「司馬遼太郎全集18 戦雲の夢」司馬遼太郎著

長宗我部元親の息子の長宗我部盛親の物語である。私の好きな小説である。元親は晩年に嫡子信親を島津との戸次川の戦いで亡くした後は気力が衰え、秀吉亡き後を探る政局にも無関心となって秀吉没後に死ぬ。
元親には二男、三男がいたが、末子の盛親が跡をとるように元親生前に定める。次男は病死したが、三男は津野家に入り津野孫次郎親忠となる。盛親を家老の久武内蔵助が推しているが、権勢を強める久武に対して、国元では反感を持つ武士が多く、彼は津野孫次郎をもり立てようとする動きを強める。津野は藤堂高虎と関係があったとされ、関ヶ原後に何者かによって殺される。当然、盛親に関係のある者の殺害と予想されたこともあって、関ヶ原後の処分が厳しくなったと言う。

司馬遼太郎は盛親を欲の少ない男として描く。一騎駆けの武者として才能に溢れているが、戦国大名的な欲が薄い人物として描く。それが女性との接し方にも現れるとして、そのあたりを小説的に書いている。それら女性の中では、弥次兵衛の妹の田鶴、晩年に京都の具足師の娘の里が主な女性であり、他の公家娘とか京都所司代の隠密でもあった女などは小説の点景である。

徳川と石田の争い時においては、国元で東軍に参戦すると決めて、徳川家に使者を出すが、その使者が途中で西軍方の陣を抜けられずに戻ってきて、仕方無く西軍に付く。この時、山内家の使者は山伏に変装して、無事に東軍方へ妻女の手紙とともに届けられる。使者の首尾で、土佐を失った者と土佐を得た者の差が書かれていて興味深い。

西軍として参陣するが、西軍諸将の動向に失望する。そして伏見城の戦いに参戦して功を上げるが、関ヶ原の戦いでは毛利軍の近くで、戦場を傍観していただけで敗軍となって落ちのびる。
戦後、井伊家を通して詫びを入れるが、前述した津野孫次郎を殺害事件などで、心証を悪くして、改易となって死は免れるが京都所司代の監視の下で寺子屋の師匠として大岩祐夢と改名して過ごす。
この間に、自分の夢、男と生まれたからの生きがいが具体化してくる。

なお、盛親の行動の近くに、司馬遼太郎の小説らしく伊賀者の雲兵衛という者を登場させ、司馬遼太郎らしい筋を展開しやすくしている。また盛親の気が付かない夢を女遊びを教えて蕩けさせて、別の意味で市井に平穏に暮らす道に導こうとする本願寺坊主を登場させて、小説に厚みを持たしている。

盛親には幼き頃から一緒に過ごした家老の息子の桑名弥次兵衛がおり、この交流も物語に深みを添える。盛親との交流を通して、盛親の人柄、境遇などを生き生きと描写するのに活用している。大坂夏の陣で盛親の長宗我部軍と桑名弥次兵衛が属する藤堂軍が戦い、弥次兵衛が戦死する。

男の夢は事の成否は問わず、やりたいことを見つけ、それを実現すべく行動することと、長宗我部盛親の物語を通して書いている。

「はじめて読む人のための人間学」藤尾秀昭 著

いただいた本である。雑誌「致知」の編集長が執筆した本であり、この雑誌が取り上げる孔子から二宮尊徳、松下幸之助、安岡正篤などの言を紹介しながら、要は人間は環境や他人のせいにしないで、自分自身の心の成長を常にはかりながら生きていくことが大切ということをくりかえし説いている。

当たり前のことだから、以上のように書くと、何の面白みも感じぜず、流されることであるが、それを上記の先哲の言も織り込みながらやさしく記述した本である。

読むだけなら1時間もかからずに読める。だけど、本に書かれていることを実践しようとしたら一生かかってもできないということである。

そういうことで、私は読み流してしまう本である。

「源氏物語 時代が見える 人物が解る」谷沢永一解説 風巻景次郎・清水好子

刀剣に関する論文を次から次へと書いていたから、アウトプットに追われ、インプットの読書などは、関係する資料の渉猟・読み込みに終始していた。

この本は、久し振りに谷沢永一氏の名前をみたので読んだ。私は谷沢氏の著作は好きであり、この本は谷沢氏が書いた部分は解説だけだが、碩学の谷沢氏が選択した風巻景次郎と清水好子の文章を取り入れて、良い本に仕上がっている。

この本の第1部が「やさしい源氏物語入門」として風巻景次郎の文、そこに谷沢の解説。第二部が「「源氏物語」要約」として清水好子の文で、そこにも谷沢の解説という構成になっている。
風巻景次郎とは国文学の大家で、正岡子規以来の万葉集重視から古今和歌集、新古今和歌集こそ平安朝以来の文学の伝統を継ぐものだと再評価をした人物とのことだ。

清水好子とは関西大学の名誉教授として源氏物語についての研究書が多い人物である。

第一部は入門書として書いた本だから「文学について」「文学の種類について」「光源氏の物語」「源氏物語はどうして出来たか」の章に分かれている。
ここで、源氏物語はそれ以前に生まれた物語と違って怪奇なことがなにもない。ほんとうにあるかのように書かれている本であり、書かれている作中人物の気持ちも「そうだろうな」と思わせるところが目新しいと書く。

源氏物語は、帝の后の中でももっとも身分の低い人、帝が一番深く愛した人から生まれたのが光源氏。母は亡くなるが、帝はこの人によく似た藤壺を愛すようになる。その後、光源氏はこの人を愛すようになり、子供ができる。また光源氏は藤壺の姪にあたる女性紫の上を養女のように面倒をみるというように、母を早くに亡くしたという点は紫式部と共通だとする。

そして、源氏物語は当時の公家の中では位が低い受領クラスの娘が入内して栄華を極めるという時代が過ぎた時に執筆されたと書く。紫式部の母は早く死に、父に育てられ、父が兄に漢文を教える時に自身も学び、本に嗜むようになったことなどを源氏物語誕生のきっかけとしている。心を病んだことで作者は誠実になり、千古に読み継がれる文学になったとも書く。

第二部の清水氏は、源氏物語の各帖ごとを要約している。要約と言っても小説風にエッセンスをまとめているから、源氏物語を読んだ気になる。各帖に名付けられた名前(桐壺、夕顔、若紫など)の意味も考察している。

谷沢永一は、源氏物語は心の襞を1枚1枚めくるように丹念に述べる表現を大成した物語で筋の展開を追っていくより、より感覚的になって生動する気分を捉えようとしていると解説し、漢詩文の影響を受けていると書く。

「司馬遼太郎全集18 夏草の賦」司馬遼太郎著

長宗我部元親の物語である。元親の妻となった美濃の斎藤内蔵助利三(後に明智光秀の重臣)の妹の菜々も主人公並みに物語に登場させている。この一族には石谷光政(兄弟)や春日局(斎藤利三の娘)などが出ている。そして当時の岐阜城下での絶世の美人として描いている。元親は長宗我部家に外部の優秀な血を入れようとして、土佐と商売をしていた堺の商人に頼み、彼が仲介しての輿入れとなったわけである。鬼の住むと言われた土佐に嫁入りするわけであり、菜々もそのような性格を持つ魅力的な女性に描いているのは、いつもの司馬遼太郎の筆である。一条家に使いに出向いての大暴れなどは面白い。

元親は早くから織田信長に関心を示しており、長男の名乗りにおいて信長から「信」の字を賜っていることである。織田家において長宗我部と親しいのは明智家である。その重臣の斎藤、石谷は菜々の兄である。今回、再読して驚いたのは、織田家が元親に対して、土佐と阿波の一部は認めるが、他の領土は返上しろと無理な要求を使者として伝えたのが石谷光政であり、その説得の場面が描かれているのだが、その中で元親が「それほど拙者に同情してくださるのなら、いっそかの信長を斃してしまわれては」と石谷に伝える場面があることである。そして元親は「明智どのが、信長を斃す。斃したあと、毛利家と同盟していちはやく京をおさえる。拙者は四国勢をあげて大いに応援つかまつりましょう」と言う。ここでは石谷が狼狽して、明智光秀には言えないと、帰るシーンである。
現在、本能寺の変は、信長が従来の織田家の外交ルートの明智→長宗我部路線から、織田信雄(秀吉も三好と縁戚になる)→三好路線に変更したことが一因と言われはじめており、ここで司馬遼太郎が石谷に「帰って殿(明智)に、このこと(信長を斃す案)を伝えます」と書いておけば、先駆的な洞察とされたことであろう。

