「司馬遼太郎全集20 王城の護衛者」司馬遼太郎著

 会津藩の松平容保の物語である。はじめに会津松平家の歴史を語る。秀忠は妻を恐れたが、一度だけ侍女に手を付け、子が生まれる。信州高遠の保科家に預けられ成人する。秀忠には18歳時に目通りし、その死後、会津23万石を拝領する。家光の弟だが、家光をたて、実直に仕えて信頼される。家光の死に際して「宗家を頼む」と言われ、それを元に家訓を定める。その八世に子が無く、美濃高須の松平家から養子として入る。高須松平家は次男が尾張徳川家を継ぎ、3男は石見浜田の松平家を継ぎ、5男は一橋家を、6男が容保、7男は伊勢桑名の松平家を継ぐという幕末の大事な家となる。
 容保は身体は弱かったが頭脳、志操は優れていた。保科正之の遺訓を大事にした。19歳時にペリー来航、26歳時に桜田門外の変。この事件以降に京を中心に天誅事件が頻発する。これに対処する為に京都守護職に任命される。容保をはじめ会津藩は厭がっていたが、受けさせられる。文久2年12月に会津藩兵が京都に入る。当初は厳格な取締りをしなかったが、足利将軍木像梟首事件後に新撰組を使って厳しく取り締まる。これが会津藩への恨みとなり、戊辰戦争の悲劇につながる。
 会津藩は公家に働きかけての政治的な動きをしなかったので、京都政界では長州藩、それから薩摩藩に翻弄されていく。そして何よりも徳川慶喜の変幻極まりない政治姿勢に振り回される。
 孝明天皇は攘夷だが佐幕で、会津藩と容保を非常に信頼して、異例のことに直接宸翰を賜る。これには容保も感激して、その書翰を晩年まで竹筒に入れて肌身放たず身に付けていた。まさに勤皇だが、時世の流れで最期は朝敵として討伐を受ける。無念な一生であった。
 なお司馬遼太郎は孝明天皇の死去の原因は天然痘として、暗殺説を否定している。
 鳥羽伏見の戦い後に、大坂城から慶喜にだまされるように江戸に退去し、江戸においても慶喜から会津への退去を求められる。
 晩年はほとんど人と付き合わない生活を送り、一度、怨念に充ちた漢詩をつくる。死後、竹筒の御宸翰の話が長州の山県が知るところとなり、高額での買い取りの依頼があったが、応ぜず、今でも会津松平家に蔵されているとのことだ。

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