「花房助兵衛」司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集8に所載の短編で、宇喜多家の家来の花房助兵衛の話である。秀吉にも遠慮しない剛強な侍大将として記述は進む。
小田原の陣の時に、秀吉が滞在しているところに下馬せずに通りかかり、警備のものと揉める。それを見ていたのが出雲の歩き巫女の吉備之助である。この時に花房助兵衛の落とした袋を拾う。中には小壺があり、そこに小さな骨が入っていた。すると吉備之助のお付きの巫女に、若い女の亡霊のようなものが取り憑く。そこでこの小壺を花房助兵衛に届けようとするが、花房の陣は軍律が厳しく入れないので、いずれ渡そうということで旅を続ける。

出雲に戻り、備前の花房のことを聞く。助兵衛は朝鮮に出て、活躍していた。
時はたち、宇喜多家で内紛がある。戸川肥後守、岡豊前守、長船紀伊守の重臣が争う。花房は戸川に与し、秀家の寵臣中村次郎兵衛を撃たんと大坂に出る。その騒ぎを徳川家康が調停する。そして戸川と花房は常州佐竹家預けとなる。この時に、吉備之助は花房に会い、例の袋を渡す。いわれは何もいわない。吉備之助ははじめて花房助兵衛に出会った時と同様に、ときめく。

関ヶ原前の小山会議の時に、東軍諸将は佐竹が腹背をつくかが心配になった時に花房は呼ばれ、動向を聞かれる。彼は佐竹は動かないとの観測を述べる。ただし、そのことを誓詞に書けと家康に言われるが断る。武士が言ったことを更に誓詞とはという気持ちである。このことで大名にはなれずに備中高松で七千石となる。なお大坂の陣には病気を押して輿に乗って参陣という逸話を残す。

戦国、豪傑物語の一つである。小壺の謎は解明されずに、小説としては物足りなさを感じる。どうせ小説なのだから、ここで花房助兵衛の若い時の艶っぽい物語を展開してもと、私は思うのだが。

「覚兵衛物語」司馬遼太郎 著

この短編も、司馬遼太郎全集8に所載で、加藤清正の家来の飯田覚兵衛の物語である。
飯田覚兵衛が老年になって若い女が側室としてあがってくる。覚兵衛が若い時に馴染んだ女性と似ている。そこで覚兵衛が昔語りをする。
覚兵衛は山城の山﨑村で15まで過ごす。百姓の子でサイ八と呼ばれていた。後に同じく加藤家の家老になった森本儀太夫とも幼友達であった。儀太夫は力士といい、2人で暴れていたが8つの時に、この村に尾張中村生まれの夜叉若という子が来る。遊びの中で3人で党を組もうとのことになる。そして、その中で大将を決め、終生大将のもと家来として一緒に過ごそうと約束する。この時、夜叉若が大将になるが、その後、彼は尾張に帰る。

のちに夜叉若は秀吉に仕え、加藤清正となる。彼は百五十石の物頭になった時に力士とサイ八を呼びにくる。サイ八は武士は嫌だが、説得される。
合戦の都度、清正におだてられてここまでくる。覚兵衛は戦上手であった。清正が死ぬ時、2人を呼んで、二代目の息子忠広を頼むと言われ、ここでも侍を止める時を失う。
ところが忠広と合わず、加藤家を辞す。その後、加藤家は取り潰される。

加藤清正の人使いの上手さを書いた面もあるが、これを書くならば、もう少し突っ込んで書いて欲しい。

飯田覚兵衛の人生、加藤清正に操られた人生を「侍が嫌だった」とのトーンで否定的に書くのも、覚兵衛の実績を見れば無理があるように感じる。

平和になった時に、どの大名家でも生じた古老と二代目との確執が真相なのだろうが、そのように読者に思いこませるのにも、材料が不足している。

「雨おんな」司馬遼太郎 著

この短編も、司馬遼太郎全集8に所載である。出雲の歩き巫女の「おなん」という女性が主人公である。関ヶ原合戦の時に、たまたま、この地にお供の者(与阿弥、市)と3人と旅をしていた。
夜、西軍に属した宇喜多家の稲目左馬蔵に最初に犯される。朝方には東軍に属した福島家の尾花京兵衛に犯される。ともに戦の前に女と交じると武運があるという言い伝えをつげる。ともに名を聞き、戦いの後に尋ねてくればと言うようなことを述べて戦いに行く。
関ヶ原合戦の時は遠くで銃声を聞きながら、怯えて過ごす。東軍の勝と知る。

その後、「おなん」は旅を続ける。岡山は宇喜多家の領地ではなくなっていたが、ここで稲目左馬蔵の消息を訪ねるがわからない。その後、安芸広島に行く。ここで尾花を訪ねる。尾花は思い出し、寝床で関ヶ原の戦話をする。それで福島軍と宇喜多軍と戦ったことを話す。尾花京兵衛に囲われて、屋敷に住み着いて2年になる。元々が旅をする巫女だから、この生活に飽きてくる。

広島城下に乞食のような武者が来て、勝負して負ければ「この首進上」と書いた高札を立てる。

福島正則の耳にも達し、「福島家の名折れだ。誰かと試合をさせろ」と命じるが、家老は尾花を呼んで、彼に足軽をつけて、この男を闇に葬ることを命じる。
京兵衛は暗殺に出向くが、「おなん」も同行することを許される。そしてここでの戦いの過程で、この乞食侍が稲目左馬蔵であることがわかる。戦いの中で稲目は川に流されるが、「おなん」は付き人の与阿弥に命じて、稲目を探させる。与阿弥が川原で稲目をみつけ、宿を世話する。

暗殺に失敗した尾花京兵衛も稲目左馬蔵を探していた。「おなん」はお供の3人で尾花の屋敷を出て、稲目がいる宿に向かう。
すると、尾花も探知して、すでに宿から稲目と尾花は出て、戦おうとしていた。
そこに「おなん」が来て、稲目であることを知り、尾花にいきさつを話す。そして闘う前に稲目が関ヶ原でのことを話す。関ヶ原で稲目は首2つを取って駆け回っていたが、敗軍となり、逃げようとした時に尾花が来て戦う。勝てそうだが、首をとっても誰も恩賞をくれないから尾花に自分が取った首を与える。尾花はそれも自分の手柄として出世をしていたわけである。

尾花は戦場で敵に命を助けられたことを恐れて、稲目を殺そうとするが、尾花は右腕は切られ、稲目はどこかに旅立つ。

ありえない話を巧みに短編時代小説に仕立てていて興味深いが、無理はある。無理筋だけに、何となく終末が見えてしまう。

「侍大将の胸毛」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎全集8に所載の短編の一つである。この巻の短編は戦国時代の脇役である豪傑を主人公にしたものが続く。これは渡辺勘兵衛のことを書いている。

 関ヶ原後に主君藤堂高虎の命を受けて大葉孫六が、勘兵衛に自家への仕官を勧めに行くところから物語りは始まる。この後、司馬遼太郎は藤堂高虎のことに触れるが、世渡りが上手で戦が下手のような印象を読者に与える。もちろん史実とは違うだろうが、あとで渡辺官兵衛との対立が不可欠になる伏線である。

 渡辺勘兵衛は増田長盛の侍大将として高名な武将であった。当初は中村一氏に属し、小田原攻めの時に主君の山中城一番乗りを助ける。その後、退転して増田長盛に仕えたわけだ。増田家は関ヶ原には参陣しないが、石田方であり、関ヶ原後に増田長盛は高野山に出家遁世。

