「司馬遼太郎全集7 幕末」 司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集7に収録のもう一編である「幕末」である。幕末に生じた暗殺事件を12取り上げている。当初は「幕末暗殺史」というタイトルで発表されたようだ。司馬遼太郎はこれらの物語を書く中で、運良く維新後まで生き延びた人物にシニカルな目を向けている。三流が生き延びて、栄爵を受けたという感じである。

冒頭は「桜田門外の変」である。水戸藩以外から参加した薩摩藩士有村治左衛門兼清が主人公である。薩摩藩と水戸藩のつながりとして、日下部伊三次の遺族が登場する。日下部は元薩摩藩士で、事故で脱藩し、水戸領高萩で私塾を開いていた。水戸の烈公に知られて、水戸藩士になる。日下部は水戸と薩摩の接着剤の役目をつとめる。日下部は安政の大獄で捕まり牢内で衰弱死する。長男も牢死し、未亡人と娘が残されていたという設定で、その娘と有村との恋愛が描かれる。本懐を遂げて有村は死に、後に娘は有村の兄の俊斎と結婚する。日下部家の原姓の海江田を名乗り、維新後海江田武次として子爵になる。
司馬遼太郎は暗殺は嫌いだが、桜田門外の変は時代を変えた暗殺事件と評している。生き残って栄爵を受けた海江田武次への皮肉も感じられる。

「奇妙なり八郎」は新撰組の母体となる浪士団を結成して京都に出向き、奇妙な動きをした清河八郎が見廻り組の佐々木に暗殺された事件である。清河八郎(庄内の豪農出身)の所持する無銘の兼光は剣相術でいうところの七星剣で、持ち主は王者になるという卦があり、それに影響されたように清河は行動して、斃されるという物語にしている。

「花屋町の襲撃」は坂本竜馬を暗殺された海援隊が陸奥宗光をもとに仇討ちをする物語である。十津川郷士の中井庄五郎(居合の達人)に参加を求め、はじめは新撰組原田左之助を狙い、その内、船舶の衝突事故で竜馬に苦汁を吞まされた紀州藩の三浦休太郎が黒幕と思い込み、襲撃する。三浦は新撰組に守られていて、襲撃は失敗する。

「猿ヶ辻の血闘」は会津藩から密偵の役割をもらった藩士大庭恭平は、薩摩の人斬り田中新兵衛と知り合う。新兵衛は深酒をしていた時に姉小路公知の用心棒の吉村右京と私闘があり、苦汁をなめていた。姉小路少将は勝海舟に出会い、過激な攘夷論から脱却しつつあった。それを過激派浪士は許せないとなり、御所の猿ヶ辻で襲撃し、そこに田中新兵衛の刀の鞘を置き忘れたように工作して、新兵衛は取調中に自害する。薩摩藩離間工作である。

「冷泉斬り」とは絵師の冷泉を過激派浪士が襲う事件である。絵師の妻が美貌であり、暗殺者たちとそれを護衛する側の者が、冷泉の妻との絡む中で、物語を進めていく。

「祇園囃子」は十津川郷士の浦啓輔が主人公で、彼は郷里を出奔する前に、師の娘とできてしまう。京で土佐藩士山本旗郎と知り合い国事に奔走する。長州藩の意を受けて山本は、水戸藩の勤皇の論客住谷寅之介を斬るように浦に持ちかける。暗殺後に、浦は後味の悪さと、京都に自分を追いかけてきた師の娘(懐妊した)が嫌で京都から出る。山本は京にいたために殺害犯と知れる。明治になり、住谷の息子2人が山本旗郎を仇討ちで斃す。浦は早くに京都を離れた為に、下手人とは思われずに維新後は横浜の貿易商の手代となる。

「土佐の夜雨」は吉田東洋暗殺事件である。暗殺者の一人那須信吾と吉田東洋との出会いから、東洋に下横目として使われていた岩崎弥太郎を登場させて、物語に膨らみをもたせて記述している。

「逃げの小五郎」は但馬出石に潜伏した桂小五郎の潜伏生活ぶりを出石藩堀田半左衛門と出会いから書きはじめ、京都の池田屋事件、蛤御門の変の時の桂の逃走ぶりを芸者幾松(後の木戸孝允夫人)も登場させて描写していく。維新後は桂(木戸)は光彩が無いと司馬は皮肉的に書く。

「死んでも死なぬ」は英国公使館焼き討ち事件を起こした伊藤俊輔と井上聞多のことを描き、特に女好きで、どこでも糞をするような聞多の生命力の強さを描いている。聞多は明治期に大汚職事件を起こし、テロリストの伊藤博文は初代内閣総理大臣である。

「彰義隊胸算用」は彰義隊に参加した寺沢新太郎を主人公にして、天野八郎、渋沢成一郎をそれぞれ首領に仰ぐ派との彰義隊内の対立と、彰義隊と言っても江戸のゴロツキの集まりのような実状を描く。寺沢は天野派である。彰義隊の首領もそれぞれが百姓上がりであり、幕末の旗本・御家人は黒門口で戦死した大久保老人以外は腰抜けが大半だったことも書いている。

「浪華城焼打」は大坂城の焼打ちを企てた土佐脱藩浪士の物語である。もちろん事が途中で露見するのだが、主人公の大利鼎吉よりも脇役の田中顕助(維新後伯爵)が印象に残る。

「最期の攘夷志士」は、その田中顕助が鳥羽伏見の戦いに先立って、紀州藩への牽制の為に高野山で部隊を展開させる。その隊の参謀格に昔から攘夷の最前線で活躍していた三枝蓼、朱雀操、川上邦之助などがいる。その後、京都に隊は戻る。新政府は攘夷どころか諸外国と結ぶ。これに三枝は憤りを覚える。天皇に謁見する英国公使を三枝らは襲い、失敗して極刑を受ける。攘夷の主義から開国に転じた田中光顕のような者が爵位をもらい、妾を侍らすのが明治政府。

全て小説だから、どこまで真実かはわからないが、維新で生き残って栄爵を受けた志士は三流という司馬遼太郎の史観が出ている。

「神田日勝 大地への筆触」展 於東京ステーションギャラリー

神田日勝の展覧会は一度、観てみたいと思っていた。コロナ騒動も一段落して、入場制限はあるものの東京ステーションギャラリーで開催される。この美術館は私好みの企画が多く、好きな美術館だが、展示スペースが複数階に別れているのが難である。私は一通り観た後に、気になる絵に戻って観るから、階がまたがる場合は不便である。
32歳で夭折する北海道鹿追町の農業をやりながら画業に励んだ画家である。画題は自画像の他に、農耕馬、牛、風景や働く人が多いが、これらは黒褐色から茶褐色のような暗い色合いの絵が多く、重たい。

一方というか、ある時期には鮮やかな色彩を使って空想上のアトリエを描いたものやフォービズムのような鮮やかな原色で抽象化した人体を描いたものなどもあることを知る。色彩鮮やかな絵などは本当に描きたいものだったのだろうか、あるいは自分の殻を破りたいという試行的な作品なのであろうか。私は後者のような感じを懐く。色彩鮮やかな絵の中には彼が持つことが叶わなかったアトリエや、各種食料品などが描かれているから、彼の願望を表現したのかもしれない。

展示されている作品は大作(ベニア板に描く)が多い。これらは展覧会への出品作として描かれたものだと考えられ、確かに力作である。風景画は手頃なサイズのものが多い。こういう絵は地域の人などに購入されたものなのであろう。売り絵と片付けられないような感じのよい風景画もある。北海道の大地である。

ペインティングナイフで、馬の体毛や人物の肌、壁面の石材、木材などを描いていく作品は迫力がある。ペインティングナイフをどのように使用したのか私にはわからないが、馬の剛毛や石材の表面など迫力がある。馬はサラブレッドではなく、ズングリとした農耕馬である。農機具やソリを引く労働に使役されたために腹の一部に毛が擦り切れているところなども描かれている。
死んだ馬を描いた絵には感動した。作者の馬への愛着が感じられる。

最期の馬の描きかけの絵(半身像だけで他はベニア板のまま)や、新聞紙の紙面を細かく描いた壁面を背景に、膝を抱えてうずくまる自画像など代表作とされるものも展示されている。

神田日勝が影響を受けた画家として、兄の神田一明(東京芸術大学に学ぶ)や帯広で活動した寺島春雄や、北朝鮮の帰還事業に参加して消息を絶った曺良奎(チョヤンギュ)、海老原喜之助、海老原暎、北川民次の絵も展示されていた。「なるほど」と思った。
曺良奎(チョヤンギュ)の作品は洲之内徹の本などで知っていたが、現物ははじめてであり、惜しい画家だ。(北朝鮮帰還事業に参加し、現地で消息を絶つ)

「明治の金勘定」山本博文 監修

 私は拙著『江戸の日本刀』で幕末の刀価を現代価格に換算したり、刀の雑誌で「刀剣販売カタログ「日本刀 現存の優品」の分析」として、戦後落ち着いてきてから現代までの刀価格を、インフレも加味して取りまとめてきたが、昔の価格を現代価格に置き換えるのは苦労する。

 明治時代も、初期の文明開化の時代から明治末年では開国や幕藩体制の崩壊によるインフレや、生活習慣の洋風化という劇的変化や、急激に進展する技術進歩があり、難しいだろうと思うが、さすがに山本先生である。わかりやすくまとめられている。

 私も苦労したが、個別の物価で現代と比較すると、その物の当時の人気、稀少度や、その後の生産・製造技術の進歩や、政府の統制などの影響を受けて、マチマチの換算率になる。地価などは交通事情の変化や、人口の増加などで大きな影響を受ける。

 そこで、当時の人の収入ベース(諸品を購入する原資=生活をする元となる)を現代の収入ベースで比較するのが、一番妥当と思う。この本では明治30年代の公務員給料を基本にして現代価格と比較している。この公務員給料は約2万4千倍になっているが、2万倍になったとするのが妥当として換算している。すなわち(1円=2万円、1銭=200円、1厘=20円)である。

