「黒船以降」 山内昌之、中村彰彦 著

副題に「政治家と官僚の条件」とあるように、幕末の各人物の事績・人柄を著者2人の対談で浮かび上がらせている本である。内容豊富な面白い本であった。山内氏はイスラム史など世界史の権威であり、幅広い視点も面白い。中村氏は歴史小説家で幕末の会津のことなどを書いて、幕末の歴史全体に豊富な知識を持つ。

本は「徳川官僚の遺産」「徳川斉昭と水戸学」「薩摩と長州」「一会桑」「ふたたび徳川官僚の遺産」という5章に分かれている。各章で徳川幕府の官僚群の優秀さを指摘している。

各章のタイトルが、その章のメインのテーマだろうが、「徳川官僚の遺産」では小笠原諸島が日本領となった経緯や日本が植民地にならなかった世界史的背景を整理していて興味深い。
小笠原諸島には、ハワイ先住民や白人が住み着いていて、ペリーは貯炭場としようとしていた。イギリスも立ち寄り、基地もあった。イギリスが領有権を主張するも、アメリカは日本と開国交渉中であり、日本領と認めた上で借りればいいと判断。

日本が欧米の植民地にならなかったのは①幕府はアヘン戦争の教訓を学んだこと。②アヘン戦争はイギリス国内でも評判が悪く、イギリスも控える。③幕府も薩長も太平天国での内戦の悲劇を知ったこと。④アメリカは南北戦争が最優先。⑤イギリスとフランスがアヘン戦争からアロー号事件で中国にかかりきりだった。⑥クリミヤ戦争で、英仏両国とロシアは交戦中。

「徳川斉昭と水戸学」の章では、水戸藩が難治の地であったことを語る。光圀は検地で1間6尺3寸を6尺にする。28万石が36万9千石になる。そのため3年続けて飢饉。実質は15万石。観念を優先させる。次の代に石高が35万石と認められるが格式だけ。幕末の実収は約6万石程度。
家臣団も混成で、4割が武田信吉(家康5男)と一緒に来た武田遺臣団、それから佐竹の遺臣、徳川直参、北条家に仕えていた人、土豪などが交じる。
加えて藩主が江戸定府であり、家臣団は江戸と国元の対立しがち。
これで、幕末に壮絶な党派争いで消耗する。復讐劇が終わるのは明治の代。

「薩摩と長州」では、長州は後に瀬戸内海交易で資本を蓄積。塩田開発も行い、20万石以上は塩でまかなえる。八代重就の時に撫育方が設置され、開発方として検地を行い、特別会計にして、米、紙、塩田開発、はぜろうなどの増産を行う。宝暦検地では長州藩は支藩も入れて90万石くらいになる。明確にはわからないが朝鮮などと密貿易をやっていた。
長州はお金があったから京都でも遊ぶ、だから人気があった。会津はもてなかった。

薩摩は藩主も実際に戦うことで外交力を発揮(関ヶ原も)し、造士館で中国通詞を養成して、琉球を通じた貿易、密貿易をしている。砂糖の収入も大きかった。薩摩は飢饉のがなかった国である。武士が多く、独特の二才(にせ)教育。

長州は井上聞多や伊藤俊輔が英国に留学して、攘夷派から開国派に転じ、高杉も上海に渡っている。彦島の租借の話があったとき、条約をするなら英国は長州を一つの国と認めたことになる。今後、英国は日本の300諸侯の国家を相手にするのかと言い出す。

「一会桑」とは一橋、会津、桑名藩のこと。このグループは京都にいて、江戸の幕閣とも対立していた。長州や薩摩の当初のターゲットは会津ではなかったか。それが倒幕になった。
会津藩は秋月悌次郎が薩摩の高崎左太郎とルートがあり文久の政変を主導したが秋月は蝦夷に左遷されて情報ルートが無くなる。
桑名は11万石だが、柏原の飛び地が6万石であり、兵力の影は薄い。ただ立見尚文の軍は強かった。一に桑名、二に佐川…会津の佐川官兵衛、三に衝鋒隊…見回り組と幕臣と称されていた。
会津は京都に残り、長州征伐に参加しなかったから、長州がゲベール銃からミニエー銃になり、後にスナイドル銃、スペンサー銃と改革していく動きに会津は遅れる。
ドイツのスネル兄弟は、故国プロイセンを北方諸藩に見立てて支援。兄は松平容保の軍事顧問のようになり平松武兵衛という名前をもらう。明治維新後に会津藩の遺臣の家族40人をつれてカリフォルニアに移住。ワカマツ・コロニー。しかし失敗して行方不明。
長岡の河井継之助がガットリング砲を購入したのもスネルからである。

「ふたたび徳川官僚の遺産」ではイギリスは自国の名誉革命をイメージ(カトリックを国教としようとしたジェームズ二世を追放し、オランダからオレンジ公ウィリアムを招きいれて、人民の権利の章典を定め、立憲君主制に移行)して薩長を支援し、フランスの公使ロッシュは幕府を援助して、ナポレオン三世の役割を慶喜が果たすことを期待したのか。

榎本武揚はオランダ留学中に赤松則良とともにプロイセン、デンマーク戦争を視察。小さな王国が同じ君主を懐いて連携。だから蝦夷共和国の発想をもったのではないか。維新後に黒田清隆が北海道開拓の長官になるが、榎本を助命して、徳川のテクノクラートを蝦夷に招く。

「語り継ぐこの国のかたち」半藤一利 著

この本は著者が色々な雑誌等で発表したものを取りまとめた本である。表題に含まれる「この国のかたち」とは司馬遼太郎の造語であり、評論である。それを借りて、老齢になった著者の思いを書いたものをまとめている。
著者の言わんとするところは次の通りである。「2度と戦争をするような国になるな」、「政治家は正しく、国の現在及び将来の本当に為になることを実施する信念を持て」、「世の動きに迎合せずに常に正しいことを言う勇気が必要」、「言論の自由が社会を健全にしていく鍵だから大事にしろ」、「本当の知識人とはどのような人物かを小泉信三を例にして説く」、「日本、及び日本人の美点を大事にして後世に伝えていけ」、「歴史を学ぶのは過ちを繰り返さないために大事」ということである。
これらを事例を交えて具体的に説いている。

戦争にからんでは、統帥権の問題、当時の参謀の無責任体質(服部卓四郎、辻政信)などを司馬遼太郎との対話の中などから書いている。

信念を持った政治家として例に上げたのは陸奥宗光のことである。また世に迎合せずに正論を吐き続けた石橋湛山のことを書いている章などが参考になる。
小泉信三のことだが、人に面と向かって言えないことを、言論の自由の美名のもとで書いてはいけないと述べられていたそうだ。

司馬遼太郎のことも日本、日本人の美点の章で書いており、彼が晩年に嘆いていたことが記されている。また晩年にノモンハン事件のことを取材していた事実を明らかにして、その執筆を断念した理由なども参考になる。須見新一郎連隊長(小松原道太郎師団長の無謀な命令を拒否したこともある)という見識のある軍人を取材していたが、司馬遼太郎と瀬島龍三がどこかで親しげに対談されている記事を見た須見氏から、あんな人物と付き合っている人との取材は拒否するし、これまでの取材内容も無かったことにしてくれと言われたようだ。

