「信長軍の合戦史」渡邊大門編 日本史史料研究会監修

織田信長が関与した戦いを取り上げ、その一ずつを日本史史料研究会に所属する学者が分担執筆したものである。
各著者の執筆姿勢には僅かな違いがあるが、自分の主張(説)を述べると言うスタンスではなく、その戦いに関する現在の歴史研究者の様々な見解を客観的に整理している。通説に毒された頭には良い本である。

桶狭間の戦いでは、まず義元が尾張に向かった動機から検証している。上洛説もあるが、今はこの説には否定意見が大半で、三河支配を安定させて尾張侵攻をめざすが最大公約数的とのことだ。
戦いは佐々隼人正と千秋四郎の抜け駆けから始まり、彼らは討死にし、これで義元は油断して桶狭間山から前進して平地に陣を移す。にわか雨が降る。これにまぎれて進軍して正面攻撃をして義元の旗本を破るという説が有力なようだ。なお信長は殺害した義元を丁重に扱っている。

一向一揆では、長島は根切りという虐殺をしたが、それに至るまでに信長の弟の信興が自害に追い込まれ、氏家卜全が戦死、柴田勝家が負傷など何度も苦杯をなめている。赦免しても、その後に攻撃してくるなどもあり、根切りに至った。
反信長連合の一員になった石山合戦の終結は荒木村重の反乱の終結と、その乱後の信長の態度で蓮如が講和し、教如はあくまで反抗するも、失火で灰燼に帰す。

姉川の戦いは、徳川方の伝記作者が徳川軍の奮戦ぶりをことさら強調したのが通説になっている。この戦い後も浅井、朝倉は存続しており、織田・徳川の大勝利という戦いではないようだ。横山城包囲の織田勢の主力が駆けつける間もなく、浅井・朝倉軍の奇襲を受け、信長、家康の大将が自ら戦わざるを得なかったのではなかろうか。

三方原の合戦で有名な家康の「しかみ像」は最近では家康でもなく、江戸中期に画かれ、尾張徳川に嫁入りした姫の道具と判明している。信玄の上洛説も最近は遠江、三河の平定が目的か、信長打倒の為の尾張・美濃辺りまでの進軍という説も有力である。家康は兵力は劣勢であったが、三方原の台地から降りて進軍する武田軍を、台地の上から襲えば勝てると読んで出陣したが、信玄は台地を降りておらずに迎撃態勢を取っていて敗軍に至ったのではなかろうか。

長篠合戦では、鉄砲の数3千挺の真偽や三段討ちの信憑性や、武田の騎馬隊が存在したのか否かなどに諸論があり、この章の著者はそれら諸説を紹介している。酒井忠次の別働隊が武田軍の鳶ケ巣山の砦を襲い、それが武田軍を挟撃する形になったことは事実だ。ともかく良質な史料が無いとのことだ。

有岡城の戦いは荒木村重の反乱である。荒木村重は摂津の池田氏の重臣であって、織田方になり、足利義昭を京都から追い出す戦いや、摂津一国を切り取れという命令に従って功績があった。他に石山本願寺攻めや河内の三好攻め、紀伊の雑賀攻めと酷使される。播磨にも攻め込んだが、信長は播磨を与えることをしなかった。こういう中で村重は反乱する。信長の人事の失敗ではと推論される。有岡城籠城戦の中で家臣を捨てて尼崎城に行ったとされるが、有岡城の補給の要の尼崎城で戦線を立て直そうとしたのである。有岡城の包囲責任者の織田信忠の失態を隠蔽する目的で一人で逃げたと伝えている。
有岡城は村重がいなくなっても、残留の将士は村重を裏切ることはなく落城している。部下から心服されていた証左ではなかろうか。
なお有岡城の虐殺は江戸時代は信長の非道とされており、そこになにがしかの肯定的な意味を見ようとするのは最近のことだ。

三木合戦は兵糧攻めで有名。はじめは別所長治は信長と親密。ただし家中では毛利派と織田派が対立しており、周囲の状況(信長の四面楚歌)と、何らかの理由で信長、秀吉に不信感を抱いたこと、義昭からの勧誘などで叛旗を翻したのではなかろうか。
兵糧攻めにあい、毛利からの兵糧の搬入の戦い(大村合戦)に失敗して飢えで苦しみ落城する。落城後に一般の城兵は秀吉に助けられたと伝わるが一次資料は虐殺である。

鳥取城は山名豊国が城主だったが、秀吉に攻められて降伏する。その後吉川元春が巻き返し、城中の親毛利派の地元領主から山名豊国は追われる。毛利から吉川経家が城主に派遣されるが、地元の国人領主は毛利も織田も関係なく、自家の存続が図れればいいわけであり、和を取り付けるのも大変だったと考えられる。その中でも持ちこたえてきたが兵糧を絶たれて落城。

宇喜多直家は信長方になるが、信長は裏切りが多い人物として警戒していた。ただ秀吉に属して秀吉が因幡、伯耆で戦っている中、備前、備中、美作で戦っていた。秀吉は宇喜多直家を評価していたが、信長は秀吉、直家には無断で毛利と講和も模索していたが、この話はなくなる。
東瀬戸内海の制海権を、秀吉は児島水軍の高畠氏を寝返られて確保する。また村上水軍(来島水軍)の調略もする。能島水軍、河野水軍、因島水軍は毛利方にとどまったが、塩飽水軍も秀吉方になる。この為に毛利軍は消極的になり、様子を見ていた備前、備中の各領主に影響を与える。

備中高松城の水攻めについては考古学、地理学からの検証もあることを紹介している。

本能寺の変は怨恨説、野望説、黒幕説を紹介し、最近研究が進んできた四国原因説を紹介している。長宗我部元親の正室は幕府奉公衆の石谷光政。石谷は光秀の重臣斎藤利三の実兄頼辰を婿とする。
信長と元親は当初は、共に対阿波の三好に敵対するから友好的。しかし三好存保が信長に服属したので、阿波についての考え方に行き違いがでる。信長は三男信孝を総大将にして四国攻めを決定。元親の取り次ぎ役が光秀だったので立場がなくなる。
石谷家に伝わった文書で、元親に対して信長の命令(土佐と阿波の一部だけ領有)に承諾するようにとの斎藤利三の書状がある。また5月21日の長宗我部元親からのその意向に従うとの書状がある。この書状が間に合わずに本能寺の変に結びついた可能性がある。
ただ、光秀の反乱は思いつきが強いとする。だから事後の対策がことごとく失敗していると述べているが、主君殺しであり、事前に各武将に協力を求めにくいのが実態ではなかろうか。

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