 居城の郡山城を預かっていた渡辺勘兵衛は、敗戦で城から逃げる者が狼藉を働くのを防ぐ。そして城明け渡しの時に見事な応対を示し、男を上げる。この時、藤堂高虎は城の受取に出向いていた。

 大葉孫六のこの時の勧誘では返事をもらえずに、「いずれまた」となる。
 諸国を遍歴していた勘兵衛が伊豫今治に来て、藤堂家に仕官することになる。この時、大葉孫六は参勤交代の供で江戸に行っていた。留守の間、勘兵衛を世話した大葉孫六の妻が勘兵衛に関心を寄せる。性的関係には至らないが、物語に艶めきを与える。タイトルの「侍大将の胸毛」とは渡辺勘兵衛の胸毛のことだが、この女性との間で生じることからきている。物語の最期に勘兵衛が藤堂家を退転する時に、妻との話は印象的に終わる。

 さて、江戸から帰国した藤堂高虎は官兵衛に対面して、当初は8千石を提示し、断られてから2万石へと上げるが、結局、勘兵衛は藤堂家の戦での駆け引きを任せてもらうことを条件に1万石で仕官する。
 大坂夏の陣に出陣。高虎の命に背いて、当座、緊急の対応が必要な敵を討つ。これに軍令違反と高虎は怒る。藤堂隊は苦戦するが、勘兵衛隊は活躍する。この時の経緯から藤堂家から退転する。

 おもしろい短編小説である。
(全集では無く、文庫を紹介する。この短編集に収録されているとあるが、私は未確認であるので、御自分で確認してほしい)

「売ろう物語」司馬遼太郎 著

 これも司馬遼太郎全集8に所載の短編の一つである。後藤又兵衛と同郷で幼馴染みの同姓同名の商人が主人公であるが、後藤又兵衛のことを書いている。
 黒田家が筑前で大封を得た時に又兵衛は一万六千石になる。商人の又兵衛は、又兵衛に連絡して筑前での商売の伝手を得ようとする。幼い頃は、同姓同名なので頭の形から武将の方は「なまず又兵衛」、商人の方は「柿阿又兵衛」と呼ばれていた。

 又兵衛は如水の薫陶を得るが、如水の跡を継いだ黒田長政とは相性が悪く、黒田家を退転する。隣りの細川家が二万石で召し抱えることになったが、黒田家からの横槍が入り、幕府も調整して、仕官は断念される。今度は福島家が三万石で迎え入れたいとの話があるが、又兵衛は蹴る。
 商人は仕官の際の石高に関して「自分を高く売るだけが商売ではない」と忠告もするが、その後は又兵衛を傭う大名が無くなる。零落した時に、伊豫の加藤家なら二、三千石ならなんとかなると口を利くが、又兵衛は断る。
そして大坂城からの誘いを受けて、大坂城に入る。夏の陣の前に、徳川家からの寝返りをすすめる使者が五十万石と言うのを聞いて満足して討ち死にしたと小説は終わる。

 途中で、黒田長政と後藤又兵衛の関係がまずくなっていく経緯も書いてあり、興味深い。
戦国乱世において男を発揮した英雄の一人だが、そういう男だけに平和の世では生きるのが難しい。また2代目の主君にとっては手に余る家臣となるわけだ。

 後藤又兵衛が自分自身で売り込みをしたわけではなく、商人の又兵衛が端で男の売値について述べているだけである。それにたいして「売ろう物語」のタイトルはふさわしくないのではと思う。また商人の又兵衛のことも、魅力的には描写されておらず、あまり面白くない小説である。

「言い触らし団右衛門」 司馬遼太郎 著

全集8に所載の短編の一つである。大坂の陣で活躍した塙団右衛門(ばん だんえもん)を取り上げている。この人の事績もよくわからないようだが、数少ない良い漢詩が残されているそうだ。戦国乱世にしか生きられない人物で、戦いでは先頭を切って敵陣に突っ込んで槍働きをする人物である。
人柄、風貌などは作者の想像だろうが豪傑らしく描写している。遠州横須賀の生まれで、須田次郎右衛門と名乗り、秀吉傘下の武将加藤嘉明の足軽となる。しかし、すぐに退去して加藤家牢人(この肩書きが欲しかった)として、京都で仕官先を探す。その時、長命寺に盗賊が入った際に、盗賊を退治し、食客となる。ここの僧は観相の名人で、彼から塙団右衛門の名を提案される。

加藤嘉明が大名になった時に再度、傭われる。ただ雑兵扱いであり、大坂の町で売名行為というと悪いことだが、目立つことをしていた。加藤嘉明はこのような団右衛門を嫌っていた。
加藤家の朝鮮出兵時に動員され、その時に大指物を立てる時に団右衛門の怪力が役に立ち、これで名前が売れる。そして350石の物頭になる。関ヶ原の時は自分の鉄砲足軽を置いて、単騎で突っ込んで手柄を上げるが、軍律違反を問われる。これで嫌気がさして、再度、加藤家から離れる。奉公構とされるが、小早川家に仕官する。しかし小早川家が断絶して牢人になる。

ここで口入屋の出戻り娘とねんごろの関係になる。そして大坂の陣である。紀州徳川家からの仕官の口もあったが、大坂城に入る。そして冬の陣における夜戦の大将に任じられて手柄を立てる。この時に、「寄せ手の大将 塙団右衛門」という木札をばらまいて相変わらずの売名行為。

夏の陣では紀州方面の担当になるが、先陣争いをして、単騎突入。ここで大暴れするが、戦死。首実検が雨と腐敗で中止となった時に、ねんごろの関係となっていた出戻り娘が、憑かれたように、「われも一手の大将なり。首実検をしないと祟る」と言って、首実検を行ったという逸話を入れて物語りを閉めている。

面白い小説である。
(文庫本をリンクしておく)

「尻啖え孫市」 司馬遼太郎著

司馬遼太郎全集8の「尻啖え孫市」である。読みやすい小説だが、自治会からみの仕事が多く、なかなか時間がとれなかった。
紀州雑賀の鉄砲隊を率いた雑賀孫市を主人公にした痛快な時代小説である。時代小説と書いたが、雑賀孫市は実在した歴史上の人物であるから歴史小説でもいいのだが、ほとんど事績がわからない人物である。それを司馬遼太郎が女好きで鉄砲の腕はもちろん、腕力も強く、権力欲の無い快男児に仕立てている。女好きと言っても、カラッと明るい女好きで、理想の女性を求めて、それだけが生きがいのような男にしている。
司馬遼太郎全集を再読して改めて思うのだが、主人公への魅力的な女性の絡ませ方に意を配っていることを認識する。

この小説では、カラッと明るい女好き孫市は、好ましい女性を種々の観音に例えて女性遍歴をするような人物にしているから、孫市の行動の節々に魅力的な女性を沿わせてくる。
読者に読んでもらうためのテクニックでもあると思う。昭和38年~39年に「週刊読売」に連載された小説という側面もあったのであろう。

孫市が京都に出向いた時に見かけた女性(それも足先だけ)に憧れ、それが織田家の息女と聞いて、岐阜の城下に来るところから小説は始まる。ここで木下藤吉郎に会う。藤吉郎が信長と諮って、織田家の親戚筋の娘を、孫市が顔を見ていないことを幸いに、仕立て上げる。その娘を京都に出向かせて、それらしくする傍ら、織田の朝倉攻めに孫市を誘う。浅井の裏切りで退却するが、その殿戦を申し出た藤吉郎に協力して戦う。そして京都で憧れの女性に会うが、偽物だったことを知り、織田家と絶縁して、紀州に戻る。

