佐倉の旧堀田邸

明治22年に、佐倉藩主堀田正睦の子の堀田正倫が地元に戻って建設した邸宅である。この殿様は地元を大事にされ、往時はこの屋敷に近接した場所に広大な農事試験所と、その畑も存在していたと説明書に書かれている。
また堀田正倫は地元の若人の為に奨学会を作り、当時の佐倉中学校(今の県立佐倉高校)に多額の寄付を行っている。

建物は、近代和風建築だが、重要文化財に指定されている。立派な冠木門があり、入ると車寄せに大きな玄関がある。玄関棟の屋根のカーブは柔らかく雄大である。
この玄関棟の他に座敷棟(客を迎え入れる)、居間棟、書斎棟、湯殿が残っている。往時は台所棟もあった。(書斎棟と居間のの2階部分は非公開)
それぞれの棟の性格ごとに釘隠しの文様が違っていたり(座敷は桐、居間は橘、書斎は楓)、壁の色なども違っている。壁や作り付けの家具にインド更紗を貼ってあったりしているところもある。襖、障子、欄間も、派手ではないが、キチンとしている。
床の間の柱には黒檀や紫檀の太い銘木が使用されていてさすがである。
全体の印象は質素で簡素で、品が良い建物である。

佐倉城からは順天堂ほどは遠くないが、離れている。ここも下総台地の一つの鹿島台地という場所で、北側は大手門から順天堂に至る新町通りの方で、南側に川(高崎川)があり、JRの線路がある。庭に出ると電車の音が近くに聞こえる。川を隔てた向こう側の台地の森を借景としている。植栽は少なく、芝生中心の大きな庭園である。洋風庭園の趣きもある。当時の有名な庭師の伊藤彦右衛門の設計とのことだ。庭は広く、端は台地から川に向かう崖のようで、端までは出向いていない。

佐倉順天堂記念館

佐倉にある佐倉順天堂記念館にはじめて出向く。京成佐倉駅から1.5㎞ほどにある。昔の佐倉城(国立歴史民俗博物館)からも、そのくらい離れた場所である。佐倉城の大手門から商店が軒を連ねる新町通りの外れにある。

佐倉は下総台地特有の台地と谷津と呼ばれる谷から構成されている町で、坂が多い。新町通りから大手門に向かうメインの通りは尾根道なのであろう。両側の道は坂を下る道ばかりである。

佐倉順天堂は、幕末の天保14年に蘭方医佐藤泰然が開いた蘭学塾兼診療所で、往時は「西の長崎、東の佐倉」として、東日本各地から蘭学と医学を学びに来ていた。患者も名声にひかれて東日本各地から泊まり込み(近所の旅籠に泊まって治療を受ける)で来ており、記念館に上州伊勢崎の患者が「手術が失敗して死んでも構いません」というような趣旨の誓約書が展示されていた。麻酔を使わずに乳ガンの手術もしたようで、患者も医者も大変だったことと思う。泰然が長崎で学んだ洋書(ポンペのサインあり)なども展示されている。

往時はもっと沢山の建物(塾生が住む)があったようだが、今はそれほどでもないが、広い。隣りに今でも病院があり、御子孫が院長として診療している。

佐藤泰然が凄いのは、ここは知識・技量が凄い養子(佐藤尚中…後の順天堂大学の創始者)に継がせ、自分の実子は他に養子として出しているところだ。その養子に出した実子も非常に優秀で、次男の松本良順(幕府の医師となり、新撰組の治療や、のちには五稜郭まで従軍し、後に陸軍軍医総監)や五男の林董(幕府方として函館戦争に従軍。後に外務大臣、日英同盟を締結)がいる。娘の嫁ぎ先などの係累も、表にして展示されていたが、明治、大正の有名人が多い。
なお佐藤尚中も優秀な養子(佐藤進…ベルリンでアジア人初の医学博士号を得て東京の順天堂で教える、佐藤舜海…佐倉の順天堂を継ぐ)を迎えている。佐藤進の奥さんは佐藤尚中の長女で女子美の校長として女子教育に尽くす。

