「参勤交代」 山本博文著

歴史学者でありながら読みやすい山本博文氏の著書で、江戸時代の参勤交代を様々の視点から取り上げている。
大坂の陣で豊臣氏が滅ぶと、諸大名は競って江戸に参勤して徳川家に忠勤を励むようになる。元和3、4年頃から隔年の参勤に変化していくが、当時は江戸に滞在する期間は短かった。そして、元和期に大名の妻子も江戸に来るように要請される。これは人質でもあり、幕府は急に「人質を出せ」とは言い出しにくいから、それぞれの大名と親しい旗本から、「そうした方がいいでしょう」との助言の形で提案する。そして、大大名から、そのように仕向けていく。大大名が妻子を江戸に送るようになれば、それ以下の中小の大名は従わざるを得ないという計算だ。
寛永12年に家光は武家諸法度を改定し、その二条に「大名・小名、在江戸交代、相定むる所なり。毎年夏四月中に参勤致すべし。」と明記する。

東国大名と西国大名が交互に来て、帰ることになる。そして、寛永19年には譜代大名の参勤も命じられる。

参勤時期は決まっているのだが、一応、その都度幕府に伺う必要があった。秋田藩などは道中の雪で遅れることを申し上げ、それが認められている。しかし江戸への到着の方が遅れるのは認められるが、出発が遅れるのは許されない。

江戸時代の初期は、各大名が威信を示す為に、参勤の人数が多くなる。寛永十九年の秋田藩では、お供の家臣131人、医者5人、陪臣856人、御走衆49人、御小人衆70人、足軽189人、夫丸18人、お茶屋衆10人の総勢1350人、馬42疋。
前田家では五代藩主の頃は4000人。それが延享4年には2500人ほどになる。
幕府は人数を減らすことを言っていたのだが、なかなか守られなかった。ただし、だんだんと諸藩の財政状況が厳しくなり、減らすようになっていく。

他藩領通過の時は挨拶もかかせない。気を遣うのは迎える側の大名も同様である。

旅籠賃はおおむね決まっていたが、交渉することもあった。毛利家では143文を安永10年には138文にしている。加賀藩が糸魚川にとまった時は上200文、中180文、下160文、馬500文の宿泊料である。

本陣に泊まると本陣の者から献上品があり、藩主からは、昼の休憩で銀2枚、宿泊で銀5枚ほどの下賜金が出る。

各藩ともに、道中でトラブルをおこさないように道中法度を定めていくが、色々のトラブルはあった。参勤交代同士のメンツのぶつかりあいでトラブルもあった。

参勤交代の経費は①旅籠賃、②川越賃、③予約解消の補償金、④幕府要人への手土産などである。藩の規模=行列の規模や、江戸までの距離で経費は様々であるが、文化五年の加賀藩は家臣への貸し金も含めて銀三三二貫466匁、金貨だと5542両(一両=銀60匁)である。どの藩も数千両の費用をかけていた。

お供の藩士の宿賃などは、藩が一括で払うが、藩士には手当を出している。秋田藩では家老に50両、物頭には15両、小姓に8両、大番士に8両などの手当が出ている。

参勤交代の費用は多額だが、それ以上の負担になったのは江戸藩邸の維持費用である。出雲松江藩では、総年貢収入の内、俸禄が45%、江戸入用30%(藩主の江戸での生活費、江戸詰め藩士への手当、幕府や諸大名への献上品や進物の購入費、奥方の衣装費など)、国許入り用は20%、道中銀は3%、京阪入り用は2%である。藩士俸禄を除くと、江戸55%、国許35%、道中銀5%、京阪5%弱となり、江戸の費用が大きい。

江戸に着くと幕府に届けを出す。そして幕府役人から使者が来て、はじめて江戸に来たことになる。

幕末に参勤交代をやめることになるが、それは幕府の統制力が弱くなったことであり、しばらくして幕府は滅ぶことになる。


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