに言及する。
 弥生的な美として、水墨画として能阿弥の「花鳥図屏風」(牧𧮾に倣う)も紹介し、等伯の「松林図屏風」を紹介し、縄文が「盛る」ならば弥生は「削る」として、千利休の茶室「待庵」や楽茶碗の「ムキ栗」、そして竜安寺の石庭が弥生的な「飾らない」の極地と紹介される。江戸画壇の雄の狩野探幽の瀟洒端麗な作風と、その門下から外れた久隅守景「納涼図屏風」、○△□だけを画いた仙厓義梵の絵を紹介し、一転して昭和の小村雪岱の「おせん雨」「青柳」などを紹介し、福田平八郎の「漣」を弥生的な美として紹介する。
 以降は現代美術も紹介し、縄文的な美として岡本太郎の万博で建てた「太陽の塔」。山口晃「東京圖六本木昼図」、田中一村の奄美大島での一連の作品、そしてギョッとする美人(”でろり”の表現もある)を描いた系譜として曽我簫白の「美人画」、長沢蘆雪「山姥図」、上村松園「焔」、速水御舟の「京の舞妓」、岸田劉生の「麗子像」、甲斐庄楠音の「春宵(花びら)」を紹介する。
 また知られていない縄文的美の画家として牧野邦夫「海と戦さ(平家物語より)」、狩野一信が増上寺に納めた仏画「五百羅漢図」全百幅を取り上げ、同時に村上隆の「五百羅漢図」を取り上げている。また西尾康之の彫刻「Crashセイラ・マス」を紹介している。

「ベイリィさんのみゆき画廊」牛尾京美著

 この本は銀座にあった「みゆき画廊」の主人であった加賀谷澄江氏の思い出を記した本である。加賀谷氏は東芝の重役で、後に東芝の不動産会社の共同建物の社長を務めた加賀谷小太氏の娘である。加賀谷小太氏は早稲田の政経の出身だが、建築にも造詣が深く、また絵画が好きで香月泰男などの絵画を多く買っていたようだ。
 加賀谷澄江氏は戦後に一時、アメリカ軍の軍属のジャック・ベイリィと結婚し、アメリカ国籍を取得したので、ベイリィさんと呼ばれていた。
 父親の加賀谷小太氏の会社が銀座にビルを建て、そこに画廊を設けたことでベイリィさんが運営をするようになった。画廊の運営形態には企画画廊と貸画廊があるが、みゆき画廊は一貫して貸画廊の道を歩む。
 著者はひょんなことから、みゆき画廊の事務を手伝うことになり、ベイリィさんを手助けし、ベイリィさんが逝去後にはみゆき画廊の経営者と創立50年を迎えるまで携わる。
 みゆき画廊は東京芸大の教師と親しかったこともあり、芸大卒の若手の登竜門として評価されていく。また、この本の主眼であるベイリィさんの人柄に多くの美術家が惹かれて、みゆき画廊は美術界に地歩を占めていく。
 ただし、銀座の一等地であり、家賃も高いので、経営は楽では無かったようだ。

 戦後の美術の動向がわかるという本でもなく、出入りしていた美術家の人柄がわかるという本でもなく、題名通りにベイリィさんの人柄がわかるエピソードを中心に記されている。その人柄とは、裕福な家のお嬢様で育った趣味の良さを持ち、欧米的なセンス(服装、態度)を持っている人である。だからベイリィさんと接したことがある人が読まれると懐かしいのではと思う。
 美術家では野見山暁治や大沢昌助、入江観、淀井彩子などと親しかったとある。
 ベイリィさんは、晩年にはパーキンソン病を患い、闘病生活に入る。著者はその時にも寄り添い、当時のことも記している。

「近代の「美術」と茶の湯:言葉と人とモノ」依田徹 著

 この本は茶の湯の道具が、近代以降に美術としてどのように評価されてきたかを辿った本である。
1章から11章まであり、それを次の5部に分けている。「茶道具評価の変容」「茶の湯の文化的価値の創出」「理論整備と作家制作」「茶道具の「美術作品」化」「芸術家利休の誕生」である。
各章には、最後にまとめをつけて読みやすくしている。また章ごとに参考文献をつけている。