元親は若い頃は女の子のようにか弱い男と見なされ、次の領主が勤まるかと家臣から案じられていた。司馬遼太郎はエピソードから人柄を浮かび上がらせていくような腕を持つ小説家だが、この本では「元親は天性の策謀家」とか「元親は権謀家」とかの言葉を出している。エピソードとなる物語が資料として少ないのだろう。
このような知謀も駆使して四国全土を切り従えていく様子が書かれている。土佐の動員能力を高めるために一領具足の制度を作ったとする。この一領具足の民を駆使して四国平定を進めた時に、中央では信長、次いで秀吉の政権ができる。その政権は土佐一国は認めるが、他国は返上しろと命じてくる。この時の元親の悲哀を書いている。
元親は大坂で秀吉の威勢を知り、その人物に触れて、自信の天下取りを諦めるのだが、何の為に土佐の民を一領具足としてまで戦争に駆り出し、多くの民を殺してきたのかと悔恨の念にさいなまれる。
それから元親と菜々の間に生まれ、信長の一字をもらった信親の人物像を描いていく。勇気も知恵もある理想的な跡取りである。元親は理想的な武将となった息子故に、悪賢さなどを身につけさそうとする。
そして、秀吉の命令で、大友氏救援の為の島津征伐の先鋒として長宗我部軍は渡海する。この時の総指揮者は秀吉の軍監の仙石秀久であるが、陰険な口先だけの男として描き、同じく先鋒の三好一族の十河存保とは仇敵の間柄。そのような軍で、島津軍に大敗する。
そして大事な跡取りの信親を死なす。この死を知らずに菜々も病気がちになり逝去する。
この後は気力も萎え、秀吉後の政局に関する動きにも乗り遅れ、西軍となって改易される。また家の相続においても、長男信親亡き後に、二男、三男の相続を認めずに末子の盛親(菜々の子)とするなど混乱する。
なんで「夏草の賦」というタイトルかと言うことを考えたが、「夏草や兵(ツワモノ)どもの夢の跡」という芭蕉の句意を、司馬遼太郎は元親が四国平定に邁進したが中央権力によって、その成果を失うという元親晩年の姿にふさわしいと感じたのであろう。

東京国立博物館の平常展(総合文化展)

昨日は国立博物館の平常展に出向く。平常展とは言わず総合文化展と呼んでいる。ここも特別展と同様に、入館予約が必要である。
刀剣の畏友H氏に用があり、待ち合わせて同道して、刀剣を中心に回る。1階のジャンル別展示での刀剣では三日月宗近が展示されていて、ここだけは列を作って拝観するようにレイアウトされていた。もっとも今日は刀剣女子が4人程度並んでいただけである。三日月宗近は三日月形に限らず「うちのけ」が刃全体に絡んでいる刃である。
隣りに岩切長束藤四郎は、展示の向きが悪く、刃は見えない。地はH氏が「吉光はこのように肌立つものが多い」とつぶやかれる。
岡田切吉房は健全で地刃の出来が優れた一文字派の作品である。華やかな刃文だ。
直刃の長船景光や長船真長が展観されていた。こういう展覧だと、どうしても刃文程度しかわからないから直刃の御刀は損だが、直刃も気持ちの良いものである。
古備前正恒は健全であるが、中程に刃が弱く凹んでいる箇所があり、古備前などにまま見られる手癖とH氏は述べられる。ウインドウ越では古備前と同様に見えるが古青江康次もある。額銘の粟田口久国の太刀、二字国俊、畠田守家の太刀が展観されている。守家は蛙子丁字が目立たないで、長船物のような刃である。
石田正宗は国広のような刃だが、地鉄は肌立つところはない。切刃貞宗は切刃造りで、彫りが貞宗らしいと感じる。刃の働きはガラス越では見えない。
長船長義は兼光と同様の大切っ先で体配も同様である。刃はそれほど明るくはないと感じる。
新刀では初代国包だけで、新々刀では大慶直胤だけである。直胤は彫りが緻密な義胤彫りの相州伝である。
展示のケースは全体に黒い背景にしていて見やすくなっている。
刀装具では法安の車透かしが印象に残っている。

2階の「武士の装い」のコーナーにも刀剣がある。拵を見せているようで、刀は見にくい。石田貞宗が展示されていた。長光の薙刀、雲生の太刀が展示されているが、特に雲生は刃文がよく見えない展示である。

浮世絵は秋に因んだものが展示されている。紅葉をオレンジ色で刷ったものは、褪色して黒ずんでしまい、本来の色が損なわれている。
屏風絵では雲谷等顔の水墨画が印象に残っている。
今回の展示では、陶磁器のコーナーの仁清の作品が印象に残っている。軽みがあり、品があり、ちょっとした造形の工夫が面白いと感じた。

国立博物館の前の上野公園の木に、サルが2匹いた。カメラを上に向けている人がいたから、その方向を見るとサルがいて、1匹は下りていた。ニュースにもなっていないが、動物園を脱走したのか。

平常展の方は展示替えを頻繁に行うようだ。

「<通訳>たちの幕末維新」木村直樹 著

 長崎のオランダ通詞が、幕末・維新期の時代の変革に応じて、対応してきたかを書いている。幕末・維新期だけでなく、この制度が出来た時から解説し、通詞が関係する事件(シーボルト事件など)のことにも触れている。

 通詞は町人身分で、大通詞、小通詞の身分があり、家は世襲である。医者としての副業を持つか、貿易に参与するとか、長崎の諸藩の蔵屋敷とも関係するなどして生計をたてていた。数十人の規模である。
 幕府の初期には、平戸から長崎への商館移転に伴ってきた通詞として、高砂、肝付、石橋、秀島、名村の五氏がいた。当初はポルトガル語の通詞である。他に商館で小間使いのようなことから能力を持った志筑、横山、貞方、猪俣などの諸氏がいる。唐通詞は日本に帰化した唐人の子孫である。寛文5年頃もポルトガル語が主でオランダ語通詞には不自由をしていた。
 17世紀にドイツ人医師のケンペルが来日し、今村源右衛門英生に教育して名通詞に育てる。18世紀末になると一定数の専門集団となる。ここに蘭学が注目されるようになり、吉雄耕牛(幸作)、本木良永、志筑忠雄という通詞で科学者が出る。
 洋書翻訳で幕府天文方との関係が強まる。馬場佐十郎などが活躍する。そこにシーボルト事件が起こり、天文方の関係者とともにオランダ通詞も罰せられる。そこに通詞の名村元次郞の密貿易事件も起きる。
 寛政の改革でオランダ商館から贈り物を得ているとの密告で解任者が出たり、幕府の貿易半減令の誤訳事件で罰せられる。
 その後、ロシア船の来航で、蝦夷地に出向く命令も出る。フェートン号事件などで多言語への対応が課題となる。長崎には唐通詞もおり、彼等は外国人がシナで中国人の通詞を船に乗せてくるから、欧米人→中国人通詞→長崎の唐通詞という流れで重宝された面もあったようだ。
 漂流民のマクドナルドが長崎で英語を教え、英語のわかる人材を育てる。吉村昭の小説で読んだことがある。
 そしてペリー来航である。この後、通詞は浦賀、神奈川、蝦夷などに派遣される。海軍伝習所にも通詞は必要となる。
 唐通詞から英語の通詞になる者も現れる。また帰国した漂流民のジョン万次郎なども登場する。幕府が蕃書調所も設ける。海軍伝習所、幕府陸軍のフランス式採用などによる軍事面からの通詞の必要性も生まれる。
 幕末の有名な通詞は西吉十郎、福地源一郎、名村五八郎などで、名村は函館にまでいき、その地で英語教育も行い、立広作(嘉度)や塩田三郎を育てる。堀達之助は開成所教授から函館に派遣され、そこでの洋学所の教授にもなる。徳川家は静岡に移るから、そこに移った通詞もいる。維新後は明治政府の法曹畑に進み、顕官となるものも出た。翻訳による知識の蓄積によるのだろう。