「真田丸の謎」千田嘉博 著

この本は大河ドラマ「真田丸」開始の2ヶ月前に出版されており、便乗本の一つである。
従来、真田丸は大坂城の外側に張り出していたと考えられていたが、広島浅野家の文書に「摂津 真田丸」というものがあり、それは大坂城とは離れた場所にあって、当時の地形を生かした出城であったことが判明した。
このことも、NHKの番組でも取り上げており、それを本にしたものである。「1.真田信繁と大坂の陣」「2.真田丸の謎に迫る」「3.真田氏の城づくり」「4.戦国の城から天下人の城へ」「終章.真田丸を歩く」に分かれているが、本のタイトルに関係するのが、1章、2章と終章であり、分量が不足するから著者の城郭に関する知見を半分の分量ほど挿入してある。もっともこの部分(4章)は中世の城郭を理解する上で参考になった。

さて真田丸は、現在の明星学園を中心とした場所にあり、北側に小曲輪があった。三光神社の区域とは低地を挟んでいた。真田丸と大坂城との間には約200㍍にも及ぶ谷(清水谷)がある。だから大坂城からの援軍も期待できない背水の陣を敷いたことになる。豊臣側が新参の真田信繁に真田丸構築を許したのも、ここなら真田が裏切っても大きな影響はないと判断したからではないかと著者は考える。前面に徳川軍が来るわけであり、危険な部署であることは間違いがない。
なお三光神社境内などにある真田の抜け穴とよばれるものは、徳川方の塹壕ではないかと述べており、なるほどと思う。

戦国時代の城について、当時の社会の成り立ちの変化から説明しているのがなるほどと思う。この時代、武士だけでなく、有力な寺社も、自治的な都市も村も、城を構えて、生命と財産を自力で守っていたわけだ。
戦国後期は戦国大名が山城(200㍍くらいの高さ)と、平地に館城を構え、平時は館城で政務をとり、戦時に山城(200㍍くらい)で戦う。
武田信玄は本拠は館城だが、領地の「境目の城」は戦争用に馬出しなども構築して作る。この伝統を真田氏も受け継ぐ。北条氏も支城のネットワークを作り、堀には障子堀という堀の中に凹凸を障子のような畝を作って渡り難い工夫をする。横矢(横から攻撃)ができるような建物の配置も考えている。上杉氏も畝状空堀群をつくる。

「境目の城」は軍事用で中央からの司令官が住むが、平時は家臣団(国衆)は本拠のまわりに集まっているだけ。大名と家臣の力が拮抗した連合勢力で、まだ中央集権ではなかった。だから負けると、国衆の裏切りも起こりやすい。

織田信長は重臣に信頼されなかったから、自力で親衛隊を作る。そして中央集権で重臣を従える形で城下町に集め、住まわせるようになる。そこから城の天主が立派になり、城下町となる。信長の城は小牧山城でつくられはじめ、本丸を特別な空間とした。岐阜城はさらにそれが進む。安土城は天主と自分を神のようにした。家臣は山麓から身分に応じて序列化された屋敷を与えられる。
秀吉は大坂城という私の城とは別に聚楽第(実質は城)という公の城を作る。秀次事件後に聚楽第は壊され、公の城は伏見城になる。その城に秀吉の死後、家康が入り、天下人の一歩とする。
二条城は関ヶ原後に家康が京都に作った公の城。そこに秀頼を呼びつけたことも大事なセレモニー。

一国一城令、元和偃武は、江戸時代において、各藩で大名が偉く、以下君臣関係の序列が必要になったということを反映して、信長、秀吉が作った城をマネして、階層的に本丸、二の丸、三の丸ができる。。

惣構とは、中に城だけでなく保護すべき民衆も取り込んだ塀(土塀)、堀で囲まれた一郭。
有岡城が萌芽で、城下町を持っていた。総構は身分を区分する役割があると同時に、軍事の役割があり、惣構の一角が破られると城側が降参することが多い。
惣構が広くなると自分だけでは守れない。友軍が来る場合に敷地が必要という面もある。惣構の住民は城と一緒に戦うが、負けるとなるとさっさと出て行ってしまう。民衆はしたたかである。
寺社も願寺や清水寺、東寺など惣構を持っており、寺内町と呼ばれていた。京都でも秀吉は聚楽第を中心に御土居を築くが惣構である。

「戦国軍旗と大坂の陣」小和田哲男監修

先日、所蔵の透かし鐔の文様が、福島正則隊の軍旗である「山道文」ということに気が付いたから、この本を図書館で見つけて読んだ。雑誌の一種であり、特に真田幸村のことを特集している。大河ドラマの人気を当てこんで出版されたものだろう。
軍旗の方は、大坂の陣屏風をもとに、説明しているが、あまり目新しいものはなかった。キリシタン大名の明石全登(てるずみ)の旗が「白地に花クルス二つ」というものでなるほどと思う。また小西行長の軍旗にやはりキリシタン的な「白地に中結び祇園守り」があったことが推定されている。また福島隊とは違う「白地に青の三本山道二つ」の軍旗があったことが記されている。

丸を3つ並べた軍旗も、白い餅を遇したもので、白餅=城持ちにかけて好まれたようだ。宇喜多秀家が「黒地に白餅三つ」、石田三成が「黒地に朱の丸三つ」、大谷吉継の「白地紺の丸三つ」、「紺地白餅三つ」、藤堂高虎の「黒地白餅三つ」「赤地黒餅三つ」「白地朱の丸三つ」「紺地白餅三つ」、長宗我部盛親の「地黄に黒餅三つ」などがある。

読み物では真田家の戦いに特化しており、第一次上田合戦、第二次上田合戦、大坂の陣(冬の陣と夏の陣)のことが詳しいが、特に目新しい感じはしなかった。他は関ヶ原の戦いを書いている。

「興津彌五右衛門の遺書」「阿部一族」「堺事件」 森鴎外 著

森鴎外の時代小説である。「興津彌五右衛門の遺書」は細川三斎の臣で、長崎で安南からの船が輸入した珍しい品を購入するように同僚と派遣された主人公が、一番良い香木を買おうとする。伊達家も、それを狙っていて、値が釣り上がる。同僚はそこまで高い値で買うようなものでなく、一ランク落ちたものでもいいのではと言うが、主人公は主命だからと譲らず、結局、この諍いで同僚を殺し(先に手を出したのは同僚の方)、一番良い香木を入手する。
帰国後、三斎に同僚を殺した顛末を言上して、切腹の許しを乞うが、許されずに、その後も三斎公亡き後も勤めを果たす。そして三斎公の十三回忌に切腹することになり、その経緯を書いた遺書という形式の小説である。

乃木大将が明治天皇に殉じた時に、発表した小説として有名である。乃木大将が若年の折の軍旗紛失の責任を常に思いながら殉死に到るが、それに触発された面も確かにあると感じる。

「阿部一族」は細川忠利に仕えた重臣が、殉死の許しが得ないで、新藩主に仕えていたが、寵臣や大事にしていた鷹や、犬の世話をしていた小者までが殉死する中で、白い目を向けられて、許しのないまま殉死する。その後、阿部家は総石高は変更無いものの、一族に分割され、他の殉死の家族に比べて不遇であった。
藩主の法要の時に嫡子は、そこで髻を切るようなことをして、新藩主の怒りを買う。その後、新藩主からの討っ手が派遣されることになり、一族は討ち死する。その折の親しい燐家とのやりとりなどが小説の綾をなす。
殉死に対する問題的とも考えられる。

これは原本となるような古史料があり、それを脚色したものである。森鴎外なりに、乃木大将の殉死を考えていたことは理解できる。

「堺事件」は維新後に堺の治安維持を任された土佐藩が、不法にやってきたフランス人水兵を殺す。フランス政府が賠償と、処罰を求め、土佐藩は殺したフランス人と同数の警備兵を切腹させることになる。
フランス側からの検視も来るのだが、切腹の凄惨な現場を見て、途中で退席してしまい、執行人数は減じられる。
土佐藩士の気分、意気がよく書けている。