 茶の湯道具は、美術と趣味世界の境界にあったことを述べ、茶の湯道具の文化財指定の過程を考察している。要は茶道具は美術の範疇に半分かかっているような位置づけであるということだ。そして明治期の工芸とは緻密な作品が評価され、それは日本の輸出品としての期待を抱かれたものだったことを書いている。

 趣味の世界では重視されてきた伝来や箱書は美術とは無縁なのだが、一方で先人が優れたものと認めてきた結果でもある。伝来は家格重視の流れで、市場価格はそれで上がるが美術価値とは無縁のものとも言える。

 茶の湯独特の専門用語「わび」「さび」は日本独自の美術表現で、西洋の美術用語に翻訳できないということもあった。西洋美術では具象で意匠重視だが、茶の湯釜などは鉄の質感が大事である。
 また茶道は禅の影響も受けており、禅は不均衡、無作為、簡素などを重視する。これも欧米の美意識に馴染まないものであった
 民芸という視点も出てきた。民芸は用から生まれたもので、そこに作家意識が欠如したものを健全な美と評価する動きである。

 明治期は小堀遠州の洗練された貴族趣味と文学性が評価され、「きれいさび」と言う華美なることを避けながらも、瀟洒な美を求めるものや、書家であった松花堂昭乗の八幡名物などが高く評価される。
 昭和前期には岡倉天心の『茶の本』が翻訳され、千利休の「わび」がナショナリズム(日本礼賛)で見直される。戦後は千利休の前衛性も評価される。
 近年では古田織部の復権があり。力強く歪んだ形状、軽妙、へうげものという概念が見直されている。

 茶道具作家も明治期には千家十職の家も苦労し、永楽家は輸出陶器も作る。千家茶道が女子の学校茶道教育に力を入れたことで、永楽家の華やかな陶磁器も復権する。大正期には美術教育を受けた板谷波山と香取秀真などが茶道具を作るようになる。茶陶をオブジェとする三輪龍作も現れた。

「美意識を磨く」山口桂 著

 著者はクリスティーズ・ジャパンの社長とのことである。だから美術オークションのこと、その準備も含めての内側や、昨今、高騰している現代美術、著者なりの絵の見方などを書いている。また、そもそも美術品を鑑賞することとはということにも触れている。

 はじめに日本美術特有の言葉の例として「でろり」を書いている。どこか、ぬめっていて妖しい雰囲気を持つ絵をいう。岩佐又兵衛とか甲斐庄楠音、北野恒富の絵などが該当することから書き始める。
 日本の古美術は「用の美」から発生しており、金継ぎなどの割れた陶器の修復方法などがあることなどを記して、日本美術の特殊性にも触れるが、決して世界で受け入れられないものではない。
 欧米人が日本人に聞きたいのは「禅とは何か」「能はどんな舞台美術なのか」などであり、このようなことが語れるのが世界に通ずる。外国人が関心が高い能なども見たことがなければ国際人としていかがなものかとも書いている。

 絵画の基本は「見て、心が揺さぶられる」ことであるとして、自分の好きな絵や画家を見つけることから、自然に目もついてくると書く。
 そして著者自身の経験を書いている。浮世絵研究家の息子であり、また映画が好きだったこと。画家もアウトサイダーの画家に惹かれていたことなどである。
 展覧会に出向いたら、一部屋を見終わるごとに、この中でどの絵が好きかを見極め、それを再度見る。それでも気になったら図録を買うという見方をしていると記す。

