「大御所 徳川家康」三鬼清一郎 著

タイトルから大御所時代の徳川家康のことを書いているのかと思ったが、内容は徳川幕藩体制が構築されていった経緯を書いている本である。副題も「幕藩体制はいかに確立したか」であり、むしろこちらを表題にした方が良い本である。

10章に分かれていて「1.大御所政治の前提」「2.大御所政治の幕開け」「3.御三家の成立」「4.水戸藩の立場」「5.国際環境とキリシタン」「6.外交関係の再構築」「7.大坂城包囲網の形成」「8.豊臣家滅亡への道」「9.神に祀られた家康」「10.大御所政治の遺産」である。
各章の終わりにコラムとして、その章に関係する小説を挙げているのは新書として、読みやすさを意識したのであろうか。
各章の内容を断片的に紹介すると以下の通りである。これを読んでいただいても、本のタイトルにピンとこないことが理解できよう(もちろん読者である私の理解不足もあると思うが)。

「1.大御所政治の前提」では大御所の定義を行い、慶長8年に内大臣から右大臣に昇進して源氏の長者となり淳和院と奨学院の別当(理事長)となって征夷大将軍になる。慶長10年に征夷大将軍の職を辞し、秀忠が跡を継ぐ。ただし源氏長者と奨学院別当は辞していない。

「2.大御所政治の幕開け」では、自分の居城の駿府城や江戸城や、大坂包囲網の各地の城を天下普請で構築していることを書く。この過程で畿内・近国の国奉行制を成立させて、各地の天下普請への動員をかけやすくしていることを書く。また徳川初期の権力構造の不安定さを記す。すなわち秀忠の弟の松平忠輝は元和2年に伊勢に配流。秀忠の甥の結城秀康の子の松平忠直は元和9年に豊後に配流。慶安4年には由井正雪の乱。

「3.御三家の成立」は実質的には家康の死後に成立だが、御三家のことを書く。尾張の方が若干、紀伊より石高は上。水戸家は一格下で、江戸常府。尾張家には成瀬家と竹腰家、紀伊家には安藤家と水野家、水戸家には中山家の付け家老。付け家老は家康存命の時は家康の意向を受けて存在感があったが、死後は各藩から邪魔者扱いとなり、それぞれ独立の大名を指向した。

「4.水戸藩の立場」は、水戸藩2代の光圀は、長男(のちに讃岐高松藩祖)をさしおいて就任したから、長男の子を養子としたこと。明君だが5代将軍綱吉と対立したこと。大日本史を編纂し、その水戸学が幕末に影響を及ぼし、また幕末に内部が混乱した水戸藩のことまで記している。このあたりが、本のタイトルにそぐわないところである。

「5.国際環境とキリシタン」では朝鮮、明や琉球、台湾、東南アジア諸国との関係を立て直そうとしたこと。三浦按針、ヤン・ヨーステンを顧問にして世界の情勢を知っていたこと。当初はキリスト教禁教でもなかったが慶長17年の岡本大八事件(本多正純の与力の岡本大八と有馬晴信が死罪)を契機に翌年から弾圧・禁教となったことを記している。

「6.外交関係の再構築」は、朝鮮との修好を対馬の宗氏、家老の柳川氏が国書を偽造して成り立たせる。これが露見するが、宗氏は罰しなかった。琉球は島津氏が侵攻する。この2国は通信の国。オランダと中国は通商の国、他にアイヌ民俗と松前氏を通しての交易があった。ポルトガルとの交易はマカオを中心として行ったが、実質は中国産の生糸を積んで、日本の銀を得るという日明貿易の代替であった。寛永12年に島原の乱が発生する。

「7.大坂城包囲網の形成」では官位の叙任権は朝廷にあったが、武家の官位は幕府の推挙を条件にした。慶長16年に後水尾天皇の即位式に秀頼を上洛させる。近畿以西の大名22氏に3ケ条の誓詞を求む。翌年には東北諸大名から誓詞をとる。

「8.豊臣家滅亡への道」は方広寺の大仏の鐘銘事件がきっかけだが、片桐且元の動きに注目している。慶長20年に武家諸法度、次いで禁中ならびに公家諸法度を発布して統制を強める。公家は筆頭の近衛家でも2800石ほどだが、芸ごとの謝礼などで生計をたてる。また寺には諸宗本山本寺諸法度を制定。

「9.神に祀られた家康」では元和2年に死期を感じ、太政大臣を望む。信長は死後に、秀吉も太政大臣になっている。神号を天海が提唱する山王一実神道で東照大権現とした。正保2年に東照社から東照宮となる。一方、豊国社は破却され、豊国大明神の神体は方広寺大仏殿の境内に移す。

「10.大御所政治の遺産」では、章のタイトルとは無関係な隠居になって三島の泉頭を適地としたが、後に磐田の中泉を考えたことや、藤木氏の惣無事令の研究を批判した内容を含めている。