「松永久秀」 金松誠 著

この本は執筆時点で判明している歴史的事実に即して、松永久秀の一生の事跡を書いている。【実像に迫る】というシリーズの本の9巻めという副題が付いている。だから、物語的に著述されていないから、面白みには欠ける。なお著者は城郭にも詳しいようで、弾正の信貴山城、多聞山城などの図も挿入されている。

久秀の生年は『多聞院日記』の永禄11年2月19日に「松源母が堺で84歳で逝去し、松源は当年61歳」とあり、その松源が松弾の誤り、すなわち松永弾正のこととして、生年は永正5年(1508)生まれと推察している。

出自についてはいくつかの説があるが、史料が多い摂津東五百住(よすみ)(高槻市)と推察している。なお連歌師の松永貞徳も高槻市の出身で。同じ松永一族である。

天文8年(1539)に三好長慶が摂津下郡に入城。天文9年に西宮神社の門前寺院宛に松永弾正忠久秀の名前で出した文書が残る。その後長慶配下として大和に乱入とか噂される。天文18年には細川晴元側の軍勢を破り、この頃久秀は奉行的な役割と考えられる。

天文22年に摂津滝山城の城主となり、摂津下郡の支配権を長慶から任されていた。近くの芥川城に居住していたようだ。
永禄2年(1559)に三好軍は河内、大和に侵攻する。永禄3年には大和を支配し、信貴山城に入る。

永禄4年に長慶らとともに足利義暉の御供衆になり、桐の紋章と塗り輿の利用をゆるされる。多聞山城を構築する。そして六角、畠山、根来と戦う。
永禄6年に三好長慶の嫡男義興が22歳でなくなり、三好一族に陰りがでる。長慶は弟の安宅冬康を殺し、長慶も没する。
その後、三好一族と将軍義輝を殺すが、三好三人衆と対立するようになる。永禄9年に東大寺大仏殿を意図的ではないが焼失させる。

そして織田信長に臣従するが、元亀三年織田信長と決裂する。天正元年に織田信長に降伏する。天正5年再度信長に反旗を翻し、敗死する。

茶の湯をたしなんでいた。

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