 古美術もかっては現代美術だったことを思い出して、現代美術を見る。
 基本的な礼儀を身につけることが美術を持っている所蔵家のもとに出向いた時にも役に立つとか、真のグルメはB級もA級と同様にわかるはず。ともかく良いもの、本物を見ることの大切さを強調している。
 日本美術の中には工房作もある。名品は人が選ぶという面もあるが、名品の方から持つ人を選んでいる面もある。
 日本美術の特色として用の美、間(空白、余白)の文化があり、武具甲冑を除けば非マッチョな文化が多く、繊細でもある。 日本美術の佐竹本の物語や竜安寺のふすま絵の物語などの名品流転の物語も書いている。
 オークションの内幕にも触れ、開く場所選定の大切さ(ex中国人は派手だからニューヨークの方が値が飛ぶ)などの話や、お金のある場所にアートは集まるとか、人目に触れていないものは値が飛びやすいことなでである。その下調べの大変さも著者の経験談も入れて記している。バンクシーの絵がオークション後に額に仕掛けられたシュレッダーで切断されたのも、オークション会社は当然に調べて知っていたと書く。
 若冲の大収集家のジョープライス氏のこと(研究家にオープン)なども書いている。
 投資対象と考えるよりも自分の気に入ったものを長く手元で楽しむことの大切を書く。
 現代画家は意識高い系でないと難しい(狙いを持って作画する)。
 現代は美術館の建物自体も評価の対象になる。観光地になる。日本美術は住居の洋風化がある。西洋の用の美とは無関係な鑑賞に近づく。

 欧米と違って、日本の公的美術館は、所蔵品の入れ替えが進まないことや、美術館のキュレーターは欧米では社会的地位が高いが、日本では低いことなどに問題意識を持っている。
 また日本は厳しい批評が無い文化であり、これが芸術家を成長させない。

プロの絵の厳密な見方(検分)を書いている。それは素人のとは違う。

 最後に、具体例で個別に著者なりの鑑賞を記している。取り上げているのは尾形光琳の燕子花図屏風、ゴッホの糸杉と星の見える道、運慶の世親菩薩立像、大井戸茶碗の十文字井戸の須弥、歌麿のポペンを吹く娘、アンディ・ウォーホルのマリリンの版画などである。
 そして著者独特のコメントを付けた美術館ガイドが付いている。

「市川の文学 散文編」市川市文学プラザ編

市川市に住んだことがある作家-幸田露伴、永井荷風などの文豪から一般には知られていない作家まで50人以上の文章が掲載されている。作家とは言えない日本画家の東山魁夷、ミュージシャンのさだまさし、冒険家の星野道夫などの有名人の文章もおさめられている。
 もちろん、全文ではなく、市川市の場面が登場する箇所をピックアップしてまとめたものである。ちょっと調べ物をしている関係で読んでいる。
 そして、市川が登場する場面と言っても地名と簡単な風景描写であり、それも昔の風景描写であれば、どの田舎にもあるような風景であり、最近の市川の風景では、どの通勤地にもあるような風景である。
この中から井上ひさしの文章を引用する。
「わが町 市川」(『聖母の道化師』より)
 江戸川に沿ってはるか彼方へと続く照葉樹林や、雑木林、市街地に点在する黒松林。あそこには、水と緑がある。それになによりも東京の中心からは遠く不便である。悪友連も寄りつくまい…。家人に相談すると二つ返事で賛成してくれた。下町育ちの家人には、<市川は、下町の問屋の主人たちの別荘のある所。したがって高級住宅地>という思い込みがあったようである。
 ところで市川市の代表的な樹木は、筆者が車窓からちらと見て惹かれた黒松であるが、この黒松がじつはわが町市川の象徴といい得る。江戸期、江戸八百八町の門松をすべて市川がまかなっていた。その名残が黒松林なのである。市川には果樹や畑が多いが、これまた江戸市民をあてこんだもので、とくに梨、桃、瓜、西瓜、芋、大根、茄子などには定評があったらしい。それに行徳塩も忘れてはならないだろう。つまり江戸あっての市川というわけだが、江戸とこの主従関係は、いまだに生きている。(井上ひさし)

