「徳川がつくった先進国日本」磯田道史著

この本は著者がNHK教育テレビで「さかのぼり日本史 江戸 ”天下泰平”の礎」の番組を企画した時の放送内容をまとめたものである。だから読みやすいが、江戸時代を大きく4つに分けている。それが磯田氏が本当に分けたかったのか、テレビの都合によるのかはわからないが、一つの考え方として興味深い。宝永地震を時代の区切りとしているのは東日本大震災を意識しているのかもしれない。
その4つは章に分かれ、放映順に「「鎖国」が守った繁栄」「飢饉が生んだ大改革」「宝永地震 成熟社会への転換」「島原の乱「戦国」の終焉」である。

時代ごとに追うと、「島原の乱「戦国」の終焉」は1637年で、大坂夏の陣1615年から約20年である。関ヶ原(1600年)後に徳川幕府は415万石を没収し減知も含めると622万石になる。これは当時の全国石高の約3分の1にあたる。大坂夏の陣1615年後も諸大名の処分は続き、三代家光までに130名の大名が改易になる。没収した領地は1400万石になる。こうして幕府領、旗本領に親藩を入れると全国3000万石の内1000万石以上を占めるようになり、圧倒的な武威で治めていた。
この当時の領民統治は戦国時代と変わらず、百姓は搾り取るものだった。農民側もしたたかで、大坂の陣が起きた時に一気に鉄砲を集め、年貢を払わなくなるようなこともあった。
島原の乱は圧政と不作に耐えかねた農民に切支丹に立ち返るように勧誘してそこに改易された大名の浪人が加わる。改宗3万7千人が反乱。12万4千の討伐軍の死傷者は8千人とも1万2千人とも言われる。
その後、島原への移民令(10年年貢減免))で復興に努める。この後、領民が国の本なりという思想が出る。岡山藩の池田光政などが、そのように意識した藩主である。武断政治からの転換は、綱吉の生類憐れみの法(1687)に至る。

次ぎが「宝永地震 成熟社会への転換」の章で、宝永地震は1707年で最大の地震。江戸時代の前期は新田開発が盛ん(武力で土地は奪えないから新田開発)で、200万町歩が300万町歩になり、人口も約1500万人が元禄には約3000万人になる。
宝永地震で津波が新田を襲う。新田開発で環境破壊したことのしっぺ返しを浴びる。ここから低成長時代の農業=精緻な農業となり、農民も本を読んで知識を持つ必要が生まれ、識字率が上がる。

そして「飢饉が生んだ大改革」の章となる。天明3年(1783)に天明の飢饉がおきる。その前の吉宗の改革は倹約と新田開発と農民への年貢増徴であった。享保16年にはこれまでの四公六民から五公五民になり享保元年から11年までの年平均140万石が、享保12年から元文元年の年平均が156万石となる。そこで一揆が増える。
田沼改革は商品経済からも財政をという重商主義的な政治である。財政あっても福祉は無かったのが当時の政治。
天候不順と浅間山の噴火と天明の飢饉で農村は疲弊。都市でも米騒動。松平定信は備蓄をすすめ、代官を更迭した。寛政12年(1800)には幕府領に58人の代官がいたが、天明7年から寛政6年に44人が新たに任命。これら代官の中には陸奥国塙代官の寺西封元のような名代官が誕生する。
幕府も民政重視となる。諸藩も藩政改革。

「「鎖国」が守った繁栄」では1806年の露寇事件がターニングポイントだとする。1792年にロシアのラクスマンが根室にくるが、松平定信は長崎に行くようにと軽く拒否。その入港許可証をもったロシア使節のレザノフが1804年に長崎に来る。
ロシアは露米会社で貿易を任せていた。絶海に孤立した会社の補給がうまくいかずに日本に目をつける。この頃のロシアは商人の活動で領土を広げていた。
長崎でも拒否されたレザノフが怒り、フヴォストフ大尉が樺太南部の松前藩施設を襲う。このことはロシア側はロシア側で罰していた。
なお、鎖国の言葉は1801年にケンペルの著書『日本誌』の一部を志筑忠雄が訳した時に初出。
そして、この50年後に黒船到来。

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