当時の手術・治療代金が明示された額も掲げてあったが、明朗である。先に紹介した患者の手術同意書もそうだが、今の医療の先駆である。

蘭癖大名とされた堀田正睦に招かれたのだろうが、天保の改革での洋学派知識人弾圧も移住の背景にあったのだろうか。

堀切菖蒲園

昨日は堀切菖蒲園に出向く。昔、出向いたことがあるが、リニューアルされていた。以前は菖蒲畑という印象だったが、今回は公園のようになっていた。14くらいの区画に分かれているが、花の品種ごとに分かれているわけではなく、2年目、3年目とかの札が立てられていたから、花の若さで区別されているのであろうか、よくわからない。区画ごとに水がたたえられていたり抜かれていたりしており、区画ごとの水門で調節しているのだと思う。

今年は桜をはじめとして、季節が早く動いているから、ハナショウブも早く、見頃かと思ったが、まだ早く、3分咲き程度であった。6月上旬くらいが見頃だろう。見頃前だからか見物客は少ない。

パンフレットには約200種6000株が植えられているとある。品種は江戸、肥後、伊勢や山形県の長井地方などを源流として品種改良されているようだ。
花の名前は凝った和風の名前「春の海」「群山の雪」「水の光」「さくら」、高名な女性の名前の「清少納言」「王昭君」や、カタカナで洋風のものまで様々である。私が愛好する椿と同じで品種改良した愛好家がつけるのであろう。肥後は肥後六花として椿やサザンカ、ハナショウブなどの愛好家が多く、肥後鐔もそうだが文化レベルが高かったのだ。肥後のハナショウブは一番外側の大きな花弁がまくれるようなものが多い印象で派手である。

江戸時代後期の旗本松平左金吾定朝が菖蒲オタクで菖翁と称して、品種改良をしたとある。この地では百姓の伊左衛門が菖蒲園をつくり、一帯に栽培を広めたようだ。彼の小高園の跡地も近くにある。

歌川広重の「名所江戸百景」にも取り上げられているが、この浮世絵においては視点を低く、菖蒲を近景に大きく切り取り、名作として知られている。欧米では、この広重の作は「アイリス」と言われ高値で取引されている。
この構図でもわかるように、ハナショウブは上から眺めるよりも、下(横)から艶やかな花とスッキリした葉と茎とを一緒に観た方が魅力的なのかもしれない。尾形光琳の燕子花屏風は上から観た絵だが、カキツバタは花と同時に葉も書き込んでいる。

園内には色んな木も植えられ、それに名札が付いているから興味深い。フェィジョアという木に、可愛い花が咲いていた。

「市川の歴史を尋ねて」市川市教育委員会(綿貫喜郎著)

タイトルの通り、千葉県市川市の歴史を太古から現代までを記述した本である。表紙などは市川市教育委員会としか書いていないが、「あとがき」に綿貫氏の著者名があったので上記のようにした。地域のことを調べる必要があり、紐解いた。地域の歴史は災害対策などに不可欠である。

 市川市の北部台地には貝塚が40箇所と多く、堀之内貝塚、曽谷貝塚、姥山貝塚は有名である。海岸から遠く離れた台地の上に、たくさんの貝殻が堆積しているの見て、昔の人は大昔に巨人がいて、台地に腰をおろし、おおきな手を海に伸ばして、貝や魚を捕って食べた跡と考える。これがダイダラボッチと呼ばれる巨人の伝説になる。
 その後、海が後退すると同時に、市川砂州が今の京成線、国道14号沿いに形成され、台地との間は真間の入江が広がる。総武線は海岸沿いで、このあたりから行徳の方は真間ノ浦廻(うらみ)と呼ばれていた。
 稲作は須和田あたりからはじまる。スワは湿地のことである。湿地の上の台地に弥生時代の集落遺跡がある。須和田遺跡、小塚山遺跡などである。
 古墳時代の遺跡も6世紀の法皇塚古墳、里見公園内の明戸古墳などがある。
 大化の改新後に下総と上総に分かれる。当時の東海道は相模から海上を通って上総(市原市)、そして市川砂州の上を通って下総(市川市国府台)に至る。葛飾は葛の葉が茂った所とされているが、一説には砂地の意味といわれる。
 万葉集に歌われた美女伝説:真間の手児奈(てこな)は国府台の下の真間の入江に暮らしていた。山部赤人は上総国山辺郡(後に武射郡と一緒に山武郡)の出身。「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 不尽の高嶺に雪は降りける」は鋸南町の田子台から富士を望んだもの。台の下の海岸線は田子の浦と呼ばれていた。
 推古朝624年に各国に国分寺が建立。今に国分の地名が残る。

