「司馬遼太郎全集18 夏草の賦」司馬遼太郎著

長宗我部元親の物語である。元親の妻となった美濃の斎藤内蔵助利三(後に明智光秀の重臣)の妹の菜々も主人公並みに物語に登場させている。この一族には石谷光政(兄弟)や春日局(斎藤利三の娘)などが出ている。そして当時の岐阜城下での絶世の美人として描いている。元親は長宗我部家に外部の優秀な血を入れようとして、土佐と商売をしていた堺の商人に頼み、彼が仲介しての輿入れとなったわけである。鬼の住むと言われた土佐に嫁入りするわけであり、菜々もそのような性格を持つ魅力的な女性に描いているのは、いつもの司馬遼太郎の筆である。一条家に使いに出向いての大暴れなどは面白い。

元親は早くから織田信長に関心を示しており、長男の名乗りにおいて信長から「信」の字を賜っていることである。織田家において長宗我部と親しいのは明智家である。その重臣の斎藤、石谷は菜々の兄である。今回、再読して驚いたのは、織田家が元親に対して、土佐と阿波の一部は認めるが、他の領土は返上しろと無理な要求を使者として伝えたのが石谷光政であり、その説得の場面が描かれているのだが、その中で元親が「それほど拙者に同情してくださるのなら、いっそかの信長を斃してしまわれては」と石谷に伝える場面があることである。そして元親は「明智どのが、信長を斃す。斃したあと、毛利家と同盟していちはやく京をおさえる。拙者は四国勢をあげて大いに応援つかまつりましょう」と言う。ここでは石谷が狼狽して、明智光秀には言えないと、帰るシーンである。
現在、本能寺の変は、信長が従来の織田家の外交ルートの明智→長宗我部路線から、織田信雄(秀吉も三好と縁戚になる)→三好路線に変更したことが一因と言われはじめており、ここで司馬遼太郎が石谷に「帰って殿(明智)に、このこと(信長を斃す案)を伝えます」と書いておけば、先駆的な洞察とされたことであろう。

元親は若い頃は女の子のようにか弱い男と見なされ、次の領主が勤まるかと家臣から案じられていた。司馬遼太郎はエピソードから人柄を浮かび上がらせていくような腕を持つ小説家だが、この本では「元親は天性の策謀家」とか「元親は権謀家」とかの言葉を出している。エピソードとなる物語が資料として少ないのだろう。
このような知謀も駆使して四国全土を切り従えていく様子が書かれている。土佐の動員能力を高めるために一領具足の制度を作ったとする。この一領具足の民を駆使して四国平定を進めた時に、中央では信長、次いで秀吉の政権ができる。その政権は土佐一国は認めるが、他国は返上しろと命じてくる。この時の元親の悲哀を書いている。
元親は大坂で秀吉の威勢を知り、その人物に触れて、自信の天下取りを諦めるのだが、何の為に土佐の民を一領具足としてまで戦争に駆り出し、多くの民を殺してきたのかと悔恨の念にさいなまれる。
それから元親と菜々の間に生まれ、信長の一字をもらった信親の人物像を描いていく。勇気も知恵もある理想的な跡取りである。元親は理想的な武将となった息子故に、悪賢さなどを身につけさそうとする。
そして、秀吉の命令で、大友氏救援の為の島津征伐の先鋒として長宗我部軍は渡海する。この時の総指揮者は秀吉の軍監の仙石秀久であるが、陰険な口先だけの男として描き、同じく先鋒の三好一族の十河存保とは仇敵の間柄。そのような軍で、島津軍に大敗する。
そして大事な跡取りの信親を死なす。この死を知らずに菜々も病気がちになり逝去する。
この後は気力も萎え、秀吉後の政局に関する動きにも乗り遅れ、西軍となって改易される。また家の相続においても、長男信親亡き後に、二男、三男の相続を認めずに末子の盛親(菜々の子)とするなど混乱する。
なんで「夏草の賦」というタイトルかと言うことを考えたが、「夏草や兵(ツワモノ)どもの夢の跡」という芭蕉の句意を、司馬遼太郎は元親が四国平定に邁進したが中央権力によって、その成果を失うという元親晩年の姿にふさわしいと感じたのであろう。

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