「濱谷浩写真集 市の音 一九三〇年代・東京」濱谷浩 写真

ある件で、知人からお借りして読んだ本である。濱谷浩は戦前から戦後にかけて活躍した写真家で、日本では民俗学的な視点からの写真で評価が高い。
この本は「市(いち)の音」とあるように、浅草歳の市、世田谷ボロ市、葛飾八幡宮農具市、辻売りと看板の4つの章に分かれていて、1930年代の東京近辺の市の模様を写真に撮ったものである。もちろん白黒写真である。

写真は記録であり、戦前はこんな風だったよなと感ずるもので、あまり心が動かさられるものはない。写真を見て、「やはり着物を着ている人が大半だ」、「藁を編んだようなものは今は使わないが、昔はこういうものが売れたのだ」、「古着も売れたのだ」、「農機具も手作業で使用するものが大半だったのだ」、「生きた鶏もカゴに入れて売っていたのだ」、「リアカーやそれを改造したような車で販売していたのだ」、「天秤棒を肩に担いで売っていたのだ」などと思うばかりである。

こういう写真が「民俗学的には貴重なのだろうか」、「働く庶民の姿として心が動かされる人もいるのだろうか」などとも感じるが、自分として価値を感じる写真はないし、芸術として心が動くような写真もない。

[「本阿弥行状記」(和田宗春 訳註)

 本阿弥光悦が書いたものとして、この原本はこれまでは上巻だけが訳されていた。それは中巻の冒頭に、この中巻は光悦、光甫が書き残した反故の中から取りだしたとあったので訳されてこなかったわけである。訳註の著者は、中巻も下巻も訳してはじめて同書の意義(本阿弥家の家録、家記)があると考え、通しで訳されたと記してある。本文の意味が通りにくい箇所もあるが、これは原文がそうなのであろう。また註も丁寧であるが、ちょっと違うのかなと感じるものもあるが、労作である。

 江戸初期の本阿弥光悦の話から、江戸中期の吉宗時代の話まである。光悦の芸術論でもなく、家業の刀剣鑑定のことが多く記されているものでもない。
 印象に残るのは、本阿弥の女性の偉さを書いていることである。光悦の母の妙秀(光二の妻)は信長にも夫の光二の無罪を訴えたり、人を斬って逃げ込んだ者を匿ったり、子供の良い所を褒めて伸ばしたり、一方で厳しく躾けをし、吝嗇なところは少しもなく、義理堅く、慈悲に富んでいたことなどの逸話を載せている。また宗教心(本阿弥家は日蓮宗の熱心な信者だが、仏教一般を敬う)と道徳心(親に孝行、主君に忠、人に慈悲を持って接しろ、悪いことに手を染めるななど)と勤労精神(骨惜しみせずに働く)を基本の教えとして一族に説いた人物である。
 光悦の姉の妙山は光徳に嫁ぎ、光室を生む。柔和で知恵があって賢い人でさっぱりとした律儀であったと記している。穏やかな人だったようだ。

 この本は子孫に読ませることを意識していたようで、分に応じた生き方を説き、徳川家に忠誠のスタンスだが、時の京都所司代を通じて幕政に提言したことなども書かれている。織田信長、豊臣秀吉のことは批判的である。
 当時の文人(茶人、和歌、連歌、書、陶芸)との交流も書いてある。家業の刀剣鑑定のことはそれほど多くないが、興味深い話もある。光瑳は光悦の実子ではなく、片岡次大夫の曾孫だが、書道の名手。この子が光甫。
 光室は光徳に劣らない刀剣鑑定の名手で徳川秀忠に刀剣鑑定を教授。また情に厚い人物の弟の光益は正直者で織田有楽の弟子で茶道を嗜む。第59段に本阿弥光二は鞘、柄も制作して上手だった。また金具も造ることも記されている。
 具体的な刀工名では一条国廣のことが新刀では興味深い。古刀では名物の刀が時々出てくる。
 また第27段には、丹波、丹後などで山の木を伐り、田畑を作ると、山崩れや水害が起きることまで書いており、当時から、このような知識が広まっていたことが理解できる。
光悦は諂うことが嫌いな人だったとも書いている。光悦が鷹峯に領地(東西200間、南北7町)を貰う経緯が第52段に記されている。
(以下のリンクは別の本である)

