「江戸三〇〇藩物語藩史 九州編」 山本博文 監修

このシリーズは九州編で最後だ。簡潔にまとめられていて、面白い。九州は福岡、久留米、佐賀、平戸、中津、熊本、延岡、鹿児島、琉球の諸藩にその他だ。
琉球藩ははじめて知る。琉球王国として1429年に第一尚氏の王統ができる。七代続くが、クーデターで重臣だった金丸が王位に就き、尚円王を1469年に名乗る。これが第二尚氏であり、十九代続く。15世紀から16世紀前半が全盛期で、中国明と朝貢貿易をし、日本、朝鮮、シャム、安南などとも交易する。その後、スペイン、ポルトガル、日本の貿易船が出てきて、衰退していく。
関ヶ原後、島津氏が尚氏七代に家康に臣下の礼を取るように申し入れるが、無視され、それを口実に幕府の許可のもと、鹿児島藩が三千の兵で攻撃する。降伏し、以降は鹿児島藩に従属し、搾取される。琉球藩は明治政府が中国と二股の琉球を日本の支配にするために、琉球藩として立藩し、すぐに廃藩置県で沖縄県にした。この間は6年間である。

福岡藩は二代忠之の晩年から財政難となり、藩士の禄の1割の上米がされた。三代光之はこれを廃止し、殖産に励むが天災もあり、うまくいかない。六代継高の代に吉田栄年を登用して藩政改革がなされる。
福岡藩は二代忠之の時に御家騒動。初代長政も忠之の性格を気にして支藩の秋月藩、東蓮寺藩をつくる。栗山大膳がいさめるが聞かず、幕府に訴える。大膳が負けるが、大膳は盛岡藩に名誉の預かり人として厚遇される。どの藩にもあった大身の家臣と藩主の間の盟友関係を、主従関係に直す過程の出来事でもある。

久留米藩は有馬豊氏が丹波福知山8万石から21万石になってくる。小禄の大名がなぜ取り立てられたかは不明のところがある。家臣団が不足していて、新規召し抱えもあったが、これら家臣団の軋轢は幕末まで続く。享保の一揆、宝暦の一揆という大きな反乱に直面している。維新時は内同志(現実路線の保守派)、外同志(真木和泉もそうだが原理主義的急進派)に分かれて争う。
二代の有馬忠頼は暴君で家臣を70人近く処刑しているので、その死には恨まれての暗殺説もある。相撲好き、犬好きの藩主が何代か出る。

佐賀藩は初期は旧主龍造寺家の一門との軋轢がある。この御家騒動が鍋島の猫騒動という物語になる。中期には財政難となる。享保の飢饉では藩の人口が8万人も減る。八代治茂は中興の英主と呼ばれている。治世は35年に及ぶ。偶数代が名君と伝わる。

平戸藩は貿易が長崎に移り、苦労する。九代松浦清が中興の祖で、隠居して静山と号して『甲子夜話』など多くの著作を残す。

中津藩は藩主が多く交代する。享保から奥平家となる。七公三民と呼ばれるほどの苛政をしく。藩主は学問に秀でた君主が出る。前野良沢、福澤諭吉がこの藩から出る。

熊本藩は加藤家、細川家と替わる。細川家は島原の乱の出兵で財政が厳しくなる。寛政期には雲仙普賢岳の噴火、津波で大被害をうける。六代重賢が名君で堀勝名を登用して藩政改革をする。幕末期は勤王党、実学党、時習館党と派閥争いがひどくなる。

延岡藩は藩主家が変わるが、1747年から内藤家になる。内藤政樹は好学の大名だった。

鹿児島藩は八代重豪の娘茂姫が十一代家斉の妻となる。「薩摩の姫は健康」ということで将軍家とのつながりが強くなる。出費が多くなり、九代は調所広郷を登用して五百万両の借財を返済して五十万両を備蓄するようになる。御家騒動もある。近思録崩れとして、八代重豪が側室お登勢を寵愛し、弟の市田盛常を重用。重豪の隠居後、市田は罷免。これに隠居の重豪が怒り、介入した事件である。
もう一つは「お由羅騒動」である。十代齊興が愛した由羅の子(久光)と正室の子(齊彬)の派閥の争いである。

島津に暗君無しと言われるが、島津義弘の三男家久、その子光久は暴君でもある。七代の時に宝暦の治水の難工事を幕府から命じられる。十一代齊彬は名君である。


"「江戸三〇〇藩物語藩史 九州編」 山本博文 監修" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント