「物語日本の歴史26 新しい時代と若き志士」 笠原一男編

このシリーズは、当時の人々の物語、日記、古文書から、生身の人間の歴史をまとめたものである。だから面白いところもある。この号は、日米通商条約、安政の大獄、桜田門外の変、幕末の尊皇攘夷志士の起こした事件を取り上げている。

この時期の歴史事象には、水戸の徳川斉昭の強烈な個性が震源となっている事件も多い。斉昭は強硬な攘夷論者で論客である。加えて御三家で、幕閣に遠慮が無いだけに、通商条約に反対したり、幕閣には対応しにくい人物である。
こういう状況だが、井伊大老は幕府の為として強権を発令して、通商条約を締結し、斉昭を蟄居させ、安政の大獄を起こし、この中でも水戸藩関係者を処罰する。これに対する反作用が桜田門外で変である。

通商条約締結まで、ハリス領事は、普通に考えれば無礼な対応(期限内に回答をもらえなかったり)を幕府から受けるが、粘り強く条約締結に持ち込む。アメリカが武力に訴えれば、イギリスに漁夫の利をさらわれかねないと感じたのかもしれないが、日本としては結果はありがたかったということになる。

幕府は条約締結に当たって、諸大名の意見を聴取した。このために反対意見の多さをなだめるために、朝廷の勅許をもらおうとする。その結果、朝廷の権威が逆に高まることになる。堀田正睦が京に向かったが、天皇には黄金50枚など7千両もの献上品を持参する。しかし失敗に終わる。この本ではないが、このような献金は逆効果で、攘夷が金になることを示したとも言われている。

井伊直弼は36歳で彦根城主になるまでは日陰者であり、この経験が彼の性格を形成していったとも考えられているが、本当のところはわからない。徳川家の為を思って力を尽くしたことは確かである。
桜田門外の変では、井伊家の川西忠左衛門が奮闘したそうだが、不甲斐なく主君を討たしてしまった護衛の家は、その後、どうなったのであろうか。井伊家は、この後の長州征伐でも、みじめな負け戦をして、天下に恥じをさらす。
襲撃した側の人物はほとんど死んだが、二名は明治まで生きている。

この後に、次のような川柳ができていたようだ。「井伊掃部と雪の寒さに首をしめ」=”良い鴨と雪が寒い時に首を絞めて鴨鍋にする”。もう一つ「井伊掃部を網で取らずに駕籠でとり」。

夷人斬りは、安政六年七月にロシア使節の一行5人の内2人を殺害からはじまる。十月にフランス領事館の召使いの中国人が襲われる。万延元年正月にはイギリス公使館の通訳の日本人が殺される。2月にはオランダ商館長など2人、9月にはフランス公使召使いのイタリア人が切りつけられる。12月に米国公使の通訳のヒュースケンが殺される。警護の役人が3人がいたが。
文久元年五月に江戸高輪東善寺の英国公使館が水戸浪士など9名に襲撃される。英人の負傷が2名、別手組の武士一人、馬丁一人が死亡。警護の武士15人が負傷。守衛の勇敢な防戦がこの事件の解決を容易にした。

文久二年の正月に坂下門外の変がおきる。この時は屈強な護衛を付けており、襲撃は失敗するが、安藤は負傷する。
同年には、伏見寺田屋騒動という薩摩藩内の争いも起きる。






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