 大和朝廷は蝦夷征伐。軍役で荒廃し、848年に上総で俘囚丸子廻毛(わにこのつむじ)が反乱を起こし、875年には下総の国でも俘囚が反乱して国分寺を焼く。935年頃に平将門が反乱する。市川の北東部は将門擁護(成田には参詣しない)、南西部は将門攻撃派に分かれる。
 その後、1028年に平忠常が下総東部から常陸南部にかけて勢力を張り、乱を起こす。
忠常の子の常政、常近は処分をうけず、千葉氏、上総氏となる。前九年の役、後三年の役で源氏との結びつきを強め、常胤は義朝と一緒に戦う。
 頼朝が旗揚げ時に味方になって功を上げる。
 鎌倉新仏教の担い手も来る。日蓮は市川で、若宮の富木常忍(千葉介の執事)、中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信を信者とし、中山法華経寺など日蓮宗寺院も多い。
 蒙古襲来後、千葉氏は同族が争い、室町時代には古河公方と上杉氏の間で同族争う。国府台が北条、里見の合戦の場になる。
 徳川が関東に。行徳を天領にして塩作りが栄える。用水堀(内匠堀)を田中重兵衛(内匠重兵衛)と狩野新右衛門(浄天)が尽力して通し、新田開発も進む。
 八幡は市川砂州上にあり、北部は真間の入江が広がる湿地で穀物の栽培に不向き。川上善六は寛保二年(1742)に、この「砂地」という地質にふさわしい農産物として梨の栽培を成功させる。その梨栽培の秘訣を村人にも教え、この地に梨栽培が広まり、「八幡梨」は江戸市場を賑わすようになる。
 桃の栽培も八幡の川上善兵衛が安政4年(1857)に埼玉県松伏町に行った折に桃の優良な種を買い求め、栽培に成功し、それが八幡、中山、葛飾、市川に広まる。
 苺は明治35年に新田の後藤弥五右衛門が試植に成功。大正時代の耕地整理で各所に島畑が激増すると苺が広まる。大正14年には千葉県農事試験場の大島技師が栽培した大島苺=千葉一号を改良して市川新田苺と好評を得る。昭和初期は東京市場の苺総取引量の20%が市川苺。
 幕末に戊辰戦争があり、新政府側で12名、徳川側で約20名が戦死する。

 明治になり、国府台に大学設置を計画するも、陸軍の訓練所として教導団と歩兵大隊、野砲兵第16連隊が作られ、日露戦争で活躍する。
 江戸時代は江戸と行徳に船便があり、成田参詣に利用される。明治4年には江戸川に蒸気船が運航。千葉、茨城、埼玉、群馬、栃木を結ぶ。鉄道は明治22年に本所から市川、船橋、千葉、佐倉、八街を結び、明治42年に京成が発足。
 行徳は塩以外に海苔。浦安はバカ貝の産地。江戸川放水路で行徳は東西に分断される。
災害は元禄16年の元禄大地震、天明6年の大雨での洪水、寛政3年に大津波、大正7年の大津波(台風の大風で3㍍の津波)、大正12年の関東大震災。市川は上毛モスリン中山工場のレンガ塀の倒壊で女工11名が圧死。中山村で男子3、行徳で女子1の15名の死者。朝鮮人暴動のデマで連合紙器の従業員3名が南行徳村で虐殺、若宮で朝鮮人、八幡で日本人がころされる。

