「刀の明治維新」 尾脇秀和 著

この本は副題に「帯刀は武士の特権か?」とあるように、帯刀ということに焦点を当てて、江戸時代から明治初年までのことを記している。
江戸時代の帯刀のことは拙著『江戸の日本刀』で記したが、私が当たれていなかった史料にも言及しており参考になる。
要旨は、江戸時代のことは拙著と同様であるが、次のようなことである。
①帯刀(二本差し)が武士身分の象徴となり、百姓、町人には道中差しや礼式の場(婚礼、葬儀、年頭の挨拶など)で脇差一本だけの佩刀は許されていたこと。(所持は禁止しておらず、常時帯刀の禁止)
②脇差の長さが武士でも制限され、町人、百姓の脇差帯刀もどんどん制限されてきたこと。
③江戸時代後期になると身分の上昇を願い、金銭で帯刀身分を得る動きがあったこと。

町人、百姓身分での帯刀について、昔からの由緒や、職業上の慣例(例えば医者、儒者、神官、修験者など)、また大工頭は「職人統制の必要から」などとして帯刀を求める動きがあった。
また京都では普段は町人だが、時々公家の家来としての仕事をする人間などがいて帯刀を望んだ。

帯刀の許可は領主の権限(この場合は領内のみ有効)だが、神職を支配する京都の吉田家、白川家、陰陽師の土御門家などが許状と一緒に帯刀許可を出すこともあった。鋳物師の真継家は御室御所(仁和寺)からの免許である。

武士の帯刀は特権というより義務であり、帯刀していないと罰せられた。しかし、刀は斬っていいものではなく、与力、同心でも召し捕った時に褒賞が出るが、斬った時は出ないという状況だった。しかし18世紀末からはテロの時代となり、切捨、打捨措置も発動される。文久・慶応が殺傷の巷になったことで後世に刀への恐怖感が出る。
切捨御免という言葉は江戸時代にはなく、福澤諭吉の『学問のすすめ』(明治6年11月刊)が初見である。江戸時代に慮外打(無礼打)が認められていたが、この時でも「やむことをえず」(不得止事)場合と限定している。

そして明治初期の帯刀のことが詳しいが、明治初年、官員は必ず帯刀だった。公務にかかるという身分標識にする狙いだった。そして、民間の帯刀者についても調査し、明治2年に平民(百姓、町人)の帯刀を一切廃止した。
明治2年に「府県奉職規則」で府県による帯刀許可規定を作成したが、褒賞によるものは府県ではなく民部省へ上申が必要だった。

しかし藩も県にも規定が残り、取締、褒賞規定に差があったので様々な平民帯刀が表面化してきた。明治5年に平民への苗字帯刀許可規則は名実とも消滅した。なお官員以外の医師などは曖昧なままであった。こうして明治4年までは帯刀は官員・華士族のみが帯刀となる。こうした整理のあとの帯刀が廃刀令で禁止される。

役人の方は佩刀だったが、洋服を着ることで邪魔になり「帯刀をしないで良いか」との問い合わせが増えた。そして、明治4年半ばに「礼服以外の時は脱刀勝手たるべし」となる。脱刀自由令が出る。帯刀身分の方から帯刀への憧れが消失したわけである。
(明治2年に森有礼は廃刀議案を提出するが、否決され、森は辞任している。また、明治5年に司法省の江藤新平などで廃刀令は検討されていた。だけど政府は反対を恐れてためらう)

この時期、文明開化を説く啓蒙の書が多数出版される。旧来の習慣を「旧弊」と馬鹿にする。その一つに帯刀があり、旧弊とバカにされる象徴となって、刀は凶器と位置づけられてきた。

明治8年山県有朋は廃刀を建議する。明治9年廃刀令が出る。おおむね歓迎されたが、一部士族は逆らうが、どんどん取り締まられていく。
また脇差は帯刀ではないという意識もあった。それも取り締まられ、没収される。葬式でも同様。

そうして刀の価値が暴落する。商人(町田平吉)の中には二束三文の刀を買い、外国に売る者もいた。刀が二束三文になったのは、人を殺した因果応報だと質屋にまで軽蔑される。

他で参考になったのは次の話である。
大坂の陣などで戦いにおいては「きっ刃」として”刃を下向きにして腰にさす”ことが普通だったが、戦争がなくなるとこの差し方が消滅し、反りの無い刀が流行した。
だから当時は抜刀する時にわざわざ刀をきっぱに持ちかえる(そりを返す、きっぱをまわす)ことが行われていた。

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