紀州では一向宗が力を増している。そして孫市が京都で見初めた女性は紀州の名門、紀家の姫と知る。孫市は宗教など大嫌いな男であるが、姫は浄土真宗を信仰しており、その姫も参加されるという聞法の集会に出る。
そこで浄土真宗の説法僧法専坊信照に出会い、僧が姫との仲立ちをする。というのは石山本願寺が信長との戦いに備えて雑賀孫市を大将に迎えたいと考えていたからである。孫市は茶席で姫と会う。ただ姫は孫市より、法専坊の方に好意を持っていると感じる。

堺に出向く場面になる。懇意の鉄砲鍛冶のところで、そこの養女で種子島家の血を引く女性に出会う。この鉄砲鍛冶も、その養女も本願寺門徒であり、孫市の本願寺側への参戦を希望していた。
堺で藤吉郎に再会し、藤吉郎から信長の堺代官が孫市の命を狙っているという情報をもらう。その暗殺者と戦う。

養女を連れて紀州に戻り、本願寺の為に戦うことになる。養女は種子島家の血を引いているので鉄砲女神のような位置づけで、雑賀衆のまとめ役となる。
石山合戦は孫市の鉄砲隊のおかげで信長の攻撃を跳ねかえす。一度、朝廷の仲立ちで講和を結んだのは、孫市のアイデアであるような小説になっている。
その後も信長と戦い、時には孫市が信長を狙撃するが、信長勢力は拡大していく。本願寺は信長と和を結び、石山本願寺を退去する。紀州攻めを防いだが、脚を負傷する。後に、孫市は家督を譲り、堺で隠居する。
その後、信長は本能寺で死に、秀吉が天下をとる。、秀吉と家康の争いの時に、秀吉側から味方につくようにと要請されるが、隠居であり、判断は国元に任すとした。秀吉側から雑賀へ説得に来た使者は態度が大きく、徳川方につくことになる。秀吉と家康が講和後に、雑賀も開城する。藤堂高虎が秀吉が会いたいと言っているとのことで、粉河寺に出向くが、ここで孫市は死ぬ。

「尻啖え」とは孫市の捨て台詞である。
(全集ではなく、文庫本をリンクする)

「燃えよ剣」司馬遼太郎著

司馬遼太郎全集の第6巻である。以前読んだ時のことはすっかり忘れているが、導入部はこんな小説だったのかと新鮮であった。
私が自分で定義している時代小説と歴史小説の違いは、時代小説は主人公は架空(例えば忍者)ということで、歴史小説は主人公は歴史上の人物で一応の事績は知られている人物というところが違う。この小説は歴史小説であるが、前半の新撰組ができるまでの多摩にいる頃の土方の描写は時代小説らしく、女性、敵役に架空の人物を設定して、それに土方を絡ませて生き生きと書いている。そして司馬遼太郎独自の土方歳三のイメージ(組織作りに長けて、政治的なことには関心がなく、無愛想で軍事に才能がある)に合致するエピソード、あるいはそのような人柄を強調するようなエピソードを興味深く挿入して、読者に司馬遼太郎の持つイメージを植え付ける。このあたりが司馬史観と言われるところなどだろう。
もちろん、そのようなエピソードで埋められた主人公土方歳三の活躍は読者を飽きさせない。また一人の男としての生き方を憧れも感じさせるような筆力で展開する。そして男の生き方の魅力を増幅させる為に、魅力的な女性を絡ませる。このあたりが司馬遼太郎の小説家としての上手なところである。

新撰組の時代からは、史実に即して物語は展開するが、史実に会話の内容などは残っていないから司馬遼太郎の創作である。創作だが、それが主人公に命を吹き込み、読者は魅了されていく。そして上述したような土方歳三のイメージを膨らましていく。

当方は刀のことに詳しいから、この小説に出てくる刀の話や、戦いの場面は鼻白むところが多い。
新撰組は、京都で尊皇攘夷のテロリズム(刀による暗殺)が吹き荒れた時に、刀には刀として組織される。テロリストのカウンターパートとして4年間だけ京都で存在感を示している。維新の時代になるとテロリストの汚名は新撰組に着せられる。

土方は、この後、甲州鎮撫隊、宇都宮城奪還、会津、仙台と転戦していき、函館の五稜郭の戦いで戦死する。新撰組の中では刀の時代から銃砲の時代の戦いに適応できた人物である。

(本は全集でなく文庫本を紹介>

「炎の人 式場隆三郎」 市川市文学ミュージアム

この冊子は市川市文学ミュージアムが開催した「式場隆三郎 没後50年記念企画展」の時に作成されたものである。
式場隆三郎は明治31年に新潟県に生まれ、精神科医となり、昭和11年から市川で国府台病院を開院した人物である。ゴッホの研究をしたり、柳宗悦と一緒に民芸運動に携わり、戦後は山下清を世に出した人間として知られている。
この本で知ったが、生涯で約200冊の著作を刊行したとのことだ。ゴッホに関する著作だけでなく、精神病関係の書、医学教養書、小説など幅広い。中央公論社からは毎号のように寄稿を求められていたとある。
画家では他にロートレックの本も上梓している。また、戦前に東京にあった不思議な建物二笑亭にも関心を寄せて書いている。
彼がゴッホに関心を寄せたのは学生時代に読んだ「白樺」の影響であると記されている。私は式場氏のゴッホに関する著作は読んでいないのだが、ゴッホの手紙の翻訳も含めて、これだけ多くの本を出版しているのに、現在のゴッホ研究においては、式場氏の著作はあまり重視されていない。これは他の著作にも共通しているようだ。忘れられている人物である。
なお、彼は松方コレクションの返還=国立西洋美術館の建設にも尽力したことが記されている。こんな業績も忘れられている。

ゴッホ、ロートレックもそうだが、二笑亭という変わった建物を建てた赤木城吉(仮名)も精神の病を発症した人物であり、また山下清も彼の医業の分野に関係するから、興味の対象が闇雲に広かったわけではない。
民芸の方はまた別で、柳宗悦の木喰上人の調査研究に同行し、彼に師事し、月刊民芸の編集に携わる。そこでバーナードリーチや河井寛次郎などとも親交を深める。
本は沢山刊行しただけでなく、本の装幀にも凝り、芹沢銈介や棟方志功、奥山儀八郎などに依頼している。ちなみに奥山は日本毛織に勤め、広告版画などを制作しており、フリーになってからのアトリエは国府台の病院の近くだったと記されている。ちなみに奥山儀八郎が矢切の渡しを描いた版画は我が家にある。矢切は国府台の近くであり、なるほどと思った。
また彼は病院の庭にバラをたくさん植え、精神病の治療にも間接的に役立てようとしたようだ。このために市川市もバラに関心を寄せて、ローズ・シティなる宣言を行ったことがある。ただし今の市川市では忘れられている。

「微光のなかの宇宙-私の美術観-」 司馬遼太郎 著

司馬遼太郎全集1が忍者物の時代小説であり、少し毛色の違ったものを読もうとして、全集の65に収録されているものを選ぶ。これには「街道をゆく 十四」も収録されている。

「微光のなかの宇宙」には司馬遼太郎が美術について書いた次のエッセイが集められているが、私にはあまり面白くなかった。歯切れの悪い評論と感じる。
「裸眼で」「密教の誕生と密教美術」「わが空海」「激しさと悲しさ-八大山人の生涯と画業」「ゴッホの天才性」「微光のなかの宇宙」「八木一夫雑感」「三岸節子の芸術」「出離といえるような」である。