「関ヶ原前夜」光成準治 著

 副題に「西軍大名たちの戦い」とあるように、毛利家、宇喜多家、上杉家、島津家の当時の動きを、できるだけ一次資料に準拠して明らかにしようとしている。精読するのが大変な内容のある書物である。
 西軍に属した大名の史料は、徳川時代になって編纂されたものだと、どうしても幕府への遠慮が入る。そして、それが通説になっていると著者は述べる。この通りだと思う。

 毛利家は当主の輝元に長く嫡子が生まれず、養子として元就四男元清の子の秀元を養子にした。しかし輝元に秀就が誕生した。秀吉は秀元を毛利家の後継者に認めると一方で、輝元がまだ若いから実子が出来たら、実子に家督を譲り、秀元に似合いの扶持を遣わすことを条件にしていた。そのため、秀元に輝元は領地を分配する必要が生じる。そして小早川隆景が逝去し、九州の隆景領地とは別に毛利氏領国内の三原などの給地や、小早川秀秋家臣団とは別個の隆景独自の家臣団の処遇も考える必要がでる。秀吉はこれを決めたが、秀元を優遇したものだった。その後、秀吉が逝去する。その為に秀吉の調停案は実行されなかった。輝元は三成や奉行を味方にして自分の有利にする。一方、秀元は不満を持つ。
 輝元は石田三成などとの結びつきを強くしていたわけである。七将が石田三成を襲撃する事件の時も輝元は三成を擁護する。七将襲撃事件の黒幕は三成に反感を持つ黒田如水の可能性も指摘している。家康は当初から三成の引退を画していた。
 毛利家当主の輝元は凡庸な大将で傍観者的に巻き込まれて西軍の総帥になったとされているが、凡庸は凡庸だが、石田三成と懇意で、西軍に肩入れしていて、この動乱に紛れて、西国支配者の地位を確保する為に、阿波や伊予を征服したりしている野心家である。
 関ヶ原後も大坂の陣に、重臣宍戸元秀の次男を佐野道可と変名させて秀頼に加担させている。道可は生き延びるが、幕府に知られ、道可は自分の一存で大坂城に入ったと自殺するが、その子二人も自害させている。三代目のひ弱さを持った人物と談じている。また輝元と仲が良くない吉川広家は東軍に付くが、無条件に東軍についたのではなく、どちらが勝つかを見極めながら行動していたことを明らかにしている。

 上杉家は国人領主の力が強く、その中で直江兼続を中心にまとめていくが、その過程で豊臣権力(石田三成の助言も得て)を利用して検地をして豪族の力を削いでいく。その過程で三成とつながりがでる。
 佐竹は上杉と徳川の二股をかけていて、そのことが戦後にわかり秋田に転封となる。伊達も上杉と戦うが、徳川軍の進軍が止まったら、自軍の戦闘もとめている。上杉家も家康軍と戦うことよりも、動乱に乗じて奥羽越佐の覇王になることが主目的だった可能性もある。
 上杉家は下野、越後で百姓層の一揆を誘発させて、対伊達、最上との戦いに専念する。

 宇喜多家は国人領主の力が強かった。宇喜多秀家の成長とともに、秀家は統制を強め、自分の幕僚的な新興の重臣を登用していく。その結果、彼等幕僚と国人領主との間で軋轢が生じて、関ヶ原の前に重臣達の争いが起きる。それに家康が関与して宇喜多家の勢力を削いでいる。

 島津家は当主の義久は中世的な当主。国人領主の上に乗って統治。なかなか検地も出来ず、豊臣権力の叱責を受ける。弟の義弘は中央に出て豊臣権力の強さを認識し、重臣の伊集院忠棟とともに豊臣権力を使って中央集権を目指す方向となる。
 義弘が朝鮮の陣に出て、島津の武勇をあらわす。義弘の子で義久の養子となった忠恒も朝鮮に渡海する。その在陣中に検地が行われ、在陣の武将は不満を持ち、忠恒も彼等に同情する。検地に加えて、朝鮮の陣での加増で島津家中は揉める。豊臣政権の意を汲む伊集院忠棟は恨みを買う。義久は上京して家康と会う。このような時に義弘の息子で義久の養子となった忠恒が伊集院忠棟を殺す。息子の伊集院忠真は反乱(庄内の乱)を起こす。これに家康が介入する。
 義久と忠恒は徳川と近づき、義弘は従来の親豊臣であり、義弘が西軍になったのは薩摩における力のバランスを変えようとした狙いもあるか。薩摩は国元が兵を送らず、小人数で戦わざるをえず、島津軍は二軍的な位置づけだった。(一軍が破った後に突っ込む)それで当初は戦わなかった。

 豊臣政権は本当の意味の中央集権でなく、各地の大名は守護大名・国人領主が大きくなったような存在であり、このような状態だと群雄割拠になる。その点、関ヶ原で勝った徳川家は圧倒的な中央集権となり、それで国内が安定した面もある。ヨーロッパの絶対主義王政のようなもの。

『小柄百選』クロード・チュオー・コレクション

古書の再読である。フランス人のクロード・チュオー氏が集めた100本の小柄を紹介し、一本ずつに対する彼なりの簡単な感想と、小笠原信夫氏との対談を収めた本である。
小笠原氏は西洋人の感性を、蒐集したものから導きだそうと対談において質問している。あるいは日本人と西洋人の美術に対する見方の違いを、浮き立たせようとされているのだろう。日本人だと知らず知らずに身についた伝統文化の中でモノを観るが、そのようなことに毒されていない人の見方を確認したかったのだろう。
ただし、チュオー氏が日本の小柄に造詣が深くなればなるほど(彫られた対象の故事を知る)、日本人的な見方になっていき、小笠原氏のこの狙いは達成できなかったかもしれない。
小笠原氏とチュオー氏の出逢いは、1978年のパリのチェルヌスキー美術館で展観された日本の武器・武具展だったと記されている。

小柄の作者には、日本では名前の知られていない作者のものも多い。日本だと有名工の名作集になるところだが、それからは逃れている。西村直勝、奈良春親、浜野春随、新井英随、秀民、友利、前島盛周、弘貞、親随、貞随、直広、勝文、義之、輝山、沢美卿、光成、一徳斎、信随、保広、美章、孝輝、広常、重行、英忠、英茂、知昆、倫常、守親、連行、興吉、英勝、泰乗、元重、光英、元晴、保誠などは、よく知られていない金工である。

写真はあまり良くない。加えて原寸であり、小さ過ぎてよくわからないものが多い。掲載された作品の中では、春親の三国志玄徳の図、堀江興成の予譲図、直時の芦葉達磨図、河野春明の寿老図、園部芳英の児落獅子図、岩本昆寛の片切彫の雲龍図、石黒政美の猛禽追雁図、石黒政明の金鶏鳥図、紋栄乗(光美)の鶉に秋草図、池田孝輝の魚尽図、野村正秀の海老図、紋宗乗(光美)馬具図、京後藤の泰乗の網さし図、伝乗の川中島合戦図などは実際に拝見したいと思う。

「神田伯山独演会@すみだ」 於すみだトリフォニーホール

昨夜は神田伯山独演会に出向く。すみだトリフォニーホールの大ホールの3階バルコニー席の末端での観覧である。
神田白山も冒頭の話の枕で、この大ホールの広さ、特に3階席まである空間と、そんな遠い席にも関わらず3500円(税別)の料金の高さを題材にして笑いをとっていたが、このあたりも上手なものである。観客をひきこんでいく。

3階席だから双眼鏡を持参したが、重宝した。舞台全部を使う演劇だと、倍率の高い双眼鏡は見える範囲が限定されて不便だが、高座だけに焦点を当てられる双眼鏡は便利である。バルコニー席だから、前も後ろも観客はいないから、双眼鏡の視野も妨げられないし、双眼鏡を抱えていても迷惑にならない。講談を演じている時ははじめから終わりまで神田伯山の姿を写して楽しんだ。

