「司馬遼太郎全集16 十一番目の志士」司馬遼太郎 著

 全集16は「十一番目の志士」と「風の武士」という時代小説が収録されている。「十一番目の志士」は幕末の長州で、高杉晋作に見出された周防国鋳銭村の百姓の子で、家伝の二天一流(宮本武蔵創出)の達人という天堂晋助を主人公にしている。鋳銭村は聞いたことがあると思う。大村益次郎の出身地である。ただし、大村益次郎は一切出て来ない。
 高杉の意を受けた長州藩の刺客という位置づけだ。村の庄屋の世話で長州藩の上士の若党になるが、屈辱的な扱いを受け、退転し、高杉の世話で奇兵隊の一員になる。はじめから客将的な位置づけて、高杉の特命事項の暗殺を受け持つ。司馬遼太郎の小説らしく、諸所に魅力的な女性を登場させて、天堂は寝ていく。こういうサービスの筆が司馬遼太郎小説の人気の一つなのだろう。
 高杉の命で幕府の切れ者小栗上野介を狙うことを主旋律にして物語は動く。小栗がいそうな場所を舞台にするのだが、なんと言って京都が舞台である。蛤御門の変で長州藩が京から追われたが、その時期に京都に潜入していて、新撰組や幕府方諸藩士に追われて戦う。架空の時代小説上の主人公だから、窮地に追い込まれても死なない。剣は無敵である。
 途中で奇兵隊を裏切った赤根武人を狙うように指示される。同じ階級の出身者であり、天堂は乗り気ではない様子で小説は進む。そこに史実を織り込ませて、司馬遼太郎は本当らしくしていく。
 高杉の死で、高杉の情婦のおうのを、同志が無理矢理に尼にするところで、天堂は自分も高杉によって生かされたことの空しさを感じるところで小説は終わる。
 ただし、なんで十一番目かはわからない。高杉、桂、伊藤、井上に、奇兵隊の赤根、山県などは登場するが、残りはわからない。刺客仲間では薩摩の中村半次郎が出てくる。

「徳川がつくった先進国日本」磯田道史著

この本は著者がNHK教育テレビで「さかのぼり日本史 江戸 ”天下泰平”の礎」の番組を企画した時の放送内容をまとめたものである。だから読みやすいが、江戸時代を大きく4つに分けている。それが磯田氏が本当に分けたかったのか、テレビの都合によるのかはわからないが、一つの考え方として興味深い。宝永地震を時代の区切りとしているのは東日本大震災を意識しているのかもしれない。
その4つは章に分かれ、放映順に「「鎖国」が守った繁栄」「飢饉が生んだ大改革」「宝永地震 成熟社会への転換」「島原の乱「戦国」の終焉」である。

時代ごとに追うと、「島原の乱「戦国」の終焉」は1637年で、大坂夏の陣1615年から約20年である。関ヶ原(1600年)後に徳川幕府は415万石を没収し減知も含めると622万石になる。これは当時の全国石高の約3分の1にあたる。大坂夏の陣1615年後も諸大名の処分は続き、三代家光までに130名の大名が改易になる。没収した領地は1400万石になる。こうして幕府領、旗本領に親藩を入れると全国3000万石の内1000万石以上を占めるようになり、圧倒的な武威で治めていた。
この当時の領民統治は戦国時代と変わらず、百姓は搾り取るものだった。農民側もしたたかで、大坂の陣が起きた時に一気に鉄砲を集め、年貢を払わなくなるようなこともあった。
島原の乱は圧政と不作に耐えかねた農民に切支丹に立ち返るように勧誘してそこに改易された大名の浪人が加わる。改宗3万7千人が反乱。12万4千の討伐軍の死傷者は8千人とも1万2千人とも言われる。
その後、島原への移民令(10年年貢減免))で復興に努める。この後、領民が国の本なりという思想が出る。岡山藩の池田光政などが、そのように意識した藩主である。武断政治からの転換は、綱吉の生類憐れみの法(1687)に至る。