「裸眼で」は司馬遼太郎が新聞記者時代に美術の担当になった時に、美術をわかろうとしてセザンヌなどの理論書を紐解いた時の違和感を書いている。そして仕事で絵を観ることが無くなった時期から自分を取り戻して絵に自由に感動できるようになったと書いている。そしてゴッホの素描に文学性を感じ、それから鴨居羊子の弟の鴨居玲のこと、上村松園の絵のことなどに触れている。

「密教の誕生と密教美術」と「わが空海」は密教美術、それを日本に持ってきた空海の天才を書いている。密教は紀元5~7世紀ころに南西インドで成立する。この地はアラビア人との交易で栄えていた。釈迦の全て捨てよの教えから、富など持ったまま即身成仏ができることを願い、密教を誕生させる。密教の菩薩像は華麗で、密教は欲望も肯定されることから男女の性愛も肯定されて、それが行きすぎて変な方向になることもあると説く。
最澄が中国製の仏教の天台宗をもちかえり、空海は中国経由でのインドの密教を持ちかえる。そして思想体系を完璧に近いものにした。密教美術は思想表現である以上、造仏には取り決めがある。決まりが煩瑣な面もあるとして不動明王、観世音菩薩のことなどを説明し、滋賀の向源寺(渡岸寺)の十一面観音、河内の観心寺の如意輪観音、高尾の神護寺の虚空蔵菩薩などを紹介する。
なお空海は母方の叔父にあたる阿刀大足が学者として一流であり、彼に学び、唐にわたる前に学識を蓄えていたとする。加えて修験道の修業もした。その結果、唐で中国人にも一目を置かれる学識を発揮し、恵果から密教の正統者と認められる。まさに天才と評している。

「激しさと悲しさ-八大山人の生涯と画業」とは明の八大山人の生涯や、特に生命感に溢れる絵に感銘を受けたことを記している。彼は明の王族ではあるが江西省に住し、清によって亡びる時を経験した人物である。

「ゴッホの天才性」ではゴッホのことを記している。ゴッホは牧師の家に生まれ、生涯、独特の愛他主義をい持っていたが、世間と徹底的に調和できなかった。それが自分の内部にもぐらせることになり、絵を画くしかなくなるとして、ゴッホの人生を辿っている。画業は27歳から37歳の間に過ぎない。

「微光のなかの宇宙」は須田国太郎の画業を紹介している。西洋の油絵ではなく、水蒸気を含んだ日本的な色で描くと評している。作者は西洋の模倣を批判しているから、須田国太郎の画業を評価している。なお須田国太郎は学者で、背広もきちんときた老紳士である。京都の長浜縮緬の問屋の家に生まれ、少年時代に謡曲もならう。三高でドイツ語を学び、京大では哲学科を選ぶ。美術学校に学ばず、大学時代に関西美術院でデッサンを習う。大学院で絵画の理論と技巧を研究。スペインのプラド美術館でバロック絵画を学ぶ。京大文学部講師でギリシャ彫塑史概説を講義していた。

「八木一夫雑感」は陶芸家で司馬遼太郎の5歳上の八木を書く。美術記者時代に知り合う。彼の作陶は思想と感情をかたまりにして空間にぶら下げたようなもので、陶芸の「用」を外しているし、茶の美学などにも逆らっていると評している。だから売れずに貧乏する。父も陶芸家で窯は五条坂にあった。

「三岸節子の芸術」では愛知県尾西市の地主の家に生まれ、女子美に入り、三岸好太郎と結婚する三岸節子のことを記す。公太郎との結婚生活は9年間ほどで、彼は31歳で夭折する。その後、彼女は昭和29年の49歳の時に渡欧する。日本の水蒸気の多い気候に対して欧州の乾いた色彩の鮮やかな気候を体験する。

「出離といえるような」は『街道をゆく』で一緒に旅をして挿絵を描いた須田剋太のことである。武蔵の吹上で教育者の息子として生まれ、芸大を4度落ちる。浦和で下宿し、絵ばかり書く生活を送る。ただ官展に入選していた。妙義山で山籠もりをし、40を越えていた昭和19年に京都、大和に行く。絵画では通算3度、官展の特選にはいる。奈良では東大寺の上司海雲と親しくなり、新薬師寺の一角に住む。結婚して西宮に住む。抽象画の長谷川三郎に出会い抽象画を志向する。道元の思想を体現するようになる。『街道をゆく』の挿絵をお願いしたのは橋本関雪の息子の橋本申一が推薦した為とのこと。この時64歳だが、司馬遼太郎は書生のようだとの印象を持つ。

(全集ではなく文庫本を紹介)

「上方武士道」 司馬遼太郎 著

これも司馬遼太郎全集の第1巻に収録されているものだ。昔、読んでいるはずなのに、まったく記憶がない小説であった。再読して理由がわかった。要は司馬遼太郎作品の中で最も出来のよくない作品だからだ。

主人公は京都の公家の出身で、剣術がやたらに強い。そして大坂の薬問屋の養子になるのだが、ある門跡から江戸行きの隠密行動を頼まれる。密命を帯びて江戸に下る道中が荒唐無稽の時代小説になるわけだ。
公家の行動を監視する京都所司代の命で阻止しようとする甲賀者との争いということだ。その首領が例によって魅力的な女忍者。その道中に、弥次喜多道中的に百済ノ門兵衛という大坂の侍と伊賀の忍者の青不動という人物を配して、主人公を助ける。
百済ノ門兵衛は主人公を薬問屋に斡旋することで儲けた男で、剣も強いが商売にも長けている人物である。青不動も忍術に優れた男という設定である。

前半部分は忍者を主人公にした『梟の城』と同じように、甲賀の忍者と伊賀の忍者(主人公はこちら側)の争いで、少しは緊迫するが、後半は章ごとに脈絡の無い色々な女性を登場させて艶のある場面を作り、読者に迎合する。また大立ち回りを入れてサービス精神が溢れるが、筋はどでもよくなる小説である。週刊誌の連載だったようで、筆が荒れてしまっている。

「超写実絵画の襲来」 於Bunkamuraザ・ミュージアム

コロナウィルス騒動で、多くの美術館が閉館中だが、ここは開館している。昨日の午後出向くが、入場者は少ない。帰りに東急百貨店の1階を通ったが、客はほとんどいない。

今回の展示は、千葉市にあるホキ美術館の所蔵品から選んでの展示である。いずれの作品も真に迫るほどのリアリティを持つ絵画である。「真を描く」ことは写真が出来る前の絵画の究極の目的の一つであり、我々が絵を学ぶ時に、対象物をできるだけ忠実に、丁寧に写そうとするわけだから、人間の本能の一つかも知れない。その「お絵かき」の極地に達した人の作品で、日本の現代作家の作品である。
写実だから、構図などは別にしても、色と形は誰が画いても同じかと思うが、各作家ごとに個性が出ているから芸術である。

五味文彦は対象物の質感(羽や毛はそれぞれの触感がわかるように、ガラスなどは無機質の冷たさなど)の表現にも魅了され、拘っているような作品だ。
展覧会全体のポスターにも使われている生島浩の「5:55」という作品が印象に残る。フェルメールのような構図で若い女性を描いたものだが、6時までにモデルをやめて帰らねばならないという焦りの雰囲気が確かに出ている。
大畑稔浩の「剣山風景-キレンゲショウマ」は、剣山中に群生しているキレンゲショウマが黄色い花をつけているところを描いたものだが、この植物が花を咲かせて、生き残っている場所と、そこで生き残っている植物の可憐さ、逞しさが表現されていると思う。
渡抜亮の「二つの動作」は女性半身像なのだが、気になるところのある絵である。