演目は前半は「扇の的」と、伯山襲名に因んで、神田派を中心とした講談の歴史に残る講談師の物語である。「扇の的」は源平合戦屋島の戦いにおける那須与一の扇の的を射貫いた話である。私も弓道2段だが、信じられない弓の技術である。だからこそ、千年以上に語り継がれているのだ。

もう一つの話は、詳細までは不確かだが、神田白龍(ちなみに新刀の刀剣鑑定本の嚆矢として名高い『新刃銘尽』を執筆した神田白龍子の「太平記読み」から講談が生まれる。これは神田伯山も知らないと思う)に3人の弟子がいて、それが伯鶴(はくかく)、伯海(はくかい)、伯山(いずれも、この場で聞いた音で漢字を当てはめているから違うかもしれない)で、伯海は上手いが「飲む、打つ、買う」の道楽が好き。その伯海を恋い慕うお梅がいて、どういう経緯かは忘れたが、一緒に大坂に出向いて一旗揚げようとする。
大坂で上手く行き始めるが、また博奕好きが出て信用を失う。お梅も愛想をつかして江戸に帰ってしまう。その後、江戸に戻るが、師匠は死んでいて、弟弟子の神田伯山が一門を率いている。
腐っている時に別派の講談師の名人(「とう」なんとかと言ったが失念)が、引き立ててくれる。名を松川某(これも失念)に変えて、売れていく。引き立ててくれた名人は自分が一緒に出る時は一晩で一両をくれと言う。高いが了承して松川某は払い続ける。その内に松川某自身で売れ始める。この時、引き立ててくれた講談師は「これからは自分は出ない」と言って、「ところで嫁を貰わないか」と持ちかける。そして紹介したのが大坂で逃げられたお梅である。そして引き立ててくれた講談師は自分が松川某からもらった一両を貯めて百両にしたものを結婚祝いにくれると言うような話である。

後半は歌舞伎の中村仲蔵の出世物語である。仲蔵は一番低い身分の出身だが、一生懸命に自分なりの工夫をしていく。やっと一言、二言のセリフを貰った芝居で、ある時にセリフが出なくなる。この時、仲蔵は、そのセリフを伝える役の市川団十郎の耳元まで駆け寄り「セリフを忘れました」と告げて、団十郎はそれを受けて芝居を続ける。
こんな失敗をしたらダメと悄気ていると、団十郎は「あいつはいい芝居をするかもしれない」と言って引き立ててくれる。周りには嫉まれる。ある時、演劇作者の意向も無視して自分の工夫を出し、演劇作者の逆鱗に触れて、忠臣蔵の演目の時に、一番冴えない五幕目の斧定九郎の役を割り当てられる。この幕は四幕目と六幕目の間で、弁当幕(芝居を見ないで弁当を食べる時間)とされていた。仲蔵にとっては左遷されたような役である。
悔しかったが、工夫をしようと、神様に願掛けをしながら工夫を考えるが、中々思いつかない。もうすぐ芝居が始まる時に、がっかりして蕎麦屋にいると、そこに駆け込んできた男がいる。その着物、身振りにヒントを得て、斧定九郎の芝居に生かす。
そして舞台で一生懸命に演じたが観客は静まりかえっている。弁当を食べている客は驚いて声もでないのだ。
観客の反応が無かったので失敗したとがっかりして、町にふらふら出向くと、年寄りが若い者にこの忠臣蔵の芝居の話をしている。その中で五幕目が面白いから、「明日、お前も一緒に行こう」と話をしているのを聞き、この一人の為に明日も頑張ろうと思い直す。
それでも、しばらくは観客の反応は同様だったが、5日目くらいを境に掛け声がかかるようになったという出世話である。

熱演で非常に面白かった。熱演の証拠に、話を聞いただけの私が、歳で記憶力も悪くなっている私が、不正確なところは多いと思うが、これだけの分量を一気に書き記していることから理解されよう。(パンフレットにも演目も、その内容も一切書かれていないのだ)

京成バラ園

昨日、八千代にある京成バラ園にはじめて出向く。京成の八千代台駅からバスで30分ほどかかる所にある。雲一つ無い快晴であった。
今の時期であり、入口では検温があるので、平日だが10組程度が入場券購入口に並んでいた。
バラは初夏と今頃に開花する。その秋咲きのバラが見頃であった。パンフレットには「1600品種が奏でる色彩と芳香のハーモニー」とあるが、覚えきれない品種名のバラが所狭しと植えられている。「プリンセス ミチコ」やアイコさまの名前の品種もあった。モナコの王妃を意味する品種名もあり、新品種に皇族女性の名前を付けたり、マリア カラスなどのオペラ歌手、女優の品種名もある。ともかく多くの品種名だから記憶に残らない。和名の名前もいくつかあった。

花色は純白、クリーム色が入る白、鮮やかな黄色、クリームのような黄色、オレンジ色、それが暗い色調のもの、レンガ色、赤、深紅、暗赤色、濃いピンク、薄いピンク、紫などがあり、それらの色の混じったものや様々である。
また、それらの色が蕾の段階から七分咲き、満開と時期によって変化しているのも楽しい。一株に枝替わりで別の色が咲いているものもある。吹っかけ絞りと言って色を吹きかけてまだらになったようなものもあった。

花の形も、如何にもバラらしいものから、花肉が厚いもの、花ビラが何枚も八重咲きのようになっているもの、バラとは思えないコスモスのようなものなど、これまた千差万別である。

花の大きさも、大輪のもの、中輪のもの、小さなものまで様々である。

そして香りがするバラもあり、そこには案内表示で明記してあるので、花に鼻を近づけて薫りを嗅ぐことになる。はじめはそれぞれに違うのかと感じたが、その内、麻痺してきたのか、皆、同じようなバラの香りになってきた。良い香りである。

バラは花が豪華で見栄えがするし、このように品種改良しやすく、多くの種類を楽しめるから愛好家が多いのだろう。愛好家であれば、楽しくて仕方無いのではなかろうか。
宝塚の「ベルサイユのバラ」やディスニーランドに因んだバラのコーナーもあった。また園の創設に功績があった鈴木省三氏の個人邸を模したコーナーもあった。

園の奥にはアジサイの季節には見事だろうと思われる池を中心にした区画も存在している。幅広い季節に楽しめるようにしている。

コスプレをして、バラの中で写真を撮っているグループもいた。当初は女優かモデルかと思ったが、その顔を見ると、バラに負ける顔だ。

当方は椿を愛好しており、鉢物も含めると20種類以上、自宅にある。バラは3種類あるのだが、陽当たりが良くないし、手入れも不十分で、同じようなピンクの中輪の花に先祖返りしている。椿は陽当たりが悪くても大丈夫である。

食事をするレストランはは一度、園の外に出る必要があり、園内のカフェからは数種類が、そのレストランに発注できるというシステムであり、事前に把握していないと戸惑うことになる。

「秘録 島原の乱」 加藤廣 著

「信長の棺」でデビューした小説家の遺作とのことである。
豊臣秀頼が大坂の陣後にも生きていて、明石掃部とともに薩摩に隠れ、島津維新入道義弘の力添えで住むところから小説ははじまる。福島正則の無念の最期に立ち会った女剣士小笛と忍者小猿が、「秀頼公の命は助ける」というような家康から福島正則への文書(実は偽書)を携えて薩摩の秀頼の元に来る。
その女剣士に片目をつぶされたのが柳生十兵衛と設定されていて、最期の島原の乱の時に登場する。この女剣士小笛は元の豊臣方の有力者、例えば雑賀孫市(子の世代)や伊達家の真田の娘が縁づいているところなどに、いざという時の援助を頼む。寛永御前試合に薩摩示現流の代表として益田四郎として登場して、鮮やかな剣をみせて、柳生家の者と対戦する。その姿に柳生刑部なる美少年が惹かれる。また衆道趣味のあった家光も見初める。
そして秀頼の側室となって女子3人を産む。3人ともに母親似で、その子が天草四郎となる。3人が天草四郎の分身の術として現われるというわけである。
細川家で廃嫡されたキリシタンの御曹司も登場したりして、島原の乱を起こし、そこに家光をおびき出して、その間に薩摩と島津(真田の娘が匿われている)の両軍と挟み撃ちで江戸の家光を斃そうとする陰謀となる。知恵伊豆こと松平伊豆守信綱が見破っていき、一揆軍は敗れるという荒唐無稽なストーリーの時代小説である。敗軍後に琉球に逃れるという筋もついている。
雑賀孫市の子孫や宮本武蔵、東郷重位、柳生一族に、忍者が出て、わけのわからん小説である。サービス精神が旺盛な時代小説だが、ここまで荒唐無稽だと読者を馬鹿にしているような本である。