 本は「序章.波乱の船出を乗り越えていく明治新政府」「1章.文明開化の新しい味覚」「2章.急激に変化した明治の生活」「3章.収入格差が激しい大変革」「4章.教育に力を注ぐ新政府」「5章.新時代で遊びも多様化」「第6章.金が絡んだ明治の事件」に別れている。

 「序章.波乱の船出を乗り越えていく明治新政府」では、幕末に欧米と日本の金銀の価格差から金が大量に流出したことを受けて、幕府は安政7年に天保小判1枚を三両一分二朱などに置き換えて万延小判を発行して、それを抑える。ただし国内ではこれまで金の4分の1の価値の銀が12分の1になったのでインフレが加速する。大坂で米価は約11倍になり社会不安を加速する。また幕末は各藩が藩札を刷ったり、贋金が生まれたりして混乱したことを記す。
 新政府は明治4年に一両=一ドル=一円にし、純金1.5グラムを一円にする。円の百分の一を「銭」、銭の十分の一を「厘」とした。明治30年に日清戦争で清国から得た賠償金2億3千万両(テール)が入って安定する。

 「1章.文明開化の新しい味覚」では当時の諸品が明治になって日本で登場した経緯を説明して、その当時の価格を記しており、食物の起源としても面白い。「2章.急激に変化した明治の生活」では鉄道、電報、自転車などの江戸時代にはなかったものの価格だ。
 例えば牛肉百グラムの明治26年の価格が3銭6厘(現代価格で約720円)で、幕末から町のごろつきや緒方洪庵の適塾の書生が食べていたが、幕末に来日した外国人は香港やアメリカから輸入し、文久2年に横浜で「伊勢熊」、慶応元年に江戸神田で三河屋が提供。新政府は肉食を奨励し、明治4年には明治天皇が牛肉を食べる。料理屋がスキヤキなど日本人の口に合うように工夫して広まることが記されている。
 郵便制度が始まるが、切手は4匁まで3銭だから、現代価格では600円だ。自転車は現代価格では約400~500万円もしたようだ。

 「3章.収入格差が激しい大変革」では、当時は身分制の名残があり、収入格差は地位によって学歴によって非常に大きかったことを説明している。総理大臣の年俸が約2億4千万円、国会議員が約4000万円、帝大出の高級官吏の初任給月給が約100万円に対し、巡査の初任給は約18万円、二等兵の給与は1.8万円。
「4章.教育に力を注ぐ新政府」は学費、楽器、書籍などを比較している。
「5章.新時代で遊びも多様化」では動物園の入園料、歌舞伎、大相撲、ホテルの料金比較だ。妾の手当などもある。
「第6章.金が絡んだ明治の事件」では井上馨の汚職などだ。

「司馬遼太郎全集7 新撰組血風録」 司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集7には「新撰組血風録」と「幕末」が収録されている。「新撰組血風録」は子母沢寛の「新撰組始末記」を意識したのだろうが、新撰組隊士にまつわるエピソードを書いた短編が15編収められている。
「血風録」とあるが、各編の内容は殺伐としたものだけではない。

刀に関する短編も「虎徹」と「菊一文字」の2編が収められている。前者は近藤勇の愛刀で、池田屋事件で名を馳せた虎徹は実は偽物だが、後に大坂の豪商鴻池家から貰った本物の虎徹を佩用した時より、偽物佩用時の方が運が良く、しかもよく斬れる。近藤は虎徹は斬れる方が本物だと言ったようなことが書いてある。
「菊一文字」は沖田惣司を気に入った刀屋が鎌倉期の名刀:備前国一文字派の則宗を沖田に預ける。沖田はこの気品に圧倒されて、襲われた時に刀を抜く気がしなかったが、この賊が沖田の部下を殺害したことで、則宗で斬るという物語である。
共にあくまで小説である。

「油小路の決闘」では新撰組から後に分離した伊東甲子太郎一派の御陵衛士に参加することになる篠原泰之進を主人公に書いている。伊東のように政治的な動きをしない古武士的な篠原がひょんなことから新撰組の隊規に反することをし、それが心の重荷になって伊東派に入り、伊東が暗殺された油小路でも生き延びて明治まで生きる。

「芹沢鴨の暗殺」は芹沢鴨の性格、態度と、彼を暗殺して主導権を握る近藤らの暗殺事件である。
「長州の間者」は長州藩に父祖が縁ある浪人が竹生島で出会った女の縁から長州藩のスパイとして新撰組に入隊する。新撰組における長州のスパイは、他にもいるようだが、誰かはわからない。池田屋事件の前に露見し、思いも寄らない他のスパイとともに殺される物語である。

「池田屋異聞」は池田屋での探索に任じた監察の山﨑烝が赤穂藩で卑怯者とされた奥野将監の子孫であることをひょんなことから知り、攘夷浪士大高忠兵衛(赤穂浪士大高源吾の子孫)と因縁に絡んだ対決をする物語である。
「鴨川銭取橋」は一時は近藤勇に信頼された武田観柳斎が薩摩藩と通じたことで粛清される話である。
「前髪の惣三郎」は新撰組内の衆道(男色)を巡る争いを書いた物語である。
「胡沙笛を吹く武士」は奥州南部藩出身の隊士鹿内薫のことで、勇敢に戦う男だったが、所帯を持ってから臆病風に吹かれるようになった人情の機微を書く。

「三条磧乱刃」は芸州浪人の国枝大二郎が新撰組に入隊し、そこで新撰組古参の井上源三郎と出会うことで井上の人柄を描写していく。2人はともに剣術は大したことは無く、その稽古を外部からの侵入者に見られ、嘲笑されたことで2人で探索して戦う。
「海仙寺党異聞」とは、新隊士の長坂は会計方に配属されるが、同じ甲州出身者の中倉が隊内にいることを知る。中倉には情婦がいて、その情婦は水戸の赤座という浪士とも密通していた。現場で中倉は赤座に切りつけられ、士道不覚で切腹となる。長坂が介錯を行い、その後、中倉の仇討ちをするはめとなる。水戸藩の京都での宿舎海仙寺にいた赤座や過激派を斬る。水戸藩との後難を恐れた土方は、長坂に金を渡して脱走させる。長坂は長崎で医術をおさめ、明治になって広沢一豊と名を改めて繁昌した。

「沖田総司の恋」は沖田の労咳を治療した医師の娘との恋に落ちた沖田の話である。土方は気が付き、近藤にも伝え、嫁にもらうように近藤は行動する。沖田は自分の病気で長くないことを知っており、土方、近藤のお節介を迷惑に思う。
「槍は宝蔵院流」は槍の師匠として入隊した谷三十郎と、その息子で実は備中松山の板倉家の血筋を引く男にまつわる話である。導入部に隊士斎藤一とのエピソードを入れる。近藤は、この貴種を養子にして近藤周平と名付ける。谷三十郎も近藤の縁戚になったことで威張り、隊士に嫌われる。池田屋事件後に2人は疎まれ、周平は離縁され、谷三十郎は土方の意を受け斎藤一によって粛清される。

「弥兵衛奮迅」は薩摩藩浪人の富山弥兵衛の話である。伊東甲子太郎が富山が私闘して腹を切ろうとしている時に出会い、勧誘する。富山も薩摩藩の新撰組内の密偵的役割を担うことで入隊する。
薩摩言葉しか話せないと思っていた富山がわかりやすい言葉で奥州出身の隊士と話しているのを土方が聴き、監察に探らせて、粛清することになる。粛清に出向いた武士が斬られ、富山弥兵衛は逐電する。その後、伊東は新撰組から御陵衛士として抜け、弥兵衛も参加する。油小路でも戦い、その後の戊辰戦争では薩軍の一人として戦うが北越戦争で奮迅の末に戦死する。
「四斤山砲」は新撰組が会津藩から借用した大砲を出羽浪人大林兵庫(永倉新八と知り合い)と称して入隊した者が助言して射程は伸びる。実は強い薬を入れただけで、砲を痛めるのだが、幹部は知らない。会津藩で砲術を習って、これまで責任者だった隊士阿部十郎は黙っているが、隊士間の中で、大林の評判は悪くなる。その内、大林の経歴詐称がわかる。象牙職人の息子だった。阿部は伊東一派に奔り、伊東が油小路で暗殺されてからは薩摩藩を頼る。鳥羽伏見の戦いで、阿部は薩摩軍の大砲陣地で新型の四斤山砲を担当し、新撰組の大砲陣地の大林の狼狽振りを見ながら、破壊する。

「日本史の謎は地政学で解ける」兵頭二十八 著

 視点に面白いものがあるが、多くの視点を取り上げているので、説明が不十分なところがあり、別の観点から反論することもできるだろう。断片的に日本史上の事象を捉えており、体系的ではない。軍事、防衛に詳しい著者のようで、その観点から日本史を眺められているとも感じる。
 次のような論が述べられており、「なるほど」と思うものもある。

 瀬戸内海を一本の運河とすると、大阪湾に注ぐ淀川の下流はターミナル船付場となる。淀川は流れがゆるやかで、遡れば山﨑、伏見に行ける。伏見には巨椋池があり、そこに京都から鴨川、琵琶湖から宇治川、伊勢の鈴鹿山系から木津川、丹波から大堰川(桂川)が流れ込む。非常に便利なところ。

 大和盆地は周りが山でそこから緩やかな傾斜地になって、農地が得やすい場所であった。ここから東国に行くには鈴鹿関、美濃の方に行くと不破関が要地であった。

 鎌倉は京都だけでなく、東北平泉の藤原氏を見張るのにも良い場所。また守りやすい場所。
 東国出身の足利幕府は、西国の武将と奈良にいる南朝の残党に対処する為に京都に幕府を置く。
 信長の安土は、琵琶湖の海上ネットワークと、後背地の自身の基盤の美濃・尾張(同盟の家康の三河・遠江)を控え、これから討伐に向かう西国を睨んだ場所。
 秀吉の大坂は、南蛮船の貿易を考え、自身の明・朝鮮征伐の拠点。
 家康の江戸は開発余地が大きく、江戸湾によって水運の便も良い。(ただし江戸湾の構造からペリ-の艦隊に入口を抑えられるとパニックになる)
 明治の東京は、対外的に徳川幕府を引き継ぐ政権をアピールする必要があるので、ここに都を遷都した(蝦夷政府を諸外国に認めさせないということ)。(大名屋敷、武家屋敷の空きが多く、新政府設立にも便利だったのでは?)
 明治期の大坂は大村益次郎の助言もあり、西(薩摩、九州)の蜂起に備える軍都となる。

