「司馬遼太郎全集17 新史太閤記」司馬遼太郎 著

 司馬遼太郎らしい解釈で豊臣秀吉の性格、魅力を書いた本で面白かった。秀吉は寺の稚児であったとして物語ははじまる。確かに秀吉の基礎的教養(文字を知り、書く能力)などは単なる百姓の倅だけでは説明できないもので、寺で身に付けたと言う解釈は自然である。そして、銭勘定の計数感覚に長けていて、商人的な感覚を持っていたとする。

 なお、この物語は小牧・長久手の戦い後に家康に妥協して、家康を大坂に参上させるところで終わっている。秀吉晩年の老醜を描くことをしていないことも、この小説の魅力であろう。

 寺を飛び出して高野聖の群れに入り、その後、三河矢作で高名な遊女に出逢い、転々とした後に尾張海東郡蜂須賀村の小六のもとで小者奉公をする。小六は木曽川デルタ地帯の地侍で半農半士の暮らしをしていたと設定し、その後に針売りの商人になり駿河に行き、それから駿河の松下嘉兵衛に小者として仕える。要領が良いために、同僚から嫉まれ、尾張の蜂須賀小六の元に戻り、その後、信長の小者になる。
 信長に一心不乱に仕えて徐々に信長に気に入られていく。信長の当時としては合理的な人材登用(身分を問わず)を行う人間であり、そのおかげで活躍の場を広げていく。
 そして小者頭の浅野家の養女であった寧々を嫁にする。この頃の秀吉の発想は、自分を傭ってくれている信長様に損はかけないという商人的な発想で貫かれていると書く。これも司馬遼太郎なりの解釈である。

 そして徹底的な明るさと、対応した人にも損をかけないという心構えで人の心をつかみ、調略の才能を発揮していく。竹中半兵衛にも信頼され、秀吉は半兵衛の考え方で兵法も学んでいく。秀吉の調略を信長が学んでいくような物語の進めかたになるが、確かに信長の発想だけでは、あそこまで信長の版図は広がらなかったとも考えられる。

 前田利家とは妻同士も親しくし、利家は秀吉の身分に拘らず親交を結ぶ。半兵衛の力で武功も上げていく。そして越前朝倉攻めで、浅井長政が裏切って、信長が退却した時に、危険な殿(しんがり)の役割を自ら申し出て、並み居る武将の信頼を得る。その後の浅井攻めでは調略の才(秀吉の人間力)で浅井方の武将の宮部善祥房を織田方にしたりする。そして長浜城主になる。

 その後、織田軍の北陸攻めで、柴田勝家からの援軍要請に対して、上杉は本格的に攻めてこないと信長に進言するが信長は援軍に行けとの指示を出す。北陸で柴田勝家の方針に異を唱えて、引き返すような軍令違反を行う。激怒する信長は秀吉に長浜城で蟄居するように命令を出す。この時に信長に疑われないように大騒ぎして過ごすところなどはスリル満点である。

 この後、秀吉は対毛利戦線を任される。ここで播州の黒田官兵衛に出会う。司馬遼太郎は黒田官兵衛の考え方、魅力を書いていくが、これが後に『播磨灘物語』としてまとまるのであろう。このあたりの秀吉、官兵衛の人間力の魅力は司馬遼太郎の筆致で一層冴えている。

 播州攻略には苦心するが、ここで城攻めに土木的技法を使って兵糧攻めにするとか、水攻めなどの発想というか、秀吉の独創的な戦い方が生まれてくる。この延長で、「人をむやみに殺さない」という戦い方を編み出し、それが天下統一につながることを司馬遼太郎は書いていく。

 播州の高松城の水攻め時に本能寺の変の報を聞き、そこから中国大返しをするが、颯爽たるものだ。摂津の中川瀬兵衛を味方につけて、明智光秀を山﨑の戦いで討つ。
 それからは柴田勝家との清洲会議という名の戦い、そして賤ヶ岳の戦いとなり、織田軍団の中での勝者となる。この過程で敗者に寛容という姿で、かつての同僚の織田方諸将の心を掴んでいく。

 そして次ぎが家康である。織田信雄に頼まれて家康は戦い、小牧・長久手では秀吉軍を破るという戦術的な勝利を得るが、秀吉は織田信雄を裏切らせて、家康の大義名分を無くす戦略で勝利を得て、家康を臣化たらしめて名実ともに天下人となる。

 この小説では秀吉の低い身分からの出世に反応するように、随所に当時の家柄が高い家の人物(織田家宿老、京極家、山名禅高、織田家の子息)の考え方、発想を散りばめて、それと相反する秀吉の魅力を浮かび上がらせていく。

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