これらの森鴎外の時代小説は、小説というよりは事実(本当の事実かは不明だが)を淡々と書いているような感じである。

「いちまき」 中野翠 著

「いちまき」とは同一の血族集団という意味だそうであり、この書は著者の曾祖母にあたる中野みわ氏が遺した『大夢 中野みわ自叙伝』という和紙に筆書きの書物と出会ったことから著者が自分の一族のことを調べていった本である。
中野みや氏は安政6年に生まれ、その実家は関宿藩久世家の江戸家老を務めていた木村家である。父の木村正右衛門正則は佐倉藩の岩瀧家から養子に入った人物である。
幕末の関宿藩も他の多くの藩と同様に、佐幕派と勤皇派に分かれ、抗争していた。木村正則は佐幕派の頭目の一人として、彰義隊の戦いにも参戦して、敗走する。その過程で、実家の佐倉藩岩瀧家の係累を頼ったりして、最期には静岡の沼津兵学校で教えるようになる。この頃は山田大夢と改名して平民となり、息子には幕臣黒川家の身分を買うようなことをしている。
維新の時の敗軍の物語は、会津でも幕府でも尾張でも各藩にあるが、関宿藩にもあったわけである。歴史はどうしても勝者の歴史だから敗軍の佐幕派は守旧派・反動勢力として、良くは語られていない。

曾祖母の自叙伝の中味はあまり紹介されておらずに物足りない。関宿藩の桜田門外の屋敷で生まれたとあったのを、著者が桜田門内に久世家の屋敷があった古地図にめぐりあったり、逃走の過程で隠れ住んだ場所の近くに著者が暮らしたことがあったりなどの因縁話を絡めながら筆を進めていく。
いちまきの祖先が暮らした土地を著者が尋ねることが後日談として8つ装入されている。

佐倉藩の岩瀧家の親戚に洋画家浅井忠がおり、筆は浅井忠のことに飛んだり、その知人の依田学海のことを記述したりする。それぞれに興味深い。依田学海は私が本を書いた時に土方歳三が刀の件で依田学海に述懐した言葉を引用しており、馴染みがあった。

私などは幕末当時に生きていれば、佐幕派に属しそうであり、こういう人の苦労話は身につまされる。また明治維新とは不思議な革命だったと思う。

「負け組の日本史」山本博文 著

日本史において、ある局面で敗者となった人物に焦点を当てて、その人物や子孫が、後に復活したとか言うエピソードを簡単に取りまとめたものである。
全部で70の話題を取り上げている。だから、当然に1つの挿話は短く、読みやすい。その70を「1.「節目の大戦」で敗れた負け組」、「2.しぶとく「生きのびた」負け組の執念」、「3.意外と「出世した」負け組の大逆転」、「4.いつの間にか「消えた」負け組のゆくえ」、「5.「現代まで続く」あの負け組の子孫たち」に分類しているが、この分類に意味があるとは思えない。編集の方で分類したのであろう。

古代の物部氏、蘇我氏、安倍氏から、戊辰戦争時の人物まで幅広い。函館で負けた榎本武揚、大鳥圭介が薩摩の黒田清隆などの取りなしで許され、明治になって活躍する経緯や、真田信繁(幸村)の子孫が伊達家で匿われて、それなりに遇されて生き延びたことも興味深い。よく戦う者は互いを認めるというような武士道から生まれたことだろうか。

石田三成の次男と三女は津軽信建に連れられて陸奥に行き、杉山と名字を変えて、後には津軽家と縁戚になっている。津軽為信が小田原攻めの時に石田三成の仲介で本領を安堵された恩からともいわれている。

足利義昭が豊臣秀吉の御伽衆として1万石の大名に復活していたことを知る。秀吉自身の権威付けの一環であろうか。京極家は蛍大名といわれ、妹と妻によって家が再興されたことを当時から揶揄されていたようだ。

里見家の没落は大久保長安事件からなのだが、哀れである。
琉球王朝家のその後も初めて知る。もっとも、それぞれのエピソード、記述が短いから、記憶に残りにくい。

昔は側室を持つのが当たり前であり、そういう意味で子孫が残るケースも多く、その子孫からの再興のエピソードも多い。
新書らしく、すぐに読める本で、面白い話題となる逸話を仕入れるのに良い本である。


「マリアノ・フォルチュニ 織りなるデザイン展」 於三菱一号館美術館

知人からチケットをいただき、標記展覧会に妻と出向く。自分自身ではチケットを購入して出向かないような展覧会も「えっ、こんな作家がいたの?」と言う新鮮な驚きが生じることがあり、好きである。
標記展覧会は絵画というより、女性の服飾デザインがメインであり、美術としての”驚き”は無かった。

マリアノ・フォルチュニとは20世紀はじめに活躍した服飾デザイナーで、スペインのグラナダで生まれ、ローマとパリで育ち、ヴェネツィアで制作したとある。父もオリエンタリズムの画家、母の家系も父祖がプラド美術館の館長を務めたりという芸術家一家に生まれる。

繊細なプリーツの絹のドレス「デルフォス」(繊細なプリーツを施した絹のドレス)で有名で、今回も色合いが異なった同種の「デルフォス」が展覧されていた。どんな衣装かと言うと、オリンピックにおいてギリシャで聖火の採火が行われる。その時のギリシャ人の衣装だ。
ギリシャに「デルフィの神殿」があるが、そこに因んでいるのだろう。

日本から輸入の最高級の絹地を鮮やかな色彩に染め、繊細なプリーツを施したドレス「デルフォス」の他に絹ベルベットにエキゾチックな模様をプリントしたマントやジャケットなども展示されていた。日本の着物のようなデザインも多い

軽くて華やかな「デルフォス」は、それまで身体を極度に締め付けていたコルセットから女性を解放し、女性の肢体の自然な曲線を美しく飾ったとされている。
私は、服飾の分野のルネサンス(古代の復興=ギリシャ式の採用)をしたのがフォルチュニだと思う。この人は画家、写真家、染織家、舞台美術デザイナー、染織器械の発明家でもあり、15世紀のルネサンス人レオナルド・ダヴィンチと同様に多芸である。

またギリシャ、日本に影響されていることは19世紀末にヨーロッパで流行したオリエンタリズムの影響も受けていたわけである。

画家としては父が古典的、オリエンタリズム溢れた重厚な絵画であるが、彼もそんな感じで、あまり面白くない。当時、勃興した印象派とは無縁の絵画である。
また 舞台美術デザイナーとしての展示は、舞台があるわけではないのでわかりにくいが、ワーグナーの歌劇の舞台美術で間接照明を使ったことが記されていた。一つの装置で朝、昼、夜の照明を出すことができたそうだ。

観客は少ない。また館内は21度に設定しているようで、寒かった。外は37度だが。

「戦乱と民衆」磯田道史、倉本一宏、F・クレインス、呉座勇一

この本は、国際日本文化研究センター(日文研)に所属する学者が、一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」を開催し、その時の講演録・議事録等をまとめたものである。
倉本一宏が白村江の戦いに駆り出された民衆のことを、呉座勇一が土一揆と応仁の乱での民衆のことを、F・クレインスが大坂の陣における民衆の動向を、磯田道史が幕末の禁門の変の時の京都の民衆の姿を講演している。