一流の画家であれば、誰でも真を写すように画けるだろうが、それを更に徹底して素材や筆までも工夫して追求していくところに感じるものはあった。

「梟の城」(司馬遼太郎著)

コロナウィルス騒動で図書館も閉鎖である。そこで、この機会に蔵書の司馬遼太郎全集を読むことにした。さっそく1巻に収録されている「梟の城」を読む。
面白い。学術書と違って小説だし、この頃の司馬遼太郎は歴史小説ではなく、時代小説であり、荒唐無稽なところがいい。デビュー作で、直木賞の受賞作でもある。この頃から歴史の知識は豊かで、後の活躍を予見させるところがある。

伊賀の忍者が、豊臣秀吉の暗殺計画を実行するというテーマで、伊賀者の内部での抗争、甲賀者との争いに、魅力的な女性をからめ、映画にしたら面白いものが撮れそうな小説である。そう思って、調べたら、映画は2本つくられ、ドラマも作られていた。

忍者の行動は荒唐無稽なのだが、それなりに忍術の道具などは考証している。豊臣の世から徳川の世に移りそうな時代背景も司馬遼太郎らしく書いている。また主人公や各登場人物の複雑な心の動きの描写などはさずがにうまいと思う。

小説だから、内容を紹介するのはやめるが、面白くて、すぐに読了できるものである。
(全集だが、文庫本を紹介しておく)

「江戸・東京の地震と火事」山本純美 著

この著者の「江戸の火事と火消」は以前に読んだことがあるが、この本では現代の東京の火事・防災のことも書いていて、今を生きる人々の防災にも役立つような視点でとりまとめられている。
第1章から第5章までは「江戸の火事」「火消の組織」「江戸の防災組織」「江戸の防災対策」「水との闘い」と江戸時代の話が中心だが、「第6章 地震の恐怖」、「第7章 現代の防災」は近現代のことが中心である。

江戸時代における江戸の火事は約90件が知られている。冬の北西風、春先の南西風のもとでの延焼が多い。江戸三大大火は明暦3年(1657)の振り袖火事、明和9年(1772)の目黒行人坂火事、文化3年(1806)芝車町火事である。
明治になると明治25年(1892)に神田大火、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲が酷い火災である。

江戸時代は、機械力が無く、消火力は劣るが、次のような点は優れていたと指摘する。
①地元の人が消防の担い手となり、動員力はある(現代では自治体職員、消防署員などは地域外に居住していて、当該地に来るまでが時間がかかる)。
②中央(幕府)の命令で、季節風を直角に遮断する広小路、火除地、防火堤などが設けられていた。
③町の辻ごとに水桶が用意されていたり、井戸も多かった。
④町のあちこちに火の見櫓(吉宗時代から)があり、特に冬場は常時の監視がされていた。夜間は木戸がある辻番所に人がいて通行が制限されていた。放火犯などの不審者の見張りに良い。
⑤食糧の備蓄も考えられており、災害後は救小屋にて業者を徴用して食糧を提供している。
⑥人々も火を粗末に扱わない慣習や民間信仰があった。

水害対策としては、大々的な利根川東遷事業などを評価している。また下町の川沿いの地区では、家ごとに小舟を持っていて、それで避難し、また救助作業を行う。

現代の防災の話は、防災読本のような内容である。

「武士の日本史」高橋昌明著

この本は、武士は東国ではなく、都で生まれたと最初に唱えた著者の本である。武士誕生の経緯を「1.武士とはなんだろうか」「2.中世の武士と近世の武士」で説き、「3.武器と戦闘」では実際の戦闘の様子を書いている。今のテレビドラマ的な立ち回りの否定である。
「4.「武士道」をめぐって」「5.近代日本に生まれた「武士」」では、今、我々がイメージしているような武士や武士道が誕生した経緯を説明している。江戸時代に惰弱に流れていた武士を質実剛健に戻す為に、昔の東国の農村で生活したような武士になれということで、武士の東国誕生説が刷り込まれた面も指摘している。
最期の「終章.日本は「武国」か」は、日本は古来からツワモノの国、勇敢な国民性があったなどの通説を打破して、再度、戦争などを起こさないようにとの著者の主張が強く出ている本である。

「1.武士とはなんだろうか」では武士は芸能人の一種として見なされ、侍は六位クラス(貴族は従五位下以上)、中央官庁の三等官クラスだったと論じる。そして武芸を家業とする特定の家柄の出身者で、具体的には弓箭の道。弓馬の扱いに優れた者である。乗馬は貴族など許された者が出来、馬の口取りなどの郎党を必要し、飼育に金もかかることを記する。
奈良時代、あるいは平安前期から武士は存在し、武士の家とは坂上田村麻呂、紀田上、大野真雄・真鷹、小野春風。紀最弟、文室綿麻呂、坂上苅田麻呂、藤原利仁の流れである。
東北と九州の脅威に備える場所や、都が武士が配置される場所である。桓武治世以降に賜姓皇族や藤原秀郷流が軍事貴族となる。11世紀以降は大手を振って登場し、鎧などの武具は貴族社会で生まれる。また平氏が関東に土着し、武士の暴力団的性格も出る。

「2.中世の武士と近世の武士」では院政時に院の武士として存在感。王家内部の対立、権門寺院との関係、荘園の激増による寺社勢力と国衙の争いなどに活躍する。
そして源平のツワモノの家から2次的な武士のイエが誕生。独自に武装集団。武に堪能な在地領主の一部が武士身分になる。
鎌倉の御家人は頼朝に従うもので、京都大番役も御家人の役割。征夷大将軍は頼朝が前将軍という称号をやめ、新たに大将軍を拝命したいと申し出て、王朝側が選ぶ。平家物語が平家の軟弱さを広める。江戸幕府が頼朝に私淑だから、ますます平家の貴族化がいわれる。南北朝の内乱は尊氏と直義の争いに、破れた直義側の残党が南朝が乗ったために長引く。
義満没後は守護の力が強くなる。世襲して守護大名となる。
太閤検地で中央側が検地(それまでは申告させていた)するようになり、江戸時代は石高制となる。秀吉時代の兵農分離(刀狩り)と喧嘩停止令は受け継がれる。江戸時代、大名は幕府の意向を忖度して寄り添った政策で領内の統治を行う。
地方知行と蔵米知行に分かれるが、だんだん蔵米知行(サラリーマン的)になる。