 関東大震災後に人口は急増。昭和9年に市川市。市名と市役所の位置で市川町、八幡町、中山町、国分町でもめる。今の市役所に八幡座というドサ周りの芝居小屋400坪があり、その跡である。

 太平洋戦争では、昭和19年11月に中山駅南の山中アルミ工場に爆撃。菅野、曽谷、下貝塚、12月に本行徳、塩焼、北方、若宮、20年1月に行徳小、2月に真間に撃墜された飛行機が落下、2/25に最大の被害が市川新田、中山、菅野にある。

戦後は闇市。軍隊の跡地に学校。合併で大柏と行徳を市域にして拡大。海岸埋め立ても行われる。

「司馬遼太郎全集22 花の館(戯曲)」司馬遼太郎著

 これは司馬遼太郎が唯一書いた戯曲である。主たる登場人物は、足利義政と妻の日野冨子に、義政の弟で僧だったのを義政から将軍にするからと強く言われて還俗させられた足利義視(僧の時は浄土寺義尋)が有名人のキャラクターで、他は司馬遼太郎が創作した人物が登場する。
 昔、読んだ時は面白くないと思った記憶があり、今回もあまり読む気がしなかったのであるが、再読してみて、なるほど司馬遼太郎はこういうことを書きたいのかと感じた。

 足利義政は政治よりも庭造りとか能とか美の方に関心があり、早く隠居したいと考えて、弟を還俗させる。妻の日野冨子は関所を設けて、関銭を集めるなど財力に強い関心を持つ。

 日野冨子は一度、子供を亡くしているが、弟が次の将軍として還俗してから、義政の子を宿す。後の足利義尚である。当然に家督争いの種が生じることになる。家督争いとは権力欲(日野冨子にとっては財力を集める力でもある)をめぐる争いである。この争いは義視と義尚の、それぞれの後見となった細川勝元と山名宗全の争いにもつながり、同時期に生じた有力氏族の畠山家や斯波氏の家督争いも両者を頼り、応仁の乱になるわけだ。

 そして応仁の乱では足軽という金次第でどちらにも味方する兵力が生まれ、この戯曲では鬼の兵六という足軽大将が登場する。
 この無慈悲で鬼のような兵六が女神のように崇めるのが嬉野という高級娼婦である。娼婦も足軽と同様に金次第だが、その汚い金の頂点にいる足軽大将と高級娼婦を金とは無縁な愛で絡めている。荒唐無稽なのだが、そこは物語の世界である。

 その嬉野と昔に夫婦の約束をしていたのが能役者崩れの銀阿弥で、この人物も脇役の一人として嬉野を忘れられない男として登場する。そして金や愛欲や権力などの世俗の欲に無縁な旅の乞食僧も登場させる。
 応仁の乱前後の各種の欲望が剥き出しで争う人間模様を、欲から無縁で聖とも言える存在に近い人物を絡ませて物語を進めていくわけだ。戯曲として成功しているかはわからない。司馬遼太郎は戯曲をこれ一つしか書いていないわけであり、本人もあまり手応えは無かったのではなかろうか。

「司馬遼太郎全集22 短編(外法仏、朱盗、牛黄加持、八咫烏)」司馬遼太郎著

 司馬遼太郎全集22に収録されている短編である。司馬遼太郎の一つのジャンルである宗教、妖術に関係する時代小説であるが、面白いものではない。ただ司馬遼太郎は産経新聞の京都支局で宗教関係の取材を担当していた時代に、こういう密教のことなどを勉強したのだろう。後の「空海の風景」などに繋がっている。

「外法仏」は天台密教の高僧(藤原氏の出身)が近寄ってきた巫女(実は外法と言える怪しい呪術を使う)の色香に迷い、死後にその首を外法の道具として盗られる物語である。藤原氏出身の后の子を天皇の位につけたい藤原氏の氏長者が、紀氏出身の后に生まれた有力な天皇後継候補を追い落とすために、競い馬を行う。この勝利の祈祷をこの僧に依頼する。一方、紀氏側も真言密教の高僧に祈祷を頼む。天台密教と真言密教の争いになるが、負ける寸前に、この巫女の力で勝利する。しかし、力尽きて逝去し、死後、この高僧の首は外道仏として盗られるという話である。

 「朱盗」は太宰府の少弐に赴任した藤原広嗣が、太宰府に軍を集め、朝廷に反乱するが、その時に、隼人の娘に惚れる。この隼人の娘がある日逃げ、太宰府近くの谷に百済からの亡命者の3代目が住んでいるところまで追う。ここで広嗣はこの者に会うが、この者は広嗣の行動が、百済の大将軍が、滅びる時に行った行動と同じだと指摘する。この者はここから穴を掘り、遠くの古墳を盗掘して、そこに使われている朱を盗ろうとしていたことが後に明かされるが、タイトルと内容は一致しない。広嗣は、この者の言動に怒り、この者を捕らえて奴に貶めるが、都からの征討軍が来て負け続けた時に、この者を百済から援軍にきた将軍の鬼室福室と偽り参陣させる。しかし敗戦となり、この者はどうなったかはわからない。

 「牛黄加持」は醍醐理性院の僧で、生まれは備中権介藤原保連の子を主人公にする。親戚の右大臣藤原長実の姫(今は帝の寵愛を受けている美福門院)が想い人である。この僧の師が、この姫の子の祈祷をすることを手伝わされる。その祈祷は、「牛黄」と呼ばれる牛から取れる薬を使った加持になり、その薬の入手に奔走し、祈祷の手伝いを申し付けられる。加持は成就して後の近衛天皇が誕生する。この僧も権僧正から僧都まで進む。

 「八咫烏」は古代を舞台にした物語である。海族(わたつみぞく)の植民地の紀伊に、本国から征討軍が来る。そして奈良盆地の出雲族を討つ。八咫烏は紀伊に住み、海族と出雲族の混血児で、差別されていた。紀伊からの進軍の時の案内人を頼まれる。吉野川沿いには土蜘蛛という穴居人がいて、その長が一言主で海族に従う。大和盆地は元は土蜘蛛の国で、それを出雲族に奪われたという経緯があった。そして出雲族の長髄彦の軍と対決する。そして一言主と八咫烏が赤目彦と長髄彦の幕舎に入り込み、殺害する。出雲族は降伏する。宇陀の巫女の長の天鈿女命(憑き神が天照大神)も従う。この時に天鈿女命が八咫烏の顔を見て、お前の母は宇陀の巫女の一人の天鎮女ではないかと述べ、海族の集落に逃げた理由を明かす。

「祝祭と予感」恩田陸 著

 この本は先日読了した「蜜蜂と遠雷」の続編というべき小説である。「蜜蜂と遠雷」では唐突に感じた天才カザマ・ジンとピアノ界の伝説の巨人ユウジ・ホフマンとの結びつきの経緯とか、コンクールの課題曲を作曲した菱沼忠明の曲が生まれた背景などを明らかにしている。
 章は「祝祭と掃苔」「獅子と芍薬」「袈裟とブランコ」「竪琴と葦笛」「鈴蘭と階段」「伝説と予感」に分かれている。

「祝祭と掃苔」では、芳ケ江国際ピアノコンクールで優勝したマサル・カルロスと2位となった栄伝亜夜が、幼い時に日本で、ともに綿貫先生からピアノを学んだ奇縁が復活したのだが、コンクール後に綿貫先生の墓参に出向き、それにカザマ・ジンも同行した時の様子を小説にしている。
 そこでマサルがジンに母のことを尋ねる。そして母はシンガポールで有名なソフトウェア会社のCFOで姉がバレリーナということを語る。コンクールの間にジンと亜夜が連弾(セッション)した時のことをジンが語り、マサルは驚く。