 古代の継体天皇までの間は奈良盆地では朝鮮半島の三韓からの工作員によって結束は乱れていた。

 東国(奥羽)は日本全体の気候変動に影響される地域である。寒冷化が進むと東北は厳しい。逆に温暖化が進むと東北は力を持つ。平安時代のはじめに東国で乱が多かったのは寒冷化してきた為。

 東海道のボトルネックは新居関(浜名湖)と由井海岸、それに箱根峠。

 長州藩は下関の支配が財力の元であった。瀬戸内海を通る船の通行利権が生まれる。
 薩摩藩は沖縄支配の口実による密貿易で富を得た。

 モンゴルの征服は奴隷的な尖兵を先に行かせる方式で、日本攻めには南宋や朝鮮の人民が使われる。
 攻撃する外国軍は補給を考えて、日本の都市にある倉庫の確保を考える。これで太宰府が狙われる。近畿の都市と違って、太宰府は守る側の日本軍が九州の軍だけしか集結・反撃できない。

 帆船は敵の水面に入っても、風が動力だから、すぐに方向転換して敵水面から脱出するのが難儀である。蒸気船は進退がやりやすく、申し合わせて一斉の艦隊行動もできる。

 日本はロシアから北方と朝鮮半島経由の2方面で攻められると防衛しにくい。だから征韓論。

 広島の宇品港は日清、日露戦争の時の大陸出兵の拠点。大洋に面していないので艦砲射撃がされにくい。また鉄道が通っていることが補給の大前提。

 航空機時代は大圏コースでカムチャッカ半島の上はアメリカとの最短コース。ロシアはエトロフ島を日本、アメリカに利用されるのを厭がる。

「戦国時代の流行歌」小野恭靖 著

戦国時代から安土桃山時代にかけて、高三隆達(たかさぶ りゅうたつ)という堺の人物が隆達節という歌を流行らせた。その歌を紹介し、それが後世の俳句や文学などへどのように影響を及ぼしているかを論じている。

隆達節は音曲であるから、本来は節廻しや音程を伴う。それを歌詞だけ紹介しているのであるから、何がいいのかが、よくわからないところもある。隆達は声も良く、歌も上手だったのだろうと想像するしかない。著者は大河ドラマの監修にも携わったことがあるとのことであり、実際の節廻しなどもわかっているのかもしれない。今度、そのようなものを聴きたいものである。

高三(たかさぶ)家は、大陸からの帰化人の劉氏が平安時代に渡来して博多に住す。中国で高三官(こうさんかん)という官を得ていたから高を名乗る。代々三郎兵衛を当主名にしていたので、高三を姓にし、南北朝時代に堺に移住し、漢方薬の薬種商を営む。
隆達は大永7年(1527)に生まれ、慶長16年(1611)に死去。85歳の生涯である。

隆達は堺町人の出だから、当然に堺の有力町衆とも昵懇の関係で、茶道にも嗜みがある。

歌の名手としては、三好長慶(連歌も得意)の配下に松山新介がおり、この者が歌舞音曲に秀でていた。隆達の先駆者である。他にも小笠原監物(隆達と何らかの交流があった武士。尾張国主の松平忠吉の寵臣だが、故あって去り、陸奥の松島に住む。しかし忠吉が死んだ後に殉死)などの関係する人物の逸話が紹介される。

隆達節として多くの歌が紹介されているが、ジャンル別には次の通りで、恋愛の歌が多い。
祝い歌
「君が代は千代に八千代にさざれ石の 巌をなりて苔のむすまで」という古今和歌集の歌)、
四季歌
「花が見たくば吉野へおりやれの 吉野の鼻は今が盛りぢや」
恋歌
「誰が作りし恋の路 いかなる人も踏み迷う」
「寝ても覚めても忘れぬ君を 焦がれ死なむは異なものぢや」
「あたたうき世にあればこそ 人に恨みも 人の恨みも」
無常歌
「うき世は夢よ 消えては要らぬ 解かいなう 解けて解かいの」
「ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ、柳は緑 花は紅」
「世の中は霰よの 笹の葉の上のさらさらさっと降るよの」
「後生を願ひ、うき世も召され、朝顔の花の露より徒な身を」
「会者定離 誰も逃れぬ世の中の 定めないとは なう偽り」
人生観を示す歌
「梅は匂い、花は紅、柳は緑 人は心」
言葉遊び歌
「夏衣 我はひとえに思へども 人の心に裏やあるらん」

後の世に、隆達節の替え歌として、次のような教訓歌も現れる。
隆達節「面白の春雨、花の散らぬほどふし」(風情のある春雨、花が散らぬほどに降ってくれ)
教訓的な替え歌「面白の儒学や、武備の廃らぬほど嗜け」とか「面白の武道や 文事を忘れぬほど好け」

ちなみに織田信長で有名になった「人間五十年……」は幸若舞の「敦盛」の一節で、信長は他に「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ…」がお気に入りで、これは小歌節という音曲である。

阿国歌舞伎にも取り入れられ、江戸時代の本から明治の文豪や昭和の歌人にも引用されているのを紹介している。

「世界史としての日本史」半藤一利、出口治明 著

 日本史の視点に世界史からの考察を入れるとわかりやすくなるというお二人が言わんとするところはよく理解できる。しかし、その例として第二次世界大戦の記述が多くなる。そしてこの大戦については、ヒットラーとスターリンを知ることが大切として、その二人のことがわかる本の紹介として、普通の人は読まないような本を列挙しているのを読むと、この本は何なのかと思う。新書は入門書であろう。

 以下のように面白い話も多い。
●ペリーの黒船来港が捕鯨船の水や燃料補給の為と習うが、アメリカは大英帝国に対抗して中国での権益をとるためには太平洋航路を切り開くことが大切だったとの記述が米の文書にあるとのこと。

●白鳳時代の女帝が多くなったのは、男性皇嗣が幼かったり、病弱だったからと言われているが、中国の鮮卑の女帝や唐の武則天などの東アジアの女帝の流れの一環としてとらえるべきではないか。

●元寇も、モンゴルの軍人の失業対策事業のような感じで諸外国に兵を送っており、本腰を入れていない。

●日本の天皇制が続いたのは天皇に権力が無く、権威だけだったから。それを明治政府が天皇に権力もつけて国を滅ぼすに至る。

●『坂の上の雲』は青年期の日本がロシアの横暴に耐えて耐えて、ついに乾坤一擲の勝負を挑んで勝つというイメージ。この時、ロシアでは革命が始まっていた。日本が革命騒ぎに乗じて満州の権益を得ようとしていたのでは。ただ日露戦争は出口を常に考えていた。

●自尊史観と自虐史観は表裏一体。愛国心が劣等感と結びつくと、攻撃的、排他的になる。劣等感は、日本のここがすばらしいという風潮に振れる。

●第二次大戦での総力戦は永田鉄山は意識したが、他は本当の総力戦がわからなかった。だから生産量が落ちた。一方、ドイツは敗戦時まで生産量は落ちていない。総力戦は軍事だけでなく経済が大事。

●第二次世界大戦のポイントはヒットラーとスターリンの特異な指導者。そして戦争のポイントは圧倒的な力を持つアメリカの参戦。この参戦を引きおこしたのは真珠湾。そして真珠湾攻撃に至る軌跡が日本の敗戦の理由。ノモンハンで陸軍伝統の対露戦戦略が頓挫。

歴史を学ぶ上や、人生における対処の仕方にも、参考になる話もある。
▼戦前の旧制高校の学生は語学を一生懸命に学び、原文で読んでいた。このような教養が大切。

▼「経線思考」がある。例えば負けそうだったのに勝ったと言うと、勝ったことから次ぎに話に移り、どんどん事実から離れていく。これに日露戦争から太平洋戦争に至るまでに日本は陥った。不正の積み重ねを続ける企業と同じ。

▼ともかくリアリズムが大切。これに徹して世界を見る。こういうところに教養が役に立つ。

▼今はアメリカを通してしか世界を見ないと危険である。アメリカは気の弱いところもあり、独りだと不安になる。イギリスはその意味でアメリカの同盟国である。

「司馬遼太郎全集32 評論随筆集」から「竜馬がゆく」あとがぎ 司馬遼太郎 著

「「竜馬がゆく」あとがき」は、全集では別巻に収められている。刊行した時の単行本の数から、「あとがき」は1から5まである。
「あとがき1」では、薩長連合、大政奉還を独りでやった坂本竜馬を書こうと思っていたことを回想し、竜馬が千葉道場でもらった北辰一刀流の免許皆伝の伝書を高知県庁で見たことを記している。

「あとがき2」は日本史が所有している「青春」の中で、世界のどの民族の前に出しても十分に共感を呼ぶのは坂本竜馬の「青春」だと述べている。明るく、陽気で、人に好かれた竜馬だが、ここで凄みのある竜馬の語録をいくつか紹介している。例えば「義理などは夢にも思うことなかれ、身を縛られるるものなり」「衆人みな善をなさば我一人悪をなせ。天下のことみなしかり」などである。

「あとがき3」では家老福岡家の足軽をつとめた家の子孫が、竜馬に出会ったことがある祖母の話を紹介している。そして竜馬が小さい時は水泳が好きだったことや、18歳の時に念力で神を現出するという者を懲らしめた話や、神戸塾の時に広井磐之助という同郷の若者の仇討ちを助けた話を紹介している。