「古代出雲を歩く」平野芳英 著

出雲風土記などを参考に、出雲地方を散策する人には興味深い本だと思うが、私は出雲に土地勘がまったくなく、読んでも頭に入らなかったというのが実情である。
興味深く読んだのは、「第6章 銅剣と銅鐸と谷神の地を歩く」であった。銅剣が4列、358本と銅鐸6個と銅矛16本も出土した荒神谷遺跡(出雲市斐川町町神庭西谷)のことである。
荒神谷遺跡は左右の低丘陵が谷奥に吸い込まれるように狭くなっており、さらに分岐した一つの谷奥の斜面にこれら青銅器が埋納されていた。この地形は古代中国の老子にある「谷神は死ぜず 是を玄牝という。玄牝の門、これを天地の根という」言い伝えに基づく立地ではないかと推察される。女性の生殖の門に喩えて、ものを生み出す地ということになる。小規模な農業を営むには良い場所となる。日が出ると、山陰となるところがない地形とのことだ。今の地名の西谷は斎谷、すなわち神を祝祭するという意味ではないかと書かれている。ここで何らかの祭祀が行われていたようだ。
なお、この銅剣358本の内、344本の茎(なかご)にはタガネで×印が印されている。これは国立博物館の展示で拝見したことがある。
隣町の雲南市(旧加茂町)の加茂岩倉遺跡からは全国最多の銅鐸39個が出土する。この内の14個の鈕(ちゅう)に部分にも×印がある。

加茂岩倉遺跡に入る場所に、大きな岩がある。これから岩倉の地名が付いたようだ。なお巨石を信仰の対象にしたような場所は立石(たていわ)、仏経山の伎比佐の大岩や松江市恵曇(えとも)神社の磐座、大崎川辺神社の大岩、出雲市の韓竈神社、御領神社、石上神社、大船山の烏帽子岩、佐太神社の母儀人基社など出雲全域に見られる。沖縄のウタキ(御嶽)と同様な古代信仰なのであろう。
出雲地方は地名が難しいというか古代語のようなものが多い。十六島(うつぷるい)湾や神名樋野(かむなびぬ)、意宇(おう)などである。

「信長軍の合戦史」渡邊大門編 日本史史料研究会監修

織田信長が関与した戦いを取り上げ、その一ずつを日本史史料研究会に所属する学者が分担執筆したものである。
各著者の執筆姿勢には僅かな違いがあるが、自分の主張(説)を述べると言うスタンスではなく、その戦いに関する現在の歴史研究者の様々な見解を客観的に整理している。通説に毒された頭には良い本である。

桶狭間の戦いでは、まず義元が尾張に向かった動機から検証している。上洛説もあるが、今はこの説には否定意見が大半で、三河支配を安定させて尾張侵攻をめざすが最大公約数的とのことだ。
戦いは佐々隼人正と千秋四郎の抜け駆けから始まり、彼らは討死にし、これで義元は油断して桶狭間山から前進して平地に陣を移す。にわか雨が降る。これにまぎれて進軍して正面攻撃をして義元の旗本を破るという説が有力なようだ。なお信長は殺害した義元を丁重に扱っている。

一向一揆では、長島は根切りという虐殺をしたが、それに至るまでに信長の弟の信興が自害に追い込まれ、氏家卜全が戦死、柴田勝家が負傷など何度も苦杯をなめている。赦免しても、その後に攻撃してくるなどもあり、根切りに至った。
反信長連合の一員になった石山合戦の終結は荒木村重の反乱の終結と、その乱後の信長の態度で蓮如が講和し、教如はあくまで反抗するも、失火で灰燼に帰す。

姉川の戦いは、徳川方の伝記作者が徳川軍の奮戦ぶりをことさら強調したのが通説になっている。この戦い後も浅井、朝倉は存続しており、織田・徳川の大勝利という戦いではないようだ。横山城包囲の織田勢の主力が駆けつける間もなく、浅井・朝倉軍の奇襲を受け、信長、家康の大将が自ら戦わざるを得なかったのではなかろうか。

三方原の合戦で有名な家康の「しかみ像」は最近では家康でもなく、江戸中期に画かれ、尾張徳川に嫁入りした姫の道具と判明している。信玄の上洛説も最近は遠江、三河の平定が目的か、信長打倒の為の尾張・美濃辺りまでの進軍という説も有力である。家康は兵力は劣勢であったが、三方原の台地から降りて進軍する武田軍を、台地の上から襲えば勝てると読んで出陣したが、信玄は台地を降りておらずに迎撃態勢を取っていて敗軍に至ったのではなかろうか。

長篠合戦では、鉄砲の数3千挺の真偽や三段討ちの信憑性や、武田の騎馬隊が存在したのか否かなどに諸論があり、この章の著者はそれら諸説を紹介している。酒井忠次の別働隊が武田軍の鳶ケ巣山の砦を襲い、それが武田軍を挟撃する形になったことは事実だ。ともかく良質な史料が無いとのことだ。

有岡城の戦いは荒木村重の反乱である。荒木村重は摂津の池田氏の重臣であって、織田方になり、足利義昭を京都から追い出す戦いや、摂津一国を切り取れという命令に従って功績があった。他に石山本願寺攻めや河内の三好攻め、紀伊の雑賀攻めと酷使される。播磨にも攻め込んだが、信長は播磨を与えることをしなかった。こういう中で村重は反乱する。信長の人事の失敗ではと推論される。有岡城籠城戦の中で家臣を捨てて尼崎城に行ったとされるが、有岡城の補給の要の尼崎城で戦線を立て直そうとしたのである。有岡城の包囲責任者の織田信忠の失態を隠蔽する目的で一人で逃げたと伝えている。
有岡城は村重がいなくなっても、残留の将士は村重を裏切ることはなく落城している。部下から心服されていた証左ではなかろうか。
なお有岡城の虐殺は江戸時代は信長の非道とされており、そこになにがしかの肯定的な意味を見ようとするのは最近のことだ。

三木合戦は兵糧攻めで有名。はじめは別所長治は信長と親密。ただし家中では毛利派と織田派が対立しており、周囲の状況(信長の四面楚歌)と、何らかの理由で信長、秀吉に不信感を抱いたこと、義昭からの勧誘などで叛旗を翻したのではなかろうか。
兵糧攻めにあい、毛利からの兵糧の搬入の戦い(大村合戦)に失敗して飢えで苦しみ落城する。落城後に一般の城兵は秀吉に助けられたと伝わるが一次資料は虐殺である。

鳥取城は山名豊国が城主だったが、秀吉に攻められて降伏する。その後吉川元春が巻き返し、城中の親毛利派の地元領主から山名豊国は追われる。毛利から吉川経家が城主に派遣されるが、地元の国人領主は毛利も織田も関係なく、自家の存続が図れればいいわけであり、和を取り付けるのも大変だったと考えられる。その中でも持ちこたえてきたが兵糧を絶たれて落城。

宇喜多直家は信長方になるが、信長は裏切りが多い人物として警戒していた。ただ秀吉に属して秀吉が因幡、伯耆で戦っている中、備前、備中、美作で戦っていた。秀吉は宇喜多直家を評価していたが、信長は秀吉、直家には無断で毛利と講和も模索していたが、この話はなくなる。
東瀬戸内海の制海権を、秀吉は児島水軍の高畠氏を寝返られて確保する。また村上水軍(来島水軍)の調略もする。能島水軍、河野水軍、因島水軍は毛利方にとどまったが、塩飽水軍も秀吉方になる。この為に毛利軍は消極的になり、様子を見ていた備前、備中の各領主に影響を与える。

