「物語日本の歴史22 キリシタン一揆と信仰の悲劇」 笠原一男編

この本は、「キリシタンの迫害」、「島原の乱」、「鎖国政策」、「大名の取りつぶし」、「江戸前期の社会とくらし」、「江戸前期の産業」という章に分かれている。
キリシタンの迫害は慶長2年に秀吉による長崎での26人磔殺からはじまる。この理由として、一向一揆のようなことを恐れたこと、キリシタン大名による勝手な貿易の禁止、慶長元年に土佐に漂着したスペイン船船長が「我が国の版図の広大な理由は、まず宣教師を派遣して外国の土民を帰服させ、次いで軍隊を送り、征服する」と言ったことを知った為といわれている。日本人は宗教の為に死ぬこと以前に、死ぬことへの恐怖が無い側面もあり、この時も、自分もキリシタンであるから殺してくれと言ってきた人間もおり、幕府も困ったようだ。近畿で摘発し、裸足で長崎まで連行したという。九州の信徒は殺害現場から遺品を持ち去り、崇めたようだ。

家康はオランダから「ポルトガルは布教に名を借りて日本を併呑しようとしている」との書が届き、大久保長安事件の時にスペインから兵力を借りるとの密書発見や、駿府城の怪火災頻発をキリシタンが関与と考えたことなどから禁教する。大坂の陣にキリシタンは多く参加する。こういうことから元和5年に秀忠が京都で信徒52名を殺す。当時は苦しみを増やすために、薪は少なくして、水を注いで火力を弱めて火刑にするが、時の所司代板倉勝重は思いやりがあり、燃料を多く使ったと伝えられている。こういうことが思いやりだから驚く。

秀忠の時代に信徒500名以上が殺されたと言う。家光の代でも同様であった。各地の大名も同様で、蓑踊、炙り籠、鋸挽き、さかさ吊り、釜茹で、逆磔などと殺害方法はエスカレートしていく。そして寛永14年に島原の乱となる。
キリスト教徒には酷だが、一向一揆弾圧や、比叡山焼き討ち、根来寺焼き討ちと同様に、この段階で一種の宗教改革が日本でなされていたことがわかる。宗教は政治に口を出すなということだ。これも近代化の必要条件である。

島原の乱だが、九州地方は旱魃で不作。領主の寺沢堅高の年貢徴収が厳しい。松倉重政も酷い徴税を行う。そこで浪人が主導して乱を起こす。
この時、武家諸法度の縛りがあり、隣国に兵を出すに幕府の許可がいる。その間に乱は広がる。板倉重昌が出向く。総攻撃の時に鍋島勢は敵の計略にかかり負ける。立花勢もおびきよせられて負ける。板倉の元では寄せ手が協力しなかった。板倉戦死後に松平信綱が指揮官になり、10万の軍勢を集める。キリシタン側は兵糧がつきてきて総攻撃に耐えずに負ける。攻撃軍は籠城した1万人を殺すという。

大名の取りつぶしでは、福島正則は家康在世中に伊奈図書の配下の者と自分の部下が争った時に、伊奈の首を要求したりして家康を不快にさせていた。しかしまだ利用価値があり、家康は忍ぶ。大坂の陣では警戒されて、江戸に留めおかれる。改易理由になった広島城の改築は、事前に本多上野介に言っていたが、本多は聞いていないとして、無届けの城改築として改易される。

その本多上野介正純も宇都宮釣天井事件で改易。これは元宇都宮城主の奥平家の亀姫(家康の娘)が奥平家が転封させられたのを恨み、いくつかつげ口をしたことと、当時の幕閣の中で本多を快く思っていなかった重臣酒井忠世の差し金である。秀忠も、次代の将軍として自分よりも結城秀康を推薦した本多をよく思っていなかったためと言われている。

江戸時代の初期には、血筋が良いために幕府の「制外の家」として勝手なことをやった越前松平家、駿河大納言家もつぶされている。由井正雪の乱の時は紀伊頼宣に疑いがかかり、頼宣は江戸からなかなか帰国させられなかったという。資料には残っていないが、何となく紀州家が由井正雪に関わっていたのは確かのようだ。

農業において、まず耕地の増加として、新田開発が進む。慶長年間は16万5千町歩が幕藩の課税対象だが、享保になると29万町歩と増える。ここから伸びは鈍化して明治7年には35万町歩になる。
感慨用水の整備も進む。肥料は中世以来の草木灰、人糞から、元禄前後には油かす、干鰯が使われる。この前提に菜種栽培、鰯漁業の発達がある。農具も鋤、鍬の改良から、牛馬耕用の犂(すき)、湿田用の備中鍬などの改良が進む。千歯扱きの発明などもある。





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