戦争で民衆は悲惨な目に遭うが、一方で民衆は略奪に加わったり、儲けたりするしたたかさを持っていることを明らかにしている。

白村江の戦いで日本軍は敗れるが、その一因は唐の軍勢は国家軍で訓練されて統制があるのに対して、日本軍は豪族軍の寄せ集めで、大王の命を受けた地方豪族が、自分の支配する地域の農民を連れて出兵しただけで、兵は戦うモチベーションに欠けていたと指摘。
興味深いのは壬申の乱で勝利した大海人皇子は新羅に出向かなかった東国の兵が主体。一方、大友皇子の兵は新羅で疲弊した西国の兵だった為と書いていることだ。

土一揆と応仁の乱では、京都周辺で土一揆のあった年と、無かった年の表を作成し、土一揆の無かった年とは、応仁の乱があった期間。すなわち土一揆に参加した民衆と応仁の乱で足軽で参加した人は重なることを示していることだ。
民衆は虐げられた可哀想な人であると同時に、戦場で不法な荒稼ぎをする逞しさを持っていたということを実証している。

大坂の陣における民衆のことを、オランダ商館、キリスト教関係の史料から明らかにしている。民衆は戦争が始まりそうだとなると、逃げるわけである。空になった住まいに大坂に参じた牢人が居住するということだ。大坂方は統制が取れていない牢人。一方、徳川方は各藩の軍兵。だから徳川方の方が安全などと民衆は判断する。双方ともに、民衆の住家は攻めるに邪魔なら壊すし、守るのに邪魔なら焼き払うということ。

禁門の変の時は、会津方が民家に火をつけたことが書かれている。だから、これ以降に京都の人は会津を憎み、勤皇方となる。長州の潜伏ゲリラを恐れた為である。京都は「鉄砲焼け」で江戸期30万の人口が、維新後の明治4年に23万となり、これが首都が東京に移転した一因としている。その点、江戸はいなくなった旗本屋敷が残った。

以下はシンポジウムの中での討議から。
京都守護職の下で人集めしたのが会津小鉄。戦争で儲けようとする人もいた。
防人の歌は98首あるが、妻や恋人を慕うのが40.2%、母を思うのが24.1%、戦いの悲哀を読んだのが3.4%、忠君の歌は3.4%、体制批判、防人を嫌うのが3.4%。子を思うが2.4%(これは若い人だからか)
中世ヨーロッパでは戦争は騎士の特権。騎士同士が戦う時に騎士道。負けた方は捕虜になり、身代金が要求される。日本は首を取る。
鳥羽伏見で、会津と新撰組の抜刀隊は銃の狙いが夜はわからないから、民家を焼いた。また幕府軍は1~2㍍間隔で進軍。だから大砲が効果的だった。
太平洋戦争で京都は爆撃されなかったとされるが、爆撃はされており、原爆の目標として、その効果を確かめるためにあまり爆撃しなかった。奈良は人が少なく、効果が少ないから爆撃されなかっただけで、文化を守ったわけではない。その戦争で壊されなかった京都は戦後、建て替え等で壊されている。ワルシャワやドレスデンは壊されても旧市街を復旧した。意識が違う。

「冬の派閥」 城山三郎 著

幕末の尾張藩藩主徳川慶勝を主人公にした城山三郎の小説である。この人物は尾張藩支藩の高須藩から養子に入った人物である。異母兄弟になるが会津藩松平容保、桑名藩松平定敬がいて優秀な家系である。徳川慶喜は従兄弟にあたる。
慶勝も優れた人物だが、城山三郎は幕末の激動に翻弄された人物として描く。その幕末とは周知のごとく、日本中の各藩で、大別すると鎖国攘夷、開国して力を付けての攘夷と、幕府を立てて協力する佐幕、まずは天朝の御意志を大事にする勤皇という党派対立があった。
尾張藩も勤皇攘夷の金鉄組と佐幕のふいご組の対立があった。家老格の成瀬家は金鉄組に近く、同じく竹腰家はふいご組に近く、藩内は二分されていた。尾張藩は御三家であるが、昔から勤皇の意識が強かった。これは水戸藩と共通する。
慶勝も勤皇の志が厚く、鎖国攘夷であった。また藩主に擁立されるまでに藩内の対立があり、藩内の勤皇派の支持を受けていた。しかし慶勝は、過激な思想ではなく、「一和」の言葉で表されるような穏やかな政治的な態度である。
時代の動きは激しく、慶勝のそのような穏やかな態度が許されないような時代の波が襲う。
慶勝と親交のある水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽の人柄、考え方などもよく書けていると思う。

激動の時代の中、朝廷の命令として、佐幕のふいご組の主立った者が粛清される青松葉事件が起きる。青松葉とは槍の半蔵の子孫で佐幕ふいご組の渡辺新左衛門が自分の知行地からの年貢米が判別できるように青松葉を挿したからとも言われている。
この時の朝命は、どこから、どのような理由で出されたかも不明なままに粛清される。

この事件で粛清側に立った金鉄組の諸氏に、”たたり”と思えるような変死事件が続き、それが維新後の物語に絡んでいく。維新後の物語とは北海道の八雲に尾張藩士が移住して開拓していく話である。ここからは主人公が開拓に出向いた慶勝側近の医師に替わるような小説手法である。

慶勝の気持ちになりきって、従兄弟の徳川慶喜の人柄・変節していく態度を上手に描いている。歴史を読むよりに、この小説の方が当時の慶喜の行動を的確に描いていると感じる。

「大義」が先の戦争で持ち出されたように、「朝命」が戊辰戦争時には問答無用の基準になったわけで、そのようなもののいかがわしさ、それがはびこる時代の空気に城山三郎なりに問題提起している。やるせなくなるような小説である。

「松方コレクション展」於国立西洋美術館

西洋美術館の基礎になった作品群である松方コレクションの展覧会を妻と観に行く。
西洋美術館所蔵の作品も当然に展覧されているが、散逸していたものも展示されている。所蔵品のモネの「睡蓮」は、モネの一連の睡蓮作品の中でも白眉と思う。
今回は保存の途中で上半分が欠損してしまった「睡蓮、柳の反映」の復元画像が入口に写されていた。また欠損した現物と、復元作業の様子がわかる展示も最期のコーナーに展示されていた。目玉作品である。

松方幸次郎は川崎造船所の社長で、第一次世界大戦の船舶好況で財を成して、ロンドンやパリで美術品を買い集める。日本の若者に本物を見せる為で、美術館建設計画まで持っていた。
しかし昭和金融恐慌で事業は破綻して、日本に来ていたコレクションは売り立てられ、ロンドンの倉庫に保管していたものは倉庫の火災に遭ってしまう。パリのコレクションはナチスの手から逃れたが、戦後、フランス政府に敵国資産として没収されて1959年に美術館建設を前提に返却(この時にフランスが重要作品としたものは返却されない)されるという経緯となる。

ロンドン時代のコレクションはイギリスの当時の人気画家ブラングインのものが中心である。現代では重要とされない作家のものが多く、私には馴染みの無い画家の作品が多い。また古い時代の絵画も多いから、この時は西洋美術史を体系的に集めたのかもしれない。この中ではミレイの「あひるの子」は画題が可愛い女の子で愛おしいものだ。

当時の世相(第一次世界大戦)を描いた戦争画も多い。また造船業を営んでいたから海と船に関する作品群もある。この前、Bunkamuraで「印象派への旅 海運王の夢」展でラスゴーで海運業で財をなしたウィリアム・バレルのコレクションを見たばかりであるが、船関連は戦争があると儲かる業種である。