「あとがき4」では長崎で亀山社中の跡地を見た話と、勝海舟の長崎時代のエピソードを紹介している。勝が長崎に来てた時に懇ろになった小谷野家のおくまとの間で子ができ、梅太郎と名付けられる。おくまは梅太郎を生んだ翌々年に逝去し、梅太郎は15歳の時に勝家に来たが、ほどなく病没したそうだ。

「あとがき5」では竜馬暗殺のことについて詳しく記し、それから小説な中に登場した人物のその後を書いている。
 大正4年になり、渡辺一郎(旧幕時代は渡辺篤、吉太郎)という老人が懺悔をしたいと言う。その内容が竜馬を殺したのは自分であるという。ただし、つじつまの会わないところもあった。
 竜馬暗殺は、当初は新撰組のしわざと考えられた。当時、現場にいち早く駆けつけた谷干城は、伊東甲子太郎が残された鞘は新撰組の原田左之助のものと証言し、中岡も重傷の口で「こなくそ」と下手人が述べたと証言する。これは原田の出身地の伊豫の言葉である。近藤勇に問いただすが、知らないと言う。
 この内、紀州藩の用人三浦休太郎がいろは丸事件を根にもっての犯行ではと疑う。この為、陸奥や十津川郷士の中井庄五郎が斬り込む。
 勝海舟は幕府の目付の榎本対馬守道章(榎本武揚とは無関係)のことを疑っていた。。
 維新後にも調べは続き、大石鍬次郎があれは新撰組ではなく見廻組のしわざで、今井信郎、高橋某のことを近藤が褒めていたと述べる。
 今井信郎の孫の今井幸彦が書いた本によると、取り調べられた今井は自分も下手人の一人と述べる。そして見張りをしただけと述べる。それで軽い刑を受けることになった。今井の話によると刺客は佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎(前述した懺悔の老人)、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎である。
佐々木は組頭として、周到に計画した。暗殺の日の昼過ぎに、桂隼之助に近江屋を訪問させて「坂本先生はご在宅でしょうか」と言う。近江屋は「今は他行中です」と答える。この後、夜9時過ぎに佐々木が「十津川郷士」の名刺を出し、殺害に至る。

 これは「あとがき」には書かれていないが、私の知人の相川司氏は、氏の著作の中で「竜馬は寺田屋で幕吏に短銃を放ち、殺しており、それを治安当局が捕殺しようとしただけ」と書いて、暗殺の背景に関する種々の憶測を否定しており、私もそうだと思っている。

 おりょうのその後も記している。三吉慎蔵の主君の長府候が扶持米をだす。その後、海援隊が高知の坂本家に届ける。乙女と合わずに家を出るとの伝承もあるが、おりょうの回想によると、そのような不仲のことは書かれていない。それから故郷の京都に出る。その後放浪の末に横須賀に住み、人の妾になり、明治39年に66歳で死ぬ。

 乙女は竜馬からの手紙をすべて残していた。明治12年に48歳で死ぬ。
 千葉さな子は維新後華族女学校の世話などをして独身だった。自分は坂本竜馬の許嫁と言ったことがあるそうだ。

 維新後に後藤象次郎は土佐藩の船など11隻を藩の負債と一緒に岩崎弥太郎に渡す。岩崎はこれで三菱商会を創る。

 竜馬のことは忘れ去れていたが、日露戦争の時に昭憲皇后の枕元に立ち、バルチック艦隊に勝つと言った男が話題となり、田中光顕が坂本竜馬と特定する。
 由利公正は五カ条のご誓文を起草する。

「司馬遼太郎全集5 竜馬がゆく 3」司馬遼太郎 著

 全集ではこの巻で「竜馬がゆく」は完結である。どこまで史実かは別として、全体を通して、坂本竜馬の人物像や考え方はよく描かれている。人物像は司馬遼太郎が好むところの権力欲や金銭欲が薄く、自分のやりたい仕事に情熱を注ぎ、女性にもてる男、男も惚れる男である。そして竜馬の考え方は、藩という枠、武士、百姓、町人などの身分制度から離れた日本人を意識し、国家運営の能力のある人を抜擢して、欧米列強に互して繁栄していくということだ。
これを浮きだたせる為に、各藩ごとの立場を背負った維新の英傑が登場し、土佐藩の上士と郷士の抜き差しならぬ関係を詳述していく。商人でもある坂本家の家族も登場して、竜馬の思想・考え方の基礎を知らしめる。傑作である。

 この巻は薩長連合に奔走する竜馬からはじまる。長州方の人物として井上聞多と伊藤俊輔が登場する。2人は海外に渡ったことがある。竜馬と中岡慎太郎は薩摩藩士と偽って、京都、下関、長崎で薩長連合の為に奔走する。薩摩藩では高崎左太郎が京都での応接係であり、竜馬は思想や主義ではなく、実利で薩摩と長州を結び附けようとする。長州の米を薩摩藩に提供して、薩摩藩の名目で武器を輸入しようとする。結局、薩摩藩は長州の好意は受け取るが、米は受け取らず、これが海援隊の支援になる。

 海援隊では饅頭屋の近藤長次郎こと上杉宋次郎が実務的に切り回し、長州藩に感謝される。長次郎の人柄もあり、海援隊の仲間からは浮き上がり、長次郎は隊の仲間には無断で海外渡航を試み、それがバレて切腹することになる。

 長崎での銃砲の買い付けがうまくいき、長州藩は薩摩藩を信じる。長州で竜馬は高杉晋作に会う。長州藩が買った船乙丑丸を海援隊が運用することも決める。長崎丸山の芸者お元と知り合う。お元は月琴が得意で、竜馬に想いを寄せる。

 長州から槍の名人三吉慎造が竜馬と同行して兵庫、京に行き、薩摩藩士と偽って大坂の薩摩藩邸につく。将軍と一緒に来坂している幕臣大久保一翁にあう設定で、ここで薩長連合はまだ幕府に知られていないことを確認する。
 大坂から船で出る時にバレそうになるが、千葉道場同門の新撰組藤堂平助が見逃す。そして寺田屋に到着する。そこから京の薩摩藩邸に行く。そこに滞在している桂に会うが、桂は西郷から薩長連合を切り出さないのでへそを曲げている。竜馬は桂に面子を大事にしている場合かと説き、別の藩邸にいる西郷にも会い、連合の締結を迫り、次の日に盟約がなる。

 寺田屋に戻るが、ここで三吉とともに幕府役人に襲われる。おりょうが裸で竜馬に知らせ、竜馬は短銃(高杉にもらう)を撃って逃れ、薩摩藩邸に収容される。手の親指を負傷する。この場面など生き生きしている。
 ここからおりょうと薩摩に遊びに行くというか、日本はじめての新婚旅行となる。
 薩摩で、長崎から海援隊の所属(薩摩藩が金を出して、海援隊が運用)が来るのを楽しみにしていたが、この船が嵐で沈み、池内蔵太などが死んだことを知る。

 長崎を経由して下関に向かう船に乗る。長崎でおりょうとの家を用意する。下関に向かうが、第二次長州征伐の戦いが行われている。竜馬もこの船で戦う。高杉の活躍の様子が描かれる。大坂城で将軍家茂が死に、勝海舟が復職して、長州の広沢兵助と停戦交渉を行う。

 幕府の小栗上野介がフランスから資金を借りて戦を行い、諸藩も潰して徳川家の力を復活させようとする構想を知る。これを受けて薩長は倒幕を急ぐ。竜馬も、そうなった時に日本がフランスの植民地にされることを危惧する。

 竜馬は下関で肥前大村藩の渡辺昇とあう。千葉道場での同門であり、九州諸侯連盟の話を利の面からする。薩摩の五代才助という経済がわかる人物とも知り合う。下関で諸藩の連中と飲む。中岡慎太郎が来て、長州征伐失敗後の京都の情勢を伝える。また京都で制札を引き抜いて新撰組と戦い、土佐郷士が何人か死んだことを中岡から知る。

 長州から長崎に帰るが、海援隊は窮迫している。そこに土佐藩から来ている溝淵広之丞と出会う。土佐藩も幕府が長州征伐に失敗したのを見て動揺している。ここで溝淵の上司の後藤象二郎と出会う。山内容堂のお気に入りで仕置き家老を務めている。後藤は維新のこの時期だけ活躍した人物である。後藤と会い、海援隊を土佐藩が援助することを決める。

 長崎の有名な女傑のお慶と知り合う。のちに陸奥陽之助が懇ろとなるが海援隊の為に出資してくれて、薩摩藩が保証人となって大極丸を海援隊が購入できる。
 中岡慎太郎は陸援隊を構想する。中岡から孝明天皇の崩御を知る。竜馬と中岡の脱藩が土佐藩で許される。土佐藩と海援隊の間で契約ができ、大極丸の保証人も薩摩藩から土佐藩になる。このとき土佐藩の長崎留守居役に岩崎弥太郎が抜擢されてくる。弥太郎は後藤象二郎の遊興の後始末をしている。
 岩崎弥太郎、後藤象二郎の人物像の描き方もうまいと思う。

 伊豫大洲藩の出資でいろは丸という蒸気船を購入する。これに銃砲などを積んで神戸に向かう途中で、紀州藩の船とぶつかり転覆する。万国公法で竜馬が交渉して、最期は土佐の後藤象二郎が出て勝訴する物語が展開される。竜馬の活躍ぶりが生き生きと描かれる。

 中岡慎太郎は四賢公による列侯会議を唱えて活動していた。アーネスト・サトウの案からヒントを得たものである。また長州で逼塞している三条公の身辺を警戒していた。三条公の意を受けて、京都の岩倉具視との連絡にもあたる。また中岡は土佐の乾退助(板垣退助)とも連絡を密にしていた。

 四賢公会議の段取りで駆け回り、実現に漕ぎ着けるが、容堂は途中で投げ出す癖があり、今度も歯痛の理由で抜ける。

 竜馬は長崎で後藤からの京都の情勢を聴き、大政奉還を思いつく。元は勝海舟の案である。後藤象二郎に伝え、後藤はこの案に夢中になる。そして容堂も賛成する。船中八策と称されている案を考える。