次ぎが「宝永地震 成熟社会への転換」の章で、宝永地震は1707年で最大の地震。江戸時代の前期は新田開発が盛ん(武力で土地は奪えないから新田開発)で、200万町歩が300万町歩になり、人口も約1500万人が元禄には約3000万人になる。
宝永地震で津波が新田を襲う。新田開発で環境破壊したことのしっぺ返しを浴びる。ここから低成長時代の農業=精緻な農業となり、農民も本を読んで知識を持つ必要が生まれ、識字率が上がる。

そして「飢饉が生んだ大改革」の章となる。天明3年(1783)に天明の飢饉がおきる。その前の吉宗の改革は倹約と新田開発と農民への年貢増徴であった。享保16年にはこれまでの四公六民から五公五民になり享保元年から11年までの年平均140万石が、享保12年から元文元年の年平均が156万石となる。そこで一揆が増える。
田沼改革は商品経済からも財政をという重商主義的な政治である。財政あっても福祉は無かったのが当時の政治。
天候不順と浅間山の噴火と天明の飢饉で農村は疲弊。都市でも米騒動。松平定信は備蓄をすすめ、代官を更迭した。寛政12年(1800)には幕府領に58人の代官がいたが、天明7年から寛政6年に44人が新たに任命。これら代官の中には陸奥国塙代官の寺西封元のような名代官が誕生する。
幕府も民政重視となる。諸藩も藩政改革。

「「鎖国」が守った繁栄」では1806年の露寇事件がターニングポイントだとする。1792年にロシアのラクスマンが根室にくるが、松平定信は長崎に行くようにと軽く拒否。その入港許可証をもったロシア使節のレザノフが1804年に長崎に来る。
ロシアは露米会社で貿易を任せていた。絶海に孤立した会社の補給がうまくいかずに日本に目をつける。この頃のロシアは商人の活動で領土を広げていた。
長崎でも拒否されたレザノフが怒り、フヴォストフ大尉が樺太南部の松前藩施設を襲う。このことはロシア側はロシア側で罰していた。
なお、鎖国の言葉は1801年にケンペルの著書『日本誌』の一部を志筑忠雄が訳した時に初出。
そして、この50年後に黒船到来。

「所持銘のある末古刀」横田孝雄 著

調べものがあり、標記の本を読んだ。一部に時代が室町中期にまで上がる刀工のも所載されているが、全国の末古刀期の刀工作品から、中心(なかご)に所持銘(為打ち銘)のある刀を網羅されている労作である。

ただし、銘鑑的に網羅されていて、それぞれの所持銘についての考察は少ない。他の方が考察した論文のタイトルを案内した箇所もある。
その代わり、この本所載の所持名を巻末に索引とされているのは素晴らしいことと思う。もちろん所載の刀工銘も索引とされている。
室町時代後期、戦国時代の郷土史、地方史などを研究されている方は面白い発見ができる可能性がある。

所持銘には「弥四郎」や「与七郎」と言う通称名や、「伊豫守」「遠江守」「和泉守」などの官名だけや、「源」「藤原」などの姓だけや、名字無しの名だけと言うものもある。官名はともかくとして、このような表記だけだと特定の人物を突き止めにくい。

読んで思ったのは刀工と、ある地方の豪族とのつながりがわかり、その刀工の活躍の背景などが推測できるかなと言うことである。
関鍛冶は所持名のあるものが少ないが、武田家との関係も窺える。また関の兼常に備中の石川氏が注文しているのも興味深い。隣国の備前への注文が普通と思うのだが。関鍛冶の販路が広かったとも考えられる。(備後や常陸からもある)

もっとも時代の荒波で衰退していった豪族は、そもそも史料が残っていない。歴史は勝者の歴史だから。

自費出版されたようで、市販はされていないのだろう。

「江戸の画家たち」小林忠 著

江戸時代の絵画を、「得意の技法」「好みの主題」「画賛物の楽しみ」「見立絵の鑑賞」の4章に分けて述べている。
 そして、各章においても、何人かの画家を取り上げ、その画家の一つの作品(中には複数)を取り上げて、各章のテーマに即して解説している。これは、それぞれの篇が連載物として発表したことによる。だから一話で完結していて読みやすく、内容もなるほどと思うが、写真が白黒写真で絵の鑑賞する本としてはものたりない。

