「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」 古川愛哲 著

副題に「サムライと庶民365日の真実」とあるが、本当の江戸時代の生活ぶりを伝えたいとの意識で書かれた本であり、どこまで信じていいのかわからない面もあるが面白い本である。

チャンバラは大正時代のまだ無声映画の時に、映画の剣戟の場面になると三味線で長唄「筑摩川」の「千鳥の合方」を演奏。それが「チンチリトチチリチチチ チリトチチンリン」。これを真似た子供が「チャンチャンバラバラ」となり、それから生まれたとある。
明治の後半まで、政府は江戸時代を採り上げるのを許さず、時代小説が生まれたのは大正後期となる。昭和になると国家政策として武士の精神が鼓舞され、時代劇が発表されるが、この頃は江戸生まれの人ではなく明治生まれの人になっていた。それゆえに、標記の表題となって、真実の江戸が伝わっていないとのことだ。
次のような話がある。

1.江戸時代、浪人は取締の対象となっていて歩けなかった。月代の髪を伸ばしての外出は御法度だった。そして月代は女性ではなく自分か、髪結いで剃ってもらうもの。(髪結いが町内の監視役でもある)
2.武家は平服でも懐に手拭いを入れている時は公用で仕事に行く印で道をゆずる必要があった。(町人の祭りの手拭いも氏神さまの公用という意味)
3.江戸は中央通行。武家は真ん中を通った。
4.江戸は肥の悪臭がぷんぷんしていた。くみ取りの権利は葛西の葛西権四郎が持っていた。大奥の糞は鉛や水銀で汚染されていた。上等な肥は「きんばん」(幕府、大名屋敷の糞)、次が「辻肥」(街頭の辻便所)、「町肥」(一般の町屋)で下等は小便が多いものとか牢獄のもの。長屋百軒分の「町肥」で年8両。これは大家の収入になる。
5.江戸は女が少ないから、長屋の女房が町に出ての「つゆ稼ぎ」もあった。父親のわからない長屋の子供も多く、それらは「紋散らし」と呼ばれ、身に覚えのある男が協同で育てた。
6.江戸は古着が当たり前。
7.武家は日傭いを、自分の中間などに雇った。(武家には供が必要だった。駕籠かきもそのような日傭い)
8.商家は自分の家業を守るためだけでなく、自分が属している株仲間のためにも、主は無能ではならず、自分の息子ではなく、養子に跡を継がせた。三井の大坂別家は実子の相続は51件中の12件だけ。江戸の伝統は昭和初期まであり、商家に対して市中の金融機関は「婿取りの家なら融資するが、息子が当主なら融資しない」という姿勢。
9.江戸は町人の言葉と武士の言葉が、まったく違い、武士言葉もわからないと江戸では商売できなかった。
10.江戸は火事が多いが、中には景気対策で、お上が承知の上の付け火もあった。町火消しはその役目。現に勝海舟が官軍の脅しに、江戸での付け火を仄めかした。
11.生類憐れみの法は悪法ではなく、当時の殺伐とした風潮を改めた意義がある。
12.江戸時代は学問は道楽と思われていた。江戸後期に藩校などができて学問が出世の手段となると、受験ノイローゼのような男も出る。幕臣は怠惰で、林家の塾に貞享元年~享保17年までに入門したのは500名だが、幕臣は14名のみ。
13.江戸は武家地が町(まち)で町人地は町(ちょう)と読む。武家地60%、寺社地20%、町人地20%だが、武家地は町人に貸されていたのが実態。
14.武士階級は養子とか、御家人株を売ったり、買ったりで新陳代謝されたいた。
15.悪代官は少なく、罷免された代官は12%という数値もある。
16.農民は米が税金の対象だが、他の作物を作ることで実質の税率は総収入の20%程度だったのではと言われている。



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