 そして京都に向かい、中岡や薩摩の大久保一蔵に伝える。これを幕府が認めない時は薩長土で倒幕と決める。結局、土佐藩は兵を出さない。
 土佐藩で使っていなかった白川藩邸を陸援隊の拠点にすることを認めてもらう。陸援隊に那須盛馬を呼ぶことにし、那須の武歴が紹介される。
 竜馬は幕府の永井主水正にも大政奉還案を話す。西郷、大久保や岩倉にも会う。また土佐藩の者にも会う。

 ここで長崎で海援隊士がイギリス水兵を斬ったと大騒ぎになっていることを聞く。竜馬は鼻から海援隊によるものではないと信じていたが、幕府や土佐藩は大変な騒ぎだった。
 大坂で松平春嶽に会い、山内容堂に今度の長崎の事件でも万国公法に基づいての処理で行うべきとの手紙を書いてもらう。兵庫から船で渦中の長崎に帰る。幕府役人も長崎に行くがそれより早く行くことにする。
 長崎で事件は海援隊ではないことを確信し、イギリスは土佐に出向くが長崎で交渉とさせる。後藤は外国人との交渉ごとでも堂々と対応する。アーネスト・サトウがイギリス側通訳で登場する。

 海援隊は下手人の情報に千両出すとする。竜馬は宣伝も上手である。交渉が始まり、下手人はわからない中、イギリス側も幕府との交渉は意味ないと思い、審議打ち切りとなる。幕府は形式だけ土佐藩に恐れ入れと言うが竜馬は無視する。藩の長崎留守居役の岩崎弥太郎が恐れ入り、お構いなしとなる。
 長崎から長州に行き、ここでおりょうを三吉に頼み、土佐に向かう。ここでは秘密に上陸し、後に親族に会う。

 それから京都に出向く。後藤が大政奉還の為に奔走している。後藤は土佐藩兵を連れていないで口先だけの大政奉還であり、薩摩は何だと思う。西郷や長州は武装蜂起である。後藤は近藤勇にも大政奉還案を話し、近藤は後藤に傾倒する。

 中岡から岩倉が倒幕の密勅を出すことに画策して、それが出る。同時に慶喜が大政奉還をする。竜馬は大政奉還した慶喜を高く評価する。その後の人事案も考えるが、ここには竜馬は入っていない。竜馬は福井藩で閉門されている三岡八郎(由利公正)の赦免を松平春嶽に頼みに行く。
 その後、京に戻るが、風邪気味で宿舎に寝る。そこに中岡慎太郎が来る。そして刺客も来て竜馬の命を奪う。

「司馬遼太郎全集4 竜馬がゆく 2」司馬遼太郎 著

 この巻からは「坂竜飛騰(ばんりゅうひとう)」と称せられる坂本竜馬が飛躍する時期の物語になる。同時に、幕末の事件が次々に起きてくる。司馬遼太郎はこれら事件について、自分なりの意見も入れて詳述していく。だから司馬遼太郎の時代小説に不可欠な女性の登場が取って付けたようになる。
 そして司馬遼太郎なりの人物評も多いことに再読して気が付いた。好き嫌いも激しく、山内容堂などはボロクソである。この延長に『坂の上の雲』における乃木大将への酷評があるのかと思い至った。

 さてこの巻では、勝海舟のもとで築地の軍艦操練所を拠点として学んでいく竜馬である。竜馬は海舟の引きで幕臣の大久保一翁、永井玄蕃頭などと知り合い、視野を広げていく。そして勝の尽力で、操練所として練習船を持つ夢を実現させる。土佐藩脱藩の罪は海舟が山内容堂に頼んで赦免してもらう。

 こういう中、長州藩、土佐藩の維新の人材が挿話として紹介されていく。長州の周布政之助(重役だが、頭も良く、度胸もあるが、おだてに乗りやすく気が短い)、山内容堂(自分が利巧で英雄と思うが視野が狭い)、来島又兵衛(長州藩の過激派の豪傑)、高杉晋作、山地忠七(土佐藩士、日清戦争の独眼竜将軍)、乾退助(土佐藩士、後の板垣退助)、近藤長次郎(土佐藩、元饅頭屋で、塾での竜馬の片腕)など次々と登場する。司馬遼太郎の歴史夜話的な話である。

 幕府の蒸気船に乗れるようになるから、勝海舟の指示も受けて大坂と江戸を何度も行き来する。以前ならば歩いての道中だが、幕末は次から次へと新しい銃砲が登場する武器革命の時代だが、交通革命も起きていたことが理解できる。

 また勝の紹介で、越前の松平春嶽とも知り合うが、この殿様は坂本竜馬と会い、彼を評価し、越前公からの山内容堂への竜馬赦免要請も出る。

 武市はこの頃は土佐藩で影響力を高め、京都で影の土佐系暗殺団を影で示唆していた。勝海舟が京都に来た時に竜馬は勝を殺さないように武市に言い、岡田以蔵には直接言い含めて、勝の用心棒とする。
 三条家は攘夷公卿として有名だが、そこにいるお田鶴さまも三条家の一員らしく、竜馬に攘夷に起ち上がるように促す。
 お田鶴さまに会う約束の前に火事に出会う。そこで火災の中から人助けをすることで安政の大獄で死んだ楢崎将作の遺児のおりょうを知る。そしておりょうを寺田屋の養女に手配する。

 越前藩の三岡八郎(後の由利公正で五カ条のご誓文の起草者)に神戸の海軍塾の購入代金の交渉にいく。そんな経緯で神戸軍艦操練所ができ、そこに土佐脱藩浪士なども勧誘する。紀州藩の脱藩浪士伊達小次郎こと後の陸奥宗光も入所する。土佐の浪士は後に吉村寅太郎の大和の天誅組の義挙に参加して斃れる者も多い。
 ちなみに土佐郷士は武市半平太の土佐藩自体を勤皇にしようとする武市半平太の土佐勤王党、吉村寅太郎の過激暴発派(天誅組事件)と竜馬の海軍派のように別れていく。ちなみに土佐には天保庄屋同盟と言う組織が天保年間にできて、そこでは庄屋は藩ではなく、天皇から任命された職という一君万民の平等思想が広がっていたそうだ。

 土佐では山内容堂が藩政に戻り、勤皇派を弾圧していく。郷士を捕らえ、拷問し、吉田東洋暗殺の黒幕の武市の罪を暴いていく。武市が国元で投獄され、岡田以蔵の証言で他の武市の暗殺示唆が明らかになって切腹させられる。見事な最期だったようだ。これ以降、土佐郷士の脱藩は増える。

 時代はどんどん動き、長州藩への外国艦隊の砲撃がある。このあたりに竜馬が新撰組に襲われるエピソードを入れる。そしてこの時は藤堂平助が組長で、北辰一刀流の同門で竜馬を見逃すような筋にしている。後に藤堂平助は御陵衛士として新撰組を抜け、殺される。

 江戸の清河八郎の暗殺事件や新撰組の活躍=尊皇攘夷の志士の惨殺が横行する。薩摩の人斬り田中新兵衛の姉小路卿暗殺事件を書く。薩摩と会津が手を結んだ八月一八日のクーデターで長州は追い落とされる。薩摩と長州が犬猿の仲になっていく様子を書く。

 江戸に戻り、千葉道場のさな子とのことが色取りを添える。さな子の方から告白するが、この後、ついの別れになる。
 土佐勤王党弾圧を逃れて、北添佶摩などの土佐脱藩浪士が来るが、彼等を死なさないために蝦夷地開拓に使おうと行かせるが、北添は後に池田屋事件で死ぬ。

勝が長崎に行く時に同行する。長崎が気に入り、熊本で横井小楠に会う。

 高杉晋作の長州、西郷隆盛の薩摩の、それぞれの国元の状況を書く。京都で長州藩は暴発する準備をする。古高俊太郎の家で準備するが、新撰組に感づかれ、池田屋事件となる。

 この後、長州藩による禁門の変が起こる。この時は薩摩がおさえる。

 池田屋事件や禁門の変で、神戸海軍操練所の学生が参加していたことから、勝海舟は失脚して、神戸海軍操練所も閉鎖となる。ここで薩摩を頼ることになる。
 おりょうといい仲になるエピソードが挿入される。また乾退助から三条家のお田鶴さまの消息を聞く。神戸の操練所が閉鎖されて竜馬が去ったあとに、お田鶴さまが男装でここに寄り、またおりょうも来て、2人が会うという設定をつくる。

 勝海舟失脚の後は、薩摩藩が竜馬の後ろ盾になっていくが、西郷隆盛の人となりが語られる。その西郷と深く知り合うようになる。
 そして竜馬の胸に薩摩と長州の同盟のことが思い浮かぶ。西郷の上司の小松帯刀が登場する。貿易会社に出資ということで竜馬は薩摩を誘う。

 薩摩藩邸でやっかいになる。長州藩の内情や薩摩藩の内情が語られる。第一次長州征伐で長州の勤皇派は壊滅して、門閥派の天下になる。この第一次長州征伐を参謀として指揮したのが西郷隆盛。

 土佐藩の脱藩浪士は長州藩に面倒をみてもらっており、また長州に落ち延びた五卿を守っている土佐浪士土方楠左衛門久元などがいる。中岡慎太郎は長州忠勇隊を率いていた。

 幕府は第二次長州征伐をしようとしている。この時、フランスの援助で戦おうと小栗上野介などが画策している情報を得て、これは植民地支配を招きかねない危険なことだと竜馬は西郷に言う。ここで長州との同盟を求める。

 長州では絵堂で上士軍が奇兵隊などに破れ、高杉晋作も出て、クーデターが成功する。
桂小五郎も帰ってくる。
 竜馬は長崎で薩摩藩の出資も得て、亀山社中を造る。

 いよいよ薩長連合の話が具体化していく。まず、中岡慎太郎が薩摩で西郷を説得し、一方、長州で竜馬がまず五卿を説得し、賛成を取り付け、次ぎに長州藩の桂を説得して薩摩藩と会わすことにする。しかし、この時は西郷はすっぽかして京都に行く。桂は怒る。薩長連合は難産である。