「戦国 武士と忍者の戦い図鑑」小和田哲男、山田雄司 監修

 図解の簡単な本である。ただし忍者の話はともかくとして、武士の方ではなるほどと認識した記述もあった。
 戦いにおける動員では、陣鐘を背中に背負った人物と、それを後ろから叩く人物が領内をまわって、合戦の有無を伝えたことや、同様に合戦時には太鼓を背負い(背負い太鼓)、それを後ろから叩き、進退の合図をすること、背負い太鼓の代わりに陣鐘、陣太鼓や陣中太鼓があることを知る。
 合戦前の験担ぎには上帯切り(鎧を脱がないという決死の意思を示す儀式)ということがあることを知る。
 また兵糧袋の形態や打飼袋などの陣中食糧の携帯方法、戦時のトイレの方法などは他の本ではふれられていないことである。
 武器では、大砲の後装式の構造、石礫を投げる時の投弾帯などが具体的にわかる。
 また兜に顔を覆う面具(惣面、半頬)などを付けると、顔がわからず、影武者も現実的にできたことを知る。
 防具に楯があるが、それには掻楯、手楯、竹束あること、そして旗印と馬印(特定の武将の位置を示す)の違い、戦場での敵味方の識別の為の合言葉、袖印(左側の袖)、刀印(刀の端につけた)、笠印などもなるほどである。
 また馬の防具も大変だったことが理解できる。

「一目置かれる知的教養日本美術鑑賞」秋元雄史 著

 軽薄なタイトルは編集部が売る為に付けたのだろうが、ポイントを押さえた日本美術の入門書で良い本である。ただし、校正が十分に出来ていないと感じるところもある。
 まずはじめに西洋美術と比較しての日本美術の特徴をあげている。西洋美術が革命の美術(既存の芸術を壊して新しい芸術価値を生み出す)に対して、日本美術は継承の美術で、伝統が重んじられ、技術や考え方をいかに継承するかが大事となっている。
 そして日本美術は時々に外来文化の影響を受け、進化・発酵・熟成を繰り返していると指摘する。
 また西洋美術はキリスト教の知識が無いとわかりにくいが、日本人が日本美術を理解する背景は基本的歴史知識があるだけに深くなるとも書いている。

 日本美術の特徴として、写実を追わずに、遠近法を多用しないデザイン=平面的で装飾的とし、それは西洋と違って1枚の絵ではなく、日常生活の装飾だからと説く。
 また四季のモチーフを選ぶように自然と近いのが日本美術に対して、西洋美術は宗教画、宗教を含む歴史画、王候の肖像画が格が高く、次いで風俗画、そして自然を描く風景画は格が低いとされてきた。要はカトリックがパトロンだからである。

 次ぎに、日本の歴史に則して、各時代の美術の特徴を大きく概観する。縄文の美が装飾性の原点。飛鳥・白鳳・奈良時代は仏教美術。遣唐使の廃止で和様が生まれ、優雅な王朝文化。鎌倉はリアリズムの仏像や末法思想で来迎図。室町は禅の美術で水墨画、茶の湯、能などが生まれ、破格で雄壮な桃山美術になると南蛮の影響とわびさびの美意識となる。そして、おだやかさと多様な江戸美術になり、そこでは権力者から市民階層も楽しむようになり、最たるものは浮世絵。江戸時代を分けると、江戸前期は狩野派中心と大和絵の伝統の土佐派に、光琳であり、江戸中期は沈南蘋の写実の影響で応挙、若冲が生まれ、江戸後期は文人画、洋風画、浮世絵となり、浮世絵は逆に西洋美術に多大の影響を与える。
明治に廃仏毀釈がおこり、その後フェノロサが日本美術を評価すると西洋美術排斥運動もおきる。