備中高松城の水攻めについては考古学、地理学からの検証もあることを紹介している。

本能寺の変は怨恨説、野望説、黒幕説を紹介し、最近研究が進んできた四国原因説を紹介している。長宗我部元親の正室は幕府奉公衆の石谷光政。石谷は光秀の重臣斎藤利三の実兄頼辰を婿とする。
信長と元親は当初は、共に対阿波の三好に敵対するから友好的。しかし三好存保が信長に服属したので、阿波についての考え方に行き違いがでる。信長は三男信孝を総大将にして四国攻めを決定。元親の取り次ぎ役が光秀だったので立場がなくなる。
石谷家に伝わった文書で、元親に対して信長の命令(土佐と阿波の一部だけ領有)に承諾するようにとの斎藤利三の書状がある。また5月21日の長宗我部元親からのその意向に従うとの書状がある。この書状が間に合わずに本能寺の変に結びついた可能性がある。
ただ、光秀の反乱は思いつきが強いとする。だから事後の対策がことごとく失敗していると述べているが、主君殺しであり、事前に各武将に協力を求めにくいのが実態ではなかろうか。

「司馬遼太郎全集17 新史太閤記」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎らしい解釈で豊臣秀吉の性格、魅力を書いた本で面白かった。秀吉は寺の稚児であったとして物語ははじまる。確かに秀吉の基礎的教養(文字を知り、書く能力)などは単なる百姓の倅だけでは説明できないもので、寺で身に付けたと言う解釈は自然である。そして、銭勘定の計数感覚に長けていて、商人的な感覚を持っていたとする。

 なお、この物語は小牧・長久手の戦い後に家康に妥協して、家康を大坂に参上させるところで終わっている。秀吉晩年の老醜を描くことをしていないことも、この小説の魅力であろう。

 寺を飛び出して高野聖の群れに入り、その後、三河矢作で高名な遊女に出逢い、転々とした後に尾張海東郡蜂須賀村の小六のもとで小者奉公をする。小六は木曽川デルタ地帯の地侍で半農半士の暮らしをしていたと設定し、その後に針売りの商人になり駿河に行き、それから駿河の松下嘉兵衛に小者として仕える。要領が良いために、同僚から嫉まれ、尾張の蜂須賀小六の元に戻り、その後、信長の小者になる。
 信長に一心不乱に仕えて徐々に信長に気に入られていく。信長の当時としては合理的な人材登用(身分を問わず)を行う人間であり、そのおかげで活躍の場を広げていく。
 そして小者頭の浅野家の養女であった寧々を嫁にする。この頃の秀吉の発想は、自分を傭ってくれている信長様に損はかけないという商人的な発想で貫かれていると書く。これも司馬遼太郎なりの解釈である。

 そして徹底的な明るさと、対応した人にも損をかけないという心構えで人の心をつかみ、調略の才能を発揮していく。竹中半兵衛にも信頼され、秀吉は半兵衛の考え方で兵法も学んでいく。秀吉の調略を信長が学んでいくような物語の進めかたになるが、確かに信長の発想だけでは、あそこまで信長の版図は広がらなかったとも考えられる。

 前田利家とは妻同士も親しくし、利家は秀吉の身分に拘らず親交を結ぶ。半兵衛の力で武功も上げていく。そして越前朝倉攻めで、浅井長政が裏切って、信長が退却した時に、危険な殿(しんがり)の役割を自ら申し出て、並み居る武将の信頼を得る。その後の浅井攻めでは調略の才(秀吉の人間力)で浅井方の武将の宮部善祥房を織田方にしたりする。そして長浜城主になる。

 その後、織田軍の北陸攻めで、柴田勝家からの援軍要請に対して、上杉は本格的に攻めてこないと信長に進言するが信長は援軍に行けとの指示を出す。北陸で柴田勝家の方針に異を唱えて、引き返すような軍令違反を行う。激怒する信長は秀吉に長浜城で蟄居するように命令を出す。この時に信長に疑われないように大騒ぎして過ごすところなどはスリル満点である。

 この後、秀吉は対毛利戦線を任される。ここで播州の黒田官兵衛に出会う。司馬遼太郎は黒田官兵衛の考え方、魅力を書いていくが、これが後に『播磨灘物語』としてまとまるのであろう。このあたりの秀吉、官兵衛の人間力の魅力は司馬遼太郎の筆致で一層冴えている。

 播州攻略には苦心するが、ここで城攻めに土木的技法を使って兵糧攻めにするとか、水攻めなどの発想というか、秀吉の独創的な戦い方が生まれてくる。この延長で、「人をむやみに殺さない」という戦い方を編み出し、それが天下統一につながることを司馬遼太郎は書いていく。

 播州の高松城の水攻め時に本能寺の変の報を聞き、そこから中国大返しをするが、颯爽たるものだ。摂津の中川瀬兵衛を味方につけて、明智光秀を山﨑の戦いで討つ。
 それからは柴田勝家との清洲会議という名の戦い、そして賤ヶ岳の戦いとなり、織田軍団の中での勝者となる。この過程で敗者に寛容という姿で、かつての同僚の織田方諸将の心を掴んでいく。

 そして次ぎが家康である。織田信雄に頼まれて家康は戦い、小牧・長久手では秀吉軍を破るという戦術的な勝利を得るが、秀吉は織田信雄を裏切らせて、家康の大義名分を無くす戦略で勝利を得て、家康を臣化たらしめて名実ともに天下人となる。

 この小説では秀吉の低い身分からの出世に反応するように、随所に当時の家柄が高い家の人物(織田家宿老、京極家、山名禅高、織田家の子息)の考え方、発想を散りばめて、それと相反する秀吉の魅力を浮かび上がらせていく。

「桃山 天下人の100年」展 於東京国立博物館

見応えのある展覧会で、妻とともに久々に疲れたという感をいだく。展示内容が豊富ということもあるし、コロナ渦の中での久し振りの美術展ということもあるのかもしれない。
今はコロナ対策で、予約制であるので、入場者数は抑えられていて、展覧会を観るのには良い仕組みである。前期と後期に加えて、その中でも展示替えがあり、永徳の「唐獅子図屏風」は展観されていなかった。

刀剣、鎧も良いものが豊富に展観されていた。国立博物館の所蔵品で常に拝見している結城秀康の元重と拵もその一つである。般若太刀と号される青江守次の太刀ははじめて拝見するが健全なものだ。姫鶴一文字は上杉家の太刀だ。酒井家が信長から拝領した真光、有名な日光助真は助真拵として高名な天正拵も展示されている。展覧会の趣旨から拵も一緒の展観が多い。家康の枕刀とされる勝光・宗光の草壁打ちの刀は、刀そのものは実物を拝見して感動したことがある草壁打ち同作の刀の方がいいと思うが、拵は梨地鞘で後藤の金具で武士の持ち物らしい中に品の良さがある。日光助真の拵と同様に渋い家康の拵らしい。ちなみに秀吉所用の大小と伝わる朱漆金蛭巻の大小拵も展示されている。
ちなみに、この展覧会では刀は刀という展示ではなく、テーマに即した展示の中で分散されて展示されている。そのテーマとは「桃山の精髄-天下人の造形」「変革期の100年-室町から江戸へ」「桃山前夜-戦国の美」「茶の湯の大成-利休から織部へ」「桃山の成熟-豪壮から瀟洒へ」「武将の装い-刀剣と甲冑」「泰平の世へ-再編される権力の美」である。

鎧も桃山の当世具足は面白い。伊達者の語源と言われる伊達政宗関係の鎧がきらびやかである。秀吉から政宗が拝領という銀伊予札白糸威とかは白が持つ華やかさを再認識する。伊達政宗から拝領という大きな三日月の前立ちの兜もある。酒井家が家康から拝領の南蛮胴具足もモダンだ。一方、戦国期に大内氏が厳島神社に奉納した鎧は復古調だ。家康から松平忠吉が拝領したものも銀と白の色が印象に残っている。
陣羽織も派手な面白い意匠のものだ。黒地に白で蝶々が描かれているのは信長から拝領したものとか、黒地に赤の線を効果的に使ったものなどモダンである。動物、昆虫、鳥類もそうだが、戦うオスは派手になるのかもしれない。

