「東国武将たちの戦国史」 西股総生 著

東国における戦国時代史を10の戦争、出来事で語っていて興味深い本である。俗に言う歴史にも著者は詳しいが、それに加えて軍事的知識・常識を加味して説明しているところが新鮮である。
その10のテーマは次の通りである。「長尾景春と太田道灌」「伊勢宗端と北条氏綱」「武田信虎の甲斐統一戦」「長尾為景の下克上」「河越野戦」「山本菅助の虚実」「越山」「永禄十二年の武田軍関東侵攻」「武田勝頼の苦闘」「小田原の役」である。

「長尾景春と太田道灌」では、著者はこの2人は軍事的天才だとする。室町時代において関東は足利家の関東公方が治め、それを上杉家が管領として治める体制だった。上杉家は山内、犬懸、扇谷、宅間等に分かれ、越後守護職の越後上杉家に分かれる。
山内上杉家の家宰(筆頭家老)が長尾家である。山内上杉家が上野の守護になったから、長尾家もいくつかに分かれる。
享徳三年に鎌倉公方足利成氏と管領の山内上杉の憲忠が対立して享徳の大乱がはじまる。この時に扇谷上杉家の家宰が太田道真であった。山内上杉の家宰・長尾景信の嫡男景春と、扇谷上杉の家宰・大田道真の嫡男道灌がいた。
道灌は相模と武蔵の南半分をしっかりおさえるという戦略を持った。戦略的築城を効果的に活用して、これと野戦を組合わせた作戦を展開したところを評価している。景春については軍事的センスを評価している。2人はリアリストで非戦闘員への攻撃や、放火・略奪をやったり、敵の敵は味方というような外交も駆使する。

「伊勢宗端と北条氏綱」では、初代早雲は備中伊勢家の出身で、駿河の今川氏親の母北河殿が妹という関係で駿河に下向して、氏親の家督相続を助け、後に伊豆を侵攻したが、伊豆の公方との戦い。下克上はしていないが、混乱に乗じて自己の勢力の拡張をはかる。2代氏綱は中世の文書体系(当事者主義で権利を要求する側が上級権力に文書を要求し、その文書を法的根拠にして自力で権利を行使する)に対して、印判状(当事者の意志とは関わりなく、大名家が一方的に意志や命令を下達する)に変更した点が革新的である。虎の印を用いる。この為に官僚機構を整備して、侵略者から支配者になった。関東の武士から「他国の凶徒」と呼ばれたので、鶴が岡八幡宮などの寺社仏閣を整備して、北条を名乗る。

「武田信虎の甲斐統一戦」では信虎の肖像画が異相なこと。甲斐の内乱を鎮め、本拠地を築き、各地の豪族を住まわせた。(ただし豪族の兵力を在地のまま )、それに直属の傭兵部隊を創設する。48歳に時に武田信玄(20歳)によって駿河に放逐されるが、その理由として信玄の弟信繁を偏愛した為とか、信虎の性格が残忍で豪族から疎まれていたこと、外征が多かった、国内が疲弊したなどが言われるが、重要な政策をほとんど独断ということが、家中のモノには恐怖政治に映ったのではないか。

「河越野戦」は北条氏康と河越城を包囲した山内上杉憲政、扇谷上杉朝定および古河公方足利晴氏との戦いである。氏康が少数で大軍を破ったと伝わるが、実数は城中は3000余、氏康は8000人。一方、扇谷は3000程度、山内は仮に12000程度、古河公方軍は形ばかりの5000程度で合計2万程度。
山内軍は河越城包囲陣から5㎞ほど南西の柏原に城砦。大軍であり、軍事的存在感はあり、氏康に河越城を放棄させる戦略だった。結果として早く河越城を攻めれば良かった。
氏康は19日の午後に府中に入り、休憩。そこから夜間行軍。20数キロである。途中の砂窪(戦意は旺盛だが数が少ない扇谷上杉軍)を攻めて、上杉朝定は戦死。後方の山内軍を混乱させる。
河越城内の北条幻庵・綱成は戦闘が行われていない古河公方軍に突出。彼は戦場から離脱して北条軍の勝利となる。

「山本菅助の虚実」は確かな史料に足軽大将として出てくるから傭兵隊長。北条家の所領役帳には伊豆衆、玉縄衆、江戸衆などとは別に諸足軽衆として大藤氏などがいる。
足軽は略奪や放火などの非正規戦や、城郭などの普請、交通路の監視と封鎖、前線への援軍などが役割である。
長柄槍での密集戦の槍衾で騎馬に対抗できた。足軽大将は直属部隊の長だから信玄と話せる可能性はある。

「越山」は上杉謙信の関東参戦である。都合15回、関東に出る。三国峠が雪で覆われる前の11月頃に関東に出て、春先から初夏に食糧事情が悪化するから4月に上野に後退して帰国。関東の武将は上杉軍から来ると上杉方になり、去ると北条方になるという関東平野のオセロゲームを行う。
関東管領の山内上杉憲政の要請という形で天正18年に短期間上野に出兵し、その後関東管領としての責任からと言われているが、越後国内ではいがみあう国衆が、国外では団結できること。関東では政治的なしばりがないから用兵家としての才能を発揮できること。略奪がつきものだから外征は参加する兵も満足すること。謙信は素早い決心と大胆な機動にあり、関東平野ではそれが発揮できることなどで出たのではないか。

「永禄十二年の武田軍関東侵攻」は駿河の領国化の目的のために武田軍が北条軍をたたく攻撃のことである。この戦いは、戦争と外交が戦国大名に大切ということを再認識させ、戦略ー作戦ー戦術ー戦技という階層構造が明確に分化して用兵を行うようになった。そして、城郭が軍事力を維持する上で大切とわかる。

「武田勝頼の苦闘」は長篠の戦いの前に、織田軍が三好の残党を掃討して、主力を転用可能になっていたことを知らず、また長篠において、当初の織田軍は柵から出なかったことを、織田軍は戦意がないと誤解したことが大きいと書く。もちろん、織田は長篠城が降伏してしまうのを恐れ、武田軍主力の背後にある鳶ケ巣砦を別働隊4000で攻撃する。そこで動きが出てくると考えた。この辺が信長の戦巧者のところである。
また勝頼は、この前に、越後の御館の乱で景虎から景勝へ支援対象を変え、それで北条ともまずくなり2面作戦となったという戦略の失敗があったとする。

「小田原の役」は北条軍が当初考えた箱根の山中城を拠点にして秀吉軍を足止めするという戦略は良かったが、秀吉軍によって山中城を力攻めで一挙に落とされたのが誤算とする。一方、秀吉軍も北条方を一挙に落とせると思っていたのが難しいとわかり、持久戦になったが、そこで秀吉は政治的パフォーマンスで想定内のように演出したとする。

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