 次章は各時代の代表的作品を例に説明していく。なるほどと思ったことを記していくと次のようになる。
・源氏物語絵巻は個人で楽しんで見るもので、プライベートな視点であり、西洋の宗教画のパブリックな視点ではないとか、かな文字が生まれたように、柔らかな線、調和のとれた優美さが特徴。
・日本の建築は内と外の区別が曖昧であり、こういうことも自然とともにという精神につながる。西洋は壁(城壁)で内と外を分ける。
・鳥獣戯画はユーモラスな白描画で登場人物のキャラクターがわかる。輪廻思想で動物と人間は一体という日本人の感覚が出ている。
・鎌倉新仏教は仏教美術を重視しない点はヨーロッパのプロテスタントと似ている。
・雪舟の天橋立図は瑞々しい墨の濃淡と大胆かつ細やかな筆致、壮大な構図。狩野派が雪舟を神格化したので諸大名がこぞって雪舟の作品を求める。その後継者の狩野派の絵も大名に求められる。
・狩野永徳の唐獅子図屏風は豪華絢爛にして破格。金地に群青や緑青を厚く塗る金碧濃彩画。城郭の部屋を荘厳に演出する、舞台演出装置であり、屏風絵は権力を誇示する道具

美術の流れとして、縄文→永徳→東照宮→明治工芸の装飾的な美と、弥生→桂離宮→利休→柳宗悦の簡素な美としているのもなるほどと思う。


「司馬遼太郎全集22 妖怪」司馬遼太郎著

 時代を応仁の前に設定して、6代将軍足利義教が熊野詣に来た時に、現地の遊び女(元は熊野本宮の巫女らしいと設定)との間に出来たという出生の伝承を持つ源四郎を主人公にして、物語は展開する。
 源四郎は、その出生の秘密から、京に出て将軍家に取り入ろうとする。京に向かう途中で腹大夫という山伏と出会う。山伏は京で印地(やくざ集団)の長にでもなろうと考えており、2人は同行することになる。
 世が乱れ、下克上の風潮も生まれている時代である。足利幕府8代将軍義政が治めている時代なのだが、その政治は名前に「ま」が付き、世間からは「三魔」と称されている側近の有馬持家と烏丸資任と、義政に幼少期から一緒にいて、側室であるお今の3人が影響力を及ぼしていた。
 そしてお今は、義政の妻日野富子と軋轢を抱えていた。軋轢とは将軍の世継ぎの問題であり、富子に子ができない時期に、迎えた養子と、その後に富子に生まれた実子との間の問題である。
 日野富子は公家の日野家の出だが、お金に対する執着が強く、悪妻と評されている女性であり、司馬遼太郎はお今と日野富子の争いに主人公の源四郎を絡ませて物語を展開していく。それに妖術使いの唐天子を登場させて、彼が信じられないくらいの妖術を使って物語は進む。だからあまりの荒唐無稽ぶりに、読んでて白けてくる物語であり、私の好きな小説ではない。司馬遼太郎の小説の中には、忍者、妖術使いのような登場人物が出てくる小説がある。

 司馬遼太郎は応仁の前の時代で、人心も生活も荒んだ時代を、彼なりの設定で書きたかったのだと思う。そしてタイトルの「妖怪」だが、これは妖術使いの唐天子のことか、人並み外れた金銭欲を持った日野富子のことか、あるいは不思議な経緯で義政に取り入って「三魔」の一人と称されているお今のことかわからない。あるいは、将軍の落とし胤との伝承を持つ源四郎も含めて、これらの登場人物全てが妖怪なのであろうか。それとも、下克上が本格化する前の荒んだ時代そのものなのであろうか。