「司馬遼太郎全集3 竜馬がゆく 1」司馬遼太郎 著

 大作の「竜馬がゆく」である。全集本で3冊に別れているから、1冊ずつ感想を記していく。再読すると、さずがによくできた小説だと感心する。
 冒頭は龍馬が江戸へ剣術修行に行くところから始まる。ここで竜馬を取り巻く乙女姉さんをはじめとする家族や富裕な家が紹介される。富裕な家と言っても郷士であり、土佐藩の上士と郷士の身分意識は繰り返し述べられる。また幼少期の性格や、学問には不向きで、剣だけは日根野道場で一頭地を抜いてくることなどが記される。江戸で剣術修業すれば、土佐で町道場主として食えるのが、江戸に行く理由である。

 司馬遼太郎は小説に魅力的な女性を次々と登場させて読者を飽きささないが、ここでも、主筋の福岡家の娘お田鶴さま、公家侍の娘だが親が討たれ女郎屋に売られた冴、千葉道場の娘で剣術も行うさな子、土佐で評判の娘お徳、讃岐の居酒屋の亭主お初、竜馬の親戚の娘美以などである。皆、竜馬に惚れている。
 色恋沙汰にはならないが、姉の乙女、出戻ってきた姉のお栄、妹の春猪、それに寺田屋のお登勢などの女性も物語に色を添える。
 また道中で、竜馬に家来にしてくれと頼む薬屋、実は盗賊の寝待ちの藤兵衛や、船頭の七蔵、それに千葉道場の若先生の千葉重太郎の脇役も出てくる。
 それから、維新で活躍する桂小五郎、土佐藩の維新で名が出る武市半平太、岡田以蔵、岩崎弥太郎、那須信吾なども出てくる。

 道中での竜馬の主筋の福岡家の娘、お田鶴さまとの出会いを絡める。お田鶴さまは京の三条家に手伝いに出向く道中である。あとの話になるが、安政の大獄で追われている公家侍を助けて道中を同行するが、一時の油断に公家侍は捕らえられる。その時に密書を預かり、それを三条家に届け、お田鶴さまに再会する。またこの軟弱な公家侍が国事に奔走する態度に打たれ、政治に目が覚める。

 竜馬の将来(海援隊)を暗示させるように船頭と懇意になるところも入れる。大坂では金に困った岡田以蔵に狙われる。逆に竜馬が金を与え、竜馬に心酔させる。道中、薬屋に化けた盗賊の寝待ちの藤兵衛がどういうわけか、竜馬の家来にしてくれとくる。伏見では寺田屋のお登勢と知り合う。

 江戸ではその寝待ちの藤兵衛が、公家侍の娘冴の仇討ちを手伝ってくれとのことで、その仇の侍と戦う。冴は仇を討つべく、弟と旅にでるが、弟は死ぬ、冴は女郎屋に売られているという設定である。冴は竜馬に男女の道を教えようとするが、後に冴はコレラで死ぬことになる。

 千葉周作の弟の定吉の桶町千葉道場で剣術修行をする。ここで千葉重太郎と妹のさな子が登場する。さな子は自身も剣術をし、竜馬に惚れるが、竜馬はその気がないまま1巻では終わる。
 また江戸の土佐藩邸で武市半平太と知り合う。武市半平太は土佐一藩を勤皇にする画策をする。竜馬は土佐だ、長州だという藩も取り払わなければという考えを潜在的に持っていて、一緒には行動しないが、肝胆相照らす仲となる。

 時代は黒船の登場となり、竜馬も見に行き、軍艦に憧れを懐く。そこで長州藩の陣立てを探るように命せられ、歩きまわるが、桂小五郎と出会う設定である。また黒船に乗り込もうとした吉田松陰のことなども知る。

 土佐で大地震があり、一時帰る。ここでお田鶴さまに再会する。夜這いに行く時に若侍が別の評判の美人のお徳という娘のところに出向かせるようにして、お田鶴さまのところには出向けないで終わる。土佐では岩崎弥太郎も登場する。

 江戸に戻り、剣術修行の甲斐があって、竜馬の剣は上達して、各種試合で剣名は高くなる。土佐藩邸では中岡慎太郎などを知る。
 竜馬の江戸遊学の期限が来て、土佐に帰ることになる。安政の大獄がはじまる。この道中の公家侍と同行し、護衛することになった顛末は前に記したが、預かった密書を三条家に届けることで、お田鶴さまに出会う。

 土佐には武市も帰っており、色々と時世を談ずる。絵師の河田小竜から世界情勢を聞く。その間、土佐郷士と上士の間の刃傷沙汰もおきる。
 そして桜田門外の変を聞く。また水戸藩から遊説に来ている人物の話も聞くが、竜馬はピントこない。

 武市が音頭をとった土佐勤王党に加わる。その土佐勤王党のことを岩崎弥太郎が探っていた。弥太郎は土佐の執政吉田東洋の知己を得て、下横目という卑職についていた。
 実家の才谷家の商家の方に美以という美人の娘がいて、竜馬の妹の春猪が合わす。
 また那須信吾という郷士も知る。この男は後に武市にそそのかされて吉田東洋を暗殺して脱藩する。

 竜馬は藩へ剣術詮議の為の旅行願いを出し、長州にも出かける。道中の讃岐の居酒屋でならず者と喧嘩するが、この亭主のお初という女性と懇ろになる。
 また丸亀藩の剣術使いとも懇意となる。

 長州で久坂玄瑞に出会う。この男の熱気にも竜馬は同調できないが、時世を知る。
 この後に土佐に戻った竜馬は脱藩を企てる。その時にいい刀を家から持ち出そうとするが、かなわない。その時、出戻りで来ていた竜馬の姉お栄が嫁いだ先でもらった刀、陸奥守吉行を竜馬に渡す。この為に、お栄は後に自殺することになる。
 それから吉田東洋暗殺事件のことが記される。このように大きな事件ごとに、その詳細を書き、絵空ごとの多い時代小説を史実に即した歴史小説に持って行くのも司馬遼太郎の腕である。

 脱藩は沢村惣之丞と一緒で、先に脱藩している吉村寅太郎を頼るが、なかなか会えない。ここで薩摩藩の内輪もめの寺田屋事件が起き、その詳細が記される。
 京に潜んでいる時に清河八郎(北辰一刀流)と出会う。そして江戸まで旅をする。清河の考え方も策士過ぎて、竜馬は気に入らないが。司馬遼太郎はここで清河に、自分は藩の後ろ盾が無いから、このように策を考えると言わしめていてなるほどと思う。
千葉道場に戻る。さな子は恋い焦がれるが進展しない。
次ぎに生麦事件が起こり、この詳細が記される。

 そして鳥取藩に仕官した千葉重太郎も攘夷思想に染まり、勝海舟を斬ると言う。一緒に勝つの造った軍艦操練所などを見ている内に、船好きの竜馬の血が騒ぐ。面談して斬りに行こうとして勝の家に出向くが、竜馬は勝の弟子入りを志願する。

宗吾霊堂

 ここは、江戸時代の義民佐倉惣五郎を祭った御堂である。真言宗の寺院で東勝寺と言う。知られていないが、あの有名な成田山新勝寺は、東勝寺に対して新しいから新勝寺と名付けられているのである。

 京成線の宗吾参道駅から、坂道をだらだらと登って、歩いて15分程度である。広大な寺域で、仁王門、鐘楼、本堂、奥の院、薬師堂、大本坊(宿坊)などいくつもの建物があるが、それぞれ、そんなに古いものは無いようである。奥の方には成田市の戦没者慰霊塔が建立されている。
 仁王門には、金色の二王像が鎮座されていた。梵鐘や、この二王像は彫金家の香取秀真、香取正彦の作のようだ。

 奥の方には各種のアジサイが植えられていて、季節になるとさぞや見事なことと思われる。寺の御堂や、惣五郎の資料館等はコロナウィルス騒動の影響で、閉館中であった。

 義民佐倉惣五郎とは、江戸時代の前期の4代家綱将軍の時に、当時の飢饉と佐倉藩堀田家の苛斂誅求の年貢取り立て等の悪政に対して、木内惣五郎を代表にして6人の名主が藩に訴え、それでも改善されなかったので惣五郎が幕府に直訴した事件である。
 これが認められるが、惣五郎と子ども達は直訴の責任を取って1653年に殺される。もちろん、農民はこの義挙に感謝する。

 堀田家初代正盛は家光逝去時に殉死し、この時は2代正信であった。この正信は自分の藩がこのような悪政を布いていたが、変わった男で「幕府の失政により、人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上する」と唱える。狂人扱いとなり、改易される。
 18世紀半ばに堀田家は佐倉に戻るが、佐倉の住民が惣五郎の祟りで堀田家は改易されたという悪評を気にして、ここに御堂を建てたということである。

 ここにある惣五郎の記念館等にもコロナウィルス騒動で入れなかったから、私が記した内容に違うところも懸念されるが、大筋は間違っていないはずだ。

 このような事件は佐倉藩堀田家に限らず、江戸時代には多かったようだが、ほとんどは施政者側が闇から闇に葬り去り、世に知られていないと、何かの本で読んだ記憶がある。
 たまたま佐倉藩はこの事件後に改易となり、また同じ旧領に舞い戻ってきたことから、領民慰撫の為に惣五郎を祭るようになり、現在に伝わっているわけである。

 下総台地は佐倉の城下もそうだし、成田山もそうだが、意外と地形の起伏が多いところだ。

「兜率天の巡礼」司馬遼太郎著

 全集2所載の不思議な短編である。終戦後に洛西嵯峨野の上品蓮台院に訪れ、その壁画(何度も修復されているものだが)を失火で焼失せしめた大学教授の話である。もちろん小説だから事実がどれだけ含まれているのはわからない。
 この教授はポツダム政令で大学を追われたことになっている。教授はここに描かれている天女に執心していた。
 その経緯として、43歳で死んだ妻のことが記されていく。この妻の家の財力で大学教授の地位を得たのが教授である。ここに大学教授の地位が学問ではなく閨閥で得られているという司馬遼太郎の皮肉を感じる。
 それはさておき、妻は控えめな女性であり、教授が書斎に籠もっている時は隣りの部屋で一人で寝るような生活で2人に子は無かった。死因は糖尿病が悪化し、心臓麻痺を起こしたものである。しかし死の10日前から狂気を発したようになる。目がらんと光り、教授に敵意をむき出すようになる。
 医師に診せても異常はないと言うが、終戦の日に亡くなる。