「3.武器と戦闘」では当初は弓馬による「楯突くいくさ」。双方の距離が1町(109㍍)あたりから楯を並べ、5~6段(55~65㍍)程度まで楯を並べ、鬨の声をあげて矢戦。
「馳組むいくさ」は、互いに馬を馳せての弓矢の戦い。敵に動揺があれば楯の間から騎馬武者が押し出す。おのおの徒歩の集団を連れて行く。
こうなると馬を狙うようになる。馬の太腹を射て、主を跳ね落とさせて、起ち上がろうとするところを追物射にする。
源平内乱期は鎧の防御力の向上がめざましい。馬は平均129。5㎝。(今は158㎝のサラブレッド)馬がのせられる重量は自重の3分の一。これを越えると、走行力は3割減ずる。日本の馬は去勢していないから暴れ馬。発情期は大変。馬には口取りがいる。疾走は前提としていない。ヨーロッパの中世の騎兵も白兵の突進はなかった。白兵の突進をやったのは18世紀以降。馬は食べさせる必要があり大変。
馬上の太刀打ちは右手の片手切り。身体を右方に沈めて抜かないと馬の首を切りつけてします。手綱も切る。ともかく刀は弓にかなわない。接近戦だけ。
馬上の弓が馬上の太刀になるのは14世紀。敵に届くように長大な刀となる。しかし攻撃する方も怖い。やがて下馬しての斬り合いになる。イエズス会士は我々は馬で戦うが日本人は戦う時は馬から下りると報告書を出す。そして鉄砲が登場する。
戦国大名の軍役は戦闘員の人数と携行する武器の種類と数量だけだが、近世の軍役では出陣を華やかにする道具類運搬や兵糧搬送を含めた総数である。
竹刀剣術はスポーツに過ぎない。

「4.「武士道」をめぐって」は武士道の誕生の経緯を書く。戦国期まではツワモノの道とは違う。鎌倉期は謀反は武士の名誉とまで言った。自尊心が強い。江戸時代は儒教と結びついて治者としての倫理学になる。

「5.近代日本に生まれた「武士」」では黒船が来て従来の武士身分が弊害となって安政の軍事改革(老中阿部が海防強化の海軍伝習所と講武所)、文久の軍事改革(慶喜が洋式軍隊を目指す)が不徹底で、長州の奇兵隊に負ける。
明治維新は士族の特権を奪ったが、官吏の出身は士族が圧倒的に多く、士族の政権である。明治政府は富国強兵をとなえ、参謀本部が『日本合戦史』全13巻を明治22年~大正13年に発行するが、史料が無く、文学的虚構もあって戦史が戦争を誤らせる面もあった。(奇襲重視)
新渡戸稲造『武士道』はキリスト教の皮をかぶっている本で、もう一つは忠君愛国からの武士道となる。軍人勅諭などで戦死の美化。精神主義が強調される。生きて虜囚の辱めを受けずとか大和魂が重視

「終章.日本は「武国」か」では秀吉が朝鮮出兵した時に明国を長袖国とし、日本を弓箭きびしき国としたことがあるが、これは思い込みで、中国、朝鮮の弓に比較して日本の弓が大きいことや、島国で他からの攻撃がほとんど無かったことも一因ではないか。滝口の武士の役割の一つは「鳴弦」で邪気・魔除けをすることであった。
日本人が元々勇敢というのも太平洋戦争の人的資源の蕩尽のスローガンにされただけであった。

「武士の起源を解きあかす」 桃崎有一郎 著

馴染みが無い平安期のことが多く、私には読み難い本であったが面白い本であった。この人が解き明かした武士の起源が本当のような気がする。

武士が東国という地方で生まれたという説が一般的だったが、高橋昌明氏が武具も騎射などは都の衛府(軍事部門の役所)で生まれたのではないかとの魅力的な論を展開している。このブログでも高橋昌明氏の「武士の成立 武士像の創出」(https://mirakudokuraku.at.webry.info/201802/article_9.html)を紹介している。

この本の著者の論を簡単には紹介すると、武士は京を父とし、地方を母とするハイブリッドであると論じる。
都の貴族=王臣家の者が国司に任じられるが、当時の国司職は世襲ではなく、その任が終わった後に都に戻ることになる。王臣家の者が多くなると、都に戻ってもまともな職はない。そうなると、その国に居座り、地方の豪族の娘と婚姻することで勢力を伸ばすことをはじめ、それが武士となったとする。

この背景として、奈良時代の中期の聖武天皇の時(743年)に墾田永年私財法によって、私有財産が認められたことが大きなきっかけとする。開墾の計画者は国司に届け出る義務がある。許認可の権限を持つ国司が、これで私腹を肥やすようになる。
桓武は国司の水田、陸田の所有を禁止。郡司も同罪とした。次の平城天皇は802年に方針転換をして、ある程度までの田地所有を許す。また聖武朝では国司と郡司・百姓の娘との婚姻の禁止を打ち出したりしていた。
しかし私有財産は拡大していき、後の荘園制につながっていく。国司の違法行為は当然に禁じられていたが、身分の高い者の犯罪は罪が減じられることもあり、法律は骨抜きになる。

そして王臣家が特に増えたのは桓武天皇が子どもを32人も作ったころからである。その皇子にも子どもが生まれ、ねずみ算式に増加していく。中央に職が無くなり、臣籍降下して地方に根付くきっかけとなったわけである。桓武期の782年に氷上川継の乱が発覚し、多くの貴族が連座した。藤原秀郷の子孫が下野に土着するきっかけとなる。嵯峨天皇も多くの子を作り、彼等に源姓を与えて臣籍降下させる。そして親王任国制度(上総、常陸、上野)が発足した。

国司の下で年貢を集め、都に送るのは郡司階級の責任だが、その地に居座った前国司やそれと結託した者などによって妨害される。年貢未納の責任も追及される。そこで郡司階級は疲弊して、群盗になる者、また王臣家に取り入って一緒に悪事をする者などに分かれる。
こうして治安は乱れ、群盗や俘囚の乱、僦馬の党と呼ばれる機動的な盗賊団などが発生し、平将門の乱も発生する。(これまでにも将門と同様な事件・行動が発生していたが、将門は天皇に代わって新皇ということを唱えたことで大きな問題となる)

なお郡司階級は昔の国造の流れもひいており、その土地に長く根付いている。一方、王臣家は京の貴種である。当時の婚姻は妻問婚であり、王臣家が居座りやすかった。

平安初期までの朝廷の常備軍は徴兵された百姓が大部分で、プロの戦士の兵は領主であり、郎党を持つ。要はプロの戦士とは弓矢と馬の扱いができるかどうかである。すなわち弓馬の道は技能が難しく、郡司や富豪百姓のような有閑階級でないと習得ができないのである。馬は飼育にも金がかかる。著者はこれらの階級の武人を「有閑弓騎」と呼んでいる。だからこれらの人は自ら農業は行わず、農民を使って勧農は行う。馬を飼って、騎馬術を身に付け、弓術の練習をしていたクラスである。
東国に出現した武士は裁定者、仲裁者としての王臣家らしい意識を持っていた。すなわち地域や小規模な社会のまとめ役であろうとすることを根本的な存在意義としていたことが平将門の乱の当事者たちの行動を見るとうかがえる。

都の貴族の中には位は低いが、兵衛や滝口などの武士の役目もあった。そして坂上、紀、大伴、文室、小野などの有力な武士を輩出することで名高い家もあった。
後の武家の先祖として有名になる藤原秀郷のさらに先祖は蝦夷の俘囚などの対策で、軍事技術を学んだのではないかとも論じている。また平家の祖の葛原王は馬の牧で有名な地をもらうことで、馬に馴染んだのではと論じている。また平良持が鎮守府将軍として陸奥に赴任したときに騎射術を学んで武の伝統は身に付けたのではないかと推測している。こうして王臣家の貴種でありながら武の伝統を持つ家も生じていた。これらの王臣家の血と地方豪族の血が混じって武士が誕生したというのが、「京を父とし、地方を母とするハイブリッド」という意味である。

「もっと知りたい茨城県の歴史」小和田哲男 監修

今、ちょっとモノを書いており、読む方は調べることが中心になっている。この本は郷土史的な本であり、興味深いところがある。大きく茨城県の史跡、信仰、事件、人物、文化・生活に分けて記述されている。

