「三好一族と織田信長」天野忠幸 著

三好長慶とその一族は阿波を本貫の地として、信長の前に当時の日本の中心地畿内を制圧していた。この本は実質的にはじめて近畿を制圧した三好長慶の一族と、その後の織田信長を政治的な側面から書いた本である。織田信長のやったことが実は三好長慶がやっていたということがわかるところが面白い。
ただ、三好一族の事績を網羅的に書いているから、そんなに厚い本ではないのだが、読むのが大変な本でもある。

阿波は細川家一門の阿波守護家が守護であり、そこの後見人的一族に三好氏がある。室町時代後半は応仁の乱でもわかるように将軍家はじめ名門一族が争い、それは細川家でも同様であり、その争いに三好家も巻き込まれていく。

三好長慶は之長、長秀、元長と続く家の惣領である。天文の一向一揆で阿波に没落した長慶は、細川晴元と本願寺証如の和睦を仲介することで存在を顕し、天文8年に三好宗三との武力衝突後に摂津の越水城を得て、丹波守護代波多野秀忠の娘をめとり、細川晴元の事実上の摂津守護代と遇される。

ここで松永久秀や野間長久などの摂津の中小国人を登用して勢力拡大に努める。実弟の三好実休に阿波の勝瑞城を任せ、次弟冬康を淡路水軍の安宅氏の養子にし、三弟の一存を讃岐の十河氏の養子にしていた。

天文18年に三好宗三を討ち、父の元長の無念を晴らし、細川晴元らを敗走させる。
足利義輝が細川晴元を許したことから、長慶は足利義輝に叛旗を翻して追放する。追放するにとどめたのは、当時の武将は足利一族を頂点とする武家の身分秩序を利用しながら戦争を行っていた為である。長慶は足利一族を擁することなく、京都の支配をはじめた。

いつもは天皇と将軍の合意によって改元されるが、弘治4年に正親町天皇の践祚に伴い、長慶が永禄に改元した。足利義輝は怒るが、和解して京に上る。これで諸国の大名も将軍権威から離れていく(北条氏康は古河公方の足利義氏を鎌倉に呼ぶ)。後に、信長は同様に元亀を天正に改元する。

以降、長慶は勢力を広めていく。そして長慶は家格を養子縁組ではなく、三好家そのものの家格を上げていく(これまでは長尾家→上杉家、伊勢家→北条家など)。これも織田信長が真似をする。

永禄2年から4年にかけて、従四位下、相供衆、さらに桐紋を拝領。将軍足利義輝も従四位下である。桐紋は元々天皇家の紋の一つで、後醍醐天皇が足利尊氏に下賜し、足利家の紋となっていた。

永禄4年には三好実休が久米田の戦いで畠山・根来連合軍に敗れて、討ち死。
永禄6年に長慶の嫡男の義興が22歳で死去。末弟の十河一存の子の義継が後継となる。そして次弟の安宅冬康を殺害し、その歳に長慶は43歳で死去。

長慶は一代で阿波北半国から近畿・四国十数か国に勢力を拡大したが、その過程で居城を移転している。そして地域、地域で人材を登用し、その近習を家族ともどもに城内に住まわせる。そして万単位の兵力(公家の日記だと2万から4万)を農繁期も含めて運用していた。そして、堺や港町の寺院や豪商に特別に保護を与えた。摂津渡邊の渡邊氏、鳥養の鳥養氏、淀の石清水神人藤岡氏、伏見の酒屋津田氏、京都の馬借今村氏などの流通、金融業者を家臣団に編制していた。キリスト教の布教も許可している。
これを真似したのが信長である。

以降の三好氏の動向、例えば足利義輝を討った三好義継→松永久秀ではなく義継が堂々と討つ。そして足利義昭との葛藤、三好三人衆の分裂、織田信長が進出してきた中での三好一族の動向、豊臣秀吉の時の動向、そして秀次は三好氏の養子となることなどについても詳しく書かれている。

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