 「獅子と芍薬」は審査員で元夫婦だった嵯峨三枝子、ナサニエルが出会った時の思い出が描かれる。大きなコンクールで1位無しの2位に2人が入ったこと(1位になればホフマンに師事できるという約束があったので、その結果は2人にとって共に不本意であった)。そしてコンクール後の演奏でお互いの良さを認め、それから親しくなっていった経緯を描く。章のタイトルは2人を表している。

 「袈裟とブランコ」はコンクールの課題曲「春と修羅」を作曲した菱沼忠明が、夭折した岩手在住の教え子小山内健次の思い出を書く。小山内が恩師の菱沼の為に途中まで作曲した曲と、小山内も愛唱していた宮澤賢治の「春と修羅」の詩想とともに作曲した経緯が明らかにされる。章のタイトルの「袈裟」は夭折した教え子の葬儀を表し、ブランコは葬儀から帰宅して公園のブランコで曲をイメージしたことを意味している。

 「竪琴と葦笛」はマサルがジュリアード音楽院でナサニエルに師事することになった不思議な経緯を明らかにしている。マサルがジャズにも造詣が深く、ピアノだけでなくトロンボーンも演奏するようになった理由が明かされる。

 「鈴蘭と階段」は栄伝の才能を信じる音大の学長浜崎の娘でヴァイオリン演奏家の奏が主役で登場する。奏はヴァイオリンからヴィオラに楽器を変更することを考えていたが、ヴィオラの楽器を購入することに迷っていた。そんな時、チェコの亜夜から国際電話が入る。チェコ・フィルハーモニーと亜夜とジンが共演することになり、ジンの独特の人懐っこさからオーケストラのヴィオラ奏者のところに出向く。その時、亜夜は彼の演奏のヴィオラの音が奏の演じる音だと感じ、同様にジンもそう感じた。チェコ・フィルハーモニーが日本公演を予定しており、その時に譲ってもらうことになる。「鈴蘭と階段」の鈴蘭は奏のイメージで、階段とは浜崎家の防音設備の整った部屋ではなく、階段で演奏するのが好きということから来ている。

 「伝説と予感」はカザマ・ジンがピアノ界の伝説の巨人ユウジ・ホフマンと知り合った経緯を明らかにしている。知人の貴族の館でホフマンは、その貴族の父が収集した古い楽譜を知る。そのサロン・コンサートで、古い楽譜の中からシューマンのダビッド同盟舞曲集を演奏する。その屋敷に父の蜂蜜採取用のリンゴの開花調査に同行してきていたカザマ・ジンが、サロンコンサートでホフマンが弾いた曲を、玄関ロビーのアップライトピアノで弾いているのに出くわして驚く。

「戦国時代は何を残したか」笹本正治 著

 この本は、現代では戦国時代の武将などに脚光があたっている歴史になっているが、この時代に生きた民衆、敗者などにも目を向けるべきだとして書かれた本で、私も共感する。
 若い女性が戦国武将を好きだとか言うが、織田信長をはじめ各武将の残虐性とか、秀吉、伊達政宗などの色好みの状況などをどれだけ知っているのかと疑わしくなる。

 この本では、戦国時代を経て、社会はどう変化したかを次の5章に分けて述べている。「1.モノとしての民衆」「2.戦乱からどう身を守るか」「3.神仏との深い結びつき」「4.自然への畏怖の変化」「終章.現代に続く戦国時代の課題」である。