絵は狩野永徳の「檜図屏風」が迫力があり、一番印象に残っている。長谷川等伯の「松林図」は、妻が「別のものかしら」と言ったように、照明の関係か、以前に拝見した時と印象が異なる。以前の方が暗い場所にあって良かった。今回は明るすぎ、紙の色が映えてしまっている。

入ってすぐに各種の「洛中洛外図屏風」が並んでいる。無くなった聚楽第が書かれている屏風も初見だ。「関ヶ原合戦屏風」も色もはっきり残っていて、長く観ていたいものだった。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の肖像画も凄い。豊臣秀吉のは狩野光信の下書きらしいが「よく似ている」旨の書き込みがあるらしいが、いいデッサンだ。
教科書で観る絵も出品されている。「フランシスコ・ザビエル像」や、「日本図・世界図屏風」、「泰西王候騎馬図屏風」など南蛮人の絵も多く出ていて、桃山時代らしい。花鳥蒔絵螺鈿聖龕は輸出品のようだが、マリア様らしき女性が真ん中にあり凄いものだ。
岩佐又兵衛の絵、狩野探幽の細かく人物を描いている絵が印象に残っている。妻は海北友松が中国人物を墨で描いた「飲中八仙図屏風」がいいと言っていた。海北友松には龍虎を描いた屏風を以前に拝見したことがあり印象に残っている。式部輝忠という画家の絵も数点展示されていた。曾我直庵の龍虎図も認識を新たにした。この時代は永徳と等伯だけではないのだ。
華やかな世相を描いた出雲阿国の阿国歌舞伎図屏風や本多平八郎姿絵屏風の伊達姿の絵、遊楽人物図も魅力的である。

茶道具も桃山美術の代表的ジャンルであり、素晴らしい展示だ。井戸茶碗の名品があり圧巻であった。蓬莱、有楽井戸、老僧などがあった。朝鮮の雑器から美を見出す当時の感性は凄い。利休所持の長次郎の禿は小ぶりで感じの良いものだ。織部好みの豪快で歪みのある伊賀焼の水指、同じく「岩かど」の銘があるものなどだ。織部、志野茶碗もいい。本阿弥光悦の2つの茶碗は大ぶりで豪快だ。楽家3代の道入の赤楽の「僧正」「升」という銘のものも感じが良く、認識を新たにした。
大内筒と呼ばれる青磁筒花入も素晴らしい。日明貿易で入手したのであろう。

他の分野の美術としては鏡や七宝が入れられた釘隠の金具なども華やかなものだ。漆芸も見事なものだ。高台寺蒔絵のものや西洋人の為に造った箱などはルイビトンの鞄よりもいい。

「本当はブラックな江戸時代」永井義男著

表題や装幀は軽い感じの本であるが、中味はしっかりした本である。江戸時代をリサイクル社会だったとか、治安が良かったとかと賛美する風潮もあるが、やはり前近代であり、色々と問題があったと指摘している。
確かに私の世代は汲み取り式便所を知っていて、その悪臭を知っているが、今の人には想像もつかないのかもしれない。
まず、江戸時代の商家への就職と労働に関して、庶民は11、12歳で奉公に出る。商家の丁稚小僧や職人の徒弟になり、女子は武家屋敷や商家の女中や下女になる。すべて住み込みで、三食は出るが粗末なもの(これはどこでも同じようなものだが)、雑魚寝で小遣い程度の給与、年季(契約期間)は10年が普通。休みは年に2回だけで1月16日前後の藪入りと7月16日前後の宿下がりだけである。大店でも故郷に帰れるのは9年目でこれを初登り(50日間)と言い、この後に手代となる。次は16年目の「中登り」、次ぎは22年目の「三度登り」である。
だから結婚は故郷に戻ってとなると40代。それまでは女郎屋で遊ぶだけ。

女性は親に売られて女郎になる者も多い。年季を決め、給金は前渡しで親がもらう。だから妓楼からは給料は出ない。
親に孝は絶対であり、親に逆らえない。同様に主人に忠も絶対であり、親殺し、主殺しは厳罰となる。

江戸は南北奉行所に与力25人、同心120人がいたが、実際に市中を巡回の定町廻り同心や臨時廻り同心は両町奉行合計で24人。だから自分たちで始末が必要で、実際は町で取り押さえ、自身番に捕らえおき、同心が来た時に引き渡す。それまでの食事、用便にも付き添う必要があり、内済(示談…金を使ってのもみ消し)で済ますことが多かった。

武士は暴漢に出会ったら、「自分は君に仕えているから、無名の狼藉者を相手にしては君の忠ができない」という理屈で避ける。

刑罰は死刑が中心だから、内済で済ますようになる。10両盗めば死刑だから9両3分としたり、妻が密通したら、妻と間男は共に死罪。だけど子がいれば可哀想だから、妻は離縁、間男は暇を出して密通がなかったことにする。
もちろん、身分によって刑罰に不公平があり、拷問は当たり前だった。

江戸の水を飲めば下痢は当然となる。また旬の食材しか食べるものがないのが実態。冷凍庫、冷蔵庫はないのだから。庶民の食事は、朝が味噌汁だけ、昼はおかずが一品、夕食は香のもので茶漬けというのが実態。
下の処理は肥だめにこえ桶。不潔で臭い。人間は生活の臭いには慣れる。

風呂など20日に1回とか6日に1回。

人情社会でもなく、見て見ぬふりをする。人を救う余裕はない。子どもの虐待も多かった。子どもを貰い、礼金を受け取る。子どもを殺す。また別のところから子どもを貰い、殺すとして稼ぐ。

伝染病も多く、すぐにかかり死んだ。

武士は軟弱。仇討ちも刀を持っていない者を3人かかりで嬲り殺すようなことが実態だった。
また身体障害者など社会的弱者に残酷(軽侮、罵倒、嘲笑の対象となる)な社会であった。

「司馬遼太郎全集16 風の武士」司馬遼太郎 著

 全集16に「十一番目の志士」と一緒に収録されている「風の武士」という時代小説である。
 司馬遼太郎が大衆時代小説家であった初期の作品である。舞台は幕末で、主人公は幕府御家人の次男で柘植信吾である。御家人と言っても伊賀者の末裔である。時代小説らしく主人公は剣(居合)の達人で父から忍術の初歩も教わっている。司馬の小説らしく魅力的な女性が登場して読者サービスをする。
 町の剣術道場で代稽古をして、ぶらぶらと過ごしていた。馴染みの女性もいて、持ち込まれる養子の口も蹴って、あてなく生きていた。物語は、その道場主の用人が殺され、そこからこの町道場主の秘密が明らかになって展開する。
 その秘密が明らかになる過程は初期作品の為か無理があるが、紀州の山奥に誰も知らない国があり、そこに莫大な財宝があり、そこへの道や秘密に、この道場が関係していたということである。町道場主の娘として暮らしていた女が、その秘密の国(安羅井国)の姫君ということが明かされる。主人公はこの姫君にも懸想をしていた。
 ここで柘植は老中特命の隠密を命じられる。幕府の狙いは幕末で金が無い時代に、その国の莫大な財宝を狙うことである。彼とは別に正式な幕府隠密も、この事件にかかわり、匿名の「猫」と言うことで、彼とのやりとりが綾をなす。この幕府隠密に絡んだ女性も登場して読者を楽しませる。
 紀州山奥の秘密の国の莫大な財宝は、幕府だけでなく紀州藩も狙っていて、紀州藩の隠密も暗躍して、彼等との戦いが繰り広げられる。
 この姫を迎える為に安羅井国の人間もやってきて、それぞれが敵になったり味方になったりしながら、安羅井国へ向かう道中で争いが繰り広げられる。また色恋沙汰が行われる。
 紀州藩の方は、藩とは別に紀州家御用商人も、その財宝を狙うという設定で、緒方洪庵の適塾出身という医者崩れの剣豪も登場する。
 最期に安羅井国に到着するが、柘植信吾が気を失っている内に安羅井人は日本から財宝ともども脱出したように思わせて物語は終わる。安羅井→ヘブライ→ユダヤ人のように思わせる設定である。
 荒唐無稽の割に、あまり面白くもないし、良い小説でもない。