 はじめに江戸時代の絵画の特徴を日本の絵画史の流れを踏まえて概説している。大和絵と漢画の流れを無理なく自然に合流させ融合したのが狩野探幽であり、格調高く、瀟洒な趣致をもつ新古典様式を創りあげ、和画とよばれ規範となる。桃山時代の開放的で力動感や生命力の豊かな表現はなく、また室町時代の水墨画の精神性の深みも期待できないが、親しみやすい主題の軽淡で鮮麗な表現を評価すべきと書く。

 そこに長崎からの西洋画、漢画が入るが、その日本化も享保年間以降の画家の課題となった。また中期以降になると地域や身分を異にする在野の画家が出る。

 「得意の技法」の章では応挙の付立(つけたて:輪郭に線を用いず色や墨の面のひろがりにより形をあらわす没骨描の一技法で、一筆描で没骨の面を創り出す)、玉堂の擦筆(さつぴつ:乾いた筆を紙面にこすりつける)、森狙仙の毛描、宗達の彫塗(ほりぬり:下書きの描線を損なわないように避けて色を塗る彩色法)、懐月堂安度の肥痩線描、土佐光則の白描(色彩を排除した墨のみによる大和絵風の絵画)、池大雅の指墨(指に墨をつけて描く)、蘆雪の水墨、若冲の筋目描(水気をおびてにじみ広がる墨と墨の面にでる筋目)、中村芳中の垂込(たらしこみ:太い線や面を使って描き、完全に乾かない内に別の色彩を加えて自然にできるむらを生かす)、久隅守景の外隈(そとぐま:表そうとする物の形の外側を濃淡の墨の面でとり囲み、紙や絹の素地の白を積極的に活用するもの)、蕪村の草画(簡略な描写のうちで余情をたっぷりと伝える俳画)を解説している。

 「好みの主題」の章では吉祥画、風俗画、漫画、花鳥画、四君子画、見立絵に分けて、該当する絵を解説している。

 「画賛物の楽しみ」の章では1月から12月までにふさわしい画を描いたものを取り上げて、絵を季節に合わせて掛け替えた日本人の感性を解説している。西洋の絵画は季節に合わせて掛け替えることはしない。

 「見立絵の鑑賞」の章では、昔の日本あるいは中国の物語・画題を、江戸時代にふさわしく、絵の主人公や背景を変化させて描いており、なるほどと思う。例えば寒山拾得の画題における人物の姿を、湯女や町娘に置き換えて表現したり、源氏物語の御簾から女三の宮を見初める場面を、湯女が縄のれんから顔を出す絵に変えたりしている。
 伊藤若冲が釈迦の最期の釈迦涅槃図(釈迦の周りで多くの人物、動物が嘆いている)を野菜で取り合わせた絵もそうである。
 こういう古典の教養を当時の人が持っていたわけである。

「司馬遼太郎全集15 豊臣家の人々」司馬遼太郎 著

 全集15に「関ヶ原 2」と一緒に収録されている小説である。文字通り、豊臣家の親族や養子、猶子であった殺生関白こと豊臣秀次、金吾中納言こと小早川秀秋、宇喜多秀家、北政所、大和大納言こと豊臣秀長、駿河御前、結城秀康、八条宮、淀殿・その子に章は分かれている。

 秀次は秀吉の姉「おとも」の子である。阿波の名族三好家の名跡を継いで三好秀次となる。小牧長久手の戦いでは大将となって家康の本拠地三河を衝く別働隊を率いるが惨敗する。秀吉と淀殿の間の子鶴松が夭折した為に、秀吉の養嗣子となり関白となる。しかし秀吉に第二子(後の秀頼)が生まれると、秀吉は秀次が邪魔になる。秀次は学問を庇護していたが、乱行もあり、それを咎められて切腹させられ、妻妾や子も誅殺されて「悪逆塚」と刻まれる。