 ポツダム政令で大学を追放されていたので、妻の狂気が遺伝から来ているのではないかと妻の実家の関係先を聞いてまわる。その関連で兵庫赤穂郡比奈の大避神社の宮司の話を聴く。ここで太古の秦氏の事績を聞かされる。その中で秦氏はユダヤ人の子孫のような伝説も聞かされる。関連して、景教=ネストリウス派キリスト教の話が司馬遼太郎の学識を物語るように続く。長安で唐の武宗のもとに嫁ぐ景教徒の女性の話も出てくる。

 日本に景教が伝来してから、この大避神社に至るまでの物語が続く。そこで秦川勝という秦氏の長者が山城に勢力を張り、聖徳太子の関係の話に展開していき、大酒神社、太秦の広隆寺と廻り、上品蓮台院に行き着く。ここには秦一族の誰かが絵師に描かせた古い壁画があり、その中に妻の顔もあるかもしれないと宮司は話す。

 上品蓮台院に出向いた教授は闇の中で壁画をロウソクの火を照らして、確かに妻に似た天女の顔を発見する。そしてローソクの火は壁画と教授を包む。

 当時、京都で新聞記者として宗教関係を担当していた司馬遼太郎の学識が、小説家の才能と一体となって生まれたような小説である。良い小説とは思わないが、何か記憶に残る小説である。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」図録 

 新型コロナの関係で美術展が軒並み中止になり、伊藤も寂しいだろうとのことで、ご近所の絵画好きな方が持参してくれた図録である。
 この展覧会は1999年に東京都美術館で開催されたようで、この図録にはワシントン・ナショナル・ギャラリーが生まれた歴史と、印象派を中心として前後の時代に描かれた絵画(当時の展覧会出品作)に関する解説が図版とともに記されている。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーが誕生したのは、アメリカの大富豪のアンドリュー・メロンの寄贈と資金援助から生まれ、その後も息子のポール・メロンやクレス家、ワイドナー家や、ローゼンヴァルト、デールなどの援助で、今のような規模になったと書く。ここで面白いのはヨーロッパが王侯貴族が美術品収集の担い手だったのに対して、アメリカはビジネスで成功した大富豪が担い手だったということである。

 冒頭に島田紀夫(実践女子大教授)が「集中と拡散、そして/あるいは、近接と疎遠」と題して19世紀のフランス絵画を概括している。
 19世紀半ばまではフランスでは、絵画のジャンルは神話画(ギリシャ・ローマ神話に由来)、宗教画(キリスト教)等を含む歴史画(物語画)が最上位で、次ぎに人間を描いた肖像画、そして動物画と続き、日常生活に取材する風俗画や、身の回りにある事物を描く風景画や静物画は低い位置だった。
 フランス革命から庶民が登場する歴史になり、歴史画も広がる。それから風景画が増える。これは社会の上部構造の変化による。
 モネやピサロの風景画の前に、今は無名の風景画軍団とも言える画家がいた。コローは初期の写実的な風景画から、詩的な情緒に富む風景画になる。通俗画的な風景画も生まれる。画面に人物が描かれていないが、人間の存在がある風景画をクールベやブーダンが描く。戸外での写生もはじまり、モネなどの印象派の登場となる。海辺の光景を描いたブーダンの位置づけも詳しく書かれている。
 また当時の風俗の裏側として、洗濯女や踊り子が性の対象になっていたことなどを解説している。
 その後、印象を永続させるべく、セザンヌは画面構成に意を用い、造形的な探求を続ける。ゴッホは表現主義、ゴーガンは象徴主義の祖となる。印象派の色調分割の手法を科学的に追求がスーラの点描法である。
 次ぎにピカソとブラックはセザンヌの造形的探求からキュビズムに行く。
 空間的近接と心理的な疎遠という感情を共有するのが都市生活者で、それをモネは描くということが、この評論のテーマなのかもしれないが、難解である。

 次ぎに、この展覧会に出品されたフェルメールの「手紙を書く少女」について太田治子(作家)は記述している。モデルの少女はあどけない顔だからフェルメールの娘ではないかと推論する。この絵に対して、フェルメール「手紙を読む女」の女は風俗画の女性の顔で作り物的と論ずる。当時のオランダでは急速に通信網が発達して手紙は市民の間で流行となったことに触れる。作家らしい想像力を働かせて、この絵に思いを馳せている。

 以下、「印象派以前」「印象派」「後期印象派と新印象派」「オールド・マスターズという章立てで、出品作を解説している。
当時の社会の風潮も記されていて、西洋美術史の教科書として参考になる。

「伊賀の四鬼」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の忍者物の短編である。戦国の頃に名を知られた四人の伊賀者がいたと伝わる。音羽の城戸、柘植の四貫目、湯船の耳無、岩尾の愛染明王である。
 音羽の城戸は信長が伊賀平定した時に、信長を狙撃して、跡に来夏参上と書いて去る。その来夏に本能寺の変がおこり信長は殺される。もちろん明智の仕業だが、そこに音羽の城戸がいた可能性もあるのではと書く。
 柘植の四貫目は武田信玄に傭われた忍者知道軒のことで、信玄がある城を攻略しようとした時に、事前に忍び入り、20日間絶食して潜み、攻撃とともに城に放火して落城させると伝わる。

 この小説は、湯船の耳無と岩尾の愛染明王の話である。湯船の耳無は秀吉に傭われている。賤ヶ岳の戦いの前に、戦場の地形を探りに出した伊賀者が帰ってこないから、その様子を確認してくると同時に、戦場の地形把握を命じられる。
 一方、岩尾の愛染明王は柴田勝家に傭われていた。湯船の耳無が探っていくと、秀吉配下の伊賀忍者が消えたのは岩尾の愛染明王の仕業だったことがわかる。湯船の耳無が賤ヶ岳で探索しながら、その一味を斃し、岩尾の愛染明王が潜むところを突き止める。一方、 岩尾の愛染明王も耳無が来ていることを知る。最期の2人の戦いは、突き止めた場所が火が燃え盛る中、愛染明王の姿が浮き出るような幻影に耐えて、耳無が耐えながら、仕留める物語になる。こうして愛染明王を斃すが、耳無も火傷が酷く、事後に命を絶つという話である。

「果心居士の幻術」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の忍者物の短編である。物語は大和の当麻村の田植え時に、その田植え歌を楽しんでいた領主の弟たちが8人が、周りの人が気が付かない内に殺されることからはじまる。
 この土地の領主は筒井順慶の与力であり、これを聞いた順慶は何かを感づき、織田信長に松永弾正が謀反と伝える。信長が何故、そのように判断するのかを問うと、あのような殺人は松永弾正の元にいる果心居士の仕業と思うと述べる。

 ここで果心居士の経歴が披露される。昔、インド人の僧が興福寺に来て修業するが、女犯をおかしたことを今際の際に話す。その子が果心居士であり、長ずるに及び幻術を使うようになる。ある時、果心居士は松永弾正に出会い、その顔に浮かぶ凶相を見て、自分は悪人が好きでと申して出入りするようになる。こういう男であり、松永弾正も歓迎していたわけではないが、弾正の影となって活躍し、周りからは恐れられる。

 今回の8人の殺害も、筒井順慶の推察通り、松永弾正が信長に叛旗を翻したことから起きる。弾正は信長と戦うが、当てにしていた援軍が集まらずに窮地に陥る。
 こんな中、果心居士から松永弾正に会いたいと城の中で言づてされる。弾正が出向くと、果心居士は別れに来たという。「どこへ行く」と聞くと、「行くのはお主だ」と弾正に告げる。弾正が落城で死んだのは翌日である。
 弾正の信貴山城が落城したのは、人を信じない弾正が、実は筒井方の間者だった部下に石山本願寺への救援を依頼し、その者が筒井方に連絡し、筒井順慶が本願寺からの援兵と偽って派遣した部隊を城の中に入れた為である。

 この後、信長が伊賀を掃討した時、順慶も参戦し、その時、伊賀の砦にいた果心居士を逃がす。その御礼として砦の絵図をくれる。それで順慶は手柄をたてる。

 信長が本能寺に倒れた時、順慶は明智方に味方しようとする。この時、順慶の重臣に乗り移った果心居士が現れ、光秀は死ぬと告げる。順慶は果心居士の言う通りにはせずに、しかし光秀にも加担せずに洞ヶ峠で日和見をする。

 秀吉の天下になったある日、秀吉から順慶の元にいる果心居士の幻術を見たいと所望される。順慶は自分のところにいるとは気が付かなかったが、探すと出てくる。秀吉の眼前で術を見せようとするが、その中に果心居士にとって気に掛かる山伏のような人物が一人いた。秀吉に頼んで、この者を御前から下げて貰おうとするが、許しが出ない。それでやむを得ずに術をかけるが、この一人が醒めていて、この男に別の場所で術をかけていたところを殺される。

 これも「飛び加藤」と同様に、集団催眠術的な術であり、読んでいてもピンとこない話だが、有名な順慶の「洞ヶ峠」の逸話が思わぬ形で紹介される。

「放浪の天才画家 長谷川利行展」図録

 このカタログは地元の絵好きな知人からお借りしたものだ。私が去年の暮れに長谷川利行の作品に御縁があったことを話していたからである。
 頁を括っていくと、なんと私が購入したデッサンが所載されているではないか。購入した時、板橋区立美術館で開催時のカタログに所載されていることは承知していたが、驚いた。
 考えてみれば、この絵の額裏には、昭和51年2月に日本橋三越で開催された「長谷川利行展」(主催毎日新聞社、後援文化庁・東京都教育委員会)の出品シールが貼付されているのだ。出品されて、カタログに収録されているのは当然なのだ。