彫刻もロダンの作品が多く展示されていた。ロダンは人体の動きを色々と作品に残していることがわかる。身体の躍動感が凄い。青銅なのだが、黒光りしており、どのような色上げをしているのだろうか。

パリ時代に集めたものが圧巻である。多くのモネの作品がある。モネから直接購入したようだ。「舟遊び」もいい絵と感じる。ハンセンという人のコレクションをまとめて購入したこともあるようだ。こうしていい物が集まったのだ。
今回、ゴーガンの良さをはじめて理解した。「扇のある静物」は何とも言えない色遣いで魅力的である。これはフランスが接収したままオルセー美術館にある。

妻とルノアールの作品「帽子の女」の輝く白に驚く。妻は照明を工夫したのではと言うが、そうとも思えるように光彩を放っていた。また「アルジェリア風のパリの女たち」も魅力的な絵である。これらは以前にも拝見していたが。
なおルノアールは、彼に師事した梅原龍三郎が西洋美術館に寄贈した2点が平常展にも展示されていた。
ゴッホの「アルルの寝室」は何とも言えない色遣いで、目を惹く。色と言えばマティスの「長椅子に座る女」も魅力的である。

松方は北欧にも旅をしてムンクの「雪の中の労働者たち」を購入している。また油彩ではなく版画なのか「吸血鬼」「女」などはムンクらしく気持ち悪くて魅力的である。現代人の感性に響く。海軍の頼まれてスパイ行為をして、機密文書を絵画と同梱して日本に送ったのではとも解説にあった。

スーティンの「ページボーイ」(これもフランス政府が接収)も力のある独特な絵である。なお平常展にもスーティンの同じような作品が展示されていた。面白い作家であり、認識を新たにした。

平常展は印象派以降を中心に拝観し、それとは別に「モダン・ウーマン」という特集展示も観た。フィンランドとの外交関係樹立100周年記念ということで、北欧の女性画家の作品である。
シャルフベックは簡素な線、色での作品で心に響くところがある。

「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」中野等 著

何で秀吉が朝鮮出兵をしたのかは、この本を読んでもよくわからなかった。誇大妄想の果てなのだろうか。
また講和交渉は朝鮮ではなく、明が前面に出ているが、これは今の米軍と中国軍と同様な朝鮮半島の宿命であることが理解できた。明は朝鮮のことなど本当には思っておらず、自国第一なのだ。
また講和交渉ではトップ(秀吉、明の皇帝)の考えとは別に交渉担当者(小西行長、宗義智、明の将軍)が互いにそれぞれの面子が立つ落としどころを探っての交渉であることもわかる。
日本軍の損害も大きいが、朝鮮の被害はそれ以上であり、今の韓国の日本観に影響するのは無理もないと感じる。

「1.征明を期して」では、秀吉は国内の戦国大名と同じ原理で列島外の外国の王にも日本朝廷への出仕を求めた。自分が日光・日精に感じて母親が懐妊したという奇瑞を語る国書であり、朝鮮には対馬の宗氏を通して交渉している。
天正18年11月に朝鮮使節が来日して謁見。朝鮮使節は秀吉の国内統一を賀しただけだが、秀吉は朝鮮が服属したと認識して明を攻める時の先導を求める。天正19年9月に対馬の宗氏は朝鮮に渡って朝鮮出兵の警告をしたが、朝鮮は脅しに過ぎないと認識した。そして朝鮮は明に報告しなかった。明は琉球から情報を得ており、明は朝鮮に不信感を持つ。

「2.唐入り」では、天正20年4月に小西軍がまず渡海。当時の朝鮮は明に倣った科挙制度で官吏が登用され、両斑(東斑=文臣、西斑=武臣)が支配階級で、なおかつ崇文軽武の風潮だった。両斑、中人、常民、賤民の4つの身分階層があった。
両斑は東人派が南人派、北人派に分かれ、西人派と三つの派閥抗争をしていた。
日本軍は4月12日に釜山に上陸し、5月2日には漢城に至る快進撃で国王は漢城から脱出する。鉄砲の力である。また朝鮮民衆の国に対する反乱も起こる。
国王が率先して逃げる文化は大陸的であり、日本人には違和感を持つ。

6月15日には平壌に入城する。このあたりから朝鮮人民の抵抗が激しくなり、日本軍が平壌に迫る中、明が救援を決定する。明の本国自身が危ないと判断した為である。
明は朝鮮を助けるものの、本質は朝鮮よりも明が大事というスタンスで日本軍と対峙していく。

朝鮮水軍の李舜臣が南方海域で活躍し、藤堂高虎、亀井、来島軍を破る。これで秀吉の渡海が延期になる。
7月15日には秀吉は明への侵攻よりも、朝鮮半島内の支配優先の指示を出す。

明軍が増強されて、その中にいかがわしい将軍沈惟敬なども来る。小西と和平会談をして、50日間の休戦協定が結ばれる。朝鮮側は和平に反対であるが、明は無視する。
12月に明の大軍李如松が43000の兵で平壌を囲む。朝鮮軍8000、義兵2000も参戦する。和平は明の時間稼ぎの策謀であった。日本軍は15000程度であり、苦戦して1600の戦死者を出して、南方に逃走。ただし明軍にも多大な損害があり、追撃は免れる。
漢城に日本の各軍が終結して戦うが食料不足となる。

文禄2年3月になると、秀吉も漢城からの撤退もやむを得ないと考え、晋州城の攻略を命じ、東国の兵の渡海も行われる。
この頃には厭戦気分が朝鮮だけでなく、日本国内でも広がる。朝鮮半島でも厭戦の明軍が日本側と講和。朝鮮の意向は無視される。明の使節が日本に派遣されると秀吉の面子も立つとなるが、使節と称しても皇帝の使節ではない人物を派遣する。

「3.講和交渉とその破綻」では、征明の構想は消して、朝鮮内の領土(南部沿岸部)の確保と、明の皇女を天皇の后妃にする、貿易を復活させるなどの条件を提示して使節に持ち帰らすが、当然のように交渉は破綻する。
この間、日本軍は晋州城を攻略する。

「4.慶長の再派兵」では講和交渉の破綻を受けて、文禄5年(慶長元年)に再度出兵となる。日本軍は増強される明の大軍、食料の不足、降倭(朝鮮軍に寝返った日本人で、鉄砲の技術も伝える)、朝鮮の義兵などで苦戦する。
慶長3年に秀吉が死去。この死を隠して和議を交渉する。この間、各地の局地戦では日本軍は苦戦しながらも明軍を破っていることが和議交渉に力になる。小西行長、加藤清正が、それぞれ明軍と交渉する。朝鮮側は和議には反対していたが、日本軍、明軍がお互いの面子を立てながら休戦して撤退する。

「5.復交」では、国土が疲弊した朝鮮にとって明の駐留軍は必要だが、その滞在費負担もある。明は中国への侵攻を朝鮮で食い止めたいとの思惑があるが、滞在長期化の厭戦気分、明国内で兵乱もある。日本は対馬の宗氏、柳川氏が朝鮮と国交を回復したいとの思惑もある。徳川の天下になり、貿易も重視する中での国交の修復が図られる(宗氏の国書改竄事件もあったが)。

フロイスは日本軍15万人が渡海して、約5万人が戦死、病死、飢え死したと書いている。朝鮮側の被害も甚大である。朝鮮軍に逃げて降倭と言われた日本人も生まれ、一方、日本軍が捕虜として連行した朝鮮人も多い。