 「史跡」では、次のようなことが記されている。
 古代の常陸は新治、筑波、茨城、那珂、久慈、多那の国に別れていたそうで、筑西市の葦間山古墳は完全には残っていないが復元長は141㍍もあり、新治郡(当時は国)の国造の墓ではないかとされている。
 また舟塚山古墳は石岡市にあり、全長186㍍もあり、関東地方では天神山古墳(群馬県太田市)に次ぐ古墳であり、こちらは古代の茨城国である。

 中世になるが、結城17代晴朝は秀吉の猶子を秀康を養子にして家の存続を図る。秀康は天正18年に城下を拡張して御朱印堀と呼ばれる空堀の内側は地子税免除の町人町とするが、慶長6年に越前に移封され、結城氏は父祖の地を離れることになる。

 古河公方がいた古河は常陸、武蔵、上野、下野の接触点にある地で、利根川と渡良瀬川の水運が使えた場所である。この頃の川筋と今は違うから、当時の川筋を理解していないと、地勢がわからないところがある。

 徳川時代になると、関東郡代の伊奈氏が忠次、忠治の2代にわたり関東の民政に力を注ぐことになる。この人物は評価されるべき人だ。備前守忠次は灌漑用水路を堀り、各地に伊奈堀、備前堀と称されるものが残っている。忠治は利根川の東遷したり、つくばみらい市付近で一つになっていた小貝川と鬼怒川を分流して谷原地区の新田開発の道をつけた。

 時代は下るが、今は水戸市に含まれる内原町に内原訓練所がある。ここは昭和2年に設立された西茨城郡宍戸町(現笠間町)の日本国民高等学校が前身である。昭和10年に内原に移転し、昭和12年に満蒙開拓青少年内原訓練所が創設され、全国の農民の次男、三男を対象として、約2ヶ月間の訓練を経て、満州に入植するための準備を行う。結果として86500人余が満蒙に出向き、多くは帰らぬ人となる。棄民したと言われてもしかたがない。

 「信仰」も面白い。親鸞が常陸に縁があり、笠間市稲田の稲田草庵(西念寺)で20余年過ごす。ここで過ごすに至った経緯は諸説があって不明だが、下野の有力者:宇都宮頼綱の所領が笠間郡にあった為という説をこの本では取り上げている。

 法然の浄土宗を天台宗から独立させたのは常陸出身の聖冏(しょうげい)とのことである。久慈郡岩瀬城の城主白石義光の子で浄土宗の教義を明確にし、戒律の触れた書物などを著す。

 また夢想疎石が佐竹義継を弟子にして臨済宗を広める。画家の雪村も臨済集の画僧である。
 また徳川斉昭が明治の廃仏毀釈を先取りするような政策を打ち出したが、寛永寺などが幕府の有力者、大奥に働きかけて潰される。
 水戸藩の内部抗争は有名というか、あきれるほどに激越なもので、この為に、尊皇攘夷の魁となったので、明治期に活躍した人物が出なかったわけだが、明治になってからも山岳党(県北出身)と河川党(県南・県西出身)が県議会で争ったとある。なお水戸藩の内紛時には斉昭・藩内改革派側と長男慶篤・結城寅寿の門閥派側では書簡の内容が漏れることを恐れて、神発仮名という暗号を使っていたようだ。

 塚原卜伝は鹿島神宮の祝部の卜部覚賢で、近くの塚原城の城主の養子となる。卜部家は「鹿島の太刀」という古くから伝わる剣術を代々継承していた。

 江戸時代後期に江戸の漢詩壇で活躍したのが大窪詩仏(医師)で、59歳の時に秋田藩に招かれ江戸藩校の教授となる。土浦の町人学者の沼尻墨僲は地球儀を作る。古河藩土井家の4代土井利位は雪の結晶の研究に打ち込む。『雪華図説』を著す。

 あんぱんをつくった木村安兵衛は常陸田宮村(牛久市田宮町)に生まれる。横山大観は水戸藩士の酒井捨彦の長男として生まれる。

「三井家のおひなさま」於三井記念美術館

知人からチケットをいただき、妻と出向く。広い意味では美術品なのだろうが、ひな人形と御所人形(公家に愛好され、後には民間にも普及)の展示であり、感興の中味は美術とは異なる。

江戸時代後期のものもあるが、近代になって三井家が三井財閥になった時代のひな人形であり、豪華なものである。三井家には明治になると、前田家や浅野家などの旧大名家から輿入れしている。
近代のものだから人形の着物の褪色も少なく、着物の欠損、汚れも少なく、織り、模様、刺繍なども見事である。京都の丸平大木人形店の五世大木平蔵が人形作りの名人だったようで、そこから購入した作品の展示が多い。この人形店のものであろうか、丸平文庫と言う所に所蔵されている御所人形も展示されている。

人形だけでなく、その人形用の調度品も小さいながらもきちんとした作りの調度で、金蒔絵がきちんと施されている。このような調度品も含めてお内裏さま、三人官女、五人囃子、仕丁なども飾ると、8畳間程度が必要となるのではと感じる。いきいきと演奏しているように見える五人囃子の人形が印象に残っている。

大きなひな人形もあり、立ち姿、座り姿と屈伸できるような人形もあった。ひな人形の顔は時代によって流行があるようだ。享保雛という言葉での説明もあった。江戸後期から近代は目が細い品のいい顔で、最近のように目が大きく、ぱっちりは無い。手指は長く、やや不自然である。

調度品では貝桶(”貝合わせ”と言う二枚貝の貝殻を合わせる遊び用の貝が入っている桶である。二枚貝はその片割れしか合わないことから、貞節の象徴として大事にされる)が大名家における女性道具の先頭を飾るものだったことを知る。

御所人形で大名行列を再現したのが展示されていたが、圧巻である。行列の役割に応じた人形が姿態、衣装、持ち物まで整えて展示されている。袋に入れた鉄砲や弓を持つ供侍まで、大名行列の様子がわかる。三井家に嫁いできた前田家や浅野家などの旧大名家の関係だろうか。

なお御所人形は色々な種類があり、鞍馬天狗、橋弁慶を演じているようなものからお花見や大黒、恵比寿や騎馬の武士(宇治川先陣…三井家は佐々木源氏の出という伝承もある)など様々である。御所人形の顔は子どもらしく大きく、同じような顔だ。現代のリカちゃん人形は女性が主だが、御所人形は違うのだ。

この美術館には、茶室仕様の展示スペースがあるが、床の間に円山応挙の水仙図、お茶碗は斗々屋茶碗の銘「かすみ」であった。床の間の掛け軸は、遠く、暗い場所だから水仙は良く見えない。

「刀剣と格付け」深井雅海 著

副題が「徳川将軍家と名工たち」であり、江戸幕府の将軍を中心に刀剣がどのように贈答(献上、下賜)されてきたかを書いている。
著者は江戸時代を研究対象とする歴史学者であるが、刀剣には詳しくはない。ゼミの学生が江戸時代の刀剣贈答に関する論文を書き、それを生かすような意味で取りまとめた書物である。
著者は江戸城の内部の部屋のことなどに詳しいので、江戸城内での刀剣保管場所や献上、下賜するときの将軍、大名の配置などは具体的である。
贈答には当然に古刀の名刀が使われるが、8代将軍吉宗が新刀を奨励し、贈答にも新刀を用いることもはじめる。
吉宗は新刀鍛冶のコンクールのようなことも行い、また享保名物帳として今に残る名刀の履歴などを本阿弥にまとめさせるが、これらのことを既刊の資料から第Ⅰ章でまとめている。今に伝わる名刀がオーソライズされたわけである。
歴代将軍では二代秀忠が毎月17日(家康の命日)に刀剣の勉強、鑑賞を本阿弥光室(十代)を招いて行っていたことが記されている。あとは吉宗が大いに関心を寄せている。