 小早川秀秋は北政所の実家の木下家に生まれ、子のない秀吉夫婦の養子となる。幼童の頃は可愛げがあったが、成長すると愚鈍さがでる。秀吉と淀殿の間の子ができるまでは、それなりに大事にされたが、子ができてからは邪魔になり、その意を受けて黒田如水が毛利本家への養子と考える。相談された小早川隆景は小早川家に迎えることにして毛利家を守る。第二次の朝鮮の役に大将となったが、そこでの戦振りを軍監が石田三成に告げて、秀吉の怒りを買い、越前転封の命を受けるが、家康が取り繕う。それで家康に恩を感じ、一方で石田三成を恨む。これが遠因で関ヶ原での裏切りにつながる。

 宇喜多秀家は秀吉が宇喜多直家から頼まれて養育する。すこやかに育つが、宇喜多家内部の統率に関心が無く、家が乱れる。それを家康に利用される。ただ秀頼公の御為という念は揺るぎなく、関ヶ原では西軍で戦う。戦後、妻の実家の前田家などのとりなしで、八丈島遠島となる。ここで83歳まで生きる。徳川四代将軍の治世である。

 北政所は秀吉の糟糠の妻である寧々さまである。陽気でフランクで偉ぶらない人として描いている。福島正則、加藤清正などを育てる。淀殿に子ができると、そちらに近江閥が自然に出来、北政所の方は尾張閥とされて、徳川家康を頼るようになっていく。

 豊臣秀長は秀吉の母が後に嫁いだ竹阿弥の子として生まれる。あまり事績は知られていないが、竹中半兵衛の指導を受け、播磨・但馬の領主として姫路城を居城として、中国大返しの時は留守を守り、後に紀州、大和を任される。武将としても人の和をはかり、優れた人物である。天正19年に50歳で歿したが、亡くなってから豊臣政権が揺らぐ。

 駿河御前は秀吉の妹のことである。百姓に嫁いでおり、その亭主を秀吉が侍にしようとしたがどうにもならない。その後、佐治家に嫁ぐも亭主は死に、その後、副田甚兵衛の嫁となる。
その後、秀吉と家康が講和した時に離縁させられて家康の嫁となる。このように運命の変転を描くが、人柄については無口な人として、秀吉のせいで人生を戸惑って暮らしたと書いている。小説になりようのない人だったようだ。

 結城秀康は家康の次子だが、正妻築山殿の子でなく、築山殿に狙われ、家康にとっても思い入れが少ない子だったようだ。本多作左衛門重次が庇っていた。小牧長久手後の和解にあたっての人質として豊臣家に出される。青年の頃から剛毅で、成長すると自然な威があり、家康も秀忠も気を遣って遇していたことが書かれている。秀吉に実子が生まれてから関東の名門結城家の養子となる。関ヶ原の時は江戸で後詰めとなり、上杉を抑えた功として戦後一番の加増を受けて越前に移封される。その後、34歳で唐瘡で逝去する。

 八条宮とは、誠仁親王の子で後陽成天皇の弟である。後の桂離宮の基礎を造った人物である。今出川晴季が斡旋して秀吉が猶子として育てる。秀吉の建築好きを見て桂離宮に至るような小説にしている。秀吉の茶道のこと、細川幽斎を登場させて歌、古今伝授のことなども織り込まれている。

 淀殿・その子は、淀殿を中心に近江閥ができていき、それと尾張閥との争いで豊臣家が滅ぶ様子を描いている。淀殿の女中衆が片桐且元に不信を持ち、それが大坂の陣につながるようにする家康の計略を書く。淀殿の乳母の大蔵の息子が大野兄弟であった。

 司馬遼太郎もあまり好きな人物はいなかったと感じる小説である。

「倭寇と勘合貿易」 田中健夫 著

前期倭寇は日本の南北朝時代から室町時代にかけて朝鮮半島を主要対象として中国大陸沿岸に行動したもの。後期倭寇は応仁の乱後に、文禄・慶長の役にいたる間、主として東シナ海、南洋方面に活動したものである。
前期倭寇は日本の三島(対馬、壱岐、松浦地方か)の民が食糧を略奪する為に朝鮮半島を荒らす。だから米の運搬船と備蓄倉庫を狙う。人も拐かし奴隷で売る。
後期倭寇は明が海禁政策をしたことに対して、中国沿岸の民も違法の通商に出たものが多く、彼等が倭寇を名乗る面もある。
明代の公式の貿易に勘合貿易があるが、これは日明貿易だけでなく、朝鮮貿易も琉球貿易もあるいはシャムなど東南アジア全体の貿易の中で考えるべき。