「日本史の内幕」磯田道史 著

この本は、わかりやすい文章、わかりやすい語り口で人気の歴史学者磯田道史氏が、雑誌や新聞などに投稿した歴史小話(こういう表現でいいのかは疑問であるが)を一冊の本にまとめたものである。
だから全部で64ほどの話が収められており、「1.古文書発掘・遺跡も発掘」、「2.家康の出世街道」、「3.戦国女性の素顔」、「4.この国を支える文化の話」、「5.幕末維新の裏側」、「6.ルーツをたどる」、「7.災害から立ち上がる日本人」に分類して収録している。
一話は短いから読みやすい。だからと言って内容が軽いものではなく、大半の話には史料に裏打ちされているので興味深い。

以下、断片的に気になった話をメモしておく。
沼津の高尾山古墳は卑弥呼時代の巨大古墳。秀吉は薩摩攻めで本願寺の協力を得、そのため島津は後に本願寺を弾圧した。城の便所は武者が旗指物を背負ったままでも入りやすいように天井を高くしていた。映画「殿、利息でござる」にもなった話の仙台藩の穀田屋十三郎などの民を救う姿勢は感動であり、こういう話を発掘されたのも偉いと思う。昭和天皇の教育システムを作った桑野鋭の話もはじめて知る。

家康の負け戦で名高い三方原の戦いも、織田の援軍を加味すれば、それほど無謀な戦いではなかったことを実証している。だから信玄も追撃できなかったわけである。
水戸藩には雑賀の孫市こと鈴木重朝の子孫など、敗者復活組が仕官している。

細川藩の毒味役は、調理をしたものなどに毒味をすることを命じ、監視した役として実在した。江戸期の生け花には花を長持ちさせる工夫なども含まれていた。日本では寺子屋で庶民まで知識レベルが高かったことが植民地を免れた大きな理由。そして日本は本の国であり、その文化が亡びつつあることを嘆いている。松蔭は野山獄中も含め3年ほどに500冊の本を読破している。

山田方谷の素晴らしさ。江戸の元禄頃の日本人は世界で6億人、日本で3000万人と世界の5%を占め、世界有数の国だった。日本の軍事のピークは日露~満州事変、経済のピークは1970~2000年頃。それ以降は質で勝負していかないとと書いている。

栃木県佐野市にいた中根東里という学者は知られていないが凄い人物と紹介している。1611年に慶長三陸地震があり、8年後の1619年に熊本八代地震、1625年に肥後熊本地震であり、今回の東日本大震災と熊本地震のパターンと同じ。だから歴史は大切。

特別展「三国志」 於国立博物館

刀剣の畏友H氏のお誘いで表記展覧会に出向く。副題に「日中文化交流協定締結40周年記念」とある。今は博物館・美術館も人集めが大事なようで、この展覧会においても漫画の三国志の原画やNHKの人形劇で使った人形などが陳列してある。そして新たに発見された曹操の墓の内部をハリボテ(もちろん材料はわからない)のようなもので復元しており、また赤壁の戦いで飛び交った多くの矢を天井に釣り下げるような演出をしている。加えて三国志の武将に扮することができるような写真撮影コーナーまで設けてある。その為か、観客は多い。

魏の曹操の墓は、近年(2009年)に河南省安陽市で発見された。曹操自身の方針で墓は薄葬にということで質素であり、金ぴかの目を驚かすようなものは出土していないようだ。他に漢の時代末期や三国志時代のそれぞれの国の豪族の墓からの出土品が陳列されている。
H氏は中国陶器にもご趣味があるが、「こんな形で中国では今でもどんどん発掘されているのでしょうね」と話をする。

文物は「プロローグ 伝説の中の三国志」「1.曹操・劉備・孫権ー英雄たちのルーツ」「2.漢王朝の光と影」「3.魏・蜀・呉ー三国の鼎立」「4.三国歴訪」「5.曹操高陵と三国大墓」「エピローグ 三国の終焉ー天下は誰の手に」と分けられて展観されている。

「プロローグ 伝説の中の三国志」では、三国志の物語の世界を示し、明の時代に造られた青銅の大きな関羽像が目を惹く。リアルで緻密で大きくて驚く。

「1.曹操・劉備・孫権ー英雄たちのルーツ」では、詳しくは把握していないのだが、各英傑もそれぞれも地方の名家の出身であることがわかった。日本でもそうだが、ある程度の家の基盤が無いと一代だけでの栄達・繁栄は難しい。豊臣秀吉は希有な例である。

「2.漢王朝の光と影」では、この時代は地球寒冷化の時代で食料確保が厳しくなり、農村から黄巾とか五斗米道などの宗教結社(今の道教のルーツ)が出て、反乱を起こして漢王朝が衰退していくことを示している。埴輪のように墓に埋められていた文物でも穀倉を伴った家、屋敷の模型のようなものが出ている。今のサイロの原型のようなものであり、食料確保の大切さを物語っているのだろうか。

「3.魏・蜀・呉ー三国の鼎立」では当時の戦いに焦点を当てて、当時の武器(復元もあり)も展示されていた。石球(飛礫として使う)、クロスボーである弩や、張飛の絵にあるような矛もある。ここに多くの矢を吊して赤壁の戦いを模してある。墓に埋葬されていた青銅製の当時の軍隊の騎馬兵、戦車のようなものもあったが、秦の始皇帝陵で凄いのを見ているから驚かない。作の甘い小さなものである。騎馬に鐙が無いことに気が付く。

「4.三国歴訪」で金印が展示されているが、日本の志賀島の金印と同様であり、なるほどと思う。当時の生活用品の出土品もあり、興味深いものだった。一尺の定規があり、今の24㎝ほどである。また鏡の下から出てきた紙もあり、よく遺っていたものだ。
三国の違いも記していたが、よく覚えていない。ただ呉は海洋に面しており、船での交易も盛んだったようだ。

「5.曹操高陵と三国大墓」に墓室のセットがあるわけだ。ただ展示の遺物は少ない。石碑の一部や日常用品、服飾品のバックルなどの残りやすい小物の展示である。呉の墓から出た棺桶を置くための虎形棺座や青銅の銭が花のようになっている揺銭樹などが目立つ。

「エピローグ 三国の終焉ー天下は誰の手に」では魏の臣下であった司馬氏が呉も滅ぼして三国を統一したが、それがわかる「晋平呉天下太平」と刻まれた石碑のようなものが目玉の展示であった。

平常展も拝見する。刀のコーナーでは相変わらず刀剣女子が多いのか、三日月宗近は開館時には3人の男の職員が整理にあたっていた。展示品では岡田切吉房が見事な丁字刃、立派な体配の太刀で傑出している。新藤五国光の締まった直刃で銘が見事な短刀がある。帽子の返りが長く、H氏に「鑑定会で「良くできていても帽子の返りが長いところが末関です」とか言っているのではないですかと?」と向けると苦笑して「地鉄が違う」とおっしゃっていた。近年新たに岡山藤四郎とされた吉光は茎の長さが長い。H氏によるとこういうのもあるとのこと。青江次直の逆丁字乱れの短刀も、堀川国広の刀も典型的なものだ。
鐔では正阿弥政徳の剣酢漿草紋を透かし、そこに素銅を埋め込んだものが迫力があって面白い。『鐔』で小笠原先生が最後のカラー頁で掲載されているものだ。

2階の武士の装いコーナーでは透漆塗打刀 (重要文化財 太刀 銘 定(以下切)の拵)という実に感じの良い桃山拵で、素銅の色金鐔が附けられていた。兵庫の射楯兵主神社にあり、姫路藩の家老が奉納したと記憶している。

また1階では「奈良大和四寺のみほとけ」の特別展示があり、室生寺、長谷寺、岡寺、安倍文殊院から仏様がお見えになっている。岡寺の「義淵僧正坐像」はリアル以上に真に迫ってくる像で一見の価値がある。

