「<通訳>たちの幕末維新」木村直樹 著

 長崎のオランダ通詞が、幕末・維新期の時代の変革に応じて、対応してきたかを書いている。幕末・維新期だけでなく、この制度が出来た時から解説し、通詞が関係する事件(シーボルト事件など)のことにも触れている。

 通詞は町人身分で、大通詞、小通詞の身分があり、家は世襲である。医者としての副業を持つか、貿易に参与するとか、長崎の諸藩の蔵屋敷とも関係するなどして生計をたてていた。数十人の規模である。
 幕府の初期には、平戸から長崎への商館移転に伴ってきた通詞として、高砂、肝付、石橋、秀島、名村の五氏がいた。当初はポルトガル語の通詞である。他に商館で小間使いのようなことから能力を持った志筑、横山、貞方、猪俣などの諸氏がいる。唐通詞は日本に帰化した唐人の子孫である。寛文5年頃もポルトガル語が主でオランダ語通詞には不自由をしていた。
 17世紀にドイツ人医師のケンペルが来日し、今村源右衛門英生に教育して名通詞に育てる。18世紀末になると一定数の専門集団となる。ここに蘭学が注目されるようになり、吉雄耕牛(幸作)、本木良永、志筑忠雄という通詞で科学者が出る。
 洋書翻訳で幕府天文方との関係が強まる。馬場佐十郎などが活躍する。そこにシーボルト事件が起こり、天文方の関係者とともにオランダ通詞も罰せられる。そこに通詞の名村元次郞の密貿易事件も起きる。
 寛政の改革でオランダ商館から贈り物を得ているとの密告で解任者が出たり、幕府の貿易半減令の誤訳事件で罰せられる。
 その後、ロシア船の来航で、蝦夷地に出向く命令も出る。フェートン号事件などで多言語への対応が課題となる。長崎には唐通詞もおり、彼等は外国人がシナで中国人の通詞を船に乗せてくるから、欧米人→中国人通詞→長崎の唐通詞という流れで重宝された面もあったようだ。
 漂流民のマクドナルドが長崎で英語を教え、英語のわかる人材を育てる。吉村昭の小説で読んだことがある。
 そしてペリー来航である。この後、通詞は浦賀、神奈川、蝦夷などに派遣される。海軍伝習所にも通詞は必要となる。
 唐通詞から英語の通詞になる者も現れる。また帰国した漂流民のジョン万次郎なども登場する。幕府が蕃書調所も設ける。海軍伝習所、幕府陸軍のフランス式採用などによる軍事面からの通詞の必要性も生まれる。
 幕末の有名な通詞は西吉十郎、福地源一郎、名村五八郎などで、名村は函館にまでいき、その地で英語教育も行い、立広作(嘉度)や塩田三郎を育てる。堀達之助は開成所教授から函館に派遣され、そこでの洋学所の教授にもなる。徳川家は静岡に移るから、そこに移った通詞もいる。維新後は明治政府の法曹畑に進み、顕官となるものも出た。翻訳による知識の蓄積によるのだろう。

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