「日本中世への招待」呉座勇一著

歴史と言うと政治史が中心だが、この本は中世(平安末期から戦国時代)における日常の生活、文化、信仰などを、最近の研究成果を取り入れて、わかりやすく紹介された本である。専門書の紹介も巻末にあり、入門書としては良い本である。
大きく第1部が「人生の歴史学」として中世における「家族」「教育」「生老病死」を様々な視点で書いている。第2部が「交流の歴史学」で(旅行、宴会、遊戯等)である。
 まず中世は氏から家への転換が起きたことを記している。はじめに女性天皇のことに触れ、古代は近親婚が多く、母親の血も重視されて、母が皇女の方が天皇になりやすかったと書く。大友皇子は母の身分が低くかった為に、天皇にふさわしいのかとの疑問、不満も壬申の乱の一因であるとする。また女性天皇は中継ぎでもなく、自身の政治的意思を発揮していることを指摘している。推古天皇の遣隋使派遣、律令国家の基礎を気づいた持統天皇を例としてあげている。
 氏単位で氏神を祭り、長が氏上として天皇を支える。しかし律令国家になると律令官人が支えるようになり、氏の役割が小さくなる。また古代は父から子へという継承もできていなかった。それが中世になると家を男系の嫡男が継承することが基本になる。家の永続が大事になる。家は公的な組織(貴族が家の職能を蓄積)という側面も持つからである。
 結婚も古代は妻問婚(妻の家に行く。同居しなくてもよい)で婿取婚が、中世になると嫁取婚になる。源義経の嫁取婚は検非違使になった後に、河越重賴の娘と結婚するが、頼朝が周旋したものである。新婦の母方の祖母は頼朝の乳母を務めた比企尼で頼朝が流人時代に世話になる。新婦の母親は頼朝嫡男頼家の乳母である。頼朝は義経を頼家の藩屏にする意図があったのではないかと推測する。だから頼朝は義経の検非違使就任に不快を示したという説は違うとする。
 「夫婦別姓・夫婦同名字」が基本。中世の財産相続は分割相続から嫡子単独相続になっていく。分割すると1人あたりの財産がどんどん減るからである。もちろん女性にも化粧料として譲ることはあった。この場合はその女性が死んだら戻すことになる。
 中世の武士の大半は字が読めず、書けず、出来ても平仮名という者が大半。識字能力が高まるのは室町期以降。武家の教育は規範を教える道徳教育であり御成敗式目なども習う。和歌や中国の貞観政要も読む。寺での教育が基本。禅僧が朱子学を教える。禅宗は実学志向があり、生活の全てが禅の修行であり、顕密寺院ほど身分社会ではない。
 関東の足利学校は14世紀後半に鑁阿寺で起こるが、衰退し、関東管領上杉憲実が再興する。仏教を排除し、儒学関係(易学も含む)に限定する。
 14世紀半ばの教科書でもある『庭訓往来』は手紙文中心で実用に役立つ。狂言に九九が前提のような演目があるから、庶民もかけ算も習っていたと考えられる(ただし九九は万葉集にもあり平安時代の幼学書『口遊』にもある)。
 日本でも唐を手本に大宝律令で3歳以下(黄)、4~16歳(小)、17~20歳(中)、21歳~60歳(丁)、61~65歳(老)、66歳以上(耆)として税を取った。
 医療は漢方である。切開手術ができないから、医学の本流とは見なされずに外科という名前になっている。

 中世の宴会とか接待は今と同様である。ただ酒にたかるのがいれば、宴会つきあいを苦痛に思うのもいる。中世から寺社めぐりの観光はあった。中世の旅行としては島津家久の上京日記があり、紹介されている。この日記で印象に残るのは関所(私的)の多さである。

「もうひとつの応仁の乱 享徳の乱 長享の乱」水野大樹 著

本のタイトルの通り、関東の大乱である享徳の乱と、その後の長享の乱について書かれた本である。応仁の乱の少し前に、乱の構図は応仁の乱と同じようなもので、上は鎌倉公方の足利家、そして関東管領の上杉家、それから関東各国の守護家が御家騒動に絡んだ戦争状態になった事態である。後半には各家で下克上的な動きが生じてくる。この乱で、鎌倉公方と関東管領が解決していた領土問題を国人たちはそれぞれが自力で解決しなければいけなくなる。そして合戦。戦国乱世になる。国人層の力を強めることになる。

そういう争いだから、同じ名字の者が敵味方になったり、途中で寝返ったりでわかりにくい。加えて関東、特に武蔵~北関東での戦いで、地名にもなじみがない。

まず上杉禅秀の乱というものが起こる。鎌倉公方足利持氏が関東管領に山内上杉の上杉憲基を就任させる。そして足利持氏は、それまでの関東管領犬懸上杉家の上杉氏憲が持氏の叔父足利満隆と組んで持氏の実権を奪おうとしていると警戒したことから始まる。これに上杉氏憲(禅秀)が応永23年(1416)に反旗。京都の第4代将軍足利義持は上杉氏憲の討伐を決め周辺の守護も動員されて氏憲は自害。鎌倉公方と関東管領の争いだから、関東各地の守護、国人はそれそれに味方して相争う。