「現代語訳 家忠日記」中川三平編

徳川家康の家臣松平家忠(後に伏見城で鳥居元忠とともに戦死)の日記の現代語訳である。一次史料としてよく使われるものであり、興味を持っていたが、現代語訳ということで紐解いた。
我々の日常がどうと言うことのない日々が続くように、この日記も大半はどうと言うことのない日常が簡単に記述されている日記である。現存するのは天正五年十月十六日から文禄三年九月の18年分に、飛び飛びの分である。
松平家忠は天正三年に父と長篠の戦いに参加し、父は戦死している。以降、家康の戦いに動員され、天正十八年に家康が関東に封じられた時に武蔵忍城一万石の封地を得る。その後に下総小見川に転封される。

大部な日記であるが、精読ではないが一通り目を通す。

現代語訳であるが、「家康」と敬称もつけずに日記に書いていることに驚く。途中から「家康様」も出てくるから、当初の記述における呼び捨ては事実なのであろう。本家・主筋の関係と言えども、石高の大きさの違いで仲間・同輩のようなものだからだろうか。

重大事件の時の実際の現場の動きがわかるところも興味深い。本能寺の変は天正十年六月二日早朝だが、家忠は三日午後六時頃に情報が伝わっていることを記している。この時は明智光秀と織田信澄の謀反と伝わる。四日に明智光秀の謀反とわかり、家康は伊賀から伊勢に出て大浜に上陸したことがわかり、お迎えに行っている。

天正十二年に小牧・長久手の戦いと講和があり、十二月二十五日に越中の佐々成政が浜松に来たことも記されている。有名な佐々成政の「厳冬の立山越え」のことである。

天正十三年十一月十三日に石川数正が上方(豊臣方)に出奔するが、その前に十月十五日に家忠など家臣団に人質を出すような触れがあり、家忠も二十八日に人質として娘を出していることがわかる。石川数正が出奔する前から家臣の間で不穏な情勢があったのあろうか。

家忠は小牧・長久手の戦いや、北条攻め等に参加しているが、戦いのことはあまり出てこない。

天正十三年十一月二十九日に大地震があり、しばらく余震が続く。(これは天正大地震とも称され、日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ大地震)地震学にこの日記が使われているようだ。

父祖からの三河の地から、関東への移封は大変だったと思うが、日記からは大変さなどはわからない。このことに限らず、全体に感情の動きは記されていない日記だが。

家忠は普請をよく手がけているというか、普請に狩り出されていることがわかる。
また個人的には連歌を嗜んでいたことがわかる。
刀では熨斗目の拵をよく作っていることがわかる。派手な性格だったのであろうか。
下総小見川の領地から江戸に出る時は、船橋から船で行っていたことがわかる。
高野聖から織物などを購入しており、高野聖は行商人であることがわかる。

「鉄の文化誌」島立利貞著

世界における製鉄の歴史を中心に、鉄に関わる日本刀や鉄道やエッフェル塔などのことを幅広く書いている。日本刀のことは刀の作り方で、私には既知のことである。製鉄の話はこの本も含めて色々の本を読むが今一つ理解できない。理科系の話になるからか、言葉が専門用語になるためか、私の理解力不足かはわからないが。ただし書中において提示されたデータの中には面白いものがあった。
地球は「鉄の星」として紹介されている。それは大気や地表面には元素として酸素、ケイ素が多いが、地球の芯まで考慮すると鉄が一番多いのではと推論されているからである。
ヒッタイトは鉄器を作ったとされているが、王墓の中の遺品しか鉄製品は残っていないそうだ。
古代の製鉄炉は、小高い土手の上から真下に竪穴を掘り、土手の裾から横穴を掘って風穴とする竪炉である。木炭と鉄鉱石を詰めて火を熾して鉄を作る。
日本では吉備(岡山)が鉄の産地。
中世になるとヨーロッパではレン炉で、そこで作られたルッペを鍛冶屋が鍛錬して鋼鉄をつくる。それから低シャフト炉に移行する。
日本ではタタラ吹き製鉄が主流である。最近のタタラでは一回(一代)に砂鉄10トン、木炭10数トンを用いて、鉧を3トン得ている。このように非常に多くの木炭(木材)を使う。だから中国地方のタタラ業者は広大な山林を所有していた。田部(2.4万町歩)、糸原(3千町歩)、桜井(3.4千町歩)、卜蔵、近藤(5.4千町歩)の5家が大きかった。
15~17世紀に日本刀は大陸に輸出された。100年で22万把。価格は1/10になっている。現存品が残っていないが、多くはシャムに渡ったことがわかっている。
ドイツのハンザ同盟諸都市は鉄鋼を主要商品としていた。1588年にイギリスがスペインを破ったころからハンザ同盟は衰える。大航海時代に乗り遅れた。
近世になると高炉ができる。液化した鉄を取り出すことができて、鉄の鋳造時代を迎える。木炭を多く使うので、森林の供給が追いつかなくなると移転する(1トンの鉄に木炭は1.2~1.5トン。木炭は5マイルまでしか運べない)。森林が荒廃するのは公害であり、製鉄業は15世紀前半にドイツのアイフェル地方。その後ベルギーのリェージャに移り、ここは大砲の産業が興る。さらにイングランドに移る。
18世紀初めに英人アブラハム・ダービー1世が末に木炭の代わりにコークスを使う炉に成功する。18世紀末にヘンリー・コートが反射炉による銑鉄精錬法を発明して急速に鉄鋼生産量が増加する。この副産物に石炭ガスが発生してガス灯が使われる。
ニューコメン、ワットが蒸気機関を発明する。炭坑で使う排水ポンプで利用される。
19世紀に入ると滲炭鋼という堅い鋼材が作られる。大砲に使われるようになり、クルップのような死の商人が生まれる。
反射炉は18世紀後半に生まれる。
日本ではオランダのヒューゲェニンの著作を訳した『鉄熕全書』が嘉永3年(1850)以降に広く出回り、各地で反射炉による大砲鋳造が行われる。
佐賀藩は16回も失敗したが、和銑から作ったが、木炭の為に失敗。筑後の石炭を使って成功する。佐賀藩は小型化したアームストロング砲は製造に成功して彰義隊討伐に使用する。

「戦国武器甲冑事典」中西豪・大山格監修

副題に「戦術、時代背景がよくわかる」とあるが、日本の武器や甲冑などについてカラーでの図解中心にまとめたものである。
大きく武具と甲冑に分け、武具は刀、槍・薙刀、弓、鉄砲、忍具の5章である。甲冑は甲冑の変遷、胴、小具足、着用次第、兜、陣羽織、馬具、合戦武具、武将甲冑、家紋の10章に分かれている。

刀のことは当方がわかっていることが大半だが、刀を実際に甲冑に着用する方法などは参考になる。
槍の名称、槍印、石突などははじめて知ることが多く、槍の構え方、戦い方や堀を渡るときに水中に棒として使う方法などが記されている。
弓は射程距離50㍍程度で薄い鎧を打ち抜く威力はあり、鉄砲と違って訓練が必要だが、鉄砲以降も重要な武器だった。
弩(いしゆみ)は中国で城の防御用に発達したが、日本では藤原広嗣の乱でつかわれたという記録はあるが、速射ができないなどの欠点で使われなくなった。