 「1.モノとしての民衆」では川中島の戦いを例に『甲陽軍鑑』の記述内容の疑問を書いている。鶴翼の陣とか車掛りの陣などは日常的訓練をしていない軍勢で、しかもそれぞれの独立性の強い家臣団が実現できるはずはないと書く。義の人、上杉謙信が例えば仁田山城攻め(桐生市)では城に籠もるを一人残らず、男女ともになで斬りにしている。そして戦国時代は勝った方は物の略奪だけでなく、人を生け捕りにして、商品として売りさばき、奴隷としていたことを各種資料から明らかにしている。著者のフィールドの信濃、甲斐の史料を豊富に出して例証している。通常時に人を誘拐して売ることは犯罪であったが、戦争では人狩りが日常であった。日常でも「辻取」として路上で女性を捕らえて妻などにすることがあったようである。このような状況の一方で、西洋の宣教師は日本では娘たちが両親と相談することなく一人で行きたいところにいくとか、妻は夫の許可なしに家から外出することを記している。安全な国でもあったわけである。もちろん奴隷となった者は海外にも売られたわけである。逆に倭寇がさらってきた中国人なども奴隷として日本にいたわけである。
 戦国大名は自分の領国内の平和の維持の為に、人身売買を規制する方向であった。秀吉は検地で土地の生産量を確定し、年貢を取っていたので、耕す人が必要であったこともあり、人身売買を禁止した。一方で、自分が生き延びる為、あるいは父母の暮らしを守る為に、自らを売るような行為も存在していた。

「2.戦乱からどう身を守るか」では避難先としての山に逃げた資料を多く示している。自らも武装して戦う民衆の姿も記されている。領主の城に籠もることも行われた。強豪武将に挟まれた土地の住民は、それぞれの側に年貢を貢ぐ「半手」「半納」という制度もあった。信長は伊賀や長島の一揆では虐殺をしているし、徳川期の島原の乱時でも一揆勢を裏切って通報していた絵師を除いて皆殺しされる。寺に逃げ込むことも多かったが、信長は寺のアジールとしての役割を無視して恵林寺を焼いている。

「3.神仏との深い結びつき」では神仏は一緒に戦ってくれる存在であったことを記している。夢を大事にした人々もいたが、武田信玄などは夢卜いとか神仏を自分に都合の良いように利用している。裁判などでは神仏の力を借りての起請が行われた。熱湯に手を入れて火傷しなかった方が正しいなどの湯起請があった。古代の銅鐸もそうだが、金属の音に神の降臨を信じたこともあった。村の入口に神仏を置いて結界とすることもあった。

「4.自然への畏怖の変化」は自然災害が多かった時代であり、その予兆に対する関心は高い。凶作時には蕨の根などを食糧にする知恵も生まれる。自然を克服しようとする戦国武将の施策(信玄堤)なども生まれる。諸国を渡り歩く職人は戦国武将の枠を超えた朝廷の庇護などをもとめ、鋳物師と公家の真継家、木地師は白川神祇伯家、吉田神道家などの結びつきが出来てくる。鉱山開発、新田開発が進むと、大地の改変に祟りを観じなくなる。神仏への畏れがなくなっていった時代である。

「終章.現代に続く戦国時代の課題」では史料が残るのは、その史料を持ち伝えることが、個人あるいは家にとって利益があるからである。日常生活の史料は残りにくいとして、史料一辺倒の歴史解釈に警鐘を鳴らし、今の世の中に潜む地球温暖化や食糧問題、そして戦争の危険などに言及している。

「大御所 徳川家康」三鬼清一郎 著

タイトルから大御所時代の徳川家康のことを書いているのかと思ったが、内容は徳川幕藩体制が構築されていった経緯を書いている本である。副題も「幕藩体制はいかに確立したか」であり、むしろこちらを表題にした方が良い本である。

10章に分かれていて「1.大御所政治の前提」「2.大御所政治の幕開け」「3.御三家の成立」「4.水戸藩の立場」「5.国際環境とキリシタン」「6.外交関係の再構築」「7.大坂城包囲網の形成」「8.豊臣家滅亡への道」「9.神に祀られた家康」「10.大御所政治の遺産」である。
各章の終わりにコラムとして、その章に関係する小説を挙げているのは新書として、読みやすさを意識したのであろうか。
各章の内容を断片的に紹介すると以下の通りである。これを読んでいただいても、本のタイトルにピンとこないことが理解できよう(もちろん読者である私の理解不足もあると思うが)。