前期倭寇の中には兵数3000とか、船数400余隻という規模もあり、大規模な騎馬隊があり、沿岸だけでなく奥地にも侵攻したこともある。日本側には資料がない。13世紀に日本から朝鮮(高麗)に進奉船が行って通商があったが、それが元の侵攻で国力の衰えた高麗が拒否したので海賊になったのではとも推察される。また対馬、壱岐が貧しい地域だった面もあると思われる。
1389年に朝鮮軍が対馬を攻撃する。高麗は室町幕府に交渉するが駄目で、対馬の宗氏や大内氏などと交渉しながら倭寇対策をする。その中で倭寇の根拠地である対馬を1419年に襲う(応永外寇)ことも行う。1419年には望海堝の戦いは明が倭寇の船30隻を撃破し、1000人程度を殺す。また朝鮮側に降伏すれば罪を許し、田地や家財を与えるなどの優遇策(これを受け入れた倭寇は投下倭人と呼ばれる)や、通商を許可して懐柔策を取ることも行う。入港する港を限定する。

元は外国貿易に寛大だったが、徐々に厳しくしてきた。1300年代のはじめに日本商人が慶元で元の役人に乱暴をした。通商条件で衝突。
14世紀半ば以後、山東半島方面で倭寇の活動(朝鮮半島から移ったか)がある。

明は1368年に建国。倭寇は毎年、数件発生していたが、1552年から1563年にかけてひどい。天文、永禄の時代である。これは慶長、元和まで続く。16世紀からの倭寇が後期倭寇で前期倭寇とは構成員も、行動も地域も異なる。
元は世界との交流が活発な国だったが、中央アジアのムガール帝国が明を敵視して、陸路の東西交通が遮断。アラビア人などが中国の東南の海港に来るが中国人が海外に渡航しての貿易は厳禁される。

筑紫商客が足利義満に両国通商の利益を説く。これに義満は乗り、応永8年に明に使節を送る。足利義満が日本国王に1402年に任じられ、日明貿易を始める。
中国の銅銭の輸入が主眼。応永10年の遣明船に義満はじめ諸大名は武器を積んでいく。
応永14年の遣明船が帰った時は利益が20万貫にのぼったという。
勘合とは使者を派遣した場合、使者の真偽を証明するために使用する符節。日本には応永11年にはじめて勘合符が支給。日本は1401~1547の150年間に19回だが、安南89回、チベット78回、琉球171回などとあり、勘合貿易は倭寇対策ではなく、明の世界政策。
遣明船は五山の禅僧が使節として関与。大内氏と細川氏が貿易上で争う。永正16年の勘合船で細川方と大内方が争い、明で争うことになる。これ以降は大内氏が独占するようになる。
日本からの輸出品は金銀や、硫黄、太刀、扇子

琉球船が南蛮貿易などで活躍。暹羅、旧港、ジャワ、マラッカ、スマトラ、スンダ、パタニ、安南などと交易。応永から寛正・文正ころまでは盛ん。永享年間が一番畿内に来た・九州にも来る。琉球使になって博多商人が朝鮮に渡ることも多い。応仁、文明の乱で畿内に来なくなる。堺商人はすすんで琉球に渡航した。琉球には島津氏が特殊な地位。
琉球の貿易活動は16世紀になると衰える。これは中国商船の活動がはじまり、ポルトガルが来たから。

15、16世紀になると密貿易が主流になる。地方の沿海官豪(地方の富農地主層)は商人と結託して、海上活動を黙認し、倭寇も操った。倭寇の頭目の王直が種子島における鉄砲伝来に関与したことも知られている。後期倭寇の中の日本人は30%程度で、出身は薩摩、肥後、長門が多いとされる。

16世紀になるとポルトガル人がくる。1510年にゴアを奪取した。1511年にマラッカを攻略した。1522年に広東で打ち払われるが屈することなく進出。
通貨としての銀は宋代から盛んになるが、明でも銀が必要になる。また国際貿易に銀が大事となる。これをスペイン、ポルトガルが埋める。16世紀以降に銀の出を増やした日本が登場。