「江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか」 武井弘一 著

江戸時代の前期に、新田開発が全国的に盛んになる。そこにおける水田のある暮らしと、周りの生態環境の影響などを書いている本で変わった視点で興味深い。
加賀藩で村の有力百姓だった土屋又三郎の著作『耕稼春秋』などから、当時の農作業の実態を紹介しながら論を進めている。また別途、田中丘隅の著作も引用している。

加賀藩は公式には百二万石余だが、新田開発で約三十五万石も増加させている。江戸時代の初期に大きく増加したわけだ。土屋又三郎は新田開発が一段落したころの農村の有力者である。

当時、植える米の品種は多かった。82種ほどあったと、この本では述べる。早く採れて、葉茎が長く藁にも良い稲(大東米)をまず収穫する。インディカ種の赤米だったようだ。この米は百姓植物とも言われていた。
ただ、後の世になると世間で喜ばれて換金しやすい白い米の品種が多くなるという。品種が偏ると、経済的には良くても、天災・虫害などで大きなリスクもうまれやすい。

田では魚(ナマズ、ドジョウ、コイ、フナ、ウナギ、タニシなど)もとれた。これは鳥の餌にもなり、雀、鷺が来る。さらに白鳥、鶴も来ることがある。これらの鳥は鷹狩りの獲物でもあり、保護される。なお、その保護を理由に鷹匠や関係者が水田などを荒らしたようで、嫌われていたことがわかる。

オタマジャクシ、カエルも多く、それを狙って蛇やカワウソ、イノシシも来る。鹿も種籾を食べる。狐や狸も住んでいた。イノシシ、鹿などは百姓が多く保持していた鉄砲で獲って、食していたようだ。

馬は労役に役に立ち、また、その糞は肥料になった。武士に馬を売ることで家計の足しになることもあった。馬舎の守りとして猿廻しが芸をして祈祷することもあった。

そして、草が肥料だから、周囲の山は草山になる。そこから草を刈り、肥料とするわけだ。田の畦では大豆なども栽培され、その内、畑の野菜類も多く、作られるようになる。

藁は農作業資材(包装、肥料、飼料)にも住宅用資材、わらじなどにも利用した。これも町では売れた。そして下肥と交換したりした。

循環型の生産体系だが、新田開発が進むと、このような循環もうまくいかなくなってきたと著者は書く。江戸時代が循環型の理想だったという論ではない。
水田開発で治水すれば、無理が生じることもある。肥料の為に山を草地にすれば土砂崩れも起きやすくなる。こういう治水治山コストも増えてくる。この為の資材は開発に伴い減少し、そのコストも高くなり、また治水工事では間に入った業者が多くの利を得るようになる。

肥料は鰯なども利用されるようになるが、それはコスト高となる。水田だけでなく畑も多いが、畑の作物の方が肥料を多く使う。
また虫害も多くなるが、当時の農書に書かれている虫害対策は今から見ると間違っているものも多いと書く。

そんなに読みやすい本でもない。


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