「司馬遼太郎全集16 十一番目の志士」司馬遼太郎 著

 全集16は「十一番目の志士」と「風の武士」という時代小説が収録されている。「十一番目の志士」は幕末の長州で、高杉晋作に見出された周防国鋳銭司村の百姓の子で、家伝の二天一流(宮本武蔵創出)の達人という天堂晋助を主人公にしている。鋳銭司村は聞いたことがあると思う。大村益次郎の出身地である。ただし、大村益次郎は一切出て来ない。
 高杉の意を受けた長州藩の刺客という位置づけだ。村の庄屋の世話で長州藩の上士の若党になるが、屈辱的な扱いを受け、退転し、高杉の世話で奇兵隊の一員になる。はじめから客将的な位置づけて、高杉の特命事項の暗殺を受け持つ。司馬遼太郎の小説らしく、諸所に魅力的な女性を登場させて、天堂は寝ていく。こういうサービスの筆が司馬遼太郎小説の人気の一つなのだろう。
 高杉の命で幕府の切れ者小栗上野介を狙うことを主旋律にして物語は動く。小栗がいそうな場所を舞台にするのだが、なんと言って京都が舞台である。蛤御門の変で長州藩が京から追われたが、その時期に京都に潜入していて、新撰組や幕府方諸藩士に追われて戦う。架空の時代小説上の主人公だから、窮地に追い込まれても死なない。剣は無敵である。
 途中で奇兵隊を裏切った赤根武人を狙うように指示される。同じ階級の出身者であり、天堂は乗り気ではない様子で小説は進む。そこに史実を織り込ませて、司馬遼太郎は本当らしくしていく。
 高杉の死で、高杉の情婦のおうのを、同志が無理矢理に尼にするところで、天堂は自分も高杉によって生かされたことの空しさを感じるところで小説は終わる。
 ただし、なんで十一番目かはわからない。高杉、桂、伊藤、井上に、奇兵隊の赤根、山県などは登場するが、残りはわからない。刺客仲間では薩摩の中村半次郎が出てくる。

「徳川がつくった先進国日本」磯田道史著

この本は著者がNHK教育テレビで「さかのぼり日本史 江戸 ”天下泰平”の礎」の番組を企画した時の放送内容をまとめたものである。だから読みやすいが、江戸時代を大きく4つに分けている。それが磯田氏が本当に分けたかったのか、テレビの都合によるのかはわからないが、一つの考え方として興味深い。宝永地震を時代の区切りとしているのは東日本大震災を意識しているのかもしれない。
その4つは章に分かれ、放映順に「「鎖国」が守った繁栄」「飢饉が生んだ大改革」「宝永地震 成熟社会への転換」「島原の乱「戦国」の終焉」である。

時代ごとに追うと、「島原の乱「戦国」の終焉」は1637年で、大坂夏の陣1615年から約20年である。関ヶ原(1600年)後に徳川幕府は415万石を没収し減知も含めると622万石になる。これは当時の全国石高の約3分の1にあたる。大坂夏の陣1615年後も諸大名の処分は続き、三代家光までに130名の大名が改易になる。没収した領地は1400万石になる。こうして幕府領、旗本領に親藩を入れると全国3000万石の内1000万石以上を占めるようになり、圧倒的な武威で治めていた。
この当時の領民統治は戦国時代と変わらず、百姓は搾り取るものだった。農民側もしたたかで、大坂の陣が起きた時に一気に鉄砲を集め、年貢を払わなくなるようなこともあった。
島原の乱は圧政と不作に耐えかねた農民に切支丹に立ち返るように勧誘してそこに改易された大名の浪人が加わる。改宗3万7千人が反乱。12万4千の討伐軍の死傷者は8千人とも1万2千人とも言われる。
その後、島原への移民令(10年年貢減免))で復興に努める。この後、領民が国の本なりという思想が出る。岡山藩の池田光政などが、そのように意識した藩主である。武断政治からの転換は、綱吉の生類憐れみの法(1687)に至る。

次ぎが「宝永地震 成熟社会への転換」の章で、宝永地震は1707年で最大の地震。江戸時代の前期は新田開発が盛ん(武力で土地は奪えないから新田開発)で、200万町歩が300万町歩になり、人口も約1500万人が元禄には約3000万人になる。
宝永地震で津波が新田を襲う。新田開発で環境破壊したことのしっぺ返しを浴びる。ここから低成長時代の農業=精緻な農業となり、農民も本を読んで知識を持つ必要が生まれ、識字率が上がる。

そして「飢饉が生んだ大改革」の章となる。天明3年(1783)に天明の飢饉がおきる。その前の吉宗の改革は倹約と新田開発と農民への年貢増徴であった。享保16年にはこれまでの四公六民から五公五民になり享保元年から11年までの年平均140万石が、享保12年から元文元年の年平均が156万石となる。そこで一揆が増える。
田沼改革は商品経済からも財政をという重商主義的な政治である。財政あっても福祉は無かったのが当時の政治。
天候不順と浅間山の噴火と天明の飢饉で農村は疲弊。都市でも米騒動。松平定信は備蓄をすすめ、代官を更迭した。寛政12年(1800)には幕府領に58人の代官がいたが、天明7年から寛政6年に44人が新たに任命。これら代官の中には陸奥国塙代官の寺西封元のような名代官が誕生する。
幕府も民政重視となる。諸藩も藩政改革。

「「鎖国」が守った繁栄」では1806年の露寇事件がターニングポイントだとする。1792年にロシアのラクスマンが根室にくるが、松平定信は長崎に行くようにと軽く拒否。その入港許可証をもったロシア使節のレザノフが1804年に長崎に来る。
ロシアは露米会社で貿易を任せていた。絶海に孤立した会社の補給がうまくいかずに日本に目をつける。この頃のロシアは商人の活動で領土を広げていた。
長崎でも拒否されたレザノフが怒り、フヴォストフ大尉が樺太南部の松前藩施設を襲う。このことはロシア側はロシア側で罰していた。
なお、鎖国の言葉は1801年にケンペルの著書『日本誌』の一部を志筑忠雄が訳した時に初出。
そして、この50年後に黒船到来。

「所持銘のある末古刀」横田孝雄 著

調べものがあり、標記の本を読んだ。一部に時代が室町中期にまで上がる刀工のも所載されているが、全国の末古刀期の刀工作品から、中心(なかご)に所持銘(為打ち銘)のある刀を網羅されている労作である。

ただし、銘鑑的に網羅されていて、それぞれの所持銘についての考察は少ない。他の方が考察した論文のタイトルを案内した箇所もある。
その代わり、この本所載の所持名を巻末に索引とされているのは素晴らしいことと思う。もちろん所載の刀工銘も索引とされている。
室町時代後期、戦国時代の郷土史、地方史などを研究されている方は面白い発見ができる可能性がある。

所持銘には「弥四郎」や「与七郎」と言う通称名や、「伊豫守」「遠江守」「和泉守」などの官名だけや、「源」「藤原」などの姓だけや、名字無しの名だけと言うものもある。官名はともかくとして、このような表記だけだと特定の人物を突き止めにくい。

読んで思ったのは刀工と、ある地方の豪族とのつながりがわかり、その刀工の活躍の背景などが推測できるかなと言うことである。
関鍛冶は所持名のあるものが少ないが、武田家との関係も窺える。また関の兼常に備中の石川氏が注文しているのも興味深い。隣国の備前への注文が普通と思うのだが。関鍛冶の販路が広かったとも考えられる。(備後や常陸からもある)

もっとも時代の荒波で衰退していった豪族は、そもそも史料が残っていない。歴史は勝者の歴史だから。

自費出版されたようで、市販はされていないのだろう。