「1.大御所政治の前提」では大御所の定義を行い、慶長8年に内大臣から右大臣に昇進して源氏の長者となり淳和院と奨学院の別当(理事長)となって征夷大将軍になる。慶長10年に征夷大将軍の職を辞し、秀忠が跡を継ぐ。ただし源氏長者と奨学院別当は辞していない。

「2.大御所政治の幕開け」では、自分の居城の駿府城や江戸城や、大坂包囲網の各地の城を天下普請で構築していることを書く。この過程で畿内・近国の国奉行制を成立させて、各地の天下普請への動員をかけやすくしていることを書く。また徳川初期の権力構造の不安定さを記す。すなわち秀忠の弟の松平忠輝は元和2年に伊勢に配流。秀忠の甥の結城秀康の子の松平忠直は元和9年に豊後に配流。慶安4年には由井正雪の乱。

「3.御三家の成立」は実質的には家康の死後に成立だが、御三家のことを書く。尾張の方が若干、紀伊より石高は上。水戸家は一格下で、江戸常府。尾張家には成瀬家と竹腰家、紀伊家には安藤家と水野家、水戸家には中山家の付け家老。付け家老は家康存命の時は家康の意向を受けて存在感があったが、死後は各藩から邪魔者扱いとなり、それぞれ独立の大名を指向した。

「4.水戸藩の立場」は、水戸藩2代の光圀は、長男(のちに讃岐高松藩祖)をさしおいて就任したから、長男の子を養子としたこと。明君だが5代将軍綱吉と対立したこと。大日本史を編纂し、その水戸学が幕末に影響を及ぼし、また幕末に内部が混乱した水戸藩のことまで記している。このあたりが、本のタイトルにそぐわないところである。

「5.国際環境とキリシタン」では朝鮮、明や琉球、台湾、東南アジア諸国との関係を立て直そうとしたこと。三浦按針、ヤン・ヨーステンを顧問にして世界の情勢を知っていたこと。当初はキリスト教禁教でもなかったが慶長17年の岡本大八事件(本多正純の与力の岡本大八と有馬晴信が死罪)を契機に翌年から弾圧・禁教となったことを記している。

「6.外交関係の再構築」は、朝鮮との修好を対馬の宗氏、家老の柳川氏が国書を偽造して成り立たせる。これが露見するが、宗氏は罰しなかった。琉球は島津氏が侵攻する。この2国は通信の国。オランダと中国は通商の国、他にアイヌ民俗と松前氏を通しての交易があった。ポルトガルとの交易はマカオを中心として行ったが、実質は中国産の生糸を積んで、日本の銀を得るという日明貿易の代替であった。寛永12年に島原の乱が発生する。

「7.大坂城包囲網の形成」では官位の叙任権は朝廷にあったが、武家の官位は幕府の推挙を条件にした。慶長16年に後水尾天皇の即位式に秀頼を上洛させる。近畿以西の大名22氏に3ケ条の誓詞を求む。翌年には東北諸大名から誓詞をとる。

「8.豊臣家滅亡への道」は方広寺の大仏の鐘銘事件がきっかけだが、片桐且元の動きに注目している。慶長20年に武家諸法度、次いで禁中ならびに公家諸法度を発布して統制を強める。公家は筆頭の近衛家でも2800石ほどだが、芸ごとの謝礼などで生計をたてる。また寺には諸宗本山本寺諸法度を制定。

「9.神に祀られた家康」では元和2年に死期を感じ、太政大臣を望む。信長は死後に、秀吉も太政大臣になっている。神号を天海が提唱する山王一実神道で東照大権現とした。正保2年に東照社から東照宮となる。一方、豊国社は破却され、豊国大明神の神体は方広寺大仏殿の境内に移す。

「10.大御所政治の遺産」では、章のタイトルとは無関係な隠居になって三島の泉頭を適地としたが、後に磐田の中泉を考えたことや、藤木氏の惣無事令の研究を批判した内容を含めている。