「戦国合戦の舞台裏」 盛本昌広 著

副題に「兵士たちの出陣から退陣まで」とあるように、合戦の場の兵士や、暮らしなどを調べている。章は「いざ敵地に出陣す」「意外とままならぬ進軍」「兵糧・軍需物資の補給・確保」「陣地内での生活は規則正しく」「対陣と防御、そして決戦」「退陣の作法と後始末」に分かれている。

「いざ敵地に出陣す」では法螺貝や鐘で村々から動員し、その合図を聞いた時にとるべき行動などが掟として定められていた例を北条氏の事例から説明している。掟と言っても常識的なもので必ず集まれというような内容である。それぞれの支城からも注進状が来て、情報の確度が高まり行動に移る。それから国境のムラ(それぞれの国に属していたから半手の者と言われる)からの情報収集が大事だった。
陣ぶれは、大将からの口頭の伝令(役職として触口)が基本である。そして陣に付いたら着到状を大将に出して点検を受ける。百姓への出陣要請もあった。(荷駄とか工兵)

「意外とままならぬ進軍」では進軍も道が悪く、難しいことが書かれている。東海道の本陣は昔からそういう役割だったとも書いている。寺社で泊まることもあるが、寺社の方では献金して、寺社内での陣を禁止してもらうこともあった。
信長が道の幅を3間半(約6㍍)に整備するような命令も出している。
川は瀬を渡る、舟で渡る、橋を渡る、舟橋を懸けるなどがあった。利根川は沼田の上の後閑に橋があり、上杉軍は、そこから渡ることが多かった。瀬を渡るのを瀬踏みと言い、江戸川(太日川)は市川の川上の伽羅鳴起の瀬を渡ることが多かった。瀬の調査は大事だった。北条氏は佐野城救援の為に、赤岩(群馬県千代田町)に舟橋を架けていた。

「兵糧・軍需物資の補給・確保」では小荷駄がその部隊である。中世は食糧自弁の行軍が原則だが、支給されることもあった。退却の時など、先に小荷駄を逃がすこともあった。人や馬、それに舟で運ぶこともあった。急ぎの時は腰兵糧で出陣した。商人から買うこともあり、信長は武田攻めの時などは商人から買って集めていた。
また相手の領土で苅田して奪うこともあった。苅田も各自が勝手にやるというより、刈って将の元に集めてから分配していた。米だけでなく麦でも行う。敵が困ればいいわけで、苗を薙ぐことも行う。

「陣地内での生活は規則正しく」では、陣内での喧嘩口論の禁止、高い声・大声を出すことの禁止、他陣に入ることの禁止があり、城では開門・閉門時間なども決められていた。陣中見舞いは友軍や寺社からあった。排泄物は陣から遠くで処理するとか、衛生面には気をつかっていた。陣中で病気で亡くなる者も多かった。

「対陣と防御、そして決戦」では先手をくじ引きで決めることもあった。太鼓を打ちながらの進軍などがあった。

「退陣の作法と後始末」では講和がなったら、お互いに人質を交換し、付け城などは破壊して撤退したりした。退却にあたって自ら火をかけることもあった。もちろん勝手な陣払いは禁止である。一揆と連絡して退路を断つこともやる。

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