反・持氏で上杉方だった宇都宮家、山入家、小栗家、真壁家、甲斐武田家、那須家は幕府と直接主従関係を結んでいた京都扶持衆であり、幕府は処分が出来なかった。そこで足利持氏は不満を持ち、自ら討伐に出向き、幕府との関係が悪化する。足利持氏は応永30年に越後守護の上杉頼方と守護代長尾邦景が武力衝突した時にも足利持氏は介入する。
足利4代将軍義持が死去、5代義量はすでに死去していたので、後継は6代義教がくじ引きで選ばれる。これに足利持氏は不服だった(義持の猶子であったので)。

この後も持氏は自分に反旗を翻した京都扶持衆を滅ぼしていった。将軍義教と持氏の間を取り持っていたのが関東管領山内上杉憲実だった。
永享10年(1438)に対立は決定的となり、持氏は兵を挙げ、幕府も憲実側に立って持氏討伐を命じた。3ヶ月で持氏は敗北。これが永享の乱である。

持氏はそれほどの暴君でもなく、慕う武将はいた。上杉憲実が引退・出家。そこで関東で紛争を解決する人物がいなくなる。特に所領を巡る争いは自分たちで解決すべく、紛争が勃発する。足利持氏の遺児が岩松持国に擁せられて兵を挙げる。結城氏も味方するが結城城は陥落する。遺児3人の内、2人は殺害される。ここで京都では足利義教が赤松に殺される。

鎌倉公方、関東管領の空位は続き、文安4年(1447)に足利持氏の遺児成氏が鎌倉公方に就任。文安5年(1448)に関東管領は上杉憲実の嫡男憲忠が付く。
享徳3年(1454)に、関東管領上杉憲忠が足利成氏に殺される。上杉家の家宰長尾景仲と扇谷上杉家の家宰太田道真が主導して足利成氏を襲う。成氏は江ノ島に逃れる。由比ヶ浜で戦い、成氏側が勝つ。和解を持ちかけるが、うまく行かず、幕府に裁定してもらう。幕府は、以降は関東管領を通して申し出るようにと足利成氏に伝え、政治的には上杉側の勝ちとなる。
上位権力は京都の足利将軍義政である。当時の関東の守護は武蔵と上野が山内上杉、相模が扇谷上杉、下野は小山、常陸は佐竹、下総と上総は千葉である。
他に下野に宇都宮、那須、下総に結城、上野に岩松、武蔵に豊島、相模に三浦などの有力武家がいた。
序盤は成氏側が分売河原の戦いでも勝つ。成氏は戦線を拡大して下総古河を拠点とし、以降古河公方と呼ぶ。
鎌倉を両上杉軍が落とすと、成氏側の武将に動揺をきたし、有力守護の宇都宮家と千葉家が分裂する。
1年経つと戦線は膠着状態になる。山内上杉家は五十子城(いかつこ)を拠点とする。

一連の戦いでは、扇谷上杉の家宰太田道灌が活躍する。
京都から新たな鎌倉公方として足利政知(8代義政の異母弟)が来るが伊豆の堀越にとどまる
堀越公方と言われる。そして本格的に足利成氏の討伐に乗り出す。しかし堀越公方が両上杉の領地の兵糧米に口を出し、関係が悪化する。京都から政知と来た犬懸上杉教朝(上杉禅秀の子で京都に逃れていた)が両上杉と政知との板挟みで自害する。
このうち山内上杉の家宰の長尾景仲が死去。当主の上杉房顕が31歳で死去。男子がいなかったので後継が決まらない。幕府の意向もあり、越後から上杉顕定が入って家督を継ぐ。

