「歴史の愉しみ方」 磯田道史 著

先日、読んだ『歴史の読み解き方』と同様に、著者の磯田氏がいくつかの雑誌に寄稿した文章を集めて構成された本である。だから読みやすく、また著者の身辺(子供の頃や現在の歴史オタクぶり、家の状況、古本屋、骨董商とのやりとり)のことから書きはじめるなど興味深い。

大きく「忍者の実像を探る」「歴史と出会う」「先人に驚く」「震災の歴史に学ぶ」「戦国の声を聞く」の5章にまとめられている。忍者のことと、震災のことは、前に読んだ本と内容がだぶるところもある。

伊賀者は家康に仕え、天正12年の尾張の蟹江城攻めの時に本城の櫓下に取りつき、鉄炮で撃たれ、75人も死んだとある。忍者は毒薬の調合も行っていたようだが、それを使ったという証拠はもちろん残っていない。食後に急死した大名などは毒殺された可能性もあるが、もちろん確証はない。

著者が『武士の家計簿』を書いた時に調べた史料から、鎧兜は五月の節句ではなく、武家では正月に飾るもの、すなわち先祖の霊力が宿ったものを元旦に飾るということのようだ。
戦国時代のちょんまげは兜をかぶる為だが、月代(さかやき)は当時は剃るのではなく、髪を抜く作業が伴うから大変な苦痛だったようだ。

著者は歴史史料の収集はもちろん、その関連で骨董も買うことがあるようだ。ここには大田垣蓮月の焼き物、賴山陽の書状、旧宮家の陶器、斎藤隆夫の色紙などに巡り会ったことを書いていて興味深い。

江戸の大奥の女性などは狆(ちん…犬の種類)をひどく愛好したことが記されており、当時は狆は犬とは別と思われていたそうだ。

手塚治虫の先祖は蘭方医(代々良仙を名乗る)で、若き日の大槻俊斎(銃創の手術に本格的に取り組んだ医師)を援助した者もいる。

竜馬暗殺の真相だが、福井藩士中根雪江の日記「丁卯(ていぼう)日記」から会津藩の手代木、小野、外島という公用方が気になると書いている。

また経理は稲作のはじめからあったと推測している。室町幕府では二階堂氏と伊勢氏が政所執事で経理部門の責任者だったと書く。

著者は震災の史料を発掘して、未来の震災に備えるのも歴史学者が今を生きる一つの意義として、茨城大学から浜松の大学に移る。そして今も丹念に史料を発掘しておられ、敬服する。
江戸時代からは慶長期(1610年頃)、元禄宝永期(1700年頃)、安政期(1855年頃)、明治中期(1890年)、昭和20年(1945年)が地震活動期だが、今は次ぎの地震活動期に入ったと警告している。
順調に人口が増えてきた江戸時代も1700年頃から人口成長が止まるが、これは西日本の干拓地が津波で甚大な被害を受けたためではなかろうかと推測している。

石川五右衛門は伊賀に生まれ、幼名は文吾。父は五郎太夫、一色氏に仕えていたが伊賀の乱で追われ、丹後の赤井氏に仕え、細川氏に滅ぼされて盗賊になったようだ。
直江兼続が関ヶ原後に殺されなかったのは、当時、各大名の家に直江と同様に反徳川方として活動した家老(毛利の宍戸、吉見、佐竹の梅津、渋井、島津の伊集院、野村、新納)がおり、その者たちに「直江でさえ、死罪とならなかった」と思わせ、以降の反逆を防ぐためだったとの説を紹介している。ちなみに直江の家は、徳川の本多家から養子が入っている。

江戸城の弱点は田安門あたりで、土塁中心でわずかな石垣だけである。半蔵門付近の濠もダム構造で、こを切り崩すと水が抜けて濠を渡れると推測している。著者の歴史マニア的なオタク的視点である。
徳川家はいざという時は、甲州街道ではなく、船で逃げるつもりで大安宅船を用意していたのではなかろうか(綱吉の時代に廃船)とも書いている。

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