 この展覧会図録には、熊谷守一、中曽根康弘、東山魁夷、中村歌右衛門、山岡荘八、木村武雄(政治家で木村東介の弟)、東郷青児、小幡欣治、森光子、渥美清、緒形拳、矢野文夫、木村東介(羽黒洞)、小倉忠夫(美術評論家)が推薦者になり、それぞれ一文を寄せている。これら人々の評は面白く、以下に簡単に紹介する。

小倉忠夫(美術評論家)は、長谷川の作品を詩精神と感性がさまざまなモチーフを機縁として、色彩とフォルムの交響のうちに流露した感が濃いもので、広義の表現主義とする。そしてヨーロッパのフォーヴィズム(さらにユトリロのような独自の詩的な生活感情、ないし抒情もある)、東洋の文人画(歌人で歌集も出し、祖父、父も俳人)、ナイーヴな児童画の要素が相互に通底しあって、利行の自由にして奔放かつ純な魂において、ひとつに融和統合されると書く。

 熊谷守一は当時から長谷川の理解者であり、利行の思い出を書き、あれで結構名誉も金も欲しがっていたと書く。そして安井曾太郎に嫌われていたことを記し、あの時代が生んだ特異な才能と評価する。

 中曽根康弘は、今の金持ちに迎合する幇間的な画家ではなく庶民大衆に根ざしているとして事務所と応接間に飾って、心の糧にしていると書いており、見直した。

 東山魁夷は昭和23年に出向いた展覧会で利行の裸婦の小品と赤い家の作品2点を買ったことを記す。孤独感と寂寥感をたてた中に素純なものが光ると書いている。

 中村歌右衛門は今は所有してないが、一時は持っており、緑の線の中の水泳ぎ少女の絵などはどうしてあんなに瑞々しい感覚が絵の中にいつまでも残っているのか不思議で、彼の絵のように芸術は時代の先に行くべきで、自分も意識していると書く。

 山岡荘八は雑誌編集長時代に知人の画家に挿絵を頼みにいく。そこで長谷川に会い、彼の絵を褒めたら、その場でくれたとの思い出を書く。その内天城俊彦が埋もれた天才画家を発見したと来る。利行の歌も卓抜していたと記す。

 木村武雄(政治家で木村東介の弟)は戦時下、兄が利行の絵を疎開させていたのを覚えていた。中曽根に展覧会に誘われた時に、そこに兄が疎開させていた絵があり、懐かしさを覚えると同時に、貴人富豪に縁のない絵を大切にした利行のように政治に向かいたいと記す。

 東郷青児は、はじめて利行を認めた正宗得三郎先生の思い出を記す。また長谷川の破天荒な私生活には悩まされた思い出。たとえば玄関で絵を買わないと帰らず、また後にあの絵を手直ししたいと持ち出し、どこかに転売する。不潔で行儀が悪いが、目は澄んでいた。警察に無銭飲食のもらい下げにいったこともあるそうだ。

 森光子はマチスのように色鮮やかで、ユトリロのように寂しい。それで厳然と日本人の世界がある。人物が静物のようで、それに深い世界がある。荒涼と寂しく、しかも強烈な意志があると評する。

 渥美清は仕事がなく鬱々してしていた時に観た利行の田端機関庫の絵がいつまでも忘れられないと記す。

 矢野文夫は利行の青春を探り、書いている。和歌山湯浅の耐久中学の同窓生を探し、利行が紅顔可憐で眉目が美しいとの思い出を引き出している。恋人がいたと推測している。それを裏付ける歌がある。妻と子もいたことを歌から推測している。

 木村東介(羽黒洞)は利行の放浪生活を記し、自身も羅漢尊者のように荘厳な人物像を描いて、民族の中に不滅の芸術を残したと高く評価する。

「飛び加藤」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の忍者物の短編である。「飛び加藤」と称せられる忍者だから、木の枝から枝へと飛び移るのが得意な忍者だと思って読みはじめたが、そうではなく、集団催眠術をかけるのが得意な忍者である。

京の街中で、小男だが釣り上がった目が異常に光りを帯びた武士風体の者が、さまざまな口上を述べて、真言を唱え、これから、この大きな牛を呑み込むとか言って、周りの群衆にそう思わせるような術をかける。この時は松の上から見ていた男が「牛の背中に乗っているだけだ」と見破る。今度は種から夕顔の花を咲かせる術をかける。牛の催眠術を見破った男は松の木の上で殺される。
この術を上杉家の家臣2人も見ており、謙信への仕官を勧め、上杉家へ連れてくる。道中、気にいった女を術で攫うようなこともする。女に対する趣味は悪い。

 謙信は10日の間、自身の忍者を使って飛び加藤の身辺を探らせるが、謙信の忍者も根を上げる。謙信に目通りさせた時に、謙信がこの薙刀を家臣の家に預けておくが、それを取り出せるかと試す。飛び加藤のその後の様子を書いていく。そして当日はその屋敷に忍び込み童女を連れてくる。「刀はどうした。盗めなかったな。」と謙信が言うと「それは偽物」と言う。謙信が改めさすと、その通り偽物であり、本物は納戸にあった。

 10日間、御伽衆として話を聞いたりしていたが、だんだんと気味が悪くなり、殺そうとするが、そこでも衆人を驚かすような術で逃れる。

 余談として、その後、武田信玄の元に行くが、信玄は用が無いと言って、数挺の鉄砲で殺したとの伝承などを紹介して物語は終わる。

 幻術と言うか、集団催眠術のようなものだから派手な立ち回りもなく、読んでいる立場では馬鹿馬鹿しさが出る。小説には難しいと思う話を書いた点に司馬遼太郎のうまさがあると言える。

「戈壁の匈奴」 司馬遼太郎 著

 全集2所載の短編である。戈壁はゴビと読む。このような難しい言葉が沢山出てきて、司馬遼太郎の学識が窺える。

 物語は1920年にイギリスの退役大尉が口径1㍍、高さは人の身丈も超えるような玻璃の壺を発見したことから始まる。半月後に、以前にこのあたりを調査したスタイン探検隊の長に問い合わせると、彼から、これは西夏の遺物ではあるまいか。空想で言えば西夏滅亡時の主権者の李睍公主のものではないかとの返書が届く。

 そこから、昔の西夏の物語に飛ぶ。その話とはジンギスカンが若い時から西夏の侵略を試みる。それは隊商の者から、西夏に暮らす女性は肌が白く、鼻梁が高くて美しいと聞いたことによる。中東からインド・ヨーロッパ語族に属するのだろうが、そのような女に憧れ、その女を獲得する為に遠征すると言うことになっている。モンゴル人は女を略奪する為に戦争をしているような小説仕立てであり、モンゴルの人が読むと驚くだろう。

 ジンギスカンは西夏に対して4度の戦いを挑むことになる。それぞれの戦いの様子を記していくが、2度はモンゴル軍の敗退の話である。3度目の遠征で、西夏の女性を獲て引き揚げるが、帰路の途中でその女性は死ぬ。
 晩年になってやっと願いを叶えて李睍公主を獲るが、それからまもなくジンギスカンは息を引き取ると言う物語である。

 馬鹿馬鹿しい小説であるが、その中で触れられている中央アジアの歴史に対する造詣の深さはさすがと思わせるものがある。

「最期の伊賀者」 司馬遼太郎 著

 全集2に所載の短編である。江戸幕府が成立し、伊賀忍者も服部半蔵以下、200人が御家人として幕府に傭われる。
その棟梁の服部半蔵正成が逝去し、跡を継いだのが半蔵正就である。正就は忍者というより大身の旗本で五千石の身分に安住し、妻も松平定勝の娘という身分になる。

 正就の屋敷に奇異なことが次々に起きる。これらに関して、正就は配下の伊賀者の嫌がらせだと感づく。特にヒダリと異称を持つ野島平内の仕業と推測している。

 確かにヒダリが忍術の技を使って悪戯をしていた。ヒダリは仲間の和田伝蔵の家を訪ねる。伝蔵は妻帯して子どもがいる。一方、ヒダリこと平内は独身である。妻帯した仲間が大半になり、その者どもは昔の伊賀者の生活から、幕府御家人の生活になじみつつあった。平内は昔ながらの伊賀者気質だった。そしてヒダリは今の服部半蔵正就が伊賀者の統領にはふさわしくないと思っている。

 仲間の喰代ノ杣次(野島道秀)を誘い、変装して2人で半蔵正就が辻斬りをしているなどの流言飛語をまき散らす。

 一度、ヒダリは正就の屋敷に呼び出され、詰問され、成敗されそうになるが、忍術で逃れる。

 ある時、伊賀組同心の生活が苦しい中に、半蔵正就は再度の普請を命じてきた。これには伊賀組一同も耐えきれず、目付に半蔵正就の非違を訴えることになる。半蔵正成の菩提寺の西念寺に一堂が立て籠もり、一揆の名目人はヒダリこと野島平内となる。

 慌てた幕閣は半蔵正就を呼び出すが、登城しない。一方、一揆衆には態勢を解けと命じ、一揆衆は従がったので、幕閣は半蔵正就が松平定勝の娘婿だが、一揆衆の方に同情的になり、結局、普請の儀は取りやめとなる。名目人のヒダリは死罪となるが、忍術を使って逐電する。

 半蔵正就はヒダリを憎み、有るとき、ヒダリと思い、通りがかりの武士を殺すが人違いとわかる。辻斬りの噂もあり、服部家は改易となる。

 その後、妻の縁で、大坂の陣の時は松平定勝の陣を借りて出陣するが、天王寺口の合戦で行方不明となる。死体も無く、結局は臆しての逃亡となり、服部家は潰される。
 ヒダリの仲間だった和田伝蔵は、これはヒダリの仕業だと推測する。

 ヒダリが2代目の服部半蔵正就を憎むに至った経緯が、短編だから十分に説明されないが、面白い小説である。