北関東は相変わらず戦いが続いていたが、小山家が成氏側から寝返る。成氏は劣勢になって一時的に古河を去るが、下総に逃れた成氏はそこで勢力を盛り返し、古河城を奪い返す。足利の戦いでは成氏は負ける。
京都の応仁の乱では山名宗全、細川勝元が死去する。山内上杉家の家宰長尾景信が死去。この家宰を巡って争いがある。惣社長尾家の長尾忠景が就任したが、景信の子の白井長尾家の長尾景春は30歳で、この決定に不満を持つ。
この後扇谷上杉の当主上杉政真が22歳で戦死。子がいないから叔父の定正がつく。

太田道灌が駿河に出兵している隙に、長尾景春が裏切って五十子城を攻め落とす。
この後は長尾景春が足利成氏と結んで、太田道灌との戦いになり、伊豆の方では今川家にいた伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)が動き出す。
文明9年(1477)に両上杉と足利成氏の間で和睦が成立。京都では応仁の乱も終わっている。
しかし、両上杉家と長尾景春との戦いは続く。太田道灌の活躍で豊島家は滅び、景春は劣勢となる。足利成氏も景春を見限る。千葉氏も道灌が滅ぼす。長尾景春の乱も集結。
文明10年(1478)に幕府と足利成氏が和睦して享徳の乱が終わる。


文明15年(1483)に千葉家が上総武田家を味方にして、道灌に奪われた臼井城を奪いかえす。道灌は上総武田氏の長南城を落とす。
扇谷上杉の当主上杉定正が家宰の太田道灌を殺害する。太田家のものは山内上杉に逃れ、両上杉が対立するようになる。
長享元年(1487)長尾景春は扇谷上杉について戦う。長享の乱である。緒戦は山内上杉が勝つ。河越と鉢形の間の須賀谷で両上杉がぶつかる。引き分け。5ヶ月後に武蔵髙見原で激突。これも決着はつかない。一度、講和。

伊豆の堀越公方家で後継問題。政知が延徳3年(1491)に死去。長男茶々丸と異母弟の潤童子の争いになる。政知は潤童子を後継にしていたが茶々丸が潤童子を殺す。そして伊勢宗瑞が堀越公方を追放。
その後、北条早雲は扇谷上杉と同盟して武蔵に侵攻。上野国の岩松家に下克上が起こり、家臣が反乱する。
足利成氏も明応6年(1497)に死去。
伊勢宗瑞は茶々丸を殺す。伊豆は伊勢宗瑞のものになる。一度は伊勢宗瑞という共通の敵の為に両上杉は和睦したが破綻し、扇谷上杉は北条早雲と組んで立河原の戦いで勝つ。伊勢、今川軍は去る。その後、扇谷上杉が山内上杉に降伏。18年の長享の乱は終結。

佐野市立吉澤記念美術館

今回の展示は「画面のモンダイ」というテーマで、絵画、陶芸作品の画面と、その中に作家が、どのような意匠で作品を落とし込んでいるのかを見せているが、特に突飛な画面のものがあるわけではなく、平常展の延長と感じた。

伊藤若冲の「菜蟲譜」が展観されていた。今回、感じたのは若冲は優れたカラリストぶりである。この巻物は暗いバック(褐色系がチャコールグレーに混じっているような色)に野菜や果物を画いているので、これまでは若冲の他の作品に比して、地味な絵と思っていたのだが、今回、よくよく拝見すると、野菜、果物の色が実に美しい。有名な「動植綵絵」は絢爛豪華で、若冲の色遣いの妙がわかりやすいのだが、この絵にも、その片鱗は出ているのだ。

また茄子とか筍は、そんなに丁寧に画いておらず、そんなに上手ではない。少し気楽に画いた巻物なのだろう。

他に富士山を描いた額装の絵で、作者は塚原哲夫という人だと記憶しているが、力の入ったいい絵ですね。題材と画のイメージは、よくある富士山なのだが、力の入った良い絵だと思う。
坂口一草という作者も、世間的には有名ではない日本画家であるが、「牡丹」の掛け軸の絵も凄いものだった。日本画でも、これだけの遠近感を出せるものなのだと感心した。

山本茜という人の源氏物語のイメージをガラスの中に截金で表現した作品も面白いです。作者の思いが強く籠められている感じである。

この美術館は板谷波山の良い作品があるが、今回、茶褐色の釉薬をかけた平茶碗を拝見する。いつものイメージの板谷波山ではなく、認識を新たにした。。