鉄砲では、大筒との違いが参考になる。なお鉄砲は300㍍ほど飛ぶが有効射程距離は100㍍内で、50㍍先の5ミリの合板を打ち抜くほどの威力がある。
大坂夏の陣では伊達軍が馬上筒を使うが、射程距離30㍍ほどとある。
撃ち方も詳しく、伏せだめ放し、諸ひざ折り放し、鐔どめ放し、緒だより立て膝放し、腰だめ放し、諸手放しなどの打ち方が図示してある。
大砲のことも記されている。この書にも関ヶ原の戦いでも石田三成が使用したことが記されている。ただし当時の鍛造技術では運用リスクも大きく、日本の場合は地形・道路の制約があり、攻城戦にはいいが持ち運びが不便で対人も命中率が低いという欠点があった。
大坂の役では稲富流の大鉄炮の口径33ミリ、弾丸重量50匁で1600メートルまで照準射撃ができたそうだ。

甲冑については詳しい。古墳時代から奈良、平安前期、源平期、南北朝期、室町期、戦国時代、江戸時代と分けて説明される。そして平安時代からは足軽など下級武士の胴丸、腹巻などの説明がある。
次ぎに鎧の各部の胴の種類と構造の説明がある。小具足は下着、籠手、脛当、立挙(たてあげ…膝頭を守るもの)、脇曳(わきびき…脇の下の隙間を防御)、袖(そで…肩の保護)、佩楯(はいだて…膝の鎧)、喉輪、面頬(めんぽお…顔の保護)、履物、それに陣笠、結髪、の説明があり、次いで鎧の着用手順の説明になる。
兜は各部の名称、兜の種類、立物(兜につける装飾)の種類。変わり兜と続く。

陣羽織の現存するものを紹介したり、忍術の道具、捕り物道具、農民武器(農具)が説明される。また合戦武具として陣太鼓、、楯の構造、携帯食料、水筒の形や矢を抜くための矢挟という道具、軍扇、軍貝、采配、鞭、軍配、母衣、旗指物の色色、各武将の軍旗などが紹介される。ここで福島正則の山道の旗を知る。
戦国時代の陣形また、有名な武将の甲冑姿も描かれ、間々にあるコラム欄では、名刀のことなど刀に関するエピソードも書かれている。

「北大路魯山人」展 於千葉市美術館 

 知人が行きたいと言うので同行する。副題に「古典復興 現代陶芸をひらく」とある。北大路魯山人の作品だけでなく、魯山人が影響を受けた古陶磁器(中国龍泉窯、景徳鎮の青磁、明赤絵、染付)や朝鮮高麗茶碗、熊川茶碗、志野、瀬戸、織部、楽長次郎、光悦、尾形乾山なども一緒に展示されていた。また魯山人と同時代に古陶磁器の復興をこころみた石黒宗麿、川喜田半泥子、荒川豊蔵、加藤唐九郎、金重陶陽、八木一夫、イサム・ノグチなども展示されていた。

 魯山人の作品の中では大きな作品である「倣古伊賀水指」、「雲錦大鉢」は造形も素晴らしく、彼の実力を再認識した。前者は川喜田半泥子の「伊賀水指 銘慾袋」と並んで展示されていたが共に迫力のあるもので”東の魯山人、西の半泥子”と称されただけのことはある。魯山人の「備前大手桶」は木の桶を陶器で作ったものだが、どのくらいの重量か不明ながら実に魅力的な作品だった。水を入れたら重たいだろうなと思うが、実用的でなくとも素晴らしい作品だ。

 実用に言及したが、魯山人の作品は、小さなものでは、そのデザインの斬新さ、色遣いの上手さにも感心する。料理が盛られたら更に感じがいいだろうなと理解できる造形であり、色合いであり、また薄さであり、好感が持てるものだった。

 研究し、影響を受けた古陶磁は前述したように中国、朝鮮の青磁から始まり、染付、そして日本の桃山期の志野、織部、古瀬戸に信楽、備前に楽、光悦、そして江戸期の仁清、乾山と幅広く、まさに近代陶芸の巨人である。こうした古陶磁器遍歴の中で、日本の桃山期の気分に魯山人の気性が近かったのかとも感じる。

 こういう風に陶磁器の歴史をなぞるような研究と複製に励んだから、現代の陶芸界が活性化したのかなと感じる。今回の展覧会の狙いもここにあるから副題に「古典復興 現代陶芸をひらく」と名付けたのだろう。

 全展示作品の中では長次郎の黒楽茶碗と赤楽茶碗(銘栗鼠)や伝本阿弥光悦の赤楽茶碗(銘松韻)が好みである。所蔵は石水博物館蔵とある。半泥子の「伊賀水指 銘慾袋」も同館の所蔵であり、一度出向きたいと思う。
 なお石水博物館蔵の母体を創った川喜田半泥子は百五銀行の頭取も務めた実業家だが、ここに展示されている半泥子の他作品である粉引茶碗 銘「たつた川」や井戸茶碗 銘「雨後夕陽」なども魅力的である。

「西洋美術史から日本が見える」木村泰司 著

表題は標記の通りの本だが、内容は西洋美術史を学び、ヨーロッパのエスタブリッシュメントと交友がある著者が、日本の軽薄な欧州模倣文化を批判するといった本である。
著者の日本人風潮批判には共感できるところも多いが、西洋美術史のことなどほとんど出てこない本であり、私にとっては内容が薄い、時間潰しの本だった。

「考える江戸の人々」柴田純 著

江戸時代における大名から庶民(書いたものが残っている庄屋クラスまで)までの生き方、考え方を説き明かした本である。
中世は神仏がこの世界を支配しており、人が英雄的行為をしても、それは人の功績ではなく神仏の加護と認識されていた。蒙古襲来でも神仏に祈るのが基本であった。
応仁の乱以降、社会が混乱。神仏の権威に懐疑心が生まれる。またヨーロッパ人の来航で天竺以外を知り、仏教的世界観が崩壊していく。戦国大名は国冨のために土木工事などの灌漑事業を行い、耕地面積を増やす。太閤検地で下人が小農民になる。すると農具・農法を改良するようになり、その為に知識も学ぶようになる。
こうして、「人を救うのは人」という認識が生まれ、鍋島直茂は嫡子に「仏神に祈るのは人力の及ばないことを祈る」ことと述べる。
各自が生き方を正しくし、向上していくことの大切さを意識するようになる。

大名では井伊直孝(道理、法度重視、人間としての向上)、鍋島直茂、池田光政(治者として百姓重視)のことが記され、学者では藤原惺窩、その弟子の林羅山、紀州藩に仕えた那波活所の思想が簡単に記されている。那波活所は著者が世に紹介した人物で、自ら考え工夫することの大切さを説き、人間の本質を人と人との間やものに共感・共鳴する活動性にあり、その共感能力を高めるために詩文書画といった芸術も大切と強調しているようだ。
それに伊藤仁斎、荻生徂徠。また武士の山本常朝(葉隠)、浅井駒之助(和歌山藩士で藩政を批判して果てる。その子忠八が町奉行や大番頭格になる)や沢辺北溟(宮津藩の藩医の子、藩政にたずさわる)を紹介している。

庄屋の河内屋可正(河内国大ヶ塚村の庄屋筋)が自分を中人として工夫、才覚、思案することの大切さを唱え、西村次郎兵衛(但馬気多郡の大庄屋)は家業の恩、それを守る為の幼年よりの筆算の大切さ、また誠にして堪忍の心得などを説く。

 そして、近江の五個荘町域にあった庶民の塾というか寺子屋の時習斎の入門者史料から、広域から、そして女性も学んでいた実態を明らかにしている。こういうのが近江商人の源流なのだろう。

 読みやすい本ではない。