第Ⅱ章は家康から七代家継までの刀剣の下賜、献上の実態を明らかにしている。献上の目的は家督相続御礼、次が隠居(致仕)御礼で全体の75%である。
下賜の理由は大名の国元への暇乞いへの餞別、褒美・大名邸へのお成り、将軍御前での元服祝いである。特に大名邸へのお成りは綱吉の時代に多い。綱吉は柳沢吉保家に58回、牧野成貞家に29回。松平輝貞家に25回と全体の76.7%が側近の屋敷へのお成りである。
刀剣の管理は腰物方が担当し、頭は腰物奉行(当初は腰物頭)で役高七〇〇石。人員は二人。配下に腰物方(役高二〇〇俵、15~16人の旗本、内3~4人は御差方として将軍の佩刀を取り扱う)と同心(一〇人で御家人)がいる。ここに各種の刀剣に関わる職人が配属されているわけである。
第Ⅲ章が吉宗の刀剣改革として、新刀鍛冶改のことを主として佐藤幸彦氏の調査結果を引用してまとめている。そして吉宗は享保7年にこれまでのような大名との儀礼を簡素化し、隠居・遺物献上が廃止され、家督御礼もとりたてておこなわれなくなり、贈答に用いる刀剣も代金20枚までに限るの法令を出す。この結果、高額な刀剣の贈答が減り、献上件数も減少している。
また将軍の佩刀が初代家康から各代に至るまで記されている。新刀を佩刀にしたのは吉宗が最初で、あとは九代将軍とか少ない。
新刀に注目した吉宗にちなんで、ここに新刀番付の一つが紹介されている。

「なぜ日本はフジタを捨てたのか?」富田芳和 著

副題に「藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949」とあるように、フランク・エドワード・シャーマンというボストン生まれの占領軍将校が残した資料をもとに、終戦後にフジタが海外に出向くいきさつをまとめている。

フランク・シャーマン(1917~1991)は少年の頃に画家になろうとしていた。パリに短期留学した時にモンパルナスでフジタを見かけたという思い出を持っていた。
太平洋戦争時に徴兵を受け、陸軍工兵科第64地形図技術工兵大隊に入隊。1945年11月に占領軍の兵士として来日。中国大陸の詳細な地図作りにおける印刷スペシャリストとして勤務。そこで同郷のバンカー大佐から日本の民主化の為には芸術家も必要で、その支援をすることも命じられる。そして凸版印刷にオフィスを与えられる。のちにシャーマン・ルームと呼ばれるサロンを設け、そこに文化人(画家、歌手、作曲家、邦楽家、写真家、茶道家など)を招待したパーティを催していた。

シャーマンは凸版の関係者から向井潤吉に会い、紹介状を貰って昭和21年(1946)フジタに会う。そしてフジタもシャーマンの思いや人柄を信頼して親交を深めていく。一緒に骨董店を廻ったこと、京都旅行のことなどフジタの人柄が出た楽しい記述が続く。フジタは職人の仕事の細かいところを観察している。この職人仕事の吸収がフジタの画業を世界的にした一因であることがわかる。裁縫や額縁作りなどにも腕をふるう。

話は変わるが、日本の美術界は、昭和19年に美校改革があり、結城素明、小林萬吾、田辺至、伊原宇三郎などの戦争画を画いていた画家が追われた。そして小林古径、安井曾太郎、梅原龍三郎などが教授となる。後押ししたのが細川護立侯爵で、児島喜久雄、横山大観などだった。反フジタの勢力であった。なお大観は戦争画は画かなかったが、戦意昂揚の催しなどには積極的だった。

フジタは昭和19年に神奈川県津久井郡小渕村藤野に疎開した。藤野にはフジタを慕って猪熊弦一郎、佐藤慶、脇田和、中西利雄、伊勢正義、荻須高徳、三岸節子らが疎開する。彼等は新制作派協会を設立する。
終戦後、フジタは戦争画や軍に協力した資料を焼いたとされているが、これは誤解である。フジタは世界を知っていたから自分の戦争画が海外で賞賛されると見込んでいた。「アッツ島玉砕」は戦意昂揚とはほど遠い絵で軍部は困ったが、鑑賞者は自分の身内を絵の中に見出し、置かれた賽銭箱に賽銭を投じて、花が備えられ手を合わせたという。フジタもドラクロアのジャンヌダルクの絵に匹敵すると自負していたようだ。ただしフジタはチャンバラ絵と称したような戦争画も画いていた。

戦争が終わった後に、工兵局美術班長のミラー大尉が日本の戦争画制作者の氏名とその保管場所の調査をしていた。別に戦争協力者として摘発する目的ではなかった。彼はフジタが疎開していた藤野に出向き、その仕事を依頼し、フジタが引き受ける。

昭和21年に東京都美術館で集めた戦争画がGHQ関係者に展示されたがケーシー少将は芸術的に高いものがあるとの意見であったが、部下のシャーマン・リーは自分の見解をまとめるに当たり、親しい日本の画家の横山、安井、梅原の助言を参考にし、戦争の宣伝の為の絵に過ぎないと論評した。そこでケーシー少将は結論を先送りして、これらの絵画は20年間、アメリカの倉庫で保管されることになる。

1946年に軍国主義者の公職追放が始まる。政界財界だけでなく文化人にも及ぶ。宮田重雄がフジタや猪熊を攻撃する。新制作派協会で、フジタと親しかった内田厳が共産党のシンパで、日本民主主義文化連盟の戦犯リストを持ってきて、フジタをリストに入れたことを連絡してくる。横山大観や川端龍子などはあったが、新制作派協会の作家は除かれていた。お先棒をかついだ内田自身は悩んだようだが、フジタは哀れんでいる。君代夫人は内田の裏切りを許さなかった。

日本の美術界のフジタ排斥の状況や君代夫人のヒステリー症状を見て、シャーマンはフジタを渡米させようと動く。ドルの獲得方法として、アメリカの画廊での個展を企画する。またその後の生活の為に、アメリカの大学での教授の口などを探す。マッカーサー夫人の依頼での講演なども好評だった。

アメリカでフジタの展覧会を知ったベン・シャーン(リトアニア生まれのユダヤ人)は「ファシストを許すな」として反対キャンペーンを展開する。国吉康雄はフジタに恩義もあるが自分の立場からベン・シャーンに協調する。
フランク・シャーマンはこの動きに危機を感じ、マッカーサー夫人の依頼のクリスマスカードの制作や講演をフジタに依頼する。そしてマッカーサーから、アメリカがフジタを招待することにしてもらいビザ発給にこぎ着ける。1949年にフジタは「けんかはやめてください。国際水準になる絵を描いてください」と言って飛び立つ。

フジタを排斥した日本の美術界は、その後、多くの「巨匠」「人気作家」「重鎮」を招き入れて巨大化し、ガラパゴス的美術市場(世界で通用しない)を作る。アメリカでベン・シャーンなどの運動にも嫌気がして、1950年にアメリカからフランスに飛び立つ。

シャーマンの残した資料は親交のあった河村泳静氏が預かり、氏から北海道伊達市の教育委員会に預けられているとのことである。